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数珠と定式文での連祷 4


 「数珠と定式文での連祷」について三回ほど書きましたが、その中でルーテル派教会におけるルーサラン・ロザリーの使用について、「ルターがロザリオの祈りみたいなやり方を批判してる」、「神学的に整合性がつかない」のではないか、などの疑問を持つ方もおられるでしょう。それについてどうなのか、個人的な見解にはなりますが、ルターの著作やルーテル派の基本信条である「アウグスブルク信仰告白」と「アウグスブルク信仰告白弁証」などを見つつ私見などを書いて行こうかと思います。

 まずは、ルターの著作のロザリオに関係する記述から見たいと思います。当該箇所だけを切り文として引用して、ここにこう書いてあるじゃないかでは、ルターが言わんとした意味が変わってしまうので、ちょっと長めではありますが引用します。


※※※

“  第一に知らねばならぬことは、ただ神が禁じたもうた罪のほかには、いかなる罪も存在しないと同様に、ただ神が命じたもうたわざ以外には、、いかなる善きわざも存在しないということである。それゆえに、善きわざを知り、これを行おうと思う者は、神の戒め以外には何も知る必要がない。
・・・・
  第二、あらゆる尊い善きわざの中で第一の最高のわざは、キリストを信じる信仰である。・・・・
 ・・・・
  第三、さらにすすんで、彼らが手のわざをいとなんだり、歩いたり、立ったり、あるいは飲食睡眠など、からだの栄養もしくは一般的益のために、あらゆる種類のわざをなすとき、人々はそれらを善きわざとみなすかどうか、そして神がそれらのわざにおいて、人々を喜びたもうと信じるかどうか、と尋ねるならば、人々はいなと答えるであろう。そして彼らが善きわざを極めて狭く限って、ただ教会における祈祷、断食、施与などにとどめ、それ以外のわざは、すべて神にとっては無価値のものだとみなしていることがわかるであろう。こうして彼らは、のろわれた不信仰によって、いやしくも信仰において生じ、語られ、考えられる事柄はいっさい神への奉仕となるべきであるにもかかわらず、その奉仕の道をせばめ、制限しているのである。
 ・・・・
 第四、さて、ここにだれでも自分の行うわざがどういうときに善であり、また善でないかを自分で認め感じることができる。すなわち、自分の行うところは神のみこころにかなうという確信が心にあれば、たといそれが、わらくず一本を拾いあげるような些細な事柄であっても、そのわざは善である。けれども、その確信がなかったり、あるいは疑ったりするようなことがあれば、そのわざは、たとえあらゆる死者をよみがえらせ、おのが身を焼かせるほどのものであっても、善ではない。そのことを聖パウロはローマ14章で、「すべて信仰から、もしくは信仰において行われないことは罪である」〔23節〕と教えている。
・・・・
 第十一、聖パウロは多くの場所で信仰を重んじて、 “Justus ex fide sua vivit” すなわち「その信仰による義人は生きる」〔ローマ1・17〕と言い、また「信仰とは、それによって、人が神の前に義とみなされるものである」〔ローマ3・28〕と言っているが、これがパウロの考えなのである。このように義が信仰に基づくものであるならば、信仰だけがすべての戒めを満たし、すべての戒めのわざを義とすることは明らかである。・・・・今日、私たちが、全然信仰なしで行われた外面だけきらびやかな大きなわざをしりぞけると、彼らは「ただ信ずべきだ。善いことは何もする必要はない」という。たとえば今日、第一の戒めとして人々が挙げているものは、歌唱、聖書の通誦、オルガン奏楽、ミサの執行、朝祷、夕祷およびその他の定時の祈祷、教会、聖壇、修道院の寄進ならびに装飾、鐘、装具品、ミサ式服、金細工および財宝の蒐集、ローマ人や聖人たちへの巡礼などである。それゆえに、服装をととのえ、身をかがめ、ひざを曲げ、ロザリオのたまを数えて祈祷し、詩篇を唱えて祈り、しかもこれらすべてのことを偶像の前でするのではなく、神の聖なる十字架、もしくは聖徒たちの像の前で行うならば、それが神をあがめ、拝し、そして第一の戒めどおり、他の神々を持たないことだと称されるのである。けれども、これらのことは、高利貸や姦夫、そのほかあらゆる種類の罪人でさえも行うことができ、毎日行っている事柄である。だがいずれにしても、これらの事柄は、すべて神のみこころにかなうのだ、という信仰をもって行われるときには、ほむべきものとなるのである。しかもそれは、それらの事柄がすぐれているためではなくて、すでに述べたように、すべてのわざの価値を平等にさせる信仰そのもののためである。・・・ ”
ルター著「善きわざについて」(ルター著作集分冊 3 聖文舎 pp.8-10、p.11、p.12、p.25)

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“ 神は、その憐みを忘れずに、しもべイスラエルを受けいれてくださった。

 マリヤは、彼女とすべての人の上になされた、神のみわざについて数えあげたのち、初めの、第一のことに帰る。そしてすべての神のみわざの中の、最も重要であり最大のもの、すなわち神の子の受肉をもってこの讃歌を結ぶ。そして彼女はここに率直に、彼女の上になされたこのみわざは彼女のためにのみなされたのではなくて、全イスラエルのために生じたのであると告白することによって、彼女が全世界の下婢、召使いであることをあきらかにしている。しかも彼女はイスラエルを二つの部分に分け、そして、ただ神に奉仕する部分のみを引き合いに出すのである。しかし上述のように、神を神とし、神のみわざを自分のうちになさせる者が神に仕えるものである。しかし、残念なことであるが、今日、神奉仕(礼拝)という言葉は、かなり異なった理解と使用がなされている。すなわち、それを聞くところの人々は、まったくこのような神のわざについて考えず、考えるのは、ただ鐘の音や、教会の木や石の作品、香炉、燭台のほのお、教会でのつぶやき(41)、聖歌隊の帽子や、ミサ服の金や絹や宝石、聖餐の杯、聖餅台、オルガン、聖像、行列、おまいり、なかでも多弁(42)、ロザリオ祷(43)である。ああ、これが神奉仕(礼拝)のなれのはてである。しかも神はこのようなことについてまったくかかわりがない。そして、我々は、毎日この讃歌を高い調子をもって荘厳に歌っているけれども、長ければ長いほど、多ければ多いほど、真の長子と意味とが沈黙するということ以外なにも知らない。しかし聖書の本文はかたく立っている。我々がこの神のみわざを学ぶことなく、また受けることがないならば、たとえ我々が教会で死ぬほど歌ったり鐘をならしたりしても、または世界の財産をすべて投げ出したとしても、そこには神奉仕(礼拝)もイスラエルも、恵みも憐みも、神もない。神はそれについて命じてはおられないし、それゆえに疑いもなく神はまったくこれらのことをお喜びにならない。
(『ルター著作集第一集第4巻 マグニフィカート(マリヤの讃歌) 訳と講解 1521』 pp.238-239)

(41) 意味の分からないままに歌うラテン語の歌声。
(42) 「主の祈り」や「アベ・マリヤ」などを、口さきだけでくりかえすこと。
(43) ロザリオで数えながら「主の祈り」をとなえること。  ”
(『ルター著作集第一集第4巻 マグニフィカート(マリヤの讃歌) 訳と講解 1521』 p.256)

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 第三の戒めについて

 第一、さて、私たちは第二の戒めのなかに、どんなに多くの善きわざがあるかをみてきた。しかしそれらのわざは、信仰と神の恵みに対する確かな期待とのうちに行われるのでなければ、それ自体が善なのではないということ、さらに、この戒めだけでも意にとどめるならば、私たちのなすべきことがどんなに多くあるかということもみてきた。けれども残念ながら、多くの人々は、この戒めにとって何の意味もない別なわざにかかわっている。さて次は「安息日を聖とせよ」という第三の戒めである。・・・・《第三の》戒めの第一のわざは、簡単明瞭である。すなわち、私たちが一般に礼拝と称しているもので、例えば聖日にミサにつらなったり、祈祷をしたり、説教を聴いたりすることがそれである。こうした考え方に従うと、この戒めの中に存するわざは、きわめて少ない。しかもこれらのわざは、神の恵みに対する確かな期待と信仰のうちに行われない場合には、まったく無価値であることは、上に述べたとおりである。・・・・ミサや説教を聞いても《うわのそらで》全然心の改善とはならず、祈祷も信仰を伴わない口先だけのわさせにすぎない。そしてついには、ミサは目で眺め、説教は耳で聞き、祈祷は口先でとなえさえすれば、それで十分だと考えられるような事態にまでたち至っている。・・・・

 第四、祈りは、祈祷書のページを数えたり、ロザリオの玉を数えたりするような習慣に従ってなすべきものではない。心にかかる緊要事をとりあげて祈り、それを真剣に求めるべきである。そして、この祈りにおいて、神への信仰と信頼とを練り鍛え、その祈りが聞きとどけられることを疑わないようにならなければならない。・・・

ルター著「善きわざについて」(ルター著作集分冊 3 聖文舎 pp.69-70,75-76)

***

第十三、・・・・口がただつぶやくだけでは、祈ったことにも、呼び求めたことにもならないからである。もしあなたがそのように《祈祷の》言葉を全部誦(しょう)しおえることや、《ロザリオの玉の》数を満たすことだけしか考えていないとしたら、神はいったいどうなされるであろうか。「あなたがそのように祈願しているのは、何を求めての祈願であるのか、何を念頭においているのか」と誰かに尋ねられても、それはあなた自身にもわからないであろう。・・・・

ルター著「善きわざについて」(ルター著作集分冊 3 聖文舎 pp.93-94 第三の戒めについて)

***

第十四、・・・・ところがひとたび教会の中でミサにつらなる段になると、まるで魂の抜けた坊主の態よろしく、何一つとして神の前に持ちだし、嘆き訴えるすべを知らず、ただロザリオの玉ががちゃがちゃと鳴り、祈祷書のページをくる音がざわめき、口がぺちゃくちゃとしゃべるばかり。それで万事が済んでしまう。・・・

ルター著「善きわざについて」(ルター著作集分冊 3 聖文舎 p.95 第三の戒めについて)

※※※


 これらの記述から見えてくるのは、ルターの修道士としての体験と視点であるように思えます。

「歌唱、聖書の通誦、オルガン奏楽、ミサの執行、朝祷、夕祷およびその他の定時の祈祷、教会、聖壇、修道院の寄進ならびに装飾、鐘、装具品、ミサ式服、金細工および財宝の蒐集、ローマ人や聖人たちへの巡礼などである。それゆえに、服装をととのえ、身をかがめ、ひざを曲げ、ロザリオのたまを数えて祈祷し、詩篇を唱えて祈り」 「鐘の音や、教会の木や石の作品、香炉、燭台のほのお、教会でのつぶやき、聖歌隊の帽子や、ミサ服の金や絹や宝石、聖餐の杯、聖餅台、オルガン、聖像、行列、おまいり、なかでも多弁、ロザリオ祷」

 これらは一般信徒ではなく、修道士の生活(修道司祭も含め)について語っていることと思われます。一般信徒のほとんどは文盲で、譜面を読むことも楽器の演奏なんかもできるはずもなく、歌唱や詩篇唱は司式司祭もしくは先唱者(カントル)の独唱か聖歌隊との交唱などがされますし、ロザリオについても一般修道者は文盲であることも多く、読めないラテン語の詩篇や祈祷書に変えて、ロザリオの祈りが代替えとして祈られていたりしました(司祭については四世紀のパウミコスによって定められた修道規則に「Omnis qui nomen vult monachi vindicare, litteras ei ignorare non liceat」(司祭と見なされたい人は誰でも文盲であってはなりません)とあり、修道制が始まって間もない時期に、司祭を目指す者は文字が読めなければならないと定められていました。しかし、修道士は文盲の人が多くいましたし、文盲の割合が減った時代でも自国語は読み書きできてもラテン語はできない人は多かったようです)。このことについてはLexikon für Theologie und Kirche(神学と教会の百科事典)の第八巻のロザリオの説明で、"den Konversen u. des Lesens unkundigen Laien wird als Psalmersatz zunächst das an der Paternosterschnur gezählte Vaterunser empfohlen, " (パテル・ノステルの数珠による主の祈りは、会話や読書に慣れていない人のために、詩篇の代用品として勧められています)と説明されています(p.1304)。

Lexikon für Theologie und Kirche LThK 3 Band 8, sp.1304
(画像6行目から)

 会衆は、そこで語られるラテン語の意味もわからず、司式を眺めるだけで、ほとんど単なる見学者でしかありませんでした。それゆえに、この個所で述べられているのは、まさしく修道院でのこと、または修道士についてです。ではルターの修道士としての体験はどんなものだったのでしょうか。


  “  彼の見習い修道士としての期間は、魂に平和をみなぎらせるために工夫された宗教上の修練でいっぱいになっていたのだった。祈祷の時間は一日に七回やってきた。八時間の睡眠後、修道士たちは朝一時と二時の間に、修道院の鐘の音で起こされた。最初の鐘で、かれらははね起きて、十字のしるしを切り、白衣と肩衣を着た。これをつけなければ、修道士は決して部屋を出てはならなかったのだ。第二の鐘で、各自はうやうやしく礼拝堂に来て、聖水をからだに振りかけ、高い聖壇の前にひざまずいて、世界の救い主に対する信頼の祈りを捧げた。それから一同は合唱隊席に着席した。朝祷は四十五分間つづいた。一日七回の祈祷時間はそれぞれ、合唱長の歌うサルヴェ・レギナで、すなわち「女王、あわれみ深きおん母、われらのいのち、なぐさめ、およびのぞみなるマリヤ。追放の身なるエバの子われら、おん身にむかいて呼ばわり、この涙の谷に泣き叫びてひたすら仰ぎのぞみたてまつる。おん身よ、われらの大願者となりたまえ。いともうるわしき童貞マリヤ、聖なる神のおん母、われらのために祈りたまえ」、で終わった。アヴェ・マリヤとパテル・ノステル(主の祈り)ののち、兄弟たちは、ふたりづつ一組になり、行列を作って、静かに礼拝堂から出て行った。 ”
(「我ここに立つ マルティン・ルターの生涯」 ローランド・ペイントン著 青山一浪・岸千年 共訳 聖文舎 pp.23-24)

“  ・・・まず手短に修道院の「細かい規定」に触れておくことにしよう。それは形式抜きの現代人にとっては、ある意味では滑稽でもあり、嫌われるものでもあり、いずれにせよ耐えがたいと思われるものである。「細かい規定」というのはふつう、礼拝式文に赤い字で書きこまれたり、印刷されていたりしている指示のことである。それは、その時々にどの祈りを選べとか、特定の儀式の時には、ろうそくをつけよとか、消せとかいった指示である。礼拝の場合と同様に、修道士の生活全体もまた、起床から就寝に至るまで、また定時の祈りへの参加から、数多くの例、また食卓でのしぐさから、研究あるいは旅行、あるいは沈黙時の合図から、鐘の合図、衣服の規則、いろいろな罰の規定などといった細かいことが定められていたのである。こうした規定をすべて学ぶことが、見習い修道士の教育の、かなりの部分を占めていた。

・・・定時の祈りというのは、修道院における祈祷の原型に他ならない。 ”
(「宗教改革とルターの生涯」ペーター・マンス著 聖文舎 p.30)


 時課の共同の礼拝では、どの祈祷文を祈るか、詠唱する、連祷をする、〇〇を黙想する、その時の所作(祈祷文のどこそこでは十字を切るとか、叩拝する、弓拝する、伏拝するなど)、詩篇のどこを歌うか、様々な細かい規定が定められています。そして、これらの祈りはノルマであり、別に何らかの理由や務めで果たすことができない場合でも借金のように残って積みあがって行くものでした。ルターもこの祈りの債務が随分とあったとされています。


“  ・・・次に、定時の祈りを「お勤め」という点で考えるということがある。つまり、どの修道士でも、それを行わないと罪になるという意味でお勤めの観点で見るわけである。定められた秩序に応じないことを祈ったり唱えたりする者、定められた時を守らなかったり、定められた祈祷文のある部分を飛ばしたりする者には、軽い罪が科せられた。1日じゅう全然祈らなかった者は、しなければならないお勤めを神に対して拒んだものとして、分派の者とされた。・・・1520年にはルターは祈りの義務を果たすという面では、週単位ではなく3ヵ月単位で遅れていたと思われるからである。・・・  ”
(「宗教改革とルターの生涯」ペーター・マンス著 聖文舎 p.50)


 他の修道者たちなどは、このような祈りがたまってしまった場合、お金などを払って他人に代禱してもらって消化するということがおこなわれていましたが、ルターはそういうことはしなかったためにこのように溜まってしまったともいえます。

 また、これらの定時の共同の祈りと共同の祈りの間には、準備のための祈りの時がありました。そこでも信仰とはかけ離れた祈りの誤用がまん延していました。


" ・・・共同の定時の祈りをこのように見ても、危険や問題がなかったわけではない。それは、定時禱の準備のために定められた静かな祈りの時間にもあてはまる。なぜならばここでは、主の祈りとか使徒信条とかが、単に沈黙の時間をはかるために用いられたりして、本来の定時祷のあり方、つまり黙想しながら準備をするということが歪められたからである。 "
(「宗教改革とルターの生涯」ペーター・マンス著 聖文舎 p.50)


 祈りで時を計る用い方というのは修道院の外、世俗世界でもよく見られたようです。Consider the Fork A History of How We Cook and Eat by Bee Wilson(「フォークについて考える 私たちがどのように調理し、どのように食べるかの歴史」 ビー・ウイルソン著)という本によれば

Consider the Fork A History of How We Cook and Eat by Bee Wilson


“ Cooks have always needed to measure time, one way or another. The kitcen clock, quietly ticking on the wall, is one of the least recognized but most vital pieces of technology. No one seems to know when it first got there, though it had certainly arrived by the eighteenth century. We can tell that kitchen timepieces were not the norm in medieval and early modern times from the number of recipes giving timings not in minutes but in prayers. A French medieval recipe for preserved walnuts requires them to be boiled for the time it takes to say a 'Miserere'('O wash me more and more from my guilt …'), about two minutes. The shortest measurement of time was the 'Ave Maria' , twenty seconds, give or take. You might say that such recipes reflect the fact that medieval France was a society in which religion permeated everything. Yet this timing-by-prayer had a very practical underpinning in an age when clocks were rare and expensive. Like the walnut-sized butter, these timings depended on communal knowledge. Since prayers were said out loud in church, everyone knew the common pace at which they were chanted. If you asked someone to 'boil and stir the sauce for the time it takes to say three Paternosters' or 'simmer the broth for three Lord's Prayers' they knew what this meant. And so, far from being otherworldly, it was more sensible advice than some of the more secular examples in written recipes such as 'let the solid particles precipitate from the mixture for the time aperson would take to walk two leagues'. The use of prayers as timing devices belonged to the long centuries when cooks had to use deep ingenuity and vigilance to ensure that a meal came out right: cooked, but not burned. ”
(料理人は常に、何らかの形で時間を計測する必要がありました。 壁で静かに時を刻むキッチンクロックは、あまり知られていないものの、最も重要なテクノロジーの 1 つです。 それがいつ最初にそこに到達したかは誰も知らないようですが、18世紀までには確実に到達していました。 中世や近世では、分単位ではなく祈りでタイミングを知らせるレシピの数から、台所用時計が一般的ではなかったことがわかります。 フランス中世のくるみの保存レシピでは、「ミゼレレ」(「罪悪感からもっともっと私を洗い流してください…」)と言うのにかかる時間、約2分間茹でる必要がある。 最も短い時間の測定は「アヴェ・マリア」で、多少なりとも 20 秒でした。 このようなレシピは、中世フランスが宗教がすべてに浸透した社会であったという事実を反映していると言えるかもしれません。 しかし、この祈りによるタイミングは、時計が希少で高価だった時代には非常に実用的な基礎を持っていました。 クルミ大のバターと同様、これらのタイミングは共通の知識に依存していました。 教会では祈りが大声で唱えられていたため、誰もがそれが唱えられる共通のペースを知っていました。 もし誰かに、「三回、パテル ノステル(「主の祈り」)を唱えるのにかかる時間だけ、ソースを煮てかき混ぜてください」とか、「主の祈りを三回分、ブイヨンをとろ火で煮てください」ように頼んだとしたら、彼らはこれが何を意味するのか知っていました。 したがって、それは別世界の話とは程遠く、「人が2マイル歩くのにかかる時間の間、混合物から固体粒子を沈殿させる」など、書かれたレシピに書かれたより世俗的な例よりも賢明なアドバイスでした。 タイミング装置として祈りが使われるようになったのは、何世紀にもわたって料理人が料理を正確に、つまり焦げずに調理するために深い創意工夫と用心深さを使用しなければならなかった時代に遡ります。)
(Consider the Fork A History of How We Cook and Eat by Bee Wilson BASIC BOOKS pp.133-134)

と、料理のレシピなどに、調理の時を計るのに祈りにかかる時間が用いられたりもしていました。このような祈りの本質から外れた祈りの在り方や用法にルターは批判をしています。ルターは、このような祈りの本質から外れた祈りの在り方や形式の定められたノルマとしての祈りではなく、信仰による心からの自由な祈りを好んでいました。


“  定時の祈りに関しては、つぎのように要約できるであろう。ルターは、共同で行う、はっきりした形式をもった、同じように規則づけられた定時の祈りを、困難に感じていた。むしろ彼は、個人の「心の祈り」ともいうべき自由な祈りを好んだと思われる。みんなで祈る場合よりも、もっとルターを妨げたのは、祈りの定式には従ってひとりで祈ることであった。それは彼の人一倍つよい自発性を妨げたり、押し殺したりする強制のように感じられたのである。この点で彼は困難に陥り、また危機に至ったのであろう。そしてその困難や危機は、彼がそれを自らの意志の力で、また良心の導きによって解決しようと試みればみるほど、大きくなっていった。・・・後に彼は、祈りを「信仰の行為」として重視し、教会の礼拝式文を整えたり、あるいはまた、教会や家庭で祈るときの、ひざまずき方や、十字の切り方や、祈るべき順序を決めたり、それに聖書的要素を加えたり――等々のこともしているのである。 ”
(「宗教改革とルターの生涯」ペーター・マンス著 聖文舎 p.51)

 
  そして、これらのわざが、善きわざ、聖なるわざ、神の前に償いとなり免償が与えられるほどの善い聖なるわざであると見做され、それ以外の行為と区別されていました。それらが外的にはとても信心深く聖なる行為に見えていても、実際にはただ祈祷書のページをめくるだけ、心に信仰がなくても習慣としてブツブツと定型文を唱えながらロザリオの珠を指で繰るだけであったり、ただ時間を消費するのに使われている現実に対して、ルターは言います。


“   第二、あらゆる尊い善きわざの中で第一の最高のわざは、キリストを信じる信仰である。・・・・
 ・・・・
  第三、さらにすすんで、彼らが手のわざをいとなんだり、歩いたり、立ったり、あるいは飲食睡眠など、からだの栄養もしくは一般的益のために、あらゆる種類のわざをなすとき、人々はそれらを善きわざとみなすかどうか、そして神がそれらのわざにおいて、人々を喜びたもうと信じるかどうか、と尋ねるならば、人々はいなと答えるであろう。そして彼らが善きわざを極めて狭く限って、ただ教会における祈祷、断食、施与などにとどめ、それ以外のわざは、すべて神にとっては無価値のものだとみなしていることがわかるであろう。こうして彼らは、のろわれた不信仰によって、いやしくも信仰において生じ、語られ、考えられる事柄はいっさい神への奉仕となるべきであるにもかかわらず、その奉仕の道をせばめ、制限しているのである。 ”

 と。

 しかし、これらの行いも

“ 信仰をもって行われるときには、ほむべきものとなるのである。しかもそれは、それらの事柄がすぐれているためではなくて、すでに述べたように、すべてのわざの価値を平等にさせる信仰そのもののためである。 ”

信仰をもって行われるならばよいものであることを認めています。
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数珠と定式文での連祷 3

 1599年出版の英語訳のジュネーブ聖書からマタイ福音書6:7のμὴ βατταλογήσητεが、 repetition(繰り返し、反復、重複、折り返し、反覆、繰り言、繰言、二言)という風に訳されるようになり、英国の非国教徒(カルヴァン主義)に歓迎され、田川建三氏の「書物としての新約聖書」によけば、ジェームズ王欽定英語訳が出版されたのちも60版以上も版を重ねたそうです。1611年に欽定英語訳が出るまでに120版以上、欽定英語訳が出版されてから60版以上ですから人気があったのがわかります。そして欽定英語訳の多くの部分がジュネーブ聖書から来ているということで、欽定英語訳が広く普及し19世紀に聖書の本文批評版が出版され、それから改訂訳(Revised Version)が翻訳出版されるまで260年以上英語訳聖書では欽定英語訳が支配していました。

 このマタイ福音書6:7もジュネーブ聖書からジェームズ王欽定英語訳と、訳語とそれに付いた語意は継承され、19世紀以降いろいろな訳が出版されるようになっても、長年親しまれ人気の衰えない欽定英語訳は英国やアメリカで愛用され続け、その亜流の英訳聖書においては欽定英語訳の呪縛によって無批判的に継承されているように感じられます。

 19世紀に聖書の本文批評が発展し、批評版本文の普及とそれに伴う学問的翻訳とは逆行したジェームズ王欽定英語訳とビザンチン本文、テクストゥス・レセプトゥスの優位性を信じ、批評版テキストへの不信を持つ人たちの King James Only movement などアメリカなどの福音派や聖霊派などの原理主義系でこの回帰運動やその傾向は強いようです(日本でも聖霊派などでその手のホームページが見かけられます)。

 日本語訳聖書でリベラル系で使われる聖書協会発行の口語訳・新共同訳・聖書協会共同訳などと福音派や聖霊派系の新改訳で訳語が違う場合、訳語のルーツを見て行くと面白いかもしれません。どちらを好むかは自分の所属教会に合わせるなり、人それぞれ好き好きで。

 さて話を、祈りの為の数珠を用いて短い定式文の祈りを繰り返すということに戻しますと、repetition(繰り返し、反復、重複、折り返し、反覆、繰り言、繰言、二言)という風な訳はもともとの語意では無いように思います。また、リベラル系の訳のように「異邦人のようにくどくどと述べ」るや「ベラベラしゃべる」の方が、メソポタミアやエジプト、パレスチナやシリア、ギリシャ・ローマの宗教や碑文、公文書などに見られる王や神々を仰々しくいろいろな敬称や尊称を並び立て、くどいほど褒め称えることに合致するように感じられます。それらはマントラのように同じ言葉の繰り返しではなく、同じ言葉を使わないで数多くの言葉を持って(言葉数が多い)褒め称えることをイエスはこの個所でのことばは指しているのではないかと思います。

 聖母マリア崇敬云々もロザリオでの祈りの対象がマリアに向けられているローマ・カトリック教会には当てはまるかもしれませんが、もう一方のキリスト教、東方正教会や東方正統教会(非カルケドン)とでは、祈りの時に使う数珠(コンポスキニオン)のメインとなる小珠では「イイススの祈り」を祈り、大珠の時に「至聖生神女讃歌(カトリックの「天使祝詞」)」もしくは「常に福(さいわい)にして」が来るという違いも見られます。画一的にマリア崇敬というのも違うと思います。

数珠と定式文での連祷 2


 祈りの為の数珠を用いて、短い定式文の祈りを繰り返すことに対して、福音派や聖霊派(ウェスレアン神学の教会とその系譜、非国教系やピューリタンの流れの諸教会)などは、カトリックやその伝統、マリア崇敬・天使や諸聖人崇敬を悪魔の如く嫌っているので、プロテスタントの中でも強い拒否と否定を示します。

 プロテスタントでも聖公会は彼等のロザリオを持っています。ルーテル派では全体ではないものの一部にロザリオを用いている教会や信徒たちもいます。日本のルーテル派においてはその文化はありません。

 定式文の祈りの繰り返し否定についていくつか見てみたいと思います。

 まずは福音派系のGot Questionsという疑問に思うことについてそれに答えを示す形のサイトの日本語版のページに

質問 無益な繰り返しで祈るとはどういう意味ですか?“ という質問に対する回答を述べています。 また、”質問 祈りのビーズとは何?祈る時、祈りのビーズを使うのはいいのでしょうか?“という質問にも福音派の模範的回答を示しています。

 ネットで検索していましたら日本の福音派の集まりである日本福音同盟に加盟している日本バプテスト教会連合の東京中央バプテスト教会の ”「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」 マタイ6:7“ という記事を発見しまして、これも福音派だな~と思わせるような内容でした。

 またもう一つ。日本福音同盟に加盟の神の教会運動という団体に属する空知太栄光キリスト教会の牧師さんの書いておられる牧師の書斎という一連の記事の中の ”マタイの福音書を味わう No.1“ の中の ”17 6章5~8節 善行に対する警告と奨励(2)「祈り」“ というところをクリックするとPDF形式で記事が読めます。こちらを見てみますとGot Questionsのサイトやバプテストの記事とそう変わらない内容でした。共通しているのは、根拠はマタイ福音書6章7節ということであるということです。列王記上18:25-39なんかも出て来るのですが、こちらはまるっきり根拠にならない勘違い引用です。これは預言者エリアとのどちらの神が真であるかの勝負のような中での限定された出来事ですから、これらのバアルやアシラの預言者たちが、”朝から昼までバアルの名を呼んで「バアルよ、答えてください」と言った。“ としても普段の礼拝や祈祷で同じであるとは限りません。そのような勝負下で当然とるであろう行動に過ぎません。これをマタイ6:7と関連付ける方が無理筋です。

 さて、次に福音派や聖霊派で定式文の祈りの繰り返し否定の根拠に使われるマタイ福音書6章7節の日本語訳聖書の訳文を比べてみましょう。

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明治元訳 爾曹(なんぢら)祈る時は異邦人の如く重複語(くりかへしごと)を言(いふ)なかれ彼等は言(ことば)おほきを以て聽(きか)れんと意(おも)へり

大正改訳 また祈るとき、異邦人の如くいたづらに言を反復(くりかへ)すな。彼らは言多きによりて聽かれんと思ふなり。

口語訳 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。

共同訳(1978年) また、あなたたちは祈るときには、異邦人のようにくどくどと述べる必要はない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

新共同訳 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

新翻訳事業パイロット版(2016年) 祈るときには、異邦人のようにくどくどと言ってはならない。彼らは言葉を多く並べれば、聞き入れられると思っている。

聖書協会共同訳 祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。

新改訳(第一版) また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

新改訳(第二版) また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

新改訳(第三版) また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

新改訳2017 また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

詳訳 あなたたちが祈るときには、異邦人がするように<同じ言葉を幾度も繰り返して、言葉の数を多くし>〔祈り〕文句の積み重ねをしてはいけない。彼らは多く言えば聞き入れられると思うのである。

リビングバイブル(1982年版) ほんとうの神様を知らない連中のように、同じ文句をくどくど唱えてはいけません。 彼らは、同じ文句をくり返しさえすれば、祈りが聞かれると思っているのです。

リビングバイブル(1993年改訂版) ほんとうの神を知らない人たちのように、同じ文句をくどくど唱えてはいけません。彼らは、同じ文句をくり返しさえすれば、祈りが聞かれると思っているのです。

リビングバイブル(2016年改訂版web) ほんとうの神を知らない人たちのように、同じ文句を何度も唱えてはいけません。彼らは、同じ文句をくり返しさえすれば、祈りが聞かれると思っているのです。

ラゲ訳(1910年) 又祈るに異邦人の如く繰言を為すこと勿れ、彼等は言の多きに由りて聴容れられんと思ふなり。

ラゲ訳(1959年) 又祈るに異邦人のごとく繰り言(ごと)をなすことなかれ、彼らは言葉の多きによりて聞き入れられんと思うなり。

バルバロ訳新約改訂版1957年 また、祈りのときに、異邦人のように無駄言(むだごと)をいってはならない。異邦人は、言葉さえ多ければ聞き入れてもらえると考えている。

バルバロ訳新約聖書1981年新装改訂版講談社 また、祈りのときに、異邦人のようにむだごとを言うな。異邦人はことばさえ多ければ聞き入れてもらえると考えている。

バルバロ訳聖書1980年講談社版 また、祈りのときに、異邦人のようにむだごとを言うな。異邦人はことばさえ多ければ聞き入れてもらえると考えている。

フランシスコ会訳(1984年改訂版) あなたがたは祈るとき、異邦人のよ うにくどくどと言ってはならない。彼らは言葉数さえ多ければ、聞き入れられると思っている。

フランシスコ会訳(2011年改訂版) あなた方は祈るとき、異邦人のよ うにくどくどと言ってはならない。彼らは言葉数さえ多ければ聞き入れられると思っている。

フランシスコ会訳(2013年版web) あなた方は祈る時、異邦人のよ うにくどくどと言ってはならない。彼らは言葉数さえ多ければ聞き入れられると思っている。

本田哲郎訳 あなたたちが祈るときは、世の民がするように、同じことばをくりかえすな。かれらは、ことば数が多ければ、聞き入れられると思っている。

山浦治嗣訳 又(まだ)、其方等(そなだァど)祈っ時(とぎ)ァ、他(ほが)の国がら来た異邦人等(ほがすァど)のように、くどくど喋(すゃ)べくんな。異邦人等(ほがすァど)ァ、口数(くちかず)ァ余計(よげェ)な程聞いて貰うにいい事(ごっ)たど思い込(ご)んでる。

ニコライ訳 又祷(いの)る時、異邦人の如く贅語(むだごと)を曰ふ勿れ、蓋(けだし)彼等は言の多きを以て聴かれんと意ふ。

永井直治訳 新契約聖書1928年Web また汝等祈るときは、異邦人の如く空しき繰り返し言(ことば)をなす勿れ。そは彼等は言(ことば)多ければ聞き入れらるるならんと思へばなり。

永井直治訳 新契約聖書修正改版1960年 また汝等祈るときは、異邦人の如く空しき繰り返し言をなす勿れ。そは彼等は言多ければ聞き入れらるるならんと思へばなり。

塚本虎二訳 また祈るとき、異教人のようにベラベラしゃべるな。彼らは口数が多ければ、聞いてもらえるものと思っている。

前田護郎訳 祈るとき異邦人のようにしゃべるな。彼らは多言によって聞かれると思っている。

岩隈直訳 また祈る時、異邦人のようにべらべらしゃべるな。というのは彼らは [彼らの] 多弁の故に聞き入れられる [だろう] と思っている。

田川健三訳 祈る時は、異邦人のようにぺちゃくちゃとものを言うな。彼らは言葉を多く並べれば聞き入れられると思っているのだ。

口語訳キリスト新聞社 祈りをする時には異邦人のようにくりかえして唱えさるな。異邦人はくどく祈ったならば、聞かれると思つている。

岩波書店新約聖書翻訳委員会訳1995年web また、あなたたちが祈る時は、異邦人たちのように駄弁を弄(ろう)するな。彼らは自分たちの 言葉が多ければ聞き入れてもらえると思っているのだ。

岩波書店新約聖書翻訳委員会訳2004年 また、あなたたちが祈る時は、異邦人たちのように駄弁(だべん)を弄(ろう)するな。なぜならば、彼らは自分たちの言葉が多ければ聞き入れてもらえると思っているのからである。

現代訳(尾山令仁訳)1983年初版 また祈る時には、生けるまことの神様を知らない異教徒たちがしているように、同じことばを、ただ繰り返してはいけません。彼らはそうすれば聞かれると思っています。

創造主訳(尾山令仁訳) また祈る時には、生きておられる本当の創造主を知らない異教徒たちがしているように、同じ言葉を、ただ繰り返してはいけません。彼らはそうすれば聞かれると思っています。

国際ギデオン協会New Bible(泉田昭訳) また祈るとき、あなたがたは異邦人のようにくどくど言うな。彼らは、言葉数が多ければ聞き入れられると思っている。

新和訳(池田博訳) また、祈る時は異邦人のようにくどくどと祈るな。彼らは自分たちの言葉数の多さによって聞き入れられると思っている。

新約聖書TR日本語訳 あなた方は祈っている時、異教徒たちのように、空しくしゃべってはいけません。 なぜなら彼らはたくさんしゃべれば聞き入れてもらえると思っているからです。

新世界訳(1985年日本語版) しかし,祈る際には,諸国の人々がするように同じことを何度も繰り返し言ってはなりません。彼らは言葉を多くすれば聞かれると思っているのです。


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 見て行くと一つの傾向として福音派の教派訳(自分たちの教義に合わせた訳)である新改訳聖書と福音派系の翻訳では、ギリシャ語 βαττολογέω(battalogeó) を ”同じことばを、ただくり返“す という意味の訳文にしています。また、明治・大正期の外国人宣教師による翻訳やジェームズ王欽定英語訳(King James Version) 系の翻訳の影響下にある日本語訳聖書もその傾向があります。

 教義に引きずられないで原文や原語の学問的翻訳では、新改訳やその他の福音派系の翻訳とは違った訳になっています。

 田川訳の註が詳しいので、まずこちらを引用したいと思います。

”7 ぺちゃくちゃとものを言う(battalogeō) 本当は語源も語義も定かでない単語。新約ではこの個所と、ルカ11・2のD写本にしか出て来ない。ルカのD写本は、マタイのこの個所を知ってこの語をそちらに写したものであろう(ただしそちらはやや綴りが違ってbattologeōとなっている)。新約以外でも極めて僅かの用例しか見つかっていない。語源についてはいろいろ想像による仮説はあるが、確かなことはわからない。主な辞書がそれぞれ異なる語源を主張しているから、逆に言えば、どれもあてにならない。この種のことは辞書に書いてあっても信用するなという良い教材であろう。すなわちまず古くはリデル・スコット(Intermediate 版、1888年。本体の大型版では1968年の supplement に載っている)。ヘロドトス4・158に出て来るバットス(Battos)というリビアの王様の名前から来ている、とする。この王様、子どもの頃には発音障害があったからこういう名前がつけられたのだ、と。ただしヘロドトス自身は、この名前を発音障害に結びつけるのは間違いで、リビア語で「王」のことを battos と言うから、それをそのままギリシャ語化はただけだ、と説明しているけれども。ともかくリデル・スコットは、この王の名前から「バットスのように話す」という動詞が作られたのだ、としている(「多分」というただし書きがついているが)。しかしこれはまあ無理である。この話がよく知られた話でそこから発して battos という語が普通名詞として用いられるようになり、従ってこの動詞もよく用いられるというのであれば、こういう説も成り立つが、この動詞の用例は極めて僅かしかない。マタイ教会の人たちがヘロドトスをよく読んで知っていたというのなら話は別だが、むろんそういう可能性はない。
 むしろVGTが一つの可能性として示唆しているデモステネスのあだ名の方が多少はましだろうか。すなわちデモステネスには batalos は普通名詞としても「どもり」という意味で用いられる。しかしこれまたそんなによく知られたあだ名ではないし、マタイたちがそんなことを知っていたとは考えられない。
 もう一つはバウアーで(クロスターマンも)、こちらの神学者の常として、何が何でもヘブライ語・アラム語起源に従る(もっともバウアーも学者だから、「多分」としているが)。言い出したのはブラス・デブルンナーのブラスで(ただしブラスを後になって大幅に増補したデブルンナーは、ブラスはそういう説を唱えているけれども、と単に紹介しているだけ。§40,Anm.3)、アラム語の「空しい、空虚な」という語(bātēl)から来ているという。それにギリシャ語の「言う、話す」という動詞をくっつけたのだ、と。しかしそういう語がギリシャ語のユダヤ人の間で普及していたというのならともかく、まったくその形跡はないから、もしもそうだとすればマタイたちの造語であろうが、しかし、そういう造語が読者に通じる可能性はほとんどないから、まあ考えられない。おまけに、もしもマタイたちの造語であるなら、「空しいことを言う」の意味があるはずだが、マタイ自身はこの語を自分で「言葉を多く並べる」と言い換えている。
 一番説得力のあるのは ThWzNT の G.Delling (Bd.I,598)。ギリシャ語では battarizō (どもる)という動詞がある。この動詞(ないしその派生語)はある程度用いられている。マタイは多分その語を生半可に知っていて、それを適当に利用したのだろう、と。それなら、マタイが語の意味を正確に知って用いたかどうかという問題にはならないし、何となく「バッタ」という音の感じからして、「ぺちゃくちゃ言う」程度の意味だろうと勝手に思い込んで用いた、ということは大いにありうる。それに、battalogeō という音の感じからして、何となく雰囲気は伝わるものだ。私にしたところで、大きな本の一冊も書けば、ほかの人が用いない奇妙な単語の用い方をする例が一つ二つは出て来るだろう。誰でも、たとえ自分の第一言語で書いていても、そういった現象は時たまあるものである。マタイだってたまにはいいではないか。新約聖書の著者に限り、そういった人間誰にでもある言語現象がありえない、などと想像する方が間違っている。“
(「新約聖書 訳と註 1 マルコ福音書/マタイ福音書」 田川建三訳 作品社 pp.585-586)

 続いて希英辞典などやグノーモンから。日本語訳はGoogle翻訳やWeblio翻訳などを使用しています。

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◎Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon
リデル=スコット 希英辞典
βαττο-λογέω ,
A.= βατταρίζω, speak stammeringly, say the same thing over and over again, Ev.Matt.6.7, Simp. in Epict.p.91D.
A. =βατταρίζω、どんよりと話し、同じことを何度も何度も言います、Ev.Matt.6.7、Simp。 Epict.p.91Dで。

◎Thayer's Greek Lexicon
STRONGS NT 945: βαττολογέω
βαττολογέω (T WH βατταλογέω (with א B, see WH's Appendix, p. 152)), βαττολόγω: 1 aorist subjunctive βαττολογήσω;
a. to stammer, and, since stammerers are accustomed to repeat the same sounds,
b. to repeat the same things over and over, to use many and idle words, to babble, prate; so Matthew 6:7, where it is explained by ἐν τῇ πολυλογία, (Vulg.multumloqui; (A. V. to use vain repetitions)); cf. Tholuck at the passage Some suppose the word to be derived from Battus, a king of Cyrene, who is said to have stuttered (Herodotus 4, 155); others from Battus, an author of tedious and wordy poems; but comparing βατταρίζειν, which has the same meaning, and βάρβαρος (which see), it seems fax more probable that the word is onomatopoetic. (Simplicius, in Epictetus (ench. 30 at the end), p. 340, Schweigh edition.)

セイヤーのギリシャ語レキシコン
ストロング新約945:βαττολογέω
βαττολογέω(TWHβατταλογέω(אB付き、WHの付録p。152を参照))、βαττολόγω:1アオリスト接続法βαττολογήσω;
a。 吃音に、そして、吃音者は同じ音を繰り返すことに慣れているので、
b。 同じことを何度も繰り返すこと、多くの怠惰な言葉を使うこと、せせらぎをすること、祈ること。 だからマタイ6:7、それはἐντῇπολυλογίαによって説明されています、(Vulg.multumloqui;(A。V.無駄な繰り返しを使用する)); cf. 通路でのソラックこの言葉は、つまずいたと言われているキュレネの王バトゥスに由来すると思われる人もいます(ヘロドトス4、155)。 退屈で言葉の多い詩の作者であるBattusの他の人。 しかし、同じ意味を持つβατταρίζεινとβάρβαρος(を参照)を比較すると、その単語は擬音語である可能性が高いようです。 (Simplicius、エピクテトス(最後のench。30)、p。340、Schweigh版)

◎A Pocket Lexicon to the Greek New Testament by Alexander Souter
βαττολογέω I chatter, am long-winded, utter empty words.
βαττολογέω 私はおしゃべり、息の長い、全くの空の言葉です

A Pocket Lexicon to the Greek New Testament by Alexander Souter. p.48, βαττολογέω


グノーモン新約聖書註解 (坪井 正之訳)
”マタイ 6:7

異邦人のように)すべての事で偽善者のやり方を避けるべきである。祈りにおいては異邦人のやり方も避けるべきである。

くどくどと祈るな)mê battologêsête. ガタカーは古文献から、Battus と呼ばれた多くの人々の例を集めている。バトスとはどもりで、従って同じ言葉を繰り返すことで有名なキレネの王の名前であったが、同じ習癖のある者がこう呼ばれた。ヘシキアスは battologia を argologia 「むだなおしゃべり」、akailogia「場所柄を弁えないおしゃべり」と説明している。彼は battarizein 「どもる」は擬声語からできたと思われると言っている。battalogein「くどくど言う」はすぐあとに出る polylogia 「言葉かずが多いこと」と同意語になる。polylogia も初めの発声を次の発声で訂正しようするどもりと同じように、同じことを何度も何度も繰り返すことである。

言葉かずが多ければ)すなわち、多くの言葉を言っているあいだに。彼らは願いごとを詳しく神々に知らせ、たとえ今でなくても、いつかかなえてもらうためには、多くの言葉が必要であると考えている。「あなたがたの父はご存じなのである」(8節)と比較せよ。同じ語 polylogia は箴言10:19に出ている。「言葉かずが多ければ、とがを免れない」アンモニウスは makrologos は少ないことについて多くの言葉を言うもの、polylogos は多くのことについて多くの言葉を言うものと言っている。キリストは多くのことを祈るときでも、少ない言葉で祈るように命じている。9-13節を見よ。[言葉は多くないが多くの祈り、余分の言葉はないが、絶えざる敬虔な心。アウグスチヌス。]

聞きいれられる)神は確かに答えてくださる。7:7。 ヘブル語の הנע「答える」が七十人訳では eisakouein「聞きいれられる」と訳されている。“

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 田川訳の註を読んでから希英辞典、今回引用はしませんが新約聖書の希和辞典なんかを見ますと、註を読まないで辞典や注解を読んでしまった場合では、辞典を鵜吞みにしないで見てみるということができるかと思います。

 希和辞典ですと山本書店の岩隈直氏の方ですと、福音派系の翻訳に見られる「繰り返す」という文言はありません。しかし、語源としてアラム語としているので、田川建三氏の ”こちらの神学者の常として、何が何でもヘブライ語・アラム語起源に従る“ という言葉を思い出してニヤリと。織田昭氏の辞典では ”無駄にくりかえす“ という説明が入れられていますが、他に示された訳語の中で、この語だけが意味合い的に異質なので、英語圏の解釈を取り入れたのだろうか?と思いました。そこでこの辞典の中心資料となった3つの辞典のリデル・スコットとシューターは確認できました(引用してあります)。バウワーは検索しましたが利用できそうなのが無く諦めました。シューターには無く、リデル・スコットの方に「同じことを何度も言う 」とあったので、こちらからなのかなと思いました。

 田川訳の註を見て、全くこのバットロゲオーに「繰り返す」という語義が無いことからよく見られる。初めに教義があり、それがギリシャ語辞典にも入り込むパターンの一つなのかなと思い。英訳聖書を見てみました。ちょっと年代順に引用したいと思います。初めは1545年のルターによるドイツ語訳、それ以降は英訳聖書の引用です。


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Luther Bibel 1545
7 Und wenn ihr betet, sollt ihr nicht viel plappern wie die Heiden; denn sie meinen, sie werden erhört, wenn sie viel Worte machen.
7祈るときは、異教徒のようにたくさんしゃべってはいけません。 彼らはたくさん言うと聞かれると思っているからです。

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Tyndale New Testament 1525
And whe ye praye bable not moche as the hethe do: for they thincke that they shalbe herde for their moche bablynges sake.
そして、あなたがたは、ヘザのようにモチェではなく、聖書を祈るのです。

Tyndale New Testament 1525(古英語の単語を現代英語の単語に直してあるもの)
But when ye pray, babble not much, as the gentiles do: for they think that they shall be heard, for their much babbling's sake.
しかし、あなたがたが祈るとき、異邦人のように、あまりしゃべりません。彼らは、ぺちゃくちゃのために、彼らは聞かれると思っているからです。

Coverdale Bible 1535
7 And when ye praye, bable not moch, as ye Hethen do: for they thinke that they shalbe herde, for their moch bablynges sake.
7あなたがたが祈るとき、異邦人のように、あまりしゃべらないでください。彼らは、多くの異邦人のために、群れをなすと思っているからです。

Matthew's Bible 1537
7 But when ye praye, bable not much as the Heathen do: for they thinke that they shalbe herde, for their muche bablynge sake.
7しかし、あなたがたが祈るとき、異教徒のようにせせらぎをすることはあまりない。

Great Bible of 1539
7 But when ye praye bable not moch, as the heathen do: for they thyncke it will come to passe, that they shalbe herd for their moch bablynges sake.
7しかし、異教徒のように、あなたがたがせせらぎをあまり祈らないとき、彼らは、彼らの多くの祝福のために群れをなだめるために、それが通り過ぎるであろう。

Geneva Bible 1560
7 Also when ye pray, use no vain repetitions as the Heathen: for they think to be heard for their much babbling.
7あなたがたが祈るときも、異教徒のように無駄な繰り返しを使わないでください。

KJV 1611,1769
7 But when ye pray, use not vain repetitions, as the heathen do: for they think that they shall be heard for their much speaking.
7しかし、あなたがたが祈るときは、異教徒のように無駄な繰り返しを使わないでください。

RV 1881
7 And in praying use not vain repetitions, as the Gentiles do: for they think that they shall be heard for their much speaking.
7異邦人のように、祈るときは無駄な繰り返しをしないでください。彼らは、多くのことを話すことで聞かれると思っているからです。

ASV 1901
7 And in praying use not vain repetitions, as the Gentiles do: for they think that they shall be heard for their much speaking.
7異邦人のように、祈るときは無駄な繰り返しをしないでください。彼らは、多くのことを話すことで聞かれると思っているからです。

RSV 1952
“And in praying do not heap up empty phrases as the Gentiles do; for they think that they will be heard for their many words.
7「そして、祈るとき、異邦人のように空のフレーズを積み上げないでください。 彼らは彼らの多くの言葉のために彼らが聞かれると思うからです。

Amplified Bible, Classic Edition 1958
7 And when you pray, do not heap up phrases (multiply words, repeating the same ones over and over) as the Gentiles do, for they think they will be heard for their much speaking.
7そして、あなたが祈るとき、異邦人がするようにフレーズを積み上げないでください(単語を増やし、同じものを何度も繰り返す)。彼らは彼らが多くのことを話すことで聞かれると思うからです。

THE NEW ENGLISH BIBLE 1961
7'In your prayers do not go babbling on like the heathen, who imagine that the more they say the more likely they are to be heard.
7 'あなたの祈りの中で、異教徒のようにペチャクチャしゃべりに行かないでください。

New American Standard Version 1963
7 “And when you are praying, do not use thoughtless repetition as the Gentiles do, for they think that they will be heard because of their many words.
7「そして、あなたが祈っているとき、異邦人のように思慮のない繰り返しを使わないでください。彼らは彼らの多くの言葉のために彼らが聞かれると思っているからです。

New International Version 1973,1983,2011
And when you pray, do not keep on babbling like pagans, for they think they will be heard because of their many words.
そして、あなたが祈るとき、異教徒のようにぺちゃくちゃしゃべり続けないでください。彼らは彼らの多くの言葉のために彼らが聞かれると思っているからです。

NKJV 1982
7 And when you pray, do not use vain repetitions as the heathen do. For they think that they will be heard for their many words.
7そしてあなたが祈るとき、異教徒のように無駄な繰り返しを使わないでください。 彼らは彼らの多くの言葉のために彼らが聞かれると思うからです。

New Revised Standard Version 1989
7 “When you are praying, do not heap up empty phrases as the Gentiles do; for they think that they will be heard because of their many words.
7「祈っているときは、異邦人のように空のフレーズを積み上げないでください。 彼らは彼らの多くの言葉のために彼らが聞かれると思うからです。

New American Standard Bible 1995
7 “And when you are praying, do not use meaningless repetition as the Gentiles do, for they suppose that they will be heard for their many words.
7「そして、あなたが祈っているとき、異邦人のように無意味な繰り返しを使わないでください。彼らは彼らの多くの言葉で聞かれると思っているからです。

The Message 2002
7-9 “The world is full of so-called prayer warriors who are prayer-ignorant.They’re full of formulas and programs and advice, peddling techniques for getting what you want from God. Don’t fall for that nonsense. This is your Father you are dealing with, and he knows better than you what you need.
「世界には、祈りを知らない、いわゆる祈りの戦士がたくさんいます。彼らは手法とプログラムとアドバイスでいっぱいです。そして、あなたが神から望むものを手に入れることの技術を小売りします。 そのナンセンスに騙されないでください。 これはあなたが扱っているあなたの父であり、彼はあなたよりもあなたが必要としていることをよく知っています。

Amplified Bible 2015
7 “And when you pray, do not use meaningless repetition as the Gentiles do, for they think they will be heard because of their many words.
7「そして、あなたが祈るとき、異邦人のように無意味な繰り返しを使わないでください。彼らは彼らの多くの言葉のために彼らが聞かれると思っているからです。


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 1560年のジュネーブ聖書(Geneva Bible)から ”vain repetitions“ (無益(無駄)な繰り返し)という訳語が入ってきます。ジュネーブ聖書の強い影響を受けているジェームズ王欽定英語訳もそれを受け継ぎ、それ以降の英訳はジェームズ王欽定英語訳の呪縛に囚われてしまいました。それでも学問的な訳はそれを脱却することができていますが、福音派や聖霊派などで使われることを意識した訳では、相変わらずの「繰り返し」が訳語に入ってきています。


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155 その後テラの名士であったボリュムネストスが娘を引き取り、妾に囲った。やがて舌の廻らぬ吃(ども)りの男児が生れ、その子に附けられた名がバットスであったとテラ人もキュレネ人も伝えているのであるが、私の考えではそれは別の名であった。彼はリビアへ行ってからバットスと改名したもので、デルポィで彼に授けられた神託と、彼の得た栄位に基いてこの名を名乗ったのであった。リビア人は王のことをバットスというからで、また私の考えではそれなればこそデルポイの巫女も託宣を下す折に、彼の名をリビア語で呼んだのであろう。・・・
(四巻155 「ヘロドトス 歴史 中」 岩波文庫 p.90 )


数珠と定式文での連祷 1


 数珠と定式文での連祷ということで少し。一般的にキリスト教の中で一番大きな団体であるローマ・カトリック教会ですと、思いつくのはロザリオやチャプレットを使って、定められた祈祷文を繰り返し祈り黙想をするというのが一般的でしょう。

 個人的にはカトリックの木製の珠のロザリオを使って(カトリックの司祭から祝福してもらっているもので)、アメリカのルーテルは教会で使われている祈祷文とその定式に沿った祈りをしています。カトリックの普通のビーズの奴や正教のコンボスキニオンを使ってみましたが、指慣れがしないのか珠を繰る方に意識が行ってしまい、やはり使い慣れたものが一番祈りに集中できます。

ロザリオ二種、大天使ミカエルのチャプレット、コンポスキニオン URL
(左二つはロザリオ、青い珠のがチャプレット、右側のがコンボスキニオン。いつも使っているのは一番左側のもの)

 あと聖母マリアの姿が刻まれた「メダイ」や聖人や天使の像が刻まれたメダイ、信者が身に着けているスカプラリオ、「十字架の道行き」の御絵やレリーフとその場面に即した祈祷文の付いたブックレットなど、一般的にはこれらはなじみがないというか知らない人がほとんどでしょう。

主の十四留、スカプラリオ、メダイ、ロザリオ URL
(手元にあるカトリックの聖品類のごく一部)

 ギリシャ正教ですとカトリックのロザリオに似たコンボスキニオンという結び目の付いた祈りのロープや木製の玉やビーズで作られたロザリオとよく似たものを使ったりしています。

 どのようなことをそれを使って祈っているのでしょうか。カトリックのロザリオとチャプレット、ギリシャ正教のコンボスキニオンを使った「イイススの祈り」の祈りなどについてちょっと見てみたいと思います。

カトリック要理の友 p.152 URL
(カトリック要理の友 p.152)

 まずはローマ・カトリック教会のロザリオの祈りから

ロザリオの祈り一環を唱える前に、十字を切ってから、ロザリオについている十字架の箇所で「使徒信経(使徒信条)」を祈り、最初のビーズで「主祷文(主の祈り)」。次の3個のビーズで「天使祝詞(アヴェ・マリアの祈り)」を各1回づつ、そして3個目の祈り最後に「栄唱」(センターメダイから一環を始める場合は3個目の次のビーズで「栄唱」)。3個目の次のビーズ(もしくはセンターメダイ)で「主祷文(主の祈り)」。10個のビーズで各ビーズ毎に「天使祝詞(アヴェ・マリアの祈り)」1回を唱え、10個目の祈りの最後に「栄唱」。これで一連。一連ごとに喜び・苦しみ・栄えの神秘のいずれかを黙想。五連で一環。(センターメダイを使わない方は心のともしび運動の「カトリック要理の友」より)という流れになります。

 祈りの定式文は以下のようになります。昔から使われていた文語文の祈祷文、平成に口語化された祈祷文と2011年の改定された「天使祝詞」を並べてみました。

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「使徒信経」
われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、
またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト、すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、古聖所(こせいしょ)に降りて三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う主を信じ奉る。
われは聖霊、 聖なる公教会、諸聖人の通功、罪の赦し、肉身のよみがえり、終りなき命を信じ奉る。
アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 1979年8刷)

「使徒信条」( 2004年2月18日 日本カトリック司教協議会認可)
天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。
(心のともしび「カトリック要理の友」 2007年11刷)

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「主祷文」
天にましますわれらの父よ、願わくは御名の尊(とうと)まれんことを、
御国の来たらんことを、御旨(みむね)の天に行わるる如く地にも行われんことを。
われらの日用の糧(かて)を今日(こんにち)われらに与え給え。
われらが人に許す如く、われらの罪を許し給え。
われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。
アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 1979年8刷)

「主の祈り」
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 2007年11刷)

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「天使祝詞」
めでたし 聖寵充ち満てるマリア、主御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。
天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終のときも祈り給え。
アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 1979年8刷)

「聖母マリアへの祈り」(1993年口語訳)
恵みあふれる聖マリア、 主はあなたとともにおられます。
主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました。
神の母聖マリア、罪深いわたしたちのために、今も、死を迎える時も祈って下さい。
アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 2007年11刷)

「アヴェ・マリアの祈り」(2011年6月14日 定例司教総会にて承認 ©日本カトリック司教協議会)
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン。

****

「栄唱」
願わくは、父と子と聖霊とに栄えあらんことを。初めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで。アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 1979年8刷)

「栄唱」
栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 2007年11刷)

****

 以上がカトリックのロザリオで使われる祈祷文になります。

 続いて大天使ミカエルと守護天使や聖人などに祈るときに、それぞれのメダイの付いたチャプレットと呼ばれるロザリオよりも珠の数の少ない数珠が使われ(それぞれのチャプレットごとに珠の数も違う)、それぞれに祈りの定式文が定められています。Wikipediaのチャプレットを見ますといろいろなものがあるなと感じます。

 ネットなんかで検索しますと神のいつくしみのチャプレットが出てきます。聖ファウスティナに出現したイエスが広めるように教えられたとされるものです。

 とりあえず手元にある大天使ミカエルのチャプレットについて見てみます。


 大天使ミカエルのチャプレット 祈り方

※メダイにうやうやしく口づけした後、

〈先唱〉 天主よ、我が助けに来たり給え。
〈応唱〉 主よ、我を急ぎ助け給え。

※メダイの上の4つの珠で、次の各天使に【主祷文】1回を表敬として捧げる。

1,聖ミカエルへの表敬として・・・
2,聖ガブリエルへの表敬として・・・
3,聖ラファエルへの表敬として・・・
4,我々の守護天使への表敬として・・・

※以上の祈りの後に【栄唱】1回

《天使の第一隊に向かう祈り》

聖ミカエルと熾天使(セラフィム)の天軍の御取次によりて、主が、我らをして完全なる愛徳の火に燃ゆる者とならしめ給わんことを。アーメン。

※大珠で【主祷文】1回、3つの小珠で【天使祝詞】3回。以下各階級も同様に行う。

《天使の第二隊に向かう祈り》

聖ミカエルと智天使(ケルビム)の天軍の御取次によりて、主が、我らに罪の道を離れ、完徳の道に進む聖寵を与え給わんことを。アーメン。

《天使の第三隊に向かう祈り》

聖ミカエルと座天使(トロノス)の天軍の御取次によりて、主が、我らの心に真実にて深き謙遜の精神を注ぎ給わんことを。アーメン。

《天使の第四隊に向かう祈り》

聖ミカエルと主天使(ドミナツィオーヌス)の天軍の御取次によりて、主が、我らの五官を制御し、悪しき情欲を正す恵みを与え給わんことを。アーメン。

《天使の第五隊に向かう祈り》

聖ミカエルと力天使(ヴィルトゥテス)の天軍の御取次によりて、主が、我らの霊魂を、悪魔の罠と、誘惑より守り給わんことを。アーメン。

《天使の第六隊に向かう祈り》

聖ミカエルと能天使(ポテンターテス)の天軍の御取次によりて、主が、我らを試みに引き給わず、悪より救い給わんことを。アーメン。

《天使の第七隊に向かう祈り》

聖ミカエルと権天使(プリンチパリトゥス)の天軍の御取次によりて、主が、我らの霊魂に、真実にして心からなる従順の精神を満たし給わんことを。アーメン。

《天使の第八隊に向かう祈り》

聖ミカエルと大天使(アルクアンジェル)の天軍の御取次によりて、主が、我らに堅忍を持って信仰と善行に励み、天国の光栄に達する恵みを与え給わんことを。アーメン。

《天使の第九隊に向かう祈り》

聖ミカエルと諸天使(アンジェル)の天軍の御取次によりて、主が、彼らをして、この世においては我らを守らしめ、やがて永遠の光栄にまで、我らを導かしめ給わんことを。アーメン。

《終わりにする祈り》
〈交唱〉 いとも栄えある聖ミカエル、天軍の第一の頭にして総帥、霊魂の忠実なる守護者、悪しき霊の征服者、天軍の家の寵児、イエズス・キリストに次ぐ我らの感ずべき導き手、位において御身により頼む我らをして日々天主にまします忠実に仕え奉るを得せしめ給え。

〈先唱〉 イエズス・キリストの聖会の統率者、幸いなる聖ミカエルよ、我らの為に祈り給え。

〈応唱〉 我らが主の御約束にかなう者とならんために。

《祈願》 全能永遠の天主、主は限り無き御慈しみと御あわれみによりて、全人類の救済のため、いとも栄えある大天使聖ミカエルを、御身の聖会統率者と選び給えり。願わくはそのねんごろなる御保護によりて、我らがあらゆる悪しき敵より逃れ、死に際してはいかなる悪の手にもおびやかされることなく、至聖なる御身の御前に彼によりて導かるる幸いを得しめ給え。我らの主イエズス・キリストの御功徳によりて。アーメン。


****

続いてギリシャ正教のコンボスキニオンとイイススの祈りについてですが、こちらは解散してしまったエンデルレ書店で出版していた「無名の順礼者 あるロシア人順礼者の手記」 (A・ローテル訳・斎田靖子訳)」を読むとよいでしょう。

 あと同じくエンデルレ書店で出されていた英訳「フィロカリア」からの抜粋訳になる「修徳の実践 心の祈り(イエスへの祈り)に関する著述」(斎田靖子訳)か新世社から出ている「東方キリスト教霊性の精華 フィロカリア」(全9巻)も併せて読むといいかもしれません(エンデルレ書店の本は出版社が解散しているので古本でも価格は定価の何倍にもなっている場合があります。)。

 こちらのギリシャ正教の祈りに関する記事は参考になるかと思います。 「私祈祷」、「イイススの祈りについて カリストス主教 講演 第5回 前」、「イイススの祈りの実践 カリストス主教 講演 第5回 後

 コンポスキニオンを用いた祈り方の一つはネットなどで調べると以下のようです。

小玉で「イイススの祈り」
大玉で「至聖生神女讃歌(カトリックの「天使祝詞」)」もしくは「常に福(さいわい)にして」
コンポスキニオンの最後には「天主經(主の祈り)」

 この定式のギリシャ正教(日本ハリストス正教会の聖書や祈祷書など、明治時代に訳されたまま現代も使い続けているのでちょっと読み辛いかもしれません)の祈禱文は以下になります。

****

「イイススの祈り」
主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみ給え。

「至聖生神女讃詞」
生神童貞女(しょうしんどうていじょ)よ,慶(よろこ)べよ,恩寵に満たさるるマリヤよ,主は爾(なんじ)と偕(とも)にす,爾は女の中(うち)にて讃美たり,爾の胎(たい)の果(み)も讃美たり,爾は我等の霊(たましひ)を救ふ主を生みたればなり。

「常に福にして」
常に福にして全く玷(きず)なき生神女(しょうしんじょ)我が神の母なる爾を讃美するは真に當(あた)れり。ヘルワィムより尊(たうと)く,セラフィムに並なく栄え,貞操(みさほ)を壊(やぶ)らずして神(かみ)言(ことば)を生みし實(じつ)の生神女たる爾を崇め讃む。

「天主經」
天に在ます我等の父よ,願わくは爾の名は聖とせられ,爾の国は来り,爾の旨は天に行わるるが如く地にも行われん,我が日用の糧を今日我等に与え給え,我等に債ある者を我等免すが如く,我等の債を免し給え。我等を誘に導くかず,猶我等を凶悪より救い給え。 蓋国と権能と光栄は爾に世世に帰す。「アミン」

****

 プロテスタント(特に英国の非国教系やピューリタン系、国教会から別れたメソジストとその流れ)ではカトリックのロザリオやチャプレットはマリア崇拝、聖人崇拝と見做し忌避し否定する傾向が強く、また同じ定式の祈りを繰り返すことにも忌避感があり、これらの流れの諸教会では使われることはありません。

 プロテスタントでロザリオがあるのは、英国国教会と世界各地にある聖公会の諸教会の世界的連合アングリカン・コミュニオンの教会とルーテル派の一部で見られるくらいでしょう。

 聖公会のロザリオは「アングリカン・ロザリー」とか「祈りのピース」とか呼ばれるようです。

祈り方については 聖公会のロザリオと祈り方についてのサイトやAnglican Prayer Beadsなどがわかりやすいかと思います。


****

ルーテル派ではアメリカ福音ルーテル教会のカトリックのロザリオによく似たLutheran Rosary や北欧で見られるWreath of Christという玉の数の少ない日本でよくみられる数珠ブレスレットみたいなものがあります。

Wreath of Christ 小
(Wreath of Christ)

 アメリカ福音ルーテル教会のLutheran Rosary の祈り方についてみてみたいと思います。検索すると色々出てきましたが、とりあえずこの定式のがよかったのでそれを取り上げます。

Lutheran Rosary  説明付き URL
(Lutheran Rosary )

「十字架のしるし」と共に十字を切って始まります。そして十字架を持ち「使徒信条」を唱えます。続いて小玉で「イエスの祈り」、大玉で「グロリア・パトリ」、それから大玉で「主の祈り」、小玉で「イエスの祈り」、大玉で「グロリア・パトリ」の繰り返し。センターメダイがある場合はセンターメダイで「天使祝詞」か「マグニフィカート」、「神の母への福音主義の賛美」などをいのります。

 以下に日本のルーテル派で使われている祈りの定式文を上げます。文語体の祈りなどは1964年の「教会式文」、口語体の祈りなどは1983年の「礼拝と洗礼」からとなります。

****

「十字架のしるし」
父と、子と、聖霊のみ名により、アーメン。

「み名による祝福」
父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。

「使徒信条」
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に坐したまえり。かしこより来たりたまいて生ける人と死にたる人とを、さばきたまわん。
われは聖霊を信ず。聖なるキリスト教会(「公教会」としてもよい)、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。
アーメン。

「使徒信条」
天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。
(アーメン。)

「主の祈り」
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「主の祈り」
天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行われるように、地上でも行われますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を許しましたから、私たちの犯した罪をおゆるしください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)

「イエスの祈り」
主イエス・キリスト 神の子よ。罪人である私を憐れんでください。

「グロリア・パトリ」
父、み子、御霊の神に、み栄えあれ、初めも、今も、後も、世々に絶えず、アーメン。

「栄頌」
父、み子、御霊に、み栄え、初めも、今も、後も、世々に絶えず、アーメン。

「マグニフィカツト」
わが心、主をあがめ
 わが靈は、わが救主なる神を喜べり
そのはしための卑しき身をも
 かえりみ給いたればなり
視よ、今よりのちよろず世の人は
 我をさいわいなるものとなさん
全能者、われに
 大なる事をなし給いたればなり
その御名はきよく
 そのあはれみは、代々、畏(かし)こみ恐るる者にのぞむなり
神はみ腕にて力をしめし
 心のおもいに高ぶる者をば散しもう
いきおいある者を位よりおろし
 卑しき者を高くあげ
飢えたる者を善(よ)き物に飽かせ
 富める者を空しく去らせ給う
また我らの先祖に告げ給ひし如く
 アブラハムと、その裔(すえ)とに對するあわれみを
とこしえに忘るることなからんために
 しもべイスラエルを助けたまへり
父、御子、御霊の神に
 み栄えあれ
はじめにありしごと、今も後も
 ときわにアーメン
(「日本福音ルーテル教會式文」 昭和24年 pp.48-49)


「マグニフィカート」
1、私の魂は主である神をあがめ、
2、私の霊は私の救い主である神を喜びます。
3、神はとるにたりない女である私に目を留められました。これからのち世々の子らは私をさいわいな女とほめたたえることでしょう。
4、すべてのことをなさる神が私に大きなことをしてくださったからです。そのみ名は聖いのです。
5、その憐みは世々にわたって、神を畏れるすべての者に及びます。
6、神はそのみ腕をもって力強く働き、心の思いの高ぶるすべての者を打ちこわされます。
7、神は偉大な君侯をその支配(の座)から引きおろし、低くて、無である者を高めてくださいます。
8、神は飢えている者をあらゆるたぐいのよいもので飽かせ、富んでいる者を空手(からて)のままにしておかれます。
9、神は、その憐みを忘れずに、仕えるイスラエルの民を受けいれてくださいます。
10、我々の父祖アブラハムとその子らに永遠に約束なさったとおりに。
(「ルター著作集第一集第4巻」pp.160-161)


Martin Luther’s Evangelical Praise of the Mother of God
O Blessed Virgin, Mother of God, what great comfort God has shown us in you, by so graciously regarding your unworthiness and low estate. This encourages us to believe that henceforth He will not despise us poor and lowly ones, but graciously regard us also, according to your example. Amen

「マルティン・ルターの神の母への福音主義の賛美」

おお、祝福された処女また神の母よ、神があなたの無価値と卑しさを、これほど恵み深く顧みてくださることによって、神は我々に、これほど大きな慰めを、あなたのことで示してくださった。それによって我々はこののち神が、貧しい、無である者を、あなたの例証によって、見捨てず、恵み深く顧みてくださることを確信する。アーメン。
(「ルター著作集第一集第4巻」p.197、「ルター著作集分冊7 マグニフィカート」pp.59-60)

「おお、祝福された処女また神の母よ、神があなたの無価値と卑しさとを、これほど恵み深くかえりみてくださることによって、神は私たちに、これほど大きな慰めを、あなたのことで示してくださった。それによって私たちはこののち神が、貧しい、無である者を、あなたの例証によって、見捨てず、恵み深くかえりみてくださることと確信する」
「ルター著作選集」 (ルター研究所 編 教文館 pp.333-334)

****

「イエスの祈り」、「天使祝詞」、「マグニフィカート」、「マルティン・ルターの神の母への福音主義の賛美」の三つは、日本のルーテル派では祈られないので、「天使祝詞」はカトリックのものをご覧ください。「マグニフィカート」と「マルティン・ルターの神の母への福音主義の賛美」は「ルター著作集」と」ルター著作選集」から引用しました。「イエスの祈り」は英語版から機械翻訳を「イイススの祈り」にて修正。


カトリックミサ式次第

 開祭
1 入祭の歌

2 あいさつ
司) 父と子と聖霊のみ名によって。
会) アーメン。
司) 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。
会) また司祭とともに。

3 回心
司) 皆さん、神聖な祭りを祝う前に、わたしたちの犯した罪を認めましょう。
司) 全能の神と、
会) 兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。
司) 全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように。
会) アーメン。

4 あわれみの賛歌
先) 主よ、あわれみたまえ。
会) 主よ、あわれみたまえ。
先) キリストよ、あわれみたまえ。
会) キリストよ、あわれみたまえ。
先) 主よ、あわれみたまえ。
会) 主よ、あわれみたまえ。

5 栄光の賛歌
司) 天のいと高きところには神に栄光。
会) 地には善意の人に平和あれ。
   われら主をほめ、主をたたえ、
   主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る。
   神なる主、天の王、全能の父なる神よ。
   主なる御ひとり子、イエス・キリストよ。
   神なる主、神の子羊、父のみ子よ。
   世の罪を除きたもう主よ、
   われらの願いを聞き入れたまえ。
   父の右に坐したもう主よ、
   われらをあわれみたまえ。
   主のみ聖なり、主のみ王なり、
   主のみいと高し、イエス・キリストよ。
   聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。アーメン。

6 集会祈願
司) ・・・・祈りましょう。
   聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、
   支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。
会) アーメン。

 ことばの典礼
7 第一の朗読
朗)・・・・(朗読の終わりに聖書に一礼する)
奉仕者) 神に感謝。

8 答唱詩編

9 第二朗読

10 アレルヤ唱または詠唱

11 福音書朗読
司) 主は皆さんとともに。
会) また司祭とともに。
司) ・・・・による福音。
会) 主に栄光。
司) ・・・・(福音の終わりに)キリストに賛美。
会) キリストに賛美。

12 説教

13 信仰告白
全) わたしは信じます。唯一の神、
   全能の父、
   天と地、
   見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
   わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。
   主は神のひとり子、
   すべてに先立って父より生まれ、
   神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
   造られることなく生まれ、父と一体。
   すべては主によって造られました。
   主は、わたしたち人類のため、
   わたしたちの救いのために天からくだり、
   聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
   人となられました。
   ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
   苦しみを受け、葬られ、
   聖書にあるとおり三日目に復活し、
   天に昇り、父の右の座に着いておられます。
   主は、生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
   その国は終わることがありません。
   わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
   聖霊は、父と子から出て、
   父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
   また預言者をとおして語られました。
   わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
   罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
   死者の復活と
   来世のいのちを待ち望みます。
   アーメン。

14 共同祈願
司) ・・・・祈りましょう。
先) ・・・・ますように。
会) 主よ、私たちの祈りを聞き入れてください。
司) ・・・・。わたしたちの主イエス・キリストによって。
会) アーメン。

 感謝の典礼
15 奉納の歌
 奉納行列

16 パンを供える祈り
司) 神よ、万物の造り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、
   大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。
会) 神よ、あなたは万物の造り主。

 ぶどう酒と水の準備  

17 カリスを供える祈り
司) 神よ、万物の造り主、ここに供えるぶどう酒はあなたからいただいたもの、
   大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。
会) 神よ、あなたは万物の造り主。

 清めの祈り
18 祈りへの招き
司) 皆さん、このさざけものを、全能の、
   神である父が受け入れてくださるように祈りましょう。

19 奉納祈願
司) ・・・・。私たちの主イエス・キリストによって。
会) アーメン。

 叙唱前句
司) 主は皆さんとともに。
会) また司祭とともに。
司) 心をこめて神を仰ぎ、
会) 賛美と感謝をささげましょう。

20 叙唱
司) 聖なる父、全能永遠の神、いつどこでも主・キリストによって
   賛美と感謝をささげることは、まことにとうといたいせつな
   務めです。・・・・神の威光をあがめ、
   権能を敬うすべての天使とともに、
   わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います。

21 感謝の賛歌
先) 聖なるかな、
会) 聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。主の栄光は天地に満つ。
   天のいと高きところにホザンナ。
   ほむべきかな、主の名によりて来る者。
   天のいと高きところにホザンナ。

22 奉献文
   ・・・・・(第一・二・三・四奉献文の内どれか)・・・・・・・・・・・・・・・・・
   皆、これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される、
   わたしのからだである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと
   多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血で
   ある。これをわたしの記念として行いなさい。

23 記念唱
司) 信仰の神秘。
会) 主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。
司) わたしたちは今、御子キリストの救いをもたらす受難・復活・昇天を記念し、その再臨を待ち望み、いのちに満ちたこのとうといいけにえを感謝してささげます。あなたの教会のささげものを顧み、み旨にかなうまことのいけにえとして認め、受け入れてください。御子キリストの御からだと御血によってわたしたちが養われ、その聖霊に満たされて、キリストのうちにあって一つのからだ、一つの心となりますように。聖霊によってわたしたちがあなたにささげられた永遠の供えものとなり、選ばれた人々、神の母おとめマリアをはじめ、使徒と殉教者、聖○○○○(その日の聖人、または保護聖人) すべての聖人とともに神の国を継ぎ、その取り次ぎによって絶えず助けられますように。わたしたちの罪のゆるしとなるこのいけにえが、全世界の平和と救いのためになりますように。地上を旅するあなたの教会、私たちの教父○○○○世、わたしたちの司教○○○○(姓名)、司教団とすべての教役者、あなたの民となったすべての人の信仰と愛を強めてください。あなたがここにお集めになったこの家族の願いを聞き入れてください。いつくしみ深い父よ、あなたの子がどこにいても、すべてあなたのもとに呼び寄せてください。亡くなったわたしたちの兄弟、また、み旨に従って生活し、今はこの世を去ったすべての人をあなたの国に受け入れてください。わたしたちもいつかその国で、いつまでもともにあなたの栄光にあずかり、喜びに満たされますように。主・キリストを通してあなたはすべてのよいものを世にお与えになります。

24 栄唱
司) キリストによってキリストとともにキリストのうちに、
   聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、
   すべての誉と栄光は、世々に至るまで。
会) アーメン。

 交わりの儀
25 主の祈り
司) 主の教えを守り、みことばに従い、つつしんで主の祈りを唱えましょう。
会) 天にまします我らの父よ、
   願わくはみ名の尊まれんことを。
   み国の来たらんことを。み旨の天に行わるごとく、
    地にも行われんことを。
   われらの日用の糧を
    今日われらに与えたまえ。
   われらが人にゆるすごとく
    われらの罪をゆるしたまえ。
   われらを試みに引きたまわざれ、
    われらを悪より救いたまえ。

 副文
司) いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、
   現代に平和をお与えください。
   あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、
   すべての困難に打ち勝つことができますように。
   わたしたちの希望、
   救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。
会) 国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。

26 教会に平和を願う祈り
司) 主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。
   「わたしは平和をあなたがたに残し、
     わたしの平和をあなたがたに与える。」
   わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、
   おことばのとおり教会に平和と一致をお与えください。
会) アーメン。

 平和のあいさつ
司) 主の平和がいつも皆さんとともに。
会) また司祭とともに。
司) 互いに平和のあいさつをかわしましょう。
会) 主の平和。
会) 主の平和。

27 平和の賛歌
   「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、
     われらをあわれみたまえ。」
   「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、
     われらをあわれみたまえ。」
   「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、
     われらに平安を与えたまえ。」

 拝領前の祈り
   司祭は黙って祈る

28 拝領前の信仰告白
司) 神の子羊の食卓に招かれたものは幸い。
会) 主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、
   あなたをおいてだれのところに行きましょう。

 司祭の拝領

 拝領の歌

29 信者の拝領
司) キリストのからだ。
拝領者) アーメン。

 拝領後の感謝
30 拝領祈願
司) 祈りましょう。・・・・・・・・・・わたしたちの主イエス・キリストによって。
会) アーメン。

 閉会
31 派遣の祝福
司) 主は皆さんとともに。
会) また司祭とともに。
司) 全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。
会) アーメン。

32 閉会のあいさつ
司) 感謝の祭儀を終わります。
   行きましょう、主の平和のうちに。
会) 神に感謝。

退堂
 閉会の歌を歌うこともできる。

プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

 Yahoo!ブログからの引っ越し記事内のURLはリンク切れをしているものがあります(気が付いたらものからインターネットアーカイブに保存されているのならウェイバックマシンURLなどに修正などしております)。


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​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

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