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B.H.カウパー編アレクサンドリア写本の脚注から


 18世紀にカール・ゴットフリート・ヴォイデによって、アレクサンドリア写本の精巧なファクシミリ版が作られましたが、何ヵ所かに組版のエラーが含まれていました。それを B.H.カウパーと E.H.ハンセルによって修正したものが、1860年に出版された「CODEX ALEXANDRINUS. Η ΚΑΙΝΗ ΔΙΑΘΗΚΗ NOVUM TESTAMENTUM GRAECE EX ANTIQUISSIMO CODICE ALEXANDRINO」になります。

 このカウパー編のアレクサンドリア写本のいいところは、写本の情報が欄外注にある所です。大英博物館発行のアレクサンドリア写本写真ファクシミリ版や大英図書館で公開されているアレクサンドリア写本のデジタル画像では、写本それ自体を見ることはできますが、写本の中に在る情報が記載されているわけではないので、カウパー編のファクシミリ版は役立ちます。ただし序文も欄外注もラテン語なのがネックです。ちょっと気になったものを二つ三つ挙げたいと思います。

ルカ16:26では本文に
・・・ ἔνθεν πρὸς ὑμᾶςμας 1) μὴ δύνωνται,

と問題箇所に注が付き、欄外にて

1) προς υμας μας. Sic μας repelitum
1) προς υμας μας.それでμαςが繰り返されました。

と説明されています。本来であれば、ἔνθεν(ここから) προς(ところに) υμας(あなたがたの)、「ここからあなた方のところに」という文章になるのですが、υμαςで終わらずに改行した時にまたμαςから始めてしまってυμας μαςとなってしまっています。本来一度だけの語や語句を誤って繰り返してしまう重複誤記(ディトグラフ)が起こってしまっています。ネストレや聖書協会のギリシヤ語新約聖書など批判的校訂本には出てきません。

写本の画像も上げておきます。

アレクサンドリア写本 ルカ16・26


 次に17:1の脚注

Εἶπεν δὲ πρὸς τοὺς μαθητὰς αὐτοῦ, ἀνένδεκτόν ἐστιν τοῦ 2) μὴ

2) εστιν εσ rescriptum a manu antiqua εσ vix legitur, et quaedam literae inter εσet τιν deletae.
2) εστιν εσ は古代の手によって書き直されていますが、εσ はほとんど判読できず、εσ と τιν の間のいくつかの文字は消去されています。

写本のデジタル画像を見て見ますと

ΑΥΤΟΥΑΝЄΝΔЄΚΤΟΝЄϹ
ΤΙΝΤΟΥΗ・・・・

アレクサンドリア写本 ルカ17・1

アレクサンドリア写本 ルカ17・1 拡大
(ЄϹとそれに続く空白の個所の拡大)

となっており、鮮明ではないЄϹの後に二文字ぐらいの空白があります。そして改行してΤΙΝと、不自然に区切られています。

 最後にもう一カ所。マルコ15:21

Καὶ ἀγγαρεύουσιν παράγοντά τινα Σίμωνα Κυρηναῖον 1) ἐρχόμενον ἀπ᾽ ἀγροῦ,

1) Κυρηναιον ν et η atrament recenti reseripta, olim forte Κηρυναιον
1) Κυρηναιον ν と η は新しいインクで書き直され、おそらく元は Κηρυναιον

Κυρηναιον(クレネ人)を書くところを誤ってΚηρυναιονと書いてしまって、あとで(インクの色が違うから書写した人とは別な人?)修正したのかな?

デジタル画像で見るとインクの色が違っていて、修正したように見えます。

アレクサンドリア写本 マルコ15・21

19世紀のファクシミリ版と現代のデジタル公開画像を比べて見ると面白い発見があると感じました。

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後代の挿入句であるヨハネ福音書7章53節~8章11節


 今回は前回の「ルカ福音書23章34節の後代の挿入句」の記事と同じく、ヨハネ福音書の中にある後代の挿入句について見てみたいと思います。

まずは口語訳聖書からその箇所を見てみましょう。

" 〔 53そして、人々はおのおの家に帰って行った。
第8章 1イエスはオリブ山に行かれた。 2朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 3すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 5モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 6彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 8そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 9これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 10そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 11女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕 "

 日本聖書協会の口語訳聖書には凡例が無いので、この個所に見られる亀甲括弧 〔 〕 についての説明がありません。しかし、同協会より発行されていた「口語 新約聖書について」(1954年)という48ページほどの冊子を見ますと、次のように書いてあります。

" 更に、写本上の典拠が十分でないところからネストレの本文から除外され、欄外に出されている節が、いくつかある。現行邦語訳新約聖書では、そういう場合に(何々節ナシ)としてある。たとえば、マルコ七・一六、九・四四、四六、一一・二六、一五・二八、ルカ二三・一七その他である。委員は、これらの場合、欄外の文を訳出して、こうした空白を全部埋めることにした。ただし、これらの節は、一々 〔 〕 形の括弧で包み、その性質を示すようにした。聖書の中に、何々節「ナシ」などとあるのは、よろしくないと思われるし、口語訳の如き大衆性を多分に持つ聖書では、不必要に不審の念を人々にいだかせることでもある。これは厳密な学問の立場からは異議があるであろうけれども、〔 〕 内に入れられる言句も、写本上の証拠が十分でないとはいえ、歴史的、宗教的な意味と価値とはそなえていると信じられるので、あえて右のような措置をとったわけである。また、ネストレは、ヨハネ七・五三-八・一一を欄外に出しているが、口語訳では、これも 〔 〕 内に入れて本文に取り入れた。この種の例は、ほかにも多少みられよう。 " 
(p.22)

 この冊子を口語訳聖書に組み入れるか、それとも簡単な凡例でも付ければいいのに、別に小冊子の形で頒布したら買わないでしょうし、こういうものは口語訳聖書が出版された当初くらいしか頒布されないのだから、頒布されなくなってから後は、凡例も無いのですからとても不親切と言えます。長老派やピューリタンに毒された英国外国語聖書協会の出版方針(1826年5月3日にロンドンで開催された英国外国聖書協会の会議での決議)が、こういう不親切で利用者のことを考えない聖書出版に繋がっていたのでしょう。まあ、そのことは置いておくとして、この亀甲括弧で囲われた箇所は、ネストレ旧版では写本証拠から欄外に置かれたものです。1979年に出版されたネストレ新版とも呼ばれる26版以降では、欄外ではなく本文に入れて二重の角括弧 〚 〛 で囲って、後代の加筆部分であることを示しています。旧版(18版)の画像をあげておきます。この形式は25版まで変わりません。

ネストレ18版

 画像に見られる通り、ネストレ旧版では52節の下に線が引かれていて、その下が欄外であることが分かります。そして51節と52節のアパラトゥスが書かれ、その下に52節までの本文の文字よりも小さいアパラトゥスに使われる文字の大きさのまま、二重の角括弧 〚 〛で囲って後代の挿入句が書かれ、さらにその下に欄外線が書かれて、後代の挿入句のアパラトゥスが付されるという形になっています。

 口語訳聖書のように亀甲括弧や角括弧で囲っている聖書は、大正改訳、口語訳、共同訳、新共同訳。これらは凡例なしで、欄外注もなしです。

 2018年に引照・注付きで出版された聖書協会共同訳は亀甲括弧で囲い、欄外注では言及・説明無し。凡例で亀甲括弧の説明があるだけです。

 新改訳は欄外注に説明はあるものの、本文に付されている亀甲括弧については、凡例にあたる「あとがき」にて説明はありませんでした。欄外注は以下のようなものです。

新改訳(第一版、第二版、第三版)欄外注
" 53* 古い写本のほとんど全部が七・五三-八・一一を欠いている。この部分を含む異本も相互間の相違が大きい "

新改訳2017欄外注 
" 53* 古い写本のほとんど全部が七53-八11を欠いて、この部分を含む異本間の違いも大きい。この部分がルカの福音書に含まれている異本もある "

 岩波書店新約聖書翻訳委員会訳(2004年)も本文を角括弧で囲い、以下のような欄外注があります。

" 七53-八11は、西方で作成された写本のみが伝えている。語彙の多くが非ヨハネ的であり、またルカ福音書二一章の後に入れたり、ルカやヨハネの付録として伝えている写本もあるため、後世、ここに入れられたものと思われる。ただし、伝承それ自体はかなり古いものらしい。三世紀の初頭にシリアで書かれた教会規則ディダスカリア(Ⅱ二四6)には、よく知られた話として言及されているし、二世紀のパピアスも知っていた可能性がある(エウセビオス『教会史』Ⅲ三九17、参照) "

 次に、本文に括弧等を付けておらず、本文と区別していないもので、さらに欄外注で後代の加筆であることに言及していないものは、バルバロ訳ドン・ボスコ社版新約改訂版1957年、バルバロ訳聖書講談社版 旧新約1980年、新約1981年、フランシスコ会訳「四福音書」(1977年)、フランシスコ会訳「新約聖書」(1979年中型、1980年小型)です。

 フランシスコ会訳も1984年の改訂版でやっと欄外注で言及されました。2011年に出版された旧新約のコンプリート版でも同様の注が付されています。

フランシスコ会訳「新約聖書」(1984年改訂版)欄外注
" (16) 7 53-8 11の部分は、仮庵の祭りのときの論争を中断しているので、ヨハネ福音書本来の記事ではなく、後の加筆とみなされる。 "

フランシスコ会訳「聖書」(2011年コンプリート版)欄外注
" (15) 7・53-8・11の部分は、仮庵の祭りのときの論争を中断しているので、ヨハネ福音書本来の記事ではなく、後の加筆とみなされる。 "

 いのちのことば社から昔出ていた「詳訳聖書 新約」の欄外注は、アメリカのキリスト教保守(キリスト教やプロテスタントの保守ではなく、あくまでも【アメリカの】プロテスタント保守層)の正文批判を無視した考え方による注が付されています。

詳訳欄外注
" (a)  ヨハネ7・53-8・11は古い写本には欠けている。しかし、いかにもキリストにふさわしい記事であるので、私たちはこれを純正なものとして受け入れ、削除するのは最も不幸な事と考える。 "

 続いて個人訳からですが、岩隈直訳「福音書」では、8章11節の本文の後に

" (この項は原著では下巻の最後にある 編者注) "

と書いてあります。 岩隈直訳の底本であるR.V.G.Taskerの「ギリシヤ語新約聖書」を見ましたらヨハネ福音書の最後に載せられていました。

 大トリは田川訳で、まずは「新約聖書 本文の訳 携帯版」(田川建三訳 2018年 作品社)から、こちらは本文のみで註がないので、後代の加筆部分が始まる前に説明が括弧書きで付されています。

"  (以下、七・五三-八・一一は重要な諸写本にはのっていない。だいぶ後になって、多分四、五世紀に、この話を付け足す写本が現れ、以後徐々に諸写本に広まったもの。従って本当は本文の訳としてはこの部分は削除して訳すべきだが、有名な話だから、訳出しておいた)
〔(七章) 53そしてそれぞれが家に帰って行った。
 第八章 1イエスは、オリーヴの山へと行った。 2だが・・・ "

となっています。

 「新約聖書 訳と註 5 ヨハネ福音書」(田川建三訳 2013年 作品社)では、本文に括弧などが付されていませんが、この個所に関する註が5ページもあります。そのうちの一部を見てみましょう。

" 第八章
53~11 《罪ある女の赦し》 七・五三-八・一一については、重要な諸写本がこれを記載していないから、そもそも原文にはのっていなかったものとみなすべきである。記載しているのはD写本とラテン語訳諸写本(つまり西方系)、またいわゆるビザンチン系の多数の写本。記載していないのは𝔓⁶⁶ 𝔓⁷⁵ の最重要パピルス二写本、ℵ B L N T W Δ Θ Ψ など重要な大文字写本が大部分(CやAも不鮮明だが多分)、また小文字写本でも重要なものがかなり。確かに西方写本とビザンチン系が一致すれば、もしもそれに加えて正文批判上何か他の重要な理由も存在するのであれば、そちらの読みを採用する方がいい場合もないわけではないが、特別な理由がない限りは、最重要パピルス写本、重要な大文字諸写本に反してその読みを採用することはありえない。
 ・・・・
 ではこの話自体はいつごろ創作され、いつ頃ヨハネ福音書のこの位置に置かれるようになったか。西方写本が之を記していることからして、おそらく後二世紀末には知られていたものであろうが(西方写本の大元の写本は後二世紀後半にまで遡ると言われている。しかし確かとは言えない)、他方では、同じ西方でも(ローマ帝国支配下でラテン語が支配していた地域。しかしギリシャ語もかなり普及していた)、主なキリスト教著者たちはこの話を知らない(エイレナイオス、ヒッポリュトス、テルトゥリアヌス、キュプリアヌス、ユヴェンクス、ヒラリウス。バウアー註解による)。とすると、西方でもあまり広まっていなかったのだろうと推測される。他方、東方(ローマ帝国支配下でギリシャ語が支配していた地域)では、そもそも主な大文字写本には記載されていないのだし、オリゲネス、エウセビオスをはじめとしてキリスト教ギリシャ語著者たちも知らないのだから、かなり遅くまでこの話は知られていなかった、ということになる。おそらく西方のどこかで創作され、それが徐々に西方系諸写本に入りはじめ、ずっと後になって東方の諸写本にも入りはじめた、ということなのだろう。
 なお一頃までは、エウセビオスが伝えるパピアスの証言がこの話に言及している、と主張する学者もいたが、それは正しくない。すなわちエウセビオスはパピアスの書物(後二世紀前半)の中からマルコ、マタイ福音書に関する有名な証言を引用した後、次のように記している、「同じ者(パピアス)は、ヨハネ第一書簡とペテロ書簡から得た証言を利用している。また多くの罪に関して主の前で告発された女についての他の物語も述べている。これはヘブライ人による福音書が提供している話である」(HE Ⅲ, 39, 17)。もしもこれが我々の話を指しているのであれば、この話はもともとは「ヘブライ人による福音書」にのっていた、ということになる。それがいつの間にかこれだけ抜き出されて、ヨハネ福音書やルカ福音書の適当な箇所に挿入されたのだ、と。しかしエウセビオスは「多くの罪に関して主の前で告発された女性」と言っているので、それに対し我々の話は一つの罪(姦淫)に関して告発されているだけだから、同じ話とは言えまい。ただしエウセビオス『教会史』のラテン語訳ではこの個所をはっきり「姦淫の女について」と訳しているので、この訳者がパピアスのこの話をヨハネ福音書の我々の個所の話しと同一視していることは確かである(G.Bardy, Eusèbe de Césarée, Histoire Ecclésiastique, Tome 1, 157, note 12)。つまりエウセビオスのラテン語訳をなした人物(Rufinus)はもちろん西方のキリスト教著者であるから(イタリア南部のAquileia ほかで活躍。四〇〇年前後にエウセビオスのラテン語訳をなした)、我々の話を知っていたのであろう。
 ・・・
 以上、この話が本来ヨハネ福音書に記されていたものでないこと、かなり後になって誰かこの種の説教的物語を作るのが上手な奴が創作したものであること、それが徐々にヨハネ福音書に入り込んだことは、確かである。そのことは、以上の正文批判的事実だけですでに十分明らかであるが、ギリシャ語の語彙、語法からしても、この個所にはヨハネ福音書では用いられていない単語、表現がこの短い箇所の中で非常に多く出て来る、という点からも明らかである(以下の註参照)。
 それにもかかわらず、そこまでの事実を認めながら、この話はもともと非常に古い伝承であり、それも共観福音書の伝承と酷似しており、イエス自身の事実である可能性が高い、などと言い張る神学者がけっこう大勢いらっしゃる。しかし、これだけ後の時代になって創作された説教が、共観福音書の伝承の仲間だとか、ましてやイエス自身の事実を物語っているのだと言い張るのは、全くの無知というものである。それはむしろ、この話が後世の(特に近現代の)教会説教者にとって非常に人気のある話だから、それで、せっかくの有難いお話、何とかイエス様の実際のお話ということにしておきたい、という願望の実現でしかない。
 ・・・・ "

 この田川訳の註を見た後で、ネストレ28版のアパラトゥスを見ると分かりやすいと思います。

ネストレ28版アパラトゥス
〚7,53-8,11〛 add. hic D K L*ᵛⁱᵈ Γ Δ*ᵛⁱᵈ 118. 174. 209. 579. 700. 892. 𝔐 lat boᵖᵗ ; Hierᵐˢˢ (c. obel. 230.1424ᵐᵍ) ╎ p. 7,36 255 ╎ p. 21,25 1. 1582 ╎ p. L21,38 f¹³ ╎ add. 8,3-11 p. L24,53 1333ˢ ╎ om 𝔓⁶⁶.⁶⁵ ℵ Aᵛⁱᵈ B Cᵛⁱᵈ Lᶜ N T W Δᶜ Θ Ψ 0141. 0211. 33. 131. 565. 1241. 1333. 1424ᵗˣᵗ. 2768 a f l q sy sa ly pbo boᵖᵗ ; Or Hierᵐˢˢ

 ネストレ28版の写本証拠の主なものを分かりやすくすると

7,53-8,11を

add(追加) が、D ベザ写本(5世紀)、K キプリウス写本(9世紀)、L レギウス写本(8世紀)、Γ ティシェンドルフィアヌス第四写本(10世紀)、Δ サンガレンシス写本(9世紀)、小文字写本、𝔐 多数派本文、lat ウルガタと一部の古ラテン語伝承など

om(省略) が、𝔓66(200年頃)、𝔓75(3世紀)、ℵ シナイ写本(4世紀)、A アレクサンドリア写本(5世紀)ᵛⁱᵈ(記号vidは写本の証言する読みが絶対的な確実性をもって決定できないことを示す)、B バチカン写本(4世紀)、C エフラエム重記写本(5世紀)ᵛⁱᵈ(記号vidは写本の証言する読みが絶対的な確実性をもって決定できないことを示す)、L レギウス写本(8世紀)の後代の修正、N ペトロポリタヌス写本(6世紀)、T ボルギアヌス写本(5世紀)、W ワシントン写本(5世紀)、Δ サンガレンシス写本(9世紀)の後代の修正、Θ コリデティ写本(9世紀)、Ψ アトウス・ラウレンシス写本(8/9世紀)、アンシャル体写本0141(10世紀)、アンシャル体写本0211(7世紀)、小文字写本、シリア語訳、コプト語サヒド方言訳、コプト語ボハイル方言訳など

となります。

 アメリカ聖書協会で1966年に出版された(当ブログでは「UBS第〇版」と表記しています)「THE GREEK NEW TESTAMENT (ギリシヤ語新約聖書)」の第一版を見ますと、この後代の挿入句は本文から取り除かれています。

 UBS版はアパラトゥスにある異読に、確かさの度合いが、{ }の中にA、B、C、Dで示されているのがネストレ校訂本との大きな違いです。「THE GREEK NEW TESTAMENT (ギリシヤ語新約聖書)」の第一版のイントロダクション41ページでアパラトゥスの記号と略号の説明で以下のように書いています。

"{ } enclose letter A, B, C, D, which indicates the relative degree of certainty for the reading adopted in the text. ({ } でA、B、C、D の文字を囲み、本文で採用されている読み方の相対的な確実性を示します。)"

 アパラトゥスでは 「{A}omit 7.53-8.11」と、この後代の追加文が無いことを「A」評価としていて、その評価通りに本文には載せていませんでした。しかし、第三版の改訂版である1983年に発行された第3版(修正版)では、この後代の追加文を本文に二重の角括弧付きで掲載しただけでなく、この後代の追加文を含む方を 「{A}include 7.53-8.11」 と評価をひっくり返しました。

まず、二重の角括弧については、第3版(修正版)のイントロダクション12ページで、以下のように説明しています。

"〚 〛 Double square brackets are used to enclose passages which are regarded as later additions to the text, but which are retained because of their evident abtiquity and their importance in the textual tradition. (〚 〛 二重角括弧は、本文への後の追加とみなされる文章を囲むために使用されますが、その明白な正確性と本文の伝統における重要性のために保持されます。)"

 そして、このUBS第3版(修正版)での修正について、B.M.メッガーは著書「新約聖書の本文研究」にて、" ヨハネ7・53-8・11「姦通の女」の A の表示が本文から外すよりも掲載する方に付せられているのは誤りである " と批判しています。(p.318)

 UBS第4版では、後代の追加文はUBS第3版(修正版)のまま二重の角括弧付きで本文に載せられていますが、アパラトゥスは変更になり 「{A}omit 7.53-8.11」 と、本来の含めないことを A とした評価に改めました。

 NEBの底本であるR.V.G.Taskerの「ギリシヤ語新約聖書」では、本文には載せられておらず脚注に

" 7・53-8・11 is printed as a separate section at the close of the Gospel (see note in Appendix) (7・53-8・11 は福音書の最後に別個のセクションとして掲載されています (付録の注を参照))"

とあり、ギリシャ語の追加文はヨハネ福音書の最後に置かれ(p.179)、そして巻末付録に説明があります。(p.426)


 続いてこの個所の重要写本の画像をいくつか載せます。


この後代の追加が無い写本の画像


Papyrus Bodmer II (𝔓66) ヨハネ7:52b-8:13a
Papyrus Bodmer II (𝔓66) ヨハネ7:52b-8:13a



𝔓75 7:49c-8:12a
𝔓75 ヨハネ7:49c-8:12a



シナイ写本 ヨハネ7:51b-8:13a
シナイ写本 ヨハネ7:51b-8:13a



バチカン写 本ヨハネ7:52-8:13a
バチカン写 本ヨハネ7:52-8:13a



ワシントン写本 ヨハネ7:52~8:13a
ワシントン写本 ヨハネ7:52~8:13a



この追加を含めている写本の画像

ベザ写本 7:51c-8:3b
ベザ写本 ヨハネ7:51c-8:3b


Codex Tischendorfianus IV(036 Γ)John 8:3-11
ティシェンドルフィアヌス第四写本 ヨハネ8:3-11



 こういう異読を調べるときに、反対意見のアメリカの福音派ファンダメンタル系のテクストゥス・レセプトゥスやジェームズ王欽定英語訳聖書に執着している団体などの記事を見てみたりしますが、そういう人たちの主張見るとスクリブナ―やバーゴンなど19世紀初頭の100年以上前の論文などを引っ張り出してきたり、現代の神学者のものを持ってきたかと思うと、その引っ張り出してきた人物は、正文批判や写本、古文書の専門外で、学問的ではなく単なるファンダメンタル的主張でしかなかったり、写本証拠は無視した論調ばかり、なんかね・・・


 次に、キリスト教ではありませんが、キリスト教の異端で、破壊的カルト宗教と見られているエホバの証人の使っている新世界訳聖書を見て見ました。1985年日本語版ではこの追加箇所は欄外に載せられています。その冒頭には

" シナ写,バチ写,シリ訳シは,53節から8章11節までを省いているが,その部分は(種々のギリシャ語本文や訳本によって多少の異同はあるが)以下のとおりである: " 

とあり、マルコ福音書16章の後代の追加箇所に比べると不親切な説明でした。

新世界訳(1985年日本語版) ヨハネ7:53-8:11


 新世界訳の2019年日本語版では、7章52節の最後に*記号が付いていて、脚注に " 幾つかの権威ある古代写本は,53節から8章11節までを省いている。 " と記載されています。そして53節から8章11節までが完全に取り除かれ、その説明が巻末付録に " マルコ 16章の長い結び(9-20節)と短い結び,ヨハネ7章53節から8章11節の言葉はどれも,明らかに原文の記述ではありません。改訂版では,そうした加筆された部分は含められていません。 " と短い説明がありました。その箇所の脚注では、" 加筆といえる理由について詳しくは,1985年発行の「新世界訳聖書 ― 参照資料付き」の脚注をご覧ください。 " とあるので、一応、1985年版の参照資料付聖書を見てみましたら、1985年版普通版と同じでした。しかし、公式サイトにあるスタディー版には

" 7:53
最初期の最も権威ある写本に,ヨハ 7:53から8:11は載っていない。これら12の節は,明らかにヨハネの福音書の原文に付け加えられたもの。(付録A3参照。)それらは,ヨハネの福音書を含む入手できる最初期の2つのパピルス写本,西暦2世紀のボドメル・パピルス2(P66)とボドメル・パピルス14,15(P75)には出ていない。4世紀のシナイ写本とバチカン写本にも出ていない。5世紀の1つのギリシャ語写本(ベザ写本)に初めて出ているが,それ以降9世紀までどのギリシャ語写本にも出ていない。他の言語への初期の翻訳のほとんどで省かれている。あるギリシャ語の写本群で,これらの節はヨハネの福音書の末尾に置かれていて,別の写本群ではルカ 21:38の後に入っている。この部分が写本によって異なる箇所に出ているということは,それが後から付け加えられたものであることを裏付けている。圧倒的多数の学者たちも,これらの節がヨハネの原文にはなかったことに同意している。 "

との説明があり、こちらは短くて分かりやすい説明が載せられています。


新世界訳(2019年日本語版) ヨハネ7:52-8:12
新世界訳(2019年日本語版) ヨハネ7:52-8:12



新世界訳(2019年日本語版) 巻末付録 A3
新世界訳(2019年日本語版) 巻末付録 A3


 しかし、日本聖書協会(主流派で使用されている新共同訳、聖書協会共同訳を出版)も、いのちのことば社(福音派や聖霊派などで使用されている新改訳を出版)も、もうちょっと利便性のある聖書を出版してもらいたいものです。異端や破壊的カルト宗教団体にこういう面で劣るものを、こういう団体より高い値段で販売していることを是正してもらいたいと思います。


ルカ福音書23章34節の後代の挿入句


 全回の記事「ヘブライ2章9節の異読について」に引き続いて、「捏造された聖書」 (バート・D・アーマン著 松田和也訳 柏書房 2006年初版)からルカ福音書23章34節に見られるイエスの言葉

そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。(口語訳)

について見て行きたいと思います。


 アーマンの本を読み返していて、この異読もあったなと思い出し、昔、ネストレ校訂本を見て調べたことを思い出しました。そして改めてネストレ版を開き、アパラトゥスを見、W・カウパーのアレクサンドリア写本のファクシミリ版、ティッシェンドルフのバチカン写本のファクシミリ版、初期の新約聖書ギリシャ語写本のテキスト第二巻から𝔓75を確認しました。その後に、写本のPDFやWeb公開されているデジタル写真画像を手元にあるファクシミリ版片手に確認しました。

バチカン写本、アレクサンドリア写本、パピルス写本、ファクシミリ


 日本語訳の聖書を見ると、『そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」』という後代の挿入句を取り除いているもの。この挿入句を本文に訳出しているものの欄外の註にて説明しているもの。挿入句を本文に訳出しているが丸括弧、亀甲括弧、角括弧などを付けているもの(凡例のあるものは、凡例で後代の挿入句であることを示している)。この挿入句を本文と区別もしていないもの。と、おおよそ四つに区分できます。それは以下のようになります。

●挿入句を省いているもの

 田川訳のみ

"34 そして彼の衣を分け、籤を引いた。"



●この挿入句を本文に訳出しているものの欄外の註にて説明しているもの。

 新改訳(第一版)1970年、新改訳(第二版)1978年、新改訳(第三版)2004年、新改訳2017、岩波書店新約聖書翻訳委員会訳2004年新約

新改訳(第一版、第二版、第三版)
34 *そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
34* 異本に「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。・・・・・自分でわからないのです。』」を欠くものがある

新改訳2017
34 *そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
34* 多くの有力な写本は「いないのです。」までを欠いている。

岩波書店新約聖書翻訳委員会訳2004年
34 〖するとイエスは言うのであった、「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分が何をしているか、わかっていないからです¹」。〗また彼らは、彼の衣服を分けようとして、くじを引い た。
¹ この句は有名ではあるが、元来のルカの本文には欠けていたものと思われる。
定本の解釈に従う。

 このタイプの英訳も載せておきます。

Revised Version (RV)
34 ³And Jesus said, Father, forgive them; for they know not what they do. And parting his garments among them, they cast lots.
³ Some ancient authorities omit And Jesus said, Father, forgive them; for they know not what they do.


Revised Standard Version (RSV)
34 And Jesus said, “Father, forgive them; for they know not what they do.”ⁿ And they cast lots to divide his garments.
ⁿ Other ancient authorities omit the sentence And Jesus ・・・ they do


New International Version (NIV 2011) (Bible Gateway)
34 Jesus said, “Father, forgive them, for they do not know what they are doing.”[c] And they divided up his clothes by casting lots.
c. Luke 23:34 Some early manuscripts do not have this sentence.


New King James Version (NKJV 1982) (Bible Gateway)
34 [h]Then Jesus said, “Father, forgive them, for they do not know what they do.”
h. Luke 23:34 NU brackets the first sentence as a later addition.



●挿入句を本文に訳出しているが丸括弧、亀甲括弧、角括弧などを付けているもの

共同訳聖書ルカスによる福音(1975年) ルカ23:34
〔そのときイエススは言った。「お父様、彼らをゆるしてやってください。何をしているのか知らないのです。」〕 人々はくじを引いて、イエスの服を分けた。

・括弧の意味について説明のないもの

 共同訳聖書ルカスによる福音(1975年) 、共同訳(1978年)、新翻訳事業パイロット版ルカ2016年、国際ギデオン協会New Bible(泉田昭訳)2004年

"底本に従わなかった点。
・・・
2 底本の( )と[ ]の表示は省略し、〚 〛は〔 〕にした。"
(共同訳(1978年)の凡例)


・凡例などで括弧の意味を書いてあるもの

 新共同訳1987年、聖書協会共同訳(2018)

"(6) 〔  〕
 新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す。・・・ “
(新共同訳の凡例)

"(4) 〔  〕
 新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す。・・・ "
(聖書協会共同訳(2018)の凡例)



●この挿入句を本文と区別もしていないもの

大正改訳、口語訳、フランシスコ会聖書研究所訳(「四福音書」1977年、中型新約1979年、小型新約1980年、小型新約1984年改訂版、旧・新約2011年)、バルバロ訳(ドン・ボスコ社新約1957年 、講談社旧・新約1980年、講談社新約1981年)、リビング・バイブル(旧新約1982年版、新約1993年改訂版、2011年改訂版)、岩隈直訳 福音書1998年、前田護郎訳1978年、塚本虎二訳1963年

口語訳 ルカ23:34
そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。


 日本語訳は伝統的な正統主流派で使われている新共同訳や聖書協会共同訳、福音派や聖霊派などで使われている新改訳共に、括弧や欄外注で後代の挿入句であることを示しています。しかし、聖書協会の聖書みたいに括弧で示すだけで、果たして読んでいるキリスト教徒がこの個所が挿入句であると気が付くかと言えば甚だ疑問です(共同訳(1978年)の凡例はひどい。底本のUBS 3版の二重の角括弧の意味が分からなければ全く理解できない仕様になっている。)。長く教会員として奉仕などもされている方が、何十回も何百回も聖書を通読していても、凡例があることを知らない。気にしたことが無いという人がとても多いと感じます。新改訳みたいに当該箇所の欄外注に書いていれば、それに気が付くこともあると思いますが、括弧つけただけではねぇ。毎度の聖書協会の独りよがりというやつです。せっかく聖書協会共同訳で引照と注を標準装備したのだから、そこに書きゃあいいじゃねぇかと思いますが、そうはしない不親切商品です。

 そして、括弧も注もなしで、そのまんま本文にしている聖書の多いこと。しかし、これらの訳も底本見れば、そこにはちゃんと挿入句であることが本文に記号(二重角括弧)で示され、アパラトゥスにもしっかりと写本証拠が出ています。次にそれを見てみましょう。


ネストレ18、22、24版
34〚ὁ δὲ Ἰησοῦς ἔλεγεν· πάτερ, ἄφες αὐτοῖς, οὐ γὰρ οἴδασιν τί ποιοῦσιν.〛 διαμεριζόμενοι δὲ τὰ ἱμάτια αὐτοῦ ἔβαλον κλήρους.

34 〚+ℵ* C 𝔎 pl latsy(ᶜ)ᵖ Mcion Or; T: - B D* W Θpe a syˢ sa; W


ネストレ25版
34〚ὁ δὲ Ἰησοῦς ἔλεγεν· πάτερ, ἄφες αὐτοῖς, οὐ γὰρ οἴδασιν τί ποιοῦσιν.〛 διαμεριζόμενοι δὲ τὰ ἱμάτια αὐτοῦ ἔβαλον κλήρους.

34 〚+ℵ* C 𝔎 pl latsy(ᶜ)ᵖ Mcion Or; T: - p) 𝔓⁷⁵ B D* W Θpe a syˢ sa; W


ネストレ28版
34 □〚ὁ δὲ Ἰησοῦς ἔλεγεν· πάτερ, ἄφες αὐτοῖς, οὐ γὰρ οἴδασιν τί ποιοῦσιν.〛 διαμεριζόμενοι δὲ τὰ ἱμάτια αὐτοῦ ἔβαλον κλήρους.

34 □ 𝔓⁷⁵ ℵ²ᵃ B D* W Θ 070. 579. 1241. a syˢ sa boᵖᵗ ¦ add. p ) ℵ²ᵇ (ειπεν loco ελεγεν πατερ A) C D³ K L Q Γ Δ Ψ f¹ (- δε f¹³) 33. 565. 700. 892. 1424. 2542. l 844 𝔐 lat syᶜ.ᵖ.ʰ (boᵖᵗ ; Irˡᵃᵗ)


UBS第1版
34 [ὁ δὲ Ἰησοῦς ἔλεγεν, Πάτερ, ἄφες αὐτοῖς, οὐ γὰρ οἴδασιν τί ποιοῦσιν.]⁵ διαμεριζόμενοι δὲ τὰ ἱμάτια αὐτοῦ ἔβαλον κλήρους.

⁵ 34 {C} ὁ δὲ Ἰησοῦς ἔλεγεν, Πάτερ, ἄφες αὐτοῖς, οὐ γὰρ οἴδασιν τί ποιοῦσιν. ℵ*.ᶜ A C Dᵇ (K εἶπεν for ἔλεγεν) L X Δ Π Ψ 0117 0250 f¹ (f¹³ omit δέ) 28 33 565 700 892 (1009 ποιῶσιν) 1010 1071 1079 (1195 ἄ for τί) 1216 (1230 1253 Ἰησοῦς ἐσταυρωμένος ἔλεγεν) 1242 1344 1365 1546 1646 2148 2174 Byz Lect itᵃᵘʳ.ᵇ.ᶜ.ᵉ.ᶠ.ᶠᶠ².ˡ.ʳˡ vg syr⁽ᶜ⁾.ᵖ.⁽ʰ.ʰᵐᵍ⁾.ᵖᵃˡ copᵇᵒᵐˢˢ arm eth geo Hegesippus Marcion Diatessaronᵃ.ᵉᵃʳᵐ.ⁱ.ⁿ Justin Irenaeusˡᵃᵗ Clement Origenˡᵃᵗ Ps-Clement Eusebius Eusebian Canons Ambrosiaster Hilary Basil Apostolic Constitutions Ambrose Chysostom Jerome Augustine Theodoret John-Damascus // include ὁ δὲ…ποιοῦσιν. u·ith asterisks E // omit 𝔓⁷⁵ ℵᵃᵛⁱᵈ B D* W Θ 0124 1241 itᵃ.ᵈ syrˢ copˢᵃ. ᵈᵒᵐˢˢ Cyril


UBS第3版(修正版)
34 〚ὁ δὲ Ἰησοῦς ἔλεγεν, Πάτερ, ἄφες αὐτοῖς, οὐ γὰρ οἴδασιν τί ποιοῦσιν.〛⁵ διαμεριζόμενοι δὲ τὰ ἱμάτια αὐτοῦ ἔβαλον κλήρους.

⁵ 34 {C} ὁ δὲ Ἰησοῦς ἔλεγεν, Πάτερ, ἄφες αὐτοῖς, οὐ γὰρ οἴδασιν τί ποιοῦσιν. ℵ*.ᶜ (A omit Πάτερ) C Dᵇ (K εἶπεν for ἔλεγεν) L X Δ Π Ψ 0117 0250 f¹ (f¹³ omit δέ) 28 33 565 700 892 (1009 ποιῶσιν) 1010 1071 1079 (1195 ἄ for τί) 1216 (1230 1253 Ἰησοῦς ἐσταυρωμένος ἔλεγεν) 1242 1344 1365 1546 1646 2148 2174 Byz Lect itᵃᵘʳ.ᵇ.ᶜ.ᵉ.ᶠ.ᶠᶠ².ˡ.ʳˡ vg syr⁽ᶜ⁾.ᵖ.⁽ʰ.ʰᵐᵍ⁾.ᵖᵃˡ copᵇᵒᵐˢˢ arm eth geo Hegesippus Marcion Diatessaronᵃ.ᵉᵃʳᵐ.ⁱ.ⁿ Justin Irenaeusˡᵃᵗ Clement Origenˡᵃᵗ Ps-Clement Eusebius Eusebian Canons Ambrosiaster Hilary Basil Apostolic Constitutions Ambrose Chysostom Jerome Augustine Theodoret John-Damascus // include ὁ δὲ…ποιοῦσιν. u·ith asterisks E // omit 𝔓⁷⁵ ℵᵃ B D* W Θ 0124 1241 itᵃ.ᵇ syrˢ copˢᵃ. ᵈᵒᵐˢˢ Cyril


UBS第4版
34 〚ὁ δὲ Ἰησοῦς ἔλεγεν, Πάτερ, ἄφες αὐτοῖς, οὐ γὰρ οἴδασιν τί ποιοῦσιν.〛 διαμεριζόμενοι δὲ τὰ ἱμάτια αὐτοῦ ἔβαλον κλήρους.

34 {A} omit verse 34a ὁ δὲ … ποιοῦσιν. 𝔓⁷⁵ ℵ¹ B D* W Θ 070 579 597* 1241 itᵃ.ᵇ syrˢ copˢᵃ. ᵈᵒᵖᵗ // include verse 34 a ( with minor variants; see Ac 7.60) ℵ*.² A C D² L Δ Ψ 0250 f¹ f¹³ 28 33 157 180 205 565 597ᶜ 700 828 992 1006 1010 1071 1243 1292 1342 1424 1505 Byz [F G H N] Lect itᵃᵘʳ.ᵇ.ᶜ.ᵉ.ᶠ.ᶠᶠ².ˡ.ʳˡ vg syrᶜ.ᵖ.ʰ.ᵖᵃˡ copᵇᵒᵖᵗ arm eth geo slav Diatessaron Jacobus-Justusᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴴᵉᵍᵉⁱᵖᵖ Irenaeusˡᵃᵗ Hippolytus Origenˡᵃᵗ Eusebius Eusebian Canons Ps-Ignatius Apostolic Constitutions Gregory-Nyssa Amphilochius Didymusᵈᵘᵇ Ps-Clementines Ps-Justin Chysostom Cyril Hesychius Theodoret; Ambrosiaster Hilary Ambrose Jerome Augustine // include verse 34a with asterisks E


 となっており、大正改訳、口語訳、フランシスコ会訳、個人訳などが底本にしている批判的校訂本では、しっかりと二重角括弧(〚 〛) が、自分の手元にあるネストレ18版、22版、24版、25版、26版、27版、28版、UBS第3版(修正版)、UBS第4版、スーターでは有り、アパラトゥスでの説明もあります。R.V.G.タスカーでは脚注にて、この個所が省略されていると書いています。

口語訳の底本はネストレ版の19版・20版・21版ですが(ちょうど持っていない)、その前後の版にあって、この三つの版にだけないなんてことはあり得ないわけですから、そういう底本の情報を無視して、それを翻訳に反映していないというのはなんとも役に立たないものです。

UBS第1版では二重の角括弧(〚 〛)ではなく、普通の角括弧([ ])でこの個所を囲んでいます。イントロダクションで記号の意味を見ますと、 

" [ ] enclose words which are regarded as having dubious textual validity. ([ ]は 、テキストとしての妥当性が疑わしいと考えられる単語を囲みます。) "

となっていて、二重の角括弧の

"〚 〛 Double square brackets are used to enclose passages which are regarded as later additions to the text, but which are retained because of their evident abtiquity and their importance in the textual tradition. (〚 〛 二重角括弧は、本文への後の追加とみなされる文章を囲むために使用されますが、その明白な正確性と本文の伝統における重要性のために保持されます。)"

というものよりも弱い感じがします。

 キリスト教の異端であり破壊的カルト宗教であるエホバの証人の「参照資料付き聖書 新世界訳」(1985年版)でさえ

34 [[しかしイエスはこう言われるのであった。「父よ,彼らをお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのですから」。]] さらに,彼の衣を分配しようとして,彼らはくじを引いた。

と二重の角括弧を付けて訳し、その欄外注で

" シナ写,エフ写,ウル訳,シリ訳ク,ペはこれら角かっこ内の語を挿入している; パピ写75,バチ写,ベザ写*,ワシ写,シリ訳シは省いている。 "

と説明がなされているのに(2013年英語版とその翻訳である2019年日本語版、そしてスタディー版では角括弧も欄外注も無くなりました。幸いなことに、四代目会長が亡くなってから、統治体も変わって行きものみの塔協会は勝手に劣化して行ってくれています)、日本聖書協会やフランシスコ会訳を出しているサンパウロ社が、それができないというのも情けない話です。

 本文を引用するのにドイツ聖書協会で公開されているUBS 5版とネストレ28版の本文を利用しましたが、UBS 5版には挿入句に二重の角括弧がありましたが、なぜかネストレ28版の方にはありませんでした。手元にある28版の本にはしっかりと二重の角括弧が印刷されています。不思議ですね。

UBS 5th ルカ23:34
(ドイツ聖書協会のacademic-bible.comで公開されているUBS 5版)


ドイツ聖書協会のacademic-bible.comで公開されているNA28のルカ23:34
(ドイツ聖書協会のacademic-bible.comで公開されているNA28)


 さて、批判的校訂本の見方がわからない人のために、分かりやすい田川訳の註を見たいと思います。

" 34 節のはじめに、多くの写本で、やや長い挿入句が入っている。「イエスは言った。父よ、彼らを許し給え。自分のしていることがわかっていないのです」という句である。結構なお説教だが、重要な諸写本ではこの句はのっていない。のっているのは、数だけはやたらと多いがほぼまったく価値のないいわゆるビザンチン系写本に加えて、ℵ C L Ψ などである。のせていないのは𝔓⁷⁵ B D W Θ、またℵの第一修正、ほか。ℵやCも重要だが、ルカの場合、𝔓⁷⁵とBの一致に加えてDも一致するのは貴重だし、他の大文字写本もいくつか加わっている。それに lectio difficilior の原則からしても、もしもこの句が原文にあったのなら、後世の敬虔な写本家がわざわざ削ろうなどという気はおこさなかっただろう。従ってネストレも(アメリカ版も)二重亀甲の括弧に入れている。この二重亀甲は「原文ではないことが確実」というものである(22・43-44の註参照)。それにもかかわらず口語訳がこれを本来の原文であるかのように訳出しているのは、よろしくない。新共同訳は一重の亀甲に入れているが、新共同訳はアメリカ版のテクストに従いますと宣言しているのだから、二重亀甲にすべし。 "
(「新約聖書 訳と註 2上 ルカ福音書」 田川建三 2015年3刷 作品社)


 本来、十字架刑にされた反逆者や犯罪者たちの言葉なんか、よほど大声でも出さなければ、受刑者から離れた所にいる見物人の所まで届かないわけですから(福音書に見るイエスの磔刑のように、イエスが瀕死の状態で、さらに見物人たちがイエスを罵って騒いでいるのならなおさら聞こえるわけがない)、最後の力を振り絞ってエリ・エリ・レマ・サバクタニを大声で叫んだかもしれないが、それ以外の言葉は福音記者による作文みたいなものですから、そこにさらに後代に自分を殺そうとする者たちにも神が彼らを赦すことを斯う美談に仕上げ、それがまたローマ帝国の公認宗教の一つとなった教会にとって都合がよかったのでしょう。


 また話を戻して、UBS版のアパラトゥスは面白いなと感じました。第3版(修正版)では挿入句があることの評価が {C}となっており、第4版では挿入句のない形の評価が{A}になっています。この記号の意味は、 enclose a letter A, B, C, D which indicates the relative degree of certainty for the reading adopted in the text. (テキストで採用されている読み方の相対的な確実性を示す A、B、C、D の文字を囲みます。) ということです。第三版と第四版の双方の評価を両方載せればいいのにと思います。挿入句が無い方が{A}評価なのに、本文には二重の角括弧を付けて{C}の形を載せているというのも不思議なものです。そして、日本聖書協会もUBS版を底本にしながら{C}と評価されているのにもかかわらず、本文をそのままに訳出しているのは、利用する顧客である教会を意識しているのかもしれません。そこはしがらみのない田川訳だから挿入句を省いた形にできるのかもしれません。

 最後に写本の画像をあげておきます。


●挿入句を省いているもの

𝔓75 (Pap.Hanna.1(Mater.Verbi)2A.5v) ルカ23:34
(バチカン図書館で公開されている𝔓75 (Pap.Hanna.1(Mater.Verbi)2A.5v) )


バチカン写本ファクシミリ版 ルカ23:34b-36
(バチカン写本ファクシミリ版)


ベザ写本 ルカ23:32-35
(ベザ写本写真ファクシミリ版 この写本には挿入句が第三修正者によって欄外に書かれています)


●挿入句があるもの

シナイ写本ファクシミリ版 ルカ23:33b-35a
(シナイ写本写真ファクシミリ版)


大英博物館発行アレクサンドリア写本ファクシミリ版 ルカ23:33b-36a
(大英博物館発行アレクサンドリア写本写真ファクシミリ版)


大英図書館アレクサンドリア写本 ルカ23:33b-35b
(大英図書館で公開されているアレクサンドリア写本)


エフラエム重記写本ファクシミリ版 ルカ23:32-36
(エフラエム重記写本ファクシミリ版)

ヘブライ2章9節の異読について


 十何年か振りで「捏造された聖書」 (バート・D・アーマン著 松田和也訳 柏書房 2006年初版)を読み返してみて、ヘブライ2:9の異読について、そういう異読もあったな~と思いネストレ版27版開いて見たら、すでに本文とアパラトゥス(欄外注)に赤線引いてあって、昔読んだときに引いたのだな~と思いました。

 その気になった一部を引用しますと

"  ヘブライ人への手紙と見捨てられたイエス
 ・・・
 現存する写本のほぼすべてが、イエスは「神の恩寵によって」(CHARITI THEOU)万人のために死んだと書いている中で、たった二冊だが、彼は「神から離れて」(CHŌRIS THEOU)死んだと書いているものがある。だが、この後者こそが『ヘブライ人への手紙』のオリジナルの文だと見なすべき十分な理由があるのだ。
 ここで「神から離れて」と書いている写本について、詳しく立ち入るつもりはない。ただ簡単に概要だけを示しておくと、そう書いているのは10世紀に作られた二冊の資料だけで、そのうちのひとつ(Ms.1739)は少なくとも現存する最古の写本と同じくらい古い写本を底本にしたものであることが判明している。だがひじょうに興味深いことに、三世紀初頭の学者オリゲネスによれば、彼の時代の写本の大多数はこの異文の方を採用していたというのだ。これ以外にも、古い時代にはこちらの方が一般的だったことを示す資料がある。西方ラテン世界のアンブロシウスやヒエロニムスもこの異文を知っていたし、11世紀までの幅広い教会著述家たちがこれを引用している。そんなわけで、現存する写本では幅広い支持を集めているとは言えないが、過去においてはこの異文を支持する強力な外的証拠が存在したということだ。
 ・・・ "
(「捏造された聖書」 バート・D・アーマン著 松田和也訳 柏書房 2006年初版 pp.185-191、引用はpp.186-187)


 とのことで、そして、どうしてそのような変更がなされたかについては、同書のもうちょっと後の章でこのように説明しています。


"   「分割論」に反対する立場
 人間イエスと神キリスト
 ・・・・
 この真実というのは、秘密の教え、神秘的な「知識(ルビ:グノーシス)」であって、天界の神的存在のみがそれを伝えることができる。グノーシス派キリスト教徒にとって、キリストとは救済の真実を啓示する神的存在だ。多くのグノーシス派の教義では、キリストは人間イエスの洗礼の際に彼の許にやって来た。そして彼に使命を果たす力を与え、最終的には彼を見棄てて十字架で死なせた。だからこそイエスは、「わが神、わが神、何故あなたは、わたしをお見捨てになったのですか?」と叫んだのだ。グノーシス派にとっては、キリストは文字通りイエスを見棄てたのだ(「彼を残して立ち去った」とも言う)。だがイエスの死後、キリストはイエスの信仰への報いとして彼を死から甦らせ、彼を通じて救済へと導く秘密の真実を弟子たちに説き続けた。
 原始正統派は、この教えをあらゆる面で許しがたい敵であるとみなした。・・・・

 テキスト改竄の意味
 分割論者のキリスト論を巡る論争は、後に新約聖書となるテキストの伝承にかなりの役割を果たした。その実例のひとつは、第五章で見た『ヘブライ人への手紙』二章九節の異文だ。そのオリジナル版では、イエスは「神から離れて」死んだとされていた。すでに見たように、ほとんどの書記はキリストが「神の恩寵によって」死んだとする捏造の方を採用していた。だがあの場では、なぜ書記たちがオリジナル版を危険と判断し、原文の改竄も辞さなかったのかということまでは深く突っ込まなかった。だが、グノーシス的なキリスト理解についてごく簡単に説明した今なら、あの改竄の意味がよくお解りいただけるだろう。分割論者のキリスト論によれば、キリストは実際に「神から離れて」死んだのだ。というのも、あの十字架の上で、彼に取り憑いていた神的存在が彼から離れ、イエスは独りで死んだのだから。あのテキストがこのような見解の裏づけとなりうることに気づいたキリスト教の書記たちは、とても簡単な、だが深遠な改竄を加えた。これによって、彼の死が神から離れたものであったと書いてあったテキストが、今やキリストの死は「神の恩寵」によるものであったと断言するようになったわけだ。 "
(「捏造された聖書」 バート・D・アーマン著 松田和也訳 柏書房 2006年初版 pp.218-220)

 それから聖書を開いて、この個所(前後も含めて)の口語訳と新共同訳、新改訳の訳文を改めて読みますと、なにか喉の奥に引っかかるような感じのものに近い感じの違和感を覚えました。

 口語訳には「彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。」とあり、私たちにとって主の死は恵みだったかもしれませんが、イエスにとって恵みによって死を賜るというでは、どこかのお殿様が不正を働いた家臣に対して、殿様の恩情によって最後だけは武士として名誉ある切腹を賜ったというような感じと似た文言に感じられてしまいました。なんか文章としてがちぐはぐだよねと感じます。

 そこで正文批判をちゃんとして翻訳している田川訳なら違っているかもしれないと思い開いて見て見ますと、


田川建三訳
他方、しばしの間天使よりも小さい者となしたという点については、我々は、イエスが受難することによって栄光と栄誉の冠をさずけられた、ということを見ている。それは、神なしですべての(人の?)ために死を味わうということだったのだ。


 やっぱり「違っていたーっ!」と思いました。そこでこの節の註を見ますと、なんとpp.565-572まで8ページもありました。その中から一部を見てみましょう


" 神なしですべての(人の?)ために死を味わう  有名な正文批判上の問題。ほとんどすべての写本が「神なしで」の代わりに「神の恵みによって」としている(𝔓⁴⁶ ℵ A B C D K P Ψと重要大文字写本が勢揃い。小文字写本もほぼすべて)。それに対し「神なしで」とするのは、ギリシャ語写本では、大文字写本の 0121b と小文字写本の 1739 、及び同 424 に後に書き込まれた修正のみ。しかし古代訳ではこの読みのものがけっこう多い。ヴルガータ、シリア語訳、コプト語訳のそれぞれ一部の写本。しかしもちろんこれだけでは問題外である。それなのに何故「神なしで」の読みが重要であるとみなされてきたのか。こちらの読みは古代キリスト教著者の引用に多く見られるからである。有名な地者だけでもオリゲネス(Origenes, アレクサンドリアとパレスティナ海岸のカイサリアで活躍、三世紀前半)、アンブロシウス(Ambrosius,ミラノの司教、四世紀後半)、テオドロス(Theodoros, キリキア地方の町 Mopsuestia の司教、四世紀後半~五世紀のはじめ)、ヒエロニムス(Hieronymus, ダルマティア生まれだがローマで活躍。御存じヴルガータ訳の中心人物、四世紀後半~五世紀はじめ)、テオドレトス(Theodoretos, シリアのキュロスの司教、五世紀前半)、ネストリオス(Nestorios, アンティオキアでキリスト教の勉強をし、コンスタンティノポリスで大司教。後に「異端」とされたことで有名、五世紀前半)、フルゲンティウス(Fulgentius, アフリカつまり今日のテュニジアで生まれ、修道士になり、一時ローマでも活躍。最後はアフリカの都市 Ruspe の司教。六世紀のはじめ)。御覧のように、東方(シリア、アンティオキア、キリキア、またアレクサンドリア、コンスタンティノポリス)から西方(ミラノ、ローマ、アフリカ)まで広くひろがっている。つまりこの読みは特定の地方に限られていたわけではない。鳥瞰図的には、現存の諸写本は「神の恵みによって」と読んでいるけれども、古代のキリスト教著者たちは「神なしで」と読んでいたのである。
 ・・・
 しかし、この件について極めて重要な情報を提供してくれているのがオリゲネスとテオドロスである。オリゲネスは自分の知っている多くの写本の読みに従って「神なしで」の読みを採用した後、註的に、「神の恵みによって」という読みも「いくつかの写本」に見られるけれども、と指摘している(『ヨハネ註解』1・35)。こういう場合の「いくつか」(tines)は、ほんの二、三という程度。つまりその時代ではまだ「神なしで」の読みを示す写本の方がずっと多かった。ということ。ちなみに、今日知られているヘブライ書の写本で最も古いものは 𝔓⁴⁶ であるが、オリゲネスとほぼ同時期ないしやや後である。他の写本はすべてオリゲネスよりもはるかに後。
 テオドロスはもっときつく、「神の恵みによって」という読みは間違った、笑止すべき読みである、と断定しているそうな。けれどもほぼその時期(五世紀はじめ)頃から、そちらの読みの写本の方が数的には多数となった。ヒエロニムスはオリゲネスとは逆に、「いくつかの写本においては」(in quisbusdam exemplaribus)「神の恵みによって」という読みではなく、「神なしで」という読みが記されている、と指摘している(すみません、今回はオリゲネス、テオドロス、ヒエロニムスについては自分で原典にあたっていません。ミヘルとH・ブラウンの引用による)。これらの証言を通して見れば、流れが明白に見えてくる。三世紀ではまだ(従って二世紀ではもちろん)、「神なしで」の読みが優勢だった。しかし徐々に「神の恵みによって」という読みが神学者、教父たちの気に入られるようになり、五世紀になって逆転した、ということ。
 ・・・ "
(「新約聖書 訳と註 6 公同書簡/ヘブライ書」(田川建三訳) 2015年 作品社 pp.565-567)


 これも分かりやすい説明です。さて手元にある批判的校訂本のネストレ版とUBS版から当該箇所のアパラトゥスを抜き出してみます。28版のアパラトゥスは下にもう一度分かりやすい形にしてみました。


ネストレ18版のアパラトゥス
9 χωρις θ. M 424ᵐᵍ 1739ᵐᵍ syᵖ ᶜᵒᵈᵈ Orᵖᵗ Theoᵐᵒᵖˢᵛ Ambr ; Whʳ : (- Henke c j)

ネストレ22版、24版、25版のアパラトゥス
9 χωρις θ. M 424² 1739ᵐᵍ ᵛⁱᵈ syᵖ ᶜᵒᵈᵈ Orᵖᵗ Theoᵐᵒᵖˢᵛ Ambr ; Whʳ

ネストレ26版のアパラトゥス
9 χωρις θεου 0121b. 1739* vgᵐˢ ; Orᵐˢˢ Ambr Hierᵐˢˢ Fulg

ネストレ27版のアパラトゥス
9 χωρις θεου 0243. 1739* vgᵐˢ ; Orᵐˢˢ Ambr Hierᵐˢˢ Fulg

ネストレ28版のアパラトゥス
9 χωρις θεου 0243. 1739ᵗˣᵗ vgᵐˢ・; Orᵐˢˢ Ambr Hierᵐˢˢ Fulg

ネストレ28版のアパラトゥスを分かりやすく記号説明なども入れますと
9 χωρις θεου(コーリス・セウー) アンシャル体写本0243. 小文字写本1739ᵗˣᵗ、ラテン語訳ウルガタᵐˢ・; オリゲネスᵐˢˢ (254年没) 、アンブロシステル (366-384年)、 ヒエロニムスᵐˢˢ (420年没) 、フルゲンティウス (527年没?)
小文字写本1739に付いている上付き文字txtは「異読が関係する写本本文の読み」であることを指す
ラテン語訳ウルガタに付いている上付き文字msは「独自の読みをもつ個々のウルガタ写本」であることを指す
オリゲネスとヒエロニムスに付いている上付き文字mssは「教父は与えられた異文を支持する1つかそれ以上の新約聖書の写本を知っている」であることを指す


UBS 3版のアパラトゥス
9 [B] χάριτι θεοῦ 𝔓⁴⁶ ℵ A B C D K P Ψ 33 81 104 326 330 424* 436 451 614 629 630 1241 1319 1573 1877 1881 1962 1984 1985 2127 2492 2495 Byz Lect itᵃʳ. ᵉ. ᵈ. ᵈᵉᵐ. ᵈⁱᵛ. ᵉ. ᶠ. ᵗ. ᵛ. ˣ. ᶻ vg syr⁽ᵖ⁾. ʰ. ᵖᵃˡ copˢᵃ. ᵇᵒ. ᶠᵃʸ arm eth mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴼʳⁱᵍᵉⁿ Origenᵍʳ²/⁶ Eusebius Athanasius Didymus Chrysostm Jerome Cyril Euthalius // χωρὶς θεοῦ 0121b 424ᶜ 1739* mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴼʳⁱᵍᵉⁿ Origenᵍʳ⁴/⁶.ˡᵃᵗ Eusebius Ambrosiaster Ambrose mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴬᵐᵇʳᵒˢᵉ. ᴶᵉʳᵒᵐᵉ Theodore Theodoret Vigilius Fulgentius Anastasius-Abbot Ps-Oecumenius Theophylaet


UBS 4版のアパラトゥス
9 [A] χάριτι θεοῦ 𝔓⁴⁶ ℵ A B C D Ψ 075 0150 6 33 81 104 256 263 265 424* 436 459 1175 1241 1319 1573 1739ᵛ. ʳ ᵛⁱᵈ 1852 1881 1912 1962 2127 2200 2464 Byz [K L P] Lect itᵃʳ. ᵇ. ᶜᵒᵐᵖ. ᵈ. ᵛ vg syrᵖ. ʰ. ᵖᵃˡ copˢᵃ. ᵇᵒ. ᶠᵃʸ arm eth geo slav mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴼʳⁱᵍᵉⁿ Origenᵍʳ Athanasius Didymus Chrysostm mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᵀʰᵉᵒᵈᵒʳᵉ Cyril Theodoret¹/² Ps-Oecumenius; Faustinus Jerome // χωρὶς θεοῦ 0243 424ᶜᵛⁱᵈ 1739ᵗˣᵗ vgᵐˢ Origenᵍʳᵛ. ʳ. ˡᵃᵗ mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴼʳⁱᵍᵉⁿ Theodore Nestoriansᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴾˢ⁻ᴼᵉᶜᵘᵐᵉⁿⁱᵘˢ Theodoret¹/² ˡᵉᵐ ; Ambrose mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴶᵉʳᵒᵐᵉ Vigilius Fulgentius


 それぞれのアパラトゥスも版が新しくなるにつれて少しづつ証拠写本や教父証言も入れ替えがあります(スペースには限りがあるのでこれでもすべてが載せられているわけではありません。)

 参考までに小文字写本1739の画像をあげておきます。今日のギリシヤ語の小文字の原型ですので分かりづらいので、節番号と当該異読の下には赤線を引いておきました。このギリシャ文字に付いてはWikipediaのGreek minusculeやバチカン図書館のThe Greek Minuscule Alphabet2. INTRODUCTION TO MINUSCULE BOOKHANDSなんかを参照してください。

小文字写本1739 ヘブライ2:9
(小文字写本1739、米国議会図書館で公開されてDL出来る写本のマイクロフィルムより)

 この写本について、田川訳の註にて

" 面白いのは、これまでもしばしば名をあげた 1739。こちらも十世紀だが、すでに小文字写本である。これが面白いのは、欄外にエイレナイオス、オリゲネス等々の古代の著者の著作から取られた註が書き込まれている点である。写本自体は十世紀のものであっても、本文はもちろん欄外の註も、その写本家自身の作文ではなく、それよりも古い写本を写記しており、その大元はかなり古い時代までさかのぼる可能性があるから、こういう註は重要である。この写本の場合は、註に指摘されている著者のうち時期的に最後の人物はバシレイオス(Basileios, 現代西洋語ではBasil, Basile 等と記されることが多い。カッパドキアのカイサリアの司教で、カッパドキア三大神学者の一人とされる。329頃~379年)であるから、この註が書かれたのはせいぜい四世紀末ないし五世紀はじめということがわかる。それなら、この写本の大元の写本はその時期のものであるはずである(B.M.Mtzger, The Text of the New Testament, 2nd ed. 1968 Oxford, 65)。欄外の細かい註までそのまま五百年以上にわたって写本され続けたというのも、たいしたことだが、そうすると、古さからすれば、これは重要大文字写本のCやDに匹敵する。 "
(「新約聖書 訳と註 6 公同書簡/ヘブライ書」(田川建三訳) 2015年 作品社 p.568)

とありましたので画像をあげました。


 田川訳の「神なしですべての(人の?)ために死を味わうということだったのだ。」との訳文ですと、イエスが私たちの罪を負って十字架にかけられて呪われたものとなって、私たちに代わって神の独り子が「神なしに」死ななければならなかったことをよく表しているように思いますし、この節を含めた前後の文章全体とも調和しているように思えます。

申命記21章22-23節
22 もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、23 翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。


 さて、日本語訳の聖書に目を向けて、田川訳以外ではどうなのかな? と思い調べてみました。この異読を本文ににしているのは田川訳だけでした。欄外注に言及していたものは岩隈直訳と聖書協会共同訳とそのパイロット版だけでした。本文と欄外注は以下のようになります。

岩隈直訳
しかししばらくのあいだ天使より低くされた方,すなわちイエースースが死の苦しみのゆえに栄光と栄誉とを冠としてかぶせられているのを見る。これは彼が神の恵みによってあらゆる人のために死を味わうためであった。
 注
χάριτι(< χάρις) Θεοῦ. これを χωρὶς Θεοῦ 「神なしに」(マコ15・31参照)とする異本があり、これを原型とする人もある。

新翻訳事業パイロット版(2016年)
しかし、わたしたちは、天使より僅かの間低い者とされたイエスが、死の苦しみによって栄光と栄誉を冠として授けられたのを見ています。それは、p神の恵みによってすべての人のために死を味わうためでした。
 注
p2・9 「異」「神なしに」

聖書協会共同訳
ただ、「僅かの間、天使より劣る者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と誉れの冠を授けられた」のを見ています。e神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれたのです。
 注
e 異 「神なしに」


 本文の訳にしたのは田川訳のみ、欄外注で言及したのが岩隈直訳と聖書協会共同訳とそのパイロット版。これ以外は批判的校訂本の本文をそのまま訳したものになります(ラゲ訳はラテン語訳ウルガタ聖書からの翻訳、底本は不明ですがおそらくテクストゥス・レセプトゥスからの訳と思われる正教会訳、そして、明治元訳と永井直治訳はテクストゥス・レセプトゥスからの翻訳なので除外した方がいいかもしれませんが、参考までに載せておきます)。


明治元訳
惟われら天の使等より少く遜されし者即ち死の苦を受しに因て榮と尊貴を冠せられたるイエスを見たり其死たるは神の恩に因て衆の人に代り死を嘗へんが爲なり

大正改訳
ただ御使よりも少しく卑くせられしイエスの、死の苦難を受くるによりて榮光と尊貴とを冠らせられ給へるを見る。これ神の恩惠によりて萬民のために死を味ひ給はんとてなり。

口語訳
ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。

共同訳(1978年)
しかし、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエススが、死の苦しみを経て、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。それは、神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためだったのです。

新共同訳
ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

新改訳(第一版、第二版、第三版)
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。 その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

新改訳2017
ただ、御使いよりもわずかの間 低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。 その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

詳訳
しかし私たちはイエスを見ることができます。彼はしばらくの間、み使いより下の位を受けられましたが、死の苦しみを経験されたために、栄光と誉れの冠を受けられました。それは、〔私たち罪びとに対する〕神の恵み〈受ける資格がないのに与えられる愛顧〉により、彼がひとりびとりすべての人間のために、死を経験されるためでした。

ラゲ訳(1910年)
然れど天使等に少しく劣らせられしもの、即ちイエズスを見奉るに、神の恩寵により一切の人間の為に死を嘗め給はんとて、死の苦の故に、冠らしむるに光榮と名誉とを以てせられ給ひしなり。

ラゲ訳(1959年)
されど天使たちに少しく劣らせられしもの、すなわちイエズスを見奉るに、神の恩寵により、いっさいの人間のために死をなめ給わんとて、死の苦のゆえに、かむらしむるに光栄と名誉とをもってせられ給いしなり。

バルバロ訳新約改訂版1957年
ただ、しばしの間、天使の下に下げられたこのイエズスが、死をたえ忍ばれたが故に、光栄と名誉とを冠(かぶ)せられたのをわれわれは見ている。こうしてかれは、神の恩寵によって、すべての人のために死を味わったのであった。

バルバロ訳新約聖書1981年新装改訂版講談社
ただしばしの間、天使の下に下げられたこのイエズスが、死を耐え忍ばれたがゆえに光栄と名誉を冠(かぶ)せられたのを私たちは見ている。こうしてイエズスは神の恩寵によって、すべての人のために死を味わわれた。

フランシスコ会訳(1979年、1984年改訂版)
しかし、わたしたちが見ているのは、「しばらくの間、天使たちよりも低いも の」とされたこのイエズスが、その死の苦しみのゆえに、「栄えと誉れの冠」をお受けになったことです。こうして、イエズスは、神の恵みに よって、すべての人のために、この死を味わったのです。

フランシスコ会訳(2011年合本版、2013Web)
しかし、わたしたちが見ているのは、「しばらくの間、み使いたちよりも低いも の」とされたこのイエスが、その死の苦しみの故に、「栄えと誉れの冠」をお受けになったことです。こうして、イエスは、神の恵みに よって、すべての人のために、この死を味わったのです。

正教会訳
唯我等は天使等より少しく遜(くだ)らしめたるイイススが死を受くる為に、光栄と尊貴(そんき)とを冠(かうむ)らせられたるを見る、彼が神の国の恩寵に由(よ)りて、衆人の為に死を嘗(な)めん為なり。

岩波翻訳委員会訳(1995Web、2004年)
私たちが目にするのは、神の恵みによりすべての人のために死を味わうよう、「ほんの少しの 間、御使いたちに劣るようなものとされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光と栄誉の冠を被せられていることである。

キリスト新聞社訳
私たちは、暫くの間、み使いたちより卑(ひく)くされ、死の苦しみのために栄光と名誉とを冠らされたイエスを見る。これは、神の恵みによつて、すべての人々のために、神が死を味(あじわ)われるためであつた。

永井直治訳(1928年Web、1960年修正版)
されど我等は天使より少しく卑くせられ給ひし者=死の苦を受け給ひしによりて、榮光と敬とを冠らせられ給ひしイエス=を視る。是れ彼は神の惠にて、すべての人に代りて死を味ひ給はんためなりしなり。

前田護郎訳
われらが見るのは、しばし天使たちより低くされ、死の苦しみを経て栄光と誉れで冠りされたイエスです。それは神の恵みによってすべての人のために死を味わ われるためでした。

塚本虎二訳
ただわたし達は、このイエスが『少しのあいだ(だけ)天使たちよりも小さくされ(て地上に遣わされ)た』が、死の苦しみのゆえに『栄光と栄誉との冠をさず けられた』のを見るのである。(そしてここに預言の実現がある。)彼が死ぬことは、神の恩恵によって、万人の(救の)ためであった。

柳生直行訳
ただ、われわれはイエスを見る、すなわち、しばしのあいだ御使いたちよりも低き者とせられた彼が、今や栄光とほまれの冠を与えられているのを見る。それは、彼が死の苦しみを通ってきたからであり、また彼がすべての人のために死ぬことが、神の恵み深い御計画にほかならなかったからである。

国際ギデオン協会New Bible(泉田昭訳)
ただ、死の苦しみのゆえにしばらくの間、御使いたちより低くされたイエスが、栄光と栄誉の冠をかぶられたのを私たちは見ています。神の恵みにより、すべての人のために死なれたのです。

リビングバイブル(1982年版、1993年改訂版)
しかし、しばらくの間、御使いよりも低くされ、私たちのために死の苦しみを味わうことにより、今は栄光と誉れの冠を授けられた、イエス様を見ています。まことに、イエス様は、神様の大いなる恵みのゆえに、全人類のために死なれたのです。

リビングバイブル(2016年改訂版新版新装版)
しかし、しばらくの間、天使よりも低くされ、私たちのために死の苦しみを味わうことによって、栄光と誉れの冠を受けられたイエスを見ています。イエスは、神の大いなる恵みのゆえに全人類のために死なれたのです。

電網聖書(2002年3月3日版Web)
ただ,しばらくの間み使いたちよりも低くされた方であるイエスが,死の苦しみのゆえに,栄光と誉れを冠として与えられたのを見ています。それは,神の恵みによって,彼がすべての人のために死を味わわれるためでした。

(特定の団体の訳や異端の訳は調べませんでした:現代訳、創造主訳、回復訳、エマオ出版訳、新和訳、TR新約聖書、金の器社ギリシヤ語直訳新約、新世界訳など)


 毎度のことですがみんな右へ倣えです。しかし、英訳もまた同じでした。

Bible Hub で Hebrews 2:9の各英訳は以下のもので、「神の恵みによって」を省略しているラムサ聖書以外はみなこの通りでした。

Geneva Bible of 1587
Bishops' Bible of 1568
Coverdale Bible of 1535
Tyndale Bible of 1526
King James Version
New King James Version
King James 2000 Bible
New Heart English Bible
World English Bible
American King James Version
American Standard Version
A Faithful Version
Darby Bible Translation
English Revised Version
Webster's Bible Translation
Literal Standard Version
Berean Literal Bible
Young's Literal Translation
Smith's Literal Translation
Literal Emphasis Translation
New International Version
New Living Translation
English Standard Version
Berean Study Bible
New American Standard Bible
NASB 1995
NASB 1977
Amplified Bible
Christian Standard Bible
Holman Christian Standard Bible
Contemporary English Version
Good News Translation
GOD'S WORD® Translation
International Standard Version
NET Bible
Douay-Rheims Bible
Catholic Public Domain Version
Aramaic Bible in Plain English
Anderson New Testament
Godbey New Testament
Haweis New Testament
Mace New Testament
Weymouth New Testament
Worrell New Testament
Worsley New Testament

Bible Hubのこの中にはなかったので、手元にあるRevised Version、Revised Standard Version、Amplified Bible, Classic Edition 、The Message も確認しましたがgraceとなっていました。欄外注にも異読はありませんでした。



ルカ16:19 金持ちの名前


 新約聖書のギリシヤ語パピルス写本を調べようと思っても、ネストレ版の批判的校訂本を見ることのほかには、ネットなんかで外国の専門家による論文か、Wikipediaの限られたあまり当てにはできない情報か、インターネットアーカイブに公開されている昔のファクシミリ版(バチカン写本やシナイ写本、アレクサンドリア写本などの大文字写本)とか、バチカン図書館・他などでデジタル公開されている写本画像にあたるくらいが一般の一信徒としてはそれくらいでしょうか。

 「The Text of the Earliest New Testament Greek Manuscripts」という二巻本が何年か前にでました。VOLUME1 にはPapyri 1-72までが収録され、VOLUME2 にはPapyri 75-139 and Uncialsが収録されて、ファクシミリ版ではなくテキスト化(小文字を使って単語ごとに間隔も開けて分かりやすくしている。気息記号やアクセント記号などはない。改行は写本のまま)されているのでとても便利です。

「The Text of the Earliest New Testament Greek Manuscripts VOLUME 1 , VOLUME 2」 Philip Wesley Comfort, David P. Barrett 編著 Kregel Academic Professional


 そのなかで、さて、何か分かりやすい違いのところはないものかと、メッガー著「新約聖書の本文研究」を開き、その『第2章 新約聖書の主要な証言』のⅠの『1 新約聖書の主要なギリシア語パピルス』から、最古の福音書のパピルス写本である𝔓75のところで出てくるルカ福音書のラザロと金持ちの話しの異読(ルカ16:19)は面白そうだなと思って、VOLUME2の𝔓75をちょっと見てみました。

 どのような異読かと言えば、ラザロと金持ちの話しの中に出てくる名無しの金持ちに、彼には名前があったということです。別に名前があろうがなかろうが話しには何の影響もないのですが、片方の人物には名前があって、もう一人の人物には名前が無いことが昔の人たちももやもやしたのかもしれません。

 まず𝔓75の写本画像(バチカン図書館で公開している画像)を見てみましょう。赤線の引いてある言葉が追加された言葉です。

P75 ルカ16:19


 これを大文字で書き起こすと(画像は18節の終わり部分も入っているので、一応19節の始まりに節番号を入れました)

ΜΟΙΧΕΥΕΙ:  19 ΑΝΘΡΩΠΟϹΔΕΤΙϹΗΝ
ΠΛΟΥϹΙΟϹΟΝΟΜΑΤΙΝΕΥΗϹΚΑΙΕΝΕΔΙ
ΔΥϹΚΕΤΟΠΟΡΦΥΡΑΝΚΑΙΒΥϹϹΟΝΕΥ
ΦΡΑΙΝΟΜΕΝΟϹΚΑΘΗΜΕΡΑΝΛΑΜΠΡΩϹ

 さらに小文字も使って分かりやすくすると

μοιχεύει.  19 Ἄνθρωπος δέ τις ἦν
πλούσιος ὀνόματι Νεύης , καὶ ἐνεδι-
δύσκετο πορφύραν καὶ βύσσον εὐ-
φραινόμενος καθ’ ἡμέραν λαμπρῶς.

となります。

ὀνόματι Νεύης (オノマティ ネウェス)という言葉が追加されています(画像の赤線の個所)。

 全体としては、「ある金持ちがいた。ネウェスという名で、彼は紫の柔らかい麻布を着ていて、毎日華やかに楽しんでいた。」とでもなるのかな。名前があるとより物語ぽくなりますね。

 ネストレの異読もネストレ新版、25版、24版以前と3つに分かれます。まず見てみましょう。

ネストレ26版、27版、28版
ονοματι Νευης 𝔓75 (sa) ¦ Finees Prissc

ネストレ25版
ονοματι Νευης 𝔓75. : cui nomen Nineus sa : Finees Prissc

ネストレ18版、22版、24版
cui nomen Nineus sa : Finees Prissc

 ネストレは25版から𝔓75の写本が参照されています。24版以前はコプト語サヒド方言訳をラテン語訳したものを掲載し、コプト語サヒド方言訳を表すsaをつけています。もう一つが南スペインのプリスキリアヌス(平信徒であったがマニ教を広め、キリスト教の歴史上初めて異端として処刑された人物)を表す略号Prisscで、プリスキリアヌスの残した文書では、この金持ちの名はフィネスとなっていることが出ています。ネストレの新版(26版以降)ではコプト語サヒド方言訳のラテン語訳はなくなりました。サヒド方言訳も見てみましょう。

コプト語サヒド方言訳 ルカ16:19

19 ⲛⲉⲩⲛⲟⲩⲣⲱⲙⲉ ⲇⲉ ⲣ̅ⲣⲙ̅ⲙⲁⲟ ⲉⲡⲉϥⲣⲁⲛ ⲡⲉ ⲛⲓⲛⲉⲩⲏ ⲉϣⲁϥϯ ϩⲓⲱⲱϥ ⲛ̅ⲟⲩϫⲏϭⲉ ⲛⲙ̅ⲟⲩϣⲛ̅ⲥ ⲉϥⲉⲩⲫⲣⲁⲛⲉ ⲙ̅ⲙⲏⲛⲉ ⲕⲁⲗⲱⲥ.

 コプト語サヒド方言訳では ⲉⲡⲉϥⲣⲁⲛ ⲡⲉ ⲛⲓⲛⲉⲩⲏ と名前が「ニネウェ」となっています。メッガーなどを読むと、こちらが元の形で𝔓75は重字脱落(重ねて書くべき文字や文字群を脱落させること)して、本来ニネウェスとなるところをネウェスとしてしまったとしています。

 同じコプト語訳でもボハイル方言訳では金持ちに名前はありませんでした。

 たった一つの異読でも気になって見てみると、ネストレ校訂本の異読の進化なども見ることが出来ますし、コプト語訳の違いなども知れて面白いと思います。



プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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