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神のなされることは皆その時にかなって美しい


セピア色 バイブル キラキラ

何十年も昔になりますが、とある福音派系統の団体の宣教師から渡された50ページほどの一冊の小冊子。そこには新約聖書の要約が載せられていて、それをふと読んでみて心惹かれ、いろいろと調べたりしたり、また偶然から、いろいろな聖書の学びの場や福音のメッセージに出会うことができました。

 キリスト教の布教活動は普通の教会や宣教団体であれば、それは種まきと言えるでしょう。新約聖書の中にイエスさまが弟子たちにたとえ話をされ、そしてそれを解き明かされている場面があります。それをマルコの福音書の中から読んでみましょう。

❝イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。❞

❝また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。種まきは御言をまくのである。道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。 ❞

❝また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。
 また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。 ❞

『種まく人』1850年

 教会やキリスト者(クリスチャン)の行う伝道や布教というものは、御言葉という種をまく行為にほかならず、相手を言い負かしたり、理論を振りかざしたり、科学などの学問的な挑戦をするようなものではなく、相手の土壌に合った仕方で種をまく、実を結ぶかは神秘と言えるでしょう。これは蒔きっぱなし、植えっぱなしということではなく、あくまでも相手の心の中でどう芽を出し根を張るかということです。

 私たちの人生において、順風満帆な社会生活や信仰生活を送れるとは限りません。ある時にはとても不信仰になったりもします。人によってはまったく眠ってしまったり、棄教したり、また別なものに改宗したり、無宗教になってしまったりする人もあります。これはまた仕方のないことと言えます。石地に水をまき続けても水は根に吸収する前にはけてしまいますし、茨に覆われた場合も、茨を何とかしなければ意味がありません。人の心の中の石地や茨は本人にしか土壌改良や草刈りはできないのですから。

ふとであいやがて

 しかし、不思議なもので御言葉という種はとても強力で、いつの間にか石地のような心でも、根がしっかりと石地をからめ捕って抱え込んでしまっていたり、その生命力で茎をのばし、茨を跳びぬけ葉を茂らすこともあったりします。何度もアニメ化されたり、ドラマ化されたりして有名な「エースをねらえ!」という少女漫画がありますが、その中で❝ふとであい あい魅かれ やがてわかれ なお魅かれるこの運命!❞というモノローグがありますが、聖書というか神の御言葉とはそのようなことを地で行くような不思議な魅力があったりします。これも神秘と言えます。

 私が捉えたのではなく、私が捉えられた。私が求めたのではなく、神が招かれた。私が意味も解らず苦しんでいたのを、神がそれを知らせて、解決策をすでに用意されていた。これは神秘です。

 キリスト教は御利益なき宗教。だからありがたいということについて、「隠されたる神 苦難の意味」(山形謙二 著 キリスト新聞社)という本の中でこう語られていました。

❝神学者大木英夫氏は、「キリスト教にはご利益が無い。だからありがたい」との千葉儀一牧師の言葉を引用して次のように言っている。「この言葉は、ものすごいパラドクスであるが、しかもかぎりなく、真理である。この言葉が分からない人間は、決して教会にこないだろうし、来てもながくとどまることはないかも知れない。この言葉がさし示す真理に耐えられなかった人々が去ってゆくのを、わたしは見た。しかしこの言葉によってかえって福音の深い認識に至らしめられる人々もいた。キリスト者とは『ご利益なきありがたさ』が分かった人々である」。
 苦難の中にあってこそ、私たちの宗教、そして信仰が本物であるかが明らかになる。逆境の中においてこそ、私たちの宗教を求める動機の純粋性が問われる。私たちは何を求めてキリスト教を信じているのか。
 クリスチャンの間でもしばしば「今はこういう病気があるが、天国に行ったら…」「今はこういう不幸があるが、天国に行ったら…」などという言葉をよく耳にする。
 確かにそれは真実である。天国に行ったら、すべての悩みや問題は解決されることを知っている。それらはキリスト教に入るきっかけにもなりうるし、私たちがこの地上生活において苦難を耐えぬく力と希望にもなりうる。
 しかし、それらがキリスト教を信じている根本的かつ究極的理由であるとするなら、キリスト教の本質を履き違えてしまっている。それは本質的には、御利益宗教となんら変わるところがない。世間一般が求めているこの世的幸福を、単に「時」と「場所」を天国に移して求めているにすぎないからである。(p.64-65)❞

 またこれは以前にも引用しましたが、作者不詳の「病者の祈り」とか「応えられた祈り」と呼ばれる詩はそれをよく表していると言えます。

❝功績を立てようと、神に力を祈り求めたのに、謙遜に服従するようにと、弱さを与えられた。

 より大きなことをしようと、健康を祈り求めたのに、より良いことをするようにと、病気を与えられた。

 幸福になるようにと、富を祈り求めたのに、賢くなるようにと、貧しさを与えられた。

 人々の賞賛を得ようと、権力を祈り求めたのに、神の必要を感じるようにと、弱さを与えられた。

 人生を楽しもうと、あらゆるものを祈り求めたのに、あらゆるものを楽しむようにと、人生を与えられた。

 祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに、実は私が望んでいたすべてのものが与えられた。

 このような私にもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられ、

 すべての人にまさって、私は最も豊な祝福を与えられたのだ。❞

 神の御業は神秘の中にあり、隠されています。最後に旧約聖書の中から伝道の書第三章を引用して終わりたいと思います。

❝ 天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
 生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
 殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
 泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
 捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
 裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
 愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。

 わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。 ❞


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般若心経


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キリスト教徒でキリスト教徒になる前に、まあ、熱心な仏教徒であったとか興味があったというのでもないと、なかなかお経に触れる機会というのも限られてしまいます。異教徒である家族や親せき、友人知人、仕事上の関係者などの葬式、回忌法要、お盆、墓参などの時にちょっと坊さんの読経を聞くくらいなものでしょう。

 そんな中でも般若心経という300文字にも満たない短い経文があります。私は実家が曹洞宗の檀家でしたからなじみのある経文なのでしょうが、私個人は家が曹洞宗というだけで特に興味もなく、ただお盆に坊さんが来てお仏壇の前でモニョモニョお経を唱えて、ちょっとしたお話をして、お布施をもらって帰ってゆく、あとお寺さんから何かしらの案内のはがきが来て、母親がお供えとお布施を以てお寺さんに行ってくるのを年に何回か見る程度で、親も毎朝欠かさずお仏壇と神棚の前で手を合わせてはいますが、お経などというものにはまったく興味がなく、神様とご先祖さんに手を合わせているといった程度でした。

 不思議なことにキリスト教徒になってから、お経や仏教に興味が湧いてきたというのは面白いものだと思いました。特に般若心経などは先ほども言いましたが短くて、それでいて日本文化の根底にある禅を理解するのに、素人でもとっつきやすくていい感じがします。私は岩波文庫の「般若心経・金剛般若経 」はすでに持っていましたが、それよりも「般若心経のすべて―読む・唱える・書く・描く・祀る」 (公方俊良 著 日本実業出版社 1987年)を読んで興味を持ちました。この本はとても分かりやすく、それで興味を失わなくて済んだのでしょう。やっぱり最初は解り易いものから入るのは基本ですね。

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経

 般若心経は短いとはいえ漢文ですから、これを見ただけで嫌気がさしてしまうのかもしれません。

摩訶般若波羅蜜多心経 読み下し

観自在菩薩、深く般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したもう。舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色即ち是れ空、空即ち是れ色。受・想・行・識も亦復是くの如し。

舎利子、是の諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず。是の故に空中には色も無く、受・想・行・識も無く。眼・耳・鼻・舌・身・意も無く。色・声・香・味・触・法も無く。眼界も無く。乃至、意識界も無く。

無明も無く・亦無明の尽きることも無く。乃至、老死も無く、亦老死の尽きることも無く。所得無きを以ての故に、苦・集・滅・道も無く。智も無く。亦得も無し。

菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し。罣礙無きが故に恐怖あること無し。一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟す。

三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。

故に知る、

般若波羅蜜多は是れ大神呪なり、

是れ大明呪なり、是れ無上呪なり、是れ無等等呪なり、能く一切の苦を除いて、真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。
即ち呪を説いて曰く、

羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。

般若心経。

 読み下し分にしますと、まだ意味も解りますし、これで読経してもリズムも崩れず、漢文より覚えやすいかもしれません。最初に固い本で出合ってしまうと、もう駄目だ解らないとさじを投げてしまいかねません。また、この中に基本的な仏教の考え方が出ていて、五蘊は何かとか、六根、六境、六識、十二処、十八界、十二因縁、四苦八苦、四諦八正道などの基本的な用語なんかも意味を知って覚えると、他の経典や仏教の祖師たちの書いたものなどを読む下地になると思います。

 もちろんキリスト教徒から見れば、仏教などは荒唐無稽な阿弥陀仏の話や密教の世界観、法華経のありえなさなんかが目につきますが、そんな荒唐無稽な世界観を省いて、人間釈迦が人間として苦しみから逃れる生き方や方法、あり方を原始仏典や大乗仏教の中では般若経典や禅が示してくれる感じがします。非宗教的なものと感じられるゆえに、キリスト者もこの中から益を得られると思われます。

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 臨済禅師の臨済録の中で、この言葉が好きですね。

師示眾云。道流。佛法無用功處。
秖是平常無事。屙屎送尿著衣喫飯。困來即臥。
愚人笑我。智乃知焉。古人云。向外作工夫。
總是癡頑漢。爾且隨處作主。立處皆真。
境來回換不得。縱有從來習氣五無間業。自為解脫大海。

師は皆に説いて言った、「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり、飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならばそこが分かる。古人も、『自分の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。たとえ、過去の煩悩の名残や、五逆の大悪業があろうとも、そちらの方から解脱の大海となってしまうのだ。

 なんとも肩ひじを張らない自然な姿。私の好きな曹洞宗で得度を受けた種田山頭火の句集「草木塔」(青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000146/card48249.html)などもこういった禅の在り方がよく出ていると感じます。



読めば読むほど


開目抄上新編 日蓮大聖人御書全集 創価学会版 開目抄上


やっと開目抄上下を読み終わりました。五大部十大部の内三つ読了ということですが、まだ先は長いといったところです。しかし、眠くなるし、日蓮のカルト性と他宗に対する誹謗と排他性は、読んでいて嫌気がさします。

日蓮 末法


 合わせていろいろ調べていますと、日蓮正宗の本尊について「久遠元初」、「自受用報身如来」などについてと第一章 日蓮正宗の本尊いうページでの説明などを読むと、こんなばからしいことをと思ってしまいます。まあ、聖書の創造物語などを原理主義的解釈をする福音派や聖霊派などの英米の新興キリスト教、またそれらから派生したキリスト教の異端である破壊的カルト団体の解釈よりもなお酷いと思いました。まだ彼らの方がましと思えます。

 仏教というより仏教のエッセンスを混ぜた日蓮教といった感じでしょうか。似たようなものにさっきの英米新興キリスト教から広がり朝鮮半島や朝鮮民族や朝鮮文化、シャーマニズムと儒教、上下関係やお金や性などの欲望などで、さらにむごく汚染され変質した韓国のウリスト教などや、日本の新宗教、新・新宗教などに分類される団体の教祖などに類似のものがよく見られる感じがします。


ムン

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ハンキリスト

自称エルカンたーれ

 まあ、普通の日蓮宗がこのような日蓮教まで行っていないで、仏教の枠内なのはまだ救われているところかもしれません。しかし、「新編 日蓮大聖人御書全集 創価学会版」も現代語訳にするか、欄外に用語解説を載せればいいのにと思います。読み辛いは眠くなるは、読んでてさらに日蓮が嫌いになるはと、一種の拷問かもしれないと感じてしまいます(読むのやめればいいだけなんですが、せっかく買ったんですから全部とは言わないでも十大部は読んでおきたい)。



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道に縛られず


 アニメ一休さんでよく知られた一休宗純の作とされる「骸骨」の中に、宗教多元主義的考えの人らの言説で「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」というものが使用され、どんな宗教も結局は行き着くところはみな同じというものを見かけたりもします。しかし、本当にそんな意味の道歌なのでしょうか。「骸骨」のその部分を見てみますと、❝分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月をこそ見れ 行く末に、宿をそことも定めねば、踏み迷うべき道もなきかな❞と詠われていて、後半は自分でここへ行こうと決めたりしていなければ、そもそも決まっていないのだから道に迷うはずもないと、己を制限したり縛ったりしない、あるがままを受け入れあるがままに進む、心の重荷がなくなるような感じがする歌に思えます。

一休 骸骨

 キリスト教の異端や破壊的カルトの問題を見て行きますと、なぜ彼らは気が付かないのだろうと思うことがよくあります。日蓮の「立正安国論」の中の言葉で、念仏宗を批判して"辛きことを蓼の葉に習い臭きことを溷厠に忘る"(「新編日蓮大聖人御書全集 創価学会版」)("辛きを蓼葉に習ひ臭きを溷厠に忘る。"「平成新編日蓮大聖人御書 大石寺」p.242)と言った一節が出てます。確かにヤナギタデの葉を食べている蓼虫が、その辛みを感じないことや、臭いトイレの中に長くいる虫は、その臭さを感じないとの例はある宗教に熱心になっている人間をよく表しています(日蓮自身にも当てはまるとも思いました)。

辛きことを蓼の葉に習い臭きことを溷厠に忘る

 キリスト教徒は改宗前に熱心な仏教徒でもない限り、一般によく知られたものを除いて、なかなかこういった仏教の話に耳を傾けることが少ないのはちょっと損している感じがします。今は以前みたいに漢文や訓読だけでなく、現代訳なども多く出ているよい時代になったのですから、もっと学びあうのもいいかもしれません。




知れば知るほど


 図書館から日蓮や日蓮宗に関する一般向け入門書数冊と富永仲基の「出定語」を借りてきて、「日蓮大聖人御書全集 創価学会版」と合わせてゆっくりと読み、YouTubeなどの日蓮関連の動画なども見ていますと、ますます「法華経」と日蓮が嫌いになるというのも面白いものだと感じます。

日蓮と上行菩薩


 特に「立正安国論」で日蓮の予言が当たったみたいなことが書いてあったりしますと、それって日蓮が世間に起こっている災禍に対して、金剛明経や大集経、薬師経、仁王経に書いてあることが、自分の体験で当たってきていると思い、そうなってきていると言っているように思えます。また、薬師経などを見ますと大体地震列島で台風の通り道のこの国で尚且つ、日本の歴史で疫病も、飢饉も、流行り病もよく起こっていましたし、日蝕や月蝕、彗星なんて今の時代から見たら、ごく普通の周期的に起こる自然現象にしかすぎません。

❝薬師経に云く「若し刹帝利・潅頂王等の災難起らん時所謂人衆疾疫の難・他国侵逼の難・自界叛逆の難・星宿変怪の難・日月薄蝕の難・非時風雨の難・過時不雨の難あらん」已上。
仁王経に云く「大王吾が今化する所の百億の須弥・百億の日月・一一の須弥に四天下有り、其の南閻浮提に十六の大国・五百の中国・十千の小国有り其の国土の中に七つの畏る可き難有り一切の国王是を難と為すが故に、云何なるを難と為す日月度を失い・時節返逆し・或は赤日出で・黒日出で・二三四五の日出で・或は日蝕して光無く・或は日輪一重・二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり、二十八宿度を失い金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・ちょう星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星・是くの如き諸星各各変現するを二の難と為すなり、大火国を焼き万姓焼尽せん或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん是くの如く変怪するを三の難と為すなり、大水百姓を表ひょう没し・時節返逆して・冬雨ふり・夏雪ふり・冬時に雷電霹?し・六月に氷霜雹を雨らし・赤水・黒水・青水を雨らし土山石山を雨らし沙礫石を雨らす江河逆に流れ山を浮べ石を流す是くの如く変ずる時を四の難と為すなり、大風・万姓を吹殺し国土・山河・樹木・一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風水風あらん是くの如く変ずるを五の難と為すなり、天地・国土・亢陽し炎火洞燃として・百草亢旱し・五穀登らず・土地赫燃と万姓滅尽せん是くの如く変ずる時を六の難と為すなり、四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん・是くの如く怪する時を七の難と為すなり」大集経に云く「若し国王有つて無量世に於て施戒慧を修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば是くの如く種ゆる所の無量の善根悉く皆滅失して其の国当に三の不祥の事有るべし、一には穀貴・二には兵革・三には疫病なり、一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも人随従せず常に隣国の侵にょうする所と為らん、暴火横に起り悪風雨多く暴水増長して人民を吹ただよわし内外の親戚其れ共に謀叛せん、其の王久しからずして当に重病に遇い寿終の後・大地獄の中に生ずべし、乃至王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も亦復た是くの如くならん」已上。❞(一部漢字をひらかなにしています)

薬師瑠璃光如来本願功徳経


 ここいらあたりはキリスト教でも、終末カルトでマタイ福音書の24章の❝24:4そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。 24:5多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。 24:6また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。 24:7民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 24:8しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。 24:9そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。 24:10そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。 24:11また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。 24:12また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。 24:13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 24:14そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。❞などの言葉を、解釈する人間がよく出来事に当てはめて、その時が来たなどということはよく見られることなので驚きもしません。

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 そして、自分を上行菩薩と思ってしまうあたりも、ものみの塔の四代までの会長や統治体と呼ばれる組織の支配機構、モルモンにおける教会の預言者(大管長)と二人の副管長と12使徒の預言者集団、韓国の破壊的カルトであるキリスト教と在日韓国・朝鮮人による教会などにおける教祖や指導者の立場にある者たち(自分を再臨のメシアとか預言者と思い込んでいたり吹聴する)などととてもよく似ています。

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ジョセフ・スミス

 そして、日蓮正宗とその破門団体の法論や折伏、仏罰や謗法といったものは、やはり受け付けませんね。

別冊宝島225 となりの創価学会 表紙

 そんなことを入門書や「日蓮大聖人御書全集」などを読みつつ感じています。

洋の東西あれども

 昨日の記事の続きになりますが、日蓮宗と日蓮正宗系の関係は、キリスト教とキリスト教のファンダメンタリストたちや異端である破壊的カルトとの関係によく類似しているなと感じられます。

 例えば、日蓮正宗系を除く日蓮宗諸教団は釈迦牟尼仏を本仏とするのに対して、日蓮正宗とそこから出た新興宗教団体などは、久遠実成の釈迦牟尼仏をも垂迹仏や在世集生の脱益の仏とみなし、日蓮を久遠元初自受用報身仏、末法の本仏としているとのことです。そして、それを裏付けするのに自宗以外では受け入れられていない、偽書とみなされているようなものも日蓮のものとして証文としているようです。彼らの教義には全く興味もないのですが、ここいら辺はモルモンに似ているように感じられます。

御書とモルモン書


 モルモンの神とキリスト教のいう神では、まったく別の神であり、彼らはその神観をモルモン書やその他の彼ら独自の聖典から導き出しています。本当によく似ているなと感心します。

 洋の東西はあれども所詮人間のやること似てくるのでしょう。

離れているようで似ている事象もある。

さて、ここ数日YouTubeなどの法華講(日蓮正宗信徒)の人の創価学会との法論の動画や日蓮正宗や日蓮宗、また創価学会関連の動画、関連するWikipediaやそれぞれの教団や末寺のサイト、ブログなどを見ていました。

文永9年 壬申 日蓮 諸宗の徒と問答す〔塚原問答〕(定P974)


 信じている方には申し訳ないが、日蓮系はあのクソつまらなく釈迦の喩えもドへたくそで、自画自賛しかない「法華経」という経典を昔岩波文庫(上・中・下の三巻本)で読んでからまったく興味が湧くことなく(しかし、「般若心経・金剛般若経」「浄土三部経」「ブッダのことば」「ブッダ真理のことば・歓興のことば」「ブッダ神々との対話」「ブッダ悪魔との対話」「ブッダ最後の旅̶大パリニッバーナ経」「仏弟子の告白」「尼僧の告白」「仏教聖典」などの経典は面白く読めた)、日蓮系はまったくと言っていいほど知らない状態でそれら法論を見て、なんだかエホバの証人を見ているように感じられました。

新編日蓮大聖人御書全集創価学会版 箱


 日蓮の書いたものを集めた「御書」と呼ばれる本(今回、「新編 日蓮大聖人御書全集 創価学会版」を古本で購入してみました。本当は日蓮宗の方がいいのかもしれないのですが、安いこちらにしました。)をまるで法律書でも広げるかのようにし、あちらこちら引用しつつ相手を論破しようとしたり、上げ足を取る姿はまんまエホバの証人(まだ相手を小ばかにしたり嘲笑したり、また、相手の話をさえぎったりしない分、エホバの方がお上品と言えました)と同じだなーと思いましたね。

 まあ、どこかのサイトで専修念仏の法然も法華一乗の日蓮も、現代社会ならカルト宗教の教祖と評していましたが、日蓮御書の「立正安国論」や法然の「選択本願念仏集」を読んでみて、まことに至言だと思いました。

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末法カルトと終末カルト、考え方もやり方もそっくり。人とはいつまでたっても変わらないものだとも思います(;´・ω・)

また、日蓮正宗とその系統の新興宗教を除けば、カルト性を沈殿させうまく社会に適合して、安全な宗教になっているのを見ますと、終末カルトもあり方として安全化できる可能性もあるのでしょう。そのためには社会からの隔離や否定から、どう社会に関わらせ、社会性を持たせるかが課題になるのでしょう。

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 そして、彼ら法論をしている方などの発言を見て行くと「邪宗、邪義(誤った教義。正しくない見解。)、破折(教義解釈などの誤りを指摘すること。)、謗法(仏法をそしり、真理をないがしろにすること。)」などの言葉がよく出てきます。また、こういった人たちには仏罰(仏罰 - Wikipedia)がある。正しく仏法を護持するものには功徳があるといった言説がよく見られ、相手やその道の人間が不幸に見舞われれば、それ見たことかと喧伝したりする姿は嫌悪感を抱かせるものでした。「エホバの証人」や「繁栄の神学」と「ディスペンセーション」に立つ教会、米キリスト教におけるファンダメンタリストたちとその系統が、キリスト教系では似たような言動をしているといえるように思えます。

 相手を言葉で言い負かすことで棄教改宗を約束させるというのもおかしなことに思えます。彼らの信心や信仰とは御利益と頭の中のことということなのでしょう。

 またキリスト教は一部の人たちを除き、基本御利益宗教ではないので、彼らを理解しがたいのですが、彼らにはキリスト教世界で有名な作者不詳の詩で、「応えられた祈り(病者の祈り)」というものがありますが、このような面は理解できないのかもしれないでしょう。

祈りの手


          応えられた祈り

 功績を立てようと、神に力を祈り求めたのに、謙遜に服従するようにと、弱さを与えられた。

 より大きなことをしようと、健康を祈り求めたのに、より良いことをするようにと、病気を与えられた。

 幸福になるようにと、富を祈り求めたのに、賢くなるようにと、貧しさを与えられた。

 人々の賞賛を得ようと、権力を祈り求めたのに、神の必要を感じるようにと、弱さを与えられた。

 人生を楽しもうと、あらゆるものを祈り求めたのに、あらゆるものを楽しむようにと、人生を与えられた。

 祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに、実は私が望んでいたすべてのものが与えられた。

 このような私にもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられ、

 すべての人にまさって、私は最も豊な祝福を与えられたのだ。

 キリスト教におけるこのような思想というものは、日蓮の仏法にはなかったのかもしれませんね。そして、繁栄の神学や天啓史観に立つキリスト教ファンダメンタリストやキリスト教の異端である破壊的カルトも持ち合わせてはいないのでしょう。

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当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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