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依存と立場をわきまえないこと


 クリスチャントゥデイというキリスト教ネットメディアのニュース記事に、このようなものがありました。

信仰を失ってしまう人々をどのようにすれば食い止められるか?  2016年10月5日20時31分
http://www.christiantoday.co.jp/articles/22175/20161005/how-can-we-stop-people-losing-their-faith.htm

 このニュース記事を読んで、なぜ自分が現在も信じ続けられているのかと考えてみました。

 特に熱心というわけでもなく、信仰深いわけでもなく、教会に行くことも祈ることも少なく、それでもキリストに捕らえられている。それはとても不思議なことでもあります。

 まず、わたしは教会に依存していないということです。自分の教派の聖書の解釈がもっとも納得の行く解釈であり、教会のサクラメント、ローマ典礼の流れにあるリタジー、讃美歌なども肌に合うものの教会というものに依存せず、何ら期待もせず、罪赦された罪人の集まりのゆえに、キリスト教徒でない人の集まりと同じ諸問題が起こるのが当たり前と考えています。

 ルターがローマ書講義において、次のように書いています。

“  Hunc lex vacuum esse iubet, ut totus in Deum feratur.
Ideo lsa. 41 irridens eos dicit: € Bene quoque aut male, si potestis,
facite. Igitur ista vita est vita curationis a peccato, non sine peecato
finita curatione et adepta sanitate. Ecclesia stabulum est et infirmaria
egrotantium et sanandorum. Celum vero est palatium sanorum et ”(Luthers Vorlesung über den Römerbrief, 1515/1516 4:7 p111)
 
“ 全く神のところへと連れて行かれるためには、律法が命じるとおり心空しくあらねばならぬ。だから、イザヤ41(・23)に彼らを嘲笑して曰く、「あなたがたがもしなし得ば、幸いをくだし、あるいは災いをくだせ」と。こうして現生は罪からの癒しの生であって、癒しが完了し、すでに健康が達成されて罪のない生というのはないのである。教会は病人の宿、要看護者の病院である。しかし天国は確かに健康者や義人の宮廷である。”

(「ローマ書講義 上巻 ルター選集 別巻Ⅱ」 新教出版社 p.260)

 「教会は病人の宿、要看護者の病院」であると、そして、それに対比して天国が「健康者や義人の宮廷である」と述べています。しかし、教会に躓く人はこの地上の教会を天国と取り違え、義人の集まり、愛にあふれた人たちの集まるところというイメージを誤って持ってしまうために、現実を見た時にその信仰が揺らいでしまうのでしょう。

 ルターは更に言います。

“ それゆえ、信条の中で、われわれは聖なる教会を信じると、正しくも告白している。教会は目に見えず、霊に宿り、「近づきがたい」所にある〔第一テモテ6章16〕。だから、その聖さを見ることはできない。神は弱さと罪と誤り、十字架のさまざまな形やつまずきをもってこれをかくし、覆うので、感覚に従えば決して聖なる教会には見えない。これを知らない人は、洗礼を受け、みことばをもち、信じている人々の弱さや罪などを見るとたちまちつまずいて、そのような人々は教会にかかわりがないと判断する。そして他方では、教会は隠修士や修道士などのものであると夢想する。ところが、彼らは口だけで神を崇め、空しく礼拝している。神のことばを教えずに、人間の教えや戒めを教えているからである。これらの人々は、理性が崇め、賞賛する迷信的な、世の常でない行いをするので、人々は彼らこそ聖徒であり、教会であると判断してしまう。彼らは「私は聖なる教会を信じる」という信仰の箇条を覆して、「信じる」の代わりに「見る」を置く。このような人間の義と、自ら選んだ聖さとは、まさに、霊的な魔術であって、これにより、人間の目も心もくらまされ、真の聖さの知識から引き離されてしまう。

 しかしわれわれは、イエス・キリストを信じる信仰によってこそ、教会がしみもしわもなく〔エペソ5章27〕、聖いと教える。さらに、肉の欲を制し、霊的な実を実践することによって、生活においても聖いと教える。しかし、すべての悪の思いから開放され、救われ、すべての不信仰な思いや誤りから潔められるということによって聖いというのではまだない。教会は常にその罪を告白し、「負債をゆるしてください」〔マタイ6章12〕と祈るのである。また、罪の赦しを信じる。このように聖徒は罪を犯し、堕ち、誤りさえするが、無知のゆえである。キリストを否定したり、福音を失ったり、洗礼を取り消したりなど、しようとしないからである。それゆえ、彼らには罪の赦しがある。たとえ無知のゆえに、教えにおいて誤ったとしても、赦される。結局は誤りを認め、キリストにおける神の真理と恵みにのみ依るからである。ヒエロニムスやグレゴリウスやベルナルドゥスなどがしたとおりである。それゆえ、キリスト者は肉の行いを避けるよう努めるべきである。しかし、肉の思いは避けることはできない。

 信仰者が自分の肉の汚れを感じるのは、大いに益となる。あたかも行いによって神のまえに義とされるかのごとくに、行いの義についての空しい、不信仰な考えに煽られることがないためである。ところが、修道士たちは、このように煽られて、自分たちの聖い生き方のゆえに、自分たちこそ聖いと考え、自分たちの心では、汚れたものだと認めざるをえないのに、他の人々には自分たちの義と聖を売り込んでいたのである。自分の義に信頼して、自分こそ潔いと夢想することは、まことに危険な疫病である。…”

(ルター著作集第二集第11巻 「ガラテヤ大講解・下」聖文舎 ガラテヤ5章19aの講解 pp.361-362 )

 牧師に依存するのも危険と言えます。確かに牧師のいない教会は衰退して行きやすく、人の定着も難しいのが現実です。しかし、牧師に依存しすぎれば、牧師が他の教会に招聘され、それを牧師が受諾して転出すれば、人に依存した人たちは離れて行きます。その時離れなくても別な牧師を招聘し来てもらったら、自分が依存していた牧師と比べてしまい嫌な面だけが目につき、やがて教会に行くのが嫌になるか、新しい牧師と軋轢を生じて問題行動に走ったりするかもしれません。牧師は単なる人間です。教会のサクラメントの管理と牧会を任されていてはしても、一人の信仰者にしかすぎません。

"3 人間の行ないは、常にりっぱで、よく見えるが、しかしそれが死に至る罪であることは確かである。

4 神の働きは、悪いもののように見えるが、しかし真実は不滅の功績である。"

(ハイデルベルクにおける討論(1518年) 「ルター著作選集」 教文館 p.28)

 単なる人間と人間の集まりにすぎない教会、そして、これまた単なる人間である牧師。神の代理人でもなければ、特殊な人たちでもない。普通の人間。

 もう一つは神に対しての過度な期待。神を人間のしもべ、祈りを聞き届ける存在かのように実質としてしまうこと、これはまたもう一つの躓きでもあります。

 病気や健康、仕事、自然災害、犯罪、経済、平和や安全、社会など人間関係あらゆる困難や問題について熱心に祈っても、それらが聞き届けられない。状況はかえって悪化する。反対に祈りが聞き届けられたと明るい顔であかしする人たちをも見る。自分だけがなぜと思ってしまったりする。

 聖書の中の約束はどうであれ、祈りは神に聞かれても願いをかなえてはくれないと割り切ってしまえば躓くこともない。そもそも万物の造り主はその手によってつくられた人間のしもべではない。

 これはアメリカのキリスト教の悪い影響が要因の一つのように思えます。神を父としますが、父親とは絶対的な支配者であり対等になることはないという感覚、また友人のように接することがあり得ない存在という感覚を喪失してしまっているのが影響しているのかもしれません。これは現代キリスト教の病変でもあるでしょう。神は畏れ、愛し、信頼するべきお方で、なれなれしくすべきお方ではないという事です。

 そのようなことがこの記事を読んで、パッと思い浮かびました。

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当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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