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ルターの小教理問答書 daß(それで、それは、故に、だから)


 さて、以前に書いた「ルターの小教理問答行きつ戻りつ」の記事の続きというか、関連というか、そういう感じでちょっと思ったことなどを。

 「小教理問答書」は日本語訳のもので手に入りやすいのは、「小教理問答書」(聖文舎 1980年6月10日改定新版 聖文舎解散後は日本福音ルーテル教会から発行販売)と「エンキリディオン 小教理問答」(ルター研究所訳 発行元リトン)の二冊でしょうか。前者はお近くの日本福音ルーテル教会かキリスト教書店で買うことができるでしょうし、後者ならキリスト教書店やAmazonあたりで買うことができます。

 いくつかの日本語訳「小教理問答書」を見比べてみますと、なかなかこれが面白く、結構違いや強調点の違いもあります。その中で、daß(ダス)の語の違いは面白いと感じます。

 まずはドイツ語の原文から

Wir(私たちは) sollen(すべき) Gott(神) fürchten(を畏れ) und(そして) lieben(愛), daß(それは) wir(私たちは)~

 この文は、第二誡から第十誡の冒頭に出てくる文章なのですが、その中でdaßの訳語次第で、受ける印象が違うように感じられました。

 日本語訳のいくつかを見てみたいと思います。

マルティン・ルター著「小教理問答書」 URL入り


"第二のいましめ あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないではおかないであろう⑴。
 これはどんな意味ですか。
答—わたしたちは神を恐れ、愛すべきです。それでわたしたちは、神のみ名を使ってのろったり、誓ったり、魔術を行なったり、うそをついたり、だましたりしないで⑵、むしろ困った時にはいつでも神を呼び求め、神に祈り、神をほめたたえ、感謝するのです⑶。
  1 出エジプト20章7
  2 マタイ12章36 詩篇111篇9
  3 マタイ7章7以下"
(「小教理問答書」 マルティン・ルター 著 日本福音ルーテル教会 1994年8月15日4版)


"第二の戒め
 あなたはあなたの神の名をむやみに挙げてはならない。
これはなんですか。
 答え 私たちは神を畏れ、愛するのだ。だから私たちはそのみ名をもって呪ったり、誓ったり、偽ったり、騙したりしないで、かえってすべての困窮の中でそのみ名を呼び求め、祈り、賛美し、感謝するのだよ。"
(「エンキリディオン 小教理問答書」 マルティン・ルター 著 ルター研究所 訳 LITHON 2014年10月31日)


"第二戒
 あなたは、あなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。
 この意味は。
 答。
 私たちは、神をおそれ、愛さなくてはならない。それで、私たちが、神の名によって呪ったり、誓ったり、魔術を行なったり、うそをついたり、だましたりしないで、むしろ、すべての困難に際して、み名を呼び求め、祈り、ほめたたえ、感謝することによってである。
(小教理問答書 「ルター著作集 第一集 8」 聖文舎 1983年9月10日改訂2版)


" 第二戒
 あなたは、あなたの神の名を、みだりに唱えてはならない (出エジプト20:7)。
 この意味は。
 答。
 われわれは、神を畏れ、愛すべきです。それで、われわれは、神の名を使って呪ったり、誓ったり、魔術を行なったり、うそをついたり、だましたりしないで、むしろ、困った時にはいつでも、神を呼び求め、神に祈り、神をほめたたえ、感謝するのです。
(小教理問答 「ルーテル教会信条集 《一致信条書》」 信条集専門委員会 訳 1982年5月20日発行)


"第二誡、「汝は汝の神の御名を徒らに口にすべからず。」
 此意味は何か。
 答。我々は神を畏れ且つ愛する故に、決して其御名に頼つて、呪ひ誓ひ惑はし虚言しまた欺くことなく、凡ての困難に際して之を呼び祈願し讃美しまた感謝しなければならないのである。"
(小信仰問答書 「信仰要義 マルティン・ルター著 石原謙 譯」 岩波書店 昭和十四年六月十五日)


 この日本語訳の中で、個人的に注目しているのが岩波文庫から出ている石原謙 訳「信仰要義」の中に収録されている「小教理問答書」です。石原訳以外ですと、 "私たちは、神をおそれ、愛さなくてはならない。" で、一回句点が打たれてから(これはドイツ語原文もコンマで区切れているのは同じ)「それで、それは」となり、後段に述べられる行動の原理が、神への信仰を起点としていることへの表現が弱いように感じますが、石原訳ですと "我々は神を畏れ且つ愛する故に、" と、「故に」を使うことによって、私は神を畏れ愛しているだからこれこれしない。またはこうすると私たちの行いの起点が信仰であることが、より強調されているように感じられます(中世のドイツ語の文法上の事はわかりませんが)。そういう意味ではルター研究所 訳の「だから」やwebで公開されている結城浩さんの訳「ですから」(マルチン・ルターの小信仰問答書)は、一致信条書や日本福音ルーテル教会版(旧聖文舎と同じもの)、ルター著作集の訳文よりも良いと思います。

 日本福音ルーテル教会のホームページの「小教理問答書」は全体のちゃんとした訳ではありませんが、この大切な「我々は神を畏れ且つ愛する故に、」を完全に落としているのは残念なところです。西日本福音ルーテル教会の方はホームページで「小 教 理 問 答」を一致信条書(本文)からと自分たちの訳(第二部)を合わせた全訳を公開しています。

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Lutheran  マグニフィカート

Yahoo!ブログから転載(12月ブログサービス終了に付き引っ越し)

Lutheran
2011/11/24(木) 午前 8:58
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/7562556.html

昨日の記事を書くに当たって、『日本福音ルーテル教会 教会員ハンドブック』を読み返してみました。そうしますと、普段カルト化教会や異端について見ていることと大きく違い、ホッと胸をなでおろす気がしました。

 牧師と信徒についてこのように書いてあります。

『教会の牧師は、その教会を代表する人ですが、しかしその人個人の教会がつくられるのではありません。教会が牧師を招聘し、直接に役員会がその働きを助けます。なんでも牧師任せにして、信徒が働かないということがあってはなりません。相互の信頼と協力が求められます。
 牧師は信徒のなかから献身して、専らみことばのご用につく者ですから、神学大学、神学校で学ぶなど一定の訓練を経て、教会の召しがあって、按手されます。それは全体の教会がみことばの職務を委任するというしるしです。もちろん必要な場合には、関係する学校や施設などに出向、あるいは派遣される場合もあります。牧師の仕事は礼拝や牧会の仕事ばかりでなく、教会の管理や維持、さらに伝道の進展のための努力をしなくてはなりませんから、あまり高齢になってからまで、重荷を負わせることのないように、七十歳を定年と定めています。その後は引退教師として、力に応じた奉仕を願うことになります。』

 とあり、牧師の職務が教会の委任によるものであること、その牧師個人の教会でないことが語られ、近年原理主義や聖霊派の単立教会に見られる牧師の独裁化というものが、かなり起こりづらいものとされていると感じました。

 また財務管理についてもこのように書いてありました。

 『…日本のルーテル教会は、自立した教会として歩んでいます。それだけに、財務の働きは教会にとって重要なのです。特に、自分の属する教会の財的状況がどうなっているか、よく理解するように努めましょう。牧師給はいくらか、光熱用水費や消耗品に無駄はないか、牧師が心おきなく伝道できるような配慮が会計面でもなされているか、礼拝献金や維持献金などが、教会の規模に合わせて適正にささげられているかなど、会計役員や、牧師にだけにまかせ放しというのでなく、ひとりひとりの信徒が気をつけていたいものです。
 教会が小規模であっても、収益を伴うような事業を営んでいる場合、たとえば幼稚園、保育園、塾、教室、あるいは駐車場に貸しているなどの場合には、国や地方公共団体の法律や条例に照らして適法であるかどうか、また、その事業が教会の宣教活動にふさわしいものであるかどうか、さらに財的管理がきちんとなされ、教会員によく分かるように報告されているかどうかに気を付けましょう。あなたが信仰を告白し、信仰を養われていく教会であればあるほど、教会の財的運営に責任をもってあたるべきです。』

 そして役員会の働きと責任についてもこのようにあります。
 『伝道や教育、奉仕、ことに財務のすべての働きに関しては、役員会が率先して計画を立て、責任をもって当たらねばならないことは当然です。…
 日本福音ルーテル教会は、また教会としての制度や規則によって運営されています。それは各個教会が心を合わせ、一致してこの地上にみ国の栄光を表すために必要なことです。教会としての信仰の基本となる教理や、地上の団体としての制度上の規則を集めたものを「教会憲法」「教会規則」と言いますが、それらについても十分知っておくことが寛容です。こうした原則に従って、年に一回定期総会を開き(多くの教会では一月末の日曜日)、旧年度の活動報告、新年度の宣教方針、各集会やグループの報告、会計決算や予算審議が行なわれ、役員の選挙が行なわれます。また代議員(堅信会員の数や教会の種別によって選出人数が異なる)、書記、会計などが選ばれます。このうち代議員は教区や全体教会の総会のとき、当該教会を牧師と共に代表して出席しますから、大切な役割です。
 …
 教会であっても、地上の団体という性質は免れません。人間関係その他のトラブルといったことも起こりえます。信仰的な視点で、十分に祈って処理する力を役員会は持たねばなりません。…』

 このような制度の上に教会があることや、そのことについて信徒にこのように知らされているのは、カルト化を予防する上には必要なことと思えます。そのような観点から読み直してみますと、カルト化教会が、どれほどの権利を信徒から取り上げているのかが見えてきます。

***

マグニフィカート
2011/6/1(水) 午後 5:37
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/4398578.html

『 序文ならびに序説
 
 この聖なる讃歌を、順序正しく理解するためには、祝福された処女マリヤが、彼女自身の経験から語っていることを心にとめることが必要である。この経験において彼女は、聖霊によって照らされ、教えられたのである。…』 

『 私の魂は主である神をあがめ

 この言葉は、強い熱情とあふれる喜びから発せられたものであり、そこへと彼女の全精神と生活とは、聖霊によって内的に高揚されているのである。それゆえに、彼女は、「私は神を高くする」と言わないで、「私の魂は」と言っている。それは、「私の生活と全感覚は、神への愛と讃美と喜びにわき立ち、もはや、私は私自身を制御することができず、私が、私自身を神讃美に高める以上に、高められている」と言うかのようである。それは、神の甘美さと、神の霊を注がれたすべての人に生じることであり、彼らはその感じていることを言い表す言葉を知らない。なぜなら、喜びをもって神を讃美するということは人間の行為ではないからである。それはむしろ喜ばしい受動であり、ただ神の働きである。言葉をもって教えられることではなく、ただ自身の経験によってのみ知りうる事がらである。…』

『神はとるにたりない女である私に目を留められました。これからのち世々の子らは、私をさいわいな女とほめたたえるでしょう。

 …それゆえに彼女は彼女の価値も無価値も讃美することなく、むしろ、このように卑しい娘に心にとめ、そして彼女に栄光ある、名誉ある配慮を与えてくださる。恵みといつくしみに富む神のかえりみをのみ讃美するのである。だから彼女が誇るのは彼女の処女性においてではなく、謙遜であるという人々は、彼女に不正をするものである。彼女が誇るのは、彼女の処女性でも謙遜でもなく、むしろただ神の恵みに富むかえりみであった。ゆえに言葉の重点は、humilitatemにではなく、Respexit〔目を留めた、かえりみた〕にある。それは、讃美されるべきは彼女の卑しさではなく、神のかえりみだからである。…』

『すべてのことをなさる神が私に大きなことをしてくださったからです。そのみ名は聖いのです。

…見よ、彼女がどのようにすべてのものをまったく神に帰し、一つのわざも、一つのほまれもまったく彼女に帰することがないことを。しかも彼女は何一つもたなかった以前と同じように働き、また前よりも多くの栄光を求めることもしないのである。彼女は誇らず、高ぶらず、神の母となったことを吹聴せず、何の栄光も求めず、以前のように家にいて働き、ミルクをしぼり、料理をし、食器を洗い、掃除をし女中や主婦がするような、低い、とるに足りないことを、あたかもおどろくべき賜物も恵みも、少しも意にしないかのように行なうのである。彼女は他の女たちや隣人の中で、以前よりも尊敬されることもなく、彼女はまたそれを求めず、卑しい民の中の、貧しいひとりのおんなとしてとどまった。おお、それはなんという素朴にして純な心であろうか。なんというおどろくべき魂であろうか。このような卑しさの中にかくされた、なんという偉大さであろうか。いかに多くの人々が彼女と接し、共に語り、食し、飲み、おそらく彼らは、彼女を見さげ、そして普通の貧しい、平凡な女と考えただろう。もし彼らが、彼女にかかわるこのようなものを知ったならば、おそらく彼ら自身、彼女の前にいたたまれなかったであろう。…』
 (『ルター著作集第一集第4巻 マグニフィカート(マリヤの讃歌) 訳と講解 1521』より)

 今回、引用個所は、FEBCで徳善義和先生の『マルチン・ルターの「キリスト者の自由」』のお話の第12回目で引用された個所を、若干拡大する形で著作集のマルティン・ルターの「マグニフィカート」の講解から引用しました。

 ここでルターが講解したマリヤ論は、それまでのローマ・カトリックのものとは大きく違い、あらゆる聖書以外の伝承や脚色を取り払い、マリヤではなくマリヤが栄光を帰した神に目を向けたことが、プロテスタント的マリヤ論といえるでしょう。ここに私たちは驚くべき、信仰の模範を彼女のうちに見ます。

ルターの小教理問答行きつ戻りつ


ルターの小教理問答行きつ戻りつ 2014/11/29(土) 午前 9:43 にYahoo!ブログにアップしたものこちらに再掲

 一般にルターの「大教理問答書」との書名で日本では知られているルターの説教である「ドイツ・カテキズム(ドイツ教理問答書)」ですが、その序文にてルターはカテキズムについてこのように語っています。

“…たとえどんなによく教理問答に通じていると思われても、それを学びつくしたとか、どんなことでも十分に知っているなどとはけっして考えないようにしてもらいたい。というのは、よしんばいっさいのことをどんなによく知り、理解しつくしていたとしても、(しかし、そんなことはこの世においてはありえない) なお日ごとに教理問答書を読み、頭に考え、口に唱えて、これを習熟するようにすれば、やはりそこには数々の利得があるからである。すなわちこのようにわれわれが《教理問答を》読み、唱え、考えているときに、聖霊が臨んで、新しい光を絶えず、そしていよいよ豊かに注ぎ、信仰深い心を増し加え、しだいによくその味をあじあわせ、その意味を理解させてくださるからである。…”

 まだ、聖書それ自体が手書き写本であった時代、また印刷本がでるようになってもとても高価で一般庶民にとっては、到底手の出なかったり、庶民は文字すら読めないのが当たり前だった時代がずっと続いてきました。そんな中、司祭(牧師)がその羊たちを牧したりするのにその指導要項をまとめたカテキズモは、現在では司牧者の手だけ出なく一般信徒もその手に取り、キリスト教の基礎的学びなどに用いたり、また平素の学びや再確認などに役立てています。また、ルターの「小教理問答書」は司牧者のみならず家長がその家族や使用人を集めて、ひとつひとつ彼らが覚えるように教えることをも意図されていました。

小教理問答書


 ルターの「小教理問答書」として知られる「手引き書(エンキリディオン) 小教理問答書 一般の牧師、説教者の為に」の日本語訳は幾つかのバージョンがあります。まずは全訳版は「ルーテル教会信条集〈一致信条書〉」(信条集専門委員会訳 聖文舎 1982年5月20日)、「一致信条書 ルーテル教会信条集」(信条集専門委員会訳 教文館 2006年6月2日)、「エンキリディオン 小教理問答」(ルター研究所訳 発行元リトン)の三種です。

 「ルター著作集 第一集 第8巻」(聖文舎 1971年3月10日)と「信仰要義」(石原謙訳 岩波文庫 1939(昭和14)年6月15日)に収録された「小教理問答書」は結婚・洗礼の式文関連が省略されています。もうひとつ最後に残ったものが「小教理問答書」(聖文舎 1980年6月10日改定新版 聖文舎解散後は日本福音ルーテル教会から発行販売)で、この「小教理問答書」は訳者序文にもある通り、本来の「小教理問答書」から「序文」・「単純な人々に、ざんげについていかに教えるべきか」、「一般の牧師たちのための結婚式文」・「ドイツ語とされ、新しく定められた洗礼式文」の部分と、「家長が、彼のしもべ、しもめに対して、教えねばならない、朝夕の祈り」の中から“十字を切り”との文言を省略し“子どもにもわかるようなやさしいことばで訳出”されたものです。

 カテキズムを読み返すとき、“すなわちこのようにわれわれが《教理問答を》読み、唱え、考えているときに、聖霊が臨んで、新しい光を絶えず、そしていよいよ豊かに注ぎ、信仰深い心を増し加え、しだいによくその味をあじあわせ、その意味を理解させてくださるからである。” とのルターのことばが真実であることを思い知らされます。

 今回の新しい翻訳を読むと、昔の石原訳に回帰している部分がありました。

 主の祈りの箇所においてまずルーテル教会版(内海訳)から

“呼びかけ 天にいますわれらの父よ、
 これはどんな意味ですか。
答―神はこれによって、神がわたしたちのまことの父であり、わたしたちが神のまことの子であることを信じ、ちょうど愛する子どもたちが、その愛する父に求めるように、全き信頼と安心とをもって神に求めることをおすすめになります。”

 一致信条書に収録されているものから(内海訳)

“天におられるわれわれの父よ。
この意味は。
答。
 神は、これによって、神がわれわれのまことの父であり、われわれが神のまことの子であることを信じ、ちょうど愛する子どもたちが、その愛する父に求めるように、全き信頼と安心とをもって神に求めることをおすすめになります。”

 続いて岩波文庫の石原謙訳

“「天に在し給ふ我等の父よ。」
此意味は何か。
 答。神は之を以て我々を誘ひ、我々をして、神が我々の眞の父であり、我々は神の眞の子であることを信ぜしめ、かくて我々は慰められ、また全き信頼を興へられて、恰も可憐な子達が其愛する父になす如くに彼に祈り求めることを得しめられるのである。”

 最後に最新のルター研究所訳

“天におられる私たちの父よ、
これはなんですか。
 答え 神はこれによって私たちを促して、神が私たちのまことのみ父であり、私たちがその真の子らであると、私たちが信じるようにしてくださっているのだ。こうして私たちは愛する子らがその愛する父に願うように、安心して、あらゆる信頼をもって、み父に願うのだよ。”

 内海訳との大きな違いは、内海訳は「神は、… 求めることをおすすめになります。」と神が求めているという表現に留まっているのに対して、石原訳は神が我々を「誘ひ」「信ぜしめ」「慰め」「全き信頼を興へられ」「彼に祈り求めることを得しめられる」と実に神の働きに徹底して主眼が置かれています。

 ルター研究所訳は石原訳までは行かないものの神が私たちを「促し」「信じるようにし」てくださっているとやや私たちに対して能動的な神というものになっています。小さなことですがこのようなことに改めて気づかされること、これが新しい光というものなのでしょう(某異端の破壊的カルト団体の主張するような教義が変更されることではない)。



独りに見えて

Yahoo!ブログに2013/4/30(火) 午前 9:03にアップした記事

 昭和36年発行のルーテル・アワー通信講座テキストの 第一課 あなたを求めるキリストの愛 には、次の話が語られていました。
 
"   ひとりぼっちのおばあさん
 
 さて、いまあいさつのなかで、この講座をあなたの心の友にしてください、と申しました。いま、あなたは、いろいろな友人をもっておられることと思います。たとえば、学友、職場の同僚、スポーツを通しての友人など、たくさんおられることと思います。しかし、あなたも、この世の中には、友人どころか、肉親も親族もいない人がたくさんいるということを、ごぞんじでしょう。この講座を、まずそのようなあるひとりの老婦人の話から始めていきたいと思います。このひとは、友人も肉親も親族もなかったのです。これはイギリスのロンドンであった話しですが、ある日、この老婦人は、自殺をしてしまったのです。死後、彼女が書いた日記が発見されました。そして、その日記の内容がイギリスの新聞に発表され、多くの人の深い同情をよんだのです。なぜなら、この日記には、ほとんど毎日こういうことが書いてあったからです。
  「○月○日 きょうも、だれひとり、たずねてきてくれなかった。
          きょうも、だれひとり、話しかけてくれなかった」
 このおばあさんは、ひとりぼっちの生活に耐えられなくなって死を選んでしまったのです。ちょっと、このおばあさんの生活を想像してみてください。このおばあさんは、べつに、金銭的に困っていたのではありません。生活を十分ささえていけるだけの保障は、国からもされていたのです。しかし、どうでしょうか。もしあなたが、朝、目がさめたとき、自分のまわりにだれひとりいないような生活が毎日続いたとしたら、あなたは耐えられるでしょうか。食卓に向かったときも、自分のそばにだれもいないような生活を想像してみてください。はたして、食事がおいしくとれるでしょうか。一日じゅう自分に話しかけてくれる人がひとりもいないようなわびしい生活に、どうしてがまんできるでしょうか。だれひとり訪問してくれる人もいないような、うつろな生活を、どうして続けていくことができるでしょうか。これは、まったくの孤独地獄です。… "

孤独な老人


今日、このテキストにあるような事案が、最早めずらしいものではない社会となりました。マスコミなどでは“孤独死”が報じられ、“無縁社会”などという言葉も聞かれるようになりました。昔は独居老人の孤独死だったものは、年齢が下がり、壮年層や若年層にも見られるようになりました。また、さまざまの理由では在りますが昨年の警察庁の発表の自殺者の確定数としては、前年比9.1%減の2万7858人でありました。その内自殺の原因が「孤独感」とされている人の数は594人もありました。この数字を少ないと捉えるか、多いと捉えるかは人によって違うのかもしれません。

詩編25:16


 ダビデの次の叫びの言葉を思い出します。ダビデは神に向かい「御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です」(詩編25:16、新共同訳)。この叫びは、神を信じる信仰者にも、困難や苦難、困窮の中、または、さまざまの理由から家族を喪失したり、社会から無縁者となってしまった時、また、人の中にありながらも孤独に陥った時など、魂の奥底からの叫び声なのでしょう。

マタイ10:29、岩波訳


 主なるイエスは「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。しかしその中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。」(マタイ10:29、岩波訳)と言われ、人はどんなに孤独に見えて、造り主なる父なる神は、いつも共にいると語られました。また、イエスを信じる者には、イエスご自身が「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と約束しておられます。人はどんなに孤独に見えても、いつも神が共にいてくれるということが知らされています。

わたしはぶどうの木


マタイ10:29 Greek Interlinear


Gottesdienst

Yahoo!ブログに2013/5/6(月) 午前 11:08にアップした記事

 ルーテル・アワー通信講座の「佐藤邦宏著 キリスト教入門講座」(全5課)の5課目のテキストは、「第9章・礼典、第10章・永遠の生命」について取り扱われていますが、その中から「礼拝」の部分についてみてみましょう。
 
“ キリスト教会では、ふつう、毎週日曜日の午前中に「礼拝」が行なわれます。そして、その中で、「礼典」と言われる「洗礼式」や「聖餐式」が行なわれることがあります。まず、この「礼拝」について述べましょう。
 「礼拝」は、教会によってプログラムが少しずつ違っています。ある教会では、伝統的な形式のきまったプログラムを重んじ、ある教会では、わりあいに自由なプログラムや形式で行なわれています。しかし、礼拝の中心が、聖書の朗読と説教であることは共通しています。説教というのは、聖書の解き明かしですから、いわば、聖書そのものの朗読と説教の両方の形で、神の「創造の意思」が語られるわけです。
 第七章で、「教会」は、神の「創造の意志」を、てっとりばやく、確実に聞ける場所だと述べました。そのために「教会」に人が集まり、いろいろな集会が行なわれています。そしてその頂点が礼拝であるということになります。
 はじめて礼拝に参加すると、何のことかよくわからないことが多いと思います。何だか、場違いなところへはいりこんだようで、とても居心地が悪いと思うこともあるでしょう。しかし、それを乗り越えて、継続して出席することがたいせつです。そうすれば、必ず、神の「創造の意思」があなたに働いて、あなたを「義」へ導いてくれるのです。
 それは、次の理由によってです。「礼拝」のことを、英語では「サービス」といいます。これは通常「奉仕」と訳されている言葉です。日本にキリスト教が伝来した時、できるだけ日本にある言葉を使おうというので、仏教の「礼拝」(らいはい)という言葉を、この「サービス」にあてたので、「礼拝」(れいはい)というキリスト用語が生まれたのです。
 ところで、ドイツ語の「礼拝」に相当する言葉を直訳すると、「神の奉仕」ということになります。このことは、非常にたいせつなことを示しています。通常「礼拝」ということを考えると、人間が神を礼拝する、つまり「神は礼拝の対象である」と考えがちですが、「神の奉仕」と考えると、実はその逆ということになります。
 ほんとうの意味は、「神が人間に奉仕してくださる」ということです。「神が、何とかして人間を、最初『このようにあらせられたい』とはっきりした『創造の意思』をもって創った姿、つまり『義』にもどらせようといる神の「行為」、これを私たちは「礼拝」と呼んでいます。ですから、「礼拝」として日曜日の一定の時間に行なわれるのは、「神の礼拝」のほんの一部分の、見えるかたちにすぎません。「神の礼拝」は日曜日だけでなく、毎日、いつでも、私たちのためになされているのです。 ”
 
 実にルター的、ルーテル派的説明といえます。ドイツ語のGottesdienst(礼拝)は確かに冒頭にGott(神)で始まっています。Gott(神)とDienst(サービス)から成る語ですね。ルーテル派などは今も礼拝を英語のサービス(Church Service)といいますが、近年のアルミニアン・ウェスレアンの流れにある福音派系・聖霊派系のプロテスタントでは、ワーシップ(Worship)という言葉の方が聞かれ、「神が人間奉仕してくださる」という意味を喪失してしまったのだなと感じてしまいます。
 
 ルターは神や信仰について動詞的に捉える人だったといわれています。元ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校教授で同ルター研究所所長であった徳善義和先生の著書「自由と愛に生きる 『キリスト者の自由』全訳と吟味 」(教文館)の中で “ ルターは名詞型の思考ではなく、動詞型の思考をすると私には思えるし、そこに中世の信仰、教会、神学からの宗教改革的転回のひとつの手がかりがあると思われる。「神の義」は名詞としてとらえられるのではなく、「神はわれわれを義とする」という形で動詞的に把握されるという具合である。ラテン語が教会用語、神学用語として名詞的、静的であるために、より動詞的、動的でありうるドイツ語による著作を心がけていたとも言える… ”(p83) と説明されていますし、キリスト教ラジオ番組FEBC( http://www.febcjp.com/ )で、以前に放送された徳善先生によるマルチン・ルターの「キリスト者の自由」( FEBCにて現在MP3版とDLにおいて販売中 http://www.febcjp.com/lib_catalogue2/ )の中で、『…ルターの傾向として物事を動詞的にとらえていこうというのがあるんです。それにぴったり合うマルチン・ルターの言葉が一つあるんです。神が我々の味方ならば、誰が我々に敵対するだろうか。というロマ8章31節の言葉を、短くルターが説明している箇所があるんですね。 我々が代名詞、我々が、我々をとか、我々にとか、格変化させてし得るのだとすれば、神という名詞を動詞変化させ。 神というのは名詞じゃないんだというわけですね。動詞変化させた方がいいんだ。動詞変化させるならば、名詞を動詞にして、神語る、神語った、語られたる、神をそう変化させたらいい、名詞変化でね神は・神の・神に・神を・神からとラテン語はそう変化するんですが、そうさせないでね、動詞変化させて、神は語る・神は語った・神は語られたる・神によって語られたる、そういう神という名詞の現在・過去・過去分詞で変化させた方がいいんだという言い方をしたので、ちょっとわかりにくいんですけどね。まさにね、マルチン・ルターが、この物事を、特に神様に関わる事柄を動詞的にとらえた。信仰にかかわることも動詞的にとらえた。という一つの顕著な一点だと読んでいるんですよね。それだからこそ、神の言葉がキリスト者をつくる、自由にするという動きになって、神の言葉自体が動き、作用する意味合いを強く持ってくるようになると思うんですね。動いている感じ、ダイナミックと言ってもいいでしょうかね。』(テープ興し)と語っていました。
 
 動的に神をとらえる。動的にキリストをとらえる。動的に聖霊をとらえる。動的に信仰や愛をとらえる。これは発想を大きく転換させてくれますし、私たちが神を礼拝するのではなく、神が私たちのために奉仕してくださっているのだということは、まさしく神の愛が能動的にわたしたちに溢れるばかりに注がれているということです。
 
 “信仰それ自体では生の中に具体的な形をとることはありえないから、愛がそれに加わって、決定的な役割を果たし、愛こそが信仰を形あるものにもたらすことになる。「愛によって形成される信仰 fides caritate formata 」である。信仰のみでは無力で、愛が加わることが決定的に必要である。しかし、ルターにとっては信仰は、神の働きであり、神の真実から起こるできごとであるから、それ自身の中にではなく、神からの力(デュナミス)によっている。だから、神の真実がそうであるように、信仰は信仰者の一部分の規定ではなく、包括的、全体的な規定であって、信仰は即、愛でもあり、喜びでもある。だから、信仰プラス愛から行いとなるのではなく、信仰即愛ゆえに行いとなるのである。パウロが言う「愛によって働く信仰」(ガラテヤ五・六)をルターはこのように新しく理解することになったのである。こうしたダイナミズムの中で、ルターは隣人愛、隣人奉仕が自己愛を排除しとおすことを明らかにしている。”(前掲書p251-252)
 
 「信仰とは神様の愛をいっぱいにいただいて受け止めて行く事だから、いっぱいにいただいた愛を、自分の中に溜め込んじゃうのじゃなくて、ごく自然に信仰的な生き方をしようと思うと、このつまらない私を通してでも、神様の愛が他の人のところに伝わって行く。…神様から受けた奉仕は、隣人への奉仕となって出て行く」(前掲テープより)
 
 礼拝をこのように受け止めてみる時、全く違ったものに代わってくるのではないでしょうか。
プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

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