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主の十字架

 受苦日を目前にし、聖週間ということで2013年に北からのルーアハに書いて公開した記事を再掲します。

◎鞭打たれる

マタイによる福音書27章11節~26節
27:11さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。 27:12しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。 27:13するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。 27:14しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。 27:15さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。 27:16ときに、バラバという評判の囚人がいた。 27:17それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。 27:18彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。 27:19また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。 27:20しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。 27:21総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。 27:22ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。 27:23しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。 27:24ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。 27:25すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。 27:26そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。

鞭打たれるイエス


 イエスは死刑判決を受けた後に、十字架刑に引き渡される前に鞭打ちの刑を課せられました。メル・ギブソンの監督した映画、「パッション・オブ・ザ・クライスト」においてこの場面は、それまでのキリストの受苦(パッション)を描いた映画にはないほどよく再現再現されていました。

鞭

 ローマ帝国における鞭打ちの刑はとても残酷なものでした。鉄の玉や動物のとがった骨などが編みこまれた革鞭が用いられました。映画においては金属のかぎ状のものがついた革鞭が用いられ、イエスの背中を30回、続いて体の前面を30回鞭打っていました。ユダヤの律法による鞭打ちならば(鞭の形状はローマ帝国ほど残酷なものであったかは不明です)、ハラハーによって鞭打ちの回数は39回までと定められていました。

鞭打たれた奴隷


 現在でも鞭打ち刑はシンガポールでは行なわれているようです。ウィキペディアによると同地においては籐の鞭が使用され、最大で24打までで死刑判決を受けた者には施さないとされています。また、同じウィキペディアのページでは、水牛の皮を用いた革鞭で50打もすると、外傷性ショックから死にいたる危険性があると出ていました。
鞭打ち

 ローマ帝国の鞭打ち刑は、現代や近代のものに比べるとはるかに残酷で過酷なものと感じられます。ローマ兵があの鞭にて、力いっぱい振るったとき、打たれた場所は挫傷し強烈な打撲が加えられます。背の皮は裂け、打たれる度に皮膚と血、筋肉組織ははじけ飛び、脊椎やあばら骨があらわに成ることでしょう。

ローマ帝国の鞭打ち


 下手をすると十字架を荷うまでもなく、外傷と大量の出血により循環血液減少性ショックによって死に至っていてもおかしくはない状態でした。イエスが十字架にかけられた時、すでにこれらの症状が出ていたことが福音書の記述からも判ってきています。

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◎主死に給まえり

 十字架に引かれて行くことになったイエスは、事前の鞭打ち刑により、その体に極度の裂傷や打撲が加えられ、相当量の出血があったと考えられます。生きているのがぎりぎりであったのかもしれません。

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 ローマ兵たちは、通常の十字架刑と同じく、囚人に自分の磔けられるであろう一本のスタウロスを担がされます。もう一本の縦のスタウロスはすでに刑場に立っていたと考えられています。

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 しかし、福音書の証言によれば、刑場に向かう途上に、そこに通りがかったクレネ人のシモンに強いてイエスの十字架を負わせたと書かれています。カトリックの伝承の中に「十字架の道行」とか「主の十四留」と呼ばれるものがありますが、イエスは刑場への道すがら三度倒れられ(第三留、第七留、第九留)、最初に倒れられた後(第三留)、クレネ人のシモンがイエスに代わって十字架を担いで行きます(第五留)。イエスが倒れられたことは、四つの福音書は伝えていませんが、イエスがその鞭打ちの怪我と出血のため、急性の循環血液量減少性ショックの状態に陥っていた為、ローマ兵が死刑囚ではない通りがかった行きずりの人間に、その十字架を負わせなければならなかったほどだったと推察できるでしょう。

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主の十四留 Athanasius記名入り


 さて、このイエスの状態は大変危険なもので、その怪我と打撲によって、背中の皮膚は破け、血管は裂け、筋肉組織はそぎ落とされて骨が見えるばかりで、そこから出血が続いている状態です。大量に血液を失ったことにより血圧は極端に低くなり、頻脈が起こり、体の細胞は酸欠状態となりチアノーゼが現れ、各種臓器には深刻なダメージが与えられ、過呼吸、意識障害、乏尿などがおこり、それが継続するだけでなく悪化して行くという、とても生命を維持すること自体、困難な状況になりつつありました。そして、刑場に着いた時、十字架につけるために、傷跡にへばりついた衣服を無理やり剥ぎ取りました。マルコが伝えるところでは、この時ローマの兵士は鎮静薬としても使われた“没薬”を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたことからも、ひどい状態であったと思われます。

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衣服を剥ぎ取られたイエスは、スタウロスに釘付けにされます。

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 1968年にエルサレムの都市の境界の真北にて、一世紀の前半ごろに十字架に磔られた男の骨が入った納骨棺が発見されました。納骨棺には名前が記されていて、ヨナタンという名前の人物であったことがわかりました。その発見により十字架刑の形態が判ってきました。

ヨナタンの踵の骨


 まず、十字架の上に横たわらされ、手を釘付けする為に腕を広げさせられ、正中神経のある手首に約15cmもある釘が打ち込まれます。

手 釘を打つ

 そして、同じように足にも釘が打ち込まれます。ヨナタンのかかとの骨を見ると、彼は真横から打ち込まれていました。イエスの場合はどうだったのかはわかっていません。

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十字架の形態


 こうしてイエスの釘付けられた十字架は立てられ、死へのカウントダウンが始まります。このような形で吊るされた時、胸部の拡大と収縮を行なう呼吸筋が緊張した状態になります。この状態では息を吸い込んだ状態のまま固定され、息が吐けなくなります。息を吐くためにはこの緊張を解かなければなりません。そのためには釘付けにされた足に力を入れ、体を持ち上げなければなりません。そして、やっとの思いで息を吐き出して足に掛けた力を緩めることができます。このままではすぐに力尽きて、体が落ちて死んでしまいやすいので、十字架には台座が取り付けられているので、体が落ちきってしまうことはなく、苦しいのにぎりぎり死ねない状態になります。すぐに死なせようと思えば、ローマ兵がイエスと共に磔にされた二人の強盗したように、すねの骨を折って、足で体を支えられないようにすれば、すぐに窒息して死んでしまいます。

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 この状態で数日間置かれて死に至るのですが、イエスの場合はすでに瀕死の状態でしたので、昼の十二時より前に十字架に磔られたイエスは、三時ごろに亡くなったといわれています。あまりにも早く死んだので、ローマの兵士がわき腹から槍を刺し、その死を確認しました。

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 この時、イエスのわき腹から“すぐ血と水が流れ出た。”(ヨハネ19:34、新共同訳)といわれていることから、心不全を起こして死んだとも考えられます。それはこのヨハネの伝える状態が、心臓と心臓を覆う心外幕の間に液体が溜まる心タンポナーデの状態と肺に水の溜まる胸水の状態であったと思われます。

 急性の心タンポナーデすなわち急性液体貯留の原因の一つとして、「チーム医療を担う医療人共通テキスト 病気がみえる Vol.2 循環器」(メデックメディア刊)によると、出血(急性心筋梗塞〔AMI〕後の心破裂.外傷)があげられています。そのためイエスの死因について、昔のものには心破裂をあげる説もありました。しかし、心破裂は心室圧が400mmHg以上になった時起こるとされていますので、急性循環血液量減少性のショック状態で起こるのかわかりませんが、基本的兆候として血圧が極端に下がるといわれていますので、心破裂はないのではないかと感じられます。そして、外傷もまた原因とされているので、そちらの方が可能性が高いように感じられます。

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 さて、心タンポナーデとは、心外幕と心臓の間に液体が大量に溜まり、そのことにより心臓の拍動が阻害されてしまう状態で、早期に心不全に移行してしまう危険な状態です。

 胸水と心不全は多くの人は経験したことのないものですが、わたしは心臓の難病から来る慢性心不全ですので、この状態の苦しみというものの僅かですが体験しています。ものすごく悪い時に、おそらく心不全の病期の分類ではNYHA Ⅳ度(Ⅰ~Ⅳまであります)で、安静時にも呼吸困難が起こっている状態で、わずか50メートルに満たない距離にあるところに歩いて行くのにも、まるで全力で走った後のように荒い呼吸となり、酸欠状態を起こしチアノーゼが出ている状態でした。また胸水が溜まっているので、横になると呼吸困難を起こし横になって寝ることができませんでした。そんなことからもイエスがこの状態で刑場まで引かれて行かされ、さらに十字架で呼吸も絶え絶えになられた苦しみはいかほどであったのかと思います。

 こうしてイエスは死なれ、その亡き骸は安息日が始まるまでの二三時間の間に取り降ろされ、墓に納められました。

降下十字架

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エクソシズムについて ④


小説「エクソシスト」と映画「THE EXORCIST」の英文シナリオ(http://www.script-o-rama.com/movie_scripts/e/exorcist-script-transcript-blatty-friedkin.html)、あと英訳ローマ典礼定式書(http://www.holygrail-church.fsnet.co.uk/Roman%20Ritual.htm)を比べてみて、かなり忠実にローマ典礼定式書を利用していることが解ります。一部ですが英訳ローマ典礼定式書から見てみましょう。墨付き括弧(【 】)で囲った部分が英文シナリオで使われている部分です。

Rituale Romanum


"Psalm 53

P: 【 God, by your name save me, * and by your might defend my cause.】
All: God, hear my prayer; * hearken to the words of my mouth.

P: For haughty 【men have risen up against me,】 and fierce men 【seek my life;】 *

they set not God before their eyes.

All: See, 【God is my helper;】 * the Lord sustains my life.

P: Turn back the evil upon my foes; * in your faithfulness destroy them.
All: Freely will I offer you sacrifice; * I will praise your name, Lord, for its goodness,

P: Because from all distress you have rescued me, * and my eyes look down upon my enemies.
All:【 Glory be to the Father.】

P: 【 As it was in the beginning.】

After the psalm the priest continues:

P: 【 Save your servant.】
All: Who trusts in you, my God.

P: Let him (her) find in you,【 Lord, a fortified tower.】
All: 【In the face of the enemy.】

P: 【 Let the enemy have no power over him (her).】
All: 【And the son of iniquity be powerless to harm him (her).】

P: Lord, send him (her) aid from your holy place.
All: And watch over him (her) from Sion.

P: 【Lord,】 heed 【my prayer.】
All: 【And let my cry】 be heard by you.

P: 【The Lord be with you.】
All: May He 【also】 be 【with you.】

Let us pray.
God, whose nature is ever merciful and forgiving, accept our prayer that this servant of yours, bound by the fetters of sin, may be pardoned by your loving kindness.

【Holy Lord, almighty Father, everlasting God and Father of our Lord Jesus Christ, who once and for all consigned that fallen】 and apostate 【tyrant to the flames of hell, who sent your only-begotten Son into the world to crush that roaring lion;】 【hasten to our call for help and snatch from ruination and from the clutches of the noonday devil this human being made in your image and likeness. Strike terror, Lord, into the beast now laying waste your vineyard.】 Fill your servants with courage to fight manfully against that reprobate dragon, lest he despise those who put their trust in you, and say with Pharaoh of old: "I know not God, nor will I set Israel free." 【Let your mighty hand cast him out of your servant, 名前.,】 十字 【so he may no longer hold captive this person whom it pleased you to make in your image, and to redeem through your Son; who lives and reigns with you, in the unity of the Holy Spirit, God, forever and ever.】
All: 【Amen.】

1. Then he commands the demon as follows:

I command you, unclean spirit, whoever you are, along with all your minions now attacking this servant of God, by the mysteries of the incarnation, passion, resurrection, and ascension of our Lord Jesus Christ, by the descent of the Holy Spirit, by the coming of our Lord for judgment, that you tell me by some sign your name, and the day and hour of your departure. I command you, moreover, to obey me to the letter, I who am a minister of God despite my unworthiness; nor shall you be emboldened to harm in any way 【this creature of God,】 or the bystanders, or any of their possessions.

・・・

Luke 11.14-22

・・・

P: 【Lord,】 heed 【my prayer.】
All: 【And let my cry be】 heard by you. "

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 まだ使われている部分はありますが、引用が長くなるので割愛します。定式書の中で、「十字」とあるのは「十字」のしるしを行うことを示しており、「名前」とあるのは悪魔憑きになった人の名前をそこで使うことです。

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 英文シナリオを見ますと、映画の劇的効果や尺などから、定式書の式文はかなり簡略されたりしていますし、言いやすいように言い換えもなされたりしています。しかし、それでもかなり忠実に読んでいると言えるのではないかと思います。

 今回引用した詩篇53編(ラテン語訳ウルガタ聖書では、現行聖書とは一章ズレますので54編)の前に、諸聖人に対する長い連祷がありますが、それについては映画では割愛されていますが、原作小説では、メリン神父とカラス神父の司式前の会話の中で"「まず、君と二人で、聖者の連祷句を唱和する。聖水を持ってきてくれたかね?」"(p.284)などと出てきたりします。

 これらのことからローマ典礼定式書における祓魔式(エクソシズム)司式の流れを知るのに、実際にそんな場面に立ち会うことがない多くの一般の私たちにとってこの作品は入門としてはとても役立つものです。

  実際典礼文を見てみますと、一般的なイメージと違い悪魔との対話というものはほとんど出てきません。徹底して神に祈る。取り憑かれた人の開放を求め、庇護を求め、打ち勝つ力を求め、悪魔に対しては父と子と聖霊の名によって出て行くことを命じる。これをオカルトだと断じるアメリカの福音派のビリー・グラハムやアメリカのファンダメンタリストであるハル・リンゼイなどの見識があまりにも単なるイメージで語っていたのかが解ります。

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 映画の字幕から少し見てみましょう。

メリン神父
"み力により我が戦いを助けたまえ 
心のおごった暴徒らが私のいのちを狙う
だが神は私を救い 私の命を守り 
解放したもう 父と子と聖霊に栄光あれ
世の初めより 今も永遠に アーメン
神よ信仰のしもべを救いたまえ
堅い城となりたまえ
敵に立ち向かい
彼女を守りたまえ
邪悪を無力に"

メリン神父
"主が共に"

カラス神父
"なんじと共に"

メリン神父
"聖なる神 全能の父 永遠の神よ
主キリストの父
悪の暴君を地獄の炎に焼き
怒りの獅子を討つため
一人子を送りし方よ

この叫びを聞き
神のかたちなるこの娘を
破滅と白昼の悪魔から
速やかに解き放ちたまえ
ブドウ園を荒らすものを恐怖で打ちのめし
この悪霊をリーガン・テリーザ・マクニールから放ち
虜囚の苦しみから救いたまえ
彼女は神のかたちとして
生けるみ子にあがなわれし者なり
父と子と聖霊なる神は永遠に統べ治めたもう"

カラス神父
"アーメン"

メリン神父 
"祈りを聞きたまえ"

カラス神父 
"この叫びをみ前に"

メリン神父 
"全能の主 父なる神の言葉なるキリスト
全ての創造主
み力により毒蛇とサソリを踏みにじり
いやしいしもべのすべての罪を許し
凶悪な悪霊と戦う力を授けたまえ"

カラス神父
"アーメン"

 一部を見てみました(一か所字幕が完全に語訳なので修正)が、シナリオ様に簡略化されているとは言えとても良い祈りであります。

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 この定式書を見ますと、聖なる三位一体がとても強調されていることが解ります。また、式文の終わりの方には「アタナシオス信条」の交唱が行われているのには驚かされます。アタナシオス信条は基本信条の一つでありますが、あまりお目にかかることのない信仰告白文です。それがここで悪魔祓いの祈りとして用いられているというのには驚きがありました。

続く

エクソシズムについて ③


小説エクソシスト Athanasius記名入り


 小説「エクソシスト」(ウィリアム・ピーター・ブラッディ著 新潮社)の中に祓魔式の間に小休止を取っている時、助手を務めるデイミアン・カラス神父と主任を務めるランカスター・メリン神父のやり取りが出てきます。

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" またも沈黙。カラスが先に口を切った。「悪霊は­­­­­̶犠牲者の意志を傷つけることができないといいますが」

 「そうなんだ。そのとおりだ・・・・そのとおり・・・・それは、そこに罪がないからだ」

 「そうだとしますと、人間に取憑く目的は何にあるのでしょう?」カラスは不審そうに眉をひそめていった。「その狙いは?」

 「誰にも判らんことだ」メリン老神父が答えた。「知ることができると、自信をもっていいきれる者がいるとは考えられん」彼はそこで、少しのあいだ考えていたが、さぐりを入れるような口ぶりでつづけた。「しかしわしはこうみておる。つまり、悪霊の目標は、取憑く犠牲者にあるのではなく、われわれ・・・われわれ観察者が狙いなんだと。いいかえれば、この家にいる者の全部だ。そしてまた、こうも考えられる。やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティを打破することにある。いいかね、デイミアン。やつはわれわれをして、われわれ自身が窮極的に堕落した者、下劣で獣的、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在であると自覚させようとしておる。この現象の核心はそこにある。例えばわれわれの神への信仰には、理性が関与していない。それは愛の問題­­­­­̶神がわれわれを愛したもう可能性の受容の問題で・・・・」

 メリンはふたたび言葉を切ってから、いっそう落ち着いた口調で、内観の奥深い静けさを示して、語りつづけた。「・・・・悪霊は・・・・どこを攻撃したら効果的であるかを心得ておる・・・・」と独りうなずいて、「わしを例にとれば、ずっと以前のことだが、隣人を愛する望みを失った経験がある。ある連中が・・・・わしを拒否したからだ。どうしたら、この連中を愛することができるか? わしは考えた。それがわしを悩ませた。そしてついには、わし自身に絶望する結果を招いた・・・・それから先、神への絶望までは一直線だ。わしの信仰は、当然、動揺し始めた・・・・」

 カラスは関心をそそられて、老碩学の顔を見つめ、「で、どうなさいました?」と、質問した。

 「それからかね?・・・・わしは最後に知ったのだよ。神は心理的に不可能なことを求めておられるわけでない。神がわしに要求なさる愛は、意志のうちにあり、心情的な愛とは異なるものだということだ。神はわしが、愛をもって行動し、それを進んで他者におよぼすのを望んでおられる。だからこそ、排撃する相手を愛するのは、何にも増して偉大な愛の行為といえるのだ」老神父は首をふって、「いまのわしには、これ以上明白なことはないと思える。しかし、デイミアン。あの当時のわしには、この明白な真理を見てとることができなかった。おかしな無知さ」と、老神父は悲しげな表情で、「多くの夫と妻が、もはや連れ添う相手の顔を見ても、心の踊ることがなくなったがゆえに、愛情が褪めきったものと思いこんでおる」と、またしても首をふって、それからまた、独りうなずいてみせ、「そこだよ、デイミアン・・・・・憑依現象の本質はそこにある。ある人々が考えているように、争闘のなかに起こるのではない。まして、この一家の場合のように、哀れな犠牲者・・・・年端もいかぬ少女を介在にするのは、非常に珍しいことといってよい。わしの見たところ、それがもっともしばしば起こるのは、とるにも足らぬ些細なことからだ。たとえば、これといった意味もない小さな怨恨、仲たがい、友人間の雑談のうちに、うっかりととび出した皮肉な言葉、あるいは愛人間の痴話喧嘩­­­­­̶その例はいくらでもかぞえられる」そこでメリンは声を低めて、「そしてこのようなわれわれの争闘を処理するのに、悪魔(ルビ:サタン)を必要としない。われわれ自身で処理してのけられる・・・・われわれ自身で・・・・」

 リーガンの寝室から、いまだに歌声に似た声が聞こえてくる。メリン老神父はドアを見て、少しのあいだ耳をそばだてていたが、「しかも、このようなもの­­­­­̶このような悪からでさえ­­­­­̶善が生じてくる。何らかの方法でだ。われわれには理解できず、見ることもできない何らかの方法でだ」またもメリンは言葉を切って、考えこんでから、「おそらく、悪こそ、善を生み出するつぼであるからだろうな」と、いった。「そしておそらく、大悪魔(ルビ:サタン)でさえもが­­­­­̶その本質に反して­­­­­̶何らかの意味で、神の意志を顕示するために働いておるともいえるのだ」"(pp.295-297)

 この中でいくつかの重要なことが語られています。それは神学的にも間違ってはいないことです。

 まずは、“「悪霊は­­­­­̶犠牲者の意志を傷つけることができないといいますが」 「そうなんだ。そのとおりだ・・・・そのとおり・・・・それは、そこに罪がないからだ」”とのやり取りです。

 このことについてはゼーノ・フレック著「修徳神秘神学概説」(光明社)にこうあります。

“ 第二章 悪魔から来る異常神秘現象
 悪魔は天主の真似をする猿と呼ばれるほどであるから、霊魂を永遠の不幸に陥れんがために不思議な現象を起こして人間に対する支配力を表そうと恐るべき誘惑を以て人の心をなやますことがある。
 霊魂に対する悪魔のやり方は主として二種に分けられる。一つは責め苦他は悪魔が人の体にのりうつてこれをわがものとして用いる所謂悪魔つきの現象である。ここで注意せねばならぬことは凡ての禍、不幸、苦しみ等が悪魔から来ると思う人があるかと思えば、反対に悪魔によってよつて起される不思議な現象も自然的なものと思つて悪魔の存在を否定する人もあるが、これらの両極端をさけて中庸の態度を以て臨まねばならぬということである。故に、ある現象が自然的にどうしても説明出来ず、且つそれが善霊から来たものと考えられない場合には悪魔の影響と思わねばならない。・・・”(p.601)

“第一節 責め苦
一、本質
 悪魔から来る不思議な現象の第一たる責め苦とは、所謂誘惑よりも遥かに激しく且つ永続するものである。これには五官に働く外部的責め苦と、想像、記憶、情欲に働く内的責め苦とがある。
(A) 外部的責苦
 外的責め苦は五官のいずれにも現れるが、殊に多いのは視覚、聴覚、触覚に現れるものである。・・・”(p.602)

“第二節 悪魔憑
一、本質
 悪魔憑、即ち悪魔が人の体にのり移る状態には二種ある。即ち(一)悪魔が人体にのり移ることと、(二)悪魔が人体をわがものとして思いのままに用いる事である。悪魔は霊魂に対して直接働きかけることは出来ぬため、身体を通じて間接に霊魂に悪影響を及ぼそうとするのである。”(pp.604-605)

 悪魔はobsession(悪魔による外的責め苦)の後、侵入を果たしpossession(憑依)するわけですが、しかし、決してその本人の根幹部分に手を触れることができない。それを赦されてはいないということになるのでしょう。

 また、もう一点、“。「しかしわしはこうみておる。つまり、悪霊の目標は、取憑く犠牲者にあるのではなく、われわれ・・・われわれ観察者が狙いなんだと。いいかえれば、この家にいる者の全部だ。そしてまた、こうも考えられる。やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティを打破することにある。いいかね、デイミアン。やつはわれわれをして、われわれ自身が窮極的に堕落した者、下劣で獣的、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在であると自覚させようとしておる。この現象の核心はそこにある。例えばわれわれの神への信仰には、理性が関与していない。それは愛の問題­­­­­̶神がわれわれを愛したもう可能性の受容の問題で・・・・」”

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 これも、自分の愛する家族から、このような人間が出てしまう恐怖。それは悪魔からなのか、精神的な病から来るのか(ふつうは後者と考えるでしょう)、しかしそれは突然起こってしまう。何件もの病院を回って見ても、有名な病院や医師を頼って見ても好転はせず、だんだんとおかしくなって行く家族。藁にも縋る思いで民間療法や怪しげなものや人について行ったり、もちろんひどくこそなれ良くはならない。その時その人や家族が信仰深くあれば絶望へ導かれ、信仰がない者は怪しげな宗教やまじないにまで陥ったりします。旧約聖書のヨブ記の主人公ヨブのように、本人に終わることのない外的責め苦が肉体より、精神より、家族より、友人より、社会より絶えず訪れ死を願うほどに達したりすることもあるやもしれません。絶望が断続的に続く中で信仰は、波間に流された木の葉のように大きく揺れ、もろくも沈んだりします。新約聖書の福音書でイエスの悪霊を追い出す記述が数多くあります。たいていの場合、家族がイエスの高名を聴き、悪霊に憑かれた家族を伴ってイエスに癒しを願い出るというものや通りかかったイエスの目に留まり、癒してもらうなどといったものです。前者の場合、イエスのうわさを聞いた家族は、それまでもいろいろなところに行って助けを求めていたのかもしれません。運良くイエスに出逢えたというものなのでしょう。イエスに出逢えていなかったら、またもいろいろなうわさなどを聞いては助けてくれるよう救いを求め続ける生活だったかもしれません。終わらぬ苦しみの恐怖と絶望。自分が自分でなくなる、家族が家族でなくなる恐怖と苦しみ。消耗される心と体そして信仰。強まる恐怖と苦しみ、そして絶望と不信。悪魔とは狡猾なもの。

イエスのエクソシズム


 そして、“、「しかも、このようなもの­­­­­̶このような悪からでさえ­­­­­̶善が生じてくる。何らかの方法でだ。われわれには理解できず、見ることもできない何らかの方法でだ」またもメリンは言葉を切って、考えこんでから、「おそらく、悪こそ、善を生み出するつぼであるからだろうな」と、いった。「そしておそらく、大悪魔(ルビ:サタン)でさえもが­­­­­̶その本質に反して­­­­­̶何らかの意味で、神の意志を顕示するために働いておるともいえるのだ」”

 この事例はヨブ記がよく表しています。決して悪魔は神に対峙しえない存在です。神は全知・全能・永遠・不変・無限・始まりも無く終わりも無い・愛・義・聖であられる絶対的存在。悪魔でさえ恐れおののいている存在。彼らの存在すら神がそう思われるだけで無になる程度のもの。彼らはその本性から悪を行おうとも、神はなお善用なされる。それの実例こそイエス・キリストの十字架でしょう。悪魔は勝利に酔いしれた瞬間、それが決定的敗北と知らされる。

 この小説は実によくできていると感心します。

つづく



エクソシズムについて ②


 はっきり申し上げれば、個人としては悪魔なんかは見たくもないし関わりたくもない。また、実際の儀式などもたとえ傍観者の立場でも関わり合いにはなりたくないというのが率直なところと言えます。

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 しかし、それでもこのカトリックにおける公式祓魔式というものについて、わずかながらでも知ることは信仰の面から大変役立つものであると感じられます。神に対する全き信仰と信頼、すべては神の力によってなされるという(実際に悪魔憑きを前に、神に祈りをささげ悪魔に命じるのは司式者などであっても)徹底した人間の力の排除、神への信仰と信頼、悪に対する毅然とした対決、とても信仰的なテーマと感じます。

Athanasius記名入りエクソシスト DVDと日本語訳原作 Athanasius記名入り


 映画作品としては、ウィリアム・ピーター・ブラッディ原作の「THE EXORCIST」とその映画作品であるウィリアム・フリードキン監督の「THE EXORCIST」(邦題「エクソシスト」)、トーマス・B・アレンによるメリーランド悪魔憑依事件を小説にした「Possessed: The True Story of an Exorcism」とその映画作品、スティーブ・E・デ・スーザ監督の「Possessed」(邦題「エクソシスト・トゥルー・ストーリー」)、マット・パグリオの小説「The Rite: The Making of a Modern Exorcist」とその映画作品、ミカエル・ハフストローム監督の「The Rite」(邦題「ザ・ライト[エクソシストの真実]」)の三作品の映画・原作が祓魔式を知るには、手軽なものとしていいと思われます(あくまでもエンターテイメント作品の中では)。

タイトル


 この三作品の中では、1974年の映画「エクソシスト」がよいですね。映画には三人のローマ・カトリック教会のイエズス会(中学の歴史の教科書にも出てくるので名前ぐらいは知っている人も多いと思います)の神父さんがテクニカルアドバイザーとして関わっていますし、内二名は作品にも出ています。一人はダイアー神父役のウィリアム・オマリー神父、もう一人は主人公のカラス神父の上司役のトーマス・バーミンガム神父です。ここら辺はマーク・カーモード著の「バトル・オブ・エクソシスト」(河出書房新社)や島村奈津著「エクソシストとの対話」(講談社)、トレイシー・ウィルキンソン著「バチカン・エクソシスト」(文藝春秋社)などを読まれるとさらに詳しく知ることができます。やはり実際の司祭が関わっていることと、ローマ典礼定式書を用いているのが解り易いです。

エンディングロール


 この三作品以外の「エクソシスト2」「エクソシスト3」「エクソシスト・ビギニング」「エミリー・ローズ」「コンスタンティン」などは参考にはなりません。「エミリー・ローズ」はドイツで起こったアンネリーゼ・ミッシェルの祓魔式中の死亡事案による保護責任者遺棄致死事件裁判を知るにはよいですが、儀式と儀式書における信仰についての面では参考にはならないと感じられます。他のものは単なるオカルト・エンターテイメント作品というだけです。

Rituale Romanum


 ネットのおかげで現在ではローマ典礼定式書(Rituale Romanum)の保護期間切れのものは読めるのは便利です。以下に挙げておきます。

1870年
Rituale romanum Pauli V. pontificis maximi jussu editum et a Benedicto XIV auctum et castigatum cui ad usum missionariorum apostolicorum nova nunc primum accedit benedictionum et instructionum appendix [microform]
 https://archive.org/details/cihm_27050

1903年
Rituale Romanum Pauli V pontificis maximi jussu editum et a Benedicto XIV auctum et castigatum. Cui novissima accedit benedictiorum et instructionum appendix
 https://archive.org/details/ritualeromanum00cath

 1903年のものの方が見やすいですし、「サタンと堕天使のエクソシズム」の部分が載っています。1870年の方にはこれはありません。

つづく

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