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エクソシズムについて ④


小説「エクソシスト」と映画「THE EXORCIST」の英文シナリオ(http://www.script-o-rama.com/movie_scripts/e/exorcist-script-transcript-blatty-friedkin.html)、あと英訳ローマ典礼定式書(http://www.holygrail-church.fsnet.co.uk/Roman%20Ritual.htm)を比べてみて、かなり忠実にローマ典礼定式書を利用していることが解ります。一部ですが英訳ローマ典礼定式書から見てみましょう。墨付き括弧(【 】)で囲った部分が英文シナリオで使われている部分です。

Rituale Romanum


"Psalm 53

P: 【 God, by your name save me, * and by your might defend my cause.】
All: God, hear my prayer; * hearken to the words of my mouth.

P: For haughty 【men have risen up against me,】 and fierce men 【seek my life;】 *

they set not God before their eyes.

All: See, 【God is my helper;】 * the Lord sustains my life.

P: Turn back the evil upon my foes; * in your faithfulness destroy them.
All: Freely will I offer you sacrifice; * I will praise your name, Lord, for its goodness,

P: Because from all distress you have rescued me, * and my eyes look down upon my enemies.
All:【 Glory be to the Father.】

P: 【 As it was in the beginning.】

After the psalm the priest continues:

P: 【 Save your servant.】
All: Who trusts in you, my God.

P: Let him (her) find in you,【 Lord, a fortified tower.】
All: 【In the face of the enemy.】

P: 【 Let the enemy have no power over him (her).】
All: 【And the son of iniquity be powerless to harm him (her).】

P: Lord, send him (her) aid from your holy place.
All: And watch over him (her) from Sion.

P: 【Lord,】 heed 【my prayer.】
All: 【And let my cry】 be heard by you.

P: 【The Lord be with you.】
All: May He 【also】 be 【with you.】

Let us pray.
God, whose nature is ever merciful and forgiving, accept our prayer that this servant of yours, bound by the fetters of sin, may be pardoned by your loving kindness.

【Holy Lord, almighty Father, everlasting God and Father of our Lord Jesus Christ, who once and for all consigned that fallen】 and apostate 【tyrant to the flames of hell, who sent your only-begotten Son into the world to crush that roaring lion;】 【hasten to our call for help and snatch from ruination and from the clutches of the noonday devil this human being made in your image and likeness. Strike terror, Lord, into the beast now laying waste your vineyard.】 Fill your servants with courage to fight manfully against that reprobate dragon, lest he despise those who put their trust in you, and say with Pharaoh of old: "I know not God, nor will I set Israel free." 【Let your mighty hand cast him out of your servant, 名前.,】 十字 【so he may no longer hold captive this person whom it pleased you to make in your image, and to redeem through your Son; who lives and reigns with you, in the unity of the Holy Spirit, God, forever and ever.】
All: 【Amen.】

1. Then he commands the demon as follows:

I command you, unclean spirit, whoever you are, along with all your minions now attacking this servant of God, by the mysteries of the incarnation, passion, resurrection, and ascension of our Lord Jesus Christ, by the descent of the Holy Spirit, by the coming of our Lord for judgment, that you tell me by some sign your name, and the day and hour of your departure. I command you, moreover, to obey me to the letter, I who am a minister of God despite my unworthiness; nor shall you be emboldened to harm in any way 【this creature of God,】 or the bystanders, or any of their possessions.

・・・

Luke 11.14-22

・・・

P: 【Lord,】 heed 【my prayer.】
All: 【And let my cry be】 heard by you. "

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 まだ使われている部分はありますが、引用が長くなるので割愛します。定式書の中で、「十字」とあるのは「十字」のしるしを行うことを示しており、「名前」とあるのは悪魔憑きになった人の名前をそこで使うことです。

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 英文シナリオを見ますと、映画の劇的効果や尺などから、定式書の式文はかなり簡略されたりしていますし、言いやすいように言い換えもなされたりしています。しかし、それでもかなり忠実に読んでいると言えるのではないかと思います。

 今回引用した詩篇53編(ラテン語訳ウルガタ聖書では、現行聖書とは一章ズレますので54編)の前に、諸聖人に対する長い連祷がありますが、それについては映画では割愛されていますが、原作小説では、メリン神父とカラス神父の司式前の会話の中で"「まず、君と二人で、聖者の連祷句を唱和する。聖水を持ってきてくれたかね?」"(p.284)などと出てきたりします。

 これらのことからローマ典礼定式書における祓魔式(エクソシズム)司式の流れを知るのに、実際にそんな場面に立ち会うことがない多くの一般の私たちにとってこの作品は入門としてはとても役立つものです。

  実際典礼文を見てみますと、一般的なイメージと違い悪魔との対話というものはほとんど出てきません。徹底して神に祈る。取り憑かれた人の開放を求め、庇護を求め、打ち勝つ力を求め、悪魔に対しては父と子と聖霊の名によって出て行くことを命じる。これをオカルトだと断じるアメリカの福音派のビリー・グラハムやアメリカのファンダメンタリストであるハル・リンゼイなどの見識があまりにも単なるイメージで語っていたのかが解ります。

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 映画の字幕から少し見てみましょう。

メリン神父
"み力により我が戦いを助けたまえ 
心のおごった暴徒らが私のいのちを狙う
だが神は私を救い 私の命を守り 
解放したもう 父と子と聖霊に栄光あれ
世の初めより 今も永遠に アーメン
神よ信仰のしもべを救いたまえ
堅い城となりたまえ
敵に立ち向かい
彼女を守りたまえ
邪悪を無力に"

メリン神父
"主が共に"

カラス神父
"なんじと共に"

メリン神父
"聖なる神 全能の父 永遠の神よ
主キリストの父
悪の暴君を地獄の炎に焼き
怒りの獅子を討つため
一人子を送りし方よ

この叫びを聞き
神のかたちなるこの娘を
破滅と白昼の悪魔から
速やかに解き放ちたまえ
ブドウ園を荒らすものを恐怖で打ちのめし
この悪霊をリーガン・テリーザ・マクニールから放ち
虜囚の苦しみから救いたまえ
彼女は神のかたちとして
生けるみ子にあがなわれし者なり
父と子と聖霊なる神は永遠に統べ治めたもう"

カラス神父
"アーメン"

メリン神父 
"祈りを聞きたまえ"

カラス神父 
"この叫びをみ前に"

メリン神父 
"全能の主 父なる神の言葉なるキリスト
全ての創造主
み力により毒蛇とサソリを踏みにじり
いやしいしもべのすべての罪を許し
凶悪な悪霊と戦う力を授けたまえ"

カラス神父
"アーメン"

 一部を見てみました(一か所字幕が完全に語訳なので修正)が、シナリオ様に簡略化されているとは言えとても良い祈りであります。

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 この定式書を見ますと、聖なる三位一体がとても強調されていることが解ります。また、式文の終わりの方には「アタナシオス信条」の交唱が行われているのには驚かされます。アタナシオス信条は基本信条の一つでありますが、あまりお目にかかることのない信仰告白文です。それがここで悪魔祓いの祈りとして用いられているというのには驚きがありました。

続く
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エクソシズムについて ③


小説エクソシスト Athanasius記名入り


 小説「エクソシスト」(ウィリアム・ピーター・ブラッディ著 新潮社)の中に祓魔式の間に小休止を取っている時、助手を務めるデイミアン・カラス神父と主任を務めるランカスター・メリン神父のやり取りが出てきます。

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" またも沈黙。カラスが先に口を切った。「悪霊は­­­­­̶犠牲者の意志を傷つけることができないといいますが」

 「そうなんだ。そのとおりだ・・・・そのとおり・・・・それは、そこに罪がないからだ」

 「そうだとしますと、人間に取憑く目的は何にあるのでしょう?」カラスは不審そうに眉をひそめていった。「その狙いは?」

 「誰にも判らんことだ」メリン老神父が答えた。「知ることができると、自信をもっていいきれる者がいるとは考えられん」彼はそこで、少しのあいだ考えていたが、さぐりを入れるような口ぶりでつづけた。「しかしわしはこうみておる。つまり、悪霊の目標は、取憑く犠牲者にあるのではなく、われわれ・・・われわれ観察者が狙いなんだと。いいかえれば、この家にいる者の全部だ。そしてまた、こうも考えられる。やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティを打破することにある。いいかね、デイミアン。やつはわれわれをして、われわれ自身が窮極的に堕落した者、下劣で獣的、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在であると自覚させようとしておる。この現象の核心はそこにある。例えばわれわれの神への信仰には、理性が関与していない。それは愛の問題­­­­­̶神がわれわれを愛したもう可能性の受容の問題で・・・・」

 メリンはふたたび言葉を切ってから、いっそう落ち着いた口調で、内観の奥深い静けさを示して、語りつづけた。「・・・・悪霊は・・・・どこを攻撃したら効果的であるかを心得ておる・・・・」と独りうなずいて、「わしを例にとれば、ずっと以前のことだが、隣人を愛する望みを失った経験がある。ある連中が・・・・わしを拒否したからだ。どうしたら、この連中を愛することができるか? わしは考えた。それがわしを悩ませた。そしてついには、わし自身に絶望する結果を招いた・・・・それから先、神への絶望までは一直線だ。わしの信仰は、当然、動揺し始めた・・・・」

 カラスは関心をそそられて、老碩学の顔を見つめ、「で、どうなさいました?」と、質問した。

 「それからかね?・・・・わしは最後に知ったのだよ。神は心理的に不可能なことを求めておられるわけでない。神がわしに要求なさる愛は、意志のうちにあり、心情的な愛とは異なるものだということだ。神はわしが、愛をもって行動し、それを進んで他者におよぼすのを望んでおられる。だからこそ、排撃する相手を愛するのは、何にも増して偉大な愛の行為といえるのだ」老神父は首をふって、「いまのわしには、これ以上明白なことはないと思える。しかし、デイミアン。あの当時のわしには、この明白な真理を見てとることができなかった。おかしな無知さ」と、老神父は悲しげな表情で、「多くの夫と妻が、もはや連れ添う相手の顔を見ても、心の踊ることがなくなったがゆえに、愛情が褪めきったものと思いこんでおる」と、またしても首をふって、それからまた、独りうなずいてみせ、「そこだよ、デイミアン・・・・・憑依現象の本質はそこにある。ある人々が考えているように、争闘のなかに起こるのではない。まして、この一家の場合のように、哀れな犠牲者・・・・年端もいかぬ少女を介在にするのは、非常に珍しいことといってよい。わしの見たところ、それがもっともしばしば起こるのは、とるにも足らぬ些細なことからだ。たとえば、これといった意味もない小さな怨恨、仲たがい、友人間の雑談のうちに、うっかりととび出した皮肉な言葉、あるいは愛人間の痴話喧嘩­­­­­̶その例はいくらでもかぞえられる」そこでメリンは声を低めて、「そしてこのようなわれわれの争闘を処理するのに、悪魔(ルビ:サタン)を必要としない。われわれ自身で処理してのけられる・・・・われわれ自身で・・・・」

 リーガンの寝室から、いまだに歌声に似た声が聞こえてくる。メリン老神父はドアを見て、少しのあいだ耳をそばだてていたが、「しかも、このようなもの­­­­­̶このような悪からでさえ­­­­­̶善が生じてくる。何らかの方法でだ。われわれには理解できず、見ることもできない何らかの方法でだ」またもメリンは言葉を切って、考えこんでから、「おそらく、悪こそ、善を生み出するつぼであるからだろうな」と、いった。「そしておそらく、大悪魔(ルビ:サタン)でさえもが­­­­­̶その本質に反して­­­­­̶何らかの意味で、神の意志を顕示するために働いておるともいえるのだ」"(pp.295-297)

 この中でいくつかの重要なことが語られています。それは神学的にも間違ってはいないことです。

 まずは、“「悪霊は­­­­­̶犠牲者の意志を傷つけることができないといいますが」 「そうなんだ。そのとおりだ・・・・そのとおり・・・・それは、そこに罪がないからだ」”とのやり取りです。

 このことについてはゼーノ・フレック著「修徳神秘神学概説」(光明社)にこうあります。

“ 第二章 悪魔から来る異常神秘現象
 悪魔は天主の真似をする猿と呼ばれるほどであるから、霊魂を永遠の不幸に陥れんがために不思議な現象を起こして人間に対する支配力を表そうと恐るべき誘惑を以て人の心をなやますことがある。
 霊魂に対する悪魔のやり方は主として二種に分けられる。一つは責め苦他は悪魔が人の体にのりうつてこれをわがものとして用いる所謂悪魔つきの現象である。ここで注意せねばならぬことは凡ての禍、不幸、苦しみ等が悪魔から来ると思う人があるかと思えば、反対に悪魔によってよつて起される不思議な現象も自然的なものと思つて悪魔の存在を否定する人もあるが、これらの両極端をさけて中庸の態度を以て臨まねばならぬということである。故に、ある現象が自然的にどうしても説明出来ず、且つそれが善霊から来たものと考えられない場合には悪魔の影響と思わねばならない。・・・”(p.601)

“第一節 責め苦
一、本質
 悪魔から来る不思議な現象の第一たる責め苦とは、所謂誘惑よりも遥かに激しく且つ永続するものである。これには五官に働く外部的責め苦と、想像、記憶、情欲に働く内的責め苦とがある。
(A) 外部的責苦
 外的責め苦は五官のいずれにも現れるが、殊に多いのは視覚、聴覚、触覚に現れるものである。・・・”(p.602)

“第二節 悪魔憑
一、本質
 悪魔憑、即ち悪魔が人の体にのり移る状態には二種ある。即ち(一)悪魔が人体にのり移ることと、(二)悪魔が人体をわがものとして思いのままに用いる事である。悪魔は霊魂に対して直接働きかけることは出来ぬため、身体を通じて間接に霊魂に悪影響を及ぼそうとするのである。”(pp.604-605)

 悪魔はobsession(悪魔による外的責め苦)の後、侵入を果たしpossession(憑依)するわけですが、しかし、決してその本人の根幹部分に手を触れることができない。それを赦されてはいないということになるのでしょう。

 また、もう一点、“。「しかしわしはこうみておる。つまり、悪霊の目標は、取憑く犠牲者にあるのではなく、われわれ・・・われわれ観察者が狙いなんだと。いいかえれば、この家にいる者の全部だ。そしてまた、こうも考えられる。やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティを打破することにある。いいかね、デイミアン。やつはわれわれをして、われわれ自身が窮極的に堕落した者、下劣で獣的、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在であると自覚させようとしておる。この現象の核心はそこにある。例えばわれわれの神への信仰には、理性が関与していない。それは愛の問題­­­­­̶神がわれわれを愛したもう可能性の受容の問題で・・・・」”

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 これも、自分の愛する家族から、このような人間が出てしまう恐怖。それは悪魔からなのか、精神的な病から来るのか(ふつうは後者と考えるでしょう)、しかしそれは突然起こってしまう。何件もの病院を回って見ても、有名な病院や医師を頼って見ても好転はせず、だんだんとおかしくなって行く家族。藁にも縋る思いで民間療法や怪しげなものや人について行ったり、もちろんひどくこそなれ良くはならない。その時その人や家族が信仰深くあれば絶望へ導かれ、信仰がない者は怪しげな宗教やまじないにまで陥ったりします。旧約聖書のヨブ記の主人公ヨブのように、本人に終わることのない外的責め苦が肉体より、精神より、家族より、友人より、社会より絶えず訪れ死を願うほどに達したりすることもあるやもしれません。絶望が断続的に続く中で信仰は、波間に流された木の葉のように大きく揺れ、もろくも沈んだりします。新約聖書の福音書でイエスの悪霊を追い出す記述が数多くあります。たいていの場合、家族がイエスの高名を聴き、悪霊に憑かれた家族を伴ってイエスに癒しを願い出るというものや通りかかったイエスの目に留まり、癒してもらうなどといったものです。前者の場合、イエスのうわさを聞いた家族は、それまでもいろいろなところに行って助けを求めていたのかもしれません。運良くイエスに出逢えたというものなのでしょう。イエスに出逢えていなかったら、またもいろいろなうわさなどを聞いては助けてくれるよう救いを求め続ける生活だったかもしれません。終わらぬ苦しみの恐怖と絶望。自分が自分でなくなる、家族が家族でなくなる恐怖と苦しみ。消耗される心と体そして信仰。強まる恐怖と苦しみ、そして絶望と不信。悪魔とは狡猾なもの。

イエスのエクソシズム


 そして、“、「しかも、このようなもの­­­­­̶このような悪からでさえ­­­­­̶善が生じてくる。何らかの方法でだ。われわれには理解できず、見ることもできない何らかの方法でだ」またもメリンは言葉を切って、考えこんでから、「おそらく、悪こそ、善を生み出するつぼであるからだろうな」と、いった。「そしておそらく、大悪魔(ルビ:サタン)でさえもが­­­­­̶その本質に反して­­­­­̶何らかの意味で、神の意志を顕示するために働いておるともいえるのだ」”

 この事例はヨブ記がよく表しています。決して悪魔は神に対峙しえない存在です。神は全知・全能・永遠・不変・無限・始まりも無く終わりも無い・愛・義・聖であられる絶対的存在。悪魔でさえ恐れおののいている存在。彼らの存在すら神がそう思われるだけで無になる程度のもの。彼らはその本性から悪を行おうとも、神はなお善用なされる。それの実例こそイエス・キリストの十字架でしょう。悪魔は勝利に酔いしれた瞬間、それが決定的敗北と知らされる。

 この小説は実によくできていると感心します。

つづく



エクソシズムについて ②


 はっきり申し上げれば、個人としては悪魔なんかは見たくもないし関わりたくもない。また、実際の儀式などもたとえ傍観者の立場でも関わり合いにはなりたくないというのが率直なところと言えます。

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 しかし、それでもこのカトリックにおける公式祓魔式というものについて、わずかながらでも知ることは信仰の面から大変役立つものであると感じられます。神に対する全き信仰と信頼、すべては神の力によってなされるという(実際に悪魔憑きを前に、神に祈りをささげ悪魔に命じるのは司式者などであっても)徹底した人間の力の排除、神への信仰と信頼、悪に対する毅然とした対決、とても信仰的なテーマと感じます。

Athanasius記名入りエクソシスト DVDと日本語訳原作 Athanasius記名入り


 映画作品としては、ウィリアム・ピーター・ブラッディ原作の「THE EXORCIST」とその映画作品であるウィリアム・フリードキン監督の「THE EXORCIST」(邦題「エクソシスト」)、トーマス・B・アレンによるメリーランド悪魔憑依事件を小説にした「Possessed: The True Story of an Exorcism」とその映画作品、スティーブ・E・デ・スーザ監督の「Possessed」(邦題「エクソシスト・トゥルー・ストーリー」)、マット・パグリオの小説「The Rite: The Making of a Modern Exorcist」とその映画作品、ミカエル・ハフストローム監督の「The Rite」(邦題「ザ・ライト[エクソシストの真実]」)の三作品の映画・原作が祓魔式を知るには、手軽なものとしていいと思われます(あくまでもエンターテイメント作品の中では)。

タイトル


 この三作品の中では、1974年の映画「エクソシスト」がよいですね。映画には三人のローマ・カトリック教会のイエズス会(中学の歴史の教科書にも出てくるので名前ぐらいは知っている人も多いと思います)の神父さんがテクニカルアドバイザーとして関わっていますし、内二名は作品にも出ています。一人はダイアー神父役のウィリアム・オマリー神父、もう一人は主人公のカラス神父の上司役のトーマス・バーミンガム神父です。ここら辺はマーク・カーモード著の「バトル・オブ・エクソシスト」(河出書房新社)や島村奈津著「エクソシストとの対話」(講談社)、トレイシー・ウィルキンソン著「バチカン・エクソシスト」(文藝春秋社)などを読まれるとさらに詳しく知ることができます。やはり実際の司祭が関わっていることと、ローマ典礼定式書を用いているのが解り易いです。

エンディングロール


 この三作品以外の「エクソシスト2」「エクソシスト3」「エクソシスト・ビギニング」「エミリー・ローズ」「コンスタンティン」などは参考にはなりません。「エミリー・ローズ」はドイツで起こったアンネリーゼ・ミッシェルの祓魔式中の死亡事案による保護責任者遺棄致死事件裁判を知るにはよいですが、儀式と儀式書における信仰についての面では参考にはならないと感じられます。他のものは単なるオカルト・エンターテイメント作品というだけです。

Rituale Romanum


 ネットのおかげで現在ではローマ典礼定式書(Rituale Romanum)の保護期間切れのものは読めるのは便利です。以下に挙げておきます。

1870年
Rituale romanum Pauli V. pontificis maximi jussu editum et a Benedicto XIV auctum et castigatum cui ad usum missionariorum apostolicorum nova nunc primum accedit benedictionum et instructionum appendix [microform]
 https://archive.org/details/cihm_27050

1903年
Rituale Romanum Pauli V pontificis maximi jussu editum et a Benedicto XIV auctum et castigatum. Cui novissima accedit benedictiorum et instructionum appendix
 https://archive.org/details/ritualeromanum00cath

 1903年のものの方が見やすいですし、「サタンと堕天使のエクソシズム」の部分が載っています。1870年の方にはこれはありません。

つづく

エクソシズムについて ①


 現在、プロテスタントを見てみますと、新興キリスト教であるピューリタンや英国の分離派の末裔であるアメリカの福音派やペンテコステ系が広まっています。彼らの奥地伝道を行った宣教師たちが米国に戻って来て、そのシャーマニズム的な体験をもとにキリスト教を変質させて、新しい異形のキリスト教を作り上げ、それがアメリカのキリスト教の持つ終末論やペンテコステ系と融合し、そして再び第三世界、南米やアフリカ、韓国などに広まり、惨い形のキリスト教モドキを作り上げました。80年代あたりから日本でも顕著になってきています。最近では韓国経由などをウリスト教などと揶揄されたりもしています。

 これらの中で、特に悪霊の強調が目立っています。80年代のフラー神学校の講座から始まった「力の伝道」、それらから「聖霊の第三の波運動」という聖霊刷新運動に発展し広まりました。彼らの中に見られる地域を支配する霊という考えやそれを祈りによって縛るという行為、また悪霊祓いなどといった安易な悪霊憑き認定や悪霊祓いなどの体験談や勧めなどの文書を読みますと、キリスト教とは全く異質なものを感じます。

 確かにキリスト教において、古い時代から祓魔師(エクソシスト)という存在があったことはよく知られています。

 四世紀の教会史家エウセビオスは、ローマの第20代目の総大主教コルネリウス(251年から253年までの間在職)のアンティオキア教会の第13代目の総大主教ファビウス(252年から255年まで在職)に宛てた書簡を引用し、コルネリウスがローマ教会の長老ノウァトスの性格と彼についての見解と彼の正体についてファビウスに説明する中で、

゛正統教会には一人の監督しかいてはならぬことを知りませんでした。〔このローマ教会では〕彼も知っていますように­­­­­̶知らないことはありません­­­­­̶46人の長老と、7人の執事、7人の副執事、42人の侍者、〔総勢〕52人の祓魔者がいます。・・・˝(「エウセビオス「教会史」」 秦剛平訳 講談社学術文庫 p.90)

と語って、当時のローマの教会に祓魔師が52人いたことが解ります。

 カトリックにおける悪魔祓いは誰でもが行えるものではありません。ゼーノ・フレック著「修徳神秘神学概説」(光明社、昭和31年)にはこのように説明されています。

“三、救治策
・・・
 眞に悪魔に憑かれていることが分かつた場合には教会の祓魔式をうけねばならない。これは非公式のものと公式的のものとの二種があり、非公式の悪魔祓いは司祭でも行うことができるが、公式的悪魔祓いは司教或いはその特別の許しを得た司祭でなければ行うことができない。
・・・”(pp.608-609)

 司教若しくは司教の特別の許可を得た司祭が行う公式祓魔式と司祭が行える非公式の祓魔式の二種類があるということです。


ローマ典礼定式書

 これはローマ典礼定式書(Rituale Romanum)のTITULUS X CAPUT Ⅰ DE EXORCIZANDIS OBSESSIS A DÆMONIO(pp.318-342)のものが公式祓魔式なのでしょう。ラテン語が解らないのでよくわかりませんが、第二部のpp.183-186のEXORCISMUS IN SATANAM ET ANGELOS APOSTATICOS が非公式祓魔式になるのかもしれません。これは第二部が洗礼から始まっているので、洗礼は悪魔祓いの一つであるのでその流れで出てきているのかもしれません(プロテスタントでも宗教改革者マルチン・ルターのルター派教会(ルーテル派)では、今日も洗礼に悪魔を祓う意味が込められています。)。

 教会法によれば
゛第Ⅳ集 教会の聖化する任務

 第2巻 他の聖なる崇敬行為
  第1部 準秘跡
・・・
 第1172条 
(1)なんぴとも,地区治権者から特別に明白な許可を得ない限り,悪魔につかれた者に対して適法に祓魔式を行うことはできない。
(2)前項の許可は,地区治権者によって,信心,学識,賢明及び品行方正な生活において秀れた司祭のみ与えられなければならない。˝(「カトリック新教会法典 〔羅和対訳〕」 有斐閣 p.621)

と厳格に規定されています。教会法典はカトリック信徒でもあまり持っていないかもしれませんが、カトリック信徒ならカテキズムは持っていることでしょう。そこにもこのようにあります。

゛第2部 教会の七つの秘跡
 第4章 他の典礼儀式
  第1項 準秘跡
・・・
1673 教会がイエス・キリストのみ名により、公に権威をもって、人あるいは物が悪魔の支配から保護され、その支配力から引き離されることを求める式は、祓魔式と呼ばれます。イエスはそれを実行なさいました。教会は、イエスから祓魔の権能と勤めを受けています。簡単な形では洗礼式のときに行われます。「大祓魔式」と呼ばれる盛儀祓魔式は、司教の許可を得た司祭だけが行います。それは、教会が定めた規則を厳守して、慎重に行われなければなりません。祓魔式の狙いは悪魔を追放し、悪魔の支配から解放することにありますが、これはイエスがご自分の教会にゆだねられた霊的権能によるものです。病気、とくに精神的病気の場合は祓魔式は行わず、医学的治療にゆだねます。したがって、祓魔を行う前に、当人の苦しみの原因が病気ではなく、悪魔の働きであることを確かめる必要があります。˝(「カトリック教会のカテキズム」 カトリック中央協議会 p.508)

 特に注目すべきは、カテキズムの"病気、とくに精神的病気の場合は祓魔式は行わず、医学的治療にゆだねます。したがって、祓魔を行う前に、当人の苦しみの原因が病気ではなく、悪魔の働きであることを確かめる必要があります。"とある箇所です。

 ローマ典礼定式書においても、悪魔憑きかどうかについて、観察すべき留意点が21項目がまず初めに出てきます(pp.318-321)。これについては島村奈津氏の著書「エクソシスト急募」(メディアファクトリー新書)に1952年版のイタリア語訳を著者が訳し解説を付したものが出ていますので、とても参考になります(私が見ているラテン語版は1906年版ですので、改定前の典礼書なので、違っています。)

 島村氏の訳から第3項目目を引用したいと思います。

"3,簡単に悪魔が憑依したなどと信じてはいけない。
 そのためには、取りつかれたと訴える人がなんらかの病を抱えてはいないか、殊に心理的な病を抱えていないかをよく見極める必要がある。・・・"(p.117)

 現在のカテキズムも島村氏が訳した改訂版のローマ典礼定式書にも、病気への配慮がよく表れています。またカトリックでは儀式に際して医師や医療従事者の立ち合いなんかを推奨しているようです。プロテスタント系の英米新興キリスト教の安易なものとの違いがあります。

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 ローマ典礼定式書と1974年の映画「エクソシスト」を比べてみますと、定式書の英訳をかなり簡略して使っているのが解ります。この映画には3人のカトリックの神父が出演したり、またテクニカルアドバイザーとして参加しているために、とても宗教的にクオリティーが高い仕上がりになっています。カトリックでは絶賛されたもののプロテスタントでは、米国の新興キリスト教のビリー・グラハムやファンダメンタリストのハル・リンゼイあたりが、キリスト教的無知ゆえに批判し、そのイメージが今も残っていてオカルト映画などと看做されたりしています。

 英訳の定式書が読めるサイトはこちらになります。ただし21の留意点は訳出されていません。また、第二部の方は英訳がなされています。
http://www.holygrail-church.fsnet.co.uk/Roman%20Ritual.htm

 第2部を見ますと現在のローマ典礼定式書では削除された「大天使ミカエルへの祈り」の1902年に短く編集されたものが英訳されています。1906年ラテン語版定式書では、1890年のオリジナルの長いバージョンの祈りが載っています。
Wikipedia Prayer to Saint Michael

つづく 
プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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