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洗礼者ヨハネ、神の愛の「福音」に帰ろう

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洗礼者ヨハネ
2012/2/2(木) 午後 1:45
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/8382197.html

サバクトビバッタ
(Wikipediaより、パブリックドメイン画像)

 この前YouTubeで動画をいろいろと見ていましたら「イエス・キリストの謎に迫る」というナショナル・ジオグラフィックからの動画がありました。

http://www.youtube.com/watch?v=uw1G4rBq7g0&feature=related

この中で洗礼者ヨハネが出てきて、生きた蝗を捕まえて食べる場面がありました。福音書の中にヨハネがイナゴと野蜜を食べ物としていたことは、誰でもが知っていることですし、レビ記11:22に食物規定(カシュルート)として4種の昆虫を食べてもよいことが記されていることも知られたことです。

 しかし、どのように食べていたかはあまり触れられてこなかったように思われます。手元にある本にはそのことについて書かれているものはキリスト教サイドの本にはありませんでしたが、ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)の『聖書に対する洞察』の本には『…サバクトビバッタはその75%がたんぱく質でした。今日では食用にする際、頭、脚、羽、腹の部分が取り除かれます。残った部分つまり胸部は、調理するか生のままで食されます。』(242頁)との記述がありました。ものみの塔の本ですからどこまで信用できるかは難しいところですが、特に教義に関わるところでもないので、この記述に関しては信用してもよいかもしれません。

 調理して何かに混ざっていたり、せめて素揚げならあれですが、生でそのままいただくというのは抵抗がありますね。その点日本のイナゴの佃煮はまだましかもしれませんね。

 さて、レビ記11章22節を文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳第2版・第3版、フランシスコ会訳(11年合本版)、岩波訳、七十人訳の秦剛平訳、新世界訳の訳語を比べてみると、見事なくらいバラバラでした。以下にそれぞれを記します。

 アルバ(’arbeh) LXX(βρουχον)
文語訳:蝗蟲【いなむし】の類
口語訳:移住いなごの類
新共同:いなごの類
新改訳:いなごの類
フラン:蝗【いなご】の類
岩波訳:トノサマバッタの類
秦剛平:蝗【いなご】と同類のもの
新世界:移住いなご

 ザールアーム(sol’am) LXX(αττακην)
文語訳:大蝗【おほいなご】の類
口語訳:遍歴いなごの類
新共同:羽ながいなごの類
新改訳:毛のないいなごの類
フラン:ソルアムの類
岩波訳:ヒシバッタの類
秦剛平:羽長蝗と同類のもの
新世界:食用いなごの類

 ハルゴール(chargol) LXX(ακριδα)
文語訳:小蝗【こいなご】の類
口語訳:大いなごの類
新共同:大いなごの類
新改訳:こおろぎの類
フラン:ハルゴルの類
岩波訳:こおろぎの類
秦剛平:バッタと同類のもの
新世界:こおろぎの類

 ハーガーブ(chagab) LXX(οφιομαχην)
文語訳:螇蚸【はたはた】の類
口語訳:小いなごの類
新共同:小いなごの類
新改訳:ばったの類
フラン:ハガブの類
岩波訳:羽長蝗の類
秦剛平:姫蜂と同類のもの
新世界:ばったの類


 ウィキペディアなんかを見ると、イナゴ(Catantopidae科)は大群となって蝗害を起こすことはなく、アルバ(出エジプト記10章でアルバは蝗害を起こしている。)はバッタ科のバッタであり、サバクトビバッタであるとの見解が書かれていました。そうすると大群となって蝗害をおこすトノサマバッタと訳した岩波訳は妥当な訳と言えるのでしょうね。また、これらザールアーム、ハルゴール、ハーガーブは実際はよくわかっていないものですから、フランシスコ会訳のようにそのまま音訳とするのもいいのかもしれません。

 しかし、虫嫌いとしては、生でバッタを食べるというのはぞぞ毛がたちますね。


*****

神の愛の「福音」に帰ろう
2013/10/8(火) 午後 2:08
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12133686.html

 映画「塩狩峠」の一場面に、俳優の滝田裕介さん演じるキリスト教の伝道者伊木一馬が辻にて、朝から暗くなっても道行く人々に伝道する路傍伝道の姿とそれを聞いている主人公の場面が出てきます。

「塩狩峠」より

「塩狩峠」より 2

 この場面で、伝道者は次のように道行く人々に語りかけています。

皆さん、本当の愛とはどんなものか、皆さんには分かりますか。
皆さん、愛とは自分の最も大事なものを人にやってしまうことです。
最も大事なものとは何でありますか。
それはいのちであります。
愛とは、自分のもっとも大事なものを人にやってしまうことではないでしょうか。
最も大事なものは何でありますか。
いのちであります。

十字架に掛かりたる  救い主を見よや
是(こ)は  汝(なが)犯したる  罪の為
唯(ただ)信ぜよ 唯(ただ)信ぜよ
信ずる者は誰(たれ)も 皆救われん

皆さん、しかし、私はたった一人、世にも馬鹿な男を知っています。
その男とは、イエス・キリストであります。
イエス・キリストは何一つ悪いことをなさらなかった。
そのイエス・キリストが十字架に掛けられたのであります。
自分の命を犠牲として、我々に与えてくださったのであります。
彼は自分は悪くないと言って、逃げることができたはずであります。
しかし、彼はそれをしなく、悪くない者が悪い者の罪を背負い、
悪い者が悪くないと言って逃げ、
ここにはっきりと神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。
しかも皆さん、十字架につけられた時
イエス・キリストはその十字架の上で己を十字架につけた者のために、キリストはこう祈ったのであります。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」
聞きましたか皆さん、今、自分を刺し殺す者のために
何をしているのか自分でわからない彼らを
お赦しくださいと祈ることのできるこの方こそ
人の姿を取られた神の子そのものであることを、私は信じるのであります。
私はこの人となった神、イエス・キリストの愛を知っていただく為に、東京からここへやってまいりました。十日間というもの、町々で叫び続けてきましたが、誰も耳を傾けませんでした。
しかし、聖書はこのように約束しています。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」
今でも心を開いて、我々の罪の為に、十字架の上に死んで三日目によみがえられた活ける神の子イエス・キリストを受け入れるなら、
あなたは救われて、新しい命を歩むことができるのです。
天にまします…

 今日、このような辻説法というか路傍伝道はトンとお目にかかりません。私のすでに亡くなった両親から、両親が子供の頃、まだ戦争が始まるずっと前のことですが、「耶蘇が赤い縁取りの聖書をもって、道端で信ずる者は救われると歌いながら布教していた。話しを聞くと赤い縁取りの聖書をもらえた。」と聞いたことがあります。聖書も今では、小口が赤いものは日本語訳では見かけなくなりました。絶版となったラゲ訳の当用漢字版が、新刊で小口が赤いものの最後のような気がします。

 この映画の伝道者の言葉は、「福音」であります。では今街中にあるキリスト教看板やそれを貼り付けている団体による街宣伝道、また、一部の福音派や聖霊派の行なっている街頭での伝道や配布されているチラシなどのメッセージは、「福音」でしょうか。

 1903年に三谷種吉によって作詞され、日本福音連盟の「聖歌」に収められている聖歌424番「ただ信ぜよ」(「十字架にかかりたる」)の歌詞は、この素朴な「福音」のメッセージをよく表しています。また、路傍伝道にて広く歌われたため、キリスト教徒でない人でもキリスト教とは、キリストを「信ずる者は救われん」であることが知られています。

 キリスト教看板も断罪のメッセージではなく、本当の神の愛の「福音」、良い便りを知らせてもらいたいものです。この「福音」を伝えているのかで、偽物のキリスト教が第一の篩にかけられ見分けられます。エホバの証人(ものみの塔協会)の布教などは戸別訪問伝道を行っていることもあり、その伝道に遭ってしまう可能性の高いものですが、しかし、彼らのメッセージは先ほどの映画のものですが、そのような内容と比べてどうでしょうか。彼らの喜ばしいたよりとは、世の終わりの大患難やハルマゲドンを生き延び、最後の審判にて地上の楽園に生き残ることにしか過ぎません。また、ファンダメンタリストでディスペンセーションなんかを信じる人々も終末や携挙なんかの比率は高いですし、聖霊派などの神からの祝福と呪いなどの現世利益や奇跡追求型のメッセージも「福音」から大きく離れています。

 キリスト教はリベラル・エキュメニカル派、福音派・聖霊派問わず、神の愛の「福音」に帰ろう。ということにこころを砕いてもらいたいですね。これはわたし達の信仰の礎を、この国に築いた先達者たちの伝えた「福音」であります。もう一度この足元に目を向けて、神の愛の「福音」に帰るべきでしょう。

キリスト教番組

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キリスト教番組
2011/9/16(金) 午後 1:26
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/6503109.html

口語訳新約聖書JC240 記名

 1980年ごろは、北海道でも数多くのキリスト教番組を地上波のラジオやテレビで見聞きできました。

 AMラジオでは、月曜から土曜の早朝は、バプテスト連盟の「ジ・アンサー」(5分)、心のともしび運動の「太陽のほほえみ」(5分)、北海道マスコミ伝道センターの5分番組、セブンスデー・アドベンチスト教団の番組(平日のみ)、が聞けました。土曜日には北海道ルーテル・アワー・センターの「ルーテル・アワー」と深夜番組の「モンキートーク」がありました。日曜には北海道福音放送協会の「世の光」(15分)、北海道マスコミ放送センターの「心の扉」(15分)がありました。テレビでは土曜日に心のともし火運動の「こころのともしび」があり、日曜(?)深夜に「PTL主をほめよ」がありました。

 今では無くなってしまった番組もありますが、インターネットなどでいつでも聞ける環境になりました。しかし、ネットは地上波と違い偶然に聞くということがなくなってしまうので、どちらが良いのか難しいところですね。

 また、ラジオ放送やテレビ放送では、無料の聖書通信講座が利用できたり、放送プレゼントなどがあり楽しみがありました。

 当時貰った「新約聖書」は何度も読みかえして、手垢で黒くなり、表紙も破けてセロハンテープで止めたりしました。

 また、テレホンメッセージなども電話帳で探したり、ラジオ放送などの機関誌などの広告で知ったところなどにかけて聞いたりしました。今ではありえないアナログな方法で、いろいろと芋づる式に見つけたりしました。そういう古臭い方法も聖書のことをもっと知りたいとの思いもあり、全く苦になりませんでした。

 いまあるキリスト教の地上波が続いてもらいたいですね。全部がネットだと味気ない感じがします。

****「キリスト教番組」へのコメントとレス****

コメント(8)

幕屋も番組持ってたような気がします。
幕屋ってどうなんでしょうか。
小さい頃なぜか親戚に集会(近所の人が集まる小さいやつ)に連れて行かれて、最後はみんなトランス状態で泣きながら「天の↑お父様↑(←後半イントネーション上がる)」って叫んでいるのを見て非常なトラウマになり、それ以来(新興またはカルト的)宗教懐疑派の子どもに育ちました(;^^)
[ - ] 2011/9/16(金) 午後 7:09 返信する

*

神の幕屋(原始福音)は、キリスト教の多くの教会から異端とされています。

異端では珍しく、日本生まれの異端です。
キリスト教の重要教義(これは譲れないというもの)において、彼らは大きく見解が違います。エホバの証人やモルモン教会、統一協会のように大きくも無く、一般的には有名ではありませんが、間違いなく異端です。
2011/9/16(金) 午後 8:43 返信する

*

けっこう番組がありますね。
ジ・アンサーなんてなつかしい。
エホバの証人だったけど、ラジオ好きなので
母にも見逃してもらっていたかもしれません。
いま思えば、そこからもうキリストに導かれるなにかが
あったかもしれないですね。
[ 一匹狼のまーくん ] 2011/9/17(土) 午前 8:37 返信する

*

「すべてに時がある」ということですね。
主の御計画は計り知れませんね。
2011/9/17(土) 午前 8:54 返信する

*

中学生の時、何かの行事でクラスのスローガンを決めるとなった時、なぜか、「暗いと不平を言うよりも、進んで明かりをつけましょう」になりそうになったことがあります(笑)。 公立中学校ですが。
[ 南三条 ] 2011/9/17(土) 午後 10:22 返信する

*

笑いが取れたと言うことは、みんなが知っていたということですね。

放送伝道の目的の一部は果たされていますね。笑
2011/9/18(日) 午前 3:27 返信する

*

記事の内容とは離れますが、この表紙の新約聖書、私も持っています。
私の聖書もやはり表紙が千切れてしまいましたが、大切にしています。

ミッションスクールに合格した時、その高校の先輩でもある母の知人が「讃美歌」と一緒にくれたものです。
私にとって初めての聖書でした。
それを持って、まだ中学3年生だった私は、学校内にある教会に通い始めました。
公立の中学だったので、キリスト教に初めて触れた私は、ちょっと誇らしい気持ちになったものです。
でも、まさかその後クリスチャンになるなんて思ってもいませんでしたが・・・。
[ シャロン ] 2011/11/19(土) 午前 11:52 返信する

*

わたしは一番はじめに手にした聖書は、テレビ番組「PTL主をほめよ」でもらった新改訳第二版の新約聖書でしたね。

しかし、通読したのはその後にルーテル・アワーで貰った画像の新約聖書でした。

わたしもシャロンさんと同じで、その後キリスト者になるなんて思ってもいませんでしたね。笑
2011/11/19(土) 午後 1:17

***

2022年12月26日追記

 たまたまラジオの朝の宗教の時間はどうなっているのか気になり、番組のタイムスケジュールが放送局のHPで見れるので見てみた所、HBCラジオは土曜日朝の6:35~45まで北海道マスコミ伝道センター(ホレンコ)の「心の扉」と日曜日朝6:20~35の北海道福音放送協会(Ho-LY)の「世の光いきいきタイム」、STVラジオの月曜から土曜日の朝05:00から5分間カトリックの心のともしび運動YBU本部「心のともしび」の三つのキリスト教番組は現在も続いていました。番組表からはセブンスデー・アドベンチスト教団の番組は終わっているようです。

 しかし、朝の他の宗教の番組は、新興宗教団体二団体の番組、天理教の「天理教の時間」と浄土真宗親鸞会の「1万年堂出版の時間」が放送されています。

 伝統仏教の曹洞宗による「曹洞宗の時間」、浄土真宗西本願寺による「西本願寺の時間」、浄土真宗東本願寺による「東本願寺の時間」、浄土宗による「法然さまの時間」。新興宗教団体の念法眞教の「心のいこい」、金光教の「金光教の時間」、生長の家の「幸福への出発」、孝道教団による「仏法と孝道」、円応教の「円応教の時間」などは番組は終了していました。

 

信仰の勇者たち


 さて、たまに「お気に入り」に入れてあるサイトなんかを整理していたら、何年も前に万人救済についていろいろ検索していたときに見つけ、読んでみたらものすごく違和感と言うか、「こいつ自分で文献確認してないだろ」という記事があり、一応「お気に入り」にとっておいた記事「ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人」がありました。それをもう一度見直してみますと、やっぱり酷いなーと(笑)

 キリスト教を布教していたザビエルに、現地の人たちがキリストの教えを知らない祖先が永遠に救われず地獄で苦しめられることについてザビエルに対して質問をするわけですが、そのやり取りに対して

> ザビエルは困ってしまいまして、本国への手紙に次のように書きました。

>キリスト教の急所(?)を突くような人間はいなかったわけです。

>などと質問され答えに窮していたようです。

>「信じるものは救われる」=「信じない者は地獄行き」
といった、答えを個人の観念のみに帰結させてしまうキリスト教の欺瞞に、当時の日本人は本能的に気づき、ザビエルが答えに窮するような質問をぶつけたのではないでしょうか。

というキリスト教に対して否定的な方向への誘導することを書いていましたが、ザビエルの手紙読んでいないのがよくわかります。リンク貼ってある先のライブドアブログの記事を元に書いたのでしょう。リンク先はもう削除されて見れないので、元記事はこの記事の引用でしかわかりませんが、その元記事もちゃんとした引用でないことから、それもネットサーフィンしてどこからか拾ってきたのかもしれません。

 そういう記事を読んで利用しようと思うときは、自分でもそういう文献を確認してもらいたいと思いました。さてさて、それでは実際はどうであったのか、岩波文庫の「聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡抄」からちょっと長めではありますが見てみましょう。

聖フランシスコ・ザビエル書簡抄 記名


"書簡 第30 (EP.96)
        欧州の会友宛
        コチンにて、1552年1月29日
・・・

18 けれども、信者の数がこんなに増加することは、坊さんにとっては、全く面白くないことであって、特に自分の檀徒の中から信者になった者には、悪口雑言を浴せかけ、その時まで信頼した教を棄てて、何故神の掟に従ふのかと言つて戒めた。それに答へて、信者や要理の研究者達は、神の教が坊さんの宗旨よりも、遥かに理性の法則に適応してゐるが故に、この教に服するのだといふ。それもその筈で、私達は坊さんの質問に対して、皆の満足する解答を與へ得たに引き換え、坊さんは、その宗旨を、理性的に説明することができなかつたのだから。
 日本人はその宗旨の物語の中に、世界の創造を始め、太陽、月、星、天、海、地、その他凡ゆる事物の創造に関する知識が一つもない。日本人には、これ等の凡てには、元始がなかつたのだと思つてゐる。彼らが一番驚いたのは、霊魂にも創造主があるといふ教を聞くことであった。

19 彼らが一般に非常に驚いたのも無理はなかつた。それは彼等の聖人の本の中に、創造主の話などは、全然見当らぬので、万物の創造主などは、ある筈がないと思つてゐたからである。その上、万物に元始があつたとすれば、彼等に宗教を伝へたシナ人が、それに就いて、何も知らない筈が無かつたからである。日本人は、シナ人を師匠として仰いでゐる。これはあながち来世のことに関して許りではなく、政治上のことに関しても、シナ人を先輩だと思つてゐる。兎に角、万物を創造したこの原因について、即ち、その原因は善であるか、悪であるか、又、万物には、それが善い物にしろ悪い物にしろ、皆それらを造つたその原因は、一つであるか、等の沢山の質問があつた。私は、存在してゐる総てのものに、唯一つの原因があることと、また、それは善であつて、悪の陰すらないこととを答へる。

20 彼等は、悪であり人類の敵である悪魔の存在を信じるが故に、創造主のことを認められないと言つた。又、若し神が善なら、そんな悪い者を造る筈がないといふのである。それに対して私達は、神はそれ等を皆善いものとして造つたが、彼等が自分勝手に悪くなつたので、神は彼らを罰した。その罰は永劫に続くと答へた。すると彼等は、神はそれ程に残酷に罰する者であるなら、憐みのない者だ、しかも若し神が、私達の教の如く、人間を造つたことが本当なら、何故こんなに悪い悪魔がゐて、それが人間を誘惑することを許しておくのか。何となれば、私達の教によると、人間が創られたのは、神に奉仕し奉るためであるから。又、神が慈愛の者ならば、人間をこんなに弱く、且つ、罪の傾きを持つた者としては造らないで、悪い傾きのない者として造つた筈だ。又、この原因は、善い原因となることはできない。何故なら、地獄のやうなひどい所を造つたからであり、地獄へ堕ちた人間は、私達の教によると、永遠に其所に居らなければならないのだから、神には憐みが無いといふ。又神が善ならば、こんなに守りにくい十誡にどは、與へなかつた筈だといふ。

21 彼等の本には、地獄に堕ちた人でも、その宗旨の祖師を呼ぶと救はれると書いてあるから、神が地獄に居る人々の救霊をしないのは、頗る不愉快であり、自分らの宗旨は、神の掟よりも遥かに慈悲の教だと主張する。以上の大切な質問に対して、私達は、我等の主なる神の恩寵だけを以て、彼等の満足するほどに答へた。神の憐みの大いなることを示すためには、日本人は、私の見た他の如何なる異教国の国民よりも、理性の聲に従順の民族だ。非常に克己心が強く、議論に長じ、質問は際限がない位に知識欲に富んでゐて、私達の答えに満足すると、それを又他の人々に熱心に伝へて已まない。地球の丸いことは、彼等に識られてゐなかつた。その外、太陽の軌道に就いても知らなかつた。流星のこと、稲妻、雨、雪などに就いても質問が出た。
 かくて私達は、彼等の凡ての質問に十分の答を與へることができたので、彼等は大いに満足して、私達を学者だといふ。そのお陰で、私達の言葉が彼らに深い感銘を與へてゐる。
 日本人は彼らの宗旨の中で、どれが一番優れてゐるかといふことに就いて、絶え間なく議論することが好きである。しかし私達が来てからは、彼等は自分の教に就いての話を已め、神の教のみに就いて論じてゐる。こんな大きな町で、戸毎に神の信仰の話が交はされてゐることなどは、自分で直接見た者でない限り、とうてい信じることができない。又日本人が、どれ程多くの質問を以て、私達に迫って来るかといふことも、全く書き切れない。

22 九つの宗旨の中の一つは、人間の霊魂は動物のやうに滅亡すると説き、この宗旨を信じない人は、愚の骨頂だと考へてゐる。しかし、この宗旨の信者は、一般に悪い人々である。地獄があるといふ話などは、まるで受けつけない。二ヶ月の後に、山口の約五百人の人々が、洗礼を受けた。この時以来、神の恩寵のもとに改宗する者の数が、絶えず増加してきた。彼らは、坊さんとその宗旨の誤謬の話をよくする。若しこの話がなかつたら、私は日本の偶像教に就いて、何も識らなかつたであらう。新しい信者は、全く筆舌の及ばない深い愛を以て、私達に親しんでゐる。彼等は本当の信者であると私は信じて居る。

23 山口の信者は、その洗礼の前に、神の全善に就いての重大な疑問に襲はれた。それは、神は私達が来るまで、決して日本人に啓示をお與へにならなかつたから、全善ではないといふことであつた。又私達の教へてゐるやうに、神を礼拝しない者は、地獄へ堕ちるとすれば、神は祖先に対して無慈悲である。何となれば、神は教について何も識らない祖先が、地獄へ堕ちることを許したからである。

24 これは彼等が神に到る途上に於ける最も困難な障碍であつた。けれども、彼等を真理の認識に導き、このやうな胸臆の疑ひから彼等を解放することが、我等の主なる神の思召に叶つてゐた。私達は、いろいろの証明法を以て、神の掟が第一のものであり、あらゆる秩序の元始であることを、彼等に了解させることができた。日本人と雖も、シナからその宗旨が渡来してこない疾つくの以前から、人を殺したり、盗んだり、詐欺を働いたり、或はその他の神の十誡に背くやうなことは、凡て罪悪であることを識つてゐた筈だ。悪の印として、彼等の胸臆に於て、良心の責を感じてゐた筈だ。何故かと言へば、善を行ひ、悪を避けることは、人間の心に書き記された掟だからである。故に人間は、ただ全世界の創造主のことの外は、誰に教へられなくとも、おのづから神の掟を知つてゐるのである、と私達は彼らに説明した。

・・・

48 日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私達が教へること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救はれないことを、非常に悲しむのである。亡くなつた両親をはじめ、妻子や両親への愛の故に、彼等の悲しんでゐる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或は施與、或は祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだらうかとたづねる。私は助ける方法はないと答へるばかりである。

49 この悲嘆は、頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないやうに、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみの所へ堕ちないやうにと望んでゐるから、彼等の悲嘆については、別に悲しくは思わない。しかし、何故神は地獄の人を救ふことができないか、とか、何故いつまでも地獄にゐなければならないのか、といふやうな質問が出るので、私はそれに彼等の満足の行くまで答へる。彼等は、自分の祖先が救はれないことを知ると、泣くことを已めない。私がこんなに愛してゐる友人達が、手の施しやうのないことに就いて泣いてゐるのを見て、私も悲しくなつて来る。"

(「聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡抄」 岩波文庫 pp.106-111、119-120、岩波文庫は縦書きなので漢数字なのを一部アラビア数字に変えました。漢字は旧漢字を今のものに変えました。)



 地獄や悪の問題、祖先の救いに就いての個所を抜き出してみましたが、「ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人」という記事とは全く異なることがわかります。

 フランシスコ・ザビエルは "私達の答えに満足すると・・・かくて私達は、彼等の凡ての質問に十分の答を與へることができたので、彼等は大いに満足して、私達を学者だといふ。"、 "といふやうな質問が出るので、私はそれに彼等の満足の行くまで答へる。" というように、質問に対して真剣に向き合って、相手が納得するまで丁寧に答えて言ったことが窺えます。

 また、ザビエルがこれらのことに関して、決して信者獲得のためにと、妥協したり、曖昧にしたりせず、教会の教えを広げも狭くもしないで、受けたままをしっかりと伝えようとしていたことがわかります。

 ジョン・グレッサム・メイチェンという長老派の神学者は、著書「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」(聖書図書刊行会)において、サクラメントについてこのように語っています。

メイチェン 「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」 記名

"クリスチャンの交わりの範囲の中で存在し得るもう一つの見解の相違は、礼典の有効性の様式についての見解の相違である。その相違はまことに重大であって、その重要性を否定することは、この論争自体の中で誤った側に立つよりはるかに大きな誤りである。キリスト教界の分裂した状態は悪であるとよく言われる。実際にそうである。しかし、悪は分裂を来たらせる誤謬の存在にあるのであって、誤謬が存在するときに、その誤謬を認識することに存するのではない。ルターとスイス宗教改革者の間てもたれた「マーブルク会議」において、ルターが、主の晩餐に関して、テーブルの上に「これは私のからだである」と書き、そしてツヴィングリとエコランパディウスに向かって、「あなたがたは違った霊を持っている」と言ったのは非常に不幸なことであった。この見解の相違は、教会に、ルター派と改革派の分裂を生ぜしめた。そしてプロテスタントは、このために、これがなければ獲得したであろう多くの地歩を失うに至ったのである。それは非常に大きな不幸であった。しかしその不幸は、主の晩餐に関してルターが誤っていた(と私たちは信じる)という事実によるのである。しかし、彼が聖餐について誤っていながら、この問題をすべてつまらぬ問題だとして片付けてしまったならば、不幸はもっと大きかったであろう。ルターは聖餐に関して誤っていた。けれどもそれは、彼が誤っていながら、その論敵に向かって、「兄弟たちよ、この問題はつまらないことである。人が、主の食卓についてどう考えようと、実際には大した差はない」と言うよりも、はるかにましであった。このような無関心な態度は、あらゆる教派的分裂よりも、はるかに致命的であったろう。聖餐論で妥協するようなルターは、ウォルムスの国会で、「私はここに立つ。私は他に何もすることができない。神よ、私を助けたまえ。アーメン」とは決して言い得なかったであろう。教理についての無関心主義は、信仰の英雄をつくらないのである。"
(pp.72-73)

 これは聖餐についてですが、他の教理についても同様のことが言えるでしょう。

"この問題をすべてつまらぬ問題だとして片付けてしまったならば、不幸はもっと大きかったであろう。"

"無関心な態度は、あらゆる教派的分裂よりも、はるかに致命的であったろう。"

 まさしくザビエルも、このような問題はつまらぬことだといって妥協したりはしませんでした。彼もまた信仰の英雄らしく、真摯に向き合い、人情などから妥協したりはしませんでした。相手が理解し納得するまで、弛まず答えて言ったのでしょう。その結実が、この山口に於いて5600人もの受洗者を出したことからも窺えます。



「重荷」、「プロテスタントなのに「無名のクリスチャン」受け入れるの?」

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重荷
2012/7/27(金) 午前 4:28
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/9965531.html

 ビクトル・ユゴーの作品の中に「死刑囚最後の日」という作品があります。その中で主人公である死刑囚の発するひと言、『人はみな不定期の猶予つきで死刑に処せられている。』は、よく生者の現実を表しているといえるでしょう。

ビクトル・ユゴー 「死刑囚最後の日」

 五寸釘寅吉こと西川寅吉は、脱獄を繰り返した脱獄王ともいえる人物で、最初に犯した叔父のかたき討ちをしようとして起こした殺人未遂にはじまり、脱獄や脱獄した先で起こしたいろいろな犯罪行為などにより、とても長い刑期を持つことになりました。空知監獄に移送後は、良き看守に巡り合い、模範囚となり刑務所内を自由に移動できるほどとなったそうです。そして、71歳となった寅吉は、高齢を理由として仮出所が認められました。昭和の初めに彼は息子に引き取られ、87歳で静かに息を引き取ったそうです。その彼が残した言葉があります。

西に入る夕日の 影のある内に 罪の重荷を 降ろせ旅人
                 西川寅吉(五寸釘寅吉)雲外居士

西川寅吉(五寸釘寅吉)雲外居士

 私たちはだれしもがやってくる死を目前にしております。その時、自分の内にある人の世の法では裁かれ得ぬ罪の重荷をどのようにして降ろすことができるのでしょうか。

招き

 『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』と言われる方が、まさしく招いておられます。

そのことについてこう語られています。

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。

小さきもの


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プロテスタントなのに「無名のクリスチャン」受け入れるの?
2012/4/9(月) 午後 7:27
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/9082951.html

カール・ラーナー著「キリスト教とは何か」 記名

 カトリックの現在のカテキズムの中には、イエズス会の司祭カール・ラーナーの唱えたこの包括主義が影響を及ぼしています。それ自体はカトリックの神学上の問題ですから、どうということもないのですが、たまにプロテスタントの信徒の中でこの説を受け入れている人などをネットなどで見かけるようになりました。そういう人を見かけると、エ~っと思ってしまいます。

講演集 第二バチカン公会議と私たちの歩む道 記名

 『講演集 第二バチカン公会議と私たちの歩む道』(サンパウロ刊 1998年発行)の中で、カール・ラーナー氏から教えを受けたカトリックの司祭粕谷甲一神父の「第二バチカン公会議と今」の中で、この無名のクリスチャンという説について短く簡潔に書いておられました。以下に引用したいと思います。

『 匿名のクリスチャン また「匿名のキリスト者」という言葉があります。キリスト教のキの字も知らなくてもその人の生活態度、生活の原理がイエス・キリストの原理にかなっているならば、水の洗礼を受けなくても「望みの洗礼」によって、み言葉を受けている。「匿名のキリスト者」が存在するのです。
 ある中学三年生の少女の作文を読んだことがあります。

 「私が三歳の時、おばあちゃんの家の前で、お母さんがタクシーから私を降ろし、『しばらく待っていて』と言って、そのまま行ってしまいました。小学一年の時に、初めてお母さんから手紙をもらいました……もし、お母さんに新しい子供が出来たら私たちの分も含めて、その子を大切に育ててほしい。二度と同じ過ちを犯すようなことはしないよね」。

 この少女は、クリスチャンではありません。聖書を読んだことがないし教会に行ったこともない。でも、人間的には恨み骨髄に達しているはずのお母さんのことを心配しているのです。お母さんが再婚したら、もう二度と私たちのような苦しみを、生まれてくる子供に味あわせないでね、と訴えている。自分が受けた傷をバネにして、相手を思いやっている。それはキリストの愛ですね。人間の罪を自らに引き受け、すべてを捧げて下さったイエス・キリストの生き方を、この少女はしているわけです。だから、まさにこの少女は「匿名のクリスチャン」と言える、と思います。』

 カトリックには昔から「諸聖人の通功」という考え方があります。キリストを頭として一致しているすべての信徒(以前は当然カトリック教徒)の善業・苦行などのいさおしは、相互に援助し、罪を償い、祈り、恩恵を交換し合うことができるというもので、現在の使徒信経では「聖徒の交わり」と訳文自体は変更されたもののその教義は、今のカテキズムの中にも読めます( わたしはカトリックではないので断言はできませんが )。

福者ラウラ・ビクーニャ

 その通功は福者ラウラ・ビクーニャの母親の償いの代償に、母親が贖われたとする考えの中にも見られるように感じます。ラウラ・ビクーニャの生涯については福者 ラウラ・ビクーニャ(http://maytetherese.easter.ne.jp/chapel/Bl.Laura_Vicuna/lauracontents.htm)などが参考になるでしょう。

アンデスの天使 - 十二歳の福者 - 記名

 カトリックにはこのような考えもありますし、その中からこの「匿名のクリスチャン」という説が生まれたとしても、それはカトリックの神学上の問題と言えるでしょう。当然のことながらカトリックの中の保守層の中には、この説に反対の立場も人もいるようです。カトリック教会の司祭である故ポール・A・ウィッケンス神父は有名なところでしょう。神父の著書「否定されたキリスト」はフマネ・ヴィテ研究会を主催するカトリック司祭成相明人神父のホームページで自身の訳を載せておられます(http://hvri.gouketu.com/wickens.htm)。

Christ Denied

 粕谷甲一神父の講演文を読むと、プロテスタントの信仰義認の考えとは相容れなく、大きく隔だっていて、行為によって義とされ得る、人はその行為によってキリストなしに救いに至れるまた信仰なしにキリストのいさおしを獲得できるというもので、プロテスタントの信仰とは大きく隔だっているといえ、この考えを受け入れるプロテスタントの信徒は、愛や寛容などの表面的なものだけに目が行っているように感じられます。



「繋がること」、「狭さを誇れる」

Yahoo!ブログから引っ越し(12月ブログサービス終了に付き)

繋がること
2013/4/2(火) 午後 2:25
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11372814.html

 幼児洗礼については、洗礼による救いを教えるカトリック教会(第二バチカン公会議以降、救いの面では「無名のキリスト者」の考えが加わり、強調されることはなくなった)、英国国教会、ルーテル教会などの西方三教会にて、その根拠の一つとしている教理ですが(各教会において考えに差がある)、幼児洗礼を行なうリフォームドチャーチなどでも、洗礼による救いという教理については否定をしています。また、聖礼典を象徴とみなし、確実に信仰告白した者だけに洗礼を授ける教派などでは、洗礼による救いや幼児洗礼は否定され行なわれていません。今回は幼児洗礼についてではなく、幼児に及ぼす原罪による状態とキリストに繋がることの大切さについて簡単に見てみたいと思います。

 スウェーデンのルーテル国教会のC.O.ロセニウス牧師による著書「60日間日々の黙想」(石橋幸男訳・自費出版 原題“A FAITHFUR GUIDE TO PEACE WITH GOD”)から少し見てみたいと思います。

「60日間日々の黙想‐信仰の確かさへの道‐」 (カール・オルーフ・ロセニウス著 石橋幸雄訳) 記名


" 何故、幼な子らが神の国を受け入れる必要があるのか。何故ならば、彼らは罪深い両親から生まれ、従って罪のうちにはらまれたからである。<見よ、私は不義の中に生れました。私の母は罪のうちに私をみごもりました>(詩編五一・五)。だから、すべての幼な子は神の国の外で生まれたものであって、怒りの子である。彼らは神の子ではない。しかし、神の子でないものは誰一人神の国のものではない。神によって生まれたものでなければ誰一人神の国ではない。なぜなら、神の子は<血すじによらず、肉に欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたもの>(ヨハネ一・一三)だからである。
 幼な子がこの世に生まれたのは、堕罪後のアダムのようなものとしてである。というのは、アダムの子がその成長、発達の時期にアダムのようになったとは何処にも書いていない、<アダムは自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み>(創世記五・三)と書いてあるからである。アダムが罪に堕落した後で、彼の状態はどうだったのだろうか。彼は恐れて、<主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した>。アダムは神のみ前に自分を低くして、正直に自分の罪を告白しようとはしなかった。彼は自分の妻エバに自分の罪の責任を転嫁し、そして、彼女は蛇のせいにした(創世記三章)。
 アダムが堕落した罪人としての自分にかたどって息子を生んだという事実は神のみことばから明らかである。聖書は、わたしたちはみな罪のうちに、すなわち罪深い肉から生まれたことを示している。あらゆる経験も、神のかたちを回復されている信者の両親であっても罪のない子ではなく、罪の子しか生むことができないを豊富に証明している。罪はわたしたちが生まれたとき、わたしたちの本質の中に受肉していたのである。悪い木は悪い実を結んだ後に悪い木になるのではない。それはもともと悪い木だったのである。それは悪い根から生じたものだから悪いのだ。わたしたちは生まれながらにして罪深い。罪は、わたしたちが成人してからわたしたちに入りこんだものではない。わたしたちが罪の種から生まれたから、罪は魂もからだをも汚してしまっているのである。わたしたちがものを考え、話し、そして、悪いことをしはじめたときにわたしたちが罪人になったのではない。わたしたちは生まれながらの罪人である。わたしたちは罪を犯さざるを得ないのである。堕落したアダムが彼の魂に神のかたちの回復を必要としたと全く同様に、アダムのかたちにかたどって生まれたすべての幼な子は、その心に神のかたちを回復させる必要がある。汚れたものは決して神の国に入ることが許されないからである(ヨハネ黙示録二一・二七)。幼な子らだけが神の国を受け入れる準備ができている。
 二、幼な子らだけが神の国を受け入れる準備ができているのであって、幼な子以外のものは誰一人そうではない、ということも主の次のみことばから明らかである。<だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない>。
 ………
 …神の国は幼な子のものであるが、幼な子は幼な子そのものとして神の国のものではない。彼らはアダムにかたどって生まれたのだから神の国の外にある。すなわち、生まれながらに罪深いものである。
 ………
 …キリストご自身にあずかる者でなければ、誰もキリストのあがないにあずかる者とはなれない。…誰一人として、ここでは幼な子であっても、キリストの罪のゆるしと義とによらなければ救われるものがないのである。キリストご自身にあずからない者は誰も救われない。従って幼な子らも、キリストに祝福されるためには、キリストにご自身の義の白い衣を着せてもらうためにはキリストのみもとに来なければならない。…"


 まずは、ロセニウス牧師は当然のことながらキリスト教圏の国の牧師であります。そこでは子供は皆、幼児洗礼を受け、教会の一員として記録されます。周りにいる大人も、信仰の深さには違いがありますが(信仰自体を失って外形的にはクリスチャンという者も当然のこととしていたことでしょう)、皆が洗礼を受けた人たちであります。その人たちに向けて語られたメッセージであると言う前提を覚えておかなければなりません。

 ここではキリストの下に幼な子らを連れてくる必要性について述べられています。そして、キリストに繋がることの大切さが訴えられています。

 そして、主日の礼拝で繰り返される罪の告白文“私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと、ことばと、行いとによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りないあわれみによりたのみます。”との共同懺悔における“生まれながら罪深い”とは何か、では幼子らはどうなのかについて明確に語っています。


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狭さを誇れる
2013/4/18(木) 午後 5:26
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11444765.html

 まずはJ・G・メイチェンの「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」(いのちのことば社)から見てみましょう。

J・G・メイチェン著 「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」 記名

" キリストの救いの絶対性
 第二に、キリストの死による救いというキリスト教教理は、狭隘であるこということで批判される。それは救いをイエスの名に結びつけるが、世界には、イエスの名を何ら有効な方法で聞いたことのない人々が多数いる。イエスについて聞いたことがある人もない人も、どんな生活環境の中で育てられた人も、すべての人がどこにいようと、本当に必要なことは、みんな救われるような救いではないかと言われる。世界の普遍的要求に応じるものは一つの新しい信条ではない。人人が信じている信条が何であろうと、彼らに正しい生活を営ましめるために効果があるような方法こそ、それに応じるものであると言われるのである。
 この第二の反対論も、第一の場合と同様にしばしば言い換えられている。すなわち、福音を受け入れるということは救いの第一の方法であるが、他の方法もあると言われるのである。しかし、この態度は、キリスト教メッセージの最も明白な特色の一つをすなわち排他性を、放棄することである。キリスト教の最初の観察者が最も驚いたことは、救いがキリスト教の福音によって与えられるということだけでなく、他のすべての救いの方法が断固として拒否されたということである。初代のキリスト教の宣教師たちは、キリストに対する絶対的な排他的な帰依を要求した。このような排他性は、ヘレニズム時代に流布していた宗教混合主義【ルビ:シンクレテイズム】に真向から反対するものであった。その当時、多くの宗教によって多くの救い主たちが人々の注意を引くように提供された。しかも、種々の異教宗教は全く平和的に共存していた。ある人が一つの神の帰依者になっても、彼は他の神々を捨てる必要はなかった。しかし、キリスト教はこれらの「お上品な精神的一夫多妻主義」とは全く無縁であった。キリスト教は、絶対的、排他的帰依を要求した。救いはキリストによって来るというばかりでなく、キリストのみによって来るのである。この小さな言葉「のみ」の中に、すべてのつまずきがある。この語がなかったなら迫害も起こらなかったであろう。当時の教養人たちは、おそらく喜んで、イエスに人類の救い主たちの中の一つの地位、しかも栄誉ある地位を与えたであろう。この排他性ということがなければ、キリスト教のメッセージは、その当時の人々にとって全くつまずきのないものであったろう。このように、現代リベラリズムも、イエスを人類の他の恩人たちの中の一人に加えることによって、現代世界で全くつまずきを与えないものなのである。すべての人がそれを称揚している。それは全くつまずきがないものである。しかし、それは全く無益である。十字架のつまずきは取り除かれたが、同時に、その栄光と力も取り去られてしまった。"
(pp.171-172)

狭き門

マタイによる福音書7章13節
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。

ルカによる福音書13章23,24節
13:23すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。
13:24そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。

使徒行伝4章6~12節
4:6大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。
4:7そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。
4:8その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、
4:9わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、
4:10あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
4:11このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
4:12この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

 キリスト教の門はいつもこの世に対して開かれています。しかし、その門は狭いのです。

 多くの殉教者の血が、この門を1mm足りとも広げる為には流されませんでした。彼らはこの門を守るためにその血を流したのでした。エウセビオスの「教会史」の中から、その殉教がどのようなものであったのかを伝えています。その一つを見てみたいと思います。

エウセビオス「教会史」 記名

" …〔神に〕祝福されたポティヌスは、リヨンの監督の奉仕職を託されていましたが、九〇歳を越えた肉体がとても衰弱しておりました。…知事が彼に「キリスト教徒の神はだれか」と質問すると、彼は答えました。「もしあなたに資格があれば、お分かりになるでしょう」と。そのために彼は容赦なく引きずり廻され、さんざん殴られました。〔その間〕近くにいた者たちは彼の高齢などは顧みず、手や足で乱暴狼藉のかぎりを尽くしました。また、遠くにいた者は、手にしていたものを彼に投げつけました。そしてすべての者が、彼に〔投げつける〕猥雑な言葉を一つでも言い残せば大きな過ちを犯して不敬を働いたことになる、と思い込んでいたからです。彼は辛うじて息をしながらの状態で獄に投げ込まれ、二日後に死にました。……マトゥルスや、サンクトスは、それまで何の苦難も受けなかったかのように、いやむしろ、その格闘相手を多くの対戦ですでに打ち負かしたかのように、闘技場でのあらゆる拷問を再び切り抜け、今や冠そのものをもとめて、その場で受ける鞭打ちの刑を次に耐えました。そして、獣の襲撃の恐怖や、怒り狂った民衆があちこちから投げつける罵声と要求のすべてや、鉄の椅子――その上で身体が焼かれるために煙が彼らを包みました――などに耐え忍びました。しかし、サンクトスからは、〔拷問の〕はじめから言い続けている〔信仰の〕告白以外は何も聞き出せませんでした。… "
(『「教会史」第Ⅴ巻1』のガリアの殉教者達の記述から)

 この門は閉じられることはありません。あらゆる人のために絶えず開かれています。そしてあらゆる人種・文化・思想・過去に関係なく招いています。しかし、この門は狭い道にあり見出し辛く、そして狭いのです。門を通るには唯一つイエス・キリストを信じさえすればよいのです。しかし、門は狭いために余分なものは捨てなければなりません。それは良いものに思えていますが、実はそれは重荷となっていたものなのです。それをキリストを信じてその前に捨てるならなんと楽に通れることでしょう。

狭き門より入る

マタイによる福音書11章28節文語訳
11:28凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。

 キリスト者はこの狭さを、聖徒たちが血を流して教え伝えてくれたこの道を、自分の心の内に感謝と共に誇ることができるでしょう。

プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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