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はじまりの物語

 これはいつも不思議に思うことですが、なぜこの宗教を信じているのだろうかといつも疑問に思います。

 しかし、これはもう理屈ではないんですね。捕らえられた。魅了されたとしか表現のしようのないものです。

 すなわちわたし発信の信仰ではなく、わたしの心を鷲掴みにされ、一生懸命抗ってもどうにもならない状態である感じです。

 まぁ、最初にキリスト教というものに出会ったのは、中学一年生のころ、学校帰りに校舎の玄関出た歩道上で、ひとりの人が何か差し出してきたので無意識に取ってしまったことにはじまります。

ファーストコンタクト 2コマ 縮小 ブログURL入り


 それは緑色の薄い小冊子で、「天からの声」と書いてあり緑地に地球が描かれていました。受け取った瞬間、電柱の陰からひょいと大きな外国人が現れ、何やら巻物を出し、それを開くと何やら絵が描いてあり(キリストの磔刑図)、それを見せながら何やら片言のほぼ聞き取れない日本語で何やら言っていて、こちらも恥ずかしいので、左に体をひょいとずらして逃げようとすると、相手も体を逃げる方に持って行き逃げ道を塞ぎ、結局最後まで聞かされる羽目になりました。

天からの声 Athanasius記名


 そして、解放され帰路につき、道すがらその小冊子を読んでみました。この小冊子は聖書の簡単な要約で、何も解説も解釈も加えられてはおらず、僅か48ページに天地創造と失楽園、救い主の到来の預言、そしてイエスの物語と最後の審判がギュッと簡潔にまとめられていました。

 この帰りの道すがら読んだこの小冊子に書かれたイエスという存在に、ギュッと心を鷲掴みにされてしまいました。それはもう理屈ではない単純に心を持って行かれたのでした。

 なにも小難しいことなんて書かれておらず、福音書の中からいくつかのお話が抜き出されているにすぎない単純素朴なメッセージでした。だからと言ってすぐに教会に行って洗礼を受けた訳ではなく、離れては引き戻されを何度も何度も繰り返し、何十年か後にやっと洗礼にたどり着くのでしたが。

キリスト教看板文言いろいろ


 さて、この冊子を出している団体は、聖書配布協力会という団体で、何回か批判的にYahoo!ブログでも取り上げた団体です。一般の人には黒に白抜きの文字で、脅すようなメッセージが描かれている通称キリスト教看板と呼ばれるものを設置している団体です。
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/3914492.html

エドワーズ説教集 マイブログURL入り


 この看板や看板の文言、また、アメリカの福音派(聖霊は含め)で伝道でよく使われるChick tractと呼ばれる漫画小冊子の翻訳物や似せたものなど、アメリカのピューリタンやウェスレアン・アルミニウス主義、会衆派、バプテストなんかの地獄や裁きを過度に強調する説教のスタイルやメッセージについては、わたしはこれについては否定的ですが(https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11572512.html)、この最初にもらった小冊子「天からの声」のように、聖書の要約の冊子については、わたし自身が捕らえられたように、わたし個人としては評価されるものであると思います。

チックストラクト


 それからこの小冊子の最終ページには、「聖書の要約をプレゼントします」とあり、当時は「道・真理・命」というタイトルの文庫本サイズの本を無料でもらうことができました(確か送料は自己負担だったと思います)。この本は第三刷りまでは271ページで、第四刷りからは付録ページがついて315ページとボリュームアップしました。内容は、旧約聖書の要約が47ページ、後は福音書の要約が134ページ、残りが終末に関することと書簡からの抜粋となります。挿絵にスイスのAnnie Vallotton女史の線画(TEVなどでも使われていました)が用いられ、とても分かりやすく読みやすいものでした。現在はこの本ではなく「コンサイスバイブル」という要約本がプレゼントされているようです。コンサイスバイブルも初期のものは、「道・真理・命」と同じAnnie Vallotton女史の線画がそのまま使われていましたが、現在PDFファイルで公開されているものを見ますと、挿絵が変わっていました。以前の挿絵に似せて書き直したのか、それともAnnie Vallotton女史が新たに書いたものを採用したのかそれは解りません。

天からの声 「道・真理・命」

天からの声 「コンサイスバイブル」(初版表装)


道真理命 Athanasius記名


 しかし、文庫サイズの新約聖書を貰うよりも、こういった旧約を含めた要約の方が、なぜ救い主が必要なのかがわかると思いました。神学的なことは何ひとつなくても、難しい用語は何ひとつなくとも、単純な福音のメッセージには捕らえる力があるのだと、自分の最初を思い出してみますと改めて実感できました。

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「脈打つ」? 「向かう」?


 さて、ある兄弟から教会ホームページ等でルターの薔薇の紋章の説明として、

"ルターの紋章
この紋章には「薔薇の上に置かれたキリスト教徒の心臓は、十字
架の真下にあるとき脈打つ」という題字が記されています。"

との文言について質問されたことがありました。

 この文言は、日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団、近畿福音ルーテル教会などのホームページでも引用されていました。また、牧師個人のホームページまで含めますと、日本基督教団など他教派などにも散見されます。

 この文言は、青木茂氏が著書「ヘーゲルのキリスト論」(南窓社)のなかで引用されていました。

ヘーゲルのキリスト論 Athanasius


"ルター家の紋章は、白薔薇に囲まれた心臓の真ん中に黒い十字架が描かれている。その紋章の意味は、「薔薇の上に置かれたキリスト教徒の心臓は、十字架の真下にあるとき脈打つ」という題字から明らかであるという。(13)"(p.26)

 この中で注の13を参照するように促されています。そこを見ますとこの文がK.レーヴィット著「ヘーゲルからニーチェへ Ⅰ」(柴田治三郎訳 岩波現代叢書 1952年)からの引用であることが示されています。

ヘーゲルからニーチェへ Athanasius


 確かにK.レーヴィット著「ヘーゲルからニーチェへ Ⅰ」を見ますと、

"薔薇と十字架の本来のルテル的な意味によって測ると、ヘーゲルとゲーテにおけるキリスト教に對する立場の相違は取るに足らないものになる。白薔薇に囲まれたハートの眞中に黒い十字架を描いたルテルの紋章の意味は「薔薇の上におかれたキリスト教徒の心臓は十字架の眞下にあるとき脈博つ」という題銘から明らかになる。"(p.24) とあります。

ルターの紋章


 しかしながら、ルターの薔薇の紋章に付された文章は、Des Christen Herz auf Rosen geht, wenn es mitten unterm Kreuze steht.というもので、Google翻訳やエキサイト翻訳、infoseek楽天マルチ翻訳などを使用して翻訳してみましても、「脈打つ」という語は見出されません。

 gehtはgehenの現在第3人称単数形で、動詞gehenは1.歩あるく、歩行する 、2.行いく、通とおる 、3.(...の状態に)なるという意味であるそうです。

 ルーテル学院大学の江口 再起 教授(http://www.luther.ac.jp/education/teacher/details/eguchi.html)は、論文 「薔薇と十字架 : ルターとヘーゲルを結ぶもの」(ROSE UNT KREUZ : EINE VERGLEICHENDE UNTERSUCHUNG VON LUTHER UNT HEGEL)の中で(http://ci.nii.ac.jp/naid/110006483358)ドイツ語の銘文と共に訳出し、更に説明しています。

"この「薔薇と十字架」の紋章は、しかし、より正確に言うと、「薔薇と心臓と十字架」の組み合わせである。つまり、薔薇の真ん中にハート形の心臓(つまり心)があり、その心臓の真ん中に更に十字架あるのである。そして紋章の周りには次のような銘文が刻んである。「キリスト者の心は、十字架の真下にあるとき、薔薇の花にむかう(Des Christen Herz auf Rosen geht, wenn es mitten unterm Kreuze steht)」。ここから、この紋章によってルターが何を示そうとしたのかがわかる。すなわち、キリスト者の心(信仰)が十字架にむけられるときそこに薔薇の花が咲く、つまり和解が成り立ち救われるというのである。"

 これはルターがこの紋章について1530年7月8日付のラザルス・シュペングラー宛の手紙での説明

"私の紋章が正しい意味を表わしているかどうか知りたいということですので、よい交わりのためにも、私の紋章について思っていることをお知らせしましょう。これは、私の神学の目印です。第一は十字架です。それは、自然の色をした心臓の中に黒く描かれています。これによって私たちは自ら、十字架につけられた方を信じる信仰が私たちを救うことを思い起こしたいのです。なぜなら、人が心から信じるならば、義とされるからです。これが黒い十字架であるというのは、死のしるしであり、痛みを与えるからです。しかし、心臓が自然の色をしているのは、本性がだめなのではありません。十字架は殺すためではなく、生かすためにあります。義人は信仰によって、それも十字架につけられた方を信じる信仰によって生きるのです。この心臓は白いバラの真ん中にあります。信仰は喜びと慰めと平和を与えることを示しています。それはこの世が与える平和や喜びとはちがいます。だから、バラは赤くなく、白なのです。白は霊と天使の色だからです。このバラは空色の地の中にあります。霊と信仰における喜びは、やがて到来する天の喜びの始まりです。今すでにその喜びの中に招かれており、希望によって与えられているが、まだ完全には明かにされていません。その地のまわりには金色の輪があります。それは、救いが天では永遠に続くことを示しています。金は最高の、高価な金属だからです"
(http://www.jelc-ikebukuro.org/pastor15/pastor150830.html、http://luther500.wixsite.com/jelc より引用)

を、解り易く端的に説明しています。しかし、「脈打つ」ではルターの手紙とはつながりません。

 年代的に柴田治三郎氏の訳文が、日本では定着してしまい、原語のドイツ語文の訳として検証されることなく使われ続けてきたのでしょう。丁度もう引退された牧師さんたちが神学生のころに出版されていますから、その影響はあったのかもしれません。まあ、Karl Löwithの原著VON HEGEL ZU NIETZSCHEの中の銘文が「脈打つ」である可能性もありますが。

 英語のサイトなどを検索してみますと、この銘文の英訳としてWhen they stand under the Cross Christian Hearts turn to Roses というものを見つけることができました。これもドイツ語文を損なってはいません。

 一度定着してしまうと、それが誤訳や極端な意訳であっても、なかなか修正されずに使われ続けることは、残念なことに聖書翻訳などでもよく見られます。これもその一つなのかもしれません。

日本語の「脈打つ」は、国語辞典を見ますと
"② 内部にあって生き生きと流れる。"
"2 内部で力強く活動を続ける。"
という意味もあるとのこと。しかし、ドイツ語のgehenにはそんな意味があるのでしょうか? やはり意訳しすぎ、置き換えのし過ぎと見えます。


***追記2020年06月17日***

明治四十年に出版された「ルーテル言行録」(松本赳 著 内外出版協會 p.179)には、

" ルーテルの衣服の袖に付けたる紋章は円形にして、中方に白き薔薇を描けり。而してその薔薇の上には心情(ルビ:ハート)の中に黒き十字架を現わせるものなりき、紋章の全部は、『Inpatientiâ sauvites』(快き忍耐もて)といふ文字の金色の環にて囲はれぬ。その裏には次の句あり。
 『基督者の心情は薔薇の上に横はる、
  十字架に愁へ悲しむ時にこそ。』"

とあり、また違った訳文でした。


***関連記事***


ルターの薔薇の紋章について

ルターの薔薇の紋章種類


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athanasius

Author:athanasius
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