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聖書協会共同訳聖書 9


 前回はピスティス(πίστις)について見ましたが、今回はピストス(πιστός)について見ました。

キリスト教大事典 旧約新約聖書語句大辞典 Athanasius

 これもギリシャ語のコンコルダンス「Handkonkordanz zum griechischen Neuen Testament」(Württembergische Bibelanstalt Stuttgart)で当該箇所を調べました。このコンコルダンスと「旧約新約聖書語句大辞典」(教文館)を使用し、口語訳聖書を調べ、次いで聖書協会共同訳聖書、田川訳、新聖書翻訳事業パイロット版を比べてみました。

Handkonkordanz zum griechischen Neuen Testament. Athanasius記名

ギリシャ語のコンコルダンスでピストスの用法が三つに区分されていて、一番目が 1) de Deo, de Christo dictum(神について、キリストは言いました:Google翻訳使用、以下同じ)、2) de hominibus dictum(人から言いました)、3) de rebus, imprimis de verbis(事項、特に付き)、この三つの区分・用法に、聖書協会共同訳聖書の翻訳も沿っています。

 第一の区分は、ほぼこれらを「真実」(パイロット版は「信実」)と訳し、文章の流れ上そう訳せない箇所(ヘブライ書)と黙示録(こちらは同じ文章の中に「真実」(ἀληθινός、アレーティノス)と訳すべき言葉があるためにそう訳せない箇所のみ「忠実」にしています。

 第二の区分は、「真実」(パイロット版「信実」)と訳している個所は、聖書協会共同訳聖書とパイロット版ともに一か所もありません。

 第三区分では、第一テモテ(全3か所)、第二テモテ(全1か所)、テトス(1か所)でだけ、聖書協会共同訳聖書とパイロット版で「真実」(パイロット版「信実」)と訳されていました。他の五か所は別な訳語です。

 しかし、第一区分と第二区分で重複する文書、第一コリント、第二コリント、第二テモテ、ヘブライ、第一ペトロで筆者は、同じ単語を使用する際、神やキリストに対しては「真実」(「信実」)の意味、信徒に対しては「忠実」などと仕分けする意図があったとは思われません。

田川訳 携帯版 記名入り

 田川訳なんかは素直に、文脈上「信実」と訳せるところはそのような区分をせずに訳していますが、その方が自然だと思います。

 翻訳委員会は、まあ、去年流行った言葉じゃないですが「忖度」している感じがします。聖書の原語はドライで日本語みたいに「イエスは言われた」などとせず、単に「彼は言った」と書かれていますが、日本の翻訳者は畏れ多い、不敬と感じたのか、それとも信徒は誰が誰に言っているのか理解できないと思ってなのか、そう言う個所に来ると意訳して「イエスは言われた」みたいな訳し方をします。このピストスの区分の訳し分けも、ドイツの研究がそうしているのだから何も考えず右え倣えしたのか、不敬だと思い忖度したのか、両方なのか、浅さが透けて見えてくる感じがします。

 それにしてもこの翻訳委員たちは「真実」という語が好きだな~と感じます。

 しかし、もし「真実」がピスティスやピストスの訳語として本当にふさわしいのなら、そう訳していない(文脈上そう訳されない箇所じゃない箇所)に、その語「真実」を置き換えてみておかしな文章にならなければまだしも、置き換え見て意味が通らなくなるのですから、それはその語の使い方としてどうなの? と首をかしげたくなります。しかし、これが当初パイロット版で使われていた「信実」なら、そう言うおかしなことにはなったりしませんでした。

 マタイ24:45の口語訳からの引用です。田川訳は「信実」と訳している個所です。

"主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。 "

 ここの「忠実」の語はピストスの第二区分なのですが、これを「信実」に置き換えて見ても意味は通りますし、このしもべが単に「忠実」なだけではなく、"まじめで偽りがないこと。打算がなく誠実であること。また、そのような心や、そのさま。"(コトバンク「信実」より)を持ったしもべであるからこそ「思慮深い」とも言われることが、よりよく理解できます。しかし、ここに「真実」のことばを置き換えてみると意味がまったく通りません。

 次にこれも第二区分の第一コリント4:2の個所ですが、第一コリントは第一区分と第二区分が重複している文書です。ここも田川訳は素直に「信実」にしている個所です。

4:1このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。 4:2この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。

 ここも「忠実」を「信実」に置き換えた方がより一層意味が深化されると思います。しかし、「真実」では求められていることがとても狭くなってしまいます。

 語の訳し方として、文意の小さい語意を前面に出して、神やキリストにはこれ、としているのに無理があると感じます。ギリシャ語のコンコルダンスの区分に従うにしても、パイロット版の「信実」にしておけば、無理矢理な訳にはならなくて済んだと思います。

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聖書協会共同訳 8


聖書協会共同訳旧約続編付き Athanasius


 聖書協会共同訳を読み進めますと、おかしな訳語に出逢うことがよくあります。これは以前も軽く触れたのですが、この聖書協会共同訳においてピスティスの語を「真実」とお訳しになっている個所が数か所あります。日本聖書協会の方ではそのことをこのように宣伝しておられました。

小冊子 聖書聖書協会共同訳について 聖書聖書協会共同訳特徴と実例 Athanasius


 まず出版前に出された小冊子では

"(二)新しい聖書学の成果を生かす
聖書協会共同訳の原語担当翻訳者や、原語担当編集委員は日本の聖書学を担っている方々ですので、最新の聖書学の成果が随所に表されています。以下にそのごく一部をご紹介します。
・・・
④「キリストの真実」(ローマ三22)
この節は従来、以下のように訳されてきました。
 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。
            [新共同訳]
 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。
             [新改訳2017]
しかし、ピスティス・クリストゥという句は、両義的で、「キリストへの信仰」、あるいは、「キリストの真実」という意味があり、文脈によって訳し分けるべきであることが明らかになってきました。ロマ三21─26は、「神の義」がテーマですので、そこでは「キリストの真実」と訳すことにしました。
 神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現されたのです。
             [聖書協会共同訳]
この訳ですと、救いが神の業であり、神がアブラハムへの約束を守る正しい方であることが、浮き彫りになってきます。三27以降は、信仰義認が主題となりますので、「信仰」となります。ちなみに、ギリシア語では、従来22節で「与えられる」と訳された箇所には動詞はありません。動詞を補って訳出する場合は、21節の「現される」を補うべきですので、そのように改訂されています。以下に、聖書協会共同訳の三21─31を引用しました。ゴチックは小見出しです。
・・・"
(「聖書 聖書協会共同訳 特徴と実例」 日本聖書協会 2018年1月1日発行)


と触れていました。出版後に出された小冊子では、更に


"重要な訳語の変更
・・・
もう一つは新約におけるギリシア語「ピスティス・クリストゥ」の訳語です。「ピスティス・クリストゥ」の訳については、新翻訳事業の作業が始まった二〇一〇年から重要な課題となり、事業に参加した諸教派の神学者・牧会的指導者の意見も聴取しながら、検討を重ねました。「ピスティス・クリストゥ」は、「キリストへの信仰」と「キリストの真実」の両方の訳が可能です。第七回検討委員会(二〇一七年三月一三日)は、限定した部分に限り主格的属格の意味で訳すことを承認し、「キリストの真実」とする合意に達しました。「限定した部分」とは、ロマ三22、25、26、ガラ二16-20、三22-26、エフェ三12、フィリ三9、「神は真実な方」(二コリ一18)などの場合です。ただし、「キリストの真実」と訳した場合も、「キリストへの信仰」の別訳が可能であることを欄外に注記しています。
このうちローマの信徒への手紙三章について若干の説明をします。パウロは「神の義」について、神は、アブラハムへの約束をイエスの十字架によって果たし、そのキリストを信じる者を義と認めることで、ご自身が義であることを現されたことを述べていると考えられます。21節から26節はその神の義がテーマなので、「神の義が現された」という小見出しを付け、その中で「キリストの真実」と訳しています。これに対して27節以降は、信仰による義認がテーマとなるので、「信仰による義」という小見出しを付け、そこでは、伝統的な「キリストへの信仰」を前面に示す訳となっています。したがって、今回、「キリストの真実」という訳語を採用したからといって、「信仰による義認」というパウロの立場を否定するものではありません。"
(「聖書 聖書協会共同訳について」 日本聖書協会 2018年12月15日発行)

とあります(こういう宣伝や自画自賛の多いのにろくなものはない)。

聖書協会共同訳新約聖書パイロット版


 ここから解るのは、2016年に発行されていた「新翻訳事業パイロット版」の「ローマの信徒への手紙」(4月1日発行)・「ガラテヤの信徒への手紙」(5月1日発行)・「エフェソの信徒への手紙・フィリピの信徒への手紙」(2月1日発行)のピスティスの一部の訳語「信実」が「真実」という別な語に変更なったという事が、最初の小冊子が、パイロット版の発売が終わってちょっと経った、聖書協会共同訳聖書の出版の約一年前弱にローマ三章の数節の変更が分かるようになり、聖書協会共同訳が出版された後、まだ多くの読者が読み始めたり、調べ始めたばかりのころに、もう一つの小冊子が出され批判の軽減を図っているように感じられました。

 聖書協会よりも前に、田川訳がこのピスティスの語を「信」・「信実」・「信仰」・「信頼」(田川訳ではピスティスは主にこの四つ。使徒17:31「保証」、黙2:13「忠実な」などもある)と訳し、そのことについては、田川訳ですでに詳しい注の中で田川氏によって述べられています(第1回配本は2007年7月の「パウロ書簡 1 (第1テサロニケ、ガラティア、第1第2コリントス)」で、当該ガラテヤ書がある )。


The STRONGEST STRONGS Athanasius

Handkonkordanz zum griechischen Neuen Testament. Athanasius記名


 今回、ピスティスについて、まずAuthorized Version(ジェームズ王欣定英語訳聖書) のコンコルダンスである「STRONG'S」で当該箇所を調べ(デカくて重いのが難点)、続いてギリシャ語のコンコルダンス「Handkonkordanz zum griechischen Neuen Testament」で、ピスティスの個所を全部ノートに書き出し、Greek Interlinearと口語訳の和英対照(RSVとの対照)で、ギリシャ語原文とRevised Standard Versionと口語訳の訳文を確認し、Revised VersionやNew King James Versionなんかでも確認しつつ、ラテン語やウルガタ、ウルガタから訳されたラゲ訳(1910年版)、田川訳も比べるというアナログな調べ方をしました。

 ほぼ英訳は「faith」、口語訳は「信仰」、ウルガタは「fides」でした。しかし、ローマ1:17、3:22なんかはBible Hubのサイトでいろいろな英訳並べて出てくるのでざっと流して見て見ましたが、「真実」(truth、reality)は見当たらなかったです(老眼にとって小さい文字見るのはキツイ。見落としがあるかもしれません。)。

 ピスティスの語をギリシャ語の辞典で見て見ますと

"πίστις, -εως, ἡ : [< πείθω] ①信頼(用)を呼び起こすもの: ㋑忠誠(信),忠(信)実;マタ23・23,ロマ3・3,ガラ5・22. ㋺誓い,誓約;Ⅰテモ5・12. ㋩証拠,保証;行17・31。 ②信ずる事,信頼,信仰;(正しい宗教的態度,真の敬虔としての)ルカ18・8,行6・5,ヘブ11・1,6. ⦅τινός (目的語的 属),εἰς τινα , ἐν τινι ,ἐπί ・πρός τινα …に対する⦆マコ11・22,ピリ1・27,Ⅰテサ1・8,ヘブ6・1.~Ἰησοῦ Χριστοῦ (も同様)ロマ3・22(主語的 属 「イエス・キリストの(持ってい給う)信仰(あるいは、信実)」と解する者もある.しかし多分目的語的).ヤコ2・1.~ μου 私(イエス)に対する信仰;黙2・13.しかし,この 属 をパウロの場合に,主語的 属 に,あるいは神秘的交わりの 属 に解する者もある. ~ διά τινος 某によって呼び起こされた信仰;行・ロ.(特殊な意味・種類の信仰)ルカ17・5(イエスの奇跡能力に対する),Ⅰコリ12・9,13・2.(教え・教義を受け入れる意)ヤコ2・14,17.(信仰の自由・強さの意)ロマ14・22.③⦅客観化されて⦆信仰の教え(使信),(従って)キリスト教;ガラ1・23,3・2? ユダ3."
(「増補・改訂 新約ギリシャ語辞典」岩隈直著 山本書店 p.383)

とあります。この辞典の

"⦅τινός (目的語的 属),εἰς τινα , ἐν τινι ,ἐπί ・πρός τινα …に対する⦆マコ11・22,ピリ1・27,Ⅰテサ1・8,ヘブ6・1.~Ἰησοῦ Χριστοῦ (も同様)ロマ3・22(主語的 属 「イエス・キリストの(持ってい給う)信仰(あるいは、信実)」と解する者もある.しかし多分目的語的)."

の説明は、田川訳の注にもみられる考え方でしょうね。

 ピスティスの語源πείθω(ペイトー)から見ても「真実」は違うなと思いますね。

コトバンク
"しん‐じつ【信実】
[名・形動]まじめで偽りがないこと。打算がなく誠実であること。また、そのような心や、そのさま。「信実を尽くす」「信実な人柄」 "

コトバンク
"しん‐じつ【真実】
[名・形動]
1 うそ偽りのないこと。本当のこと。また、そのさま。まこと。「真実を述べる」「真実な気持ち」
2 仏語。絶対の真理。真如。"

 「真実」では意味が通じないし、ピスティスの持つ語意を表現できない。キリストの「真実」、下手な週刊誌のタイトルかよ。

 パイロット版の「信実」に今からでも遅くないから戻すべき。これなら意味が通る。あと属格なのだから「への」なんて付けるなと思う。聖書協会の翻訳は一度定着したものは間違っていても是正されない典型なので(いまだに「心の貧しいものは幸い」なんて訳語、恥ずかしげもなく出すぐらいだから)期待はできないか。



 

聖書協会共同訳 7 と聖書の訳


聖書協会共同訳旧約続編付き Athanasius


 聖書協会共同訳のマタイと使徒言行録を読み終わり、「う~ん」としか出てこない。前回の続きで使徒言行録の変な個所については、いろいろとありましたが、今回は一つだけを取り上げて見ます。

 聖書協会共同訳 23章3節
"パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従って私を裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、私を打て、と命令するのですか。」"

 新共同訳と「わたし」が「私」と漢字になっただけの違いです。パウロが口元を殴られたのか、 引っ叩かれて反射的に言った言葉なのに、なんともお上品じゃありませんか。こういう場面ならもっと語調も厳しく棘のある言い回しになるものです。

新改訳聖書2017 Athanasius


 この点、新改訳2017の方が、それまでの新改訳(第一版から第三版)の柔らかい言い方を改めていますし、原文にない「ああ」などと言う感動詞を無くして改善してします。

 新改訳(第一版から第三版)
"そのとき、パウロはアナニヤに向かってこう言った。「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」"

 新改訳2017 23章3節
"そこで、パウロはアナニヤに向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたを打たれる。あなたは、律法にしたがって私をさばく座に着いていながら、律法に背いて私を打てと命じるのか。」"

 こういうものを目にすると聖書協会共同訳の翻訳委員は、日本語の専門家を入れていると言いながら、日本語のセンスというより、言葉のセンスがないのだなと感じてしまう。

 他にもいろいろと目につくものはあるが、一つ一つ挙げて行くのも面倒です。

田川訳 携帯版 記名入り


 さて、田川訳の「新約聖書 本文の訳 携帯版」(作品社)をパラパラパラとめくっていた時、巻末の解説の所で「野菜畑」の文字が飛び込んできて、ちょっと気になったので読み返してみました(前読んだ時には気にならなかったのだが)。

" 実例を二つ。マルコ六・四〇。イエスの話を聞こうと大勢の人が集まって来た。イエスは彼らを草の上に座らせた。「彼らは、百人ずつ五十人ずつ、野菜畑のように座った」。原文にははっきり「野菜畑」(ないし葱畑)という語が用いられている。確かに、日本語には「野菜畑のように座る」という表現はない。それで口語訳は勝手に「列をつくって」とお訳しになった。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。しかしいずれにせよ、「野菜畑」という語を「列をつくる」という意味に用いる用例なぞ知られていない。それにギリシャ語でも当然「列をつくる」ぐらいの表現はある。もしも著者がそう言いたかったのなら、そう言っただろう。いずれにせよ、表現として「野菜畑のように座る」と言われれば、なんとなく雰囲気として目に見えるような感じになる。それなら無理をしないで、そのまま「野菜畑のように座った」と訳しておけばいいではないか。それを、こっちの方が日本語としてよく感じますから良い「意訳」です、なんぞと主張なさったら、原文の味が消えてしまう。"
(pp.473-474)

あれ、そんな注あったかな、なんて思いつつ「新約聖書 訳と註 1 マルコ福音書/マタイ福音書」(田川建三訳著 作品社)の方を開いてみました。そうしたら「あったよ」でした。

"40 野菜畑のように これも前節の「組々」と同じで、単に「野菜畑」という語の複数形を二つ並べているだけである(prasiai prasiai)。まあ、気分の出る表現ではあるが。口語訳はこれを「列をつくって」と意訳なさった。この語、もともとは葱畑を意味する。そうすると、葱坊主がきれいに列をつくって並んでいる場面を想像なさって、こうお訳しになったのだろうが、単語の意義としては「葱畑」であっても、もはやこの語は広く一般に「野菜畑」を指すようになっている。かつ、続いて「百人ずつ五十人ずつ」とある。つまり百人ごとにないし五十人ごとに組をつくってかたまって座った様子が野菜畑みたいな感じだった、と言っている。口語訳みたいに「列をつくって」だと、縦横百人×五十人の列をつくって、というおつもりなのだろうが、原文はそこまで算術的に考えているわけではない。むしろ新共同訳のように全体の意をくんで、「百人、五十人ずつまとまって」と訳すのがいいだろう。"
(p.244)

そこでUSB第四版で「πρασιαὶ  πρασιαὶ」の表現箇所を確認し、ギリシャ語辞典と他の翻訳ではどうなっているのか気になり見て見ました。

○聖書協会共同訳
  "人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。"
これと類似する訳には、新共同訳、共同訳、新改訳(第一版から第三版)、新改訳2017、フランシスコ会聖書研究所訳(1984年改訂版、2011年改訂版)、ラゲ訳(1910年版、1959年当用漢字版)、バルバロ訳(講談社版)、本田哲郎訳、キリスト新聞社口語訳、岩波書店新約聖書翻訳委員会訳、リビングバイブル(1984年版)、泉田昭訳(国際ギデオン協会「ニューバイブル」)、創造主訳、エターナル・ライフ・ミニストリーズTR新約聖書、新世界訳、回復訳(web、これのフットノートの説明はよい)

○口語訳
  "人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。"
これと類似する訳には、明治元訳、ニコライ訳、岩隈直訳、塚本虎二訳

○大正改訳
  "或は百人、あるひは五十人、畝(うね)のごとく列びて坐す。"
これに類似する訳は、詳訳

○永井直治訳「新契約聖書」1928年(web)
  "されば彼等は百〔人〕、また五十〔人〕つつ、畝々(うねうね)〔の如く〕に席に着けり。"

 田川訳の畑を思わせる訳は、大正改訳、永井直治訳、詳訳があります。その中で「列」という語を使ってるいないで分けました
(「畝」自体が「列」みたいなものですが)。

黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版を見ますと、

"註解: 組々となるのは家における食卓の形をここに現さんとしたもの。畝のごとく列(なら)んだのはその間を弟子たちが食物を分配するために通り易からしめたのである。イエスはここに神の国の家族の食卓の光景を出現し給うた。
辞解
[組々] sumposia sumposia 同一の語を繰返してその数の多きことを示す。「組」は食卓につく一組のこと。「畝のごとく」 prasiai prasiai 畝々。"

とありました。


文語訳と詳訳 記名入り


 この中でも詳訳聖書は面白い訳文です。

"そこで人々は百人、あるいは五十人ずつの列を作って腰を下ろした<花壇のように整然と並び、まるで庭園のようであった>。"

Amplified Bible
"40 So they threw themselves down in ranks of hundreds and fifties [with the [r]regularity of an arrangement of beds of herbs, looking [s]like so many garden plots]. "

英語版の通り訳されています。しかし、Bible Gatewayのサイトで、Amplified Bibleを見ると訳文が変わっていて、手元にあるAmplified Bibleと訳文違うなと思ったら、サイトの方ではわたしの持っている詳訳の英語版は、Amplified Bible, Classic Edition ということになっていました。

 新しいAmplified Bibleの訳文では、聖書協会共同訳などと同じ一つのまとまりになっています。訳語の補足(日本語版では山括弧< >で囲われている個所。英語版では角括弧[ ]で囲われている個所の説明は、整然とした並び)

Amplified Bible
"40 They sat down in groups of hundreds and of fifties [so that the crowd resembled an orderly arrangement of colorful garden plots]."

THAYERS GREEK LEXICON 記名入り


セイヤーの希英辞典
"πρασιά, πρασιας, ἡ, a plot of ground, a garden-bed, Homer, Odyssey 7, 127; 24, 247; Theophrastus, hist. plant. 4, 4, 3; Nicander, Dioscorides (?), others; Sir. 24:31; ἀνέπεσον πρασιαί πρασιαί (a Hebraism), i. e. they reclined in ranks or divisions, so that the several ranks formed, as it were, separate plots, Mark 6:40; cf. Gesenius, Lehrgeb., p. 669; (Hebrew Gram. § 106, 4; Buttmann, 30 (27); Winer's Grammar, 464 (432) also) § 37, 3; (where add from the O. T. συνήγαγον αὐτούς θημωνιας θημωνιας, Exodus 8:14)."
(「THAYER'S GREEK LEXICON of the NEW TESTAMENT」 HENDRICKSON社 p.535)

の訳語、a plot of groundやa garden-bedからだと現代なら整然と並んだガーデンベットを想像してしまいます。

ブラシア 辞典付き


「増補改訂 新約ギリシヤ語辞典」(岩隈直著 山本書店)
"苗床、花壇、畝;⦅比⦆ ~αί~αί 組組に、組をなして、(セム語法? 口語的表現でもある);マコ6:40"

「新約聖書ギリシャ語小辞典」(織田昭 編 クリスチャンセンター書店)
"花壇、苗床などの長方形の列;マル6:40、πρασιαὶ πρασιαὶ, 青草の上にいくつもの長方形の花壇のように整然とすわった人々の群れを、同格の nom. で副詞的に表現した句。"

と、織田昭氏の辞典の方では、口語訳的な見立てをしています(文法上の事ではないので、織田昭著「新約聖書のギリシャ語文法」3巻本では特に言及はされていませんでした。)。

 いろいろ翻訳を並べてみるとそれぞれいいところ悪いところがあり、「これこそ」というものが無いのも現実です。そのためにいろいろな訳を比べて見たり、原文を調べたり、ギリシャ語辞典もいくつか用意して比べて見たりしないと、一つのものばかり使っていると気が付かないでいることになったりします。



聖書の訳 エウテュコの話


聖書協会共同訳旧約続編付き Athanasius


 さて、聖書協会共同訳で使徒言行録を読み進めていますが、ふと20章7節から12節までの話を読んでいて、以前から奇跡譚として違和感のある物語でしたが、短い取るに足りない話でしたのであまり詳しくは後追いなどしないで通過していました。今回の通読でもまた違和感を覚え、原語ではどうなっているのかな? とGreek Interlinearを手に取り見て行くと、「えっ!! 奇跡話じゃない」と思いました。

Greens Literal Translation Athanasius


ἤγαγον     δὲ  τὸν  παῖδα  ζῶντα,
They brought  and  the  boy  living.

 それで直訳の「新約聖書 訳と註 2下 使徒行伝」(田川建三訳著 作品社)を見ますと、

20:7 週のはじめに我々はパンを割くために集った。パウロは、翌日出発しようとしていたので、彼らに話をし、その言葉は夜中まで及んだ。
20:8 我々が集っていた階上の間には十分に燈火があった。
20:9 エウテュコスという名の若者が窓に座っていたのだが、パウロが更に話し続けていると、深い眠りにおそわれ、眠りに突つかれて三階から落ち、起こしてみると死んでいた。
20:10 パウロが下りてきて、彼の上に身をかがめ、抱きあげて言った、「騒ぐな。まだ息をしている」。
20:11 そして上がって行って、パンを割き、食べ、また明け方まで十分に話をし、そうして出発した。
20:12人々はその少年を生きて連れて帰った。彼らは少なからず呼びかけられたのであった。

 そして、註では 

"起こしてみると死んでいた 我々なら、「死んでいるかと思った」と書くところだが、彼らのものの言い方では、こういう時にはこういう省略表現をする。つまり、本当に死んでいた、というわけではなく、単に最初にだきおこした人たちは、早合点して、死んだと思って騒ぎ立てた、というだけのこと。"

"・・・だいたいこの話は奇跡物語でも何でもない。三階(?)から落ちたけれど、幸い生命に別状がなかった、運がよくてよかったね、と言うだけの話である。・・・" 

と、説明されていて(もっと詳しく7~12節で2頁半ほど)、これなら納得だなと思いました。

 なにも復活の奇跡と受け止めないのは、田川建三だけの独自なものではなく、昔の日本基督教団出版局の口語訳聖書の略解でも、

"この記事は、治療という意味での奇跡ではないが、聖霊による洞察力が示されている。神の力の表現と、対象に対する愛の行為という本来的な意味では、これも奇跡である。"

とあります。

 エウテュコの名前も「幸運」という意味ですし、話にピッタリとハマります。そして、他の翻訳はどうなっているのかと思い見て見ました。引用は主なものに絞りました。

エウテュコス


明治元訳
20:7一週の首の日〔我|われ〕らパンを擘ために集りしがパウロ次の日出立ん事を意ひ彼等に道をかたり講つづけて夜半に至れり
20:8彼等が集れる樓に多の燈あり
20:9ユテコと名る一人の少年窓に倚て坐し熟睡り居しがパウロの道を語れること久かりければ彼睡に因て三階より墜これを扶起ししに既に死り
20:10パウロ下て其上に伏これを抱て曰けるは爾曹憂咷ぐ勿れ此人の生命は中にあり
20:11斯てパウロ復上りパンを擘て食ひ久しく彼等と語り天明に及て出立り
20:12人々この少年を携へ其活るを見て甚だ慰めり

大正改訳
20:7一週の首の日われらパンを擘かんとて集りしが、パウロ明日いで立たんとて彼等とかたり、夜半まで語り續けたり。
20:8集りたる高樓には多くの燈火ありき。
20:9ここにユテコといふ若者窓に倚りて坐しゐたるが、甚く眠氣ざすほどに、パウロの語ること愈々久しくなりたれば、遂に熟睡して三階より落つ。これを扶け起したるに、はや死にたり。
20:10パウロ降りて其の上に伏し、かき抱きて言ふ『なんぢら騷ぐな、生命はなほ内にあり』
20:11乃ち復のぼりてパンを擘き、食してのち久しく語りあひ、夜明に至り遂に出でたてり。
20:12人々かの若者の活きたるを連れきたり、甚く慰藉を得たり。

口語訳
20:7週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。
20:8わたしたちが集まっていた屋上の間には、あかりがたくさんともしてあった。
20:9ユテコという若者が窓に腰をかけていたところ、パウロの話がながながと続くので、ひどく眠けがさしてきて、とうとうぐっすり寝入ってしまい、三階から下に落ちた。抱き起してみたら、もう死んでいた。
20:10そこでパウロは降りてきて、若者の上に身をかがめ、彼を抱きあげて、「騒ぐことはない。まだ命がある」と言った。
20:11そして、また上がって行って、パンをさいて食べてから、明けがたまで長いあいだ人々と語り合って、ついに出発した。
20:12人々は生きかえった若者を連れかえり、ひとかたならず慰められた。

新共同訳
20:7 週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。
20:8 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。
20:9 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。
20:10 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」
20:11 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。
20:12 人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。

聖書協会共同訳
20:7 週の初めの日、私たちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。
20:8 私たちが集まっていた階上の部屋には、たくさんの灯がついていた。
20:9 エウティコと言う青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。
20:10 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒がなくてよい。まだ生きている。」
20:11 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。
20:12 人々は生き返った若者を連れて帰り、大いに慰められた。

新改訳第一版、第二版、第三版
20:7週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。
20:8私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。
20:9ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。
20:10パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります。」と言った。
20:11そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、明け方まで長く話し合って、それから出発した。
20:12人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。

新改訳2017
20:7週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。パウロは翌日に出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。
20:8私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんついていた。
20:9ユテコという名の一人の青年が、窓のところに腰掛けていたが、パウロの話が長く続くので、ひどく眠気がさし、とうとう眠り込んで三階から下に落ちてしまった。抱き起こしてみると、もう死んでいた。
20:10しかし、パウロは降りて行って彼の上に身をかがめ、抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります。」と言った。
20:11そして、また上がって行ってパンを裂いて食べ、明け方まで長く語り合って、それから出発した。
20:12人々は生き返った青年を連れて帰り、ひとかたならず慰められた。

詳訳
20:7さて週の最初の日に、私たちがパンを裂くため〔すなわち、主の晩さんのために〕ともに集まった時、パウロは、翌朝出発するつもりでいたので、彼らと語り合い、話を続けて、夜半にまで及んだ。
20:8ところで私たちが集まっていた階上のへやには、かなり多くの明かりがともしてあった。
20:9窓の所にユテコという名の青年が腰を掛けていたが、パウロがなおも長く語り続くけているうちに、ひどく眠くなってきて、〔とうとう〕完全に眠り込んでしまい、三階から下に落ち、抱き起こしてみると死んでいた。
20:10しかし、パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめて、彼を抱き締めて、「騒いではいけない。まだ生命がある」と言った。
20:11パウロは階上に帰って行き、〔彼らとともに〕パンを裂いて食べ、夜明けまで彼らと<心を開いて>話し合ってから出発した。
20:12彼らは生き〔返った〕若者を家に連れ帰って、少なからず慰められ<励まされ<勇気づけられ>た。

ラゲ訳(1910年版)
20:7週の第一日、我等麪を擘かんとて集りしに、パウロは翌日出立すべきにて人々と論じ居り、夜半まで語続けしが、
20:8我等が集れる高間に燈火多かりき。
20:9茲にユチコと云へる青年、窓の上に坐して熟睡したりしに、パウロの語る事尚久しければ、眠りの為に三階より落ち、取上げたれば既に死したりき
20:10パウロ下り往きて其上に伏し、之を掻抱きて云ひけるは、汝等憂ふること勿れ、彼が魂身の中に在り、と。
20:11斯て又上りて麪を擘き且食し、尚拂暁まで語続けて其儘出立せり。
20:12然て人々青年の活きたるを連來りしかば、慰めらるる事一方ならざりき。

岩波書店新約聖書翻訳委員会訳
7 週のはじめの日、私たちがパンを裂くために集まっていた時、パウロは翌日出発することになっていたので、人々に話をしたが、その話は真夜中まで続いた。
8 私たちが集まっていた屋上の間には、ともし火がたくさんともしてあった。
9 その時、エウテュコスというある若者が窓に腰をかけていたところ、パウロの話があまり長く続くので、ひどい眠気に襲われ、眠り込んで、三階から下に落ちてしまった。そして、抱き起こしてみると、すでに死んでいた。
10 パウロは降りて行って、
彼の上に身を伏せ、抱きしめて言った、「騒ぐことはない。いのちはあるのだから」。
11 そして、上に行って、パンを裂いて食べ、明け方まで長い間語り続けてから出発した。
12 人々は生き返った少年を家に連れて帰り、少なからず慰められた。

前田護郎訳
20:7 週のはじめの日に、われらはパンを裂くために集まった。パウロは人々に語っていたが、翌日出発の予定であったので、夜中まで話をつづけた。
20:8 われらの集まっていた階上には明りがたくさんともしてあった。
20:9 ユテコという若者が窓に腰をかけていたが、パウロが長く話しつづけたので深く眠りこんだ。そして眠りに負けて三階から下に落ち、抱き起こすと死んでいた。
20:10 パウロが下りてきて若者の上に身をかがめ、抱きあげていった、「騒ぎなさるな、いのちがあります」と。
20:11 そして上がってパンを裂いて食べ、ゆっくり夜明けまで話し、それから出発した。
20:12 人々は生き返った子をつれてゆき、ひとかたならず慰められた。

塚本虎二訳
20:7 週の始めの日[日曜日]に、わたし達はパンを裂くために集まった。パウロは人々に話をしたが、翌日出発するつもりであったので、夜中まで話が続いた。
20:8 集まっていた階上の部屋にはランプが沢山ともしてあった。
20:9 ユテコという一人の青年が窓に腰をかけていたところ、パウロがながながと話をするので、深い眠りに落ち、(とうとう)眠りに負けて三階から下に落ちた。だき起こすと、もう事切れていた。
20:10 パウロが下りてきて青年の上にのしかかり、抱きしめて(人々に)言った、「騒ぐことはない。命はあるのだから。」
20:11 そして(階上に)上がっていって、(一同と)パンを裂いて食べ、ゆっくり明け方まで話して、それから出かけた。
20:12 人々は生きかえった少年を(家に)つれて行った。みんなが一方ならず喜んだ。

 詳訳聖書が分かりやすいので見て見ます。

"20:12彼らは生き〔返った〕若者を家に連れ帰って、" 

ここで亀甲括弧について凡例で、 "〔 〕 文章を明らかにするために必要と認めた挿入句であり、直接ギリシア語原文には出ていないが、正当な根拠を持つ説明的付加語であることを示す。"

 要は、原文にはない言葉で、自分たちの解釈に合わせて挿入した言葉ですよ、と云う事です。

 エホバの証人の新世界訳も "そこで,彼らは生き[返っ]た少年を連れて行き,一方ならぬ慰めを得た。" と、角括弧で囲って、序文で、"角かっこ: 一重の角かっこ[ ]は,そこに挿入された語が訳文の意味を明確にするための補足であることを示しています。" と、原文にない挿入句であることを示しています。

 詳訳聖書や新世界訳がそのように挿入句であることを示しているのに対して、口語訳、共同訳、新共同訳、聖書協会共同訳、新改訳、キリスト新聞社口語訳、フフランシスコ会聖書研究所訳、バルバロ訳、本田哲郎訳、前田護郎訳、泉田昭訳(国際ギデオン協会の「ニューバイブル」)、岩波書店新約聖書翻訳委員会訳、塚本虎二訳、創造主訳は、挿入語であることを示すことなく生き返ったと訳しています。また、ラゲ訳(1959年当用漢字版)では、本文は1910年版と当用漢字であること別にすれば変わりませんが、こちらは "青年、生き返らさる" と小見出しが付いて、パウロの奇跡譚にしています。リビングバイブルはほぼ作文。

 原文にない挿入語を入れることによって文章が変わってしまうのは問題があると思います。もし解釈訳というのならせめて詳訳などのように、一目でそれと分かるようにすべきであると思います。
 

聖書協会共同訳 6


聖書協会共同訳旧約続編付き Athanasius

 聖書協会共同訳聖書を見て行くと、本当にこんなものを教会で使っていいの? と思える箇所があります。

 巻末付録の用語解説を見ていて、「献げ物」の項目がありますが、新共同訳聖書と訳語が変わっているので対比されています。その中で、明治元訳(文語訳聖書の旧約)と口語訳では「酬恩祭(しゅうおんさい、神の「恩に報いる」の意)」と訳され、新共同訳では「和解の献げ物」と訳されていたゼバハ・シェラーミームが、「会食のいけにえ」と訳されていました。

 それで、どうしてこう訳したのかについて、用語解説の「献げ物」の項目では説明がないので、「会食のいけにえ」の項目を見て見ましたら、 "「献げ物」の項を見よ。" としかありません。すなわち何の説明もないという事です。

 ならば、聖書協会共同訳でレビ記3章を読んでみましたら、何のための生贄や献げ物なのかよくわかりません。会食するのに生贄の献げ物をしなければならないとも読めます。

 まず、七十人訳聖書はどうなっているのかと思い見て見ますと、 "θυσία σωτηρίου"(救いの犠牲(供え物))となっていました。秦剛平訳「七十人訳ギリシア語聖書Ⅲレビ記」(河出書房新社)でも確認しましたら、 "救いに感謝する供え物"となっていました。

フランシスコ会聖書研究所訳注 記名入り小


 それから口語訳旧約聖書の略解、新聖書辞典などとフランシスコ会聖書研究所訳の注を確認しました。フランシスコ会聖書研究所訳聖書の注が詳しく載っているので、以下に引用したいと思います。

"(1) 「和解の献げ物」は、献げ物の動物の脂肪だけが祭壇上で焼かれ、また祭司に対するその献げ物の割りあてがなされた後で、残った部分が奉献者およびその家族、または友人によって聖なる宴として食された。時々、その宴にレビ人、寡婦、孤児、貧者が招かれた(申12・18、16・11、14参照)。「和解の献げ物」(創31・54、46・1)は、神との親交を表す。また仲間とともに行う宗教上の懇親会をも意味する。本書で「和解」と訳されている原語の確実な意味については、いろいろ論議されている。ギリシア語訳ではこの原語は、箇所によって異なった意味に訳されているが、レビ記の中では普通に(二十八回)用いられている訳語は、「救い(による感謝?)」を意味している。ラテン語訳では全体を通じて(ギリシア語訳ではレビ記以外の個所)、「平和的」と訳されている。原語には、「終了」または「達成」の意味もある。実際、この和解の献げ物は、連続奉献の場合には、いつでもいちばん最後に執行されている。また、この語は時としては、誓願達成のための奉献の意味で用いられている(箴7・14、民6・14)。"
(フランシスコ会聖書研究所訳注 聖書 (旧)207頁)

 しかし、2011年のフランシスコ会聖書研究所訳注聖書(旧新約の合本版)よりも、1959年のフランシスコ会聖書研究所訳の分冊版の「レビ記」の訳語 "酬恩伴食祭" の方が祭儀の目的と全体をよく表しているでしょう。

新改訳聖書2017 Athanasius


 この注を読んで、新改訳2017の訳文「交わりのいけにえ」は、まだ妥当なラインなのかもしれないとわかりましたが、聖書協会共同訳の「会食のいけにえ」の訳はやはり、この献げ物の目的が違ってしまうし、シェラミームに「会食」なんて語意無いだろとと思います。

 正直、読み辛い、分かり辛い、普通そういう言い回ししないだろ、原語から遠ざかり作文みたいな箇所、これは使って行けば慣れるとかそういうものじゃないなと感じます。


プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

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