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五島勉著「ノストラダムスの大予言」のトンデモ人魚


 平成19(2007)年か、平成20(2008)年頃の帰り道に古本屋に立ち寄ったところ、100円ワゴンの中に五島勉の「ノストラダムスの大予言」シリーズがありました。1999年が過ぎて何年も経ちますから、外れた予言解釈本などは投げ売り状態でした。そこでドゥームズデイカルト(終末カルト)を調べる一環で五島勉の「ノストラダムスの大予言」シリーズを全巻揃えてみました(当時は1冊100円程度なのでお財布にも優しかった)。あと、「トンデモ ノストラダムス本の世界」とか、トンデモシリーズも買いました。

 「トンデモ ノストラダムス本の世界」を読んで、その中で印象深く残っているのが、「ノストラダムスの大予言」の初期の版には、予言詩の3巻21番の詩の成就として出てくる人魚の写真(夕刊フジに載せられていたものを転載)が、上半身が魚で下半身が人間という「魚人」のようなものだったのが、コペンハーゲンの人魚像の写真に差し替えられたというものでした。

トンデモ ノストラダムス本の世界(山本弘(と学会会員)著 洋泉社 1998年)


トンデモ ノストラダムス本の世界(山本弘(と学会会員)著 洋泉社 1998年 p.59)
(「トンデモ ノストラダムス本の世界」 山本弘(と学会会員)著 洋泉社 1998年 p.59)

“  また『大予言』の初版本には、アラビア西海岸でつかまったという、上半身魚、下半身人間のヘンてこりんな怪物の写真(『夕刊フジ』からの転載)が載っていた。どう見ても、海外のタブロイド新聞によくあるインチキな合成写真なのだが、之こそノストラダムスの予言した「怪奇な人魚」(第三巻二一番)だというのである。しかし、これはさすがに自分でも無理があると感じたのか、後の版ではコペンハーゲンにある人魚像の写真に差し替えられている。 ”
(「トンデモ ノストラダムス本の世界」 山本弘著 洋泉社 1998年7月14日初版 p.58)

 その時持っていた、「ノストラダムスの大予言」は新しい版(ノストラダムスWikiの「『ノストラダムスの大予言』の各版の違い」によると水色版)のものだったので、本の中の写真もコペンハーゲンの人魚像でした。最近になって思い出して、検索してノストラダムスWikiとかを見たり、画像検索とかしたらいくつか出て来てその記事を見たりしたら、ベルギーの画家ルネ・マグリットによる1934年の油彩作品「共同発明 (The Collective Invention)」を使ったものだったようです(この作品については.renemagritte.org https://www.renemagritte.org/the-collective-invention.jsp#prettyPhotoや、「Artpedia(アートペディア)」の作品解説がわかりやすかったです。 https://www.artpedia.asia/the-collective-invention/ )。

 ルネ・マグリットの元絵と、それを新聞の荒い写真画像に似せるために点画加工したものと、「ノストラダムスの大予言」に夕刊フジから転載されていたものを並べて見ますと、ルネ・マグリットの絵が元なんだとわかります。

ルネマグリットの1934年の作品「共同発明」(Collective Invention)、それを点画加工したもの、ノストラダムスの大予言に掲載された写真

 さて、この写真記事の個所を五島勉著の「ノストラダムスの大予言」の青版と水色版から引用したいと思います。

****

「ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日」 青版(昭和49年(1974年)2月23日158版)、水色版(平成4年(1992年)3月10日448版)


“ それは第三巻の二一、次のような常識では考えられない詩である。

 アドリアの海を通ってクルスタミンに
 おそろしい魚があらわれるだろう
 それは一匹の奇怪な人魚
 釣り針を使わずとらえられることになるはずだ

 時日は指定されていない。汚染魚や奇形魚をあつかった時の全部が、現代を示していることから見て、同じ表現の「おそろしい魚」(un horrible poisson)という言葉がふくまれるこの一篇も、そうした現代関連詩の一つと見ていいだろう。
 ノストラダムスは、指し示す時代によって、形容詞や動詞を微妙に変に変えて使うくせがあるので、私のこの推定はまず確実だ。
 とすると、現代、おそらくは汚染魚や奇形魚が出てくるのと同じ時期に、ローレライの歌に出てくるような人魚が一匹つかまえられるということになる。
 その場所はクルスタミン(Crustamin=甲殻類つまりエビ・カニ・サソリなどがとれる土地を意味する古語。中世の地理用語では紅海地方を指す)。捕える状況は釣り針を使わず―たぶんアミか素手。
 これは考えられない。人魚は完全に虚構の動物だ。船員や漁民が人魚を見た、という話はむかしときどきあったが、それは全部アザラシかジュゴン(水棲哺乳類の一種)の見誤りだった。生物学上、人間と魚の混血動物が存在するということは、天地がひっくりかえってもありえない。
 したがって、その発見と捕獲をノストラダムスが予言したとすれば、それはいからも中世人らしいエラーというべきで、ここから彼の予言体系すべてが崩れてくる。
 私はそう思って、救いへの突破口をようやく見つけ出した気になった。
 ところが、その数日後、電車に乗っていた私は、たまたま隣の人がひろげた新聞(夕刊フジ、七三年四月七日)を見て、息が止まるのをおぼえた。
 そこには、三面トップ扱いで、アラビア西海岸で一匹の人魚がアミにかかったこと、しかもそれは、顔が魚、体が人間という奇怪きわまる人魚だったことが、現地新聞(カイロのアルゴムホウリア紙)からの特電として、くわしく報道されていたのである。
 この報道は、その後、二、三の週刊誌でも伝えられたので、お読みになった方も多いと思う。それは必ずしも権威のあるものではなく、続報もなかったので、あるいは現地新聞のまちがいだったのかもしれない。しかしこの場合、ことの真偽は問題ではない。そういう人魚さわぎが、四百年前の予言者によって見通されていたということが問題なのだ。
 ノストラダムスの時代からいままで、人魚が実際につかまったこと―少なくともつかまったと人びとが広く知ったことは、この事件一回しかない。そうであるなら、彼はあきらかにこの事件を予知したことになる。
 それが的中したということは、さっきの突破口と逆の意味で、彼の全予言が的中することを証明してはいないだろうか。
 つけ加えるなら、この詩の最後の「釣り針を使わず」の原文は dehors de I'hamecon (釣り針の外に)であり、これには「いったんつかまえたものをとり逃がす」という意味もあり、それが報道されたのちウヤムヤになってしまう状況さえ示しているように感じられるのである。
 実際、現地紙によると、漁師たちは一旦その人魚を岸にひきあげたが、すぐに可哀そうになり、また祟りがおそろしいと思って、アミからはずして逃がしてやったことになっている。
 ともかく、この人魚ショックは、私の絶望にダメ押しの一点を加えた。ここまでピタリと当たった以上、そしてほかの詩も(ヒトラーが Hyster であるような未完成のミスを除いて)すべて的中している以上、人類破滅の予言もまず絶対に疑うことはできない。
 この、もはや逃げ道のない確信をいだいて、私たちはとうとう、一九九九年の滅亡予言に取りくまなければならない瀬戸ぎわに立たされてしまったようである。 ”

「ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日」 五島勉著 祥伝社 昭和49(1974)年2月23日158版(青版) pp.136-140

****

“  それは第三巻の二一、次のような常識では考えられない詩である。

 アドリアの海を通ってクルスタミンに
 おそろしい魚があらわれるだろう
 それは一匹の奇怪な人魚
 釣り針を使わずとらえられることになるはずだ

 時日は指定されていない。しかし、汚染魚や奇形魚をあつかった時の全部が、現代を示していることから見て、同じ表現の「おそろしい魚」(un horrible poisson)という言葉がふくまれるこの一篇も、そうした現代関連詩の一つと見ていいだろう。
 ノストラダムスは、指し示す時代によって、形容詞や動詞を微妙に変に変えて使うくせがあるので、私のこの推定はまず確実だ。
 とすると、現代、おそらくは汚染魚や奇形魚が出てくるのと同じ時期に、ローレライの歌に出てくるような人魚が一匹つかまえられるということになる。
 その場所はクルスタミン(Crustamin=甲殻類つまりエビ・カニ・サソリなどがとれる土地を意味する古語。中世の地理用語では紅海地方を指す)。捕える状況は釣り針を使わず―たぶんアミか素手。
 これは考えられない。人魚は完全に虚構の動物だ。船員や漁民が人魚を見た、という話はむかしときどきあったが、それは全部アザラシかジュゴン(水棲哺乳類の一種)の見誤りだった。生物学上、人間と魚の混血動物が存在するということは、天地がひっくりかえってもありえない。
 したがって、その発見と捕獲をノストラダムスが予言したとすれば、それはいからも中世人らしいエラーというべきで、ここから彼の予言体系すべてが崩れてくる。
 私はそう思って、救いへの突破口をようやく見つけ出した気になった。
 ところが、その数日後、電車に乗っていた私は、たまたま隣の人がひろげた新聞(夕刊フジ、七三年四月七日)を見て、息が止まるのをおぼえた。
 そこには、三面トップ扱いで、アラビア西海岸で一匹の人魚がアミにかかったこと、しかもそれは、顔が魚、体が人間という奇怪きわまる人魚だったことが、現地新聞(カイロのアルゴムホウリア紙)からの特電として、くわしく報道されていたのである。
 この報道は、その後、二、三の週刊誌でも伝えられたので、お読みになった方も多いと思う。それは必ずしも権威のあるものではなく、続報もなかったので、あるいは現地新聞のまちがいだったのかもしれない。しかしこの場合、ことの真偽は問題ではない。そういう人魚さわぎが、四百年前の予言者によって見通されていたということが問題なのだ。
 ノストラダムスの時代からいままで、人魚が実際につかまったこと―少なくともつかまったと人びとが広く知ったことは、この事件一回しかない。そうであるなら、彼はあきらかにこの事件を予知したことになる。 また西欧では、人魚は人間の正気を失わせ、舟をおびきよせて難させる破滅の象徴であり、 この詩はそういう誘惑と破滅の時代が来ることをあらわしたの破だ、という説もある。 いずれにしろ、これはデタラメな詩ではない。
 つけ加えるなら、この詩の最後の「釣り針を使わずに」の原文は dehors de I'hamecon (釣り針の外に)であり、これには「いったんつかまえたものをとり逃がす」という意味もあり、それが報道されたのちウヤムヤになってしまう状況さえ示しているように感じられるのである。
 実際、現地紙によると、漁師たちはいったんその人魚を岸にひきあげたが、すぐに可哀そうになり、また祟りがおそろしいと思って、アミからはずして逃がしてやったことになっている。
 ともかく、この人魚ショックは、私の絶望にダメ押しの一点を加えた。ここまでピタリと当たった以上、そしてほかの詩も(ヒトラーが Hyster であるような未完成のミスを除いて)すべて的中している以上、人類破滅の予言もまず絶対に疑うことはできない。
 とくに最近おそろしいと感じさせられたのは、118ページにあげた「大地と大気が冷えていく」の詩である。本書がはじめて発行された段階では、この詩は、まだ文字どおりの未来への予言だと受けとられていた。ところが、発行の数ヵ月後あたりから、この詩が暗示する状況は、すでに科学的に確定した事実として、私たちにふりかかってきた。大気汚染を原因のひとつとする異常気象によって、地球の気温が冷えはじめたこと、そしてそれが、かつてない世界的な食糧危機をもたらすだろうことを、いまでは多くの科学者や国連の専門家たちさえもが、一致して警告している。
 つまり、この氷河期接近の詩は、百パーセント的中したとみなければならない。ほかに食糧については、「小麦の値段がはね上がる」も的中したし、西アフリカの飢饉も百パーセント当たった。さらに世界的な飢え、局地的な大地震の暗示も、このぶんではどうやら的中しそうな雲行きだ。とすれば、そのつぎにはいったい何がおそって来るのか?
 この、逃げ道のないおそれを抱きながら、私たちはとうとう、一九九九年の滅亡予言に取りくまなければならない瀬戸ぎわに立たされてしまったようである。 ”

「ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日」 五島勉著 祥伝社 平成4(1992)年3月10日448版(水色版) pp.136-140

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変更点

p.137 2行目加筆
「しかし、」

p.138 水色版13-15行目加筆(誤植「舟をおびきよせて難させる・・・をあらわしたの破だ」難破の文字の破文字が別な場所に)
「 また西欧では、人魚は人間の正気を失わせ、舟をおびきよせて難させる破滅の象徴であり、 この詩はそういう誘惑と破滅の時代が来ることをあらわしたの破だ、という説もある。 いずれにしろ、これはデタラメな詩ではない。」

P.138 青版14-15行目削除
「 それが的中したということは、さっきの突破口と逆の意味で、彼の全予言が的中することを証明してはいないだろうか。」

p.139の写真の差し替え

p.140 1-11行目までを加筆挿入
「 とくに最近おそろしいと感じさせられたのは、118ページにあげた「大地と大気が冷えていく」の詩である。・・・そのつぎにはいったい何がおそって来るのか?」

p.140 水色版12行目変更(青版の1行目)
「この、もはや逃げ道のない確信をいだいて」→「この、逃げ道のないおそれを抱きながら、」

****

ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1557年) 3巻21
ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1557年) 3巻21


 第3巻21番の予言詩は

Au crustamin par mer Hadriatique
Apparoistra vn horride poisson,
De face humaine,& la fin aquatique,
Qui se prendra dehors de l’ameçon.

となっていて、

“ Among the Crustacea, ncsr the Adriatic Sea,
A horrid fish shall appear,
Having a man's face and a fish's body,
Which shall be taken without a hook. ”
(The complete prophecies of nostradamus by Henry C. Roberts p.84)

The Complete Prophecies of Nostradmus , Henry C. Roberts p.84
The Complete Prophecies of Nostradmus , Henry C. Roberts p.84

“ アドリア海¹の近くで、カニのような
こわい魚があらわれ
それは人の顔と魚の体をしていて
釣針なしでとらえられるだろう  ”
(「ノストラダムス 大予言 原典 諸世紀 仏和対訳」 ヘンリー・C・ロバーツ編 大乗和子訳 内田秀男監修 たま出版 p.102)

“ アドリア海近くのクリュスチュマンに、
 人間の顔と水棲の端(はし)をもちし
 おぞましき魚が現れ、
 釣針で外に釣り上げられん。
 〔アドリア海の近くにあるクルストゥメリウムの地方で、人間の顔をもち水棲動物の尾を生やした、おぞましい魚が現れ、それは釣針で水中から釣り上げられるだろう。〕 ”
(「ノストラダムス予言集」 P.ブランダムール[校訂] 高田勇・伊達進[翻訳] 岩波書店 p.232)

“ アドリア海を通ってクルストゥメリアで、
戦慄すべき一尾の魚が現われるだろう。
人の顔と水棲の尾を持ち、
釣り針で (水の) 外に釣り上げられるだろう。 ”
(「ノストラダムス Wiki」)

と人間の顔をもって水生生物の尾を持った生き物とあるのに、「それは一匹の奇怪な人魚」と原書とは違う文言にしてしまっています。また五島勉が持ってきた夕刊フジ1973年4月7日の元記事「現地新聞(カイロのアルゴムホウリア紙)」の写真とされるものには、写真の下の方にアラビア語でイエメンで捕らえられた"人魚"(عروس البحر التي اصطيدت باليمن)とあります。このイエメンで捉えられた生き物(マグリットの絵を使ったフェイク記事ですか)がなぜこの予言詩と関係するのか理解できません。

 五島勉は “ 続報もなかったので、あるいは現地新聞のまちがいだったのかもしれない。しかしこの場合、ことの真偽は問題ではない。そういう人魚さわぎが、四百年前の予言者によって見通されていたということが問題なのだ。 ”  と語っているが、そもそも予言詩では人間の顔をもって水生生物の尾を持った生き物で、写真は魚の上半分と人間の下半身という全く違ったもので、アドリア海近くの(通った)「クリュスチュマン」(Crustumin)で釣り上げられるのが、イエメンというまったく別な場所の出来事を結びつけてしまうご都合主義と思い込みがすごいなーと感じましたね。

 革命後の1954年に革命新政府の代弁者として創刊されたカイロの日刊紙Al Gomhuria紙も、40万部(2000年)ほどの発行部数しかない新聞ですから、そういったローカルな新聞のフェイク記事・飛ばし記事をもって  “ 人魚が実際につかまったこと―少なくともつかまったと人びとが広く知ったことは、この事件一回しかない。 ”  として根拠にしてしまうのは無理筋。「ノストラダムス予言集」 (P.ブランダムール[校訂] 高田勇・伊達進[翻訳] 岩波書店)によれば、

“ 三-二一
 アドリア海近くのクリュスチュマンに、
 人間の顔と水棲の端(はし)をもちし
 おぞましき魚が現れ、
 釣針で外に釣り上げられん。
 〔アドリア海の近くにあるクルストゥメリウムの地方で、人間の顔をもち水棲動物の尾を生やした、おぞましい魚が現れ、それは釣針で水中から釣り上げられるだろう。〕

 ブランダムールは「クリュスチュマン」(Crustumin)を「クルストゥメリウム」(Crustumerium)というサビニ人の町に由来するものと解釈しているが、これをカットリカでアドリア海に流れ込むコンカ河とする注釈者もいる。いずれにせよ、そこで上半身は人間で下半身が魚の怪物 ― セイレーンか ― が捕えられるだろう、というのである。アンブロワーズ・パレはコンラート・ゲスナーの記述をもとに次のように書いている。「一五二三年一一月三日、五、六歳の子どもの大きさで、臍までは耳を除いて人間の上半身をしており、下半身は魚に似た、海の怪物(図28)がローマで目撃された†¹」(『怪物と驚異について』第三四章)。これに類したさまざまな海の怪物の目撃談が、当時の動物誌から瓦版、驚異譚に至るまでおびただしく記されている。
†1 A.Paré, op. cit., p.105. “
(「ノストラダムス予言集」 P.ブランダムール[校訂] 高田勇・伊達進[翻訳] 岩波書店 pp.232-233)

「ノストラダムス予言集」 P.ブランダムール[校訂] 図28
「ノストラダムス予言集」 P.ブランダムール[校訂] 図28

『怪物と驚異』(Des Monstres et Prodiges) 1573年
『怪物と驚異』(Des Monstres et Prodiges) 1573年

と、ノストラダムスの当時、人間の上半身と魚の下半身をした怪物の目撃談があったようですし、日本でも人魚の目撃話なんてものは昔からあるわけで、なんでも思い込みとこじつけはできるものだと感じましたね。



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目覚めて今日を生きる

Yahoo!ブログから転載(12月ブログサービス終了に付き)

目覚めて今日を生きる
2015/10/20(火) 午後 5:09
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/14470924.html

マタイ24:29しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。

マルコ13:24その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、

 このマタイとルカの個所について(口語訳からの引用)、「新約聖書 訳と註 1 マタイ福音書/マルコ福音書」(田川建三訳著 作品社)の註でこのように説明していました。マタイ、マルコの順です。

"29 直ちに この一語を付け加えただけでむ、マタイはマルコの文の趣旨をまったく変えてしまった。マルコでは、これ以前に叙述してきたことはすべて、世間では終末の直前の徴などと言われているが、そういうことに惑わされてはいけない、と言っているだけである。そして、本当に終末が来る時にはそれらとは無関係にいきなり宇宙全体が変わって、人の子が来臨するのだ、と。ところがマタイでは、この一語の故に、これ以前の叙述と直接のつながりが生じてしまった。つまり、以上の災害が生じたら、それは終末の直前の徴なのだから、その後「直ちに」終末がやって来る、というのである。"

"24 かの日々には つまり終末の日のこと。この段落でマルコは初めて終末について記す。これ以前は、さまざまな患難が起こるにせよ、終末や終末の前兆などというものではない。そして、本当の終末の時には、そういった此の世の歴史社会におけるさまざまな悲劇とは違って、宇宙天体そのものが消滅する。というのである。"

 この田川氏の注釈によるマルコは、テサロニケ第一の

5:2あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。
5:3人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。
5:4しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。
5:5あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。
5:6だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。

というパウロの言葉とよく整合すると感じられます。

 マタイの終末観では、予告があり、突如やってくる終末とは言えません。マルコの方で田川氏はさらにこう言っています。

13:37 あなた方に言うことは、すべての人々に言うのである。目覚めていよ」。(田川訳)

"37 これがマルコ福音書の本論部分(一-一三章)の結びの言葉である。終末が来るぞ、などと騒ぎ立てる風潮に対して彼は、くり返し「目覚めていよ」と呼びかけることによって、この本論を結ぶ。じっと落ち着いて、この社会において自分のなすべき責任をしっかり果たして生きるがよい、という呼びかけである。いかにもマルコらしい。…"

たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日リンゴの木を植える

 このマルコの終末観は、ルターの言葉とされる

"Und wenn Morgen Weltuntergang wäre, ich werde am heutige Tage doch Apfelbaumen pflantzen.(たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日リンゴの木を植える)"

という、今日を目覚めて精いっぱい生きるという考えと同じであるといえるでしょう。

 ディスペンセーション(天啓史観)や終末の年代を特定しようとする英米の新興キリスト教やそれを土壌とした終末カルトとは、明らかな違いが見られます。ものみの塔などは下にあるように、マタイを基礎として終末の徴がすでにあったとして世の終わりが近いと不安を煽っています。

 しかし、もっとも成立の早いマルコ福音書の伝えるイエスはそのようなことを言っておらず、日々を目覚めて精一杯生きる。世の終わりが来るとしても不安の中に生きたり騒ぎ立てたり、触れ回ったりする生き方をするなと教えているのではないかと感じられます。


***「目覚めて今日を生きる」へのコメントとレス***

コメント(4)

私も全くそう思います。難しい宗教学問の事はわかりませんが、個人的な経験から、天国も地獄もこの世にあり、今まさに生きているこの世界こそが、私という人間が知覚できる全てだと感じています。宇宙全体の終わりも必ずいずれ来るでしょう。しかしその前に、私個人の終末、死が必ずやってきます。それはどちらも、私という存在にとっては同質のものです。人間は、今をないがしろにし過ぎです。それは、刹那的に生きることとは全く異なる事だと思います。目覚めていよ。この言葉が、何千年も前に語られ、記録されている事に、しみじみとした感動を覚えます。
[ バナナ ] 2015/10/20(火) 午後 11:35 返信する

*

> バナナさん

そのとおりですね。今という時を目覚めて生きることと、今の人生を投げ捨てて、「世の終わりが来るぞー!」と触れ回るだけの人生では、それは目覚めていることにならないですね。
2015/10/21(水) 午前 4:27 返信する

*

それにしても、ものみの塔の会報誌タイトルが「目ざめよ!」というのがまた、何とも言えない気分にさせてくれます(^_^;)
[ バナナ ] 2015/10/21(水) 午後 0:21 返信する

*

> バナナさん

大きなブーメランになってますね(笑)
2015/10/21(水) 午後 0:29

プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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