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「貧しやもめの献金」の悪用


貧しいやもめの献金


マルコによる福音書 12:41-44
12:41イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。

12:42ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。

12:43そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。

12:44みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。


ルカによる福音書 21:1-4
21:1イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、

21:2また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て

21:3言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。

21:4これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。

****

さて、この話は「貧しいやもめの献金」としてよく知られた箇所です。

この個所について、田川建三氏の「イエスという男 説教的反抗者の生と死」の本の中で、

" よくある話だ。貧者の一燈というわけだ。よくあるどころか、どの宗教も必ずこんな説教を一つや二つ伝統的に持っている。この話にしても、実際にイエスが神殿の前に座っていて見たことか、あるいは説教のためにつくられた説話か、わかりはしない。そしてこういう話が物語られる度に、貧者が僅かしか持っていないものまで、宗教教団に吸い上げられる。宗教的搾取の基本的な姿なのだ。貧しければ貧しいだけ、苦しければ苦しいだけ、人は祈りたくなる。祈るためにはお賽銭を持って行かねば、と思いこむ。
 イエスがもしも、みずから神殿宗教を維持する立場にいてこのように語ったのだとすれば、それは月並な坊主説教だろう。実際、この話を教会が伝承として語りつつ、「浄財」を集めていった時には、そのような効果しか持たない。しかし、もしもこれをイエスが本当に神殿の傍観者として見物しながら口にしたのだとすれば、そこには前にふれたのと同じ感情が吐露されている。金持ちがいくら多めに賽銭を投げ入れたとて、何の意味もありはしないよ。貧しい者の必死な願いだけが聞きとどけられるのだ。"
(「イエスという男 説教的反抗者の生と死」 田川建三 著 三一書房 pp.247-248)

と書かれていました。この中で "この話を教会が伝承として語りつつ、「浄財」を集めていった時には、そのような効果しか持たない。" などは、その手の団体などを見ますとまったくと納得の行くものです。そして、残念なことに「10分の1献金(什分の一献金)」という聖書に根拠のない、キリストで商売をしている団体、そういった団体の牧師・説教者による宗教的搾取のメッセージなどで、この聖書の個所はまさしく悪用されていたりします。

ネットで検索などしますと、いろいろな団体のメッセージや説教などが出て来ます。当然この個所についてのメッセージなどもよく見かけます。その中でいくつか???となってしまうようなものもあります。


今週の説教「やもめの献金」(新約聖書・ルカによる福音書20章45節から21章4節)

 このメッセージあたりを読んで個人的感想を言うのなら、後半で献金者の心の姿勢というものに話が行ったので、まだまともな部類と言えるでしょう。しかし、神殿の構造や神殿でのささげ物についてはあまり詳しくはないようです。そして、イエスが「たくさん献金することは良いことだと言っている」などとイエスが言ってもいないこと、この個所(前後も含めて)を読んでもそうは解釈できない所を曲解しているのには驚いた次第です。

 ある別な団体などの 「献金の恵み 2018/7/1 日曜日」などのメッセージを読んで感じることは、ここでは、「貧しいやもめの献金」はなぜか、第二コリントの聖句と結びつけられ、全体的には福音派や聖霊運動系の団体でよくある「繁栄の信仰」、多くおしみなく献げた者には祝福があるという見返り的信仰がよく表れています。今回は比較的まだまともな方の宗教的搾取メッセージをみましたが、もっと露骨に読んでいて嫌になる酷いものなんかはまだまだあります。

 ちなみにエルサレムの  "神殿には13の角笛型奉納箱があり、それらには〔次のように〕書かれていた。「新シェケル」、「古シェケル」、「鳥〔の献げ物〕」、「焼き尽くす献げ物のための鳩」、「薪」、「香」、「贖いの座のための金」、そして〔残りの〕六つ〔の奉納箱〕には「随意の献げ物」と書かれて" います。そして、この "随意の献げ物と書かれている奉納箱について。彼らはこの随意の献げ物に対してどのように対応するか。彼らはこれをもって焼き尽くす献げ物を購入する。肉は神にささげられ、皮は祭司たちのものとなる。" (ユダヤ古典叢書「ミシュナ Ⅱ モエード」 教文館 シェカリーム6:5-6) とある通りで、先程のメッセージにあった「献金が何につかわれるのかは見ておられないんですね。」と書いていますが、それがそもそも主題の話じゃないですからね。まあ、ユダヤ人ならこの献金箱に随意の献げ物を投げ入れたものが、どのように使われるかは当然知っていました。また、「神殿の建物や神殿の中のいろいろな道具を整えておくためにつかわれるんですし、神殿にたくさんいる祭司たちを雇うためにつかわれるんです。」も神殿で使う器物の献げ物は、神殿の器物部屋(ミシュナ・シェカリーム5:6)に献げますし、祭司たちとレビ人たちは地の産物からの第一の十分の一で支えられています(「ミシュナ Ⅰ モエード」 教文館)。

 この福音書の個所を読んでいますと、イエスは特段この貧しいやもめをほめているわけではなく、あくまでも偽善的な律法学者やこのやもめと同じ場所で献金をする人たち、特にたくさんのお金を投げ入れていた金持ちとの対比で、このやもめのわずかな献金が劣るものではなく、まして金持や他の人々よりも多く献げているといわれたにすぎません。


ステタール銀貨とデナリウス銀貨 URL付
(もしかしたら金持ちはこれくらいの価格の貨幣を投げ入れてたのかも(神殿なので本来はシェケルかフェニキアの貨幣)。画像のステタール銀貨はレプリカ品です。デナリ銀貨は実物です)

プルタ二枚と50円硬貨二枚 URL
(プルタ二枚(画像のものはレプリカ品です)と50円玉二枚)

 この一場面を見て、イエスがその貧しいやもめのその日の全生活費だとかはわからなかったでしょうが、身なりからして未亡人(やもめ)の着る質素で飾り気のない服装をし(ユディト記10:3-4)、その未亡人の服装もみすぼらしいものだったのでしょう。そして、献金するために金袋から出てきたのはわずかにプルタ二枚(プルタプルタ ⑵)、ローマの貨幣になおしてわずかに一クォドランス(四分の一アス、マタイ10:29によれば献げ物に使われるスズメ二羽が二アス(ギリシャ読みで「アサリオン」)ですから、プルタ二枚がいかに少額かがわかる。現在の価格になおしているサイトなどの記事を見ますと100円程度との見解も見られます。)でした。

 この献げ物をするために彼女は、身なりを整え神殿までやって来て、そして、神殿に入る前に沐浴をして身を清めて、この婦人の庭にある角笛型の献金箱に銭貨二枚を捧げるのでした。その素朴な信仰の姿をイエス見られ、立派な身なりをした裕福そうな人が多くのお金を惜しみなく投げ入れる姿よりも、とっても尊いものとして見られました。

やもめの献金 プルタ二枚 URL

 しかし、現代になおしてみますと、見るからに極貧の婦人(ホームレスの婦人の場合も)が神社に来て、財布から有り金全部である100円程度を賽銭箱に投げ入れている姿を見かけて、果たしてキリスト教で美化され続けていたように見えるでしょうか。貧しい、困っている人ほどすがる思いで手元に残った僅かなお金を惜しんだりはしないものです。あまりにもキリスト教会はこの話を美化し、教会の集金活動に利用してきたのだと思います。

 ルカ福音書を元に作られた映画「JESUS」でこの場面が再現されていましたが、そのでは貧しいやもめの献金を見て周りの人たちが罵倒する場面が描かれて、イエスが周りの民衆に如何に貧しいやもめの献金が優れているかを説きますが、福音派の姿勢がよく見えるものです。

二つの吹き替え版のセリフを見てみたいと思います。

映画 ジーザス 1987年日本語吹き替え版 ビデオパッケージ URL

映画 ジーザス 貧しいやもめの献金 ①

映画 ジーザス 貧しいやもめの献金 ②

映画 ジーザス 貧しいやもめの献金 ③


1987年のビデオの日本語吹き替え版

ナレーション:祭司長、律法学者、民衆の主だった者たちは、イエスを殺そうと思っていた。
民衆が皆熱心に、イエスに耳を傾けていたので、手の下しようがなかった。
ある日、イエスは貧しいやもめが献金箱にレプタ銅貨二つを入れているのをご覧になった。

男A:「たったそれだけ」

男B:「もっと出せないのか」

イエス:「待ちなさい。この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れたのだ。
金持ちは、有り余る中から、そのわずかを献金したにすぎないが、
この婦人は、乏しい中から、生活費の全部を入れたからだ。」


YouTubeに2016年に日本コプト教会によってアップされていた吹き替え版
動画 The Jesus Movie (Japanese Dubbed) イエスの生涯 映画 (日本語吹替版)

ナレーション:偽善的律法学者やパリサイ派の人々は、イエスを殺そうと団結しはじめたが、
イエスを信じる者が急増したため、手を下せない状態だった。
ある日、イエスは、貧しい未亡人が献金しているのを見た。

女「あれっぽっち」

男「もっと出せないのか」

イエス:「ちょっと待て。この人は誰よりも多く献げたんだ。
金持ちは有り余る中から、ほんの少しを献げただけだが、
でも彼女は、生活費のすべてを惜しみなく投げ込んだ。」


87年のビデオ日本語吹き替え版よりも今の吹き替え版の方が、「すべてを惜しみなく」という献金集金に見合う訳になっているように感じます。


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神の名による献金の徴収をやめればよい

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神の名による献金の徴収をやめればよい
2013/2/5(火) 午後 10:45
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11111298.html

 つらつらとキリスト教におけるカルト問題を見て行きますと、お金のトラブル、献金トラブルが大きいといえるでしょう。キリスト教の三大異端と呼ばれ、また、破壊的カルト宗教団体でもある「ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)」とその分派、「末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)」とその分派、世界基督教統一心霊協会(原理運動、統一教会など)と関連団体や関連企業などの有名所だけではなく、一般には普通のキリスト教と思われていた教会でも、基本的教義は大きく逸脱してはいないものの、活動や組織運営などは、まったく破壊的カルト宗教と内実が同じで多くの問題を引き起こしている団体などには、このお金の問題というものはよくついて周り、情報の氾濫する今日において、残念なことに一般にも見聞きする機会が増えてきました。

建物 1

 聖書などを見て行きますと、現代の教会と原始キリスト教の教会共同体は、組織体としてのあり方、奉仕職のあり方など、まったく別物であります。また、現代の教会で行われている献金を支持する箇所は、ほとんどないといえます。福音宣教者の権利を述べた第一コリント9章も、当時の時代背景や教会の状況から現代の一定の地域や場所に定着した教会の奉仕職を支えるものや活動費ではなく、使徒と同じような働きをする開拓伝道者や巡回伝道者、巡回監督者のような人たちが念頭に置かれています。

建物 2

 当初はエルサレムにある誰かの家に集まっていたのでしょう。それはマタイ26:18に指摘されている人物の家、すなわちイエスが弟子たちを過ぎ越しの食事を取るために準備のために、その人物のところに使わしたあの家なのかもしれません。イエスは『「都のあの人(δεινα〔名前はわかっているがあげないときに使う語〕)のところに行って」…』と言った様に、イエスがよく知っているある人物の家を、過ぎ越しの後、イエスの十字架以後も使っていたのであるかもしれません(共同訳や新共同訳はフランシスコ会訳と同じ訳文になっていて、カトリック側の委員の訳文なのかもしれない。口語訳の訳文も悪くはないが、少し判り辛いかもしれない。新改訳はよくない。)。建物はこの当時の民家によく見られた一階が家畜などもいる形になっていて、広間が二階にある家でありました(この人の家についてはマルコ14:15で、イエスとその弟子は二階の広間で過ぎ越しの食事を取ったとされています。)、それとも別な人物の家であったのかは判りませんが、使徒の欠員の補充を決めた時も同じような二階の広間のある前から泊まっていた家(使徒1:13a)でありました。そこは15節で120人もの人たちがいることのできる家だったことが判り、おそらくペンテコステもここで向かえたのかもしれません。

建物 3

 当時は、このような家の教会でありましたし、地方などにあった群れなどは、村のような共同体もあったかもしれません。また、ユダヤ人の迫害によって散らされるまでは、財産も共有し、信徒たちもその中から食事の分配を受けていましたから、現在とは違います。また、迫害によって主の兄弟ヤコブと使徒たちのほかは散らされ、各地に教会は作られることとなりました。そんな中で、今日のような職業化された奉仕職ではなかったことでしょう。各教会の長老は村長(むらおさ)の形に近かったかもしれません。福音の宣教者は、それら共同体離れていかなければなりませんから、誰も信者のいない場所に行かなければならない場合もあり、旅費や宿泊費などの必要なものは教会共同体からの援助によらなければ厳しかったことでしょう。パウロがコリントで活動した時は、同じ職業のアキラとプリスキラの夫婦の家に長期間滞在することができ、仕事も共にできた(使徒18:2-3,コリント第二12:13-)ので、教会の負担とならなかったのですが、すべての場合ではありません。

パウロ、アキラとプリスキラの夫婦の家に長期間滞在(使徒18:2-3、二コリ12:13)

 あと、パウロがパレスチナを襲った飢饉のために、困窮するエルサレム教会の共同体を助けるための救援金や救援の品を、他の教会共同体から集める記述やそれを訴える記述が多くありますが、それを献金と混同させて、今日の教会制度の献金に当てはめようとするために、聖書根拠がまったくないものをあるかのようにしています。もちろん根拠がないために律法の十分の一の奉げ物や献納物規定まで持ち出しています。

 十二使徒の教訓(ディダケー)11:6,11:12,12:4-5,13:1-では、使徒や巡回預言者が受ける援助について、旅に必要な分以上に受けようとしたりする者をキリストで商売をする者、偽預言者であると警告しています。また、十二使徒の教訓4:8、バルナバの手紙3章、エウセビオスの「教会史」第Ⅳ巻23:10などでは、新約聖書に見られるパウロの集めた義捐金と同じように、貧しい兄弟姉妹たちの難儀などへの援助についての記述はありますが、今日のような教会の活動や人件費のための献金の記述は見当たりませんでした。

 今日の教会は、いっそのこと献金について聖書根拠がないのに聖書を用いて神の名による集金をやめ、はっきりと教会のいろいろな働きの為の活動費、また活動の拠点となる不動産の維持費、事務通信費、職業化した奉仕職の人件費、その他の費用の為のお金として明朗会計で示して行けば良いと思います。

諸問題

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諸問題がなぜ起きるの
2012/5/19(土) 午前 4:13
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/9427072.html

 多くのカルト化教会の被害の声を、現代はネットなどで聞くことのできる時代となりました。それが本当の被害者のものなのか、自称被害者のものなのか、その人が出て行かざるを得ないようにされたのは本人に問題があり、それで交わりを絶たれてしまったのにそれを恨んでの誹謗・中傷なのか、また、それら発信された情報が、果たして正しい情報なのか、誤情報なのかは精査しなければならないでしょうが、いままでただ黙って去って行かざるを得なかった人たちが、その時の体験などを情報として挙げれるようになったことは、新たな被害拡大を防ぐ上では一定の役割は果たしているのでしょう。

 このような諸問題は、近年のファンダメンタルな米国福音派型の教会の一部やペンテコスタルな教会、単立のこれらの類型の教会、現世利益型のカーゴ・カルト的な教会、悪霊の働きを過度に強調し悪霊払いを行っている教会などを中心に見られます。

 それらの教会では、牧師や宣教師、または牧師家族などが教会の中において、絶対的な権限と支配権を持ち、言葉だけだったり、表面的には敬虔なしもべを装いながらも、実質はまるで王侯のようであったりするようです。

ヘロデ大王

 そして、信徒には多くの戒律と義務と奉仕が課せられていますが、表面的には自発的との形を取っているものの、実質的には聖書を利用しての「しなさい」や「しなければならない」となっています。彼らのイエスは律法の終わりになられた方ではなく、律法を与え課す方なのです。

あなたの信じるイエスはどちらですか?

 これらの教会では、什分の一献金やそれ以上の献金義務が課されている場合があります。これらの義務を果たせないならそれは信仰がないと判断されたり、救いが与えられない、神の物を盗んでいるなどと脅迫的教えがなされ、恐怖感や不安感が与えられたりします。

 また、多く献げる者は神より祝福され、多くの恵みを受け、繁栄すると教え、わずかしか献金しない者は、神から呪われ、貧乏や病気などになると教えられます。

 これらの教会では、会計を牧師がなしたり、信徒への会計報告などがなかったりする場合があり、教会の財務は信徒の目から隠され不透明なものになっている場合があります。

 また、牧師は使徒パウロのように教会の負担とならないように配慮した姿とはことなり、牧師給与を一般の健全な教会よりもはるかに高額ともいえる金額を得ていたり、名目上は伝道や会合などにしているものの、明らかに教会の宣教範囲や活動範囲を超えて、遠隔地に出かけることが多くなったりしていて、単に牧師が行きたい所に名目をつけて行っているだけのような活動があったりします。

 弱い者と共にあり、無私の慈しみを示されました。

足洗


 問題のある、カルト化してしまった教会はどうなのだろうか。イエスとはどのような方なのだろうか。牧師はキリストにならい仕える者となっているのだろうか。信徒をまるで愚か者を扱うように扱ったり、子供のように扱ったりしていないだろうか。

 イエス・キリストではなく、お金や繁栄が神となってはいないだろうか。今一度、自分の教会を見直してみることは、決して悪いことではない。

 どうしてプロテスタントのごく一部であるが、このようにカルト化してしまうのだろうか。一つにはカトリック的なものをあまりにも無批判に捨て去ってしまった面もあるだろう。カトリック教会や聖公会、ルーテル派教会では、祭壇や聖卓が礼拝堂の正面にあり、説教壇や朗読台はその祭壇や聖卓のわき、または礼拝堂のはじにあったりします。

 しかし、多くのプロテスタント教会では、説教壇が中央に据えられています。

 これにはとても違和感を覚えます。会衆が礼拝する方向に祭壇や聖卓ではなく、人間の座が据えられ、聖書のことばではなく、解釈である説教が中心に据えられていて、人間中心のように見えてしまいます。これがまともでない牧師が勘違いしてしまう要因のごく小さいものではあると思いますが、一つではないかと思えます。


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お金のトラブル 什一献金
2012/5/20(日) 午前 1:03
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/9434808.html

 このカテゴリーの過去の記事にも、何回か什分の一献金の問題点や献金トラブル、繁栄の信仰の問題点などについて書きました。今回も若干この問題について考えてみたいと思います。

10分の1の奉納

 律法における十分の一の献げ物と教会の献金は全く違う性質のものであることは、什一献金を推奨する牧師は、全く無視して半ば義務化して信徒に神の名の下に課しています。しかし、主からのものではなく、主の名を借りた牧師の律法にしかすぎません。

 教会は祈りの家から、信者を金蔓にしている商売人の巣にしてしまっていたり、劇場にしてしまっている牧師があります。

 神殿から商人を追い出されたキリストは、このような教会をどう見られているでしょうか。

歎く

 律法の規定を教会に持ち込み、再び負いきれない重荷を負わせる人たちは、アブラハムがメルキゼデクに与えた戦利品からの十分の一の贈り物や、ベテルでヤコブがささげることを誓約した十分の一や、律法の十分の一を持ち出し、さらにマラキ書を引き合いに出して正当化しようとしていますが、しかし、決して律法の通り守ろうとはしません。

 第三年目と第六年目に献げられる十分の一を、彼らは決して貧しい者や寡婦、孤児、寄留者などに使ったりはしません。せいぜい毎月いくらかを義捐金やそれらの救助・支援団体に寄付したりするくらいで、年間の献金丸ごとをそれらに供出したりはしません。

飢餓

 そして、律法における献げ物である献納物を、信徒が農家や畜産業の方であっても、決して物としては受け取りません。すなわち物納ではなくお金での献金という形でしか受け取りません。それは律法とは違うことですし、律法では物納ではなくお金での献納も認められていますが、それには更に五分の一を加えねばなりませんが、そういう規定は無視されています。また、農家などの場合、七年ごとに安息年などが定められていますが、律法に反してそれを課すこともありませんし、また、安息年で収穫がない時には献納はないのですが、当然無視されます。

 よく良い信者の子弟として、子供がおこずかいの十分の一を献金する姿が取り上げられ、褒められたりしますが、そもそも子供のおこずかいまでも巻き上げるようなことは、律法にはありません。子供のおこずかいは収入ではないからです( お駄賃ならまだ収入としてみなしてもよいかもしれないが、家父長制度の世帯から考えると、扶養家族の家父長から与えられる小遣いなどを、収入とすることは無理があると思います。 )。

 彼らは律法を使って什一献金をさせようとしますが、決して律法のとおりではありません。ただ神の名を利用し、聖書を利用して集金しているにすぎません。

 また、貧しいやもめの献げ物の話しまでも利用しますが、貧しいやもめの献金はそもそも十分の一の献げ物ではありません。

poor widow

 彼らの求める什分の一献金は聖書に根拠がないことです。

末日聖徒イエス・キリスト教会の什分の一・献金納入明細書 記名

 教会財務を支える献金はとても大切なものです。しかし、それを律法を悪用して過度に集金しようとすることは、やめるべきです。信仰による自発的で自由な献げ物であるべきでしょう。

***「お金のトラブル 什一献金」へのコメントとレス***

コメント(4)

10年くらい前から、モルモンは郵便振替です。郵便局で振り替えます。ある牧師は「当教会はモルモンみたいな献金要求も義務もありません」と言ってましたが、半年、1年と経つと「十一献金は基本であり、十分の二や三だって当たり前です」と豹変しました。
マラキ書や使徒行伝から引用しても通用しない求道者には、「プロテスタントはどの教会も十一献金は義務化されている」と言い出す始末です。どの教会を選んでも十一献金があって逃れられないから、ここに落ち着けと云うのがその牧師の本心でしょう。聖書を用いても無理なら、他の信者も献金してる、他の教会も同じだと言えば横並びや皆と同じならと諦めて献金してくれると云う下心が丸見えでした。
財務に行き詰まり、牧師の個人商店と化した教会や教団なら、会社や商店でも設立して自ら稼いだ方が益になります。
「神は、お金を所望されます、神は食い逸れると困るのです、貧窮させたら裁くぞ!」金が欲しいのは主幹牧師や教団理事と云った幹部連中とその取り巻きです。信頼していただけに、とても残念でガッカリしました。
[ nec2sc2334 ] 2012/5/20(日) 午前 3:35 返信する

*

モルモンの献金表、興味深いです。
なかなか見ることはありませんからね。
JWの奉仕報告表みたい。

でも10分の一をしっかり守っている人はけっこう多いみたいです。
もちろんそれを感謝を持ってできるひとはいいのですが
「しなければならない」という状況の人もいるでしょうね。
[ まーくん(一匹狼) ] 2012/5/20(日) 午前 4:56 返信する

*

>nec2sc2334さん

そうですか。郵便振替に変更になったのですね。情報ありがとうございます。

この什分の一献金は、プロテスタントでも福音派などで多く見られ、聖霊派でも多く見られるために、日本ではプロテスタントの多数派であるため、プロテスタント全体がこの献金様式かのように思われてしまっていますね。

御指摘されたような問題が、近年特に目立つようになり、多くの被害者を出しています。義務や強制、圧迫、思い込ませなどの手法をもって集金する行為こそ、神の名を偽って「神の物を盗んでいる」行為だと思います。
2012/5/20(日) 午前 8:07 返信する

*

>まーくん(一匹狼)さん

この献金表は他の一部のものと共に残しておきました。今思うと捨ててしまって惜しかった本などもあります。ジョセフ・フィールデング・スミスの「救いの教義」(全三巻)などは、現在日本語版は絶版になってしまいました。

誰からも強制されたのでもなく、教え込まされたのでもなく、誘導されたのでもなく、精神的圧迫を受けたのでもなく、恐怖心からでもなく、ただ心に定め自発的に行われたものならそれは良いことですが、そうではなく外的要因がわずかでもあるのなら、それは立ち止まって見るべきでしょうし、その教会の牧師や役員、または教団・各個教会の制度や運営に問題はないか見直すべきでしょうね。
2012/5/20(日) 午前 8:14


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神を金集めの出しにする
2014/7/23(水) 午後 7:43
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/13175610.html

 破壊的カルトや異端の問題を見て行くとき、必ず行き当たるものに献金被害というものが挙げられるでしょう。ウィリアム・ウッド師の「改訂新版 教会がカルト化するとき」(いのちのことば社)に短い一文に、❝…カルトもまさに人を食い物にします。非常に残念なことですが、カルト化してしまった団体で、信者が食い物にされてしまったということも起こっています。青春や財産を奪われ手しまったということもあります。もちろん、神のみこころにかなったビジョンと確信し、自ら喜んで献身すること、あるいは献金をささげることは、尊いことです。しかし、もしも過度のプレッシャーをかけられたり、「ささげない人は神に呪われる」と脅されたりして献金をささげるのであれば、それは問題です。あるいは、神の栄光のために掲げられたはずのビジョンが、実は指導者の名誉や利益につながるようなものであれば、決して望ましいものではありません。…❞(p57-p58)とあることは至言でしょう。

 「キリスト教ガイドブック」(日本教会新報社)の献金の説明では、❝これは、会費やお賽銭とちがい、根本的に地上の生を与えて下さった神への感謝の応答として行われます。自発的で、強制的なものではありません。❞(p377)とあります。

 聖書を読んで、献金の根拠となる聖書の言葉というものに出会うことは難しいことです。大体が上のガイドブックのように、神への感謝というものと、教会の維持・運営上の必要という実質面で教会員に毎月毎に月定若しくは維持献金という名目で義務化しています。その献金額については一定額を各々が自由で自発的に定め献金する方式が採られています。多くても褒められるわけでもなく、なんら特典や優遇を受けるわけでもありません。少ないからと言って非難されるわけでも冷遇されるわけでもありません。それぞれの資力と事情によって各々が自発的決めて、感謝して献げるものです。

 キリスト教等でも英米のピューリタンとウェスレアン・アルミニウス主義の末裔である福音派や聖霊派とそれらから各国に広まった団体や教会(系統の単立含む)が、聖書に根拠のない10分の1献金などというものを主張しているくらいで、それ以外の大多数では先ほども述べた自由献金方式です。

 10分の1献金を主張している団体や教会は、キリスト者に全く関係のない律法やアブラハムやヤコブの個人的事例を根拠にしています。そして、律法の10分の1の献げ物を改変して全く違う10分の1献金というものを作り出し信者に負わせています。しかしそれは10分の1という言葉だけを利用した別物です。なぜ律法の中でこのことばだけが課せられるのでしょうか。それは手軽に神の権威の下に金集めするのに都合がよいからです。

 律法の十分の一は、祭司の一族や嗣業地を持たないレビ部族を支えるのに必要なものです。また、❝三年の終りごとに、その年の産物の十分の一を、ことごとく持ち出して、町の内にたくわえ、あなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないレビびと、および町の内におる寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、それを食べさせ、満足させなければならない。そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。 ❞(申命記14:28,29)という貧者の救済面もあります(その他にベアーという律法規定で貧者の救済があります。)。ではどうでしょうか。10分の1献金を主張している教会が、律法の規定に照らして三年ごとにこれらを実行しているでしょうか。また、金銭での献納は10分の1に更に二割を加えて献げなければなりませんが、そんなことは守りも行いもせずにただ集めて、それを自分達で使うのです。なんとも都合のよいことです。

 そんなに律法通り行いたいのなら、集めたお金で地の産物を買って、祭壇で燃やして煙にして神への献げ物とするか、集めたお金(紙幣)を燃やして、感謝の献げ物として煙にして神に献げればよいのです。

祭壇で燃やして煙にして神への献げ物とする

 ものみの塔協会のような破壊的カルトなどを見ますと、よくこのような文言が聞かれます。

*** 塔11  11/15 22–23ページ 「親切に与える特権」に喜びを感じていますか ***
このような方法で与える人もいる
世界的な業への寄付
  多くの人は,「世界的な業」と表示された寄付箱に入れるために,ある額を取り分けたり,予算に組み入れたりしています。
  そうした寄付は,会衆が毎月まとめてそれぞれの国のエホバの証人の事務所に送ります。金銭の自発的な寄付を〒243‐0496 神奈川県海老名市中新田四丁目7番1号 ものみの塔聖書冊子協会,もしくはお住まいの国を担当するエホバの証人の支部事務所へ直接送ることもできます。(以下に挙げる項目の自発的な寄付も,お住まいの国を担当するエホバの証人の支部事務所へ送ることができます。)宝石や貴金属などの動産も寄付できます。そのような寄付には,無条件の贈与であることを記した簡単な手紙を添えてください。
  株券や債権などの有価証券も寄付できますが,その場合には事前に,ものみの塔聖書冊子協会の会計事務所に手紙か電話でご連絡ください。
「条件付き寄付」の取り決め
  将来何らかの事情で資金が必要になった場合に,寄付者が,寄付額未満の金銭的な援助を協会に要望できる,という条件が付いた寄付です。詳しい情報をご希望の方は,ものみの塔聖書冊子協会の会計事務所に手紙か電話でお問い合わせください。
その他の寄付
  上記の方法による寄付に加えて,ほかにも世界的な王国奉仕のために与える方法があります。
不動産: 売却可能な不動産を,無条件の贈与として,ものみの塔聖書冊子協会に寄付することができます。そのような寄付を望まれる場合は,必ず前もって,ものみの塔聖書冊子協会の法律部門と連絡をお取りください。
保険: 保険の種類や取り扱う保険会社により異なりますが,保険金が支払われる際,ものみの塔聖書冊子協会へ寄付されるようにしておくことができる場合があります。
遺贈: 法律に従って作成された遺言書によって,金銭,預貯金,有価証券,不動産,動産をものみの塔聖書冊子協会に遺贈することができます。作成する遺言書については,公正証書の形式を取ることが勧められています。日本では,遺贈された財産が宗教団体の宗教的活動に用いられることが確実な場合,相続税の課税価格に算入されない「非課税財産」とみなされます。なお,不動産の遺贈を望まれる場合には,必ず前もって,ものみの塔聖書冊子協会の法律部門と連絡をお取りください。
  こうした寄付の場合は一般に,寄付者の側で一定の手続きを踏むことが求められます。このような方法によってわたしたちの世界的な業に貢献したいと願っておられる方たちのために,支部は参考となる資料を準備しています。資料や支部からの援助をご希望の方は,ものみの塔聖書冊子協会の法律部門に手紙か電話でお問い合わせください。あるいは,お住まいの国を担当する支部事務所にご連絡ください。
ものみの塔聖書冊子協会
 

*** 宣 10/4 6ページ 地域大会―喜びあふれる崇拝の時 ***
寄付: 王国会館や大会会場で世界的な業のために自発的な寄付をすることによって,地域大会の取り決めに対する感謝を示すことができます。

*** 宣 10/9 4ページ 電話証言ガイド ***
■ 寄付の取り決めには触れない。電話による寄付の懇願と誤解されるかもしれない。わたしたちの活動がすべて自発的な寄付によって支えられていることは,家の人と直接会った後のふさわしい時に話せる。

*** 宣 09/5 3ページ 5節 出版物を有効に活用する ***
出版物の配布: わたしたちは,本当に関心を示す人だけに出版物を配布するようにします。宣教奉仕で用いるそうした価値ある道具の費用を賄うことについて,わたしたちがおもに責任を担っているということを忘れないようにしましょう。関心のある人に出版物を渡すときは,寄付によって世界的な業を支援できることをためらわずに伝えてください。

*** 宣 93/12 7ページ 3–5節 惜しみなくまく ***
3 このようにわたしたちが積極的に出版物を配布しようとする際に,出版物の値段を尋ねる家の人がいるかもしれません。
このように答えることができます:
■ 「わたしたちの活動は自発的な寄付によって支えられていますので,出版物は無償です。今回,少額の寄付をしたいと思われるなら,そのご寄付は世界的な伝道活動のために用いられますので,わたしたちはうれしく思います」。
このようにも言えるかもしれません:
■ 「どうして出版物を無償で提供できるのだろうと考えておられるかもしれません。これは,自発的な寄付によって支えられている世界的な教育活動の一環です。この活動に対して少額の寄付をしたいと思われるなら,喜んでお預かりいたします」。
4 しかし,これまで再三強調されてきたように,家から家の伝道の際,あるいは出版物を配布する際にエホバの証人の世界的な業に対する寄付について必ず述べなければならないというわけではありません。寄付について触れるなら出版物の提供が難しくなったり,出版物を積極的に配布する面での奉仕者の熱意に影響が及ぶようであるなら,その場で触れる必要はないでしょう。後日,再訪問を繰り返して家の人と親しくなってから寄付について話し,その面での認識を高めることができるかもしれません。場合によっては家庭聖書研究になってから話すこともできます。
5 このようにして,積極的に出版物を配布し,惜しみなくまくなら,真理に対する人々の関心は高められるに違いありません。そのような人々をわたしたちが繰り返し再訪問し,徐々にその関心を高めてゆくなら,わたしたちが努力を払った証しとなる,推薦の手紙を刈り取ることができるかもしれません。(コリント第二 3:1‐3)それでは,豊かに刈り取るべく,一層惜しみなくまくよう引き続き努めてゆきましょう。
   
*** 宣 11/12 2ページ 質問箱 ***
■ 文書を渡すかどうか,どのように判断できますか
主な要素は,相手の関心です。純粋な関心を示しているのであれば,雑誌を2冊,あるいはブロシュアーや本などの文書を1冊渡せるでしょう。世界的な業に寄付するお金がないと思える場合でも,そうです。(ヨブ 34:19。啓 22:17)一方,価値を認めない人に貴重な文書を渡すことはしません。―マタ 7:6。
家の人が関心を抱いているかどうか,どのように見極められますか。喜んで会話する人であるなら,関心があるとみなせるでしょう。こちらが話す事柄に注意を払い,質問に答え,意見を述べるなら,会話に加わっていることになります。わたしたちが聖句を読む時に耳を傾けるなら,神の言葉への敬意があるとみなせます。この文書をお読みになりますか,と尋ねることもできます。奉仕者は判断力を働かせて,関心があるかどうかを見極める必要があります。街路証言の時などに雑誌やブロシュアーや書籍をだれかれ構わずに渡すことはふさわしくありません。関心を見極められない場合は,ビラやパンフレットを渡すほうがよいでしょう。
奉仕者各人は,寄付できる金額ではなく宣教奉仕で必要な量に応じて,文書カウンターから文書を受け取るようにすべきです。寄付をするのは,文書の代価を支払うためではなく,世界的な伝道活動のあらゆる面を支えるためです。わたしたちは感謝の気持ちに動かされて,自分の経済的な状況にかかわらず,王国の関心事を支えるため,余っている中からではなく乏しい中から寛大に与えます。(マル 12:41‐44。コリ二 9:7)また,感謝の気持ちに促されて,神権的な資産を浪費しないため,必要以上の文書を受け取らないようにします。

 最近では取り決めと称するものがいろいろ出され、何かにつけ自発的寄付という形で寄付が求められているようです。寄付に対して神を名目にプレッシャーを与える典型です。

 聖霊派のような繁栄の神学(繁栄の信仰)のように、直接的に献げないのは神のものを盗んでいる、献げないのは信仰がない証拠だ、多く献げればそれだけ多くの祝福を受け、献げなければ神の呪いを受ける。などの脅しをしないというだけで、やっていることの本質は同じです。

 「自発的」ということばがあれば本当に自発的ということではありません。神の祝福と呪い、見返り、信仰(や忠実さ)の試金石、罪悪感という心理的な圧迫や強迫、実質的な待遇や地位などの優劣という餌がその「自発的」の陰にあればもはやそれは強制でしょう。

10分の1献金問題

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プロテスタント的
2011/10/15(土) 午後 8:47

 カルト化している教会や異端各種を見て行くと、面白い共通項が見えてきます。それは表面的には信仰義認を標榜してはいても、その実(じつ)において行為義認であることが多いということです。カトリックの場合ですと、リトル・ペブル運動やその他のものを見て行くと、カトリック的禁忌への反動とも取れる行動が目に付きます。しかし、それとともにカトリック的様式や儀式に固執したりしている面もあります。しかし、プロテスタント系は行為義認に走り、信徒へ暴力的ともいえる過度の義務的行為を求めます。それが牧師など指導者に対する従順であったり、繁栄の信仰とのセット(飴と鞭)での什一献金(実際には二割三割当たり前みたいなところもあるようです。)であったり、表面的には自発的としていながら、半ば強制的な伝道やその他の奉仕活動などが挙げられるでしょう。なぜプロテスタント系のカルトや異端ではこのような事象が見られるのでしょうか。

 カトリックが信心行ともいえる行為があったり、告解などでも罪の償いなどを課すことなどがありますが、プロテスタントではそのような行いを削ぎ落としてきたゆえに、正しく信仰義認と言うものを認識しないと、このような二重基準的隠れ行為義認と言う罠に陥ったりすると考えられます。

 ルターの著作『善きわざについて』から、信仰義認による善き行いとは何かということのエッセンスを見てみたいと思います。

 『第一に知らねばならぬことは、ただ神が禁じたもうた罪のほかには、いかなる罪も存在しないと同様に、ただ神が命じたもうたわざ以外には、いかなる善きわざも存在しないということである。それゆえに、善きわざを知り、これを行なおうと思う者は神の戒め以外には何も知る必要はない。そうした意味でキリストは、マタイ一九章で、「もし救われたいと思うならいましめを守りなさい」と言われ、そして若者が、「救われるためには、どんなことをしたらいいでしょうか」と尋ねたとき、キリストは十戒のほかには何も示したまわなかった。したがって、私たちは善きわざの識別を、神の戒めから学ぶべきであって、わざそのものの見ばえや大きさ、あるいは数量などから学ぶべきではない。…第二、あらゆる尊い善きわざの中で第一の最高のわざは、キリストを信じる信仰である。…ところで、私たちがこのことを聞いたり、説いたりする場合、私たちは上(うわ)調子でこれを軽くあしらい、楽々と実行できるもののように考えるのであるが、むしろ私たちはここにゆっくり立ちどまって、じっくりと思いをこらさねばならない。というのは、いっさいのわざは、このわざのうちにおいて行なわれねばならないからであり、またそれらのわざの善性も《領主から受ける》封土のように、このわざから受けとらねばならないからである。…第三、さらにすすんで、彼らが手のわざをいとなんだり、歩いたり、立ったり、あるいは飲食睡眠など、体の栄養もしくは一般的益のために、あらゆる種類のわざをなすとき、人々はそれらを善きわざとみなすかどうか、そして神がそれらのわざにおいて、人々を喜びたもうと信じるかどうか、と尋ねるならば、人々はいなと答えるであろう。そして彼らが善きわざをきわめて狭く限って、ただ教会における祈祷、断食、施与などにとどめ、それ以外のわざは、すべて神にとっては無価値なものだとみなしていることがわかるであろう。こうして彼らは、のろわれた不信仰によって、いやしくも信仰において生じ、語られ、考えられる事柄はいっさい神への奉仕となるべきであるにもかかわらず、その奉仕の道をせばめ、制限しているのである。…キリストはヨハネ八章で言われた、「私は、いつも神のみこころにかなうことをしている」と。キリストはご在世中、食べもし、眠りもされながら、どうしていつも神のみこころにかなうことができたのであろう。聖ヨハネは第一ヨハネ三章に言っている、「それによって、私たちが神のみまえに心安んじ、信頼しまつることができれば、私たちは真理のうちに立っていることがわかる。たとい私たちの心が私たちを責めさいなもうとも、神は私たちの心よりも大いなるかたであって、私たちは願い求めるものを何でも与えられるのだという確信を持っている。それは、私たちが神の戒めを守り、神のみこころにんなうことを行なっているからである」と。…第四、さて、ここにだれでも自分の行うわざがどういうときに善であり、また善でないかを自分で認め感じることができる。すなわち、自分の行うところは神のみこころにかなうという確信が心にあれば、たといそれが、わらくず一本を拾いあげるような些細な事柄であっても、そのわざは善である。けれども、その確信がなかったり、あるいは疑ったりするようなことがあれば、そのわざは、たといあらゆる死者をよみがえらせ、おのが身を焼かせるほどのものであっても、善ではない。そのことを聖パウロはローマ一四章で、「すべて信仰から、もしくは信仰において行なわれないことは罪である」と教えている。…第五、この信仰の中では、いっさいのわざが等しくなり、互いに同等のものとなる。わざが大きかろうと小さかろうと、長かろうと短かろうと、あるいは多かろうと少なかろうと、そうしたわざの間の区別はいっさいなくなってしまう。…』

 このように、信仰こそが第一の善きわざであることを認識し、『なにものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼す』ることからはじまるということを、心に刻み、信仰による行いを狭めて捉えないようにすべきです。

 そして、異端やカルト化した教会の組織や指導者が求めているものは、実は信仰とも、救いとも、まったく関係のない、外的要求に過ぎず、自己の支配的欲求から来ているものであることを理解すべきです。

***プロテスタント的「」へのコメントとレス***

コメント(10)

「恐れ、愛し、信頼す」

ものすごい奴隷根性のような感じもします。
SM的というかDV的というか。

この思想を「いつも神様の顔色を伺いながら生きて死ね」という風に「自称神様」または「神様代理」利用された時、宗教は恐ろしいものになりますね。
[ - ] 2011/10/15(土) 午後 10:19 返信する

*

これは「信仰義認」または「信仰によってのみ義とされる」という事柄のが目や耳から入ってくるとき、表面的な解釈や受けとり方をしてしまい、そのドグマの持つ最も根本となることを見落としてしまうために、返って無知となってしまって、そこを行為義認という人が最もわかりやすく安心しやすい形へ人を導き、指導者や組織への奴隷としてしまうと言うことですね。
2011/10/16(日) 午前 5:31 返信する

*

エホバの証人を内部から観察して思うのですが、恐らく行為義認的な宗教の方が、「これだけ頑張った」というような形が残りますし、人々は安心するんでしょうね。
[ 南三条 ] 2011/10/16(日) 午前 8:25 返信する

*

人は弱いもので、成果と見返りというものが、理解しやすく安心するのでしょうね。

それゆえ、ものみの塔という組織はそれを利用し、信者は追われるように働くということになるのでしょうね。
2011/10/16(日) 午前 8:53 返信する

*

アタナシウス様、こんにちは。シャロンです。
ニックネームがうまく選択できなくて、このままで投稿します。

「信仰のみ」はカルトの独裁者に、本当に都合良く利用されていると思います。信仰者は、たとえ犯罪すれすれ(あるいは犯罪そのもの)であっても、許されるという論調です。
勿論、罪を犯しても、罪に苦しみ被害者の方に心からの謝罪をする者を、神様は慈しんで下さるでしょう。
しかし、被害者の方から許されるという事とは、また別です。
以前友人に聞いた話ですが、韓国の(新興宗派だと思いますが)映画か小説で、人を殺してしまったが、クリスチャンになった人が「全ての罪は許された、」と顔を輝かせて喜びに満ちている、というのがあるそうです。
そこに心からの懺悔があれば、また別ですが、こういうのは、違うんじゃないかと思います。
でも、最近この手の話をよく耳にします。
明らかに「信仰のみ」を間違えていると思います。
非常に危機感を覚えています。
[ - ] 2011/10/17(月) 午前 9:54 返信する

*

シャロンさん、こんにちは。

コメントありがとうございます。

近年のアメリカ型福音派や原理主義者、カリスマ運動・聖霊の第3の波運動の間にて、超教派の名の元に教義の混同が、信徒のみならず牧師と呼ばれる人たちの間でも見られ、それと同時に宗教改革以来、共通して持っていたドグマが失われたり、薄められたり、果ては無くなって別なものに置き換えられたりしています。

その一つが、キリスト者が「義人にして罪人」ということです。これはルターの『95箇条の提題』や『キリスト者の自由』で信仰義認を説明する際、よく出てくるものなのですが、ボーンアゲインクリスチャンの思想には、これが無いように感じられます。

『一、われわれの主であり師でありたもうイエス・キリストが「悔い改めよ、云々」と言われたときに、彼は信仰者の全生涯が悔い改めの行為でなければならない。ということを意味されたのである。…四、それゆえ、悔悛は、自己嫌悪(すなわち、真の内的悔い改め)が存在する限りとどまっているのであり、つまり、天国に入るその時まで続くのである。』(95箇条の提題より)というものが、彼らには無いように思えます。
2011/10/17(月) 午前 11:34 返信する

*

以前のJWの賛美の歌に「進歩せよ」というタイトルの歌とか「熱心な~れ、よき業に~て・・」とかいう歌詞の歌がありましたが、伝統的キリスト教会の教派からJWに転向した人の中にはJWの熱心さに惹かれた人がいるようです。某単立カルト教会なども、一度礼拝に行った程度では、<熱心な教会だ>と外部の人は思うようですね。

ワーカーホリックの人は常に忙しくしているのが安心なのでそういう心の傾向のある人で聖書に関心がある人はカルト化した教会かJWなどのカルト教団になお更魅力を感じやすいかと思いますね。
[ Anastasia ] 2011/10/18(火) 午前 0:49 返信する

*

現在の福音派・聖霊派系統のプロテスタントを見て行くと、あれもしなければ、これもしなければと忙しく熱心すぎるほど熱心に働いています。

伝統的キリスト教のように、今一度立ちどまり、静聴し、黙想し、沈黙と静けさの中、ただ神にのみ意識を向け、デボーションガイドなんかを使わずに、神の御前に静かに聴くことをしてもらいたいですね。
2011/10/18(火) 午前 5:06 返信する

*

なぜ、普通のキリスト教ではなく、JWやカルトに行ってしまう人がいるのか不思議だったのですが、Anastasia様の投稿を読み始めてわかりました。

デボーションガイドなんていうのも、私もいらないと感じていました。所詮、その著者の主観ですから。
私はもともと、バプ同でキリスト教に出会ったので、福音派でよく言う霊的指導者、という言葉にも違和感があります。
霊なんて人に指導されるものではなく、まさに神様の前に一人静まる事だと思っているのですが・・・。
[ - ] 2011/10/22(土) 午前 10:53 返信する

*

福音派や聖霊派では、デボーション、セル、様々な奉仕の場があり、忙しくしています。

主をもてなすことに忙しくしていたマルタに対してイエスは、「マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により、思ひ煩ひて心勞す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此れは彼より奪ふべからざるものなり」と静かに主に聞くことこそが大切であると教えていますね。
2011/10/22(土) 午後 1:03


******

悪魔のもたらした繁栄の信仰という考えからカルトははじまる
2011/10/25(火) 午後 9:38
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/7140242.html

 キリスト教の福音派の一部や聖霊派を侵食している「繁栄の神学」と呼ばれるマモニズム神学があります。この教えはアメリカで始まり、特に南米やアフリカなどの第三世界や拝金主義の韓国キリスト教に広まりました。近年は聖霊派や韓国系を通じて、この日本のキリスト教会をも侵食し蝕み始めています。

 ペンテコステ系の純福音教会の「物質の祝福は神様の御心である」というメッセージの前半を見てみましょう。

 『しばらく前に、イギリスのBBC放送で、物質的な精神と精神的な精神、精神的な価値、どちらが大事かを比べていました。精神的なものも、物質的なものも大事なものです。しかし、皆さんはどちらを優先しますか。資本主義の国家アメリカでは、物質的な価値が最も尊ばれるのではないかと思われるでしょう。しかし、世界各国を調べて見ますと、物質的な価値を最も重んじる国は、アメリカではなくて、一番目は中国、二番目は韓国でした。
 私たちは精神的価値が物質的価値よりも勝っていると考えます。もちろん、精神的なものの方が、物質的なものよりも価値があるでしょう。しかし、だからと言って物質的なものは価値が無い訳では無いんです。
 人の体は物質で出来ています。私たちの体は物質なしでは生きてゆけないのです。ですから物質なしのは大事だし、神様の祝福の中には物質的なものが多く含まれているのです。
 今日は神様の祝福を受けたヨセフの話しです。ヨセフは霊的にも祝福されました。しかし、今日の本文では物質的な豊な祝福も受けているのです。彼は生い茂っている樹のように豊な祝福を受けたのです。反対する敵もいましたが、それに打ち勝つ力も持っていました。神様はヨセフに天と地と子供を養う祝福を与えてくださったのです。ですから、私たちもヨセフのように物質的な祝福を治めなければなりません。それではヨセフのような祝福を享受する為には、どうすればいいでしょう。
 一番目に物質世界に対する聖書的な観点を持たなければなりません。人々は物質と言うと少し嫌がる傾向があります。なぜならば、その物質によって、神様から遠のいてしまうんではないかと思うからです。しかし、物質は気にしたり、遠避けたりする必要はありません。なぜならば、神様が物質をお創りになりましたから、神が天と地とすべての万物を創造されたのです。また、神はエデンの園も創られた。そこは何の不足も欠けたことの無いところで、そこでアダムとエバは生活したのです。アダムとエバには物質的な不足は何もありませんでした。ですから、私たちも、豊に不足なしに暮らすことが神様の御心なのです。
 ユダヤ人の物質的な観点を見れば、もっと判りやすくなります。ユダヤ人の知恵の書と言われるタルムードではこう書いてあります。「世の中の貧しさは悪いものだ。世の中の悪いことはこの貧しさのせいなんだ。」また、彼はこういうことも言っています。「お金は神様から、おくりものを買うチャンスを与える肉体を司るのは心であり、心が頼るのはお金である。人の心を痛ませる三つのものは、悩みと不和と財布である。その中で一番心を痛ませるのは、やはり財布である。」
 あまりにも具体的に話をしていますが、今日、経済を牛耳っているのはユダヤ人であります。ユダヤ人を批判的にみる視覚もありますが、ユダヤ人は、中世の時に高利貸しによって銀行を立てました。ですから、最近の銀行を支配しているのです。アメリカの方に渡って金融界を支配し、今日のアメリカのヘッジファンドなど、すべての金融はユダヤ人が支配していると言われます。
 物質に対してどういう風に思うかによって、その個人、その民族、国家が変わって来るのです。物質が豊になるは、神様の祝福だとユダヤ人は考えました。特に聖書の時代には、律法を守れば守るほど多くの豊かさが与えられる。こう言ったユダヤ人の考えは、必ずしも正しいわけではありません。彼らは聖書を通して自分なりに解釈しているからです。私たちは聖書の通りに解釈する。では、聖書は何と言っているのでしょうか。神は聖書を通して物質の祝福をお与えになる。しかし、神が禁止しているものがある。それは貪欲です。貪欲、貪りは偶像崇拝だと言っている。イスラエルの民たちが、神の導きによって、乳と蜜の流れるカナンの地に入りました。その最初に支配しなければならない待ちはエリコでした。エリコを支配するんだけども、その中にあるものは全部神様にささげなさい。…物質は神の祝福であっても、貪欲は神様のさばきを受けるのです。
 神はエデンの園にすべてのものを備えてくださり、すべてのものを食べてよいとおっしゃった。しかし、園の中央にある善悪の実は食べてはならないとおっしゃったのです。なぜなら、物質の主人は神であることを教えるためなのです。貪欲というものは死をもたらしてしまうのです。アダムとエバは、その貪欲を勝つことが出来ず、食べてしまうのです。その結果、刑罰を受けてエデンから追い出されてしまいます。今日、アダムとエバの子孫達は追い出された身分です。だから、物質の豊かさを治めることができません。裸で空腹で呪いの中で暮らしている。しかし、それは神の御心ではない。神は善き神様。恵み豊な方です。だから主は、この地に来られ、貧しさは贖ってくださったのです。第二コリント8:9です。『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』
 主はただ空腹で、苦しんで、天国に行きなさいとおっしゃっていません。主はこの世でも豊になり、幸せになってから、天国に来なさいとおっしゃっているのです。
 主は呪いを喜ばれません。貧しさも喜ばれません。ユダヤ人が言っていたように、この世の多くの悪いことが貧しさから来ているのです。イエス様が貧しさ、呪いを贖って下さいました。イエス様は十字架にかけられ、律法の呪いから贖って下さいました。アブラハムの祝福を与えてくださったと聖書は記録しています。ガラテヤ3:13~14です。『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』ですからイエス様によって、私たちは呪いから放たれたのです。そして、物質に対する恐れを捨ててください。豊かさの中でもって、主に使えることが出来ます。それが神様の御心なのです。第二コリント9:8です。『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。』荒野で人情が生まれるという言葉があります。豊になってこそ人に分け与えることができると言うことです。豊になって、自分だけのために使うのではなく、個人のため、また、教会のために、神様のために用いましょう。…』

 このメッセージを聴くと、名古〇クリス〇ャンセンター〇会の『繁栄の信仰』というメッセージテープで聞いたのと同じフレーズが出てきます。それは貧しさは呪いであるということと、キリストは貧しさから贖ってくださった。神は豊になることを望んでいる。物質的な豊かさは祝福である。そして、引用されたみことばも、えっ!!そう解釈しちゃう?って思ってしまうようなものです。あなたたちの祝福や贖いって『お金!!』、そして本根もポロリと「教会のために、神様のために」豊かさを使う、結局、自分たちがお金が欲しく、それを正当化させるためと信徒から金払いを良くさせる為に「貪欲」は罪だと言うことを強調し、アダムとエバの堕落も、イエスの贖いを貧乏からの贖いと矮小化しているのと同じく、貪欲のためだと言ってしまう。マモニズムもここまで真理を蝕み、醜悪なものに変えてしまうのかとあきれてしまいました。

***「悪魔のもたらした繁栄の信仰という考えからカルトははじまる」へのコメントとレス***

コメント(16)

妖しい雰囲気がプンプン漂っているメッセージですねえ。w
これ聞いてマジで信じちゃう人って、よっぽど困窮している人か、物質欲に強力に支配されている人か、もしくはじっくり聖書研究したことないんでしょうかねえ。汗

ちょっと話題はそれますが、市内のとある長老派だけど福音派みたいな教会で、韓国から来た長老派牧師が、「病気は信仰があれば必ず治ります!皆さん、もっと神に熱烈に癒しを祈り求めましょう!」って感じのメッセージを説教で言ってました。繁栄の神学と似たような妖しい雰囲気を感じました。汗
[ Anstasia ] 2011/10/25(火) 午後 10:29 返信する

*

韓国も長老派が多いですね。長老派は教会政治上の分類ですから、カルヴァン主義で無くても、信仰は福音派でも長老制を取れば長老派と言っているのかもしれないですね。

神癒の強調はペンテコステのみならず、きよめ系でも強調されますね。まして韓国は神癒・異言・預言・悪霊の追い出し・繁栄の信仰などのメッカですからね。
2011/10/26(水) 午前 4:05 返信する

*

エホバの証人はアダムとエバをとことん悪者にしているけれど、証人の組織がすべての決定権があると主張しているんですね。では、戦争したり、不正したり、分裂させたり、偽りお教えをしたり、しているのは、組織が不完全だということではないでしょうか?極端に厳しく強制して信徒をつなぎとめているのです。聖書は家で静かに朗読すればいいのです。パリサイ人がいる集会には行きたくもありません。権力が物をいう会衆を見てきたので二度と行きたくないです。人間の教えを伝統にしている長老だっているんです。口伝でモーセ5書は記録されたのでしょう。120年の生涯のモーセ。アダムは930歳。どうやって年数が記録されたのですか。なんか妖しい感じがするのですが。?
[ 元Jw ] 2011/10/26(水) 午前 6:25 返信する

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まず、この地上に完全なんてものは存在しません。これは地上にある教会も例外ではありません。当然、使徒たちがいた時代も含まれます。だからこそ、使徒パウロは各教会に当ててあれほどの書簡をしたためたのです。聖霊に導かれ、使徒たちもいてなお各教会には問題があったのなら、使徒たちもいない、イエスの時期弟子たちもいない現在ならなお、問題があるのは当然だと考えます。だからこそ、偽教師や偽預言者、偽メシアなどに気をつけ、べレアの人々のように、果たしてそのとおりか聖書を調べ、霊だからと言って何でも信じてしまわないようにと、聖書の中でくり返し注意するように語られているのです。

聖書の成立過程や、なぜ長い年齢が好まれたかについては、聖書の本文批評などで学問的に詳しく説明がなされていますので、そのようなんを捜してみてはいかがですか。教文館、日本基督教団出版局、新教出版、リトンなどで出ている本は、福音派系出版社のものよりもしっかりした学問的研究書などが出ていますよ。
2011/10/26(水) 午前 8:11 返信する

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有り難うございます。そうします。
[ 元Jw ] 2011/10/26(水) 午前 8:34 返信する

*

ヤベツの祈りとかいうブームみたいなもの思い出しますた
恐るべし繁栄のネズミ講神学の魔力
教祖は木です。あなたがたは葉っぱです。光とお金集めて繁栄でスミダ
[ はんす ] 2011/10/26(水) 午後 1:02 返信する

*

ヤベツもありましたね。

セル、弟子訓練、アルファなんてものもありますね。
2011/10/26(水) 午後 1:33 返信する

*

繁栄系のお父さんが仕事中毒の為に構ってもらえない子供達がキャベツの祈りだって笑ってましたが、彼ら子供達の方が正しかったようです。
お金や仕事より大切ものがありそう
[ はんす ] 2011/10/26(水) 午後 3:06 返信する

*

まだ仕事中毒なら救われるのですが、繁栄の信仰は、多くお金を献げれば献げるほど、祝福という名の繁栄が与えられるというものです。単なるカルト教会の集金活動をやりやすくするための理論です。
2011/10/26(水) 午後 3:19 返信する

*

アルファは危険な教えなのですか?
[ Alexamenos ] 2011/10/26(水) 午後 8:39 返信する

*

セルにしても、弟子訓練にしても、アルファにしても無批判的に受け入れ信頼するのはどうかと思います。セルや弟子訓練は最近になって、その問題点が体験者達の口から知られるようになりました。そのような意味で名前を挙げています。コースのタイトルからみると英米型そのままで、まあ、英国の教会発祥ですからしょうがないのかもしれないですが、カルト化や異端の事例から言っても、あまりいい印象は受けないですね。
2011/10/27(木) 午前 3:03 返信する

*

僕も名古〇クリス〇ャンセンター〇会を思い出しました。
ちなみに、あの番組で話していた牧師、宣教師に反発して、教会を去ったとのことです。
宣教師に言わせれば、「彼は地獄に行く」ということです。(笑)
牧師が教会を離れたりすることなど、そのようなことはよくあることなので、それほどなんとも思いませんでしたが、地獄行き発言には、さすがの僕も驚きました。
自分に反対するものは、誰でも「自国行き」ですからね。
アメリカに連れていってやったり、その牧師の面倒をみてやったのに・・・・・などなど、愚痴まで出る始末でしたよ。
本来なら、その去った牧師のためにも祈るとか、それがクリスチャンとしてのあり方だと、僕は思いました。
他でも書きましたが、僕は彼らと接触があっただけに、あまり悪くは言いたくないのですけどね。
それなりに学ばされたことがあったのも、事実です。
実際、そこの町に行った時日曜日だったので、そこの礼拝にも出たほどです。
[ Kazuya ] 2011/10/27(木) 午前 11:02 返信する

*

それでHP見ても、アーニー・〇・シ〇ムラ牧師以外の牧師の名前が出てこなかったのですね。

私もメッセージカセットなんかを10本ちかく貰いましたね。おかげで聖霊派系単立の良い資料となっています。

この手の団体の人たちって、自分達の信徒には、牧師や奉仕者の人間的過ちを赦すように求めながら、自分達はそうではないことが多いですね。
2011/10/27(木) 午前 11:24 返信する

*

ただ、一応そこの牧師はテントメーキングとして、番組で話していた牧師は高級家具の修理、アメリカ人宣教師はレストランを経営しているとは言ってました。
その話を聞く限りにおいては、信者からの献金で、私腹を肥やしている訳ではないように思われます。
まぁ、教会を離れた日本人牧師はともかく、そのアメリカ人宣教師がはたして本当にレストランを経営しているのか、正直よく分からないんですよね。
もちろん僕が部外者だけに、詳しいことを知る機会がなかったということではあるのですが・・・・・。
[ Kazuya ] 2011/10/27(木) 午後 7:15 返信する

*

その職業のみによって収入を得ていて、教会から高額な給料の類いを得ていないのならいいのですが、副業を持っている、もしくは商売の方が本業というのなら、かなり深刻な問題となりますね。

私はその放送を見ていないので、お話しから想像するしかありませんが、問題となっている教会、また牧師などは話しだけ聞くといいことを言っていたり、熱心であったり、としている場合が多々ありますね。
2011/10/28(金) 午前 5:25 返信する

*

書き終わって、名古屋の方だと気付きました。

ラジオでその話をしていたかは覚えていませんね。それでもやはり同じで、牧師の多角経営と見ると問題がありますね。
2011/10/28(金) 午前 5:28



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献金問題
2012/1/25(水) 午後 2:41
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/8301282.html

 ネットなどでカルト化教会などを検索してゆくと、必ずと言ってよいほど、什分の一献金や什分の一献金以上の献金の強要や暗黙の強要、その他の献金トラブルが取り上げられていて、什分の一献金=カルト化教会という括りになっています。

 以前にも取り上げたので簡単に述べるのなら、什分の一献金は何ら聖書に根拠のないもので、聖書に述べられているイスラエルに課せられた律法契約の十分の一の奉げ物と、福音派や聖霊派系統がいう什分の一献金はまったく関係のない、まったく制度も内実も別なもので、これらを混同させることによって手っ取り早い集金の根拠としているにすぎません。

 また、繁栄の神学といったまやかしのように、信仰を表すもの、信仰のバロメーターとしたり、多く奉げない者は信仰がなく、救われないと説いたり、多く奉げると多くの祝福があると言うだましごとによって集金している団体も近年は増えてきています。これもこの説を唱える者たちは聖書を引用して、一見あたかも根拠のあることであるかのように偽装していますが、これも集金のための方便にすぎません。

 もちろん個人的に多く奉げたい気持ちから、誰からもそのように教えられず、暗黙の圧迫もなく、それによって生活が立ち行かなくなるといったことがなく、救いとは関係がなく、ただ自身が奉げたいとの気持ちから、心に定めてするのなら別に何の問題もありません。

 しかし、実情は事前に什分の一献金について、直接の要求や直接語らなかった場合でも、テキストや薦められた本の中にそのことが書いてあったり、そのことを何となく匂わせるような何らかの示唆があったり、学びの中で言及があったり、教会の信徒の話の中でそのことの薦めや示唆、暗黙の圧迫があった結果、そこにたどりつく場合がほとんどといえます。

 この献金においてなぜトラブルが多いのだろうと考えてみますと、聖書における古代イスラエルの民が神に奉げた奉げ物と教会の献金には大きな差があるからだと思います。古代イスラエルにおいては、まず奉げられた動物や農作物は、祭壇で燃やして煙にして焼き尽くして、主への宥めの香りとしました。その他のものは、聖なる奉仕の務めに携わる祭司とレビの部族を支えるためのものであったり、幕屋や神殿の設備の維持に使われるものであったり、寡婦や孤児、貧しい者や旅人のために使われたりしました。

 しかし、教会の献金はどうでしょうか。直接主への奉げ物となる部分はありません。教会の規模によっても違いますが、教会経費の多くを牧師や奉仕者などの給与や福利厚生費、暖房費、交通費、旅費などの費用が占め、また、教会堂の維持費や修繕費、水道光熱費、事務通信費なども次いで大きな出費となっています。そして、教会の活動諸費となります。

 聖書に出てくる奉げ物と教会の献金は、主への感謝という面では同じでも、実質の使途は全く別物であります。ここいら辺のギャップが、カルト化教会ではない普通の教会においても、一つの課題となってくるのではないかと思います。

 教会の維持献金のお願いが、毎年献金袋に入って教会員に渡されますが、その中でこのような文言があります。【献金は『自分の体を神によろこばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です』(ローマの信徒への手紙12章1節)とありますように、神さまの恵みに対する私たちの応答です。収入の中から、まず最初に献げましょう。】これは毎年同じ文言が書かれていますが、いつもこの聖句とその前後を読んでも、献金と関連する記述がないのに、ただ「献げなさい」の文言のみを取って献金と結びつけるのは、什分の一献金を教える教会やカルト化教会の繁栄の神学と同じく、まったく的外れな引用であると言わざるを得ません。

 まず、献金のトラブルをなくするためにも、まず第一歩として、聖書の引用の誤用を止めることから始めてほしいといえます。根拠のないものを根拠とするからトラブルが起きますし、偽りを教えることになります。

***「献金問題」へのコメントとレス***

コメント(24)

もしよろしければ、アタナシウスさんが仰ることのもととなる資料を教えていただければありがたいです。

教会でも、什分の一が税込収入から起算したものだとか、かなり無茶な要求をしてくる人もおりますので。
[ みやこやみ ]2012/1/25(水) 午後 5:20返信する

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教会の運営にはこのくらい費用がかかる、牧師とその家族の生活だって考えないわけにはいかないのだからそこを賄う費用が必要。
宗教的な理念とは異なるのかもしれませんが、これからの時代は宗教の世界もお金のことに関してはきちんとした説明責任が必要でしょうね。
変に聖書を引用するよりその方が潔いですよね。
[ 南三条 ]2012/1/25(水) 午後 6:21返信する

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カテゴリーの「韓国系異端・カルト」と「異端・破壊的カルト団体・カルト化」にて、八つ程什分の一献金・繁栄の神学についての記事をあげています。

一世紀におけるユダヤ人の十分の一の奉げ物については、『ミシュナー Ⅰ ゼライーム』とトーラーをご覧ください。
2012/1/25(水) 午後 6:43返信する

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記事を読んでもらえれば教会の維持献金を否定するものでないことはお分かりだと思います。

問題なのは、什分の一献金や繁栄の神学のように、聖書に根拠がないのにも関わらず、あたかも聖書に根拠があるかのように教えたり、偽りの教えに導くことが問題だと思います。

福音を宣べ伝える奉仕職が生活を支えられることは聖書にもありますが、しかし、教会によっては過度な人件費等が問題となっています。

また、献金の強要、暗黙の圧迫、教え込みなどの手法によって集金がなされていたりすることは問題と言えるでしょう。
2012/1/25(水) 午後 6:55返信する

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ありがとうございます。
ミシュナーのゼライームに捧げ物についての記述があると言うことでよろしいですか?
[ みやこやみ ]2012/1/25(水) 午後 8:20返信する

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ファリサイ派における十分の一の奉げ物については、ミシュナーのゼイラームを読めば分かりますね。教文館から日本語訳が出ています。
2012/1/25(水) 午後 8:43返信する

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某教会の金持ち信者の中には、自分の献金を入れた献金袋に、わざわざ自分で選んだ聖句を書いている信者もいるそうです。wどんな聖句を書いているやら。w

献金問題に関しては、献金に目がくらんだ教会のスタッフも、献金を誇りたくなる金持ち信徒達も共に正しい献金の有り方について、心を入れ替える必要がありますね。
[ Anastasia ]2012/1/26(木) 午前 2:20返信する

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どんな聖句を恥ずかしげもなく書いているか気になりますね~。

現実の教会運営にはお金が必要ですが、いつの間にか教会がスタッフや建物を指しているようになっては、本末転倒といえますね。近年、そのような教会が増えたのでしょうね。
2012/1/26(木) 午前 3:41返信する

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献金のことでマタイ6:20を使う説教もあるかもしれませんね。

「金だせ!」
って感じ。
[ 一匹狼のまーくん ]2012/1/26(木) 午後 6:10返信する

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利用できるものは何でも利用しますから、そのような手段を取っているところもあるかもしれませんね。
2012/1/26(木) 午後 10:22返信する

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「献金のお願い」に変に聖句をひっぱりだして、信仰の深い浅いを計るかのように説くからいけないんですね。
カトリックのように、「教会維持費」がいいと思います。
やはりししきを維持するためには、お金もかかりますから。

申命記26:12には「十分の一の納期である3年ごとに・・・レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し・・」とあります。
文字とおり捉えるなら、什一献金は3年ごとで良いわけです。(カルト牧師にそこのところ聞いてみたいですね)
しかも、使用目的は社会福祉のためと言えそうです。
[ シャロン ]2012/1/30(月) 午後 3:01返信する

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>シャロンさん

献金は教会を維持し、教会活動を行う上にもとても大切なものです。それを説いて求めればよいので、根拠にならない聖句を持ち出して、あたかも義務のように信徒に課すのが問題といえます。

申命記と私の過去の十分の一の奉げ物に関する記事を読まれるとわかりますが、安息周期の第1年・第2年・第4年・第5年の十分の一の奉げ物は、祭司とレビ人を支えるために用いられ、第3年・第6年の十分の一は貧者の十分の一となり、十分の一が求められないのは、安息周期の第7年です。
2012/1/30(月) 午後 3:36返信する

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久しぶりに来ました(^O^) おお♪ジュウイチ献金 その他献金♪私の行ってた 大阪府さ●い市の津●野キリストめぐ●凶会の支店凶会もありました 遠回しな言い方で献金せなアカンようなやり方です 『神の物を盗む事になる』や アナニヤとサッビラの例や 『神がおよろこびになる、天に宝を積みましょう』(喜ぶのは津●野のヤ●●●教祖やろ!)みたいな方法です。 うちは貧乏やったから できるときしか入れなかったですが…返して欲しいです(≧ε≦)
[ 元め●み信者 ]2012/1/30(月) 午後 10:29返信する

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>元め●み信者さん

お久しぶりですね。

ファンダメンタリズムな教会やペンテコスタルな教会、カルト化教会で什一献金を採用しているところなどでは、同じような聖書箇所やマラキ書なんかで、街金みたいに集金しているようですね。あちらは十一(といち)の利息で、こちらは10分の1以上の献金の強要、似ていますね。
2012/1/31(火) 午前 7:14返信する
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ご存じかも知れませんが、酷いところになると、源泉徴収票を提出させて、面談して無理やり什一献金させるようです。
[ みやこやみ ]2012/2/1(水) 午後 8:20返信する

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モルモン教にはちゃんと什分の一献金がささげられているかの面接があるそうです。私は受ける前に離れたのでそこは詳しくありませんが、モルモン時代の什分の一献金の領収証は取っておいてありますね。
2012/2/1(水) 午後 8:43返信する

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献金の領収書ってあるんですか、すごいなー( ̄¥ ̄)
源泉徴収票もすごいけど(今日税務署に出してきました(^◇^;))

ほんとに10分の1を強調するとヤミ金みたいですね( ̄$ ̄)
[ 一匹狼のまーくん ]2012/2/1(水) 午後 9:28返信する

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強制性があるというところでは似ていますね。
2012/2/1(水) 午後 9:31返信する

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初めまして
今日献金に関する記事書いて ポチッとしたら 他にも同じような記事がでてきて「献金問題」とあったので訪問してみました。
そうしたら知り合いのお名前がいろいろ。そういえばアタナシウスさんのお名前も見たことあります。
改めまして こんばんは
シンカーポールの教会と仲良くなって 今の教会では 捧げなさいが頻繁に言われるようになりました。それまでも什一は当たり前。それ以外にもいろいろ献金があって 袋配られていました。
1月一発目の説教は最初は他の所の引用だったのですが、結局はマラキ書からの什一献金の話でした。しっかり納めないと「神様の物を盗んでいることになりますよ」と
昔はまじめに言われるままに たぶん他の人に言うと「バカじゃない」と言われるくらい献金していました。それが神様のご用に用いられると 教えられるままに 純粋な気持ちでした。
最近 ブログでいろいろな方と交流するようになって おかしいぞと思い始めました。というより おかしいと思い始めたからブログ始めたと言った方が 正解です。
[ マキシミリアナ ]2012/2/7(火) 午前 0:00返信する

*

>マキシミリアナさん

はじめまして。

什分の一献金や多く献げなさいと唱える教会が、近年目立って増えてきて、多くの献金トラブルを引き起こしています。多くの場合、「神さまのために」、「神さまへ感謝の気持ちとして」という錦の御旗を掲げ、マラキ書を筆頭としてお決まりの聖書箇所が示されます。しかし、それら示された聖書箇所は、何ら根拠のないものであることがほとんどといえます。

一種の神の名を利用した宗教ビジネスの集金活動である場合がありますね。
2012/2/7(火) 午前 1:43返信する

*

http://www.help-you.co.jp/hp/vol_4/4_01.html
↑資料”1/10献金は誰のため?”

アタナシウスさん
ここは意見が合いますね。応援しますよ。
[ pim**20040*10 ]2012/2/18(土) 午後 9:34返信する

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>pim**20040*10さん

意見が合うところがありよかったです。
2012/2/19(日) 午前 3:29返信する

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どうも はじめまして わたしもとある 同盟系の教会員ですが 什一献金の教えや 繁栄の神学っぽいものに 警戒していました、洗礼をうける直前の話し合いで はじめて 什一献金のことに ふれられ 当惑しましたが 神に救われたい一心で 了解しましたが いましたくての出来ない状況になってしまって いきずまってしまいました アタシウスさんがゆわれるような あるいみ 信仰と献金の平衡のとれた 教会とは どこにあるのか 教えていただければ 幸いです 一応ルター派の教会がいいとは 小耳にしましたが よろしければ 教えてください
[ ケンちゃん ]2012/6/2(土) 午後 11:56返信する

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>ケンちゃんさん

はじめまして。信仰と献金の平均の取れた教会を見つけるのは、これはなかなか難しいといえます。まず自分の信仰にあった教会の中から(それぞれの教派で教会政治やサクラメント、その他についてかなり違いがあります)自由献金方式を採用している教会を探してみるのが近道だと思います。献金について納得できても、教義や教会の外的なことにおいて違っていると、今度はそちらの面で躓いてしまうこともあります。

ルーテル派でも西日本の福音派系統の教会などでは、什分の一を採用していることは聞きますから、一概にルーテル派がいいともいえないと思います。

キリスト教年鑑などで、ご近所などの通える範囲の教会をピックアップされ、その教会の信仰と自身の信仰がおおよそ一致し、それから自由献金方式か什一献金方式かを確認されるとよいでしょう。教団などのHPや個々の教会のHPなどから質問のメールをしてみたり、電話などで確認されてもいいかもしれませんね。
2012/6/3(日) 午前 1:04

10分の1献金問題

Yahoo!ブログから移動(12月ブログサービス終了に付き)

マタイ23:23について 什一献金の偽り
2011/9/30(金) 午後 7:02
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/6747171.html

 つい先だってアナスタシアさんが、この個所の新世界訳についての記事を書いておられました。それで気になり、他の翻訳などを見て見ました。

 ネストレアーラントでは、末尾に
κακεινα(またそれらのことを) μη αφιεναι.(差し置いてはならない。)
 となっており、この個所で「それらのこと」と述べているのは、
αποδεκατουτε(あなた達は一割を納める) το ηδυοσμν(ハッカを) και(そして) το ανηθον(いのんどを) και(そして) το κυμινον(クミンを)
 のことを指しています。

 以下に主な日本語訳の当該個所を抜書きしてみますので見てみましょう。

元訳     …かれも亦(また)廢(すつ)べからざる者なり。

改訳     …而(しか)して、彼もまた等閑(なほざり)にすべきものならず。

ラゲ     …かのことも怠らざるべかりしなれ。

ニコライ   …彼も亦(また)遺(す)つ可(べ)からず。

口語     …これも見のがしてはならない。

新改訳二版  …ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。

新改訳三版  …ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。

バルバロ   …先のをも無視することなく…

塚本     …だが、あれもすててはならない。

フランシスコ …先のものもないがしろにしてはならないが…

共同     …もっとも、十分の一のささげ物もないがしろにしてはならない。

新共同    …もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。

岩波     …[もっとも、]前者も行なわなければならないが、…

新和訳    …もとより前者も行なわれねばならないが、…

エマオ    …だが、それら<十分の一を納めること>を無視してはならない。

現代     …十分の一のささげ物もいいかげんにしてはいけませんが、…

リビング   …もちろん、十分の一献金はしなければなりません。

新世界訳73年 …もっとも、他方の事がらも無視すべきではありません。

前田     …しかしあれも無視すべきではない。

大阪弁    …十分の一の献げもんは蔑ろにしたらあかんもんやけど…


 このように翻訳を比べるとなかなか面白いことが見えてきます。

 福音派でよく使われる新改訳ですが、昔ながらの福音派が大勢を占めていた時代の新改訳の第二版では十分の一は強調されていませんでしたが、近年の什一献金を強調する福音派や聖霊派が増えてきた現在では、教会のニーズに合わせたのか「十分の一もおろそかにしてはいけません。」との表現に改訂がなされていることは面白いことと言えます。

 また、そのこととは反対に、NCC系でよく使われる聖書協会の委員会訳では、それまでの翻訳とは違い共同訳で福音派的表現である「十分の一のささげ物もないがしろにしてはならない。」との表現がとられました。共同訳は動的等価法という翻訳原則でした。しかし、NCC系の教会からこの翻訳は受け入れられず、新たに新共同訳が従来の翻訳原則で訳されると、この個所も「…ないがしろにしてはならないが。」と「が」という表現が採られることによって、十一に目が向くのではなく、イエスの言われた正義と憐れみと誠実に目が向けられるように修正がなされました。

 エマオ出版訳、現代訳、リビングバイブル、新改訳三版など、福音派系や福音派単立系は、十分の一というものに目が向くように翻訳されているのは、意図的であるように感じられます。

追記

 回復訳は複製や転載を禁じていますので載せませんでした。

 ケセン語訳は言及されていないので省略しました。

 この記事でいう福音派は、福音派すべてを一まとめにするものではありません(コメント確認願います)

***「マタイ23:23について 什一献金の偽り」へのコメントとレス***

コメント(14)

わたしは十分の一献金はしていません。
「貧しいやもめ」の精神で奉献をしたいと思っています。

さて、訳は面白いですね。
リビングバイブルはここの箇所はちょっとひどいなあ。
[ 一匹狼のまーくん ] 2011/9/30(金) 午後 9:46 返信する

*

今晩は。この記事待ってました★w

>エマオ出版訳、現代訳、リビングバイブル、新改訳三版など、福音派系や福音派単立系は、十分の一というものに目が向くように翻訳されているのは、意図的であるように感じられます。

やはりそうですよね。その手の訳の聖書を発行している団体にとっては、新規の求道者獲得率が高い福音派や聖霊派は格好のお客様でしょうからね。
他の方が書いたブログでも、聖書の別の聖句で彼らに媚びている訳し方があると主張している人がいました。後はどの個所でしょうかねえ。
[ Anastasia ] 2011/9/30(金) 午後 10:22 返信する

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>まーくん(一匹狼)さん

リビングバイブルみた時は、わたしもこれはひどい、意図的だと思いました。
2011/10/1(土) 午前 2:54 返信する

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>アナスタシアさん

こうまで福音派系とNCC系が分かれると、教会の形態が違うのも分かりますね。

他の個所も見比べてみたいですね。
2011/10/1(土) 午前 3:05 返信する

*

そこの訳が十分の一献金の強調と読むならば、その箇所の解釈を誤っていることになります。福音派が用いる伝統的な注解でも、そこを十分の一の強調という意味にとっていません。

ですから、十分の一という訳仕方をしても、そんな意図を読み取る箇所ではありません。問題が有るとしたら、そういう意味に利用しようとする悪徳牧師であって、福音派全体にそういう意図が有ると考えるのは穿ち過ぎです。
[ Alexamenos ] 2011/10/1(土) 午後 10:00 返信する

*

福音派全体がこのようなことを強調しているわけではありません。

昔からある福音派ではなく、戦後発祥で、超教派の名の元に聖霊派系の影響を受けたりして、教義的混同が見られる教会や、単立系福音派、神学校のみの修了もしくは、その課程すら踏んでいない牧師や伝道者による教会設立など、福音派の中でも戦後型に見られる教会で、この手の強調がなされていますね。

わたしのブログを続けて読まれると分かりますが、「福音派」については、なるべく「一部の福音派」と書くように心がけておりますが、たまに抜け落ちることがございます。
2011/10/2(日) 午前 3:20 返信する

*

近年のキリスト教会の什一献金の強調は困ったものですね。
福音派の信徒さんと話すとわかるのですが、彼らはほとんど例外なく
什一=祝福とインプットされており、これは一種のマインドコントロールと言えます。
そして、祝福を失ってなにか悪いことがおこるのでは?という恐れから什一献金をしているようです。
これは福音を大幅にゆがめている教えです。
私たちクリスチャンにとって、この什一献金を打ち破り廃止することが、福音を日本に伝える以前に必要なのではないでしょうか?
[ しおんりべらるっぽい掲示板管理人 ] 2011/10/8(土) 午前 11:17 返信する

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そうですね。

この考えは福音をゆがめ、信仰による救いという基本となる教え自体を否定してしまっています。

この近代のアメリカ型福音派・聖霊派の中にある什一主義、繁栄の神学を駆逐することはとても急を要する事柄だと思います。
2011/10/8(土) 午前 11:58 返信する

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まーくん(一匹狼)さん

〉わたしは十分の一献金はしていません。
〉「貧しいやもめ」の精神で奉献をしたいと思っています。

ほう、それはご立派です。
生活費の全部を献金するということは、什一献金どころではないということですね。それは素晴らしい。
[ turumi ] 2011/10/31(月) 午後 9:26 返信する

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>turumiさん

あなたは相手のことばの一部を取って、その人が意図していないことをわざと書き込み、いやみ的に間接的に非難をしています。そのような煽るような書き込みは御遠慮ください。
2011/11/1(火) 午前 3:39 返信する

*

言葉の一部をとって・・・というのは、まさに「ものみの塔」みたい。

まあ、やもめの「精神」で、と私は言っていますからね。
それはみなさん同じだと思います。
そのやもめだって「出来る限り」のことをしたわけだから。
ほかの「余っている中から入れた」人たちと比較している。

どこに生活費を全部献金する人がいるでしょうかね。
だれもいないですよ。
ご飯を食べ服を着て家にも住んでいる。それでもう
自分のためにお金を使っている。

こういうコメントがあることに驚きですねえ~。
[ 内緒 ] 2011/11/1(火) 午前 6:33 返信する

*

午前6:33さん、はじめまして。

内緒コメントありがとうございます。

まったくですね。わたしもそう思います。

これらの主張があるのに、わたしも驚いています。それだけ狭い領域に心があるのでしょうね。
2011/11/1(火) 午前 8:06 返信する

*

>他のほうもおろそかにしてはいけません/十分の一もおろそかにしてはいけません

イエス様が十字架にかかる前は まだ旧約聖書の律法やモーセの10戒によって生きていたので、だからイエスさまもそのように言ったのではないですか?
[ n ] 2013/3/2(土) 午後 5:36 返信する

*

>nさん

この箇所は、イエスが律法下にある群集と弟子たちに、ファリサイ派などの偽善的行為を非難し、律法の本質に目を向けさせられている箇所ですね。この章の三節にあるように、群集と弟子たちには、彼ら律法学者やファリサイはたちの教えていた口伝律法に対して、それを行い守りなさいと勧めています。問題としていたのは、ファリサイ派の偽善性であったことがわかります。また、十字架による律法の成就の前であり、ヘブライ7:12にあるようにメシアによる新しいハラハーが弟子たちには与えられました。
2013/3/2(土) 午後 6:37


*******

コリント二8:20
2011/10/2(日) 午後 2:48
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/6779245.html

 このコリント二の個所も、什一献金推進者の根拠聖句としてよく引用される個所です。ここのαδροτης(hadrotes;豊富さ、沢山;惜しまず与えること、気前のよさと解する辞典もある。)の主な翻訳を見比べてみましょう。

元訳‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥餽物(めぐみ)

改訳・ラゲ訳・新和訳‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥醵金(きょきん)

新改訳二版・三版・バルバロ・リビング・現代‥‥献金

口語訳‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥寄付金

共同訳・新共同訳‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥募金

ニコライ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥惠施(めぐみ)

フランシスコ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥この気前のよい行い

岩波‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥この豊な〔義助金〕 欄外注直訳は「この豊かさ」

エマオ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥大金

新世界訳‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥惜しみない寄付

KJV‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥abundance

RSV‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥liberal gift

NEB‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥generous gift

INV‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥liberal gift

TEV‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥generous gift

NKJV‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥lavish gift


 ここでも「献金」と訳しているのは、新改訳、リビングバイブル、現代訳の三つの訳とバルバロ訳です。前三者は福音派と聖霊派とその系統の単立教会が好んで使う聖書です。

 『聖書時代史 新約篇』(佐藤研著 岩波書店)なんかを読むと、使徒言行録11:27以下で、47年から48年にパレスチナで起こった大飢饉に対して(この年は運の悪いことに土地の安息年に当たっていたので被害が大きくなった。『ユダヤ古代誌』20巻51~53.101参照)、経済的援助がパウロとバルナバを通して送られました。そして、使徒会議においても、異邦人教会からの援助が約束され(ガラテヤ2:9~10)ました。56年頃の第三回の旅行でエルサレムに向かうパウロは、集められた経済的援助が受け入れられるかどうかについて懸念を抱いていました(ローマ15:31)。しかし、使徒言行録では義援金が受け入れられたかには沈黙していることが説明されていました。

 第二コリントのこの個所は、これらのことを指しているといえます。そうであるのなら「献金」と訳すのにはかなり無理があると思われますし、全体の文脈とも合いません。また、それを什一献金の根拠に当てはめるのは暴挙といえるでしょう。

***「コリント二8:20」へのコメントとレス***

コメント(12)

NRSVはNEBと同じでした。
NWTはliberal contribution(惜しみない寄付)でした。

エマオの大金というのもすごいな。
[ 一匹狼のまーくん ] 2011/10/2(日) 午後 3:40 返信する

*

大金が欲しいのかもしれないですね。
2011/10/2(日) 午後 3:43 返信する

*

なるほど。w
什一献金支持者撲滅のために今後もお願い致します。w
[ Anastasia ] 2011/10/3(月) 午前 0:33 返信する

*

神の言葉を悪用してお金を稼ごうとする輩が多いですね。
2011/10/3(月) 午前 3:01 返信する

*

宗教にも、政府が税金を掛ける時代ですね。
公平に、
[ 内緒 ] 2011/10/3(月) 午前 6:11 返信する

*

それは腐敗を早めるだけで得策ではないと思いますよ。
2011/10/3(月) 午前 9:06 返信する

*

什一献金を守っている教会は、信者の収入とかを申告させたりするのですか?
[ 南三条 ] 2011/10/3(月) 午後 1:08 返信する

*

モルモンではそういう調査がありますね。

什一の教会もカルト化している教会ならあるかもしれないですね。

什一の教会と言っても、いろいろな名目の献金がありますから、総合すると二割、三割くらい献金しているなんて事もあるようです。
2011/10/3(月) 午後 3:17 返信する

*

たいていの福音派は「什一献金」と「献金」を分けています。ですから、ここを根拠に「什一献金」を推進する牧師が有ったとしたら、余程悪辣であるか、無知をさらけ出していることになります・・・。情けない。
[ Alexamenos ] 2011/10/3(月) 午後 11:01 返信する

*

ここ数十年の超教派運動によって、聖霊派、特に繁栄の神学を称える第三世界系アメリカ発や韓国系の悪しき風習が、当初は穏健な形で入り込み、今では被害を多数出すに至ったように見えます。

これらは第三世界や貧しい国での体験を元に、多く捧げるものは多くの祝福を受ける、少なくしか捧げないものは信仰が無く、裁かれるとの単純で、聖書的根拠を欠くメッセージを発していますね。
2011/10/4(火) 午前 3:42 返信する

*

什一献金とは、初代に教会が本当に生活共同体としての機能をしていた時には意味のあったことだと思います。
当時は、福祉機能も教会が持っていたので、今の税金みたいなものですね。

今日、法治国家における現代人は、税金をもう納めているので、それぞれのポケットマネーのうちから気持ちだけというのが適切ですね。
[ ANGEL ] 2011/10/7(金) 午後 5:27 返信する

*

ANGELさん、コメントありがとうございます。

什一献金という思想は、聖書の中に見出すことが出来ませんね。初代教会の教会共同体での献げ物は、現在什一献金と呼ばれるものと全く違ったものですね。

また、イスラエルの十分の一とも、什一献金は質を異にしているので、聖書的根拠のないものといえます。

「気持ち」というものが、最も大切なもので、あとは自分の教会が維持されるように、自分に見合ったものがよいのでしょうね。
2011/10/7(金) 午後 5:52


******

Mammonism
2011/7/16(土) 午前 6:09
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/5329295.html

Mammon.jpg

 20世紀に入り、19世紀に生み出されたディスペンセーション主義とクリスチャンシオニズムが、生み出したプレマス・プレズレンに留まらず広くアメリカのピューリタンやメソジスト以降の教派に広まり、福音派原理主義の主流になり、新しく始まった20世紀初頭のペンテコステ運動で生み出された教会や、20世紀半ばに起こったカリスマ運動により生み出された教会、20世紀後期に起こった聖霊の第三の波運動などの教会でも、大患難前にまことの信者は、空中携挙され天国へ行くという考えは広まりました。

 終末がいつ起こるかについては、アドベンチストやエホバの証人、ファミリー・ラジオ系団体のように、年代の計算をして特定はしませんが、イエスの預言や黙示録などの終末に関する記述を、現代の社会情勢に当てはめ、終末が差し迫っているイメージを信者に持たせたり、大患難前の再臨と空中携挙を教えることにより、自分が携挙されることを信じ、終末が一日でも早く来ることを望み、終末は核戦争によって起こることを信じているクリスチャンを生み出しています。

 そればかりではなく、南米や韓国を中心とした聖霊運動は、新たに「繁栄の神学」を生み出し、Mammonismという偶像崇拝に陥りました。マモニズムは「富」を表すマモンの擬人化されたもので、後に悪魔とされたものを語源とした言葉です。聖書には『だれでも、二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも使えるということはできません。』(マタイ6:24、新改訳第三版)とあります。このみ言葉が由来とされています。

 これら聖霊派によってはじまったマモニズムは、福音派の原理主義的教会でも広まり、ビジネス的手法を用いたり、マス・メディアを活用したり、カトリック教会でさえとっくに止めた「什一税」とよばれる、収入の10分の1を献金させる「什分の一献金」を教会の信徒に義務化させ、多くささげた者は多く祝福されるとの「繁栄の神学」的主張を教え込み、メガ・チャーチと呼ばれる巨大で豪華な教会堂や施設を作り、イベント性やアミューズメント性を教会にもたらしました。

 確かに一見すると、これらの教会は栄え、多くの信徒を持ち、一回の礼拝で集まる献金も膨大な金額になります。その教会の牧師はまるでカリスマやスターです。また、教会が強大であるため、信徒たちの集まりを分化してセル化をはかり、セルのリーダー(メイン牧師ではない牧師やスタッフ)を通して牧会を行なって(メインの牧師の指導下に)、教会の礼拝メッセージは中継された画像でメインの牧師のものを見るというものです。

 これらのビジネス的手法は日本の新興宗教や新宗教でもとられて、多くの集金による利益と、潤沢な資金を背景にあちらこちらに建設された教団施設が目に付いたりします。一例をあげるのなら創価学会や幸福の科学なんかはその傾向があります。

 このようなことは、牧師の独裁化や神格化がもたらされたり、信仰がすべて「自分が救われるため」という動機になり、とても危険な状態に陥りやすくなります。現在キリスト教会でこのマモニズムに侵された教会の牧師によるスキャンダルや事件が数多く見受けられます。牧師や牧師の家族、教会スタッフ、果ては信徒同士によるいじめやDV、セックススキャンダル、献金トラブルこれらの問題が教会で見られたり聞かれたりするようになってきました。

 このような教会の指導者である牧師の肩書きも、一般の教会の牧師とは違い、一般の場合だと主管(主任)牧師、牧師、副牧師、協力牧師などですが、元老牧師だとか堂会長なんて肩書き付けている教会もあります。そういったカリスマ牧師は、教会に巣くう金食い虫のようで、たいていがよい服を着、アクセサリーを身につけ、高級車に乗り、いい家に住み、伝道や交流なんかを理由に地方や海外などに行ったりします。神に捧げられた信徒のお金でおこなっているのです。

 いま全体としてはわずかと言えますが、キリスト教の中に七つの大罪の教会が、キリスト教全体に黒い影を投げかけています。

***「Mammonism」へのコメントとレス***

コメント(6)

こういう教会がけっこうあって
わりと栄えているからタチが悪い。

わたしは静かに礼拝しているのが一番です。

近隣の教会ではそういうのはなさそうです。
[ 一匹狼のまーくん ] 2011/7/16(土) 午前 6:19 返信する

*

わたしも礼拝で手を上げて祈ったり、異言というか意味不明の奇声を上げたり、転げまわったりするのも、牧師のパフォーマンスを見せられるのも好みませんね。

教会の礼拝は神とだけ向かい合うものだと思います。

ルーテル教会の場合ですと、正面にあるのは聖卓で、説教壇は聖卓の横にあり、神様が中心であることがわかります。
2011/7/16(土) 午前 7:02 返信する

*

懐かしいカネゴンですね~ww
貧乏人ですので繁栄の神学とは無縁ですwww
講座で一緒に学んでる人が、以前ホー〇〇スの団体教会で
「車献金」という献金さえあったようです。汗
[ Anastasia ] 2011/7/17(日) 午前 2:20 返信する

*

色々と名目をつけて、献金させようと、あの手この手ですね。
2011/7/17(日) 午前 2:36 返信する

*

ミイラ取りをもミイラにする秘儀 秘術を使う大道芸人が身分が低く飢えた人たちが集う清貧教会を蹂躙しているよぅ(TT)
[ はんす ] 2011/7/17(日) 午前 7:54 返信する

*

派遣村が話題になった時に、韓国系教会が炊き出しを餌にホームレスを集め、自分達の話しを聞きおわらないと炊き出しの食べ物を与えなかったり、生活の保護を受けさせて、その保護費の大半を巻き上げてしまったことまで行っていたことが、一部報道で出ていましたね。このような宗教の名をかたって金儲けを使用とする輩は、弱い人の周りに群がりやすいものですね。
2011/7/17(日) 午前 8:31


******

繁栄の信仰と什一献金は一如の関係
2011/10/12(水) 午後 8:00
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/6935217.html

 この前アマゾンで『ロックフェラーが知っていた「もうけ方」』(イ・チェユン著 小牧者出版)という本の冒頭部分を読んでみました。最初にロックフェラーが母から教えられた10か条があり、その10か条の幾つかは、一部の福音派カルトや聖霊派の中に見られる主張そのままで、多くの宗教被害者を出している思想そのままです。幾つかみてみると『…2.神様の次に牧師に仕えなさい。3.右のポケットには、常に十分の一献金を用意していなさい。…9.日曜日の礼拝は必ず所属している教会でささげなさい。』というようなものです。

 また、冒頭の推薦の言葉には、『十分の一献金に対してはさまざまな意見があります。ある人は、神様のみことばであるから絶対に守らなければならないと言い、またある人は、旧約時代のイスラエル人の伝統をそのまままねする必要はないと言います。このように、十分の一献金に対する意見がそれぞれ違っているのは、お金のことが私たちにとって非常に大切だからです。
 …お金がなければ何もできません。そのような点からみると、お金は人間の命に劣らないほど重要であると言えます。これが現実なのです。人間は命ほどに大切なお金を稼ぐために、一日一日を生きています。…よほどの財産家でない限り、収入を得るためには、当然仕事をします。そのような点で、お金は肉体を支えてくれる食物と同じなのです。
 神様に物をささげて信仰を現すのですが、それに伴う祝福に執着し過ぎてはいけません。
 作家イ・チェユン氏を通してこの本が書かれたのは、決して偶然なことではありません。多くの人が十分の一献金の重要性を悟ること、また国全体が祝福されることを神様は願っておられるからです。
 神様はまことに、私たちを祝福することを願っておられます。しかし、魚二匹とパン五つで大人の男性だけで五千人を食べさせた後の残りが、十二かごあったというすばらしい奇跡も、イエス様に自分の食べ物をささげた、ある子供の行動があったからであることを覚えてください。
 アン・イジョン(『弟よ!世の中にバカはいないよ』の著者)』とあり、読んだ感想は、なんてお金にがつがつとした人だろう。という感じを最初に受け、信仰を現すものがお金をささげることで、お金をささげれば祝福という見返りがあるということを暗に匂わせていることが窺えます。

 それで、この出版社を運営している宗教法人小牧者訓練会の教会である国際福音キリスト教会のHPを見てみましたが、ニュースで報道されて知っている方も多くいると思いますが、創立者の韓国人宣教師が準強姦容疑で裁判になり、判決で無罪になり原告側も控訴を断念したことから、無罪が確定した事件についてのお知らせなどが載せられていた以外、特に目を引くものもないので、もう一つのHPであるインターネット放送局のアガペーTVの方を見てみると、いろいろメッセージなどが在り、その中で今年の9月21日のメッセージで『献げ物への心構え』というタイトルの第二コリント9:6~15からのお話しがありました( http://agapetv.jp/page/5 )。聞いてみると、案の定、この第二コリントのこの個所を献金と解釈し、繁栄の信仰に基づいた理論展開をしていました。

 しかし、この個所はこの前も聖書の諸訳を比較した際述べたと思いますが、パレスチナを襲った飢饉で困窮しているエルサレム教会の兄弟姉妹への義援金であり、彼らの言う十分の一献金だけでなく、通常の献金とも全く関係のないことです。

 なぜなら、これは一過性の飢饉にあって、乏しい状態の兄弟姉妹を助けるためのものです。また、各地にある教会の兄弟姉妹からのもので、自分の所属している教会共同体に対する献金行為ではありません。それに、この義援金はエルサレム教会の教会の指導の任にある監督や長老、牧者、教師、執事、預言者などの奉仕職にのみ与えられたものではなく、窮地にあるエルサレム教会のすべての兄弟姉妹への援助であるということです。これは今日、教会の行っている献金行為とは全く本質を異にするものであるということです。

 さきほどのアガペーTVのメッセージでは、『今日の個所はパウロがコリントの人々に献金を勧めているところです。』と語り始めていましたが、全く的外れなことです。そして、繁栄の信仰お得意の、惜しみなくささげれば、豊な祝福があるとくり返し述べていて、見返りを求める信仰という誤った考えに陥っていることが如実に聞き取れます。

 主イエスはマタイ19:16以下で、弟子たちがユダヤ人が普通に考えていた、繁栄は祝福であり、貧しさは呪いであるという考えを否定し、『はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』と述べられました。しかし弟子たちは、ユダヤ人たちの宗教の伝統的考え方である、繁栄は神からの祝福と考えていたので、イエスのこの言葉を聞いて、『非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。』のでした。同じような因果応報的繁栄の信仰を主イエスが否定したものとして、ヨハネ9:1~3などがあります。

 しかし、米国系・韓国系・南米系福音派や聖霊派の宣教者や牧師によって、日本に創立された教会は、この手の集金理論や活動が多く見られ、多くの被害者を出しているため、それ以外のキリスト教会の障害となっています。特に什一献金をしていない普通の福音派や韓国系のまじめな教会などには、同じ福音派、また韓国系というだけで、ひとくくりにされたりして迷惑を被っていることと思います。このような誤った集金理論や行為が、一日も早く駆逐されることを望みます。

 一世紀末から二世紀に書かれた『十二使徒の教訓(ディダケー)』にはこのような言葉があります。『その人はキリストで商売をする人である。この人たちに注意しなさい。』

***「繁栄の信仰と什一献金は一如の関係」へのコメントとレス***

コメント(12)

よく見かける袋です(^¥^)

二番目の箱は、なんだかいやらしいですね。
[ 一匹狼のまーくん ] 2011/10/12(水) 午後 9:14 返信する

*

>『その人はキリストで商売をする人である。この人たちに注意しなさい。』
世間では、悪徳政治家などに皮肉の意味で「政治屋」って言ったりしますけど、悪徳献金で儲けようとする人達って「キリスト屋」って感じですね。汗
不況で日本の教会の財政も悪化していると思うので、まともな教会でさえも献金集金の面でカルト化しないか心配です。汗
[ Anastasia ] 2011/10/13(木) 午前 1:45 返信する

*

>まーくん(一匹狼)さん

一番下の献金袋(封筒状の物)を除いて、皆、同じキリスト教の器具の販売店の品物ですね。

二番目のものは、賽銭箱みたいですね。小銭を入れるとチャリーンと音がして嫌ですね。
2011/10/13(木) 午前 3:54 返信する

*

>Anastasiaさん

主日の席上献金、月定献金(維持献金)、暖房献金、建物保全・会堂建築積み立て献金などの名目の献金は維持されなければなりませんが、教会暦の特定日の献金や個人の記念日の名目での特別献金等は、単なる集金としか思えないですね。
2011/10/13(木) 午前 4:02 返信する

*

ある教会の週報を見たら、礼拝献金がキレのいい数字。
みんな1000円以上しているのか、もしかしたら500円数枚って
こともあるだろうけど。
わたしも別の教会で献金箱が回ってきてい
れると「ボトッ」って音(゜ε゜;)

キリスト屋というとキリストに申し訳ないので
教会屋にするかなあ。
[ 一匹狼のまーくん ] 2011/10/13(木) 午前 6:30 返信する

*

>まーくん(一匹狼)さん

音で献金がわかると言うことは、よくありますね。新来者や未信者のところに席上献金の篭が回ると、チャリーン、チャリーンと小銭の音がしますね(ちなみに維持献金以外は、わたしのところでもチャリーンと…。汗)。

教会やというより、宗教屋の方がしっくりするかもしれませんね。怖。
2011/10/13(木) 午前 8:12 返信する

*

私の記憶では、1978年ぐらいに十分の一献金のことが広がり始めたという感触が有ります。その時、日本の牧師達が聖書的考察をしっかりしなかったことが残念です。
[ Alexamenos ] 2011/10/13(木) 午後 10:33 返信する

*

そうですね。その時に聖書を底本に遡って検証し、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』やエウセビオスの『教会史』、使徒教父たちの文書類なども検討して、歴史的検証も合わせて行っていれば、今のようにはなっていなかったかもしれませんね。
2011/10/14(金) 午前 5:13 返信する

*

第2コリントの箇所と言うより、新約聖書で勧められているのは、すべて募金ですね。
2年ほど前、私が教会で、『献金は旧約の発想だから、これから礼拝では献金という言い方を廃止して募金としましょう。』
という爆弾発言をした時は、孤立無援、誰からもまったく理解してもらえませんでした。
そのくらい、日本のクリスチャンは一種のマインドコントロールに陥っていると言えます。
私たちは、献金に対するマインドコントロールを解いていくことが、主から与えられた使命だと考えています。
[ しおんりべらるっぽい掲示板管理人 ] 2011/10/15(土) 午前 11:18 返信する

*

まだすべての個所を網羅していないので、一つ一つ確認し検証していきたいと思っています。

なかなか、従来から使用されている用語を変えようとしてもうまくいかなかったり、反発を受けたりするのはいたし方の無いことと存じます。

そのよい例が「共同訳聖書」が、教会やクリスチャン、公会で使用されることを拒否された例からも窺えます。

ルーテル教会では、教会員の月定献金において「維持献金」との用語を使っております。目的が教会の維持の為に使われる献納金とはっきりしており、これはこれでよいと感じております。

聖書においては、やはり正しい訳語がふさわしいと思います。まず、聖書からその訳語が変更されないと、「聖書に書いてある」と申し立てる人が必ず現れてきます。そのためにも今新しく訳している聖書協会の標準訳や新改訳の後継訳に対して、それぞれのHPから、質問なり要望なりを送って見るとよいかもしれません。わたしも別なことについて、意見を送ってみたことがあります。
2011/10/15(土) 午後 0:49 返信する

*

献金とするか募金とするかは、用途によって変わると思います。もっぱら教会や教界のために用いるならば、献金でもよろしいかと思います。なぜならば、最終的には神様の働きのために用いられるという観点がそこに有るからです。
[ Alexamenos ] 2011/10/15(土) 午後 7:44 返信する

*

ただ、この献金という用語によって、それを悪用して、集金まがいの行為を行なう似非教会も多くありますので、なかなか難しい問題でもあります。
2011/10/15(土) 午後 8:52

プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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