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耶蘇会の日本年報


クエリヨの答辯

・・・日本人に我等の主耶蘇基督の教に依つてのみ得らるべき救の事を告げん為めであり、彼等の渡来が此の為めである故、力の限り帰依せしむることに盡すが、強制してキリシタンとなすことは我等の習慣でもなく、又之をしたこともない。日本人は其国に於て自由であり、パードレ達は権力を有せざる故、假令希望しても強制することはできない。又日本人を強制するものは彼等に説く教が眞理であることで、之に動かされてキリシタンとなるのである。彼等は神佛の教に依つて救を得られぬことを悟り、自ら社寺を破壊し、其後にデウスの聖堂を建てたのである。馬肉を食ふことに付いては、パードレ達は之を食はず、ポルトガル人の間にも之を食ふ習慣はない。併しポルトガル人が其國の習慣に従つて牛肉を食ふことは事實であり、パードレ達もポルトガル人の來る港に居る時は之を食つた。併し若し之を止めることを殿下が望まるれば、止めることは容易である。ポルトガル人が日本人を買ふことは、日本人が之を賣るのである故、殿下が望まるれば諸港の領主に日本人を賣ることを止めるやう命じ、之に背く者を重刑に處せられたらば容易に停止することが出來るであらう。

(「耶蘇会の日本年報. 第2輯」 村上直次郎 訳註 拓文堂 昭和19 pp.320-321)
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「聖規則書 全」(上田将 訳 正教会編輯局 明治三十一年一月) ニケヤ第一聖全地公会規則

ニケヤ第一聖全地公会規則

第一條 病中医師ニ陰茎ヲ截断セラレ或ハ夷民ニ閹割セラレタル者ハ依然教衆タル可シ。若シ健康ニシテ自ラ閹割セシ者ハ仮命[タトヒ]教衆中ニ在リシ者ト雖モ除黜ス可キナリ而シテ自今此ノ如キ者ヲ登庸ス可ラス。但シ此事タル故意ニ之ヲ行ヒ妄リニ自ラ閹割スル者ヲ指スヤ勿論ナリ之ニ反シテ夷民或ハ主人ニ閹割セラレタル者ハ若シ其職ニ堪フル時ハ規則(使徒規則二十一條)ハ之ヲ教衆ニ加フルヲ允許ス。

第二條 已ムヲ得ザルノ事ニ由リ或ハ其他、人意ニ由リテ教会規則(使徒規則八十條)ニ反スルノ事多ク生ジタリ即チ異教ノ生活ヲ棄テ聖教ニ就キテヨリ日尚浅ク暫時啓蒙者タリシ者ヲ間モナク霊魂ノ浴盤ニ入レ而して乄洗後直ニ主教或ハ司祭ノ職ニ登庸スルアリ是故ニ以後決シテ此ノ如ク行フ可ラザルヲ當然ト認メタリ。是レ啓蒙者ニモ時間ヲ要シ又洗後尚試験ヲ為スヲ要スレバナリ。蓋シ明ニ使徒ノ書ニ云フ甫メテ教ニ入ル者ヨリセズ恐クハ自ラ驕テ魔鬼ノ刑ト網トニ陥ラント(提摩太前書三章六節)若シ時ヲ経ル間ニ霊ノ罪ヲ認メラレ二人若クハ三人ノ証者ニ定罪セラレタル者ハ教衆ヨリ除黜セラル可シ。之ニ反シテ行フ者ハ敢テ大公会ニ抗スル者トシテ自ラ教衆除黜ノ危難ニ服スル者トス。

第三條 大公会確定セシコト左ノ如シ主教或ハ司祭或ハ輔祭或ハ凡テ教衆中ニ在ル者ハ家ニ同居ノ婦ヲ置クヲ許サズ但シ母或ハ姉妹或ハ伯叔母或ハ全ク嫌疑無キ者ハ此限ニ非ズ。

 此規則ノ主意ハ神品タル者ノ嫌疑ヲ防グニ在リ故ニ此ニ制定セラレシ禁ハ唯無妻ノ司祭、輔祭及ヒ副輔祭ニ関ス可シ蓋シ夫婦相住ムノ家ニハ妻ニツイテ他ノ婦女居住スルモ疑ヲ生セザルナリ

第四條 主教ハ其州中ノ悉クノ主教ニテ立ツルヲ最モ適当ナリトス。若シ已ムヲ得ザルノ事故ニ由リ或ハ道路ノ遠隔ナルニ由リテ之ヲ行フニ不便ナル時ハ少ナクトモ 三主教一所ニ集会シ、不参ノ者ハ書ヲ以テ同意ヲ表シ而シテ後按手ヲ行フ可シ。各州ニ於テ此ノ如キ事ヲ認定スルハ其ノ府主教[ミトロポリト]ニ属ス。

第五條 凡ソ主教等ニ其ノ各教区[エパルヒヤ]内ニ於テ教会ノ親與ヲ絶タレタル者ニ関シテハ教衆ニ属スルト俗人タルトニ論ナク或主教ニ親與ヲ絶タレシ者ハ他主教ニテ受ケラル可ラザルコトヲ制定シタル規則(使徒規則三十二條)ヲ遵守ス可シ。然レ𪜈彼等或ハ主教ノ小量ニ由リ或ハ争論ニ由リ或ハ其他之レニ類スルノ不満ニ由リテ親與ヲ絶タレタルニ非ザルナキカヲ審査スベシ。故ニ此事ノ適当ノ審査ヲ為スガ為ニ至当ト認メタルコト左ノ如シ各州ニ於テ一年ニ 二回公会ヲ為シ凡テ州中ノ諸主教一所ニ集会シテ此ノ如キ紛議ヲ審査シ而シテ確然主教ニ対シテ不正ナリト認メラレシ者ハ衆人断然之ヲ親與ニ受クルニ堪ヘザル者ト認定シ以テ諸主教ノ公会ガ更ニ寛大ナルノ決断ヲ宣告スルヲ可トスル時ヲ待ツ可シ。公会ハ一ハ四旬齋期ノ前ニ於テス可シ凡テノ不満ヲ除却シテ神ニ潔浄ノ供物ヲ献ズルガ為メナリ又一ハ秋季ノ頃ニ於テス可シ。

第六條 エギベト、リウィヤ、ペンタポリ ニ行ハレ来レル舊慣ヲ遵守シ アレキサンドリヤ ノ主教ハ此等諸教会ノ上ニ権ヲ有ス可シ。蓋シ ロマ主教ニモ亦此例有リ。又同ク アンティオヒヤ 及ヒ其他ノ諸州ニ於テモ教会ノ特典ヲ守ル可シ。凡テ左ノ事明白タル可シ則チ凡ソ府主教[メトロポリト]ノ許ナクシテ主教ニ立ラレタル者ハ大公会其者ノ主教たタル可ラザルヲ定メタリ。若シ衆人ノ公選其當ヲ得テ教会ノ規則ニ適合スルモ 二三人自己ノ好辨ニ由テ之ニ抗スル時ハ選挙者ノ多数ノ意見之ニ勝ツ可キナリ。

第七條 エリヤ(イエルサリム) ニ居ルノ主教ヲ敬重ス可キ慣例古傳確定スルニ由リ彼レハ首府[ミトロポリヤ]ニ予ヘラレタル特典ヲ保有シテ名譽ノ順ヲ有ス可シ。

第八條 嘗テ自ラ潔浄者ト稱セシ者ニシテ公、使徒ノ教会ニ合スル者ハ聖大公会之ニ手ヲ按シテ依然教衆タラシムベキヲ適当ト為ス。彼等ハ先ツ書ヲ以テ公、使徒ノ教会ニ合シ其制規ニ順従ス可キコト即チ再婚者及ヒ窘逐ノ時倒レタル者ノ為ニハ悔改ノ時間モ定メラレ赦罪ノ期限モ定メラルヽヲ以テ之レヲ教会ノ親與ニ受ク可キヿヲ証ス可シ。彼等萬事ニ於テ公教会ノ制規ニ順従ス可キヲ要ス。故ニ凡ソ邑村若クハ市府ニ於テ教衆タル者唯彼等ヨリ接手ヲ受ケタル者ナル時ハ其位ニ居ル可シ。若シ公教会ノ主教有ル所ニ於テ彼等ノ中ヨリ教会ニ帰依スル者アレバ正教会ノ主教ハ主教ノ位ヲ有シ而シテ潔浄者ト稱スル者ノ所謂主教ハ司祭ノ尊敬ヲ有ス可キコト勿論ナリ但シ該地ノ主教ハ其者モ主教ノ名称ノ尊敬ニ與カルコトヲ可トスル時ハ此限ニ非ス。若シ主教之ヲ欲セザレバ形式上之ヲ教衆ニ加フルガ為メ「ホレエビスコプ」若クハ司祭ノ任所ヲ設ケ以テ一市府ニ 二主教有ラザラシムベシ。

 ロマ教会ノ司祭 「ノワト」党派ノ異端者自ラ潔浄者ト稱セリ彼等窘逐ノ時倒レタル者ヲ悔改ニ受ケズ再婚者ハ決シテ之ヲ教会ノ親與ニ受ク可ラザルヲ教ヘ自ラ以テ己ノ社会ノ潔浄ハ此ノ傲慢不人情ノ説ニアリト為セリ

第九條 試験ヲ経ズシテ司祭ニ挙ラレタル者若クハ試験ノ時己ノ罪ヲ告解シタレ𪜈其告解ノ後規則ニ違背シテ按手セラレタル者アレバ規則(使徒規則二十五條)ハ此ノ如キ者ニ聖務ヲ行フヲ許サズ。蓋シ公教会ハ必ズ無玷ヲ要スルナリ(提摩太前書三章ニ節)。

第十條 若シ棄教者タル者、登庸者ノ不知ニ由リ若クハ知リテ教衆ニ挙ラレタルトキハ教会規則ノ効力ヲ弛メス。蓋シ此ノ如キ者ハ発覚ノ後聖位ヲ除黜セラル可シ。

第十一條 リキニイ ノ窘逐ノ時ノ如ク強迫ニ因リ若クハ財産没収ノ故ニ因リ若クハ危害ニ因リ若クハ其他之ニ類スルノ事ニ依ルニ非ズシテ教ヲ棄タル者ニハ慈憐ヲ加フベキニ非ザレドモ公会ハ之ヲ優恤ス可キヲ定メタリ。故ニ誠心ニ悔改スル者ハ三年間信者ノ如ク誦経聴聞人ノ中ニ在リ七年間聖堂ニ俯伏シテ赦罪ヲ請求シ二年間聖機密ヲ領スルノ外人民ト共ニ祈祷ニ與カル可シ。

第十二條 恩寵ニテ教ヲ認ムルニ召サレ初メ熱心ノ熾ンナルヲ顕ハシテ軍帯ヲ脱セシモ其後犬ノ如ク転シテ其吐キタル物ヲ食ハントシ或ハ金銀ヲ用ヒ或ハ賄賂ヲ以テ軍職ニ復スルニ至リシ者アリ此ノ如キ輩ハ三年間啓蒙所ニ在リテ聖書ヲ聴聞セシ後十年間聖堂ニ俯伏シテ赦罪ヲ請フ可シ。凡テ此事ニ於テハ宜ク当人ノ心地ト悔改ノ情状ヲ酌量ス可シ。蓋シ外儀ヲ以テセズ恐懼、流涕、忍耐、慈恵ヲ以テ実行上ニ反正ヲ証スル者ハ定時間聴聞セシ後祈祷ニ與カラシムルハ至当ナリ。加之主教ハ猶之ニ慈憐ノ処置ヲ施シテ可ナリ。然レ𪜈己ノ犯罪ヲ軽視シ唯聖堂ニ入ルノ一事ヲ以テ自ラ反正ニ足レリト為ス者ハ之ヲシテ全ク痛悔ノ時限ヲ遵行セシム可シ。

第十三條 臨終ノ者ニ関シテハ今モ古ノ律法規定ヲ守リ臨終者ヲ乄最後ノ且最モ緊要ナル引導ヲ受ケザルガ如キ事ナカラシム可シ。若シ既ニ生存ノ望ナクシテ領聖シ而乄再ビ生ニ復ル時ハ唯祈祷ニ與カル者ノ中ニ加ハル可シ。凡テ臨終ノ者ハ何人タルヲ問ハズ凡ソ聖體ヲ領スルヲ請フ時ハ主教ノ吟味ヲ以テ之ニ聖賜ヲ授ク可シ。

第十四條 啓蒙者ニシテ倒レタル者ニ関シテハ聖大公会ハ之ニ 三年間唯聖書聴聞人ノ中ニ在リ而シテ後啓蒙者ト共ニ祈祷ス可キヲ適当ト為ス。

第十五條 多クノ紛擾及ヒ生起セシ紛乱ノ故ニ由リ使徒規則ニ反シテ或地方ニ行ハルヽノ風習ハ全ク禁止ス可キヲ議定シタリ即チ主教或ハ司祭或ハ輔祭ハ一市府ヨリ他ノ市府ニ移転ス可ラザルコト是ナリ。若シ此聖大公会ノ制定ノ後此ノ如キ事ヲ企テ若クハ自ラ己レニ対シテ此ノ如キ事ヲ為スヲ許ス者アル時ハ其処置ヲ以テ全ク無効ノ者ト為シ移転セシ者ハ其ノ主教或ハ輔祭ニ按手セラレタルノ教会ニ返サル可シ。

第十六條 司祭或ハ輔祭或ハ凡テ教衆ニ属スル者軽率ニシテ且ツ眼前ニ神ヲ畏ルヽノ心ナク教会ノ規則(使徒規則十五條)ニ通暁セズシテ自己ノ教会ヲ離ルヽ時ハ他ノ教会ニ於テ決シテ之ヲ受ク可ラズ之ニ諸般ノ説諭ヲ加ヘ其管区ニ帰ラシム可シ執拗シテ聴カザレバ之ニ親與ヲ絶ツ可キナリ。又若シ誰カ妄リニ他人ノ管轄ニ属スル者ヲ奪ヒ之ヲ其本主教即チ其教衆ニ属スル者ガ避ケシ所ノ主教ノ承諾ヲ経ズシテ按手スル時ハ其按手ハ無効ノ者タルベシ。

第十七條 教衆ニ属スル者、貪欲、利欲ニ耽リ聖書ニ銀ヲ貸シテ利ヲ取ラス(聖詠十四ノ五)ト云ヘルヲ忘レ貸附ヲ為シテ百分ノ利ヲ要求スル者多キニ由リ聖大公会裁定セシコト左ノ如シ若シ此ノ制定ノ後貸金ノ利息ヲ取ル者若クハ他ノ方法ヲ以テ此業ヲ営ム者若クハ半利ヲ要求スル者若クハ其他耻ヅベキ利慾ノ為ニ何事ヲカ企ツル者アレバ教衆ヨリ除黜セラレ神品ノ部類ヨリ除カル可シ。

第十八條 聖大公会聞ク所ニ依ルニ奉献スルノ権ナキ者ガ奉献スル者ニ ハリストス ノ體ヲ授与カルコトハ規則ニテモ慣例ニテモ傳ハラザルニ或地方及ビ或市府ニ於テ輔祭ガ司祭ニ聖體機密ヲ授與スル事アリト。且補祭ニテ主教ニ先ダチ聖體機密ニ触ルヽ者サヘ有リトノコト判明セリ。故ニ宜ク此等ノ弊ヲ一掃シ輔祭ハ己レ主教ノ役者ニシテ司祭ヨリ下位ノ者タルヲ知リテ己ノ分ニ止ル可シ。彼等宜ク順次ニ由テ司祭ノ後ニ主教或ハ司祭ノ授与スル聖體機密ヲ領スベシ。又輔祭ハ司祭ノ間ニ並座スルコトモ許サズ。蓋シ是レ規則ニ由ラズ亦順序ニ由ラザル者ナリ。若シ此制定ノ後聴従スルヲ欲セザル者アラバ其輔祭職ヲ停禁ス可シ。

第十九條 「パウリアン」党人ニシテ後、公教会ニ應ゼシ者ニ就テハ凡テ復ビ之ニ施洗ス可キノ制ヲ定ム。若シ前ニ教衆ニ属セシ者ニシテ無玷且ツ責ム可キナキ者ハ再洗ノ後公教会ノ主教之ヲ按手ス可シ。若シ試験ニ由リテ彼等ノ神品タルニ堪ヘザルヲ発見スル時ハ聖位ヲ除黜セラル可キ者トス。又女輔祭及ヒ凡テ教衆ニ属スル者ニ関シテモ同ク此例ヲ遵行ス可シ。女輔祭トハ我等衣服ニ由テ斯ク稱セラルヽ者ヲ云フ。但シ彼等ハ按手ヲ受ケタルヿナキガ故ニ全ク俗人ニ加ヘラルヽヲ得可シ。

第二十條 主日及ビ五旬日ニ膝ヲ屈ムル者アルニ由リ各教区[エパルヒヤ]ニ於テ皆同規ヲ守ランガ為メ聖公会ハ立テ神ニ祈祷スルヲ可トス。

***

漢字はなるべく常用漢字に改め

ルビは本文に括弧が使われているので角括弧[ ]にした

↓の合略仮名はそのまま
ヿ (コト)
乄(シテ)
𪜈(トモ)

墓、十字架、サンヘドリン


 イースターも過ぎましたので関連で、新聖書辞典を見ていますと、あれっと思うような記述も見られたりしました。それは「墓」について見ていましたら、

"新約時代の墓と埋葬の習慣は旧約時代と大差なく"

とありました。第二神殿時代は旧約時代には見られない遺骨の改葬なんかの特徴が見られ、旧約時代とは違うだろうと思いました。

一世紀頃 ユダヤ 墓 


そのことについて「聖書考古学大事典」から見たいと思います。

" 第2神殿時代  第2神殿時代のエルサレムの墓地は、町の周辺のどの方向にもかなり広い地域に散在している。町の西側では今まで発見されている墓はわずかである。埋葬は主に北、東、南の3中心地に集中している。北方では、埋葬地域はスコボスの谷(ワディ・ウム・エル・アメド)のサンへドリア地区の北にはじまり、南に向ってエルサレムの第3城壁近くのヘレナ妃の墓にまで広がっている。東ではオリーヴ山、スコボス山の斜面全域に散在し、南方面ではキドロンの谷やそれから分岐する小さな谷沿いの斜面岩肌を掘削して墓が設けられている。

 埋葬様式 庶民は地表を掘った簡単な墓に埋葬されたと推測することができる。これらは消滅してしまい、何の痕跡も残さない。現在まで残り、しかも日の目を見ることになった墓はいずれも岩を掘削して設けた地下墓室をもつ家族墓である。家族墓のありふれた形式は、きまって壁に棚(ときにはアルコソリゥム)を掘り込んだ方形の部屋(1辺3-4m)である。この部屋には小さな通路(約0.5m 幅)を通って入る。部屋は人間の背丈よりも低いので、埋葬者や墓参者が真直ぐに立てるように入ロのところで深さ約0.9 m の細長い溝を床に掘り込んでいる。おなじ要領で部屋の3面に棚を設けている。人が直立できる高さの墓ではこのような溝は不要で、ただ低い棚-あるいはまったく無い場合もある-が掘られている。
 死者の遺体は遺体安置棚に安置され、後に肉質が剥離したところで骨を収集して蔵骨器(オシュアリ)におさめる。このようにして家族の他の成員のために墓室を確保する。蔵骨器は通常墓室内の棚、あるいは特別な小室に置かれるが、ときには壁に掘られた棚に発見されることもよくある例である。
 骨を集めて改葬するという慣習は第2神殿末期、さらにその後数世紀のユダヤ人の中に広くゆきわたっていた。ミシュナやタルムードに含まれる多数の規定は、埋葬の様式、墓の形体と規模などを取りあつかっている。骨を集める慣習について「まず最初に彼らはアルコソリゥムに葬るのが通例であった。肉体が亡びた後、骨を集め、これらを糸杉の中に改葬する」(パレスティナ・タルムード、モエード・カタン81:3-4節)。「死に臨んで父は語った。畑に私をまず葬りなさい。後に私の骨を集め、糸杉の骨箱の中に納めなさい」(同セマホート12:9)。改葬をしない埋葬の慣習もある。一部の人びとは遺体がそのまま納められる石棺(サルコファグス)を用いる。地位の高い大家族は、コヒムをもつ数墓室からなる洞穴墓を所有していた。この一連の墓室は縦にも横にも数レベルに枝わかれしたつくりとなっている。
 外からはこれらの洞穴墓の正面だけを目にすることができる。一般に正面は飾りがすくなく、小さな入口がついている。洞穴の入口にポーチがある場合には入口は大きく、かつ幅も広い。ある洞穴墓では入口に破風があり、ぶどうの葉と房、アカンサスの葉などが彫られていた。これは典型的なユダヤ人の装飾芸術である。なかには壁柱の間の広い入口に2本の円柱をもつ建築様式(アンタに挟まれた二柱式)のファサードがあり、ドーリア式装飾フリーズを支えている。
 全構造が岩からくりぬかれ、地上に独立して建っているという独特の一群がある。岩を掘って墓を構築する技術は、この一群において、完成度と壮麗の点で頂点に達している。第2神殿時代のものでは、ただ2基の重要遺物、いわゆる「アブサロムの墓」と「ゼカリヤの墓」が現在残っている。第2神殿時代の洞窟墓は何百とエルサレムで発見されている。キドロンの谷で見かけるような孤立した墓は長い間人の目に触れてきたし、もっとも印象深いものも含めて、ある墓は何世代も前に発見された。これらすべては現代において徹底的に再調査されている。状況は不明ながら墓の多くは古い時代にすでに荒らされていた。20世紀に入ってから発見された多数の墓は組織的に発掘調査された。紙数が限られているので、ここではいくつかの例のみを取り上げることにしよう。建築上見るべきものとして壮麗な墓か興味ある墓碑銘なり蔵骨器の発見された墓などである。"
(「聖書考古学大事典」 講談社 pp.274-276)

 イエスも壁の棚に亜麻布で包まれて安置され、この時イエスの遺体が石棺や木棺に収められていないのでコヒム型ではなく、アルコソリゥム型であったのでしょう。壁の棚に安置され、肉が腐り落ちて骨になるのを待ち、そこで改めて骨が集められて蔵骨器という骨箱に収納されて、墓のなかの蔵骨場所に安置されるはずだったのでしょう。しかし、イエスは復活してその必要もなくなってしまいました。

 十字架については以前にアップした記事「主の十字架」の通りでしょう。

 さて、もう一つ、これはたまに見かける意見で、祭りの時にサンヘドリンが開かれているのはあり得ないというものです。このことについてはエレミアスの「聖餐のことば」の説明が分かりやすいと思います。

"・・・(3)議会の開廷とイエスに対する宣告が祭りの夜に行われることが可能だったかとい問題である。「人は・・・祭りの日に裁判をしてはならない」というのはイエスの時代すでに通用していた掟であった(この反証については、これが共観福音書の叙述に対してと全く同様に、ヨハネの叙述に対しても妥当することを明らかにしなければならない。ミシュナーによれば刑事訴訟は祭りの準備の日にも、どっちみち行われてはならなかった。つまりこの反証が正しいとされるならば、これはふつう誤って考えられているように、聖金曜日をニサン十四日とするヨハネの日付に対して共観福音書の日付よりも優先権を与えるということにはならない。そうではなくてこれは共観福音書のイエスの死の日の日付けに対しても、ヨハネのそれに対しても同じように反対しているわけである。)われわれは祭りの夜にそのうえ正式の死刑の宣告が下されたかどうか(このことを福音書記者たちは全然主張していない)という問いに時を費やす必要はなく、ただちに決定的な問題解決に向かうことができる。申命記17・12は祭司や裁判官からなるエルサレムの上級裁判所の決定にそむく者を死刑にすることを命じている。懲戒のためにこのような場合は公に告知されねばならなかった。かなわち「すべての民は、恐れをいだき、重ねて僭越不遜なことをしないように、これを耳に入れなければならない」(申命記17・13)。「すべての民」は年に三回の巡礼の行なわれる祭りの時にだけエルサレムに集められたわけであるから、申命記17・13及び並行箇所申命記21・21、13・12からは、このような律法に特記された最悪の罪過の場合の死刑は­­­­­̶祝祭日に死刑をしてはならないという禁止令にもかかわらず­­­­­̶ 〘バーレゲル〙「祭りの時に」行われねばならなかったという結論が導かれる。「(その両親に対して)反抗的なわがままな子」(申命記21・18-21)、(最上級の)裁判所に反逆する学者(申命記17・8-13)、(偶像礼拝へと)誘惑する者(申命記13・7-12)、(一つの町を偶像礼拝へと誘惑し)背教させた者(申命記13・13-19)、偽りの預言者(申命記18・20)、および偽りの証人(申命記19・18-21)はその場でさばかれてはならず、彼等はエルサレムの議会まで連れていかれ、祭りの時まで監禁され、そして、祭りの時に判決が執行された。なぜならば『すべての民は、恐れをいだき、重ねて僭越不遜なことをしないように、これを耳に入れなければならない』(申命記17・13)からこのような場合もあったわけである。イエスは彼の敵にとっては偽りの預言者に妥当した。われわれはこのことをマルコ14・65および並行記事から最も明瞭に知る。この個所でイエスは議会の判決のあった後、一種の目隠し遊びをされてもてあそばれる。それによって彼は自分が預言者であることを証明できるはずであるというのだ(マルコ14・65、マタイ26・68、ルカ22・64 προφήτευσον〘言いあてて見よ〙)。違反者を嘲弄するのは、その告発された罪をもじってなされるのであるから(ルカ23・11も同様である。白い長衣はユダヤ固有の王の正服である。さらにマルコ15・16-20および並行記事の紫の衣はヘレニズムの王の正服である)、議会の前でイエスが嘲弄されるというこの記事のうちには­­­­­̶この記事は特別な意図を全然含まない­­­­­̶イエスはユダヤ人によって偽りの預言者として宣告されたという事実に対する論駁の余地のない史実的証言が見出されるのである。ところで偽りの預言者として彼には即座に判決が下されねばならなかった。それは(ハラカーからもち出されるすべての対立する諸規定を突破する)律法の命令である申命記17・13に従って、「すべての民」の眼前で、すなわちニサン十五日に彼の死刑を執行するためであった。というのはニサン十六日になればもう過越の巡礼者は故郷に帰っていなかったであろうから。
 われわれは、受難物語の記事はニサン十五日に起こりえない出来事をなに一つ報告していないことを知るのである。"

(「イエスの聖餐のことば」 J・エレミアス著 田辺明子訳 日本基督教団出版局 pp.116-117)

 聖週間と受苦日、イースターにこういうことを改めて読み直してみたりしました。

北海道キリスト教史

Yahoo!ブログから転載(12月ブログサービス終了に付き引っ越し)

北海道キリスト教史 その1
2011/5/20(金) 午後 6:02
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/4105096.html

 Anastasiaさんから北海道のキリスト教史についてのリクエストがありましたので、何回かに分けて書いて行きたいと思います。

 日本にキリスト教がもたらされたのは、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル師やフランシスコ会のルイス・ソテロ師などの宣教師によることは、社会の歴史の教科書にも出ていて有名です。ちなみにフランシスコ・ザビエル師の絵は、想像図であるようです。あの頭のてっぺんを剃髪した髪型はフランシスコ会のもので、イエズス会の習慣にはなかったそうです。ちょっと脱線してしまいましたが、話しを戻しますと、信長の時代から秀吉の時代にかけて、これらカトリックの宣教者たちの働きにより切支丹は増えて行きましたが、宣教師の影にスペインの植民地政策が見え隠れしていることに気がついた秀吉は、キリスト教の禁止令を出しました。そしてこの禁令は家康にも引き継がれ、明治政府によって廃止されるまで続きました。このことは今では一般常識となっています。しかし、北海道におけるキリスト教史となると、ウイリアム・クラーク博士、聖公会の宣教師バチェラー師、正教会のニコライ大主教、無教会主義の内村鑑三などの、メジャーなことくらいしか知らないのではないでしょうか。しかし、幕末以降、長崎、熊本、横浜、函館はキリスト教の発展した都市でした。しかし、開国した日本の新しい首都東京に、人も物も集まるのは道理で、各教会や教団の本部などが首都に集中するようになって行ったのはいたし方のない話といえるでしょう。

 さて、本論に入って行きたいと思います。ペリー来航以前の蝦夷ヵ島のキリスト教についてですが、秀吉、家康などによって日本は切支丹禁制の時代に入りました。家康は1612年に天領や直臣に対する切支丹禁令を出し、1614年には全国規模に拡大させました。これにより京都、大阪の切支丹信徒を長崎と津軽に追放しました。この時追放された切支丹の中から、信教の自由を求めて津軽海峡を越え、蝦夷に渡る人たちがいたと思われます。そして、蝦夷地には迫害らしきものはなく、働きやすいとの噂が全国に流れ、年を追うごとに千軒岳金山を目指す人が多くなったと言われています。蝦夷松前に渡った彼らは、金堀人夫となって身を隠したのでした。

 1618年には、イエズス会のジェロニモ・デ・アンジェリス師が津軽の深浦湾から商人に変装し、二人の日本人伝道者を伴い、松前に向かいました。途中シケに遭い江差付近に流れ着きました。そして、実際松前に着いてみると、松前家中の重臣らに温かく迎えられ、領主からは「松前は日本には属さないから」と言われ、幕府の切支丹禁令など意に帰さずに、いろいろと好意を示され、宿舎まで用意されたと言います。

 アンジェリス師は10日ほど滞在した後に出羽に帰りました。翌年、アンジェリス師は再び蝦夷地に渡ろうとしましたが果たせず、後輩のディオゴ・カリワーリュ師を1620年に蝦夷地に派遣しました。翌年には再びアンジェリス師が、またその翌年にはカリワーリュ師が二回目の蝦夷地への渡航を果たしています。そして、両師は1623年、24年にそれぞれ江戸、仙台にて殉教しています。

 本州においては切支丹弾圧が日増しに厳しくなって行くのに対して、松前の領内においては何の弾圧もなかったようです。しかし、1637年に起こった島原の乱で、幕府は一掃禁令を強化するようになり、当時の松前領主松前公広に対し将軍家光は、切支丹の厳重取締りを命じました。このことにより公博が帰郷して後、切支丹の調査が行なわれ、千軒岳金山と大沢金山に多数のキリシタン信徒のいることがわかり、また、城下や家臣にも切支丹がいることが解かりました。松前は幕府の厳命ゆえに重い腰を上げ、金山で働いている切支丹の処刑を決意しました。これが「千軒岳106名殉教」と呼ばれるものです。そして、これより後、歴史の記録によれば、蝦夷地には隠れキリシタンのような形態にしても、切支丹は残らなかったと言われています。

 江戸期にはローマ・カトリック教会のほかにも、キリスト教のアプローチはなかったのでしょうか。ロシア正教側の文献によると、1600年代には、数件の海難事故によりロシア領に漂着した漂流者の記録があります。日本は鎖国中であったことからも、再び日本の土を踏むことはなく、ロシアに帰化した漂流者のほとんどがロシア正教の信仰に入ったことが知られています。

 1708年にロシアのピョートル大帝はカムチャッカの領有を宣言し、さらに千島への南下政策を進めました。それに伴いロシア正教も南下を開始しました。カムチャッカにも主教座が置かれ、シベリア最初の正教伝道者であるインノケンティ主教がその任にあたりました。そして、北千島には宣教師が送り込まれ、1734年にはパラムシル島で洗礼が施され、1745年には北千島アイヌの信者は174人に上ったと記録されています。1747年には宣教師イエロモナハ・イオサフ師がロパトカ岬で7人、シュムシュ島で8人に洗礼を授け、翌年にはパラムシル島に移り、その翌年まで滞在し、ロシア正教の信徒は両島で208人になったと記録されています。

 その後に国や教会から幾人かの人間が派遣されましたが、質の低い者が派遣されていたようです。それにも関わらず、1756年にはシュムシュ島に礼拝堂が建設され、教会と学校を兼ねて使われました。しかし、南千島は日本のものでしたので、幕府の鎖国令や切支丹禁令のアイヌへの適用などにより、南千島以南には正教が広まることはありませんでした。これ以降の蝦夷地のキリスト教史は、函館開港を待たなければなりませんでした。蝦夷・北海道のキリスト教史からすれば、この江戸期は夜明け前の出来事と言えるでしょう。

つづく

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北海道キリスト教史 その2
2011/5/21(土) 午後 0:05
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/4129589.html

 1853年にペリーが来航し通商条約を求めてきました。そして、1855年、箱館(後に函館と改称)が世界に対して開かれました。1858年にはロシアが函館に総領事館を設置し、領事イオシフ・アントノヴィチ・ゴシケヴィチを着任させました。また、ロシア政府では、大使館、公使館、領事館を外国に置く時に、司祭を派遣して館員のために教会の聖規則を行なわせる規定がありました。その規定により領事館付き司祭として長司祭イオアン・ワシリエヴィチ・マアホフ師が領事と共に着任しました。マアホフ師は、わが国では初の露日用語辞典とも言える『ろしやのいろは』と題する小冊子を刊行しました。また、1859年には長司祭ワシリイ・エメリヤノヴィチ・マアホフ師(イオアン・マアホフ師はワシリイ師の女婿)が主任司祭として着任しました。師は1860年に病気のために帰国されました。ワシリイ・マアホフ師の着任と同じ年の11月には、ローマ・カトリック教会のパリ外国宣教会の司祭メルメ・デ・カッション師が函館に来られ、英国領事でフランス領時を兼ねていたホジソン氏の元に寄寓しました。1861年7月には、在日ロシア領事館(函館)に主任司祭として、修道司祭のニコライ師が着任されました。

 ニコライ師は函館に着任後ただちに日本語の学習をされ、特に儒学者木村謙斎、次いで新島七五三太(にいじましめた。後の同志社と日本組合基督教会の創立者新島襄)らから日本語、日本史、儒教、仏教の手ほどきを受けました。後年、『古事記』、『日本書紀』、『日本外史』、『法華経』などを読破し、それを神学校で講義するまでになったことが知られています。

 1863年、カトリック教会のメルメ師は、一人にも洗礼を授けることなく函館を離れました。1864年7月には、新島襄が函館よりアメリカへ向けて密出国しました。この新島襄の密出国の少し前になりますが、ニコライ師の元にもと土佐藩士で、坂本龍馬の従兄弟にあたる、函館神社の宮司となっていた沢辺琢磨が押しかけてきました。彼は1857年に事件を起こし、武市半平太、坂本龍馬、大石弥太郎の助けを受けて江戸から姿を消し、函館に現れ、函館神社の宮司の沢辺と言う人の婿養子となっていました。琢磨は熱心な尊皇攘夷論者で、函館が外国に開かれ、外国人が往来するのを快く思っていませんでした。彼は当時函館ロシア領事館員の中に、剣道を習いたいという者がいたので、その師として領事館に出入りするようになっていました。この時ニコライ師の元に通う新島襄と知り合いになり親しくなりました。沢辺はニコライ師を見かけ、もともと外国人を夷敵として嫌っていた彼は、このニコライこそ日本を毒する根源であるとし、論争を持ちかけ、その答弁如何によっては切り捨てるつもりで師のもとに赴いたのです。明治40年にニコライ師が語られた沢辺とのやり取りを『日本正教史』から見てみましょう。

 『沢辺はある日突然ニコライを訪れ、その室に入るといきなり怒号して、論争になった。
(沢辺)なんじら異国人はわれらの国をうかがいにきている。なんじらの宗教は、その道具である。
(ニコライ)あなたはわたしどもの宗教の何であるかを知っておりますか。
(沢辺)それは知らない。けれども余の考えていることは、広く一般の意見である。
(ニコライ)わたしどもの宗教を知らないで、どうしてさように言わるるか。これは道理にあっておりますか。
(沢辺)しからば、なんじらの宗教は何であるか、それを話せ。
(ニコライ)ではお聞きなさい。
 そこで、ニコライは唯一の神、世界の造物主のことを説明しはじめた。すると話がすすむにしたがって、客の顔はしだいにやわらいで、聞きながら腰から墨汁を取り出し、たもとから紙を出して、ニコライの言うところを記しはじめた。さらに客は、
(沢辺)これはわたしが考えていたこととは違う、今後もまたわたしに教えのことを話してください。
(ニコライ)いつでもおいでください。話してあげましょう。
 それからのち、彼はたびたびニコライを訪れ、まもなく熱心な信徒となったと、ニコライは言っている。』

 1867年10月には第十五代征夷大将軍、内大臣徳川慶喜公、大政を奉還し、将軍職の辞退を朝廷に奏上しました。12月には明治天皇により王政復古の大号令が発布されました。同じ年、パリ宣教会士ピエール・ムニクウ師、アンリ・アンブルステ師が函館に来着しました。

 沢辺琢磨はニコライ師に師事してから、函館の医師酒井篤札や南部人の浦野大蔵や、函館の人鈴木富治を信仰に導き、1868年(明治元年)四月に沢辺(洗礼名パウェル)、酒井(洗礼名イオアン)、浦野(洗礼名ヤコフ)の三名はニコライ師のもとで洗礼を受けました。これは日本での正教会の最初の洗礼となりました。

 同じ年にカトリックのムニクウ師、アンブルステ師と懇意となり教義を両師から学んでいた行商人の善兵衛(洗礼名ヨゼフ)は、聖土曜日に洗礼を受けました。カトリックとしては北海道における洗礼の初穂となりました。ローマ・カトリック教会と正教会が、同じ年に洗礼の初穂を得たのは面白い偶然といえるでしょう。

 この年の11月、榎本武揚ら旧幕府軍が函館を占領し、12月には全蝦夷平定を通告し、わが国で初めてで唯一回の共和制が敷かれました。しかし、71年には旧幕府軍は降伏し、共和制は夢と消えました。明治政府は開拓史を設置し、蝦夷地を北海道と改め札幌に本府を建設をしました。

 1869年のはじめ、ニコライ師は日本伝道会社を設立するために、一時ロシアに帰国されました。そして1871年2月にニコライ師はロシアで掌院に昇叙され、日本伝道会社社長(まだ切支丹禁制下にあったので会社組織となっている)として再び函館に帰ってこられました。10月、正教会で小野荘五郎ら11名が授洗しました。彼らのほとんどが伝教者となり、日本正教会の礎となりました。12月にはロシアから、日本の伝道を補佐するために修道司祭アナトリイ師が函館に到着されました。もうこの当時は、維新の改革も進み、文化の中心が首都東京に移っていたことをうけ、1872年の1月にニコライ師はアナトリイ師に函館における伝道事業を任せて上京されました。

 1873年に明治新政府は幕府時代の切支丹禁制の高札を撤去しました。しかし、キリスト教が認められたわけではなく、ハリストス正教会などは教勢が著しく大きくなったことをうけ、新政府から迫害を受けることもありました。

 1874年1月、アメリカ・メソジスト監督教会の宣教師メリマン・C・ハリス師夫妻が函館に到着しました。同年5月には英国聖公会の海外伝道協会から、ウォルター・デニング師が派遣されてきました。両師が北海道でのプロテスタント宣教師の最初となりました。同年8月には中里方親、相沢良恂がハリス師より洗礼を受け、本道におけるプロテスタント受洗者のはじめとなりました。

おわり。

ヨセフスのキリスト証言から

Yahoo!ブログから転載(12月ブログサービス終了に付き引っ越し)

ヨセフスのキリスト証言から
2015/2/5(木) 午後 4:44
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/13753258.html

 聖書を読み進むに当たって、その時代についての聖書外史料というものを読むことによってさらによく聖書が理解できるということがあります。今日、アメリカの福音派や聖霊派などの聖書の十全霊感説に立つファンダメンタリストなどは、聖書のみだけで事足りるとばかりの態度であったりして、その聖書解釈などに、歴史的に見ておかしな主張があったりします。しかし、聖書は十全霊感などではないとして、ちゃんと歴史資料などを見て行くとき新たな聖書、リアルな生身の人間が見えてくると思います。

資料① Athanasius記名入り

 今回はそんな中でも有名なフラウィウス・ヨセフスの「ユダヤ古代誌」のキリスト証言を見てみましょう。

 まずは「ユダヤ古代誌 ⑥ 新約時代編[ⅩⅧ][ⅩⅨ][ⅩⅩ]」(フラウィウス・ヨセフス著 秦剛平訳 ちくま学芸文庫 pp.34-35)からキリスト証言を引用します。

“さてこのころ、イエスス(イエス)という賢人―実際に、彼を人と呼ぶことが許されるならば―が現れた( 六三-六四の、ナザレのイエスに関する記事は、ヨセフスの「キリスト証言」(Testimonium Flavianum)として有名。ある学者はこの記事の真実性を認め、ある学者は否定する。またある学者はこの記事の一部に、後代のキリスト教徒による加筆ないし削除があると主張する。一六世紀以降論争はいまだつづいている)。彼は奇跡を行う者であり、また、喜んで真理を受け入れる人たちの教師でもあった。そして、多くのユダヤ人と少なからざるギリシア人とを帰依させた。彼こそはクリストス(キリスト)だったのである。ピラトスは、彼がわれわれの指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは、彼を見捨てようとはしなかった。すると彼は三日目に復活して、彼らの中にその姿を見せた。すでに神の預言者たちは、これらのことや、さらに、彼に関するその他無数の感嘆すべき事柄を語っていたが、それが実現したのである。なお、彼の名にちなんでクリスティアノイ(キリスト教徒)と呼ばれる族は、その後現在にいたるまで、連綿として残っている。”

 このちくま学芸文庫版では、それ以前に出ていました山本書店版のようなテクストの詳細な注が無いため、本文だけを読んでもどこが“六三-六四の、ナザレのイエスに関する記事は、ヨセフスの「キリスト証言」(Testimonium Flavianum)として有名。ある学者はこの記事の真実性を認め、ある学者は否定する。またある学者はこの記事の一部に、後代のキリスト教徒による加筆ないし削除があると主張する。一六世紀以降論争はいまだつづいている”という箇所なのか分からないという難点があります。6巻の巻末に載せられた「訳者解説」において(pp.346-350)論争についての解説がありますが、テクストについてはやはり山本書店版を見てみないと分かりません。続いてまずはギリシャ語の「ユダヤ古代誌」本文と山本書店版のテクストの訳と注を引用します。

[63]
Γίνεται δὲ κατὰ τοῦτον τὸν χρόνον Ἰησοῦς σοφὸς ἀνήρ, εἴγε ἄνδρα αὐτὸν λέγειν χρή: ἦν γὰρ παραδόξων ἔργων ποιητής, διδάσκαλος ἀνθρώπων τῶν ἡδονῇ τἀληθῆ δεχομένων, καὶ πολλοὺς μὲν Ἰουδαίους, πολλοὺς δὲ καὶ τοῦ Ἑλληνικοῦ ἐπηγάγετο: ὁ χριστὸς οὗτος ἦν.

[64]
καὶ αὐτὸν ἐνδείξει τῶν πρώτων ἀνδρῶν παρ' ἡμῖν σταυρῷ ἐπιτετιμηκότος Πιλάτου οὐκ ἐπαύσαντο οἱ τὸ πρῶτον ἀγαπήσαντες: ἐφάνη γὰρ αὐτοῖς τρίτην ἔχων ἡμέραν πάλιν ζῶν τῶν θείων προφητῶν ταῦτά τε καὶ ἄλλα μυρία περὶ αὐτοῦ θαυμάσια εἰρηκότων. εἰς ἔτι τε νῦν τῶν Χριστιανῶν ἀπὸ τοῦδε ὠνομασμένον οὐκ ἐπέλιπε τὸ φῦλον.


ユダや古代誌ⅩⅧ-ⅩⅨ フラウィウス・ヨセフス著 秦剛平訳 山本書店 pp.43-46

“ イェースース・クリストスの生と死と復活
〔六三〕
(3) さて⒝このころ⒞、イエースースという賢人⒟―実際に、彼を人と呼ぶことが許されるならば⒠、


(b) 〔六三〕-〔六四〕の、ナザレのイエスに関する記事は、ヨセフスの「キリスト証言」(Testimonium Flavianum)として有名(拙訳『アピオーンへの反論』七-九、三四-三六頁参照)。ある学者はこの記事の真実性を認め、ある学者は否定する。またある学者はこの記事の一部に、後代のキリスト教徒による加筆ないし削除があると主張する。一六世紀以降論争はいまだつづいている。

(c) <このころ>(κατὰ τοῦτον τὸν χρόνον )。この記事につづくものとして〔六五〕以下に、ローマのイシス神殿におけるスキャンダルの記事がおかれている。その冒頭は<同じくそのころ>(καὶ ὑπὸ τοὺς αὐτοὺς χρόνους)ではじまるが、タキトゥス『年代記』二・八五その他によれば、この事件の発生は一九年である。訳者には<このころ>がいつを指しているか不明であるが、ヨセフスが前後の記事との年代記的な整合性を考えず、記事を挿入することがあることを指摘しておきたい。

(d) <賢人>(σοφὸς ἀνήρ)。ヨセフスによるこの用例は、本書Ⅷ〔五三〕、Ⅹ〔二三七〕参照。

(e) <実際に、彼を人と呼ぶことが許されるならば>(εἴγε ἄνδρα αὐτὸν λέγειν χρή)。この一節は後代のキリスト教徒による加筆であろう。加筆者がイエスの神性を前提としていることは明白である。

―があらわれた。彼は奇跡を行う者であり⒜、また、喜んで真理をうけいれる人たち⒝の教師でもあった。そして、多くのユダヤ人と少なからざるギリシア人とを帰依させた⒞。彼〔こそ〕はクリストスだったのである⒟。
〔六四〕
 ピラトスは、彼がわれわれの指導者たち⒠によって告発されると、十字架の判決を下したが、最初に〔彼を〕愛するようになった者たちは、彼を見すてようとはしなかった。〔すると〕彼は三日目に復活して、彼らの中にその姿を見せた。すでに神の予言者たちは、これらのことや、さらに、彼に関するその他無数の驚嘆すべき事柄を語っていたが、それが実現したのである⒡。なお彼の名


(a) <奇跡を行う者であり>(ἦν ・・・ παραδόξων ἔργων ποιητής)。παράδοξα ἔργα (>παραδόξων ἔργων) に「奇蹟」という訳語を与えることは問題があるかもしれない。この語句がヨセフスのものであれば、本書Ⅸ〔一八二〕、ⅩⅡ〔六三〕の用例からして、それは「尋常でない仕事」位の意味で、全体を「尋常でない仕事をする職人であり」と訳するのが適当であろう。そもそもヨセフスは、奇蹟を行ったりして民心を惑わす輩を極度に警戒する。

(b) <喜んで真理をうけいれる人たち>(τῶν ἡδονῇ τἀληθῆ δεχομένων)。ヨセフスによる ἡδονῇ δέχεσθαι (>ἡδονῇ ・・・ δεχομένων)の用例は、本書ⅩⅦ〔三二九〕、ⅩⅧ〔六〕、〔五九〕、〔七〇〕、〔二三六〕、〔三三三〕、ⅩⅨ〔一二七〕、〔一八五〕
等で見られるが、通常 ἡδονή は、「感覚的な喜び、満足」(ラテン語の voluptas) を意味し、「精神的な喜び、満足」を意味しない。したがって τῶν ἡδονῇ τἀληθῆ δεχομένωνは不自然な表現である。なお訳者には、この場合ヨセフスならば τῶνἁσμένως τἀληθῆ δεχομένων と書いたであろうと思われる(ἁσμένως δέχεσθαι の用例は、本書Ⅳ〔一三一〕、Ⅷ〔三〇五〕、ⅩⅡ〔一八八〕、二〇九)、ⅩⅧ〔一〇一〕、ⅩⅩ〔二三〕、『戦記』Ⅰ〔一〇五〕参照)。
 <真理>(τἀληθῆ)。一八世紀のN・フォルスター以降、多くの学者は、本来、大文字写本では ΤΑΑΘΗ (尋常ならざること)と書かれてあったが、それがキリスト教徒によって ΤΑΛΣΘΗ (真理)と改竄、または誤写されたとする。<尋常ならざること>(τὰ ἀηθῆ>τἀληθῆ)ならば、τῶν ἡδονῃ τἀήθη δεχομένων は自然な表現である。

(c) <多くのユダヤ人と少なからざるギリシア人とを帰依させた>(καὶ πολλοὺς μὲν Ἰουδαίους, πολλοὺς δὲ καὶ τοῦ Ἑλληνικοῦ ἐπηγάγετο)。

(d) <彼〔こそ〕はクリストスだったのである>(ὁ χριστὸς οὗτος ἦν)。この一節は、後代のキリスト教徒による加筆である。ユダヤ教徒であるヨセフスがこの一節を書くとしたら、リチャーズとシュットが推定したようにまず<彼はクリストスと呼ばれた者だった>(ὁ χριστὸς λεγόμενος οὗτος ἦν または ὁ λεγόμενος χριστὸς οὗτος ἦν)と書き、ついで『ユダヤ古代誌』の読者である異邦人のために「クリストス(救世主)」について説明を行ったであろう。なおここで、ヨセフスが当時のメシアを待望する民衆の運動にきわめて批判的であったことは覚えておく必要がある。

(e) <われわれの指導者たち>(τῶν πρώτων ἀνδρῶν παρ' ἡμῖν)。この語句がヨセフスのものかどうかは判定しがたい。しかし、παρ' ἡμῖνが ἀνδρῶνの前におかれ τῶν πρώτων παρ' ἡμῖν ἀνδρῶν と書かれていたら、それはヨセフス的と言える。(この種の用例は、本書Ⅳ〔一〇四〕、Ⅷ〔三〇一〕、〔三七六〕、ⅩⅩ〔四七〕、〔二六六〕参照)。なお、この「キリスト証言」が引用されているエウセビオス『福音の論証』では ῶ παρ' ἡμῖν ἀρχόντων となっている。これはヨセフス的である。

(f) <ピラトスは、・・・それが実現したのである>(καὶ αὐτὸν ἐνδείξει τῶν πρώτων ἀνδρῶν παρ' ἡμῖν σταυρῷ ἐπιτετιμηκότος Πιλάτου οὐκ ἐπαύσαντο οἱ τὸ πρῶτον ἀγαπήσαντες: ἐφάνη γὰρ αὐτοῖς τρίτην ἔχων ἡμέραν πάλιν ζῶν τῶν θείων προφητῶν ταῦτά τε καὶ ἄλλα μυρία περὶ αὐτοῦ θαυμάσια εἰρηκότων) この二節がヨセフスのものかどうか判定しがたい。ヨセフス自身、パリサイ人として復活を信じていたとしても、この種の話を読者に伝えるためには、それが荒唐無稽な話として一笑に付されないよう、文章上に慎重な配慮を行ったであろうと思われる。たとえば、第二節は、<噂によれば>(λέγεται ὅτι)あるいは<人びとの語るところによれば>(ὡς λέγουσιν)<世間には・・・と言っている人たちがいるが>(καίτοι γὲ φασίν τινες ・・・)という導入句ではじめ、<この話の真偽のほどについては、読者各自の判断にゆだねよう>(περὶ μὲν τού ὡς ἂν ἑκάστοις ᾖ φίλον, οὕτω σκοπείτωσαν)でもってしめくくることが考えられるが、ここでは、そのような配慮が―それが内容を弱めるものとして、後代のキリスト教徒に削除された可能性は残るが―全く見られないことに留意する必要はある(聖書中の信じがたい物語を語るさいのヨセフスの文章上の配慮については、拙訳『ユダヤ古代誌』Ⅶ-Ⅷ、「プロレゴメナ」五〇-五一頁参照)。

にちなんでクリスティアノイと呼ばれる族[フロン]は⒜、その後現在にいたるまで、連綿として残っている。


(a) <クリスティアノイと呼ばれる族>(τῶν Χριστιανῶν ἀπὸ τοῦδε ὠνομασμένον ・・・τὸ φῦλον)。<族>(τὸ φῦλον)という語は一・二世紀のキリスト教側の文献には見られないことが指摘されている。”

 このテクストの注から、問題のない箇所と別訳などを抜き出して見ますと、
“さてこのころ、イエースースという賢人があらわれた。彼は尋常でない仕事をする職人であり、また、喜んで尋常ならざることをうけいれる人たちの教師でもあった。そして、多くのユダヤ人と少なからざるギリシア人とを帰依させた。なお彼の名にちなんでクリスティアノイと呼ばれる族[フロン]は、その後現在にいたるまで、連綿として残っている。”
となります。程よくキリスト教徒と距離が取れていて、ちょっとさめた目でクリスティアノイという族(フュロン)を見ているように感じられます。

 今日、わたし達が手かざしや霊言などの新興宗教に心酔する信徒達を眺めるようなさめた目で見て、こういう人たちについて何かを書いたかのような感じに近いように思えます。

 そして、ヨセフスの伝える初期クリスティアノイたちは、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」にてキリスト教進展の五大要因とよく一致すると感じられます。

 “ 惟〔おも〕うに、クリスト教を最も有効に、幇助し、愛護したものは、左の五原因であったようである。‥‥ 
一、クリスト教を不撓不屈な、そして(もしこういう言葉が用いられるとすれば)非妥協的な熱心。これは實を云えば、ユダヤ教から引き出したところのものであるが、しかしモーセの律法を尊奉することを異邦人に勸誘するよりもむしろ阻止したところの偏狭な非社会的なユダヤ精神からは蝉脱していた。
二、未來生活の教理、ただしこの不滅の眞理に重味と効力とを興え得べきあらゆる附加條件によって洗練されたもの。
三、初代教會の所有したという奇蹟の力。
四、クリスト教徒の純眞嚴格な道徳觀。
五、ローマ帝國のまんなかで漸次獨立不覇の状態を建設しつつあったクリスト教徒社會の統一と紀律。”(岩波文庫版)

 福音書から最期の十字架と復活を除けば、その多くがイエスの奇蹟物語であることから、イエスを尋常でない仕事をする職人であり、信者たちはそれを受け入れた人たちとの見方は、よく一致しているといえます。そして、その霊異をもって教会は広まっていったのでしょう。


プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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