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無財の七施 雜寶藏經卷第六


SAT大蔵経DB 2018 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V04.0479b.html

雜寶藏經卷第六

(七六) 七種施因縁
佛説有七種施。不損財物。獲大果報。一名
眼施。常以好眼。視父母師長沙門婆羅門
不以惡眼。名爲眼施。捨身受身。得清淨眼。
未來成佛。得天眼佛眼。是名第一果報。二
和顏悦色施。於父母師長沙門婆羅門。不顰
蹙惡色。捨身受身。得端正色。未來成佛。得
眞金色。是名第二果報。三名言辭施。於父
母師長沙門婆羅門。出柔軟語。非麤惡言。
捨身受身。得言語辯了。所可言説。爲人信
受。未來成佛。得四辯才。是名第三果報。四
名身施。於父母師長沙門婆羅門。起迎禮
拜。是名身施。捨身受身。得端政身。長大之
身。人所敬身。未來成佛。身如尼拘陀樹。無
見頂者。是名第四果報。五名心施。雖以
上事供養。心不和善。不名爲施。善心和善。
深生供養。是名心施。捨身受身。得明了心。
不癡狂心。未來成佛。得一切種智心。是名
心施第五果報。六名床座施。若見父母師長
沙門婆羅門。爲敷床座令坐。乃至自以已
所自坐。請使令坐。捨身受身。常得尊貴七
寶床座。未來成佛。得師子法座。是名第六
果報。七名房舍施。前父母師長沙門婆羅
門。使屋舍之中得行來坐臥。即名房舍施。
捨身受身。得自然宮殿舍宅。未來成佛。得
諸禪屋宅。是名第七果報。是名七施。雖不
損財物。獲大果報

***


「国訳一切経 阿含部 十 増壱阿含経 三 本縁部 一 雑寶蔵経」 (1931年 大東出版社 pp.117-118)

 雜寶藏經第六巻
七十六 七種施の因縁
佛説きたまふに、七種施あり、財物を損せずして大果報を獲ん。
 一には眼施と名く、常に好眼を以て父母・師長・沙門・婆羅門を観る惡眼を以てせず、名けて眼施となす。身を捨つるも身を受けて清淨眼を得、未來成佛して天眼佛眼を得ん。是を第一の果報と名くるなり。
 二には和顏悦色施と名く、父母・師長・沙門・婆羅門に於て、惡色をもつて顰蹙せず、身を捨つるも身を受けて端正色を得、未來成佛して。眞金色を得ん。是を第二の果報と名くるなり。
 三には言辭施と名く、父母・師長・沙門・婆羅門に於て柔軟の語を出し麤惡の言に非ざれば、身を捨つるも身を受けて、言語の辯了を得ること言説すべからずして人の爲に信受せられ、未來成佛して四辯才を得ん。是を第三の果報と名くるなり。
 四には身施と名く、父母・師長・沙門・婆羅門に於て、起ち迎へて禮拜す。是を身施と名く。身を捨つるも身を受けて、端正の身長大の身人に敬はヽ身を得、未來に成佛しては身は尼拘陀樹の如く頂を見る者なけん。是を第四の果報と名くるなり。
 五には心施と名く、上の事を以て供養すると雖、心(こヽろ)和善ならずんば名けて施と爲さず。善心にして和善ならば深く供養を生ぜん、是を心施と名く。身を捨つるも身を受け、明了心を得て癡狂の心ならず。未來に成佛して一切種智心を得ん、是を名けて心施第五の果報となすなり。
 六には床座施と名く。若し父母・師長・沙門・婆羅門を見ば、爲に床座を敷きて坐せしめ、乃至自(みずか)ら已(すで)自(みずか)ら坐せる所を以て請ひ坐せしむるなり。身を捨つるも身を受け、常に尊貴なる七寶の床座を得。未來に成佛して師子法座を得ん、是を第六の果報と名くるなり。
 七には房舍施と名く、前の父母・師長・沙門・婆羅門をして、屋舍の中に行來坐臥することを得せしむ、即ち房舍施と名くるなり。身を捨つるも身を受け、自然の宮殿舍宅を得、未來に成佛して諸の禪屋宅を得ん。是を第七の果報と名くるなり。
 是を七施と名く。財物を損せずと獲大果報を得るなり。

***

真金色(しんこんじき)

尼拘陀樹(にくだじゅ、サンスクリット語ニヤグローダnyagrodha) バニヤン(菩提樹)・尼拘律樹(にくりつじゆ)とも言う


コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%A1%B0%E8%B9%99-614634
精選版 日本国語大辞典「顰蹙」の解説
ひん‐しゅく【顰蹙・頻・頻蹙】
〘名〙 眉をひそめること。顔をしかめて不快の情を表わすこと。
※性霊集‐五(835頃)為大使与福州観察使書「頻蹙猛風、待葬鼈口」
※平凡(1907)〈二葉亭四迷〉五「所謂教育ある人達を顰蹙(ヒンシュク)せしめたけれど」 〔孟子‐滕文公下〕

***

WEB版新纂浄土宗大辞典 無財の七施  http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%84%A1%E8%B2%A1%E3%81%AE%E4%B8%83%E6%96%BD

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大品 第1大揵度



12 かくの如く、世尊佛眼を以て世間を観察したまふに、有情にして塵垢少き者、塵垢多き者、利根の者、鈍根の者、善行相の者、悪行相の者、教導し易き者、教導し難き者、或はまた他世と罪過との怖畏を知りて住する者を見たまへり。見巳りて索訶主梵天に偈を以て説きたまへり。
 甘露の門は開かれたり
 耳ある者は聞け、[己]信を棄てよ
 梵天よ、人々を嬈惑せんかと思ひて
 微妙の正法を説かざりき
13 時に索訶主梵天は「世尊は説法することを許したまへり」と[知り]世尊を敬礼し右遶して其處に没せり。

OD版「南伝大蔵経3 律蔵3」(大品 第1大揵度) 大蔵出版 p.12

索訶主梵天(brahmaa sahaMpati)
嬈 音読みは「ジョウ」「ヨウ」「ニョウ」「ドウ」「キョウ」
右遶(うにょう) 仏語。敬礼法の一つで、尊者の傍を右回りに回ること。


***

 その時、世尊は、梵天王の勧請を知りて、衆生に対する哀憐の心を生じ、覚者の眼をもって、世間を眺めたもうた。そこには、塵垢(けがれ)おおい者もあり、塵垢すくない者もあった。利根(りこん)の者もあり、鈍根の者もあった。善き相の者もあり、悪しき相の者もあった。教えやすき者もあり、教えがたき者もあった。その中のある者は、来世と罪過の怖れを知っていることも見られた。そのさまは、譬えば、蓮池に生いる青き、赤き、また白き蓮の花が、あるいは水の中に生じ、水の中に長じ、水の中にとどまっているものもあり、あるいは水の中に生じ、水の中に長じ、水面にいでて花咲けるもあり、またあるいは、水より抜きんでて花咲き、水のために汚れぬものもあるに似ていると思われた。
 かくて世尊は、偈をもって梵天王に答えて言った。
  「いま、われ、甘露の門をひらく。
  耳ある者は聞け、ふるき信を去れ。
  梵天よ、われは思い惑うことありて、
  この微妙の法を説かなかったのである。」
 これを聞いて、梵天王は、世尊はわが願いを許したもうた、世尊は説法を決意したもうたとて、世尊を拝してその姿を没した。

「阿含経典による仏教の根本聖典」 大蔵出版 pp.30-31

百利口語(ひゃくりくご) 一遍上人

百利口語(ひゃくりくご)

六道輪廻の間には ともなふ人もなかりけり

独(ひとり)むまれて独死す 生死(しょうじ)の道こそかなしけれ

或は有頂(うちょう)の雲の上 或は無間(むけん)の獄(ごく)の下

善悪(ぜんなく)ふたつの業(ごう)により いたらぬ栖(すみか)はなかりけり

然るに人天善所(にんでんぜんしょ)には 生(しょう)をうること有がたし

常に三塗(さんず)の悪道を 栖(すみか)としてのみ出(いで)やらず

黒縄(こくじょう)・衆合(しゅうごう)に骨をやき 刀山(とうざん)・剣樹(けんじゅ)に肝をさく

餓鬼となりては食(しょく)にうゑ 畜生愚痴(ちくしょうぐち)の報もうし

かゝる苦悩を受けし身の しばらく三途をまぬかれて

たまたま人身(にんしん)得たる時 などか生死をいとはざる

人の形に成たれど 世間の希望(けもう)たえずして

身心苦悩することは 地獄を出たるかひぞなき

物をほしがる心根は 餓鬼の果報にたがはざる

迭(たがい)に害心おこすこと たゞ畜生にことならず

此等の妄念おこしつゝ 明け暮ぬといそぐ身の

五欲の絆につながれて 火宅(かたく)を出ずは憂(う)かるべし

千秋万歳(せんしゅうばんざい)おくれども たゞ雷(いなずま)のあひだなり

つながぬ月日過行(すぎゆ)けば 死の期(ご)きたるは程もなし

生老病死のくるしみは 人をきらはぬ事なれば

貴賤(きせん)高下(こうげ)の隔てなく 貧富共にのがれなし

露の命のあるほどぞ 瑶(たま)の台(うてな)もみがくべき

一度無常の風ふけば 花のすがたも散りはてぬ

父母と妻子を始とし 財宝所住にいたるまで

百千万億(ひゃくせんまんのく)皆ながら 我身のためとおもいつゝ

惜み育みかなしみし 此身をだに打ちすてゝ

たましひ独りさらん時 たれか冥途(めいど)へおくるべき

親類眷属あつまりて 屍(かばね)を抱(いだき)てさけべども

業にひかれて迷ゆく 生死の夢はよもさめじ

かゝることはり聞しより 身命(しんみょう)財もをしからず

妄境(もうきょう)既にふりすてゝ 独ある身となり果てぬ

曠劫多生(こうごうたしょう)の間には 父母にあらざる者もなし

万(よろず)の衆生(しゅじょう)を伴なひて はやく浄土にいたるべし

無為(むい)の境(さかい)にいらんため すつるぞ実(まこと)の報恩よ

口にとなふる念仏を 普(あまね)く衆生に施して

これこそ恒の栖(すみか)とて いづくに宿を定めねど

さすがに家の多ければ 雨にうたるゝ事もなし

此身をやどす其程(そのほど)は あるじも我も同じこと

終(つい)にうち捨てゆかんには 主(あるじ)がほしてなにかせん

本より火宅と知ぬれば 焼けうすれども騒がれず

荒(すさみ)たる処みゆれども つくらふ心さらになし

畳一畳しきぬれば 狭(せばし)とおもふ事もなし

念仏まうす起ふしは 妄念おこらぬ住居(すまい)かな

道場すべて無用なり 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)にたもちたる

南無阿弥陀仏の名号は 過たる此身の本尊なり

利欲(りよく)の心すゝまねば 勧進聖(かんじんひじり)もしたからず

五種の不浄を離ねば 説法せじとちかひてき

法主(ほっす)軌則(きそく)をこのまねば 弟子の法師もほしからず

誰を檀那と頼まねば 人にへつらふ事もなし

暫く此身のある程ぞ さすがに衣食(えじき)は離ねど

それも前世の果報ぞと いとなむ事も更になし

詞(ことば)をつくし乞(こい)あるき へつらひもとめ願はねど

僅かに命をつぐほどは さすがに人こそ供養すれ

それもあたらずなり果(はて)ば 飢死(うえじに)こそはせんずらめ

死して浄土に生れなば 殊勝の事こそ有べけれ

世間の出世もこのまねば 衣も常に定めなし

人の着するにまかせつゝ わづらひなきを本(もと)とする

小袖(こそで)・帷子(かたびら)・紙のきぬ ふりたる筵(むしろ)・蓑(みの)のきれ

寒さふせがん為なれば 有に任て身にまとふ

命をさゝふる食物は あたりつきたる其まゝに

死するを歎く身ならねば 病のためともきらはれず

よわるを痛む身ならねば 力のためとも願はれず

色の為ともおもはねば 味(あじわい)たしむ事もなし

善悪ともに皆ながら 輪廻生死の業なれば

すべて三界(さんがい)・六道に 羨(うらや)ましき事さらになし

阿弥陀仏に帰命(きみょう)して 南無阿弥陀仏と唱ふれば

摂取(せっしゅ)の光に照されて 真の奉事(ぶじ)となるときは

観音・勢至の勝友(しょうゆう)あり 同朋(どうほう)もとめて何かせん

諸仏護念(ごねん)したまへば 一切横難(おうなん)おそれなし

かゝることわりしる事も 偏(ひとえ)に仏の恩徳(おんどく)と

思へば歓喜せられつゝ いよいよ念仏まうさるゝ

一切衆生のためならで 世をめぐりての詮(せん)もなし

一年(ひととせ)熊野にまうでつゝ 証誠殿(しょうじょうでん)にまうぜしに

あらたに夢想の告有(つげあり)て それに任て過(すぐ)る身の

後生の為に依怙もなし 平等利益の為ぞかし

但し不浄をまろくして 終には土とすつる身を

信ぜん人も益(やく)あらじ 謗せん人も罪あらじ

口にとなふる名号は 不可思議功徳なる故に

見聞覚知(けんもんかくち)の人もみな 生死の夢をさますべし

信謗(しんぼう)共に利益せむ 他力不思議の名号は

無始(むし)本有(ほんぬ)の行体(ぎょうたい)ぞ 始て修するとおもふなよ

本来仏性一如にて 迷悟の差別なきものを

そゞろに妄念おこしつゝ 迷とおもふぞ不思議なる

然に弥陀の本誓(ほんぜい)は まよひの衆生に施(ほどこ)して

鈍根無智(どんこんむち)の為なれば 智慧弁才もねがはれず

布施持戒をも願はれず 比丘の破戒もなげかれず

定散(じょうさん)共に摂すれば 行住坐臥に障なし

善悪ともに隔ねば 悪業人もすてられず

雑善(ぞうぜん)すべて生ぜねば 善根ほしともはげまれず

身の振舞にいろはねば 人目をかざる事もなし

心はからひたのまねば さとるこゝろも絶え果てぬ

諸仏の光明およばざる 無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の名号は

迷悟(めいご)の法にあらざれば 難思(なんし)光仏(こうぶつ)とほめ給ふ

此法信楽(しんぎょう)する時に 仏も衆生も隔なく

彼此(ひし)の三業捨離(さんごうしゃり)せねば 無礙(むげ)光仏と申すなり

すべて思量をとゞめつゝ 仰で仏に身をまかせ

出入(いでいる)息をかぎりにて 南無阿弥陀仏と申べし


****

大無量寿経

(三毒段)
・・・
・・・人(ひと)、世間愛欲の中に在りて、独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る。(かれのなせし善悪の)行ない(の報いを受くる)にあたりて、苦楽の地(じ)に至り趣(おもむ)く。身みずからこれを当(う)け、代る者あることなし。
(「浄土三部経 上」 岩波文庫 pp.180-181)

般若心経


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キリスト教徒でキリスト教徒になる前に、まあ、熱心な仏教徒であったとか興味があったというのでもないと、なかなかお経に触れる機会というのも限られてしまいます。異教徒である家族や親せき、友人知人、仕事上の関係者などの葬式、回忌法要、お盆、墓参などの時にちょっと坊さんの読経を聞くくらいなものでしょう。

 そんな中でも般若心経という300文字にも満たない短い経文があります。私は実家が曹洞宗の檀家でしたからなじみのある経文なのでしょうが、私個人は家が曹洞宗というだけで特に興味もなく、ただお盆に坊さんが来てお仏壇の前でモニョモニョお経を唱えて、ちょっとしたお話をして、お布施をもらって帰ってゆく、あとお寺さんから何かしらの案内のはがきが来て、母親がお供えとお布施を以てお寺さんに行ってくるのを年に何回か見る程度で、親も毎朝欠かさずお仏壇と神棚の前で手を合わせてはいますが、お経などというものにはまったく興味がなく、神様とご先祖さんに手を合わせているといった程度でした。

 不思議なことにキリスト教徒になってから、お経や仏教に興味が湧いてきたというのは面白いものだと思いました。特に般若心経などは先ほども言いましたが短くて、それでいて日本文化の根底にある禅を理解するのに、素人でもとっつきやすくていい感じがします。私は岩波文庫の「般若心経・金剛般若経 」はすでに持っていましたが、それよりも「般若心経のすべて―読む・唱える・書く・描く・祀る」 (公方俊良 著 日本実業出版社 1987年)を読んで興味を持ちました。この本はとても分かりやすく、それで興味を失わなくて済んだのでしょう。やっぱり最初は解り易いものから入るのは基本ですね。

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経

 般若心経は短いとはいえ漢文ですから、これを見ただけで嫌気がさしてしまうのかもしれません。

摩訶般若波羅蜜多心経 読み下し

観自在菩薩、深く般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したもう。舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色即ち是れ空、空即ち是れ色。受・想・行・識も亦復是くの如し。

舎利子、是の諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず。是の故に空中には色も無く、受・想・行・識も無く。眼・耳・鼻・舌・身・意も無く。色・声・香・味・触・法も無く。眼界も無く。乃至、意識界も無く。

無明も無く・亦無明の尽きることも無く。乃至、老死も無く、亦老死の尽きることも無く。所得無きを以ての故に、苦・集・滅・道も無く。智も無く。亦得も無し。

菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し。罣礙無きが故に恐怖あること無し。一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟す。

三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。

故に知る、

般若波羅蜜多は是れ大神呪なり、

是れ大明呪なり、是れ無上呪なり、是れ無等等呪なり、能く一切の苦を除いて、真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。
即ち呪を説いて曰く、

羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。

般若心経。

 読み下し分にしますと、まだ意味も解りますし、これで読経してもリズムも崩れず、漢文より覚えやすいかもしれません。最初に固い本で出合ってしまうと、もう駄目だ解らないとさじを投げてしまいかねません。また、この中に基本的な仏教の考え方が出ていて、五蘊は何かとか、六根、六境、六識、十二処、十八界、十二因縁、四苦八苦、四諦八正道などの基本的な用語なんかも意味を知って覚えると、他の経典や仏教の祖師たちの書いたものなどを読む下地になると思います。

 もちろんキリスト教徒から見れば、仏教などは荒唐無稽な阿弥陀仏の話や密教の世界観、法華経のありえなさなんかが目につきますが、そんな荒唐無稽な世界観を省いて、人間釈迦が人間として苦しみから逃れる生き方や方法、あり方を原始仏典や大乗仏教の中では般若経典や禅が示してくれる感じがします。非宗教的なものと感じられるゆえに、キリスト者もこの中から益を得られると思われます。

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 臨済禅師の臨済録の中で、この言葉が好きですね。

師示眾云。道流。佛法無用功處。
秖是平常無事。屙屎送尿著衣喫飯。困來即臥。
愚人笑我。智乃知焉。古人云。向外作工夫。
總是癡頑漢。爾且隨處作主。立處皆真。
境來回換不得。縱有從來習氣五無間業。自為解脫大海。

師は皆に説いて言った、「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり、飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならばそこが分かる。古人も、『自分の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。たとえ、過去の煩悩の名残や、五逆の大悪業があろうとも、そちらの方から解脱の大海となってしまうのだ。

 なんとも肩ひじを張らない自然な姿。私の好きな曹洞宗で得度を受けた種田山頭火の句集「草木塔」(青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000146/card48249.html)などもこういった禅の在り方がよく出ていると感じます。



プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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