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聖書協会共同訳 5


聖書協会共同訳旧約続編付き Athanasius


 さて、聖書協会共同訳も発売されてから日も経ち、早々に手に入れた人からまだ手に入れていない、また手に入れる予定もない人までいろいろですが、聖書協会共同訳についてまた少し見て行きたいと思います。

 この聖書、スコポス理論なるものを翻訳の基本原則としていますが、この理論はオランダ自由大学のローレンス・デ・ヴリース教授(Lourens de Vries 1955-)によって提唱されたもので、日本聖書協会が2018年12月15日に発行した「聖書 聖書協会共同訳について」という冊子の中で、次のように説明しています。

"「スコポス」とはギリシア語で「目標」を意味し、聖書翻訳理論では「対象読者」(聴衆)と「使用目的」(機能)を表します。対象読者を未信者とし、使用目的を伝道用とする場合(スコポスA)と、対象読者を高学歴の信者、使 用目的を礼拝用とする場合(スコポスB)では、おのずと翻訳原則も異なります。前者(スコポスA)では動的等価 訳が、後者(スコポスB)では逐語訳が適切です。スコポス理論は、このように、まず翻訳の「スコポス」を選択し、 そこから適切な翻訳方針を決定していこうとするものです。逆に言えば、スコポスをあらかじめ決定するなら、翻訳 理論をめぐって動的等価か逐語訳かという選択に関して揺れが生じるようなことはなくなるのです。"

 そして、同冊子は次のように続けています。

"共同訳事業推進計画諮問会議と「翻訳方針前文」

翻訳事業を開始するに先立ち、日本聖書協会は二〇〇八年六月六日の第一五二回理事会で「共同訳事業推進計画諮 問会議」(以下、「諮問会議」)の設置を決議し、国内三二教派・一団体に、各教派・団体を代表する議員の推薦をお 願いしました。これに対し一七教派・一団体が議員二一名を推薦してくださいました。この一七教派の信徒数は、当 時の日本国内のクリスチャン人口の七五・三パーセントに相当します(『キリスト教年鑑』二〇〇九年版による)。し たがって、諮問会議は日本のキリスト教会をほぼ代表しており、そこで出される答申は、日本の諸教会が求める聖書 を示すと言うことができます。 諮問会議では新翻訳事業がスコポス理論に従うことを提案し、新しい聖書翻訳ではいかなるスコポスを選択するか を議論しました。二〇〇九年一〇月六日に開催した最終回(第四回)諮問会議は、新しい翻訳聖書のスコポスが、「礼 拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指す」ことであると採択し、そのことをまとめた「翻訳方針 前文」を日本聖書協会理事会に答申しました。同年一二月四日の聖書協会第一五八回理事評議員会はこの答申を承認 して、新翻訳事業の開始が決定しました。「翻訳方針前文」は本冊子の16-17頁に全文を掲載しています。"

 この聖書協会共同訳聖書はスコポス理論に立ち、次の翻訳方針のもとに翻訳されました。

"新しい聖書翻訳は、
(1)共同訳事業の延長とし、日本の教会の標準訳聖書となること、また、すべてのキリスト教会での使用を目指す。
(2)礼拝で用いることを主要な目的とする。そのため、礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指す。
3)義務教育を終了した日本語能力を持つ人を対象とする。
(4)言語と文化の変化に対応し、将来にわたって日本語、日本文化の形成に貢献できることを目指す。
(5)この数十年における聖書学、翻訳学などの成果に基づき、原典に忠実な翻訳を目指す。底本として、旧約(BHQ)・新約(UBS第5版)・旧約続編(ゲッティンゲン版)など、最新の校訂本をできる限り使用する。
(6)文学類型の違いを訳出して原典の持つ力強さを伝達する努力はするが、聖書が神の言葉であることをわきまえ、統一性を保つ視点を失わないこととする。固有名詞や重要な神学用語については『新共同訳』のみならず、過去の諸翻訳も参考にして、最も適切な訳語を得るようにつとめる。
(7)その出版に際して、異読、ならびに地理  や文化背景などを説明する注、引照聖句、重要語句を解説する巻末解説、小見出し、章節、地図や年表、などの本文以外の部分は、できる限りさまざまな組み合わせを考え、読者のニーズに応える努力をする。"
(翻訳方針前文)

同じく日本聖書協会発行の「聖書 聖書協会共同訳(特徴と実例)」と言う冊子の中で、

"上述の「翻訳方針 前文」によると、諸教会の指導者は、教会の礼拝にふさ わしい聖書を求めています。そこで、この度の聖書翻訳 は、礼拝で朗読される聖書を目的(スコポス)としました。"

と端的に述べています。


 この中で、"諸教会の指導者"たちが、"教会の礼拝にふさ わしい聖書を求めてい"るとの事でありますが、こいつらがそういう聖書を求めたからと言って、"この一七教派の信徒数は、当 時の日本国内のクリスチャン人口の七五・三パーセントに相当"がそういう聖書を求めたことにはならないと思う。まず、本教会からそのような案件について各教区や教区の各個教会は一定の期間を設けて意見を聞かれたということ自体ないだろう。そして、聖書協会の認識は、なにかいろいろな教会の信徒側と乖離しているように思われる。

 たとえ、"教会の礼拝にふさ わしい聖書"であったとしても、信徒が家庭や教会で聖書を学ぶのに役に立たない、その訳文が果たして著者が書いたものと同じなのか、まったくかけ離れた意訳となっている可能性もあり、また誤訳、作文の類、教会の伝統的な教義に合わせて原文にはない語や文言を挿入して、文意を変えてしまっているものもある可能性が、"教会の礼拝にふさ わしい聖書"なるものには強く現れる可能性を感じてしまう。

 礼拝で使う聖書が欲しいのではなく、礼拝でも、学びでも、伝道でも、日々のみことばとしても使える聖書が欲しい。

 現在、マタイを読み終わり使徒言行録を読んでいるが、「はーっ!!」とため息が出るような訳文である。

 1978年に日本聖書協会は、ユージン・ナイダのDynamic and formal equivalence(動的等価法)という翻訳方針によって「共同訳聖書」を出し、大ごけした。そして、今ではホームページにも「共同訳聖書」については、まるでなかったかのように取り扱われている。外国の研究者の理論に飛びついて、やたらと宣伝しまくり、本人も招いて講演もしと、共同訳の二の舞のような感じもする。

 新共同訳は継続して出版されるし、聖書協会共同訳に切り替える必要ってあるのか?と思ってしまう。



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聖書協会共同訳 4


 18:6では従来の「大きな石臼」(口語・共同・新共同)と言う訳語が、パイロット版では「挽き臼を」と一歩後退しましたが、聖書協会共同訳では「ロバの引く石臼」とギリシャ語底本通りの表現に改善されていました。

 18:34でも従来の「獄吏」(口語)、「牢役人」(共同・新共同)が、ギリシャ語底本のバササニステース(βασανιστής)の語意の通り「拷問係」と訳されていました。従来の「牢役人」は別訳としてフットノートに載せられていました。

 19:12 εἰσὶν(ある) γὰρ(なぜなら) εὐνοῦχοι(去勢された者) οἵτινες(ところの) ἐκ(から) κοιλίας(胎) μητρὸς(母の) ἐγεννήθησαν(生まれた) οὕτως(このように),

においては、共同訳・新共同訳の「結婚できないように生まれ付いた者」との訳は、パイロット版において「生まれつき去勢された者」と原文に近づきましたが、聖書協会共同訳では「独身者に生まれ付いた者」とヘタレた訳文になりました。まあ、差別云々とか考えたのかもしれません。しかし、フットノートに "直訳「去勢された者」" と載せています。正直こっちを本文にしろよと思いました。

 21:7は、καὶ(そして) ἐπεκάθισεν(彼は乗った) ἐπάνω(上に) αὐτῶν(それらの).
この個所を直訳している岩隈訳を見てみましょう。

"その雌ろばと子ろばを連れてきた、そしてそれらの上に着物をおいた。すると彼はそれらの上に乗られた。"

直訳文はこうなるのですが、口語訳・共同訳・新共同訳・パイロット版、そして聖書協会共同訳も「それにお乗りになった」としています。マタイの原文ですと雌ろばと子ろばの上に同時に乗ったことになるので、翻訳において修正したのでしょう。しかし、原文が間違っているのなら間違ったまま訳せばいいと思います。意味が通らないなら通らないまま、そのままを訳すのが翻訳だと思います。修正が許されるのは書いた著者本人だけです。こういう小賢しいことは止めてもらいたいです。

 23:16は新共同訳の「ものの見えない案内人」をそのまま引き継いでいます。「盲目」「盲人」と言う表現を不快語・差別語として使用しないと、1983年に聖書協会の方針としたのですから、このような表現にならざるを得ないのでしょう。


 24:45 忠実で賢い僕は、一体誰であろうか。
 日本聖書協会はこのところの訳において明治元訳・大正改訳・口語訳・新共同訳・パイロット版・聖書協会共同訳とほぼ一貫してティス(Τίς)を「誰」と訳しています。しかし、次節以降を読めばわかる通り、どのような僕が忠実で賢い僕なのかを問うているので、誰かを問うているわけではありません。しかしながら共同訳、フランシスコ会聖書研究所訳、田川訳、岩隈訳などはしっかりと「どのような」という意味の訳語を充てています。

 25:26においては、「怠け者の」「怠惰な」という語ではなく、オケネーロス(ὀκνηρός,)の語意 "しりごみしがち、小胆な、臆病な" の通りに "悪い臆病な僕だ" としているのはよい改善点でしょう。

 26:50 ὁ δὲ(しかし) ἰησοῦς(イエスは) εἶπεν(言った) αὐτῶ(彼に), ἑταῖρε(友よ), ἐφ᾽(目的) ὃ πάρει(あなたが来た).

聖書協会共同訳 "a友よ、しようとしていることをするがよい。" "a別訳「何のために来たのか」"

今回の訳は共同訳・新共同訳・パイロット版の流れの訳文。他にこれに近いものとしては、岩隈直訳、カトリックのフランシスコ会聖書研究所訳とバルバロ訳。

この個所ὅςについて、"マタ26.50(ダイスマンは ὃ を直接疑問代名詞の代用と見なし「君は何のために来ているのか」と解す。ターナーも同様。しかし他にこの意の確実な用例はないという)。" (「増補改訂新約ギリシャ語辞典」 岩隈直著 山本書店)との立場に立っている訳文は、聖書協会共同訳のフットノート、口語訳、田川訳、新改訳、詳訳がある。

しかし、"しようとしていることをするがよい"などと言う語意はそもそもない。

あとは細かいものがチョコチョコと気になるものがありました。駆け足で見てこれだけ出てくるのもねぇ。

聖書協会共同訳を二つに割ってみたら、ここぞという個所でフランシスコ会訳というかカトリック臭がプンプン臭ってくる感じがしました。

聖書協会共同訳とは



聖書協会共同訳 3


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 第一回目の感想の続きで、マタイ福音書をまた見て行きます。

11:17で、新共同訳の"葬式の歌をうたったのに"との表現が、パイロット版と聖書協会共同訳においては、口語訳と同じ"弔いの歌を歌ったのに"との表現に戻りました。 これはいい方向での回帰と言えます。

 しかしながら22節の"さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。"(口語訳)では、新共同訳聖書と同じ "軽い罰で済む"との表現にとどまりました。その代わりにフットノートにて、"直訳「耐えやすい」"との直訳文を載せています。しかし、ギリシャ語アネクトス(ἀνεκτός、#414)に「軽い罰で済む」などと言う語意はないのだから、語意の通り「耐えやすい」と訳してけば良いものを、これもフランシスコ会聖書研究所訳に引きずられて定着してしまったのでしょう(フランシスコ会訳では「軽い責め苦」、もしかしたら根底には「煉獄」思想、「小罪」の浄化の苦しみがあるのかもしれない。)。

 新共同訳では、「霊」という語に引用符を付して「“霊”」と奇妙奇天烈な表記をしていましたが(これもフランシスコ会訳から来たものと思われます。フランシスコ会訳では、霊の語を鉤括弧を付して「霊」と表記していました。)、今回の訳では今のところ見当たりません。

 13:20のペトローデース(πετρώδης、#4045)は、共同訳・新共同訳・パイロット版・聖書協会共同訳では、"石だらけの所"と訳されています。しかし、ペトローデースは下が岩でその上に土が薄くかぶさっているところを指す言葉で、なんか砂利道を思わせる訳語はふさわしいとは思えません。口語訳のように"石地"とするか、できれば岩隈直訳のように"岩地"とする方が良いように思えます。フランシスコ会訳でも「岩地」としています。

 17:24、
"一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生はa神殿税を納めないのか」と言った。"
フットノート "直訳「二ドラクメ硬貨」"
 17:27
"しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣り針を垂れなさい。そして最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が見つかる。それを取って、私とあなたの分として納めなさい。」 "


となっていますが、ギリシャの貨幣「ディトラクメー(二ドラクマ)」も27節の「スタテール(四ドラクマ相当)」も共に銀貨ですので、そのまま直訳して「二ドラクマ」と「一スタテル」と他の通貨単位と同じく音訳すればよいと思います。本来の「注」付きの聖書なら注にてディドラクメーが神殿税であることの説明を付すものですが、この聖書協会共同訳の注はそのような説明が付されないで、単に直訳・異訳などを付しているだけの「注」とも呼べない程度のものです。

 とりあえず25章までは気になったところをノートに抜き書きしているのですが、今回は17章までにしておきます。

つづく


聖書協会共同訳 2


聖書協会共同訳旧約続編付き Athanasius


 駆け足で新しく出た聖書協会共同訳聖書を見ていってます。正直、新共同訳の悪いところはそのままで、おかしな箇所が増えたという感じです。

 まず用語として

 聖書協会共同訳の巻末の用語解説にこうあります。

"キリスト ヘブライ語のメシア(油を注がれた者)のギリシャ語訳。ペトロの信仰告白「あなたはメシア(キリスト)」(マタイ16:16)のように、イエスの信仰的呼称となる(ヨハ17:3、使2:38、ロマ1:4)。なお、本訳ではギリシャ語校訂本(ネストレ=アーラント『ギリシア語新約聖書(第28版)』)で「クリストス」が大文字の場合は「キリスト」、小文字の場合は「メシア」と訳出している。ただしマタ1:16とヨハ4:25は例外。"
(用語解説 p.28)

 新約聖書において、ギリシャ語でヘブライ語メシアの音訳「メシッアス」(Μεσσίας、STRONG'Sナンバー#3323)は、ヨハネ福音書1:41、4:25の二箇所しか使われていません。それ以外はヘブライ語メシアのギリシャ語訳「クリストス」(キリスト、Χριστός、STRONG'Sナンバー#5547)が使われています。

 そして、この用語解説にて、"本訳ではギリシャ語校訂本(ネストレ=アーラント『ギリシア語新約聖書(第28版)』)"とネストレ校訂本が出て来ました。

 この聖書協会共同訳の新約の底本は、世界聖書協会連盟「ギリシャ語新約聖書」第五修正版(UBS版)ですが、翻訳するにあたって異文批評欄のあるネストレ校訂本を使うのは当然のことです(本来ならこちらを底本にすべき。本文批評をする能力のない人たちが単純化したギリシャ語の底本を欲し、そして作られたのが世界聖書協会連盟版の本文。残念なことに日本聖書協会の学者たちはこちらを底本に欲した)。

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 その中で、「キリスト」と言う語は形容詞でありますが、固有名詞的用法で語頭のXが大文字化されて使われてもいます。しかし、イエスの信仰的呼称(形容詞)と翻訳委員によって判断される箇所において、UBS版では固有名詞的用法で大文字Χριστόςが使われているので使用せず(ネストレ27版とUBS第四版で確認)、ネストレ版では形容詞χριστὸςと小文字表記になっているのでこれを根拠として、日本語で訳し訳ができないのでメシアと言う語に置き換えて訳したという事でしょう。

 これはカトリックの用例に従ったのでしょう。聖書協会の聖書は、口語訳聖書まではプロテスタントだけによる翻訳ですのでそのまま大文字も小文字も共に「キリスト」と訳されていました。カトリックでもラテン語訳ウルガタから訳されたラゲ訳やバルバロ訳なども「キリスト」と訳していましたが、UBS第三版を底本としたフランシスコ会聖書研究所訳はこの置き換えをしました(1980年の初版は持っていませんし、それ以前の分冊版でもそうなっていたかは分かりません)。ただカトリックとプロテスタントによる1978年の共同訳新約聖書において、すでにこの置き換えがなされていました。共同訳、新共同訳、聖書協会共同訳パイロット版、聖書協会共同訳とカトリックとプロテスタントの共同翻訳においてこの置き換えは定着してしまっています。

 ネストレがどういう意図で区別したかは分かりませんが(序文にも異文批評欄にも説明はない)、当然のことながらアンシャル体写本(大文字写本)でそんな区別はありません。キリストと書いているのだからそのままキリストと訳せばよいと感じます。それにそんなにこだわるのなら、今までの聖書協会発行の聖書と違い、聖書協会共同訳からは欄外に簡単な注を付けているのですから、そこに小文字大文字の別を書き込めばいいだけだと思います。わざわざ別な語に置き換える方が問題だと思います。

 次に、

"兄弟(きょうだい) 家族や親族、同国人など普通の意味で使われる場合もあるが(詩22:23、122:8、マタ4:18、7:3、ロマ9:3)、新約聖書における最も多い用法は、キリストを信じる者が互いに兄弟(女性は姉妹)と呼び合って、会衆(教会)の中の深い人格的な結び付きを表明する場合である(ロマ1:13)。今回の翻訳では、新約聖書において、明らかに男性を指す場合以外は「きょうだい」という表記を用いた。"
(用語解説 pp.27-28)

 こういう訳し分けは必要が無いです。そんなものは普通に中学までの国語能力有れば理解できます。それに平仮名表記される方が読み辛い。スコポス理論と言うのなら朗読のしやすさも考慮すべきです(「蝮」を「毒蛇」としたのはよいとして、読みとして「どくじゃ」では語感が悪いし、朗読しづらい)。

 "規定の病(きていのやまい) 旧約聖書のヘブライ語「ツァラト」、新約聖書のギリシャ語「レプラ」レプラの訳語。七十人訳ギリシア語聖書が「ツァラト」を「レプラ」と訳し、新約聖書は「レプラ」を踏襲している。「ツァラト」はその語源も意味も明らかでない。「ツァラト」は祭儀的な汚れという観点から人や物について書かれている。人について用いられている場合には、何らかの皮膚の疾患を指すが、病理学的にはいかなる病気であったか明瞭ではない。レビ記13~14章に詳しい記述がある。「レプラ」も同じく祭儀的な汚れの意味で用いられ、その病の人々をイエスが清められたことが、奇跡的な出来事として記されている。(マコ1:40-45、ルカ17:11-19)。"
(用語解説 p.27)

 これが一番ひどい訳(?)です。聖書においても差別用語云々と言った馬鹿げたへ理屈が吹き荒れ、口語訳、新共同訳からいくつかの語が別な語や表現に置き換えられました。その流れですが、 "病理学的にはいかなる病気であったか明瞭ではない" 古代の文書なんだからそんなことは当たり前で、語に差別的意味合いのあるのも当たり前。それを現代の社会や医療に合わせて細かく区分しようとしたり、差別的な表現をなくそうなんてするから、こんなバカげた翻訳モドキになる。翻訳できないなら新改訳みたいに音訳に留めておけばよいものを、無理して翻訳しようとして失敗したよい例。

つづく



聖書協会共同訳


 さて、夕方に予約注文していた「聖書 旧約続編付き 聖書協会共同訳」が届き、ざっと、マタイ福音書の数章を口語訳聖書、共同訳新約聖書、新共同訳聖書、聖書協会共同訳パイロット版、フランシスコ会聖書研究所訳聖書1984年改訂版、フランシスコ会聖書研究所訳聖書2011年改訂版、田川建三訳、岩隈直訳福音書などと比べてみました。

聖書協会共同訳旧約続編付き Athanasius


 ざっと見た感じ、良くはなってないよなという印象を持ちました。これはパイロット版を見た時も思いましたが、悪い点は改善されず、カトリックのフランシスコ会聖書研究所訳聖書の訳文に近づいた(引っ張られた)表現も見られ、なんだかなーと言った感じです。

 まず冒頭の系図は、「○○(父親の名前)は□□(息子の名前)を生み」と書いているのだからそのまま訳せばいいだろと思います。それを口語訳では、父が子供を産むわけがないなんてこと考えたのか、本文をいじって「○○は□□の父」などと改竄して表現しました。それを共同訳で「○○は□□をもうけ」と訳した後、それにつなげた表現として「○○は□□を」と簡略させたりもしていました。それをパイロット版では「○○は□□をもうけ」だけの表現に留めました。聖書協会共同訳ではパイロット版が継承されていました。

 田川訳と岩隈訳は直訳的なのでまず見たいと思います。、1章20節は"「彼は聖霊から生まれた」"となっていますが、新共同訳では"「聖霊によって宿ったのである。」"と訳されていましたが、パイロット版で"「聖霊によるからである」"となり、聖書協会共同訳では"「聖霊の働きによるのである」"と修正され、より説明的な訳文になっていました。

 3章15節のイエスが洗礼者ヨハネに"「今は許せ。我々はこのようにすべての義を満たすのがよろしいのだから」。"と言われましたが、新共同訳 "「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」"と意訳されていました。パイロット版では"「今はこのまま受けさせてほしい。このようにしてcなすべきことをすべてするのは、、我々にとってふさわしいことである。」"と意訳していますが、欄外に"c直訳「すべての義を満たす」"と直訳文を載せていました。そして、聖書協会共同訳では、"「今はそうさせてもらいたい。dすべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」"とパイロット版に比べて随分すっきりとしましたし、新共同訳のやぼったさもなくなりました。聖書協会共同訳でもパイロット版同様欄外にて、"d直訳「すべての義を満たす」"と直訳を載せています。

聖書協会共同訳新約聖書パイロット版


 山上の説教(山上の垂訓)については、まずパイロット版の段階で小見出しが気になりました。プロテスタントではカルヴァン主義者たちの影響により英国外国聖書協会の1804年に出された基本方針により、聖書に本文以外(章・節の番号は別として)を載せることができず、プロテスタントでは聖書協会から出される聖書には、長い間、注も小見出しもありませんでした(ルターの出した聖書には、各書に序文があり、旧約と新約の間に旧約外典が置かれていましたが、大陸にあった聖書協会は英国外国聖書協会の援助を得るためにはその方針に従わなければなず、その規定にあった聖書が流布して行く結果になりました。)。共同訳以来、聖書にカトリックの方針が入り、小見出しが付くことになりました。

 共同訳・新共同訳・聖書協会共同訳では小見出しは、底本となっている世界聖書協会連盟発行の「ギリシャ語新約聖書」(共同訳と新共同訳は第三修正版より訳され、パイロット版と聖書協会共同訳は第五修正版より翻訳)の小見出しをそのまま訳しています。

 しかし、パイロット版の山上の垂訓では、1節の前に"至福の言葉"という小見出しが付いていました。小見出しが違うので、持っている世界聖書協会連盟発行の「ギリシャ語新約聖書」の第四修正版を見ましたら何も変わっていませんでした。それで、もしかして底本になった第五修正版では変更になったのかもしれないとacademic-bible.comで確認してみました(このサイトは何年か前にSNSで教えて貰ていました)。そこでUBS GNT5で確認しましたら第四修正版と同じでした。すなわち共同訳や新共同訳と同じ小見出しだったという事です。しかし、届いた聖書協会共同訳を見ましたら元の新共同訳と同じになっていて、パイロット版で評判が悪くて戻したのか、それとも単に暫定的な小見出しだったのかもしれません。

 さて、山上の説教は新共同訳と同じく、未来形受動態を「である」体に訳していました。せめて新改訳(第一版から第三版)のようにὅτιを訳して「・・・れるからです。」とするか、口語訳のようにὅτιを訳さずとも「・・・であろう。」と未来形にしてくれたらよかったのにと思いました。

 あと、ローマの信徒への手紙3章はいただけない。

"   神の義が現わされた
 21 しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証されて、神の義が現わされました。 22 神の義は、cイエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。 23 人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、 24 キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。 25 神はこのイエスを、d真実による、またその血によるe贖いの座とされました。ご自身の義を示すためでした。 26 神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした。"

 この真実(ピステウオー)と贖いの座(ヒラステリオン)の訳文はいただけない。

ピステウオーはパイロット版の「信実」の方がマシだった。田川訳のように「信」と訳す方がいいのだが、「真実」では・・・と言った感じ。

 あとヒラステリオンを、この個所で「贖いの座」(この語意はある。ヘブライ9:5 新共同訳「償いの座」)と訳すのには違和感がある。フランシスコ会聖書研究所訳(1984年改訂版、2011年改訂版共にこの語に訳されている)というかカトリックの委員に引っ張られた印象を受ける。

 文章としては、新共同訳の "神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 " の方が一読で理解できますが、「贖いの座」訳されれば神殿祭儀をよく理解していない人には何のことか理解できないだろう。また、カトリックの祭壇で献げる生贄を想起させる。カトリックにとっては都合がよい訳と感じられる。

 とりあえずパッと見だけですがこんな印象を持ちました。





法華経や日蓮について感じたこと 5


 なぜ、法華経や日蓮、日蓮系カルト宗教に対して嫌悪感を持ってしまうのか。普通の日蓮宗(普通の釈迦本仏論に立つ日蓮宗)については、嫌悪感もなく、日本式仏教の宗派やお寺の一つくらいにしか感じないものの、日蓮本仏論に立つ日蓮系とその破壊的カルト的信徒団体。それの元信徒団体で宗門から離れて行った新興宗教諸団体に関しては、ウジ虫が湧いてコバエが飛んでいる状態の生ごみの入った台所の三角コーナーの生ごみ汁のように、思わずその腐臭と状態に嘔吐いてしまうほどの嫌悪感を覚えてしまいます。

 講員の書いた自分たちの教えの普及のための破折パンフレットなるものを見た時、1 表 1 裏 、 2 表 2 裏 、三角コーナーの生ごみの汁がはねてひっかかって付いたような嫌な感じを受けます。以前YouTubeでこのパンフレットができたのを講員同士で自画自賛している動画を見た時、此れこそ日蓮が「立正安国論」で言っている"辛きを蓼葉に習ひ臭きを溷厠に忘る。"(「平成新編日蓮大聖人御書 大石寺」p.242)、というやつなんだろうなぁと思いました。

 謗法と罰、そして謗法の者の臨終の相、他宗への誹謗しか無いパンフレット。破門した宗門側の講員に残る、あのいやらしい戸田城聖時代の創価学会の体質が今も色濃く残っているのでしょう。昔、仕事中、「お兄さんどんな宗教を信じているの?」とこちらの宗教を訪ねてきて、それに答えると学会員のおばはんが聖教新聞片手に「あなた○○なんて信じていると不幸になるわよ」なんて初対面にも関わらずぶしつけに言ってきたあの醜悪な顔を思い出します(その後も何日もしつこかった。: この当時はまだ学会は講中)。また、町内の学会員がしつこく聖教新聞を取るように勧誘してきたり、時にはかってに何カ月間送って来たり(向こうでお金払っているんだろうけど)、選挙時期になれば近所の学会員が熱心に公○党の応援をお願いに来りしたものです。あるクリスチャンの最近の体験には、顕正会の勧誘にあって「いいですか、教会に行ったって幸せになれませんからね・・・・」と後ろから罵倒されたという体験談があり、富士門流は講中も破門された団体の信徒も体質は同じだなと思いました。YouTubeなんかで見ると、顕正会はより強く言葉がまるで通じないようではあるなとも感じました。

 「守護國界主陀羅尼經卷第十 阿闍世王受記品第十」(経典の個所としては「SAT DB 大正新脩大蔵経テキストデータベース」で言うならT0997_.19.0574a02:~T0997_.19.0574c24:の個所記述)の臨終の相を援用していたり、日蓮の遺文で以下のものなど

報恩抄  建治二年七月二一日 (霊艮閣版 報恩抄(下))

"死してありければ身やう(漸)やくつヾ(縮)まりちひ(小)さく、皮はくろ(黒)し、骨あらわ(露)なり等云云。人死して後、色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀(ぶっだ)の金言ぞかし。"
(「平成新編 日蓮大聖人御書 大石寺」 p.1023 、霊艮閣版 p.1488)


千日尼御前御返事 弘安元年閏一〇月一九日 

" 人は臨終の時、地獄に墮つる者は黒色となる上、其の身重き事千引(ちびき)の石(いわ)の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、軟(やわ)らかなる事兜羅綿(とろめん)の如し。"
(「平成新編 日蓮大聖人御書 大石寺」 p.1290 、霊艮閣版 p.1816)


神国王御書 弘安元年(霊艮閣版 建治元年、乙亥)

 善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)・金剛智(こんごうち)三蔵・不空(ふくう)三蔵等の三三蔵は一切の真言師の申すは大日如来より五代六代の人々、即身成仏の根本なり等云云。日蓮勘(かんが)へて云はく、法偸(ほうぬす)みの元師なり、盗人の根本なり。此等の人々は月氏よりは大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしっじ)経等を齎(もたら)し来る。此の経々は華厳・般若・涅槃経等に及ばざる上、法華経に対すれば七重の下劣なり。経文に見へて赫々(かくかく)たり明々たり。而るを漢土に来りて天台大師の止観(しかん)等の三十巻を見て、舌をふるい心をまどわして、此に及ばずば我が経弘通しがたし、勝れたりとい(言)はんとすれば妄語(もうご)眼前なり、いかんがせんと案ぜし程に、一つの深き大妄語を案じ出だし給ふ。所謂(いわゆる)大日経の三十一品を法華経二十八品并(なら)びに無量義経に腹あ(合)わせに合はせて、三密の中の意密をば法華経に同(どう)じ、其の上に印と真言とを加へて、法華経は略なり、大日経は広なり、已(い)にも入れず、今(こん)にも入れず、当(とう)にもはづれぬ。法華経をかた(方)うど(人)として三説の難を脱れ、結句は印と真言とを用ひて法華経を打ち落して真言宗を立てゝ候。譬へば三女が后と成りて三王を喪(ほろぼ)せしがごとし。法華経の流通の涅槃経の第九に、我れ滅して後(のち)悪比丘等我が正法を滅すべし、譬へば女人のごとしと記し給へるは是なり。されば善無畏三蔵は閻魔(えんま)王にせめられて、鉄の縄七脈(すじ)つけられて、から(辛)くして蘇(よみがえ)りたれども、又死する時は黒皮隠々として骨其れ露(あらわ)ると申して無間(むけん)地獄の前相其の死骨に顕はし給ひぬ。人死して後(のち)色の黒きは地獄に堕つとは一代聖教に定むる所なり。"
(「平成新編 日蓮大聖人御書 大石寺」 p.1303 、霊艮閣版 pp.1360-1361)


法尼御前御返事    弘安三年七月一四日

めうほうれんぐゑきゃう(妙法蓮華経)をよるひる(夜昼)となへまいらせ、すでにちかくなりて二声かうしゃう(高声)にとなへ乃至いきて候ひし時よりもなをいろ(色)もしろ(白)く、かたちもそむ(損)せずと云云。
 法華経に云はく「如是(にょぜ)相乃至(そうないし)本末(ほんまつ)究竟等(くきょうとう)」云云。大論に云はく「臨終(りんじゅう)の時色黒きは地獄に堕(お)つ」等云云。守護経に云はく「地獄に堕つるに十五の相、餓鬼に八種の相、畜生に五種の相」等云云。天台大師の摩訶止観(まかしかん)に云はく「身の黒色は地獄の陰を譬ふ」等云云。
 夫(それ)以(おもん)みれば日蓮幼少の時より仏法を学し候ひしが、念願すらく、人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬(なおたと)へにあらず。かし(賢)こきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしと思ひて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんが(勘)へあつ(集)めて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、すこ(少)しもくもりなし。此の人は地獄に堕ちぬ乃至人天とはみへて候を、世間の人々或は師匠・父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生(せいほうじょうどおうじょう)とのみ申し候。悲しいかな、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しのびがたければ、弟子はとゞまりゐて師の臨終をさんだん(讃歎)し、地獄の苦を増長せしむる。譬へばつみ(罪)ふかき者を口をふさいできうもん(糾問)し、はれ物の口をあけずしてやま(病)するがごとし。
(「平成新編 日蓮大聖人御書 大石寺」 p.1482 、霊艮閣版 pp.1749-1750)


光日上人御返事    弘安四年八月八日

"悪人は風と火と先づ去り、地と水と留まる。故に人死して後、重きは地獄へ堕つる相なり。善人は地と水と先づ去り、重き物は去りぬ。軽き風と火と留まる故に軽し。人天へ生まるゝ相なり。"
(「平成新編 日蓮大聖人御書 大石寺」 p.1564 、霊艮閣版 p.2062)


などの文証を根拠に、あのいやらしい考えを載せていたりします。わたしの亡くなった両親などは、生前一貫して大の学会嫌いでしたが(昔学会の幹部から受けた仕事で、支払いもされずにドロンされたこともあって)、死ぬときには肌は黒くなることもありませんでしたし、安らかな顔で苦しむことなく旅立って逝きました。あの嫌悪すべきいやらしいパンフレットのようなことは何もありませんでした。

 また、多くの人もあんな死相が現れたり、苦しんだり、肌が黒くなったりなんて、癌だとかその他の病気、器質的な要因でそうなったり、社会的な状態に起因するのであって(日蓮の時代の医療や衛生、食料摂取の水準、また社会情勢だろう。記述状態なんかは野ざらしの屍のことだろ。この当時の仏教の宗祖などの記述にも屍が道端にあるような記述もあったと記憶しているが、そういうものを見ている日蓮が守護國界主陀羅尼經なんかの記述と自身の頑迷さが相まって、そのよう信じ込み、それを書き送っただけだろ。)、法華経や日蓮を信じるとか誹謗したからと云う事で変わるわけではない。そういう古代の文書のバカげた迷信を現代社会で布教に利用するあたり盲目になっているのだろう。

つづく



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