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10分の1献金問題 再掲載


 改訂式文の奉献について考えることによって、また、キリスト教界における献金問題にも、再び思いをはせることとなりました。

 2010年来、34回記事にしてきたので、その中から一部を抽出してみます。

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献金トラブル 

2011年09月10日に、2014年に終了したKDDIのブログサービス「LOVELOG」に書いた記事(Yahoo!ブログに転載)

https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11389724.html

近年のなんと献金トラブルや不満がなぜこれだけ多くなったのでしょうか。

 一つにはネットなどによって、情報が手に入れやすくなったためであることは大きな要因でしょう。

 一部の福音派教会や多数の聖霊派教会において、10分の1献金という新たな律法をつくりあげ、それをキリスト者に強要しています。この10分の1献金は、古代イスラエルの10分の1とは全く関係がなく、聖書的に何の根拠もないものです。律法規定自体、異邦人や異邦人キリスト者、律法から自由にされたユダヤ人キリスト者にとっても10分の1は関係のないものなのにもかかわらず、マラキ書や繁栄の神学と共に、信徒に重い軛として負わせようとしています。

 自由献金の教会でも、牧師職が奉仕者ではなく、安定した職業、それも一般の信徒よりよい給料で、有給休暇もあり、厚生福利もしっかりしていて、無料で住むところも提供され(牧師館)、果ては車の任意保健まで教会で出したりしているところまであります。

 教会の会計報告を見ると、その収支の半分以上が人件費に費やされ、ついで教団若しくは本教会への供出金も多いといえます。年間の伝道費や活動費が牧師給のひと月分位しかなかったりと本末転倒としか言い様がない状況が、伝統的教派などでみられます。

 そして、信徒数が少なく貧しい教会では、年功で給料が高い牧師は雇うことが出来ないので、給料の安い若い独身の牧師を頼まざるを得なかったり、引退した牧師に頼んだりと涙ぐましい努力がなされています。

 職業としてみた時、確かに牧師は大変な仕事です。しかし、教会の財務を見たとき、先ず削るべきは人件費です。それも一般企業に勤めている人より厚遇な部分はカットすべきでしょう。公務員並みの給料大系なら、民間の中小企業並にするなど(それでも家賃がかからないなどを考えれば、一般の人よりは恵まれています。)がなされてもよいと思います。

 Posted by アタナシウス at 09:30

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什分の一献金について

2010年09月26日に「LOVELOG」に書いた記事(Yahoo!ブログに転載)

https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11397022.html

ネットでいろいろ調べ物をしていると、キリスト教の福音派や聖霊派において、その教会員に対して、毎月月収の什分の一を献金させている記述を見かけます。

そして、それを根拠付けるために聖書が引用されているわけですけれども、そのあまりのご都合主義な引用に、驚くほどです。
まず、教会の創設期である一世紀のユダヤ人たちはどのような制度で、どれだけの額を奉げていたのでしょうか。

ミシュナーなんかを読むと、現代の福音派や聖霊派の主張が、ご都合主義で、出たら目である事がわかります。

まず、農産物の(当時は第一次産業が主体)の40分の1から60分の1くらいをまず取り分け、献納物(テルマー)として祭司に配分されます(レビ22:10-14,民18:11.12.26.30)。

この献納物の分離後の、残りの全農産物の10分の1がレビ人に配分されます(民18:21-24)。

レビ人は、自分たちに配分された献納物の中から、10分の1を祭司に献納します(民18:25-28)。

また、テルマーと最初の10分の1(マアセル・リショーン)が

分離された後の農産物は、安息年周期の第1、2、4、5年目には、第二の10分の1(マアセル・シェニー)が分離され、エルサレムに携えられ、そこで祝いながら食べられます。それは金銭に換えて、その代金をエルサレムで食料購入に当てるか、未来のいつかエルサレムで費やすために保留することもできました(申14:25)。

安息周期の第3、6年目の第二の10分の1に相当する農産物は、貧者に与えられます(申26:12-15)。

これら献納される収入は、基本的に物納で、農産物に関しては評価額に5分の1を加えることによって、お金で収めることができます(レビ27:31-)が、牛や羊の群れの増加分の10分の1は、物納のみです。

これら制度を見ると、教会の什分の一献金とは、全く本質的に違うものであることがわかります。

エルサレム神殿の奉仕者は、大祭司が1名、祭司長が1名、神殿指揮官が1名、神殿護衛官が7名、財務官が3名、24の週団に分かれた7200人の祭司、24の週団に分かれた9600人のレビ人がいました。もちろん彼らには家族がいますし、奉仕職を引退した者たちや、見習者もいれると膨大な数に上ります。

もちろん、国中にはあちらこちらに祭司やレビ人がいて、聖なる奉仕職についていました。それらを支えるのに、律法の十分の一は必要なものでした。

しかし、これも教会とはまるっきり違いますし、全信徒祭司性(職ではない)の教会では、根本から違います。

什分の一を称える教会は、これら制度のありようの根本を無視して、マラキ書やネヘミヤ記を引き合いに出しますが、それは当時の祭司やレビ人が、生活のために世俗の仕事に時間を費やしたために、聖なる奉仕職に支障をきたしたためでした(ネヘミヤ13:10)。そもそも律法は、キリストによって成就し、新しい祭司制度が確立され、キリスト者は十分の一を支払う義務はなくなり(エフェソ2:15、コロサイ2:13.14)、それは十分の一で支えられるものではありません(ローマ6:14、ヘブライ7:12、Ⅰペトロ2:9)。

キリスト者のささげる奉げものは、Ⅱコリント8:1215.9:7、Ⅱテモテ5:17.18を読めば明らかです。

聖使徒パウロも、教会に不当な経済的負担をかけないようにと、奉仕者としての模範を残しました(使徒18:3、Ⅰテサロニケ2:9)。

Posted by アタナシウス at 11:59

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什分の一献金を実施している教会はカルトですか?

2010年12月02日に「LOVELOG」に書いた記事(Yahoo!ブログに転載)

https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11397022.html

什分の一献金を実施している教会はカルトですか?

 10分の1献金を実施している教会は、カルトなのかという問題を考えてみたいと思います。先の9月26日のブログにおいて、律法下における十分の1と教会の10分の1献金では、その本質も意味合いも全く違い、律法の言葉は適応されないことを見てきました。

 しかし、ある人々は10分の1を神様に奉げるのだからいいことだ、信仰よりお金を選ぶのか、貧しいやもめは全財産を奉げたぞと言います。問題は其処なのかということです。問題は其処ではなく、10分の1を奉げないことは、信仰がない証拠だといったり、物質的なものをもって信仰を表せとしたり、10分の1献金は救いの基準となると教えたり、10分の1献金が聖書的根拠もないのに、聖書的根拠があるかのように教えたり、いまだにこの10分の1に関してだけ、律法が有効であるかのように教えたり、惜しまず多く奉げるなら祝福が与えられる(繁栄する)と教えたりすることが問題なのです。

 コリントの信徒への手紙二8章10節から15節で、使徒聖パウロは『この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行なう気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。』と言っています。

 これは4節でマケドニア州にある兄弟達が、『聖なる者たちを助けるための慈善のわざと奉仕に参加させて欲しいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。』とある自発的行為でした。先に述べたことを教え込まれて、そう選択させられたり、そう選択することしか許されなかったり、そう選択するようにさせられたりした結果ではありません。そして『持っているものに応じて』、『あなたがたの現在のゆとりが』とあって、決して負担感のあるものではありませんし、生活を圧迫するものではなかったことが分かります。

 確かに献金は大切なもので維持されなければなりません。それは神への感謝であると同時に、教会の活動を助けるものだからです(コリント二9:12)。また『主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。』(コリント一9:14)とあるように、教会の専従の奉仕者の生活が、その奉仕の業によって支えられるべきです。しかし、それは福音書に出てくる貧しいやもめのように、『渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意』すべきです(コリント二9:5)。


 しかし、これは無制限なものではありません。これらは奉仕者の乏しさを補うものであって、彼らを富ませるものではありません。多くの信徒である人たちが、生活に困窮しているのに、牧師やその家族、また教会の他の専従奉仕者が、潤った生活をさせるためのものではありません。かえって彼らは使徒聖パウロの模範のように、教会の負担とならないようにすべきでしょう(テサロニケ一2:9、使徒
18:3)。

 しかし、カルト化した教会の牧師は、上等のスーツを着て、高そうな時計やアクセサリーを身につけ、研修だ、伝道だ、他の教会や聖会で講演だ、といって教会のお金で旅行に行きます。また、献金額の多い少ないによって、牧師やその家族の人当たりも変わったりします。これこそが神のものを盗む行為でしょう。
Posted by アタナシウス at 05:31

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カルト化した教会は、まず、ここで判断がつきます。

2011/5/1(日) 午後 5:49(Yahoo!ブログ記事)

https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/3694923.html

 カルト化した教会の問題を見てゆきますと、大抵この献金問題に突き当たります。多くのカルト化した教会では、10分の1献金が義務化されているところが多く、10分の1献金以外にもいろいろな名目で献金を求められます。彼らの感覚で言うと、多く捧げた者は信仰があり、それだけの祝福を受ける。しかし、10分の1を捧げないのは信仰が弱く、神のものを盗んでいて、祝福を受けられない。という意見が多く見られます。

 韓国に本部があり、日本にも進出してきている「万民中央教会」という、異端の破壊的カルト団体があります。この団体の教祖的指導者である堂会長のイ・ジェロク牧師のメッセージを聞いてみたところ、「10分の1献金をすることは、救われるための最小限の信仰があるという証拠です。地獄に行かないで救われて天国に入るためには、必ず信仰がなければなりません。…聖徒の皆さんの中には、まだ信仰が弱くて十分の一献金がささげられない場合もあります。…十分の一献金とは、自分の収入の十分の一を神様のものとして聖別してささげることです。…ところで、十分の一献金を必ずしなければならない理由は、単に財政を満たすためではありません。それよりもっと重要な理由があります。その一番目は、十分の一献金をささげることは、神様を信じるという証拠だからです。言いかえれば、十分の一献金は救いの基準になるからです。…私たちが目に見えない神様に心を表現する手段の一つが、物質なのです。大切な物質をささげることで、神様に信仰と愛を表現することができます。…二番目に十分の一献金をささげなければならない理由は、祝福されるためです。…祝福を受けるためには祝福の種を蒔かなければなりません。…それが十分の一献金なのです。…律法は、むしろ新約時代にさらに完全に守らなければならない。…ささげないのは、信仰のない証拠です。…呪いを受ける。」(ホームページにアップされていたものを、メモしておいたものです。)というようなものでした。

 ここまで露骨に言うところも多くはありませんが、このようなことを匂わせているところは多くあるのではないでしょうか。そのためカルト被害を訴えたりしている人たちの、掲示板での書き込みや、個人のブログなどの記述の多さからも、このことがカルト化の特長ともいえます。

 現在まともな正統教会であれば、自由献金方式が主流となっているといえます。宗教改革の時代に、スイスの宗教改革者フルドリッヒ・ツヴィグリによって、それまでの10分の1税が批判され自由献金が主張されたことにより、この制度がプロテスタントで広く受け入れられるようになりました。今ではカトリック教会も10分の1税を止めて、自由献金方式にしているようです。

 さて、10分の1献金を主張する人たちは、必ずといっていいほど、旧約聖書の創世記14:18~20のアブラハムが戦利品の中から10分の1を、サレムの王にしてエル・エルヨンの祭司であったメルキゼデクに与えたことや、創世記28:20~22においてヤコブがベテルで為した誓約のことや、マラキ書3:8~10の個所をもってきて、その正当性を主張しますが、まず、アブラハムの出来事は一回限りのことですし、その子孫らにつつけて為せとの指示もありません。ヤコブの場合も一回性が強いといえますし、子孫に対して継続して行なうようにとの記述も見当たりません。アモス書4:4に見られる行為が、はたしてこの個所と結び付けられるか疑問といえるでしょう。次にマラキ書ですが、これはマラキ書の時代背景を見落とすと、間違った解釈に至ります。この当時、まだマラキによる宗教改革以前のことですが、預言者ハガイと預言者ゼカリヤの激励を受けたイスラエルの民は、神殿再建の事業に応じましたが、彼らが期待するような祝福はやってきませんでした。幻滅を味わっていた多くの民らは、貧困の中にあり、礼拝は形骸化し、神への献げ物や律法の尊主は軽視されていました。民は異教徒達の娘を娶るなどして、神への背信行為を繰り返していたことがネヘミヤ記やマラキ書には記録されています。そのために祭司たちは世俗の仕事に忙しく、聖務がおろそかにされていました。そのために律法で定められた10分の1の必要性が説かれ、祭司たちが聖務に集中して、神殿での儀式などが執り行えるようにしたものです。当然律法の下にはないキリスト者には、直接関係する命令ではありません。

 また、律法における10分の1と10分の1献金とでは、まったくと言っていいほど別なものです。まず、一世紀における律法の10分の1について、ミシュナーから見てみると、当時は一次産業が主体であったことでもあり、律法の記述は農作物と家畜による記述が主体です。

 まず、農作物の約40分の1から60分の1くらいを取り分けます。これは献納物(テルマー)として祭司に配分されます(レビ22:10~14、民18:11.12.26.30)。

 この献納物(テルマー)の分離後の残りの全農産物の10分の1がレビ人に配分されます(民18:21~24)。

 そして、レビ人は、自分達に配分された献納物の中から、10分の1を祭司に献納します(民18:25~28)。

 また、献納物(テルマー)と最初の10分の1(マアセル・リショーン)が分離された後の農産物は、安息年周期の第1、2、4、5年目には、第二の10分の1(マアセル・ショニー)が分離され、エルサレムに携えられ、そこで祝いながら食べられます。それは金銭に換えて、その代金をエルサレムで食料購入に当てるか、未来のいつかエルサレムで費やすために保留することができました(申14:25)。

 また、安息年周期の第3年と第6年にあたる第二の10分の1に相当する産物は、貧者に与えられる「貧者への10分の1」(マアサル・アニー)と呼ばれるものです。これは町の門に置かれ、分け前も嗣業もないレビ人や寄留者、孤児、やもめなどに分配されます(申26:12~15)。

 これら献納される収入は、基本的に物納で、農産物に対しては評価額に5分の1を加えることによって、お金で収めることができます(レビ27:31~)が、牛や羊の群れの増加分の10分の1は、物納のみです。

 これが律法による規定であり、宗教による部族連合国家を支えるものでもあり、また、膨大な神殿奉仕者とその家族を支えるために必要なものでした。一世紀当時の神殿奉仕者は、大祭司が1名、祭司長が1名、神殿指揮官が1名、神殿護衛官が7名、財務官が3名、24の週団に分かれた7200人の祭司、24の週団に分かれた9600人のレビ人が現役の奉仕者としていました。この他に引退した者や見習もいますし、それぞれ家族や一族がいます。それらをこの献納物で支えなければなりませんでした。

 このことからしても、現在の教会とは違いますし、10分の1献金として集められた献金の第3年目と第6年目のものの全額が、貧者に配られたということも聞いたことがありません。

 また、これは当然のことですが、献金は救いの基準ではありませんし、外的な行いによって救いは与えられるものではありません(ローマ3:20.22.24.28)。そして、エフェソ2:15、コロサイ2:13.14、ローマ6:14を読んでも解かるとおり、律法はクリスチャンに適用されません。また、キリストによって律法は成就したために祭司職にも変化がありました(ヘブライ7:12、ペトロ一2:9)、全信徒が祭司であるのなら、古い律法の規定からしても10分の1を献げるのはおかしな話です。また、クリスチャンが捧げる献げ物については、使徒パウロはコリント二8:10~15や9:7で指針を示しています。そしてこの献金は教会の福音宣教者を支えるものでもあります(コリント一9:14、テモテ一5:17.18)。しかし、福音宣教者たちは使徒パウロの模範を心にとめるべきです(使徒18:3、コリント一9:15~18、テサロニケ一2:9)。

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式文改訂に思う 5


第7次式文と第8次式文 記名


さらに奉献について

2015年1月号
" 「奉献」は、その言葉が示すように、神への献げものです。同時に神の恵みによって生かされている私自身を献げることでもあります。それは私たちが神に犠牲を献げる行為ではありません。神は、み子イエスをただ一度だけ十字架において犠牲としてくださったことで、救いを完成しているのであり、私たちからの犠牲など必要とされないのです。ゆえに私たちは犠牲ではなく、みことばに与った恵みを分かち合うために献げます。これは「サクラメントを十分に理解するように民衆に教えたので、人々は外的な食物や資産をも持ち込み、必要とする者たちに分け与えた。ミサにはコレクタということばが残っており、共同に集めるという意味である。貧しい人々に与えるために、共同金を集めるのと同じ。」(『キリストの聖なる真のからだの尊いサクラメントについて、及び兄弟団についての説教』)というルターの言葉とも重なります。そのため、困難の中にある人々と分かち合うための奉献であることを「派遣の祈り」の中心に据えました。"

 これについて理解するために、「教会員ハンドブック」の説明を読んでみましょう。

"第二章 教会について 二、礼拝—主に使えられ、主に使える
・・・
 三、奉献の部
 神の恵みへの応答として、自らをささげることのしるしとして、献金がささげられます。教会は信徒の献金によってその働きのすべてをまかないます。月約献金を含め、それぞれの者が心に定めた額をささげます。それによって教会の働きに、みなで参加していくのです。
 奉献唱として詩篇五一篇が多く歌われます。それは、決して私たちが何かをささげうるというのではなくて、神の恵みの働きを願うこと、言い換えると、「神の受け入れられるいけにえは砕けた魂です」という信仰が言い表されるのです。
 聖餐が守られない時は、このあと派遣の部に続きます。"

 
 "私自身を献げることでもあります" との意味が、 "自らをささげることのしるしとして、献金がささげられます。" とのことです。しかし、この解釈には無理があると思います。

 また、教会から送られてくる献金袋には、このような文言が記された紙が毎年入って来ます。

"20○○年維持献金のお願い。
 ・・・
献金は『自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 』(ローマの信徒への手紙12章1節)とありますように、神さまの恵みに対する応答です。収入の中から、まず最初に献げましょう。・・・"

 この言葉の背景には、そのような理解が教会の理解として定着しているという事なのでしょう。

 しかし、ローマの信徒への手紙12章1節はそんなことを言っているのでしょうか。

"こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 "(新共同訳)

 "こういうわけで" とはじまりますから、前章を読んでみなければなりません。しかし、11章を読んでも献金が "私自身を献げることで" あるなどとは読み取れません。

普通に文法上も文脈上も、また聖書注解や略解などを見ても、ルターの「ローマ書講義」を見ても、そんな解釈にはなっていません。アクロバティックな、ほとんどいかさまともいえる読み方というかこじつけをしているとしか言いようがありません。

 また、式文改革において護教教父のユスティノス(100?-162?)を引き合いに出して、

るうてる2014年11月号
"キリスト者は、その初めから聖書を読むこと、神の言葉を聴くことと「パンを裂くこと」(聖餐)を礼拝の中心に据えました。主日礼拝を具体的に記録した最古のものと言われるユスティノス(2世紀前半)の『第一弁証論』にこうあります。「太陽の日と呼ぶ曜日には、…一つところに集まり、使徒達の回想録か預言者の書が時間のゆるす限り朗読されます。 朗読者がそれを終えると、指導者が、これらの善き教えにならうべく警告と勧めの言葉を語るのです。…一同起立し、祈りを献げます。そしてこの祈りがすむと…パンとブドウ酒と水とが運ばれ、指導者は同じく力の限り祈りと感謝を献げるのです。…会衆はアーメンと言って唱和し、一人一人が感謝された食物の分配を受け、これに与ります」。改訂式文の「みことば」と次の「聖餐」の繋がりが良く分かります。というより、これまでのどの時代のどんな礼拝でも、基本は、この2世紀の記録そのままであったことがお分かりでしょう。
・・・「とりなしの祈り」をここに置いたのは、先のユスティノス以来の説教に続けて行われた伝統の回復と、現在、しばしば起こる献金(奉献)の祈りとの混同を避ける意図があります。"

と述べていますが、意図的なのか献金についての記述を引用していません。

キリスト教教父著作集1ユスティノス Athanasius記名入り


以下に前後も含めて引用します。

"67・1. この儀式が済んだ後もさらに、私共はたえず前述の記念の式を執り行います。そして持てる者は窮するすべての者のために扶助し、何時も協力し合って生活しているのです。

2.また神の恵みあたえたもうすべてのもののゆえに万物の創造者を、その子イエス・キリストと聖霊を通じてたたえるのです。

3.太陽の日と呼ぶ曜日には、町ごと村ごとの住民すべてが一つ所に集い、使徒たちの回想録か予言者の書が時間のゆるす限り朗読されます。

4.朗読者がそれを終えると、指導者が、これらの善き教えにならうべく警告と勧めの言葉を語るのです。

5.それから私共は一同起立し、祈りを献げます。そしてこの祈りがすむと前述のように、パンとブドウ酒と水とが運ばれ、指導者は同じく力の限り祈りと感謝を献げるのです。これにたいし会衆はアーメンと言って唱和し、一人一人が感謝された食物の分配をうけ、これに与ります。また欠席者には、執事の手で届けられるのです。

6.次に、生活にゆとりがあってしかも志ある者は、それぞれが善しとする基準に従って定めたものを施します。こうして集まった金品は指導者のもとに保管され、

7.指導者は自分で孤児ややもめ、病気その他の理由で困っている人々、獄中につながれている人々、異郷の生活にある外国人のために扶助します。要するに彼はすべて窮乏している者の世話をするのです。"

(アントニヌスに宛てたキリスト教徒のための弁明 「キリスト教教父著作集Ⅰユスティノス」 教文館 p.85)

 共同に集めるということが、どのようなことに使われていたのかについてユスティノスは明確に書いています。果たしてこれが今日の教会における献金と同じでしょうか。都合の良いところを斬り文で利用するそのように見えます。

 律法の神殿祭儀に関わる什分の一のささげものはまったくキリスト教とは関係がありませんし、使徒書簡や使徒言行録に出てくるのは、飢饉にあえいでいるエルサレム教会を助けるための義援金で一過性のものですし、また、初期教会における共同に集めた行為は現在の教会の献金とはまったく質を異にしています。

 いい加減に、根拠にならないものを根拠にして、権威付けする行為や精神はやめてもらいたいものです。献金など聖書に根拠はないのですから聖書の悪用や初期教会を悪用すべきではありません。

神への感謝と教会維持と活動に必要なお金を献金するということで理由は十分だと思います。

式文改訂に思う 4


第7次式文と第8次式文 記名


さて、再び奉献についてですが、まずは「るうてる2015年4月号」を見てみましょう。

"式文の改訂・「アンケートQ&A」(その1)
式文委員 松本義宣
 前号で紹介したアンケートで頂いたご質問やご意見に、限られた紙面ですがお答えいたします。ただその前に、これまでご紹介した試案の基本的なコンセプトを改めて整理します。幾つかの不明点やなんとなくの「もやもや感?」の払拭に繋がれば幸いです。
 全体の構成が「招き」「みことば」「聖餐」「派遣」となったこと、これは初代教会以来の基本構成で、エキュメニカルな視点でも、その長短や強調点の違いや内容の濃淡は別にして、共有されているものです。ことに私たちルター派として、宗教改革の基本理念たる「礼拝は神の業」、人が神に奉仕するのではなく、まず神が人に奉仕してくださる出来事(もちろん、だからこそ人は感謝をもって応じるのですが)、その神の主体性、先行性が根本です。この4部構成も、すべて神が主語です。つまり、神が「招き」、「みことば」を語り、いのちの糧「聖餐」で養い、この世に「派遣」する。派遣から再び神に招かれて礼拝に集う(帰る)、その派遣から招きへの間も、私たちは礼拝で受けた恵みと祝福を携えて生きるのですから、私たちの全生涯がある意味「礼拝」そのものとなる、そんな理解です。
 さて、現行式文の「奉献の部」がなくなったこと、とりわけ献金が「派遣」に置かれたことにご意見がありました。献金の持つ感謝、自己献身の思いが薄れる、あるいは、この世の奉仕ではなく、具体的には「教会のため」に捧げていて(実際全部そうなのに?)、その意欲が削がれるし、ある種の偽善ではないか等です。それはまず、この連載・「聖餐」(12月号)にあるように、奉献が、聖餐における「人が神に捧げる犠牲」と結びついてきたことを完全に払拭し、人が主語となる要素を主要構成とはしないためです。自分自身を神に感謝をもって捧げるのであれば、それは「派遣」にこそ相応しいのです。確かに私たちは持ち物の一部を献金しますが、本来それは100%神から頂いているものです。捧げるなら、お返しするなら「すべて」です。その場ではとても無理!でも、私たちは「この世」 に (それもまた神のもの!)分かち合い奉仕するために派遣されるのです。何よりイエスの「すべての民を…弟子にし…、…洗礼を授け、…教えなさい」(マタイ28・19~20)との委託を担う、この世に仕える最先端が教会なのですから、貴い献金先としてお許し頂きたいものです。また、具体的には、献金後の「奉献の祈り」と「教会の祈り(執り成しの祈り)」が混乱したり省かれたりする慣行をなくし、区別する意図もあります。
 「招き」における「洗礼」の想起や言及が、未受洗者の排除にならないかというご指摘もありました。教会が教会であるのは、福音の宣教と聖礼典の正しい執行です。そのしるしが礼拝です。これまで聖礼典=聖餐が礼拝の中心だったのに比べ、本来「救い」のしるしである「洗礼」の重要性を礼拝であまり強調されなかったきらいがあります。しかし私たちは、常にこの原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。それがこの提案です。神は、すべての人を、まず悔い改めと「洗礼」へと招かれます。すべての人を待っておられます。(続く)"


 当時、アンケートを取ったのでしょう(私は記憶にありませんが)。それに答えた方の意見として

・献金の持つ感謝、自己献身の思いが薄れる

・この世の奉仕ではなく、具体的には「教会のため」に捧げていて(実際全部そうなのに?)、その意欲が削がれるし、ある種の偽善ではないか等です。

 というものが寄せられたとあります。

 これは全くその通りでしょう。

 まず、礼拝の構成は、東方典礼の聖体礼儀を見るとよくわかるのですのですが、三つの構成からなり、まず「奉献礼儀」(これはビザンチン末期あたりから、それまで聖体礼儀の中で行われていたものが、独立して、聖体礼儀が始まる前に司祭がパンとぶどう酒を所定の祈りと行動をもって準備するようになったものです。)が司祭によって行われ、それが終わると「御言葉の礼儀」(「啓蒙者の礼儀」)が始まります。そして、説教が終わり連祷の後に、「啓蒙者出よ」となります。

"輔祭1 衆啓蒙者出でよ、
 輔祭2 啓蒙者出でよ、
 輔祭1 衆啓蒙者出でよ、
 輔祭 啓蒙者一人もなく、唯信者復又安和にして主に祷らん、
  詠 主憐めよ
 司祭 衆啓蒙者出でよ、啓蒙者出でよ、衆啓蒙者出でよ、啓蒙者一人もなく、唯信者復又安和にして主に祷らん、
 詠 主憐めよ
 司祭 アンティミンスを開いた後誦する第一の信者の祝文51
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主、万軍の神や、爾が我等に、今も爾の聖なる祭壇の前に立ち、爾の慈憐
に俯伏し、我等の罪と衆人の過ちとのために祈祷するを赦し給いしを爾に
感謝す、神や、我等の祷りを納いれ、我等を爾が衆人のために、爾に祈りと
願いと無血の祭とを献ずるに勝うる者となし給へ、我等爾が聖神の力にて
此の爾の奉事のために立てし者を、定罪なく、躓なく、その良心の潔き證を
以て、何の時何の処にも爾をよぶに適う者となして、爾我等に聴き、爾が
哀憐の多きに依りて、我等のために仁慈の者となるを致せ、
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 輔祭 神や、爾の恩寵を以て、我等を佑たすけ救い憐み護まもれよ、
  詠 主憐めよ
 輔祭 睿智、
 司祭 蓋凡そ光栄尊貴伏拝は爾父と子と聖神に帰す、今も何時も世世に、
 詠 「アミン」"


 そして、ここで昔は求道者(啓蒙者)、一般の人々、クリスチャンでも戒規により罰を受け領聖しない者は出されました。今日、正教で礼拝に参加させていただいても追い出されることはありません。

 そして、つづいて「聖体機密」(「信者の礼儀」)が行われます。すなわち「御言葉の礼儀」と信者のみによってなされる「聖体機密」という構成になっています。これは西側のローマ典礼も変わりありません。

 しかし、日本のルーテル派では、構成が変わらないのにそれを細かく区分し、開会の部、みことばの部、奉献の部、聖餐の部、派遣の部などとするから分かりづらくなるのです。本来であれば奉献の部は聖餐の部の始めに来ていました。これは今日のカトリックの礼拝でもそうなっています。

 ただ、そうすると聖餐が神に献げる犠牲の生贄の反復になってしまいます。それは聖書のみ言と矛盾しキリストの贖罪を誤らせてしまいますから、ルターなどは徹底的にこれを排除し、意味を変えたのです。また続く宗教改革者たちもそうでした。

" 第八。つづいてあの全くいまわしいもの —これに対して、ミサに先行する各部が従うことを強いられているもの— が来る。すなわち奉献と呼ばれているものである。そこでほとんどすべてに、供え物のひびきと匂いがする。・・・そこで私たちは全部のカノンとともに供えもののひびきがするこれらすべてのものを除き、純粋で聖であるものを保有し、私たちのミサを整理しよう。"
(ミサと聖餐の原則 1523 「ルター著作集 第一集 第5巻」 聖文舎 p.287)

 そして、今回の改訂において、この聖餐の前の「奉献の部」が「派遣の部」の方に移動し、「派遣の部」にあった「教会の祈り」(とりなしの祈り)をユスティノスの伝統に倣ってここに置いたのならそれほど反対もなかったのではないかと思います。

 そして、前回も言いましたが、奉献の祈りと教会の祈りをはき違える人は、日本語が読めるならまずいないだろうと思います。また、大ぜいの中にはそういう人も出てくる可能性はありますが、そうならないように洗礼前教育をしっかり行い、洗礼後の教会での教育をしっかりとすべきです。ルーテル派と言いながら、教会の中でルーテル的信仰の学びというものが御座なりにされています。それゆえ他教派から移って来られた方が、前の信仰や解釈や理解をそのまま持ち込もうとして、よくわからないまま居心地の悪さを感じるのでしょう。

 そして、いまひとつるうてる紙の問題として、

>確かに私たちは持ち物の一部を献金しますが、本来それは100%神から頂いているものです。捧げるなら、お返しするなら「すべて」です。

 これってとてもおかしいよねと感じます。すべてのものは神様から賜ったものであることは同意します。しかしながら、"捧げるなら、お返しするなら「すべて」です。" という回答には、「えっ!!おかしいだろ!」と言いたくなります。

 われらが主なる神が、それを求められたことがただの一度でもあったであろうか。神さまが「与えてくださる」とか、「食べてもよい(創世記2:16)」、などと言われることはあっても、あなたたちのものはすべて私のものだから、すべてを返しなさいとか、返すのが本当だなどと言われたことがあったでしょうか。本当に呆れてしまいます。

 マタイ福音書が伝えるイエスの言葉が思い浮かびます。

"23:2「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。 23:3だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。 23:4また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。"


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当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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