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洗礼 (寄り道)


 洗礼に始まる救いのプロセスは、なんというか「銀河鉄道999」という漫画作品に似ている感じがします。

「西暦2221年、地球の宇宙交通機関は、飛躍的な発達を遂げていた。宇宙鉄道網は銀河の果てまで広がり、宇宙列車が毎日のように、地球と惑星の間を往復していた。
 そのころ、地上には超近代的な都市メガロポリスが出現し、温度調整された中で人々は暑さ寒さを知らない快適な暮らしをしていた。しかも彼らは機械の部品さえ交換すれば、千年はおろか二千年も生き続けることができる体を持っていた。しかし、そのメガロポリスに住めるのは機械の体を買えた金持ちだけで、機械の体を買えない貧しい人々は、メガロポリスから追い立てられ悲惨な暮らしを送っていた。
 そんなある日、貧しい人々の間に、こんなうわさが流れだした。すなわち、この宇宙にただで機械人間になれる星がある。その星に行くには銀河超特急999に乗ればいいと。
 かくして大勢の貧しい人は、銀河超特急の出発駅のあるメガロポリスの近くへと集まってきた。」
(アニメ版「銀河鉄道999」 第一話 ナレーション)

999 1

 長命な機械の体を永遠のいのちに置き換え、それを買える金持ちというのが、ユダヤ教の律法を厳格に行う「義人」と見ますと、癒しや救いを求めて神殿のある聖なる都エルサレムの周りに集まってくる貧しい人や罪人、また、うわさを聞いてやってくるあたりからはイエスのうわさを聞きつけてやってきた大群衆との図式に見えてしまいます。

ガリラヤ


 このナレーションの後に、雪の中をメガロポリスに向かう貧しい星野加奈江・鉄郎母子の場面になります。機械伯爵に母を殺され、雪の中で行き倒れになった鉄郎は、メーテルと名のる謎の女性に救われます。そして、メガロポリスに行って一生懸命働いてパスを買うという鉄郎に、この謎の女性は、鉄郎にパスをあげてもよいと言います。ただし条件が一つあると言い、それは「あたしも一緒に連れて行って欲しいの」というものでした。鉄郎は「なんだ、そんなことか。お安い御用さ」と受諾するのでした。

999 2

 洗礼の恵み、救いの恵みというのは、自分の努力やわざによって得られるものではないこと。それらによって何ら影響されないこと。一方的な恵みであること。ただ一つの条件、「信じる」ことだけが求められていること。そして、鉄道になぞらえれば、終点までは永遠のいのちが得られないこと。また、条件を満たさなくなれば途中で降ろされてしまうこと。

銀河鉄道999 車掌


途中下車させられても再び条件(信仰)を取り戻せば再び乗り込むことができること。パスを持っていても改札を通って乗り込まなければパスを持っているだけでは意味がないこと。自発的に途中下車できること、など、この作品の世界観や鉄道というものに似ていると感じます。

神の国行きパス ブログURL

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洗礼 ③

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洗礼 ②

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洗礼 ①

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独りに見えて

Yahoo!ブログに2013/4/30(火) 午前 9:03にアップした記事

 昭和36年発行のルーテル・アワー通信講座テキストの 第一課 あなたを求めるキリストの愛 には、次の話が語られていました。
 
"   ひとりぼっちのおばあさん
 
 さて、いまあいさつのなかで、この講座をあなたの心の友にしてください、と申しました。いま、あなたは、いろいろな友人をもっておられることと思います。たとえば、学友、職場の同僚、スポーツを通しての友人など、たくさんおられることと思います。しかし、あなたも、この世の中には、友人どころか、肉親も親族もいない人がたくさんいるということを、ごぞんじでしょう。この講座を、まずそのようなあるひとりの老婦人の話から始めていきたいと思います。このひとは、友人も肉親も親族もなかったのです。これはイギリスのロンドンであった話しですが、ある日、この老婦人は、自殺をしてしまったのです。死後、彼女が書いた日記が発見されました。そして、その日記の内容がイギリスの新聞に発表され、多くの人の深い同情をよんだのです。なぜなら、この日記には、ほとんど毎日こういうことが書いてあったからです。
  「○月○日 きょうも、だれひとり、たずねてきてくれなかった。
          きょうも、だれひとり、話しかけてくれなかった」
 このおばあさんは、ひとりぼっちの生活に耐えられなくなって死を選んでしまったのです。ちょっと、このおばあさんの生活を想像してみてください。このおばあさんは、べつに、金銭的に困っていたのではありません。生活を十分ささえていけるだけの保障は、国からもされていたのです。しかし、どうでしょうか。もしあなたが、朝、目がさめたとき、自分のまわりにだれひとりいないような生活が毎日続いたとしたら、あなたは耐えられるでしょうか。食卓に向かったときも、自分のそばにだれもいないような生活を想像してみてください。はたして、食事がおいしくとれるでしょうか。一日じゅう自分に話しかけてくれる人がひとりもいないようなわびしい生活に、どうしてがまんできるでしょうか。だれひとり訪問してくれる人もいないような、うつろな生活を、どうして続けていくことができるでしょうか。これは、まったくの孤独地獄です。… "

孤独な老人


今日、このテキストにあるような事案が、最早めずらしいものではない社会となりました。マスコミなどでは“孤独死”が報じられ、“無縁社会”などという言葉も聞かれるようになりました。昔は独居老人の孤独死だったものは、年齢が下がり、壮年層や若年層にも見られるようになりました。また、さまざまの理由では在りますが昨年の警察庁の発表の自殺者の確定数としては、前年比9.1%減の2万7858人でありました。その内自殺の原因が「孤独感」とされている人の数は594人もありました。この数字を少ないと捉えるか、多いと捉えるかは人によって違うのかもしれません。

詩編25:16


 ダビデの次の叫びの言葉を思い出します。ダビデは神に向かい「御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です」(詩編25:16、新共同訳)。この叫びは、神を信じる信仰者にも、困難や苦難、困窮の中、または、さまざまの理由から家族を喪失したり、社会から無縁者となってしまった時、また、人の中にありながらも孤独に陥った時など、魂の奥底からの叫び声なのでしょう。

マタイ10:29、岩波訳


 主なるイエスは「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。しかしその中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。」(マタイ10:29、岩波訳)と言われ、人はどんなに孤独に見えて、造り主なる父なる神は、いつも共にいると語られました。また、イエスを信じる者には、イエスご自身が「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と約束しておられます。人はどんなに孤独に見えても、いつも神が共にいてくれるということが知らされています。

わたしはぶどうの木


マタイ10:29 Greek Interlinear


Gottesdienst

Yahoo!ブログに2013/5/6(月) 午前 11:08にアップした記事

 ルーテル・アワー通信講座の「佐藤邦宏著 キリスト教入門講座」(全5課)の5課目のテキストは、「第9章・礼典、第10章・永遠の生命」について取り扱われていますが、その中から「礼拝」の部分についてみてみましょう。
 
“ キリスト教会では、ふつう、毎週日曜日の午前中に「礼拝」が行なわれます。そして、その中で、「礼典」と言われる「洗礼式」や「聖餐式」が行なわれることがあります。まず、この「礼拝」について述べましょう。
 「礼拝」は、教会によってプログラムが少しずつ違っています。ある教会では、伝統的な形式のきまったプログラムを重んじ、ある教会では、わりあいに自由なプログラムや形式で行なわれています。しかし、礼拝の中心が、聖書の朗読と説教であることは共通しています。説教というのは、聖書の解き明かしですから、いわば、聖書そのものの朗読と説教の両方の形で、神の「創造の意思」が語られるわけです。
 第七章で、「教会」は、神の「創造の意志」を、てっとりばやく、確実に聞ける場所だと述べました。そのために「教会」に人が集まり、いろいろな集会が行なわれています。そしてその頂点が礼拝であるということになります。
 はじめて礼拝に参加すると、何のことかよくわからないことが多いと思います。何だか、場違いなところへはいりこんだようで、とても居心地が悪いと思うこともあるでしょう。しかし、それを乗り越えて、継続して出席することがたいせつです。そうすれば、必ず、神の「創造の意思」があなたに働いて、あなたを「義」へ導いてくれるのです。
 それは、次の理由によってです。「礼拝」のことを、英語では「サービス」といいます。これは通常「奉仕」と訳されている言葉です。日本にキリスト教が伝来した時、できるだけ日本にある言葉を使おうというので、仏教の「礼拝」(らいはい)という言葉を、この「サービス」にあてたので、「礼拝」(れいはい)というキリスト用語が生まれたのです。
 ところで、ドイツ語の「礼拝」に相当する言葉を直訳すると、「神の奉仕」ということになります。このことは、非常にたいせつなことを示しています。通常「礼拝」ということを考えると、人間が神を礼拝する、つまり「神は礼拝の対象である」と考えがちですが、「神の奉仕」と考えると、実はその逆ということになります。
 ほんとうの意味は、「神が人間に奉仕してくださる」ということです。「神が、何とかして人間を、最初『このようにあらせられたい』とはっきりした『創造の意思』をもって創った姿、つまり『義』にもどらせようといる神の「行為」、これを私たちは「礼拝」と呼んでいます。ですから、「礼拝」として日曜日の一定の時間に行なわれるのは、「神の礼拝」のほんの一部分の、見えるかたちにすぎません。「神の礼拝」は日曜日だけでなく、毎日、いつでも、私たちのためになされているのです。 ”
 
 実にルター的、ルーテル派的説明といえます。ドイツ語のGottesdienst(礼拝)は確かに冒頭にGott(神)で始まっています。Gott(神)とDienst(サービス)から成る語ですね。ルーテル派などは今も礼拝を英語のサービス(Church Service)といいますが、近年のアルミニアン・ウェスレアンの流れにある福音派系・聖霊派系のプロテスタントでは、ワーシップ(Worship)という言葉の方が聞かれ、「神が人間奉仕してくださる」という意味を喪失してしまったのだなと感じてしまいます。
 
 ルターは神や信仰について動詞的に捉える人だったといわれています。元ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校教授で同ルター研究所所長であった徳善義和先生の著書「自由と愛に生きる 『キリスト者の自由』全訳と吟味 」(教文館)の中で “ ルターは名詞型の思考ではなく、動詞型の思考をすると私には思えるし、そこに中世の信仰、教会、神学からの宗教改革的転回のひとつの手がかりがあると思われる。「神の義」は名詞としてとらえられるのではなく、「神はわれわれを義とする」という形で動詞的に把握されるという具合である。ラテン語が教会用語、神学用語として名詞的、静的であるために、より動詞的、動的でありうるドイツ語による著作を心がけていたとも言える… ”(p83) と説明されていますし、キリスト教ラジオ番組FEBC( http://www.febcjp.com/ )で、以前に放送された徳善先生によるマルチン・ルターの「キリスト者の自由」( FEBCにて現在MP3版とDLにおいて販売中 http://www.febcjp.com/lib_catalogue2/ )の中で、『…ルターの傾向として物事を動詞的にとらえていこうというのがあるんです。それにぴったり合うマルチン・ルターの言葉が一つあるんです。神が我々の味方ならば、誰が我々に敵対するだろうか。というロマ8章31節の言葉を、短くルターが説明している箇所があるんですね。 我々が代名詞、我々が、我々をとか、我々にとか、格変化させてし得るのだとすれば、神という名詞を動詞変化させ。 神というのは名詞じゃないんだというわけですね。動詞変化させた方がいいんだ。動詞変化させるならば、名詞を動詞にして、神語る、神語った、語られたる、神をそう変化させたらいい、名詞変化でね神は・神の・神に・神を・神からとラテン語はそう変化するんですが、そうさせないでね、動詞変化させて、神は語る・神は語った・神は語られたる・神によって語られたる、そういう神という名詞の現在・過去・過去分詞で変化させた方がいいんだという言い方をしたので、ちょっとわかりにくいんですけどね。まさにね、マルチン・ルターが、この物事を、特に神様に関わる事柄を動詞的にとらえた。信仰にかかわることも動詞的にとらえた。という一つの顕著な一点だと読んでいるんですよね。それだからこそ、神の言葉がキリスト者をつくる、自由にするという動きになって、神の言葉自体が動き、作用する意味合いを強く持ってくるようになると思うんですね。動いている感じ、ダイナミックと言ってもいいでしょうかね。』(テープ興し)と語っていました。
 
 動的に神をとらえる。動的にキリストをとらえる。動的に聖霊をとらえる。動的に信仰や愛をとらえる。これは発想を大きく転換させてくれますし、私たちが神を礼拝するのではなく、神が私たちのために奉仕してくださっているのだということは、まさしく神の愛が能動的にわたしたちに溢れるばかりに注がれているということです。
 
 “信仰それ自体では生の中に具体的な形をとることはありえないから、愛がそれに加わって、決定的な役割を果たし、愛こそが信仰を形あるものにもたらすことになる。「愛によって形成される信仰 fides caritate formata 」である。信仰のみでは無力で、愛が加わることが決定的に必要である。しかし、ルターにとっては信仰は、神の働きであり、神の真実から起こるできごとであるから、それ自身の中にではなく、神からの力(デュナミス)によっている。だから、神の真実がそうであるように、信仰は信仰者の一部分の規定ではなく、包括的、全体的な規定であって、信仰は即、愛でもあり、喜びでもある。だから、信仰プラス愛から行いとなるのではなく、信仰即愛ゆえに行いとなるのである。パウロが言う「愛によって働く信仰」(ガラテヤ五・六)をルターはこのように新しく理解することになったのである。こうしたダイナミズムの中で、ルターは隣人愛、隣人奉仕が自己愛を排除しとおすことを明らかにしている。”(前掲書p251-252)
 
 「信仰とは神様の愛をいっぱいにいただいて受け止めて行く事だから、いっぱいにいただいた愛を、自分の中に溜め込んじゃうのじゃなくて、ごく自然に信仰的な生き方をしようと思うと、このつまらない私を通してでも、神様の愛が他の人のところに伝わって行く。…神様から受けた奉仕は、隣人への奉仕となって出て行く」(前掲テープより)
 
 礼拝をこのように受け止めてみる時、全く違ったものに代わってくるのではないでしょうか。

始まりの日に立ち帰れ

Yahoo!ブログに2012/6/13(水) 午前 0:31にアップした記事

 繁栄の神学に立つ一部の米国型福音派やペンテコスタルな教会を見て行くと、仮にもプロテスタントを僭称しているのならその始まりに立ち返るべきだと思います。
 
 ルターがその95箇条の提題を、1517年10月31日にウィッテンベルクの城教会の門に貼り出して、提題に掲げられた諸問題について論じ合うことを求めたその内容を思い起こすべきです。

95箇条の提題


 提題には『27 箱の中へ投げ入れられた金がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄から飛び上がると言う人たちは、人間を宣べ伝えているのである。 28 金が箱の中でチャリンと鳴ると、確かに利得と貪欲とは増すことになる。しかし、教会のなすところはただ神の御心にのみかかっている。』と、ローマの聖ペトロ大聖堂建設資金を集めるためと、芸術の愛好家であり派手好きな生活を好む教皇ユリウス二世の散財による教会の財政難を解決するためになされた贖宥券の販売と、当時のドミニコ会士ヨハネ・テッツェルに見られる贖宥券の販売の呼び込み説教に関する批判がなされていますが、この言葉はそのまま繁栄の神学と什分の一献金を強調する輩に当てはまることでしょう。

ドミニコ会士ヨハネ・テッツェル


 現在、一部の福音派と多くのペンテコスタルは、宗教改革の精神性から大きく外れ、天国販売をしています。「地獄の沙汰も金次第」を地で行くようなその姿勢は問題があります。

贖宥状販売

 
 お金と救いが一つの秤にかけられて、多く献げる者に救いと祝福が、少なく献げる者には不信仰者のレッテルと神の呪いが。これでは当時の贖宥券に関するマインツの大司教アルブレヒトの発した贖宥券販売に関する寄付額についての司令で述べられている、階級別の割合表に書かれた割合よりあくどいものがあります。その割合表では、『王とその家族、司教などは25ライン金貨、修道院長、伯爵、男爵などは10、それ以下の貴族、聖職者、その他、収入500の者は6ギルダー、自分の収入を持つ市民は1ギルダー、それ以下の者は1/2、何も持たぬ者は、「天国は富める者に対すると同じく貧しい者にも開放されているべきであるから」祈りと断食とをもって寄付に代えるものとする。』(『キリスト教文書資料集』ヘンリー・ベッテンソン編より)とあります。これに比べて繁栄の神学や什分の一献金を強調する輩の何と強欲なことかと思います。
 
 今こそ立ち返り、現代のユリウス二世やテッツェルを捨て去るべきです。もともとプロテスタンティズムが否定したその道を離れるべきです。

人が祈っている祈りの途中で、アーメンと同意的に言うことについて

Yahoo!ブログに2011/4/23(土) 午後 9:21にアップした記事

 以前、他所の教派の教会から転会されてこられた姉妹の方がおられました。この姉妹の方がよく、式文を使った礼拝での会衆の応答個所や、全体での応答個所以外のところで、同意的にアーメンと言ったり、集会室で行なわれる学び会で、学びを始める前に一人一人口に出して祈るような場面で、祈りの最後ではなく、祈りの途中でアーメンと同意的に言ってこられました。この方はきよめ系の教会から来られた方で、そこの教会でのやり方をそのまま行なっていました。ルーテル教会ではそのような風習はないので、祈りが阻害されるような印象を受けてしまいます。また、式文礼拝の場にて個人的方法を行なうことには違和感を憶えました。

 ルーテル教会の式文などを使った礼拝は、元をたどればローマ・カトリック教会のラテン語による「ローマ典礼」を、自国語に直し、御言葉を中心とし、カトリックの化体説に基づく生贄の反復的聖変化の個所を廃止したり、讃美歌を導入したり、会衆も参加する形のものに、礼拝改革をしたものです。

 礼拝は個人的祈りと違い、公のものであり、共同のものであります。すなわち『ひとりよがりにならず、神の恵みが外から他者の言葉を通して私たちに与えられ、私たちもまた人への証と愛によって神に使えるからです。』(『教会員ハンドブック』日本福音ルーテル教会)と言われているように、公が意識されるべきでしょう。そして神は無秩序の神ではありません。礼拝も秩序が保たれなければなりません。

 東方典礼において『神に叩拝せん』ということが出てきます。プロテスタントではあまりにもフレンドリーに考えすぎて、全能者を畏れかしこみ、そのみ前に伏拝するという感情が希薄な感じがします。それは人間社会の父親像が、かつてのような畏敬の念の対象ではなく、よりフレンドリーで対等的意識が助長された社会性と、男女同権意識による敬いの欠如によるものでしょう。

 すなわち聖書にある女の頭は男であり、男の頭はキリストであり、キリストの頭は神です。という意識。すなわち教会はキリストの花嫁であるのなら、その頭はキリストであり、夫に対して敬いなさいとのエフェソの手紙のみ言葉が、当然適応されます。なぜなら夫であるキリストは、自分の体のごとくに愛してくださっているのですから。

 また、父に対して、アバ父よと幼子のごとく接することはあっても、決して対等でもなく、フレンドリーに接するようなものではありません。父に対しては敬いの心と態度をもって接するべきです。

 ルターは小教理問答書で幼子にも分かるようにこう書いています。『われわれは、何ものにもまして、神を畏れ、愛し、信頼すべきです。』。

 集会などの交わりの場や、家庭での祈りの場において、同意のアーメンは問題はないと思いますが、公の礼拝の場、特に式文などによって定められている場合は、行うべきではないと考えます。

 おそらく、この風習はメソジスト以降の教派でのものから始まったのではないかと思います。典礼様式のローマ・カトリック教会、東方正教会、聖公会、ルーテル派教会また、カルヴァン派のような厳格な教会では、無かったものと思われます。
プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

 Yahoo!ブログからの引っ越し記事内のURLはリンク切れをしているものがあります(気が付いたらものからインターネットアーカイブに保存されているのならウェイバックマシンURLなどに修正などしております)。


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​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

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