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バルナバの福音書と策略の書


 さて、「バルナバの福音書」についてちょっと見て行きたいと思います。

 わたしがこの福音書を最初に知ったのは2003年のことです。キリスト教書店で「ムスリムのための30日の祈り」(https://www.pray30days.org/)という無料配布の小冊子が置いてあって、何気にいただいて読んで知ったという事です。以下にその個所を引用します。

ムスリムのための30日の祈り 2003年版 Athanasius記名


 その冊子の "ムスリムの観点:イエス様" のページで、"ムスリムはイエスは奇跡を行ったと言われる預言者だと考えていますが、彼らの多くはイエスの生涯と働きについての知識はほとんどありません。イエスは聖い人間として、ムスリムに高く尊敬されていますが、神性があるとは見ていません。近頃、多くのムスリムはムスリムであるイエスについての記録文書としていわゆるバルナバの福音書を強調しています。この記録は、イエスを過激なイスラム教徒として描いています。多くの者がこのバルナバの福音書がスペインに住んでいたムスリムによって1600年頃書かれたのではないかと信じていますが、パウロと同時代の弟子で書かれたのではないことは確かです。
 ムスリムはイエスは十字架上で死んでいないと主張しており、そのような死は素晴らしい良い預言者にふさわしくないと考えています。彼らはイエスが死なずに天国に上げられたと断言しています。彼らはイエスの代わりにイスカリオテのユダが苦しみを受けたと考えており、また神がユダの顔をイエスのように見えるように変えた、と想像しています。ユダはイエスが逃げている間、ただ罰を受けた裏切り者だと見られています。"

 とても短い記述ですが、当時、イスラームにおいてはそのような偽福音書が作られていたことに驚きました。以前、Yahoo!ブログの方で取り上げた時、この福音書については、日本語では2008年に書かれた個人ブログが一つあっただけでした。Wikipediaも英語版には記事があったものの日本語版には記事もなく、英語訳のThe Gospel of Barnabasはとても章数が多く機械翻訳利用してまで読もうとは思わなかったですね。

バルナバ福音書 Athanasius記名


 今はWikipediaも日本語でバルナバによる福音書として、写本などの情報が出ていますね。

 さて、先の小冊子にもあったイスカリオテのユダがイエスに代わって十字架にかけられる物語は、バルナバの福音書の214章から217章に出てきますが、同じような話は16世紀のバルナバの福音書よりもうちょっと古い、13世紀から14世紀初頭のものと思われる「رقايق الحلل فى دقايق الحيل 」(ラカーイク・アル・ヒラル・フィー・ダカーイク・アル=ヒヤル「繊細なる策略につつまれた薄布の外套」)というアラビヤ語の古文書に似た話が出てきます。

 この古文書の写本Arabe 3548 はフランス国立図書館に収蔵されています。以下にその図書館の当該写本のリンクを貼っておきます。

写本情報
http://archivesetmanuscrits.bnf.fr/ark:/12148/cc314442
写本はこちらで読めます
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b11003019c

 この文書はアラビア語のものは出版されることはありませんでしたが、ルネ・R・カーワンによってフランス語に翻訳されています。そのフランス語訳から日本語訳されたものが読売新聞社から「アラブ人の知恵の泉 策略の書」として出版されています。

 話を戻しまして、イスカリオテのユダがイエスに代わって十字架にかけられ、イエスは天に上げられる話の個所を引用してみましょう。

策略の書 Athanasius記名


"イエスの救出

神の叡智はイエス­­­を­­̶その上に恵みあらんことを­­­­­̶死より救うにおいても示された。至高の神は『聖典(ルビ:コーラン)』において、つぎのようにいわれた。イスラエルの子らにして《イエスがその不信を感知した》(コーラン、三章四五節)者たちは不信のゆえに策を弄し、その邪まであることを示した、と。この者らはイエス­­­­を­̶その上に恵みあらんことを­­­­­̶殺さんとして謀りごとをめぐらした。策略は目的に達さんがための最も精緻な方法である。《神は策を弄された。神は、目的に達さんがために策を用いる者の最もすぐれたる者である》(コーラン、三章四七節)。アル=ファッラーのいうところでは、「人のなす策のうちには、目的に達さんがための、いくつもの些細な行いによる選択がある」。至高の神は『聖典(ルビ:コーラン)』においていわれた。《わたしはその者らの気づかぬ方から暫時その者らを押しうごかすのである》。イブン=アッバースは右に引いたくだりについて、はっきりとこういっている。「いわんとするところは、これらの人間によって新しい行為がなされるたびに神もまた反対の行為によって答えられるということである」アル=ザジャージのいうところでは、「神の策略は、その者ら自身の策略への返報である。その者らの策略をうち消し無力にするための策略をだされるのである。とりわけ、聖典の先の節のばあいには、神が用いられた策というのは、策にかけられた者に、その者の殺さんと欲する者すなわちイエス­­­­­̶その上に恵みあらんことを­­­­­̶とそっくりの姿を与えることであった。裏切り者はかくして、十字架の責め苦を負うて殺され、イエスは天の方へと引き上げられたのである」
 事実はこうである。イエス­­­­は­̶その上に恵みあらんことを­­­­­̶その者らがイエスに対して策を用いんとしていたその夜、使徒らを集め、それぞれがこの地上のそれぞれの地方へいって、その地に信徒をすべて集めるようにと勧めた。それから、いった。
 「日の昇るより早く、おまえたちの一人がわたしを裏切り、銀貨数枚のためにわたしを売るであろう」
 使徒たちは集まってその場からいでて、散っていった。ユダヤ人たちはイエス­­­­を­̶その上に恵みあらんことを­­­­­̶見張るためにスパイどもを送りこんであった。使徒たちの一人がスパイどものもとにきて、いった。
 「もしわたしが救い主はどこにいるかをおまえたちに教え示したなら、何をわたしにくれるのか?」
 彼らは銀貨三十枚を約束した。男はそれをとって、いった。
 「ついて来い」
 一回はその男についてイエス­­­­の­̶その上に恵みあらんことを­­­­­̶ある家にいたった。そこに着くと、その者らはその使徒に向かっていった。
 「はいってイエスを呼び、われらにわたせ」
 男ははいった。それを見てイエスは尋ねた。
 「何を欲するのか?」
 男は答えた。
 「汝を」
 神はイエスをわが方へと引きあげ、イエスの似姿をイエスをつれに来た者にくだしおかれた。使徒はユダヤ人のもとにいって、イエス­­­­は­̶その上に恵みあらんことを­­­­­̶天の方へと引きあげられたことを知らせようとした。彼らは男の上にイエスの姿を見て、猶予をおかずその身柄をとらえた。男は一同に述べた。
 「わたしはイエスではない。イエスは天の方にひきあげられたのだ」
 「おまえだ、イエスよ」その者たちはいった。「おまえはわれわれから逃れようとしているのだ」
 「わたしはおまえたちにイエスの居場所を示した者だ」
 彼らはその言葉に耳を貸さず、イエスと信じて十字架にかけた。かくして神の策は、かの者らの策よりも強かったのである。"

(「アラブ人の知恵の泉 策略の書」 ルネ・R・カーワン編 小林茂訳 読売新聞社 pp.76-78)

 これはバルナバの福音書の記述と類似していて、さらにそれよりも古いものということですから、これがグラナダ陥落以前にヨーロッパに伝えられイベリア半島のムスリムの間で、イエスについてこのような理解があったのでしょう。




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寄る辺なき身となれども

 人は一人であっても孤独であっても、現代の社会の中、生活し生きて行くことはできます。しかし、社会にあって無縁であり、寄る辺なき境遇に絶えることはできないのではないでしょうか。

ルーテル・アワー通信講座 初級 1課 Athanasius記名


 ルーテル・アワー通信講座テキストの「第一課 あなたを求めるキリストの愛」には、次の話が語られていました。

"   ひとりぼっちのおばあさん
 
 さて、いまあいさつのなかで、この講座をあなたの心の友にしてください、と申しました。いま、あなたは、いろいろな友人をもっておられることと思います。たとえば、学友、職場の同僚、スポーツを通しての友人など、たくさんおられることと思います。しかし、あなたも、この世の中には、友人どころか、肉親も親族もいない人がたくさんいるということを、ごぞんじでしょう。この講座を、まずそのようなあるひとりの老婦人の話から始めていきたいと思います。このひとは、友人も肉親も親族もなかったのです。これはイギリスのロンドンであった話しですが、ある日、この老婦人は、自殺をしてしまったのです。死後、彼女が書いた日記が発見されました。そして、その日記の内容がイギリスの新聞に発表され、多くの人の深い同情をよんだのです。なぜなら、この日記には、ほとんど毎日こういうことが書いてあったからです。

  「○月○日 きょうも、だれひとり、たずねてきてくれなかった。
          きょうも、だれひとり、話しかけてくれなかった」

 このおばあさんは、ひとりぼっちの生活に耐えられなくなって死を選んでしまったのです。ちょっと、このおばあさんの生活を想像してみてください。このおばあさんは、べつに、金銭的に困っていたのではありません。生活を十分ささえていけるだけの保障は、国からもされていたのです。しかし、どうでしょうか。もしあなたが、朝、目がさめたとき、自分のまわりにだれひとりいないような生活が毎日続いたとしたら、あなたは耐えられるでしょうか。食卓に向かったときも、自分のそばにだれもいないような生活を想像してみてください。はたして、食事がおいしくとれるでしょうか。一日じゅう自分に話しかけてくれる人がひとりもいないようなわびしい生活に、どうしてがまんできるでしょうか。だれひとり訪問してくれる人もいないような、うつろな生活を、どうして続けていくことができるでしょうか。これは、まったくの孤独地獄です。…"

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 今日、このテキストにあるような事案がめずらしくはない社会となりました。マスコミなどでは"孤独死"が報じられ、"無縁社会"などという言葉もよく聞かれるようになりました。

 昔は独居老人の孤独死だったものは、年齢が下がり、壮年層や若年層にも見られるようになりました。また、さまざまの理由では在りますが2012年の警察庁の発表の自殺者の確定数としては、前年比9.1%減の2万7858人でありました。その内自殺の原因が「孤独感」とされている人の数は594人もありました。この数字を少ないと捉えるか、多いと捉えるかは人によって違うのかもしれません。

 大乗仏教の中のお念仏で知られている浄土門の経典「無量寿経」の三毒段に、有名な『人、世間の愛欲の中に在りて、独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る。まさに行きて苦楽の地に至趣すべし。身みずからこれを当(う)け、代わる者あることなし。』との一節があります。この言葉を受け時宗の開祖一遍上人は、「百利口語」で『六道輪廻の間には ともなう人もなかりけり 独むまれて独死す 生死の道こそかなしけれ … 』と言っておられます。

 無縁な者は社会に属していながら何も起こらない、変化しない日常の繰り返し、いるのにいないのと変わらないということでしょう。出家者のようにそれらの執着を払い、仏陀が教えるように『犀の角のようにただ独り歩め』(スッタニパータ)のような生き方を選んだのなら、苦しみから逃れることができるかも知れませんが、そうではなく愛着を持ち執着しているのに無縁にならざるを得ない凡夫には、それは耐えがたい苦しみであり、不安の中に日々生きなければならないことでしょう。

 聖書の中に、そのような人のことが出てきます。新約聖書ヨハネによる福音書5章1節から9節までを見てみましょう。

"5:1こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。
5:2エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。
5:3その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。
5:4それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕
5:5さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
5:6イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
5:7この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
5:8イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
5:9すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。"

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 ここエルサレムの廓(くるわ)の外(ヘロデ・アグリッパがクラウディウス帝の治世中に城壁を増設する前であったので、この時はまだ廓の外にありました)、羊の門から出た傍らににありました。そこには「五つの柱廊があった。」(岩隈直訳)と聖書は伝えており、考古学上の発見などから二重のプールであったとされています。ここに"三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった"のです。彼はある意味、知られていたのかもしれません。それだけ長い間ここに居たのですから。

 彼はいつ、何歳の時にここにやって来たのでしょうか。それはわかりません。長い間病気で苦しみ、風の便りにこの場所のうわさを聞きやってきたのかもしれません。

無題


 また、この池の南東側には、医神アスクレピオスの癒しの小神殿 ( アスクレピオン ) があり、ベトザタの池はそれに付随する沐浴場または癒しの浴場のようなものであったとも言われています。この池のすぐそばには当時ユダヤ人を統制するために使われていたアントニア要塞があります(使徒21:30以下)。ローマ兵が自分たちの傷を癒す神を必要としていたことでしょう。そして、当時はエルサレムの市外にあることなどから、ユダヤ人との摩擦も少なかったのかもしれません。

  このようなことから、当時、ユダヤ人から罪人としてユダヤの祭儀から締め出されていた病や障害を持っていた下層民である多くの病人が、このベトサダの池に集まり癒されることを待っていたとしても不思議ではありません。

 では、なぜイエスはそこに行かれたのか。どこかの行き帰りによるような場所でもなく、異教の神の癒しの場としても使われていたその場所へなぜ行かれたのか。もし、そこにいる病人をあわれに思われて行かれたというのなら、なぜ多くいる病人を癒したのではなく、その中のただ一人にのみ声をかけられて癒されたのか。そして、癒された男を見ているはずの大勢の病人はなぜ沈黙しているのか。このことについてヨハネ福音書の筆者は何も答えてはくれません。

 そして、物語はイエスが癒しを行ったのは安息日であったと伝えています。そして、ここでは他のイエスをめぐる安息日の論争とは違い、癒しの業を行ったことがユダヤ人たちにとがめられているのではなく、安息日に『床を担いで歩きなさい』と命じたことがとがめられています。
 
 この物語はそのような謎を提供してくれます。また、二つの事についてイエスの挑発的行為、または勝利とも見えます。一つは地中海世界で広く信じられていた異教の医神アスクレピオスに対する勝利とユダヤ人たちのかたくなさに対する非難といった面も見えてくるのかもしれません。

 また、この病人が孤独であったこと、ユダヤの宗教祭祀からも締め出された無縁な人、助けてくれる人もない寄る辺なき人であることが浮き彫りとなっています。異教の医療の神の小神殿に付随する沐浴場に起こる奇跡、そこの水面を天使が揺らすとき真っ先に入ることができれば癒されるという噂を頼りに、じっと不住な体を横たえ、ただひたすら水面を見ている姿。最早体の自由も聞かず、水に真っ先に入るのは無理だとわかっていても、そこを離れられない、希望も枯れていながらなお縋るしかない生。その横目で真っ先に入る人を見、もしかしたら病気が偶然にも治った人があったかもしれず、それを見ているしかない自分。そこで癒しを求めるのをやめていなくなった人たち。また、世間の人から邪険にされたりローマ兵から追い立てられたりもしたかもしれません。

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 その時、彼のもとに思いもかけない言葉が、思いもかけない方からかけられます。彼が癒されることを信じていた方向ではない、人の出入りする方向から、救いの言葉はかけられたのです。「健康になりたいか」という率直な言葉でした。イエスは彼に対して彼が、今、本当に望んでいることを問われました。決してそこで教えをたれたり、場当たり的なことを言われたのではありませんでした。イエスは彼のこころの声を、ただ黙って聞かれました。そこには余分な言葉はありませんでした。彼に寄り添い、彼のこころの叫びに、耳を傾けられるイエスがおられました。

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 イエスは静かに一言、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」とだけおっしゃいました。そして、この男はなにも言わずに信じてゆだねたのです。ここに信仰の応答がありました。彼のこころは肉体が立ち上がる前に、すでに起こされていたのです。ここにわたしたちは多くのことが学べます。

"神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には開放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべて悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を表す主の植木と呼ばれよう。"
  イザヤ書61章1~3節 新改訳聖書第3版

  ダビデの次の叫びの言葉を思い出します。ダビデは神に向かい「御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です」(詩編25:16、新共同訳)。この叫びは、神を信じる信仰者にも、困難や苦難、困窮の中、または、さまざまの理由から家族を喪失したり、社会から無縁者となってしまった時、また、人の中にありながらも孤独に陥った時など、魂の奥底からの叫び声なのでしょう。

二羽の雀

  "主なるイエスは「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。しかしその中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。」"(マタイ10:29、岩波訳)と言われ、人はどんなに孤独に見えて、造り主なる父なる神は、いつも共にいると語られました。また、イエスを信じる者には、イエスご自身が "「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」"(マタイ28:20)と約束しておられます。人はどんなに孤独に見えても、いつも神が共にいてくれるということが知らされています。


プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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