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信仰の勇者たち


 さて、たまに「お気に入り」に入れてあるサイトなんかを整理していたら、何年も前に万人救済についていろいろ検索していたときに見つけ、読んでみたらものすごく違和感と言うか、「こいつ自分で文献確認してないだろ」という記事があり、一応「お気に入り」にとっておいた記事「ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人」がありました。それをもう一度見直してみますと、やっぱり酷いなーと(笑)

 キリスト教を布教していたザビエルに、現地の人たちがキリストの教えを知らない祖先が永遠に救われず地獄で苦しめられることについてザビエルに対して質問をするわけですが、そのやり取りに対して

> ザビエルは困ってしまいまして、本国への手紙に次のように書きました。

>キリスト教の急所(?)を突くような人間はいなかったわけです。

>などと質問され答えに窮していたようです。

>「信じるものは救われる」=「信じない者は地獄行き」
といった、答えを個人の観念のみに帰結させてしまうキリスト教の欺瞞に、当時の日本人は本能的に気づき、ザビエルが答えに窮するような質問をぶつけたのではないでしょうか。

というキリスト教に対して否定的な方向への誘導することを書いていましたが、ザビエルの手紙読んでいないのがよくわかります。リンク貼ってある先のライブドアブログの記事を元に書いたのでしょう。リンク先はもう削除されて見れないので、元記事はこの記事の引用でしかわかりませんが、その元記事もちゃんとした引用でないことから、それもネットサーフィンしてどこからか拾ってきたのかもしれません。

 そういう記事を読んで利用しようと思うときは、自分でもそういう文献を確認してもらいたいと思いました。さてさて、それでは実際はどうであったのか、岩波文庫の「聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡抄」からちょっと長めではありますが見てみましょう。

聖フランシスコ・ザビエル書簡抄 記名


"書簡 第30 (EP.96)
        欧州の会友宛
        コチンにて、1552年1月29日
・・・

18 けれども、信者の数がこんなに増加することは、坊さんにとっては、全く面白くないことであって、特に自分の檀徒の中から信者になった者には、悪口雑言を浴せかけ、その時まで信頼した教を棄てて、何故神の掟に従ふのかと言つて戒めた。それに答へて、信者や要理の研究者達は、神の教が坊さんの宗旨よりも、遥かに理性の法則に適応してゐるが故に、この教に服するのだといふ。それもその筈で、私達は坊さんの質問に対して、皆の満足する解答を與へ得たに引き換え、坊さんは、その宗旨を、理性的に説明することができなかつたのだから。
 日本人はその宗旨の物語の中に、世界の創造を始め、太陽、月、星、天、海、地、その他凡ゆる事物の創造に関する知識が一つもない。日本人には、これ等の凡てには、元始がなかつたのだと思つてゐる。彼らが一番驚いたのは、霊魂にも創造主があるといふ教を聞くことであった。

19 彼らが一般に非常に驚いたのも無理はなかつた。それは彼等の聖人の本の中に、創造主の話などは、全然見当らぬので、万物の創造主などは、ある筈がないと思つてゐたからである。その上、万物に元始があつたとすれば、彼等に宗教を伝へたシナ人が、それに就いて、何も知らない筈が無かつたからである。日本人は、シナ人を師匠として仰いでゐる。これはあながち来世のことに関して許りではなく、政治上のことに関しても、シナ人を先輩だと思つてゐる。兎に角、万物を創造したこの原因について、即ち、その原因は善であるか、悪であるか、又、万物には、それが善い物にしろ悪い物にしろ、皆それらを造つたその原因は、一つであるか、等の沢山の質問があつた。私は、存在してゐる総てのものに、唯一つの原因があることと、また、それは善であつて、悪の陰すらないこととを答へる。

20 彼等は、悪であり人類の敵である悪魔の存在を信じるが故に、創造主のことを認められないと言つた。又、若し神が善なら、そんな悪い者を造る筈がないといふのである。それに対して私達は、神はそれ等を皆善いものとして造つたが、彼等が自分勝手に悪くなつたので、神は彼らを罰した。その罰は永劫に続くと答へた。すると彼等は、神はそれ程に残酷に罰する者であるなら、憐みのない者だ、しかも若し神が、私達の教の如く、人間を造つたことが本当なら、何故こんなに悪い悪魔がゐて、それが人間を誘惑することを許しておくのか。何となれば、私達の教によると、人間が創られたのは、神に奉仕し奉るためであるから。又、神が慈愛の者ならば、人間をこんなに弱く、且つ、罪の傾きを持つた者としては造らないで、悪い傾きのない者として造つた筈だ。又、この原因は、善い原因となることはできない。何故なら、地獄のやうなひどい所を造つたからであり、地獄へ堕ちた人間は、私達の教によると、永遠に其所に居らなければならないのだから、神には憐みが無いといふ。又神が善ならば、こんなに守りにくい十誡にどは、與へなかつた筈だといふ。

21 彼等の本には、地獄に堕ちた人でも、その宗旨の祖師を呼ぶと救はれると書いてあるから、神が地獄に居る人々の救霊をしないのは、頗る不愉快であり、自分らの宗旨は、神の掟よりも遥かに慈悲の教だと主張する。以上の大切な質問に対して、私達は、我等の主なる神の恩寵だけを以て、彼等の満足するほどに答へた。神の憐みの大いなることを示すためには、日本人は、私の見た他の如何なる異教国の国民よりも、理性の聲に従順の民族だ。非常に克己心が強く、議論に長じ、質問は際限がない位に知識欲に富んでゐて、私達の答えに満足すると、それを又他の人々に熱心に伝へて已まない。地球の丸いことは、彼等に識られてゐなかつた。その外、太陽の軌道に就いても知らなかつた。流星のこと、稲妻、雨、雪などに就いても質問が出た。
 かくて私達は、彼等の凡ての質問に十分の答を與へることができたので、彼等は大いに満足して、私達を学者だといふ。そのお陰で、私達の言葉が彼らに深い感銘を與へてゐる。
 日本人は彼らの宗旨の中で、どれが一番優れてゐるかといふことに就いて、絶え間なく議論することが好きである。しかし私達が来てからは、彼等は自分の教に就いての話を已め、神の教のみに就いて論じてゐる。こんな大きな町で、戸毎に神の信仰の話が交はされてゐることなどは、自分で直接見た者でない限り、とうてい信じることができない。又日本人が、どれ程多くの質問を以て、私達に迫って来るかといふことも、全く書き切れない。

22 九つの宗旨の中の一つは、人間の霊魂は動物のやうに滅亡すると説き、この宗旨を信じない人は、愚の骨頂だと考へてゐる。しかし、この宗旨の信者は、一般に悪い人々である。地獄があるといふ話などは、まるで受けつけない。二ヶ月の後に、山口の約五百人の人々が、洗礼を受けた。この時以来、神の恩寵のもとに改宗する者の数が、絶えず増加してきた。彼らは、坊さんとその宗旨の誤謬の話をよくする。若しこの話がなかつたら、私は日本の偶像教に就いて、何も識らなかつたであらう。新しい信者は、全く筆舌の及ばない深い愛を以て、私達に親しんでゐる。彼等は本当の信者であると私は信じて居る。

23 山口の信者は、その洗礼の前に、神の全善に就いての重大な疑問に襲はれた。それは、神は私達が来るまで、決して日本人に啓示をお與へにならなかつたから、全善ではないといふことであつた。又私達の教へてゐるやうに、神を礼拝しない者は、地獄へ堕ちるとすれば、神は祖先に対して無慈悲である。何となれば、神は教について何も識らない祖先が、地獄へ堕ちることを許したからである。

24 これは彼等が神に到る途上に於ける最も困難な障碍であつた。けれども、彼等を真理の認識に導き、このやうな胸臆の疑ひから彼等を解放することが、我等の主なる神の思召に叶つてゐた。私達は、いろいろの証明法を以て、神の掟が第一のものであり、あらゆる秩序の元始であることを、彼等に了解させることができた。日本人と雖も、シナからその宗旨が渡来してこない疾つくの以前から、人を殺したり、盗んだり、詐欺を働いたり、或はその他の神の十誡に背くやうなことは、凡て罪悪であることを識つてゐた筈だ。悪の印として、彼等の胸臆に於て、良心の責を感じてゐた筈だ。何故かと言へば、善を行ひ、悪を避けることは、人間の心に書き記された掟だからである。故に人間は、ただ全世界の創造主のことの外は、誰に教へられなくとも、おのづから神の掟を知つてゐるのである、と私達は彼らに説明した。

・・・

48 日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私達が教へること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救はれないことを、非常に悲しむのである。亡くなつた両親をはじめ、妻子や両親への愛の故に、彼等の悲しんでゐる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或は施與、或は祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだらうかとたづねる。私は助ける方法はないと答へるばかりである。

49 この悲嘆は、頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないやうに、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみの所へ堕ちないやうにと望んでゐるから、彼等の悲嘆については、別に悲しくは思わない。しかし、何故神は地獄の人を救ふことができないか、とか、何故いつまでも地獄にゐなければならないのか、といふやうな質問が出るので、私はそれに彼等の満足の行くまで答へる。彼等は、自分の祖先が救はれないことを知ると、泣くことを已めない。私がこんなに愛してゐる友人達が、手の施しやうのないことに就いて泣いてゐるのを見て、私も悲しくなつて来る。"

(「聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡抄」 岩波文庫 pp.106-111、119-120、岩波文庫は縦書きなので漢数字なのを一部アラビア数字に変えました。漢字は旧漢字を今のものに変えました。)



 地獄や悪の問題、祖先の救いに就いての個所を抜き出してみましたが、「ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人」という記事とは全く異なることがわかります。

 フランシスコ・ザビエルは "私達の答えに満足すると・・・かくて私達は、彼等の凡ての質問に十分の答を與へることができたので、彼等は大いに満足して、私達を学者だといふ。"、 "といふやうな質問が出るので、私はそれに彼等の満足の行くまで答へる。" というように、質問に対して真剣に向き合って、相手が納得するまで丁寧に答えて言ったことが窺えます。

 また、ザビエルがこれらのことに関して、決して信者獲得のためにと、妥協したり、曖昧にしたりせず、教会の教えを広げも狭くもしないで、受けたままをしっかりと伝えようとしていたことがわかります。

 ジョン・グレッサム・メイチェンという長老派の神学者は、著書「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」(聖書図書刊行会)において、サクラメントについてこのように語っています。

メイチェン 「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」 記名

"クリスチャンの交わりの範囲の中で存在し得るもう一つの見解の相違は、礼典の有効性の様式についての見解の相違である。その相違はまことに重大であって、その重要性を否定することは、この論争自体の中で誤った側に立つよりはるかに大きな誤りである。キリスト教界の分裂した状態は悪であるとよく言われる。実際にそうである。しかし、悪は分裂を来たらせる誤謬の存在にあるのであって、誤謬が存在するときに、その誤謬を認識することに存するのではない。ルターとスイス宗教改革者の間てもたれた「マーブルク会議」において、ルターが、主の晩餐に関して、テーブルの上に「これは私のからだである」と書き、そしてツヴィングリとエコランパディウスに向かって、「あなたがたは違った霊を持っている」と言ったのは非常に不幸なことであった。この見解の相違は、教会に、ルター派と改革派の分裂を生ぜしめた。そしてプロテスタントは、このために、これがなければ獲得したであろう多くの地歩を失うに至ったのである。それは非常に大きな不幸であった。しかしその不幸は、主の晩餐に関してルターが誤っていた(と私たちは信じる)という事実によるのである。しかし、彼が聖餐について誤っていながら、この問題をすべてつまらぬ問題だとして片付けてしまったならば、不幸はもっと大きかったであろう。ルターは聖餐に関して誤っていた。けれどもそれは、彼が誤っていながら、その論敵に向かって、「兄弟たちよ、この問題はつまらないことである。人が、主の食卓についてどう考えようと、実際には大した差はない」と言うよりも、はるかにましであった。このような無関心な態度は、あらゆる教派的分裂よりも、はるかに致命的であったろう。聖餐論で妥協するようなルターは、ウォルムスの国会で、「私はここに立つ。私は他に何もすることができない。神よ、私を助けたまえ。アーメン」とは決して言い得なかったであろう。教理についての無関心主義は、信仰の英雄をつくらないのである。"
(pp.72-73)

 これは聖餐についてですが、他の教理についても同様のことが言えるでしょう。

"この問題をすべてつまらぬ問題だとして片付けてしまったならば、不幸はもっと大きかったであろう。"

"無関心な態度は、あらゆる教派的分裂よりも、はるかに致命的であったろう。"

 まさしくザビエルも、このような問題はつまらぬことだといって妥協したりはしませんでした。彼もまた信仰の英雄らしく、真摯に向き合い、人情などから妥協したりはしませんでした。相手が理解し納得するまで、弛まず答えて言ったのでしょう。その結実が、この山口に於いて5600人もの受洗者を出したことからも窺えます。



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「重荷」、「プロテスタントなのに「無名のクリスチャン」受け入れるの?」

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重荷
2012/7/27(金) 午前 4:28
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/9965531.html

 ビクトル・ユゴーの作品の中に「死刑囚最後の日」という作品があります。その中で主人公である死刑囚の発するひと言、『人はみな不定期の猶予つきで死刑に処せられている。』は、よく生者の現実を表しているといえるでしょう。

ビクトル・ユゴー 「死刑囚最後の日」

 五寸釘寅吉こと西川寅吉は、脱獄を繰り返した脱獄王ともいえる人物で、最初に犯した叔父のかたき討ちをしようとして起こした殺人未遂にはじまり、脱獄や脱獄した先で起こしたいろいろな犯罪行為などにより、とても長い刑期を持つことになりました。空知監獄に移送後は、良き看守に巡り合い、模範囚となり刑務所内を自由に移動できるほどとなったそうです。そして、71歳となった寅吉は、高齢を理由として仮出所が認められました。昭和の初めに彼は息子に引き取られ、87歳で静かに息を引き取ったそうです。その彼が残した言葉があります。

西に入る夕日の 影のある内に 罪の重荷を 降ろせ旅人
                 西川寅吉(五寸釘寅吉)雲外居士

西川寅吉(五寸釘寅吉)雲外居士

 私たちはだれしもがやってくる死を目前にしております。その時、自分の内にある人の世の法では裁かれ得ぬ罪の重荷をどのようにして降ろすことができるのでしょうか。

招き

 『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』と言われる方が、まさしく招いておられます。

そのことについてこう語られています。

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。

小さきもの


***


プロテスタントなのに「無名のクリスチャン」受け入れるの?
2012/4/9(月) 午後 7:27
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/9082951.html

カール・ラーナー著「キリスト教とは何か」 記名

 カトリックの現在のカテキズムの中には、イエズス会の司祭カール・ラーナーの唱えたこの包括主義が影響を及ぼしています。それ自体はカトリックの神学上の問題ですから、どうということもないのですが、たまにプロテスタントの信徒の中でこの説を受け入れている人などをネットなどで見かけるようになりました。そういう人を見かけると、エ~っと思ってしまいます。

講演集 第二バチカン公会議と私たちの歩む道 記名

 『講演集 第二バチカン公会議と私たちの歩む道』(サンパウロ刊 1998年発行)の中で、カール・ラーナー氏から教えを受けたカトリックの司祭粕谷甲一神父の「第二バチカン公会議と今」の中で、この無名のクリスチャンという説について短く簡潔に書いておられました。以下に引用したいと思います。

『 匿名のクリスチャン また「匿名のキリスト者」という言葉があります。キリスト教のキの字も知らなくてもその人の生活態度、生活の原理がイエス・キリストの原理にかなっているならば、水の洗礼を受けなくても「望みの洗礼」によって、み言葉を受けている。「匿名のキリスト者」が存在するのです。
 ある中学三年生の少女の作文を読んだことがあります。

 「私が三歳の時、おばあちゃんの家の前で、お母さんがタクシーから私を降ろし、『しばらく待っていて』と言って、そのまま行ってしまいました。小学一年の時に、初めてお母さんから手紙をもらいました……もし、お母さんに新しい子供が出来たら私たちの分も含めて、その子を大切に育ててほしい。二度と同じ過ちを犯すようなことはしないよね」。

 この少女は、クリスチャンではありません。聖書を読んだことがないし教会に行ったこともない。でも、人間的には恨み骨髄に達しているはずのお母さんのことを心配しているのです。お母さんが再婚したら、もう二度と私たちのような苦しみを、生まれてくる子供に味あわせないでね、と訴えている。自分が受けた傷をバネにして、相手を思いやっている。それはキリストの愛ですね。人間の罪を自らに引き受け、すべてを捧げて下さったイエス・キリストの生き方を、この少女はしているわけです。だから、まさにこの少女は「匿名のクリスチャン」と言える、と思います。』

 カトリックには昔から「諸聖人の通功」という考え方があります。キリストを頭として一致しているすべての信徒(以前は当然カトリック教徒)の善業・苦行などのいさおしは、相互に援助し、罪を償い、祈り、恩恵を交換し合うことができるというもので、現在の使徒信経では「聖徒の交わり」と訳文自体は変更されたもののその教義は、今のカテキズムの中にも読めます( わたしはカトリックではないので断言はできませんが )。

福者ラウラ・ビクーニャ

 その通功は福者ラウラ・ビクーニャの母親の償いの代償に、母親が贖われたとする考えの中にも見られるように感じます。ラウラ・ビクーニャの生涯については福者 ラウラ・ビクーニャ(http://maytetherese.easter.ne.jp/chapel/Bl.Laura_Vicuna/lauracontents.htm)などが参考になるでしょう。

アンデスの天使 - 十二歳の福者 - 記名

 カトリックにはこのような考えもありますし、その中からこの「匿名のクリスチャン」という説が生まれたとしても、それはカトリックの神学上の問題と言えるでしょう。当然のことながらカトリックの中の保守層の中には、この説に反対の立場も人もいるようです。カトリック教会の司祭である故ポール・A・ウィッケンス神父は有名なところでしょう。神父の著書「否定されたキリスト」はフマネ・ヴィテ研究会を主催するカトリック司祭成相明人神父のホームページで自身の訳を載せておられます(http://hvri.gouketu.com/wickens.htm)。

Christ Denied

 粕谷甲一神父の講演文を読むと、プロテスタントの信仰義認の考えとは相容れなく、大きく隔だっていて、行為によって義とされ得る、人はその行為によってキリストなしに救いに至れるまた信仰なしにキリストのいさおしを獲得できるというもので、プロテスタントの信仰とは大きく隔だっているといえ、この考えを受け入れるプロテスタントの信徒は、愛や寛容などの表面的なものだけに目が行っているように感じられます。



「繋がること」、「狭さを誇れる」

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繋がること
2013/4/2(火) 午後 2:25
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11372814.html

 幼児洗礼については、洗礼による救いを教えるカトリック教会(第二バチカン公会議以降、救いの面では「無名のキリスト者」の考えが加わり、強調されることはなくなった)、英国国教会、ルーテル教会などの西方三教会にて、その根拠の一つとしている教理ですが(各教会において考えに差がある)、幼児洗礼を行なうリフォームドチャーチなどでも、洗礼による救いという教理については否定をしています。また、聖礼典を象徴とみなし、確実に信仰告白した者だけに洗礼を授ける教派などでは、洗礼による救いや幼児洗礼は否定され行なわれていません。今回は幼児洗礼についてではなく、幼児に及ぼす原罪による状態とキリストに繋がることの大切さについて簡単に見てみたいと思います。

 スウェーデンのルーテル国教会のC.O.ロセニウス牧師による著書「60日間日々の黙想」(石橋幸男訳・自費出版 原題“A FAITHFUR GUIDE TO PEACE WITH GOD”)から少し見てみたいと思います。

「60日間日々の黙想‐信仰の確かさへの道‐」 (カール・オルーフ・ロセニウス著 石橋幸雄訳) 記名


" 何故、幼な子らが神の国を受け入れる必要があるのか。何故ならば、彼らは罪深い両親から生まれ、従って罪のうちにはらまれたからである。<見よ、私は不義の中に生れました。私の母は罪のうちに私をみごもりました>(詩編五一・五)。だから、すべての幼な子は神の国の外で生まれたものであって、怒りの子である。彼らは神の子ではない。しかし、神の子でないものは誰一人神の国のものではない。神によって生まれたものでなければ誰一人神の国ではない。なぜなら、神の子は<血すじによらず、肉に欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたもの>(ヨハネ一・一三)だからである。
 幼な子がこの世に生まれたのは、堕罪後のアダムのようなものとしてである。というのは、アダムの子がその成長、発達の時期にアダムのようになったとは何処にも書いていない、<アダムは自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み>(創世記五・三)と書いてあるからである。アダムが罪に堕落した後で、彼の状態はどうだったのだろうか。彼は恐れて、<主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した>。アダムは神のみ前に自分を低くして、正直に自分の罪を告白しようとはしなかった。彼は自分の妻エバに自分の罪の責任を転嫁し、そして、彼女は蛇のせいにした(創世記三章)。
 アダムが堕落した罪人としての自分にかたどって息子を生んだという事実は神のみことばから明らかである。聖書は、わたしたちはみな罪のうちに、すなわち罪深い肉から生まれたことを示している。あらゆる経験も、神のかたちを回復されている信者の両親であっても罪のない子ではなく、罪の子しか生むことができないを豊富に証明している。罪はわたしたちが生まれたとき、わたしたちの本質の中に受肉していたのである。悪い木は悪い実を結んだ後に悪い木になるのではない。それはもともと悪い木だったのである。それは悪い根から生じたものだから悪いのだ。わたしたちは生まれながらにして罪深い。罪は、わたしたちが成人してからわたしたちに入りこんだものではない。わたしたちが罪の種から生まれたから、罪は魂もからだをも汚してしまっているのである。わたしたちがものを考え、話し、そして、悪いことをしはじめたときにわたしたちが罪人になったのではない。わたしたちは生まれながらの罪人である。わたしたちは罪を犯さざるを得ないのである。堕落したアダムが彼の魂に神のかたちの回復を必要としたと全く同様に、アダムのかたちにかたどって生まれたすべての幼な子は、その心に神のかたちを回復させる必要がある。汚れたものは決して神の国に入ることが許されないからである(ヨハネ黙示録二一・二七)。幼な子らだけが神の国を受け入れる準備ができている。
 二、幼な子らだけが神の国を受け入れる準備ができているのであって、幼な子以外のものは誰一人そうではない、ということも主の次のみことばから明らかである。<だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない>。
 ………
 …神の国は幼な子のものであるが、幼な子は幼な子そのものとして神の国のものではない。彼らはアダムにかたどって生まれたのだから神の国の外にある。すなわち、生まれながらに罪深いものである。
 ………
 …キリストご自身にあずかる者でなければ、誰もキリストのあがないにあずかる者とはなれない。…誰一人として、ここでは幼な子であっても、キリストの罪のゆるしと義とによらなければ救われるものがないのである。キリストご自身にあずからない者は誰も救われない。従って幼な子らも、キリストに祝福されるためには、キリストにご自身の義の白い衣を着せてもらうためにはキリストのみもとに来なければならない。…"


 まずは、ロセニウス牧師は当然のことながらキリスト教圏の国の牧師であります。そこでは子供は皆、幼児洗礼を受け、教会の一員として記録されます。周りにいる大人も、信仰の深さには違いがありますが(信仰自体を失って外形的にはクリスチャンという者も当然のこととしていたことでしょう)、皆が洗礼を受けた人たちであります。その人たちに向けて語られたメッセージであると言う前提を覚えておかなければなりません。

 ここではキリストの下に幼な子らを連れてくる必要性について述べられています。そして、キリストに繋がることの大切さが訴えられています。

 そして、主日の礼拝で繰り返される罪の告白文“私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと、ことばと、行いとによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りないあわれみによりたのみます。”との共同懺悔における“生まれながら罪深い”とは何か、では幼子らはどうなのかについて明確に語っています。


******


狭さを誇れる
2013/4/18(木) 午後 5:26
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11444765.html

 まずはJ・G・メイチェンの「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」(いのちのことば社)から見てみましょう。

J・G・メイチェン著 「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」 記名

" キリストの救いの絶対性
 第二に、キリストの死による救いというキリスト教教理は、狭隘であるこということで批判される。それは救いをイエスの名に結びつけるが、世界には、イエスの名を何ら有効な方法で聞いたことのない人々が多数いる。イエスについて聞いたことがある人もない人も、どんな生活環境の中で育てられた人も、すべての人がどこにいようと、本当に必要なことは、みんな救われるような救いではないかと言われる。世界の普遍的要求に応じるものは一つの新しい信条ではない。人人が信じている信条が何であろうと、彼らに正しい生活を営ましめるために効果があるような方法こそ、それに応じるものであると言われるのである。
 この第二の反対論も、第一の場合と同様にしばしば言い換えられている。すなわち、福音を受け入れるということは救いの第一の方法であるが、他の方法もあると言われるのである。しかし、この態度は、キリスト教メッセージの最も明白な特色の一つをすなわち排他性を、放棄することである。キリスト教の最初の観察者が最も驚いたことは、救いがキリスト教の福音によって与えられるということだけでなく、他のすべての救いの方法が断固として拒否されたということである。初代のキリスト教の宣教師たちは、キリストに対する絶対的な排他的な帰依を要求した。このような排他性は、ヘレニズム時代に流布していた宗教混合主義【ルビ:シンクレテイズム】に真向から反対するものであった。その当時、多くの宗教によって多くの救い主たちが人々の注意を引くように提供された。しかも、種々の異教宗教は全く平和的に共存していた。ある人が一つの神の帰依者になっても、彼は他の神々を捨てる必要はなかった。しかし、キリスト教はこれらの「お上品な精神的一夫多妻主義」とは全く無縁であった。キリスト教は、絶対的、排他的帰依を要求した。救いはキリストによって来るというばかりでなく、キリストのみによって来るのである。この小さな言葉「のみ」の中に、すべてのつまずきがある。この語がなかったなら迫害も起こらなかったであろう。当時の教養人たちは、おそらく喜んで、イエスに人類の救い主たちの中の一つの地位、しかも栄誉ある地位を与えたであろう。この排他性ということがなければ、キリスト教のメッセージは、その当時の人々にとって全くつまずきのないものであったろう。このように、現代リベラリズムも、イエスを人類の他の恩人たちの中の一人に加えることによって、現代世界で全くつまずきを与えないものなのである。すべての人がそれを称揚している。それは全くつまずきがないものである。しかし、それは全く無益である。十字架のつまずきは取り除かれたが、同時に、その栄光と力も取り去られてしまった。"
(pp.171-172)

狭き門

マタイによる福音書7章13節
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。

ルカによる福音書13章23,24節
13:23すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。
13:24そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。

使徒行伝4章6~12節
4:6大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。
4:7そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。
4:8その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、
4:9わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、
4:10あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
4:11このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
4:12この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

 キリスト教の門はいつもこの世に対して開かれています。しかし、その門は狭いのです。

 多くの殉教者の血が、この門を1mm足りとも広げる為には流されませんでした。彼らはこの門を守るためにその血を流したのでした。エウセビオスの「教会史」の中から、その殉教がどのようなものであったのかを伝えています。その一つを見てみたいと思います。

エウセビオス「教会史」 記名

" …〔神に〕祝福されたポティヌスは、リヨンの監督の奉仕職を託されていましたが、九〇歳を越えた肉体がとても衰弱しておりました。…知事が彼に「キリスト教徒の神はだれか」と質問すると、彼は答えました。「もしあなたに資格があれば、お分かりになるでしょう」と。そのために彼は容赦なく引きずり廻され、さんざん殴られました。〔その間〕近くにいた者たちは彼の高齢などは顧みず、手や足で乱暴狼藉のかぎりを尽くしました。また、遠くにいた者は、手にしていたものを彼に投げつけました。そしてすべての者が、彼に〔投げつける〕猥雑な言葉を一つでも言い残せば大きな過ちを犯して不敬を働いたことになる、と思い込んでいたからです。彼は辛うじて息をしながらの状態で獄に投げ込まれ、二日後に死にました。……マトゥルスや、サンクトスは、それまで何の苦難も受けなかったかのように、いやむしろ、その格闘相手を多くの対戦ですでに打ち負かしたかのように、闘技場でのあらゆる拷問を再び切り抜け、今や冠そのものをもとめて、その場で受ける鞭打ちの刑を次に耐えました。そして、獣の襲撃の恐怖や、怒り狂った民衆があちこちから投げつける罵声と要求のすべてや、鉄の椅子――その上で身体が焼かれるために煙が彼らを包みました――などに耐え忍びました。しかし、サンクトスからは、〔拷問の〕はじめから言い続けている〔信仰の〕告白以外は何も聞き出せませんでした。… "
(『「教会史」第Ⅴ巻1』のガリアの殉教者達の記述から)

 この門は閉じられることはありません。あらゆる人のために絶えず開かれています。そしてあらゆる人種・文化・思想・過去に関係なく招いています。しかし、この門は狭い道にあり見出し辛く、そして狭いのです。門を通るには唯一つイエス・キリストを信じさえすればよいのです。しかし、門は狭いために余分なものは捨てなければなりません。それは良いものに思えていますが、実はそれは重荷となっていたものなのです。それをキリストを信じてその前に捨てるならなんと楽に通れることでしょう。

狭き門より入る

マタイによる福音書11章28節文語訳
11:28凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。

 キリスト者はこの狭さを、聖徒たちが血を流して教え伝えてくれたこの道を、自分の心の内に感謝と共に誇ることができるでしょう。

漢訳聖書からの影響

漢訳

前に心の貧しい者の由来は?という記事で軽く触れましたが、1880(明治13)年に訳された「明治元訳新約全書」がありますが、これによって多くのキリスト教用語が生み出され、それ以降現在まで日本のキリスト教に定着していますが、明治元訳が影響を受けていたであろう1859年のブリッジマン=カルバートソン漢訳聖書(以降B=C訳と表記)や1814年のモリソン=ミルン訳(以下モリソン訳)の漢訳聖書の訳語をそのまま引き継いだものも多くあります。

ヨハネ福音書の冒頭などは比べて見るとわかりますが、B=C訳の影響だなぁと漢文が読めなくても分かります。

明治元訳 1880(明治13)年
1:1太初(はじめ)に道(ことば)あり道(ことば)は神と偕(とも)にあり道(ことば)ハ即(すなは)ち神なり
1:2この道(ことば)は太初(はじめ)に神と偕(とも)に在(あり)き

ブリッジマン=カルバートソン訳(裨治文, 克陛存 譯 (新約 1859年) )
1元始有道、道偕神、道卽神。
2是道元始偕神也。

モリソン=ミルン訳(馬禮遜、米憐 譯(新約 1814年))
1當始巳有言而其言偕神、又其言爲神、
2此者當始偕神也

四人組訳(馬禮遜譯本四人修訂版郭實臘譯本、モリソン=ミルン訳をモリソンの息子とメドハースト、ギュツラフ、ブリッジマンが故ロバート・モリソンの遺志を継いで改訂したもの。1835~58年)
1元始有道、其道興上帝共在、道卽乃上帝也。
2是道當始共上帝也。

和合本(新約 1906年)
1太初有道、道與 神同在、道就是 神。
2這道太初與 神同在。

大正改訳 1917年(大正6)年
1:1太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。
1:2この言は太初に神とともに在り、

 明治元訳は本文がひらがな部分で漢字は当て字にすぎないので、「ことば」という訳語に日本人補佐人らによって漢訳からの「道」という当て字が付されているために、違和感が拭えませんが、それも大正改訳で見直されています。

 口語訳マタイ福音書を見て、キリスト教用語と思われるものを引き出し、それをモリソン訳、B=C訳、明治元訳、大正改訳、和合本と見比べて見ますと、訳語としてはB=C訳から受け継いでいる感じがします。

 イエス・キリストは、モリソン訳ですと「耶蘇基利士督(イェースー・ジーリーシードゥー)」となっていますが、これがB=C訳ですと「耶蘇基督(イェースー・ジードゥー)」となっていて、漢字部分はそのまま日本語訳に引き継いだ形です。

 モリソン訳はプネウマを「風」と訳していて、聖霊は「聖神風」、神の霊は「神之神風」と訳されています。B=C訳になりますと、聖霊は「聖靈」、神の霊は「神之靈」となっており、プネウマを「靈」と訳していて、明治元訳でも受け継がれています。

 預言者
モリソン訳「先知者」、B=C訳「預言者」

祭司
モリソン訳「舆祭者」、B=C訳「祭司」

洗礼・バプテスマ
モリソン訳「洗」、B=C訳「洗禮」

安息日
モリソン訳「●(口へんに撒)咟日」、B=C訳「安息日」

 漢訳聖書と比べて見ると、ああこれはそのまま引き継いでいるのか、こっちは日本での造語だな、などと見えてきて、なかなか面白いと感じます。

日本の聖書 現代中国語訳の聖書

モリソン訳やB=C訳などは台湾や香港あたりのサイトでPDFなんかをダウンロードするしかありませんが、とりあえず大正改訳とほぼ同じころに訳された和合本なんかでも一冊手もとにおいて眺めて見ると面白いでしょう。和合本は神を「神(シェン)」とする版(神版)と「上帝(シャンティ)」とする版(上帝版)の二種類があり、それぞれ台湾で使われる繁体字版と中国で使われる漢字を簡略化した簡体字と呼ばれるものにした簡体字版があり、日本聖書協会の直営店で買えます。

聖經 (和合本) 記名

「寛容」?

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「寛容」?
2014/5/25(日) 午前 8:40
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12976101.html

かんよう 寛容

( 名 ・形動 ) スル [文] ナリ 
心が広く,他人をきびしくとがめだてしないこと。よく人を受け入れる・こと(さま)。 「 -の精神」 「 -な態度」 「夫もほかの人が遊ぶのを-するならいいが/坊っちゃん 漱石」
[派生] -さ ( 名 )
(大辞林 第三版 三省堂)


かんよう【寛容 toleration】
寛容とは,広義には,自己の信条とは異なる他人の思想・信条や行動を許容し,また自己の思想や信条を外的な力を用いて強制しないことを意味する。しかし,思想史に即して考えれば,それらが社会的にとくに問題になるのは宗教および政治の局面においてであり,しかもこれら二つの局面は深くかかわりあっていることによって,寛容は政治的・社会的自由の源流となった。

【宗教的寛容】
 異なった宗教・宗派を容認するという意味での寛容の概念が,ヨーロッパの思想史上にはじめて登場したのは,ストア哲学のヒューマニズムにおいてであろう。
(世界大百科事典 第2版 日立ソリューションズ・ビジネス)

Bible.jpg

 わたしたちは聖書を開いて読むときに、「寛容」という語を目にするとき、上記の引用のような意味での日本語として理解し読み込んでいるのでしょう。しかし、それは果たして正しいのでしょうか。そのように読みこむことによって、わたしたちはまちがった理解と、そのことから別な間違いをも生み出しているのではないかと思います。

 口語訳と新共同訳の新約聖書をみますと、「寛容」と訳されているのは
名詞μακροθυμία(makrothumia)と
動詞μακροθυμέω(makrothumeō)、
形容詞ἐπιεικής(epieikēs)の三つです。

μακροθυμία(語源 μακροθυμῶ)

" 容易に怒らぬ(怒りに遠い)こと、長く耐え忍ぶこと、長く忍苦すること、忍耐、寛容。"
〔「新約聖書ギリシャ語小辞典」〕

"2 patience,forbearance,long-suffering,slowness in avenging wrongs,…:Ro.ⅱ.4;…(2 忍耐、忍耐、辛抱強さ、悪への復讐における緩慢、…:ローマ2:4;…)"
 〔「Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament」〕

"patience,forbearance,internal and external control in a difficult circumstance,which control could exhibit itself by delaying an action:―longsuffering(12),patience(2) " (忍耐、忍耐、困難な状況(行為を延ばすことにより、コントロールはそれをそれ自体示すかもしれない)での内部および外的統制:―:辛抱強い(12)、忍耐(2))
〔「STRONGEST STRONG'S」〕

 マクロスミアの語意を織田昭氏の辞典、セアの希英辞典、ストロングのコンコルダンスに載っている簡易辞典で見てみました。マクロスミアの類語ἀνοχή(anochē)がありますが(ローマ2:4では両語が出てくる)、織田昭氏の辞典の説明では、“ἀ.(忍耐、辛抱)はμ.の結果または表現である。μ.は怒りを延ばすという意味からできた語で、堪忍、寛大、長く忍苦すること、辛抱づよいことを意味する。…μ.が人に対する忍耐をあらわすのに対し…”とあります。

 これらを見てきて、日本語の「寛容」とは違い、相手を受け入れることがないのが見えます。相手が変わらないので我慢し忍耐して待ちつつ共存するように感じられます。これは相手を受容([名](スル)受け入れて、とりこむこと。「外国文化を―する」)しないことです。これが新約聖書における「寛容」に見えます。英語の tolerationも英和中辞典などを見ますと、、「耐える」、「我慢する」という意味をもっていることがわかります。しかし、日本語にはその語意はありません。

 これは聖書で繰り返される主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く(怒ることに遅く)、慈しみに満ちておられる(出34:6、民14:18、ヨエル2:13、ヨナ4:2、ナホム1:3、ネヘミヤ9:17、詩編103:8,154:8など)方であることや、決して悪や罪を受容も容認もされない聖なる方であることと一致します。そのためにみ子による贖いが必要であったのでもあります。

 このことを履き違えると、異教徒や偶像崇拝者でも救われるという包括主義や多元主義、果ては万人救済主義という罠に陥ってしまいます。神が誰を救われるかは全く神の業です。これは誰も知ることはできません。その中に福音を知るとなく亡くなった人がいるのかいないのか、聖書は沈黙しています。しかし、聖書はそのような人たちが救われるとは書いてはいません。圧倒的に裁きがあることがでてきます。わたし達が受けたのは信ずる者は恵みによって救われることです。ではそれはそのまま渡せばよいのです。類推に類推を重ねて拡大解釈をすべきではありません。異教徒や福音を知ることなく亡くなった人については、神がお決めになられることでわたし達が談じることではありません。同じようなことは仏教の中阿含経巻第60に出てくる箭喩経(せんゆきょう)の説話に似ています(http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/SenyuKyou/SenyuKyou.htm)。

 この点イスラームの開祖ムハンマドは、父を生れる前に亡くし母も幼い時に亡くし、祖父アブドゥルムッタリブと叔父アブー・ターリブの庇護の下育ちました。庇護者の祖父ムッタリブは8歳の時、叔父ターリブも619年に妻ハディージャが死んでまもなく亡くなりました。“アブー=ターリブの死後、ムハンマドはメッカの有力者から「お前の育ての親は今どこにいる?」と問われた。イスラームの教義では多神教を奉じる人間は地獄行きになることになっている。幼少の頃よりムハンマドを支え続けたアブー=ターリブはムハンマドにとって最大の恩人であったが、ムハンマドは「地獄にいる」と答えざるを得なかった。このことによりムハンマドはハーシム家やイスラームに好意的であった人々の怒りを買い、より苦しい立場に置かれることとなった。”(Wikipedia)、このことはハディースを見ますと、

"アブー・フライラによると、アッラーのみ使いはこういわれた

「信仰心を持たぬ限り、誰も天国に入ることはできない。また、お互いが愛し合わない限り、信仰心を持つとはいえない。
そうすることで互いに親愛感を育てる方法を私はあなた方に教えなかったですか。
それは、お互いがアッサラーム・アライクム!(あなた方の上に平安を!)と言って挨拶を交わすことです」

ジャリールはアアマシュからきいてアッラーのみ使いの言葉をこう伝えている

「私の生命を手にしておられる方に誓って。信仰がなければ、あなた方は天国に入ることはできない」
なお、このハディースの他の部分は前記と同内容である。"
(信者以外は天国に入れないことに関して 1巻 P.60)


"アッバース・ビン・アブドル・ムッタリブによると彼はこういった

 「アッラーのみ使い様、あなたを保護し守ってくれたアブー・ターリブが有利になるよう、あなたは何かなさいましたか」
これに対しみ使いは「はい、それゆえ彼は地獄の最も浅い処にいます。
もし私がそう取計らわなければ、彼は地獄の最も深い底にいることになったでしょう」といわれた。

アブドッラー・ビン・ハーリスは、アッバースがこう語ったと伝えている

アッバースは「アッラーのみ使い様、まことにアブー・ターリブはあなたを保護し、また助けた方です。
そのことが彼の役に立っていますか」と質問した。
み使いは「その通りです。
私は彼を地獄の底で見付け、最も浅い処に連れ出したのです」といわれた。

前記ハディースは、アブー・アワナーによっても別の伝承者経路で伝えられている。

アブー・サイード・フドリーはこう伝えている

アッラーのみ使いは、伯父アブー・ターリブについてたずねられた時、次のようにいわれた。
「復活の日の私の執り成しは、彼のため役立つことだろう。
彼の頭は熱さに茹だるが、業火が彼の両足首まで達するだけの浅い処に移されることだろう」 "
(アブー・ターリブに関する預言者の執り成しについて  1巻 P.177)


"アブー・サイード・フドリーによると、アッラーのみ使いはこういわれた

「地獄の住民で最も罰の軽い者は、業火の燃えついた二つの靴をはかされるが、その靴の熟さのため彼の脳は茹でたぎることだろう」

イブン・アッバースによると、アッラーのみ使いはこういわれた

「地獄の住民の中でアブー・ターリブは最も罰の軽い者であるが、彼は火のついた二つの靴をはかされ、そのため脳を茹でたぎらせることだろう」

ヌアマーン・ビン・バシールは説教を行い、その中でこう語った

「私はアッラーのみ使いが次のようにいわれるのを聞いたことがある。
『復活の日、地獄の住民のうち最も罰の軽い者は足の裏に二つの燃えさしを置かれ、そのため脳を茹でたぎらせている男であろう』」

ヌアマーン・ビン・バシールによると、アッラーのみ使いはこういわれた

「地獄の住民のうち、最も罰の軽い者は火のついた二本のひもを着けた(二つの)靴をはかされる。
このため、彼の頭脳は料理なべがわき立つように沸騰することだろう。
その時彼は、自分以上にひどい罰を受ける者は誰もいないと思うだろうが、実際には、彼は最も軽い罰を課せられているのである」"
(地獄での最も軽い罰について  1巻 P.177-178)

などとでています。

 近い宗教のひとつであるイスラームを見ますと、このように現在のわれわれから見ると峻烈とも見えますが、これは旧約聖書を読んでもこのような峻烈さはいたるところにあります。欧米のキリスト教のドライなところもキリスト教にそのようなものが継承されているためなのでしょう。しかし、これが日本語に訳され、日本流に受け止められた時、とてもマイルドにされ原意から離れてしまっているようにも見えます。

後付

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後付
2014/7/14(月) 午後 1:40
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/13145031.html

 89年に出版された新教出版社の「新約聖書小辞典」の【あい】の項目に目が行ったので、そのまま解説を読んでみましたら

 "新約の「愛する」はギリシャ語アガパオーであるが、フィレオーも同義的に使われている(ヨハ16:27, 21:15-20)。他の愛を表すギリシャ語エロース(erōs)は新約にはない。アガペーは本来神の愛である。…アガペーは神が価値のない罪人たる人間に対して自身を与える神のあわれみの行為である。したがって、それはキリストにおいて顕わされた神の愛、「キリストの愛」である。この愛に教えられ、励まされて、人間ははじめて神と人とを愛するようになる。
 (1)…以下略"

 などと書かれていました。読んでいてそれって後付の意味で、「聖書辞典」としてそれを語るのはおかしいような気がします。この説明が「キリスト教辞典」なら分かりますが小とは言え「聖書辞典」には…(汗)。と思いますね。

 ギリシャ語辞典でαγαπη(アガペー)などの説明を読みますと、

 「改訂増補 新約聖書ギリシャ語辞典」(岩隈直著 山本出版)
 "①愛;((古典になくヘレ希でも異教文書の確実な用例は長い間見出されなかったが、現在はあると言う。七十人訳では男女間の愛にも用いられている。新約における用法は前項と大体同じ、前項参照))…"
(注: "前項と大体同じ" とは、この語名詞アガペーの前の動詞アガパオーの説明のこと)

 「新約聖書 ギリシャ語小事典」(織田昭編 クリスチャンセンター書店)
 "愛、いつくしみ、こよなく大事にすること (積極的・肯定的)尊重;新約聖書以前の文献にはフィロンとLXX以外には殆ど用いられていなかった語とされていたが、近年に至りこの名詞形を含む碑文が幾つも発見され、元来非キリスト教的ギリシャ語彙の中に含まれていたことが明らかにされた―Arndt-Gingrich.したがってαγαπηはN.T.が作り出した語ではないが、N.T.によって新しい意味を盛られた語であると言える。…"

 などと説明がなされています。後から意味付けをして、それで聖書を読み解くのは果たしてよいことなのだろうか。聖書筆者はそんな意味付けをして書いたようには思えません。当時、使われていた意味合いで書き表したのではないでしょうか。イエスの発言にしても然りです。さて、もう一つThayer's Greek-English Lexicon of the New Testamentを見てみましょう。

THAYERS GREEK LEXICON 記名入り

" ἀγάπη
ἀγάπη, (ης, ἡ, a purely Biblical and ecclesiastical word (for Wyttenbach, following Reiske's conjecture, long ago restored ἀγαπήσων in place of ἀγάπης, ὧν in Plutarch, sympos. quaestt. 7, 6, 3 (vol. viii., p. 835, Reiske edition)). Secular authors from (Aristotle), Plutarch on used ἀγάπησις. "The Sept. use ἀγάπη for אַהֲבָה, Song of Solomon 2:4, 5, 7; Song of Solomon 3:5, 10; Song of Solomon 5:8; Song of Solomon 7:6; Song of Solomon 8:4, 6, 7; ("It is noticeable that the word first makes its appearance as a current term in the Song of Solomon; — certainly no undesigned evidence respecting the idea which the Alexandrian LXX translators had of the love in this Song" (Zezschwitz, Profangraec. u. Biblical Sprachgeist, p. 63)); Jeremiah 2:2; Ecclesiastes 9:1, 6; (2 Samuel 13:15). It occurs besides in Wis. 3:9 Wis. 6:19. In Philo and Josephus, I do not remember to have met with it. Nor is it found in the N. T. in Acts, Mark, or James; it occurs only once in Matthew and Luke, twice in Hebrews and Revelation, but frequently in the writings of Paul, John, Peter, Jude" (Bretschn. Lex. under the word); (Philo, deus immut. § 14). In signification it follows the verb ἀγαπάω; consequently it denotes "

Ἀγάπη、 (ης、 ἡ、純粋な聖書と教会の単語 (次の Reiske の予想・ ヴィテンバッハ昔復元ἀγάπης、プルタルコスでὧνの代わりにἀγαπήσωνの sympos quaestt. 7、6、3 巻 viii.、p. 835 (Reiske 版))。(アリストテレス) から世俗的な作家、プルタルコスにἀγάπησιςを使用します。" 9 月使用するἀγάπη אַהֲבָה、雅歌 2:4、5、7;雅歌 3:5、10;雅歌 5:8;雅歌 7:6;雅歌 8:4、6、7;("それは顕著な単語最初のソロモンの歌; 現在の用語として登場していること-確かにないデザインの証拠 Alexandrian LXX翻訳者がこの曲の愛の考えを尊重する」(Zezschwitz、Profangraec. u. p. 63 聖書 Sprachgeist));エレミヤ2:2;伝道9:1、6;(2 サムエル 13:15)。それ以外にもで発生ウィスコンシン ウィスコンシン州 3:9 6:19.ヨセフスとフィロは、覚えていないそれを満たしています。行為の N. T. それ見つけたまたマーク、または James;Matthew とルーク、ヘブル人と啓示に 2 回が頻繁に Paul、ジョン、ピーター、ジュードの文章で、一度だけ発生します」(Bretschn。Lex。単語); 下(フィロ、deus immut. § 14)。意義にそれ続く動詞ἀγαπάω;それはその結果を示します  (翻訳は機械翻訳です)

 さて、Thayer's Greek-English Lexiconで七十人訳のアガペーの用例が示されていますが、その箇所をまず七十人訳ギリシャ語聖書で本当にアガペーが使われているのかを確認し、さらにマソラ本文ではどうなっているのかをThe Interlinear Bible: Hebrew-Greek-Englishで確認しました。Jay P. Greenのインターリニアはマソラ本文の各語の下にJay P. Greenの行間逐語が載せられ、語の上にはストロング・ナンバーが振られています(まあ、横にはJay P. Greenの訳が載っています。)。それをSTRONGEST STRONG'Sで確認をしますと、それでアガペーがどのヘブライ語の訳語として使われているかが分かります。

Greens Literal TranslationとLXX

 そうやって探って行きますとヘブライ語'ahₐbâh(אהבה)という語にのみアガペーが使われていました。この語は「聖書語句大辞典」(教文館)によりますと、 "愛、愛情、愛する、恋、恋人" となっており、また「現代ヘブライ語辞典」(キリスト聖書塾)では、 "①愛、愛情、情愛。②好み、愛好。" となっていました。

現代ヘブライ語辞典 項目愛

 イエスも聖書筆者達も、当時の日常の意味においてこれらの語を使用したはずなのに、いつの間にか意味が後付けられ、今度は後付された意味を用いて聖書を読み解くのでは、段々と聖書それ自体から離れてしまう気がします。以前、寛容の語について日本人は日本語の意味として捉えてしまうが、元の言葉には日本語のような意味がないことを書きました(http://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12976101.html)。今回のこともそれと似ている感じがします。

 例えば、今日、ヨハネ21:15-19のペトロへの牧羊命令に対して、愛せよに対してアガパオーとフィローセの語の使い分けに対して、区別解釈すべきではないというのが常識となっていますが、それでもなおいまだに区別解釈をする人があり、イエスとペトロがまるでコイネー・ギリシャ語で、そのような区別をしつつこの対話をしていたかのように思い込んでしまっているかのように解く人もちらほらと見えるのは残念なことです。そういうあやまりを後押ししているのもこのような「小聖書辞典」のような記述をして垂れ流しているせいもあるのでしょう。

10分の1献金問題

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プロテスタント的
2011/10/15(土) 午後 8:47

 カルト化している教会や異端各種を見て行くと、面白い共通項が見えてきます。それは表面的には信仰義認を標榜してはいても、その実(じつ)において行為義認であることが多いということです。カトリックの場合ですと、リトル・ペブル運動やその他のものを見て行くと、カトリック的禁忌への反動とも取れる行動が目に付きます。しかし、それとともにカトリック的様式や儀式に固執したりしている面もあります。しかし、プロテスタント系は行為義認に走り、信徒へ暴力的ともいえる過度の義務的行為を求めます。それが牧師など指導者に対する従順であったり、繁栄の信仰とのセット(飴と鞭)での什一献金(実際には二割三割当たり前みたいなところもあるようです。)であったり、表面的には自発的としていながら、半ば強制的な伝道やその他の奉仕活動などが挙げられるでしょう。なぜプロテスタント系のカルトや異端ではこのような事象が見られるのでしょうか。

 カトリックが信心行ともいえる行為があったり、告解などでも罪の償いなどを課すことなどがありますが、プロテスタントではそのような行いを削ぎ落としてきたゆえに、正しく信仰義認と言うものを認識しないと、このような二重基準的隠れ行為義認と言う罠に陥ったりすると考えられます。

 ルターの著作『善きわざについて』から、信仰義認による善き行いとは何かということのエッセンスを見てみたいと思います。

 『第一に知らねばならぬことは、ただ神が禁じたもうた罪のほかには、いかなる罪も存在しないと同様に、ただ神が命じたもうたわざ以外には、いかなる善きわざも存在しないということである。それゆえに、善きわざを知り、これを行なおうと思う者は神の戒め以外には何も知る必要はない。そうした意味でキリストは、マタイ一九章で、「もし救われたいと思うならいましめを守りなさい」と言われ、そして若者が、「救われるためには、どんなことをしたらいいでしょうか」と尋ねたとき、キリストは十戒のほかには何も示したまわなかった。したがって、私たちは善きわざの識別を、神の戒めから学ぶべきであって、わざそのものの見ばえや大きさ、あるいは数量などから学ぶべきではない。…第二、あらゆる尊い善きわざの中で第一の最高のわざは、キリストを信じる信仰である。…ところで、私たちがこのことを聞いたり、説いたりする場合、私たちは上(うわ)調子でこれを軽くあしらい、楽々と実行できるもののように考えるのであるが、むしろ私たちはここにゆっくり立ちどまって、じっくりと思いをこらさねばならない。というのは、いっさいのわざは、このわざのうちにおいて行なわれねばならないからであり、またそれらのわざの善性も《領主から受ける》封土のように、このわざから受けとらねばならないからである。…第三、さらにすすんで、彼らが手のわざをいとなんだり、歩いたり、立ったり、あるいは飲食睡眠など、体の栄養もしくは一般的益のために、あらゆる種類のわざをなすとき、人々はそれらを善きわざとみなすかどうか、そして神がそれらのわざにおいて、人々を喜びたもうと信じるかどうか、と尋ねるならば、人々はいなと答えるであろう。そして彼らが善きわざをきわめて狭く限って、ただ教会における祈祷、断食、施与などにとどめ、それ以外のわざは、すべて神にとっては無価値なものだとみなしていることがわかるであろう。こうして彼らは、のろわれた不信仰によって、いやしくも信仰において生じ、語られ、考えられる事柄はいっさい神への奉仕となるべきであるにもかかわらず、その奉仕の道をせばめ、制限しているのである。…キリストはヨハネ八章で言われた、「私は、いつも神のみこころにかなうことをしている」と。キリストはご在世中、食べもし、眠りもされながら、どうしていつも神のみこころにかなうことができたのであろう。聖ヨハネは第一ヨハネ三章に言っている、「それによって、私たちが神のみまえに心安んじ、信頼しまつることができれば、私たちは真理のうちに立っていることがわかる。たとい私たちの心が私たちを責めさいなもうとも、神は私たちの心よりも大いなるかたであって、私たちは願い求めるものを何でも与えられるのだという確信を持っている。それは、私たちが神の戒めを守り、神のみこころにんなうことを行なっているからである」と。…第四、さて、ここにだれでも自分の行うわざがどういうときに善であり、また善でないかを自分で認め感じることができる。すなわち、自分の行うところは神のみこころにかなうという確信が心にあれば、たといそれが、わらくず一本を拾いあげるような些細な事柄であっても、そのわざは善である。けれども、その確信がなかったり、あるいは疑ったりするようなことがあれば、そのわざは、たといあらゆる死者をよみがえらせ、おのが身を焼かせるほどのものであっても、善ではない。そのことを聖パウロはローマ一四章で、「すべて信仰から、もしくは信仰において行なわれないことは罪である」と教えている。…第五、この信仰の中では、いっさいのわざが等しくなり、互いに同等のものとなる。わざが大きかろうと小さかろうと、長かろうと短かろうと、あるいは多かろうと少なかろうと、そうしたわざの間の区別はいっさいなくなってしまう。…』

 このように、信仰こそが第一の善きわざであることを認識し、『なにものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼す』ることからはじまるということを、心に刻み、信仰による行いを狭めて捉えないようにすべきです。

 そして、異端やカルト化した教会の組織や指導者が求めているものは、実は信仰とも、救いとも、まったく関係のない、外的要求に過ぎず、自己の支配的欲求から来ているものであることを理解すべきです。

***プロテスタント的「」へのコメントとレス***

コメント(10)

「恐れ、愛し、信頼す」

ものすごい奴隷根性のような感じもします。
SM的というかDV的というか。

この思想を「いつも神様の顔色を伺いながら生きて死ね」という風に「自称神様」または「神様代理」利用された時、宗教は恐ろしいものになりますね。
[ - ] 2011/10/15(土) 午後 10:19 返信する

*

これは「信仰義認」または「信仰によってのみ義とされる」という事柄のが目や耳から入ってくるとき、表面的な解釈や受けとり方をしてしまい、そのドグマの持つ最も根本となることを見落としてしまうために、返って無知となってしまって、そこを行為義認という人が最もわかりやすく安心しやすい形へ人を導き、指導者や組織への奴隷としてしまうと言うことですね。
2011/10/16(日) 午前 5:31 返信する

*

エホバの証人を内部から観察して思うのですが、恐らく行為義認的な宗教の方が、「これだけ頑張った」というような形が残りますし、人々は安心するんでしょうね。
[ 南三条 ] 2011/10/16(日) 午前 8:25 返信する

*

人は弱いもので、成果と見返りというものが、理解しやすく安心するのでしょうね。

それゆえ、ものみの塔という組織はそれを利用し、信者は追われるように働くということになるのでしょうね。
2011/10/16(日) 午前 8:53 返信する

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アタナシウス様、こんにちは。シャロンです。
ニックネームがうまく選択できなくて、このままで投稿します。

「信仰のみ」はカルトの独裁者に、本当に都合良く利用されていると思います。信仰者は、たとえ犯罪すれすれ(あるいは犯罪そのもの)であっても、許されるという論調です。
勿論、罪を犯しても、罪に苦しみ被害者の方に心からの謝罪をする者を、神様は慈しんで下さるでしょう。
しかし、被害者の方から許されるという事とは、また別です。
以前友人に聞いた話ですが、韓国の(新興宗派だと思いますが)映画か小説で、人を殺してしまったが、クリスチャンになった人が「全ての罪は許された、」と顔を輝かせて喜びに満ちている、というのがあるそうです。
そこに心からの懺悔があれば、また別ですが、こういうのは、違うんじゃないかと思います。
でも、最近この手の話をよく耳にします。
明らかに「信仰のみ」を間違えていると思います。
非常に危機感を覚えています。
[ - ] 2011/10/17(月) 午前 9:54 返信する

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シャロンさん、こんにちは。

コメントありがとうございます。

近年のアメリカ型福音派や原理主義者、カリスマ運動・聖霊の第3の波運動の間にて、超教派の名の元に教義の混同が、信徒のみならず牧師と呼ばれる人たちの間でも見られ、それと同時に宗教改革以来、共通して持っていたドグマが失われたり、薄められたり、果ては無くなって別なものに置き換えられたりしています。

その一つが、キリスト者が「義人にして罪人」ということです。これはルターの『95箇条の提題』や『キリスト者の自由』で信仰義認を説明する際、よく出てくるものなのですが、ボーンアゲインクリスチャンの思想には、これが無いように感じられます。

『一、われわれの主であり師でありたもうイエス・キリストが「悔い改めよ、云々」と言われたときに、彼は信仰者の全生涯が悔い改めの行為でなければならない。ということを意味されたのである。…四、それゆえ、悔悛は、自己嫌悪(すなわち、真の内的悔い改め)が存在する限りとどまっているのであり、つまり、天国に入るその時まで続くのである。』(95箇条の提題より)というものが、彼らには無いように思えます。
2011/10/17(月) 午前 11:34 返信する

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以前のJWの賛美の歌に「進歩せよ」というタイトルの歌とか「熱心な~れ、よき業に~て・・」とかいう歌詞の歌がありましたが、伝統的キリスト教会の教派からJWに転向した人の中にはJWの熱心さに惹かれた人がいるようです。某単立カルト教会なども、一度礼拝に行った程度では、<熱心な教会だ>と外部の人は思うようですね。

ワーカーホリックの人は常に忙しくしているのが安心なのでそういう心の傾向のある人で聖書に関心がある人はカルト化した教会かJWなどのカルト教団になお更魅力を感じやすいかと思いますね。
[ Anastasia ] 2011/10/18(火) 午前 0:49 返信する

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現在の福音派・聖霊派系統のプロテスタントを見て行くと、あれもしなければ、これもしなければと忙しく熱心すぎるほど熱心に働いています。

伝統的キリスト教のように、今一度立ちどまり、静聴し、黙想し、沈黙と静けさの中、ただ神にのみ意識を向け、デボーションガイドなんかを使わずに、神の御前に静かに聴くことをしてもらいたいですね。
2011/10/18(火) 午前 5:06 返信する

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なぜ、普通のキリスト教ではなく、JWやカルトに行ってしまう人がいるのか不思議だったのですが、Anastasia様の投稿を読み始めてわかりました。

デボーションガイドなんていうのも、私もいらないと感じていました。所詮、その著者の主観ですから。
私はもともと、バプ同でキリスト教に出会ったので、福音派でよく言う霊的指導者、という言葉にも違和感があります。
霊なんて人に指導されるものではなく、まさに神様の前に一人静まる事だと思っているのですが・・・。
[ - ] 2011/10/22(土) 午前 10:53 返信する

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福音派や聖霊派では、デボーション、セル、様々な奉仕の場があり、忙しくしています。

主をもてなすことに忙しくしていたマルタに対してイエスは、「マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により、思ひ煩ひて心勞す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此れは彼より奪ふべからざるものなり」と静かに主に聞くことこそが大切であると教えていますね。
2011/10/22(土) 午後 1:03


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悪魔のもたらした繁栄の信仰という考えからカルトははじまる
2011/10/25(火) 午後 9:38
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/7140242.html

 キリスト教の福音派の一部や聖霊派を侵食している「繁栄の神学」と呼ばれるマモニズム神学があります。この教えはアメリカで始まり、特に南米やアフリカなどの第三世界や拝金主義の韓国キリスト教に広まりました。近年は聖霊派や韓国系を通じて、この日本のキリスト教会をも侵食し蝕み始めています。

 ペンテコステ系の純福音教会の「物質の祝福は神様の御心である」というメッセージの前半を見てみましょう。

 『しばらく前に、イギリスのBBC放送で、物質的な精神と精神的な精神、精神的な価値、どちらが大事かを比べていました。精神的なものも、物質的なものも大事なものです。しかし、皆さんはどちらを優先しますか。資本主義の国家アメリカでは、物質的な価値が最も尊ばれるのではないかと思われるでしょう。しかし、世界各国を調べて見ますと、物質的な価値を最も重んじる国は、アメリカではなくて、一番目は中国、二番目は韓国でした。
 私たちは精神的価値が物質的価値よりも勝っていると考えます。もちろん、精神的なものの方が、物質的なものよりも価値があるでしょう。しかし、だからと言って物質的なものは価値が無い訳では無いんです。
 人の体は物質で出来ています。私たちの体は物質なしでは生きてゆけないのです。ですから物質なしのは大事だし、神様の祝福の中には物質的なものが多く含まれているのです。
 今日は神様の祝福を受けたヨセフの話しです。ヨセフは霊的にも祝福されました。しかし、今日の本文では物質的な豊な祝福も受けているのです。彼は生い茂っている樹のように豊な祝福を受けたのです。反対する敵もいましたが、それに打ち勝つ力も持っていました。神様はヨセフに天と地と子供を養う祝福を与えてくださったのです。ですから、私たちもヨセフのように物質的な祝福を治めなければなりません。それではヨセフのような祝福を享受する為には、どうすればいいでしょう。
 一番目に物質世界に対する聖書的な観点を持たなければなりません。人々は物質と言うと少し嫌がる傾向があります。なぜならば、その物質によって、神様から遠のいてしまうんではないかと思うからです。しかし、物質は気にしたり、遠避けたりする必要はありません。なぜならば、神様が物質をお創りになりましたから、神が天と地とすべての万物を創造されたのです。また、神はエデンの園も創られた。そこは何の不足も欠けたことの無いところで、そこでアダムとエバは生活したのです。アダムとエバには物質的な不足は何もありませんでした。ですから、私たちも、豊に不足なしに暮らすことが神様の御心なのです。
 ユダヤ人の物質的な観点を見れば、もっと判りやすくなります。ユダヤ人の知恵の書と言われるタルムードではこう書いてあります。「世の中の貧しさは悪いものだ。世の中の悪いことはこの貧しさのせいなんだ。」また、彼はこういうことも言っています。「お金は神様から、おくりものを買うチャンスを与える肉体を司るのは心であり、心が頼るのはお金である。人の心を痛ませる三つのものは、悩みと不和と財布である。その中で一番心を痛ませるのは、やはり財布である。」
 あまりにも具体的に話をしていますが、今日、経済を牛耳っているのはユダヤ人であります。ユダヤ人を批判的にみる視覚もありますが、ユダヤ人は、中世の時に高利貸しによって銀行を立てました。ですから、最近の銀行を支配しているのです。アメリカの方に渡って金融界を支配し、今日のアメリカのヘッジファンドなど、すべての金融はユダヤ人が支配していると言われます。
 物質に対してどういう風に思うかによって、その個人、その民族、国家が変わって来るのです。物質が豊になるは、神様の祝福だとユダヤ人は考えました。特に聖書の時代には、律法を守れば守るほど多くの豊かさが与えられる。こう言ったユダヤ人の考えは、必ずしも正しいわけではありません。彼らは聖書を通して自分なりに解釈しているからです。私たちは聖書の通りに解釈する。では、聖書は何と言っているのでしょうか。神は聖書を通して物質の祝福をお与えになる。しかし、神が禁止しているものがある。それは貪欲です。貪欲、貪りは偶像崇拝だと言っている。イスラエルの民たちが、神の導きによって、乳と蜜の流れるカナンの地に入りました。その最初に支配しなければならない待ちはエリコでした。エリコを支配するんだけども、その中にあるものは全部神様にささげなさい。…物質は神の祝福であっても、貪欲は神様のさばきを受けるのです。
 神はエデンの園にすべてのものを備えてくださり、すべてのものを食べてよいとおっしゃった。しかし、園の中央にある善悪の実は食べてはならないとおっしゃったのです。なぜなら、物質の主人は神であることを教えるためなのです。貪欲というものは死をもたらしてしまうのです。アダムとエバは、その貪欲を勝つことが出来ず、食べてしまうのです。その結果、刑罰を受けてエデンから追い出されてしまいます。今日、アダムとエバの子孫達は追い出された身分です。だから、物質の豊かさを治めることができません。裸で空腹で呪いの中で暮らしている。しかし、それは神の御心ではない。神は善き神様。恵み豊な方です。だから主は、この地に来られ、貧しさは贖ってくださったのです。第二コリント8:9です。『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』
 主はただ空腹で、苦しんで、天国に行きなさいとおっしゃっていません。主はこの世でも豊になり、幸せになってから、天国に来なさいとおっしゃっているのです。
 主は呪いを喜ばれません。貧しさも喜ばれません。ユダヤ人が言っていたように、この世の多くの悪いことが貧しさから来ているのです。イエス様が貧しさ、呪いを贖って下さいました。イエス様は十字架にかけられ、律法の呪いから贖って下さいました。アブラハムの祝福を与えてくださったと聖書は記録しています。ガラテヤ3:13~14です。『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』ですからイエス様によって、私たちは呪いから放たれたのです。そして、物質に対する恐れを捨ててください。豊かさの中でもって、主に使えることが出来ます。それが神様の御心なのです。第二コリント9:8です。『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。』荒野で人情が生まれるという言葉があります。豊になってこそ人に分け与えることができると言うことです。豊になって、自分だけのために使うのではなく、個人のため、また、教会のために、神様のために用いましょう。…』

 このメッセージを聴くと、名古〇クリス〇ャンセンター〇会の『繁栄の信仰』というメッセージテープで聞いたのと同じフレーズが出てきます。それは貧しさは呪いであるということと、キリストは貧しさから贖ってくださった。神は豊になることを望んでいる。物質的な豊かさは祝福である。そして、引用されたみことばも、えっ!!そう解釈しちゃう?って思ってしまうようなものです。あなたたちの祝福や贖いって『お金!!』、そして本根もポロリと「教会のために、神様のために」豊かさを使う、結局、自分たちがお金が欲しく、それを正当化させるためと信徒から金払いを良くさせる為に「貪欲」は罪だと言うことを強調し、アダムとエバの堕落も、イエスの贖いを貧乏からの贖いと矮小化しているのと同じく、貪欲のためだと言ってしまう。マモニズムもここまで真理を蝕み、醜悪なものに変えてしまうのかとあきれてしまいました。

***「悪魔のもたらした繁栄の信仰という考えからカルトははじまる」へのコメントとレス***

コメント(16)

妖しい雰囲気がプンプン漂っているメッセージですねえ。w
これ聞いてマジで信じちゃう人って、よっぽど困窮している人か、物質欲に強力に支配されている人か、もしくはじっくり聖書研究したことないんでしょうかねえ。汗

ちょっと話題はそれますが、市内のとある長老派だけど福音派みたいな教会で、韓国から来た長老派牧師が、「病気は信仰があれば必ず治ります!皆さん、もっと神に熱烈に癒しを祈り求めましょう!」って感じのメッセージを説教で言ってました。繁栄の神学と似たような妖しい雰囲気を感じました。汗
[ Anstasia ] 2011/10/25(火) 午後 10:29 返信する

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韓国も長老派が多いですね。長老派は教会政治上の分類ですから、カルヴァン主義で無くても、信仰は福音派でも長老制を取れば長老派と言っているのかもしれないですね。

神癒の強調はペンテコステのみならず、きよめ系でも強調されますね。まして韓国は神癒・異言・預言・悪霊の追い出し・繁栄の信仰などのメッカですからね。
2011/10/26(水) 午前 4:05 返信する

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エホバの証人はアダムとエバをとことん悪者にしているけれど、証人の組織がすべての決定権があると主張しているんですね。では、戦争したり、不正したり、分裂させたり、偽りお教えをしたり、しているのは、組織が不完全だということではないでしょうか?極端に厳しく強制して信徒をつなぎとめているのです。聖書は家で静かに朗読すればいいのです。パリサイ人がいる集会には行きたくもありません。権力が物をいう会衆を見てきたので二度と行きたくないです。人間の教えを伝統にしている長老だっているんです。口伝でモーセ5書は記録されたのでしょう。120年の生涯のモーセ。アダムは930歳。どうやって年数が記録されたのですか。なんか妖しい感じがするのですが。?
[ 元Jw ] 2011/10/26(水) 午前 6:25 返信する

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まず、この地上に完全なんてものは存在しません。これは地上にある教会も例外ではありません。当然、使徒たちがいた時代も含まれます。だからこそ、使徒パウロは各教会に当ててあれほどの書簡をしたためたのです。聖霊に導かれ、使徒たちもいてなお各教会には問題があったのなら、使徒たちもいない、イエスの時期弟子たちもいない現在ならなお、問題があるのは当然だと考えます。だからこそ、偽教師や偽預言者、偽メシアなどに気をつけ、べレアの人々のように、果たしてそのとおりか聖書を調べ、霊だからと言って何でも信じてしまわないようにと、聖書の中でくり返し注意するように語られているのです。

聖書の成立過程や、なぜ長い年齢が好まれたかについては、聖書の本文批評などで学問的に詳しく説明がなされていますので、そのようなんを捜してみてはいかがですか。教文館、日本基督教団出版局、新教出版、リトンなどで出ている本は、福音派系出版社のものよりもしっかりした学問的研究書などが出ていますよ。
2011/10/26(水) 午前 8:11 返信する

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有り難うございます。そうします。
[ 元Jw ] 2011/10/26(水) 午前 8:34 返信する

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ヤベツの祈りとかいうブームみたいなもの思い出しますた
恐るべし繁栄のネズミ講神学の魔力
教祖は木です。あなたがたは葉っぱです。光とお金集めて繁栄でスミダ
[ はんす ] 2011/10/26(水) 午後 1:02 返信する

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ヤベツもありましたね。

セル、弟子訓練、アルファなんてものもありますね。
2011/10/26(水) 午後 1:33 返信する

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繁栄系のお父さんが仕事中毒の為に構ってもらえない子供達がキャベツの祈りだって笑ってましたが、彼ら子供達の方が正しかったようです。
お金や仕事より大切ものがありそう
[ はんす ] 2011/10/26(水) 午後 3:06 返信する

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まだ仕事中毒なら救われるのですが、繁栄の信仰は、多くお金を献げれば献げるほど、祝福という名の繁栄が与えられるというものです。単なるカルト教会の集金活動をやりやすくするための理論です。
2011/10/26(水) 午後 3:19 返信する

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アルファは危険な教えなのですか?
[ Alexamenos ] 2011/10/26(水) 午後 8:39 返信する

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セルにしても、弟子訓練にしても、アルファにしても無批判的に受け入れ信頼するのはどうかと思います。セルや弟子訓練は最近になって、その問題点が体験者達の口から知られるようになりました。そのような意味で名前を挙げています。コースのタイトルからみると英米型そのままで、まあ、英国の教会発祥ですからしょうがないのかもしれないですが、カルト化や異端の事例から言っても、あまりいい印象は受けないですね。
2011/10/27(木) 午前 3:03 返信する

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僕も名古〇クリス〇ャンセンター〇会を思い出しました。
ちなみに、あの番組で話していた牧師、宣教師に反発して、教会を去ったとのことです。
宣教師に言わせれば、「彼は地獄に行く」ということです。(笑)
牧師が教会を離れたりすることなど、そのようなことはよくあることなので、それほどなんとも思いませんでしたが、地獄行き発言には、さすがの僕も驚きました。
自分に反対するものは、誰でも「自国行き」ですからね。
アメリカに連れていってやったり、その牧師の面倒をみてやったのに・・・・・などなど、愚痴まで出る始末でしたよ。
本来なら、その去った牧師のためにも祈るとか、それがクリスチャンとしてのあり方だと、僕は思いました。
他でも書きましたが、僕は彼らと接触があっただけに、あまり悪くは言いたくないのですけどね。
それなりに学ばされたことがあったのも、事実です。
実際、そこの町に行った時日曜日だったので、そこの礼拝にも出たほどです。
[ Kazuya ] 2011/10/27(木) 午前 11:02 返信する

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それでHP見ても、アーニー・〇・シ〇ムラ牧師以外の牧師の名前が出てこなかったのですね。

私もメッセージカセットなんかを10本ちかく貰いましたね。おかげで聖霊派系単立の良い資料となっています。

この手の団体の人たちって、自分達の信徒には、牧師や奉仕者の人間的過ちを赦すように求めながら、自分達はそうではないことが多いですね。
2011/10/27(木) 午前 11:24 返信する

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ただ、一応そこの牧師はテントメーキングとして、番組で話していた牧師は高級家具の修理、アメリカ人宣教師はレストランを経営しているとは言ってました。
その話を聞く限りにおいては、信者からの献金で、私腹を肥やしている訳ではないように思われます。
まぁ、教会を離れた日本人牧師はともかく、そのアメリカ人宣教師がはたして本当にレストランを経営しているのか、正直よく分からないんですよね。
もちろん僕が部外者だけに、詳しいことを知る機会がなかったということではあるのですが・・・・・。
[ Kazuya ] 2011/10/27(木) 午後 7:15 返信する

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その職業のみによって収入を得ていて、教会から高額な給料の類いを得ていないのならいいのですが、副業を持っている、もしくは商売の方が本業というのなら、かなり深刻な問題となりますね。

私はその放送を見ていないので、お話しから想像するしかありませんが、問題となっている教会、また牧師などは話しだけ聞くといいことを言っていたり、熱心であったり、としている場合が多々ありますね。
2011/10/28(金) 午前 5:25 返信する

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書き終わって、名古屋の方だと気付きました。

ラジオでその話をしていたかは覚えていませんね。それでもやはり同じで、牧師の多角経営と見ると問題がありますね。
2011/10/28(金) 午前 5:28



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献金問題
2012/1/25(水) 午後 2:41
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/8301282.html

 ネットなどでカルト化教会などを検索してゆくと、必ずと言ってよいほど、什分の一献金や什分の一献金以上の献金の強要や暗黙の強要、その他の献金トラブルが取り上げられていて、什分の一献金=カルト化教会という括りになっています。

 以前にも取り上げたので簡単に述べるのなら、什分の一献金は何ら聖書に根拠のないもので、聖書に述べられているイスラエルに課せられた律法契約の十分の一の奉げ物と、福音派や聖霊派系統がいう什分の一献金はまったく関係のない、まったく制度も内実も別なもので、これらを混同させることによって手っ取り早い集金の根拠としているにすぎません。

 また、繁栄の神学といったまやかしのように、信仰を表すもの、信仰のバロメーターとしたり、多く奉げない者は信仰がなく、救われないと説いたり、多く奉げると多くの祝福があると言うだましごとによって集金している団体も近年は増えてきています。これもこの説を唱える者たちは聖書を引用して、一見あたかも根拠のあることであるかのように偽装していますが、これも集金のための方便にすぎません。

 もちろん個人的に多く奉げたい気持ちから、誰からもそのように教えられず、暗黙の圧迫もなく、それによって生活が立ち行かなくなるといったことがなく、救いとは関係がなく、ただ自身が奉げたいとの気持ちから、心に定めてするのなら別に何の問題もありません。

 しかし、実情は事前に什分の一献金について、直接の要求や直接語らなかった場合でも、テキストや薦められた本の中にそのことが書いてあったり、そのことを何となく匂わせるような何らかの示唆があったり、学びの中で言及があったり、教会の信徒の話の中でそのことの薦めや示唆、暗黙の圧迫があった結果、そこにたどりつく場合がほとんどといえます。

 この献金においてなぜトラブルが多いのだろうと考えてみますと、聖書における古代イスラエルの民が神に奉げた奉げ物と教会の献金には大きな差があるからだと思います。古代イスラエルにおいては、まず奉げられた動物や農作物は、祭壇で燃やして煙にして焼き尽くして、主への宥めの香りとしました。その他のものは、聖なる奉仕の務めに携わる祭司とレビの部族を支えるためのものであったり、幕屋や神殿の設備の維持に使われるものであったり、寡婦や孤児、貧しい者や旅人のために使われたりしました。

 しかし、教会の献金はどうでしょうか。直接主への奉げ物となる部分はありません。教会の規模によっても違いますが、教会経費の多くを牧師や奉仕者などの給与や福利厚生費、暖房費、交通費、旅費などの費用が占め、また、教会堂の維持費や修繕費、水道光熱費、事務通信費なども次いで大きな出費となっています。そして、教会の活動諸費となります。

 聖書に出てくる奉げ物と教会の献金は、主への感謝という面では同じでも、実質の使途は全く別物であります。ここいら辺のギャップが、カルト化教会ではない普通の教会においても、一つの課題となってくるのではないかと思います。

 教会の維持献金のお願いが、毎年献金袋に入って教会員に渡されますが、その中でこのような文言があります。【献金は『自分の体を神によろこばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です』(ローマの信徒への手紙12章1節)とありますように、神さまの恵みに対する私たちの応答です。収入の中から、まず最初に献げましょう。】これは毎年同じ文言が書かれていますが、いつもこの聖句とその前後を読んでも、献金と関連する記述がないのに、ただ「献げなさい」の文言のみを取って献金と結びつけるのは、什分の一献金を教える教会やカルト化教会の繁栄の神学と同じく、まったく的外れな引用であると言わざるを得ません。

 まず、献金のトラブルをなくするためにも、まず第一歩として、聖書の引用の誤用を止めることから始めてほしいといえます。根拠のないものを根拠とするからトラブルが起きますし、偽りを教えることになります。

***「献金問題」へのコメントとレス***

コメント(24)

もしよろしければ、アタナシウスさんが仰ることのもととなる資料を教えていただければありがたいです。

教会でも、什分の一が税込収入から起算したものだとか、かなり無茶な要求をしてくる人もおりますので。
[ みやこやみ ]2012/1/25(水) 午後 5:20返信する

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教会の運営にはこのくらい費用がかかる、牧師とその家族の生活だって考えないわけにはいかないのだからそこを賄う費用が必要。
宗教的な理念とは異なるのかもしれませんが、これからの時代は宗教の世界もお金のことに関してはきちんとした説明責任が必要でしょうね。
変に聖書を引用するよりその方が潔いですよね。
[ 南三条 ]2012/1/25(水) 午後 6:21返信する

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カテゴリーの「韓国系異端・カルト」と「異端・破壊的カルト団体・カルト化」にて、八つ程什分の一献金・繁栄の神学についての記事をあげています。

一世紀におけるユダヤ人の十分の一の奉げ物については、『ミシュナー Ⅰ ゼライーム』とトーラーをご覧ください。
2012/1/25(水) 午後 6:43返信する

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記事を読んでもらえれば教会の維持献金を否定するものでないことはお分かりだと思います。

問題なのは、什分の一献金や繁栄の神学のように、聖書に根拠がないのにも関わらず、あたかも聖書に根拠があるかのように教えたり、偽りの教えに導くことが問題だと思います。

福音を宣べ伝える奉仕職が生活を支えられることは聖書にもありますが、しかし、教会によっては過度な人件費等が問題となっています。

また、献金の強要、暗黙の圧迫、教え込みなどの手法によって集金がなされていたりすることは問題と言えるでしょう。
2012/1/25(水) 午後 6:55返信する

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ありがとうございます。
ミシュナーのゼライームに捧げ物についての記述があると言うことでよろしいですか?
[ みやこやみ ]2012/1/25(水) 午後 8:20返信する

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ファリサイ派における十分の一の奉げ物については、ミシュナーのゼイラームを読めば分かりますね。教文館から日本語訳が出ています。
2012/1/25(水) 午後 8:43返信する

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某教会の金持ち信者の中には、自分の献金を入れた献金袋に、わざわざ自分で選んだ聖句を書いている信者もいるそうです。wどんな聖句を書いているやら。w

献金問題に関しては、献金に目がくらんだ教会のスタッフも、献金を誇りたくなる金持ち信徒達も共に正しい献金の有り方について、心を入れ替える必要がありますね。
[ Anastasia ]2012/1/26(木) 午前 2:20返信する

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どんな聖句を恥ずかしげもなく書いているか気になりますね~。

現実の教会運営にはお金が必要ですが、いつの間にか教会がスタッフや建物を指しているようになっては、本末転倒といえますね。近年、そのような教会が増えたのでしょうね。
2012/1/26(木) 午前 3:41返信する

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献金のことでマタイ6:20を使う説教もあるかもしれませんね。

「金だせ!」
って感じ。
[ 一匹狼のまーくん ]2012/1/26(木) 午後 6:10返信する

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利用できるものは何でも利用しますから、そのような手段を取っているところもあるかもしれませんね。
2012/1/26(木) 午後 10:22返信する

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「献金のお願い」に変に聖句をひっぱりだして、信仰の深い浅いを計るかのように説くからいけないんですね。
カトリックのように、「教会維持費」がいいと思います。
やはりししきを維持するためには、お金もかかりますから。

申命記26:12には「十分の一の納期である3年ごとに・・・レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し・・」とあります。
文字とおり捉えるなら、什一献金は3年ごとで良いわけです。(カルト牧師にそこのところ聞いてみたいですね)
しかも、使用目的は社会福祉のためと言えそうです。
[ シャロン ]2012/1/30(月) 午後 3:01返信する

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>シャロンさん

献金は教会を維持し、教会活動を行う上にもとても大切なものです。それを説いて求めればよいので、根拠にならない聖句を持ち出して、あたかも義務のように信徒に課すのが問題といえます。

申命記と私の過去の十分の一の奉げ物に関する記事を読まれるとわかりますが、安息周期の第1年・第2年・第4年・第5年の十分の一の奉げ物は、祭司とレビ人を支えるために用いられ、第3年・第6年の十分の一は貧者の十分の一となり、十分の一が求められないのは、安息周期の第7年です。
2012/1/30(月) 午後 3:36返信する

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久しぶりに来ました(^O^) おお♪ジュウイチ献金 その他献金♪私の行ってた 大阪府さ●い市の津●野キリストめぐ●凶会の支店凶会もありました 遠回しな言い方で献金せなアカンようなやり方です 『神の物を盗む事になる』や アナニヤとサッビラの例や 『神がおよろこびになる、天に宝を積みましょう』(喜ぶのは津●野のヤ●●●教祖やろ!)みたいな方法です。 うちは貧乏やったから できるときしか入れなかったですが…返して欲しいです(≧ε≦)
[ 元め●み信者 ]2012/1/30(月) 午後 10:29返信する

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>元め●み信者さん

お久しぶりですね。

ファンダメンタリズムな教会やペンテコスタルな教会、カルト化教会で什一献金を採用しているところなどでは、同じような聖書箇所やマラキ書なんかで、街金みたいに集金しているようですね。あちらは十一(といち)の利息で、こちらは10分の1以上の献金の強要、似ていますね。
2012/1/31(火) 午前 7:14返信する
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ご存じかも知れませんが、酷いところになると、源泉徴収票を提出させて、面談して無理やり什一献金させるようです。
[ みやこやみ ]2012/2/1(水) 午後 8:20返信する

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モルモン教にはちゃんと什分の一献金がささげられているかの面接があるそうです。私は受ける前に離れたのでそこは詳しくありませんが、モルモン時代の什分の一献金の領収証は取っておいてありますね。
2012/2/1(水) 午後 8:43返信する

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献金の領収書ってあるんですか、すごいなー( ̄¥ ̄)
源泉徴収票もすごいけど(今日税務署に出してきました(^◇^;))

ほんとに10分の1を強調するとヤミ金みたいですね( ̄$ ̄)
[ 一匹狼のまーくん ]2012/2/1(水) 午後 9:28返信する

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強制性があるというところでは似ていますね。
2012/2/1(水) 午後 9:31返信する

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初めまして
今日献金に関する記事書いて ポチッとしたら 他にも同じような記事がでてきて「献金問題」とあったので訪問してみました。
そうしたら知り合いのお名前がいろいろ。そういえばアタナシウスさんのお名前も見たことあります。
改めまして こんばんは
シンカーポールの教会と仲良くなって 今の教会では 捧げなさいが頻繁に言われるようになりました。それまでも什一は当たり前。それ以外にもいろいろ献金があって 袋配られていました。
1月一発目の説教は最初は他の所の引用だったのですが、結局はマラキ書からの什一献金の話でした。しっかり納めないと「神様の物を盗んでいることになりますよ」と
昔はまじめに言われるままに たぶん他の人に言うと「バカじゃない」と言われるくらい献金していました。それが神様のご用に用いられると 教えられるままに 純粋な気持ちでした。
最近 ブログでいろいろな方と交流するようになって おかしいぞと思い始めました。というより おかしいと思い始めたからブログ始めたと言った方が 正解です。
[ マキシミリアナ ]2012/2/7(火) 午前 0:00返信する

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>マキシミリアナさん

はじめまして。

什分の一献金や多く献げなさいと唱える教会が、近年目立って増えてきて、多くの献金トラブルを引き起こしています。多くの場合、「神さまのために」、「神さまへ感謝の気持ちとして」という錦の御旗を掲げ、マラキ書を筆頭としてお決まりの聖書箇所が示されます。しかし、それら示された聖書箇所は、何ら根拠のないものであることがほとんどといえます。

一種の神の名を利用した宗教ビジネスの集金活動である場合がありますね。
2012/2/7(火) 午前 1:43返信する

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http://www.help-you.co.jp/hp/vol_4/4_01.html
↑資料”1/10献金は誰のため?”

アタナシウスさん
ここは意見が合いますね。応援しますよ。
[ pim**20040*10 ]2012/2/18(土) 午後 9:34返信する

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>pim**20040*10さん

意見が合うところがありよかったです。
2012/2/19(日) 午前 3:29返信する

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どうも はじめまして わたしもとある 同盟系の教会員ですが 什一献金の教えや 繁栄の神学っぽいものに 警戒していました、洗礼をうける直前の話し合いで はじめて 什一献金のことに ふれられ 当惑しましたが 神に救われたい一心で 了解しましたが いましたくての出来ない状況になってしまって いきずまってしまいました アタシウスさんがゆわれるような あるいみ 信仰と献金の平衡のとれた 教会とは どこにあるのか 教えていただければ 幸いです 一応ルター派の教会がいいとは 小耳にしましたが よろしければ 教えてください
[ ケンちゃん ]2012/6/2(土) 午後 11:56返信する

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>ケンちゃんさん

はじめまして。信仰と献金の平均の取れた教会を見つけるのは、これはなかなか難しいといえます。まず自分の信仰にあった教会の中から(それぞれの教派で教会政治やサクラメント、その他についてかなり違いがあります)自由献金方式を採用している教会を探してみるのが近道だと思います。献金について納得できても、教義や教会の外的なことにおいて違っていると、今度はそちらの面で躓いてしまうこともあります。

ルーテル派でも西日本の福音派系統の教会などでは、什分の一を採用していることは聞きますから、一概にルーテル派がいいともいえないと思います。

キリスト教年鑑などで、ご近所などの通える範囲の教会をピックアップされ、その教会の信仰と自身の信仰がおおよそ一致し、それから自由献金方式か什一献金方式かを確認されるとよいでしょう。教団などのHPや個々の教会のHPなどから質問のメールをしてみたり、電話などで確認されてもいいかもしれませんね。
2012/6/3(日) 午前 1:04

10分の1献金問題

Yahoo!ブログから移動(12月ブログサービス終了に付き)

マタイ23:23について 什一献金の偽り
2011/9/30(金) 午後 7:02
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/6747171.html

 つい先だってアナスタシアさんが、この個所の新世界訳についての記事を書いておられました。それで気になり、他の翻訳などを見て見ました。

 ネストレアーラントでは、末尾に
κακεινα(またそれらのことを) μη αφιεναι.(差し置いてはならない。)
 となっており、この個所で「それらのこと」と述べているのは、
αποδεκατουτε(あなた達は一割を納める) το ηδυοσμν(ハッカを) και(そして) το ανηθον(いのんどを) και(そして) το κυμινον(クミンを)
 のことを指しています。

 以下に主な日本語訳の当該個所を抜書きしてみますので見てみましょう。

元訳     …かれも亦(また)廢(すつ)べからざる者なり。

改訳     …而(しか)して、彼もまた等閑(なほざり)にすべきものならず。

ラゲ     …かのことも怠らざるべかりしなれ。

ニコライ   …彼も亦(また)遺(す)つ可(べ)からず。

口語     …これも見のがしてはならない。

新改訳二版  …ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。

新改訳三版  …ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。

バルバロ   …先のをも無視することなく…

塚本     …だが、あれもすててはならない。

フランシスコ …先のものもないがしろにしてはならないが…

共同     …もっとも、十分の一のささげ物もないがしろにしてはならない。

新共同    …もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。

岩波     …[もっとも、]前者も行なわなければならないが、…

新和訳    …もとより前者も行なわれねばならないが、…

エマオ    …だが、それら<十分の一を納めること>を無視してはならない。

現代     …十分の一のささげ物もいいかげんにしてはいけませんが、…

リビング   …もちろん、十分の一献金はしなければなりません。

新世界訳73年 …もっとも、他方の事がらも無視すべきではありません。

前田     …しかしあれも無視すべきではない。

大阪弁    …十分の一の献げもんは蔑ろにしたらあかんもんやけど…


 このように翻訳を比べるとなかなか面白いことが見えてきます。

 福音派でよく使われる新改訳ですが、昔ながらの福音派が大勢を占めていた時代の新改訳の第二版では十分の一は強調されていませんでしたが、近年の什一献金を強調する福音派や聖霊派が増えてきた現在では、教会のニーズに合わせたのか「十分の一もおろそかにしてはいけません。」との表現に改訂がなされていることは面白いことと言えます。

 また、そのこととは反対に、NCC系でよく使われる聖書協会の委員会訳では、それまでの翻訳とは違い共同訳で福音派的表現である「十分の一のささげ物もないがしろにしてはならない。」との表現がとられました。共同訳は動的等価法という翻訳原則でした。しかし、NCC系の教会からこの翻訳は受け入れられず、新たに新共同訳が従来の翻訳原則で訳されると、この個所も「…ないがしろにしてはならないが。」と「が」という表現が採られることによって、十一に目が向くのではなく、イエスの言われた正義と憐れみと誠実に目が向けられるように修正がなされました。

 エマオ出版訳、現代訳、リビングバイブル、新改訳三版など、福音派系や福音派単立系は、十分の一というものに目が向くように翻訳されているのは、意図的であるように感じられます。

追記

 回復訳は複製や転載を禁じていますので載せませんでした。

 ケセン語訳は言及されていないので省略しました。

 この記事でいう福音派は、福音派すべてを一まとめにするものではありません(コメント確認願います)

***「マタイ23:23について 什一献金の偽り」へのコメントとレス***

コメント(14)

わたしは十分の一献金はしていません。
「貧しいやもめ」の精神で奉献をしたいと思っています。

さて、訳は面白いですね。
リビングバイブルはここの箇所はちょっとひどいなあ。
[ 一匹狼のまーくん ] 2011/9/30(金) 午後 9:46 返信する

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今晩は。この記事待ってました★w

>エマオ出版訳、現代訳、リビングバイブル、新改訳三版など、福音派系や福音派単立系は、十分の一というものに目が向くように翻訳されているのは、意図的であるように感じられます。

やはりそうですよね。その手の訳の聖書を発行している団体にとっては、新規の求道者獲得率が高い福音派や聖霊派は格好のお客様でしょうからね。
他の方が書いたブログでも、聖書の別の聖句で彼らに媚びている訳し方があると主張している人がいました。後はどの個所でしょうかねえ。
[ Anastasia ] 2011/9/30(金) 午後 10:22 返信する

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>まーくん(一匹狼)さん

リビングバイブルみた時は、わたしもこれはひどい、意図的だと思いました。
2011/10/1(土) 午前 2:54 返信する

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>アナスタシアさん

こうまで福音派系とNCC系が分かれると、教会の形態が違うのも分かりますね。

他の個所も見比べてみたいですね。
2011/10/1(土) 午前 3:05 返信する

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そこの訳が十分の一献金の強調と読むならば、その箇所の解釈を誤っていることになります。福音派が用いる伝統的な注解でも、そこを十分の一の強調という意味にとっていません。

ですから、十分の一という訳仕方をしても、そんな意図を読み取る箇所ではありません。問題が有るとしたら、そういう意味に利用しようとする悪徳牧師であって、福音派全体にそういう意図が有ると考えるのは穿ち過ぎです。
[ Alexamenos ] 2011/10/1(土) 午後 10:00 返信する

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福音派全体がこのようなことを強調しているわけではありません。

昔からある福音派ではなく、戦後発祥で、超教派の名の元に聖霊派系の影響を受けたりして、教義的混同が見られる教会や、単立系福音派、神学校のみの修了もしくは、その課程すら踏んでいない牧師や伝道者による教会設立など、福音派の中でも戦後型に見られる教会で、この手の強調がなされていますね。

わたしのブログを続けて読まれると分かりますが、「福音派」については、なるべく「一部の福音派」と書くように心がけておりますが、たまに抜け落ちることがございます。
2011/10/2(日) 午前 3:20 返信する

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近年のキリスト教会の什一献金の強調は困ったものですね。
福音派の信徒さんと話すとわかるのですが、彼らはほとんど例外なく
什一=祝福とインプットされており、これは一種のマインドコントロールと言えます。
そして、祝福を失ってなにか悪いことがおこるのでは?という恐れから什一献金をしているようです。
これは福音を大幅にゆがめている教えです。
私たちクリスチャンにとって、この什一献金を打ち破り廃止することが、福音を日本に伝える以前に必要なのではないでしょうか?
[ しおんりべらるっぽい掲示板管理人 ] 2011/10/8(土) 午前 11:17 返信する

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そうですね。

この考えは福音をゆがめ、信仰による救いという基本となる教え自体を否定してしまっています。

この近代のアメリカ型福音派・聖霊派の中にある什一主義、繁栄の神学を駆逐することはとても急を要する事柄だと思います。
2011/10/8(土) 午前 11:58 返信する

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まーくん(一匹狼)さん

〉わたしは十分の一献金はしていません。
〉「貧しいやもめ」の精神で奉献をしたいと思っています。

ほう、それはご立派です。
生活費の全部を献金するということは、什一献金どころではないということですね。それは素晴らしい。
[ turumi ] 2011/10/31(月) 午後 9:26 返信する

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>turumiさん

あなたは相手のことばの一部を取って、その人が意図していないことをわざと書き込み、いやみ的に間接的に非難をしています。そのような煽るような書き込みは御遠慮ください。
2011/11/1(火) 午前 3:39 返信する

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言葉の一部をとって・・・というのは、まさに「ものみの塔」みたい。

まあ、やもめの「精神」で、と私は言っていますからね。
それはみなさん同じだと思います。
そのやもめだって「出来る限り」のことをしたわけだから。
ほかの「余っている中から入れた」人たちと比較している。

どこに生活費を全部献金する人がいるでしょうかね。
だれもいないですよ。
ご飯を食べ服を着て家にも住んでいる。それでもう
自分のためにお金を使っている。

こういうコメントがあることに驚きですねえ~。
[ 内緒 ] 2011/11/1(火) 午前 6:33 返信する

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午前6:33さん、はじめまして。

内緒コメントありがとうございます。

まったくですね。わたしもそう思います。

これらの主張があるのに、わたしも驚いています。それだけ狭い領域に心があるのでしょうね。
2011/11/1(火) 午前 8:06 返信する

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>他のほうもおろそかにしてはいけません/十分の一もおろそかにしてはいけません

イエス様が十字架にかかる前は まだ旧約聖書の律法やモーセの10戒によって生きていたので、だからイエスさまもそのように言ったのではないですか?
[ n ] 2013/3/2(土) 午後 5:36 返信する

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>nさん

この箇所は、イエスが律法下にある群集と弟子たちに、ファリサイ派などの偽善的行為を非難し、律法の本質に目を向けさせられている箇所ですね。この章の三節にあるように、群集と弟子たちには、彼ら律法学者やファリサイはたちの教えていた口伝律法に対して、それを行い守りなさいと勧めています。問題としていたのは、ファリサイ派の偽善性であったことがわかります。また、十字架による律法の成就の前であり、ヘブライ7:12にあるようにメシアによる新しいハラハーが弟子たちには与えられました。
2013/3/2(土) 午後 6:37


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コリント二8:20
2011/10/2(日) 午後 2:48
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/6779245.html

 このコリント二の個所も、什一献金推進者の根拠聖句としてよく引用される個所です。ここのαδροτης(hadrotes;豊富さ、沢山;惜しまず与えること、気前のよさと解する辞典もある。)の主な翻訳を見比べてみましょう。

元訳‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥餽物(めぐみ)

改訳・ラゲ訳・新和訳‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥醵金(きょきん)

新改訳二版・三版・バルバロ・リビング・現代‥‥献金

口語訳‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥寄付金

共同訳・新共同訳‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥募金

ニコライ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥惠施(めぐみ)

フランシスコ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥この気前のよい行い

岩波‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥この豊な〔義助金〕 欄外注直訳は「この豊かさ」

エマオ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥大金

新世界訳‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥惜しみない寄付

KJV‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥abundance

RSV‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥liberal gift

NEB‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥generous gift

INV‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥liberal gift

TEV‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥generous gift

NKJV‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥lavish gift


 ここでも「献金」と訳しているのは、新改訳、リビングバイブル、現代訳の三つの訳とバルバロ訳です。前三者は福音派と聖霊派とその系統の単立教会が好んで使う聖書です。

 『聖書時代史 新約篇』(佐藤研著 岩波書店)なんかを読むと、使徒言行録11:27以下で、47年から48年にパレスチナで起こった大飢饉に対して(この年は運の悪いことに土地の安息年に当たっていたので被害が大きくなった。『ユダヤ古代誌』20巻51~53.101参照)、経済的援助がパウロとバルナバを通して送られました。そして、使徒会議においても、異邦人教会からの援助が約束され(ガラテヤ2:9~10)ました。56年頃の第三回の旅行でエルサレムに向かうパウロは、集められた経済的援助が受け入れられるかどうかについて懸念を抱いていました(ローマ15:31)。しかし、使徒言行録では義援金が受け入れられたかには沈黙していることが説明されていました。

 第二コリントのこの個所は、これらのことを指しているといえます。そうであるのなら「献金」と訳すのにはかなり無理があると思われますし、全体の文脈とも合いません。また、それを什一献金の根拠に当てはめるのは暴挙といえるでしょう。

***「コリント二8:20」へのコメントとレス***

コメント(12)

NRSVはNEBと同じでした。
NWTはliberal contribution(惜しみない寄付)でした。

エマオの大金というのもすごいな。
[ 一匹狼のまーくん ] 2011/10/2(日) 午後 3:40 返信する

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大金が欲しいのかもしれないですね。
2011/10/2(日) 午後 3:43 返信する

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なるほど。w
什一献金支持者撲滅のために今後もお願い致します。w
[ Anastasia ] 2011/10/3(月) 午前 0:33 返信する

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神の言葉を悪用してお金を稼ごうとする輩が多いですね。
2011/10/3(月) 午前 3:01 返信する

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宗教にも、政府が税金を掛ける時代ですね。
公平に、
[ 内緒 ] 2011/10/3(月) 午前 6:11 返信する

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それは腐敗を早めるだけで得策ではないと思いますよ。
2011/10/3(月) 午前 9:06 返信する

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什一献金を守っている教会は、信者の収入とかを申告させたりするのですか?
[ 南三条 ] 2011/10/3(月) 午後 1:08 返信する

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モルモンではそういう調査がありますね。

什一の教会もカルト化している教会ならあるかもしれないですね。

什一の教会と言っても、いろいろな名目の献金がありますから、総合すると二割、三割くらい献金しているなんて事もあるようです。
2011/10/3(月) 午後 3:17 返信する

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たいていの福音派は「什一献金」と「献金」を分けています。ですから、ここを根拠に「什一献金」を推進する牧師が有ったとしたら、余程悪辣であるか、無知をさらけ出していることになります・・・。情けない。
[ Alexamenos ] 2011/10/3(月) 午後 11:01 返信する

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ここ数十年の超教派運動によって、聖霊派、特に繁栄の神学を称える第三世界系アメリカ発や韓国系の悪しき風習が、当初は穏健な形で入り込み、今では被害を多数出すに至ったように見えます。

これらは第三世界や貧しい国での体験を元に、多く捧げるものは多くの祝福を受ける、少なくしか捧げないものは信仰が無く、裁かれるとの単純で、聖書的根拠を欠くメッセージを発していますね。
2011/10/4(火) 午前 3:42 返信する

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什一献金とは、初代に教会が本当に生活共同体としての機能をしていた時には意味のあったことだと思います。
当時は、福祉機能も教会が持っていたので、今の税金みたいなものですね。

今日、法治国家における現代人は、税金をもう納めているので、それぞれのポケットマネーのうちから気持ちだけというのが適切ですね。
[ ANGEL ] 2011/10/7(金) 午後 5:27 返信する

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ANGELさん、コメントありがとうございます。

什一献金という思想は、聖書の中に見出すことが出来ませんね。初代教会の教会共同体での献げ物は、現在什一献金と呼ばれるものと全く違ったものですね。

また、イスラエルの十分の一とも、什一献金は質を異にしているので、聖書的根拠のないものといえます。

「気持ち」というものが、最も大切なもので、あとは自分の教会が維持されるように、自分に見合ったものがよいのでしょうね。
2011/10/7(金) 午後 5:52


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Mammonism
2011/7/16(土) 午前 6:09
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/5329295.html

Mammon.jpg

 20世紀に入り、19世紀に生み出されたディスペンセーション主義とクリスチャンシオニズムが、生み出したプレマス・プレズレンに留まらず広くアメリカのピューリタンやメソジスト以降の教派に広まり、福音派原理主義の主流になり、新しく始まった20世紀初頭のペンテコステ運動で生み出された教会や、20世紀半ばに起こったカリスマ運動により生み出された教会、20世紀後期に起こった聖霊の第三の波運動などの教会でも、大患難前にまことの信者は、空中携挙され天国へ行くという考えは広まりました。

 終末がいつ起こるかについては、アドベンチストやエホバの証人、ファミリー・ラジオ系団体のように、年代の計算をして特定はしませんが、イエスの預言や黙示録などの終末に関する記述を、現代の社会情勢に当てはめ、終末が差し迫っているイメージを信者に持たせたり、大患難前の再臨と空中携挙を教えることにより、自分が携挙されることを信じ、終末が一日でも早く来ることを望み、終末は核戦争によって起こることを信じているクリスチャンを生み出しています。

 そればかりではなく、南米や韓国を中心とした聖霊運動は、新たに「繁栄の神学」を生み出し、Mammonismという偶像崇拝に陥りました。マモニズムは「富」を表すマモンの擬人化されたもので、後に悪魔とされたものを語源とした言葉です。聖書には『だれでも、二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも使えるということはできません。』(マタイ6:24、新改訳第三版)とあります。このみ言葉が由来とされています。

 これら聖霊派によってはじまったマモニズムは、福音派の原理主義的教会でも広まり、ビジネス的手法を用いたり、マス・メディアを活用したり、カトリック教会でさえとっくに止めた「什一税」とよばれる、収入の10分の1を献金させる「什分の一献金」を教会の信徒に義務化させ、多くささげた者は多く祝福されるとの「繁栄の神学」的主張を教え込み、メガ・チャーチと呼ばれる巨大で豪華な教会堂や施設を作り、イベント性やアミューズメント性を教会にもたらしました。

 確かに一見すると、これらの教会は栄え、多くの信徒を持ち、一回の礼拝で集まる献金も膨大な金額になります。その教会の牧師はまるでカリスマやスターです。また、教会が強大であるため、信徒たちの集まりを分化してセル化をはかり、セルのリーダー(メイン牧師ではない牧師やスタッフ)を通して牧会を行なって(メインの牧師の指導下に)、教会の礼拝メッセージは中継された画像でメインの牧師のものを見るというものです。

 これらのビジネス的手法は日本の新興宗教や新宗教でもとられて、多くの集金による利益と、潤沢な資金を背景にあちらこちらに建設された教団施設が目に付いたりします。一例をあげるのなら創価学会や幸福の科学なんかはその傾向があります。

 このようなことは、牧師の独裁化や神格化がもたらされたり、信仰がすべて「自分が救われるため」という動機になり、とても危険な状態に陥りやすくなります。現在キリスト教会でこのマモニズムに侵された教会の牧師によるスキャンダルや事件が数多く見受けられます。牧師や牧師の家族、教会スタッフ、果ては信徒同士によるいじめやDV、セックススキャンダル、献金トラブルこれらの問題が教会で見られたり聞かれたりするようになってきました。

 このような教会の指導者である牧師の肩書きも、一般の教会の牧師とは違い、一般の場合だと主管(主任)牧師、牧師、副牧師、協力牧師などですが、元老牧師だとか堂会長なんて肩書き付けている教会もあります。そういったカリスマ牧師は、教会に巣くう金食い虫のようで、たいていがよい服を着、アクセサリーを身につけ、高級車に乗り、いい家に住み、伝道や交流なんかを理由に地方や海外などに行ったりします。神に捧げられた信徒のお金でおこなっているのです。

 いま全体としてはわずかと言えますが、キリスト教の中に七つの大罪の教会が、キリスト教全体に黒い影を投げかけています。

***「Mammonism」へのコメントとレス***

コメント(6)

こういう教会がけっこうあって
わりと栄えているからタチが悪い。

わたしは静かに礼拝しているのが一番です。

近隣の教会ではそういうのはなさそうです。
[ 一匹狼のまーくん ] 2011/7/16(土) 午前 6:19 返信する

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わたしも礼拝で手を上げて祈ったり、異言というか意味不明の奇声を上げたり、転げまわったりするのも、牧師のパフォーマンスを見せられるのも好みませんね。

教会の礼拝は神とだけ向かい合うものだと思います。

ルーテル教会の場合ですと、正面にあるのは聖卓で、説教壇は聖卓の横にあり、神様が中心であることがわかります。
2011/7/16(土) 午前 7:02 返信する

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懐かしいカネゴンですね~ww
貧乏人ですので繁栄の神学とは無縁ですwww
講座で一緒に学んでる人が、以前ホー〇〇スの団体教会で
「車献金」という献金さえあったようです。汗
[ Anastasia ] 2011/7/17(日) 午前 2:20 返信する

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色々と名目をつけて、献金させようと、あの手この手ですね。
2011/7/17(日) 午前 2:36 返信する

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ミイラ取りをもミイラにする秘儀 秘術を使う大道芸人が身分が低く飢えた人たちが集う清貧教会を蹂躙しているよぅ(TT)
[ はんす ] 2011/7/17(日) 午前 7:54 返信する

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派遣村が話題になった時に、韓国系教会が炊き出しを餌にホームレスを集め、自分達の話しを聞きおわらないと炊き出しの食べ物を与えなかったり、生活の保護を受けさせて、その保護費の大半を巻き上げてしまったことまで行っていたことが、一部報道で出ていましたね。このような宗教の名をかたって金儲けを使用とする輩は、弱い人の周りに群がりやすいものですね。
2011/7/17(日) 午前 8:31


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繁栄の信仰と什一献金は一如の関係
2011/10/12(水) 午後 8:00
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/6935217.html

 この前アマゾンで『ロックフェラーが知っていた「もうけ方」』(イ・チェユン著 小牧者出版)という本の冒頭部分を読んでみました。最初にロックフェラーが母から教えられた10か条があり、その10か条の幾つかは、一部の福音派カルトや聖霊派の中に見られる主張そのままで、多くの宗教被害者を出している思想そのままです。幾つかみてみると『…2.神様の次に牧師に仕えなさい。3.右のポケットには、常に十分の一献金を用意していなさい。…9.日曜日の礼拝は必ず所属している教会でささげなさい。』というようなものです。

 また、冒頭の推薦の言葉には、『十分の一献金に対してはさまざまな意見があります。ある人は、神様のみことばであるから絶対に守らなければならないと言い、またある人は、旧約時代のイスラエル人の伝統をそのまままねする必要はないと言います。このように、十分の一献金に対する意見がそれぞれ違っているのは、お金のことが私たちにとって非常に大切だからです。
 …お金がなければ何もできません。そのような点からみると、お金は人間の命に劣らないほど重要であると言えます。これが現実なのです。人間は命ほどに大切なお金を稼ぐために、一日一日を生きています。…よほどの財産家でない限り、収入を得るためには、当然仕事をします。そのような点で、お金は肉体を支えてくれる食物と同じなのです。
 神様に物をささげて信仰を現すのですが、それに伴う祝福に執着し過ぎてはいけません。
 作家イ・チェユン氏を通してこの本が書かれたのは、決して偶然なことではありません。多くの人が十分の一献金の重要性を悟ること、また国全体が祝福されることを神様は願っておられるからです。
 神様はまことに、私たちを祝福することを願っておられます。しかし、魚二匹とパン五つで大人の男性だけで五千人を食べさせた後の残りが、十二かごあったというすばらしい奇跡も、イエス様に自分の食べ物をささげた、ある子供の行動があったからであることを覚えてください。
 アン・イジョン(『弟よ!世の中にバカはいないよ』の著者)』とあり、読んだ感想は、なんてお金にがつがつとした人だろう。という感じを最初に受け、信仰を現すものがお金をささげることで、お金をささげれば祝福という見返りがあるということを暗に匂わせていることが窺えます。

 それで、この出版社を運営している宗教法人小牧者訓練会の教会である国際福音キリスト教会のHPを見てみましたが、ニュースで報道されて知っている方も多くいると思いますが、創立者の韓国人宣教師が準強姦容疑で裁判になり、判決で無罪になり原告側も控訴を断念したことから、無罪が確定した事件についてのお知らせなどが載せられていた以外、特に目を引くものもないので、もう一つのHPであるインターネット放送局のアガペーTVの方を見てみると、いろいろメッセージなどが在り、その中で今年の9月21日のメッセージで『献げ物への心構え』というタイトルの第二コリント9:6~15からのお話しがありました( http://agapetv.jp/page/5 )。聞いてみると、案の定、この第二コリントのこの個所を献金と解釈し、繁栄の信仰に基づいた理論展開をしていました。

 しかし、この個所はこの前も聖書の諸訳を比較した際述べたと思いますが、パレスチナを襲った飢饉で困窮しているエルサレム教会の兄弟姉妹への義援金であり、彼らの言う十分の一献金だけでなく、通常の献金とも全く関係のないことです。

 なぜなら、これは一過性の飢饉にあって、乏しい状態の兄弟姉妹を助けるためのものです。また、各地にある教会の兄弟姉妹からのもので、自分の所属している教会共同体に対する献金行為ではありません。それに、この義援金はエルサレム教会の教会の指導の任にある監督や長老、牧者、教師、執事、預言者などの奉仕職にのみ与えられたものではなく、窮地にあるエルサレム教会のすべての兄弟姉妹への援助であるということです。これは今日、教会の行っている献金行為とは全く本質を異にするものであるということです。

 さきほどのアガペーTVのメッセージでは、『今日の個所はパウロがコリントの人々に献金を勧めているところです。』と語り始めていましたが、全く的外れなことです。そして、繁栄の信仰お得意の、惜しみなくささげれば、豊な祝福があるとくり返し述べていて、見返りを求める信仰という誤った考えに陥っていることが如実に聞き取れます。

 主イエスはマタイ19:16以下で、弟子たちがユダヤ人が普通に考えていた、繁栄は祝福であり、貧しさは呪いであるという考えを否定し、『はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』と述べられました。しかし弟子たちは、ユダヤ人たちの宗教の伝統的考え方である、繁栄は神からの祝福と考えていたので、イエスのこの言葉を聞いて、『非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。』のでした。同じような因果応報的繁栄の信仰を主イエスが否定したものとして、ヨハネ9:1~3などがあります。

 しかし、米国系・韓国系・南米系福音派や聖霊派の宣教者や牧師によって、日本に創立された教会は、この手の集金理論や活動が多く見られ、多くの被害者を出しているため、それ以外のキリスト教会の障害となっています。特に什一献金をしていない普通の福音派や韓国系のまじめな教会などには、同じ福音派、また韓国系というだけで、ひとくくりにされたりして迷惑を被っていることと思います。このような誤った集金理論や行為が、一日も早く駆逐されることを望みます。

 一世紀末から二世紀に書かれた『十二使徒の教訓(ディダケー)』にはこのような言葉があります。『その人はキリストで商売をする人である。この人たちに注意しなさい。』

***「繁栄の信仰と什一献金は一如の関係」へのコメントとレス***

コメント(12)

よく見かける袋です(^¥^)

二番目の箱は、なんだかいやらしいですね。
[ 一匹狼のまーくん ] 2011/10/12(水) 午後 9:14 返信する

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>『その人はキリストで商売をする人である。この人たちに注意しなさい。』
世間では、悪徳政治家などに皮肉の意味で「政治屋」って言ったりしますけど、悪徳献金で儲けようとする人達って「キリスト屋」って感じですね。汗
不況で日本の教会の財政も悪化していると思うので、まともな教会でさえも献金集金の面でカルト化しないか心配です。汗
[ Anastasia ] 2011/10/13(木) 午前 1:45 返信する

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>まーくん(一匹狼)さん

一番下の献金袋(封筒状の物)を除いて、皆、同じキリスト教の器具の販売店の品物ですね。

二番目のものは、賽銭箱みたいですね。小銭を入れるとチャリーンと音がして嫌ですね。
2011/10/13(木) 午前 3:54 返信する

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>Anastasiaさん

主日の席上献金、月定献金(維持献金)、暖房献金、建物保全・会堂建築積み立て献金などの名目の献金は維持されなければなりませんが、教会暦の特定日の献金や個人の記念日の名目での特別献金等は、単なる集金としか思えないですね。
2011/10/13(木) 午前 4:02 返信する

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ある教会の週報を見たら、礼拝献金がキレのいい数字。
みんな1000円以上しているのか、もしかしたら500円数枚って
こともあるだろうけど。
わたしも別の教会で献金箱が回ってきてい
れると「ボトッ」って音(゜ε゜;)

キリスト屋というとキリストに申し訳ないので
教会屋にするかなあ。
[ 一匹狼のまーくん ] 2011/10/13(木) 午前 6:30 返信する

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>まーくん(一匹狼)さん

音で献金がわかると言うことは、よくありますね。新来者や未信者のところに席上献金の篭が回ると、チャリーン、チャリーンと小銭の音がしますね(ちなみに維持献金以外は、わたしのところでもチャリーンと…。汗)。

教会やというより、宗教屋の方がしっくりするかもしれませんね。怖。
2011/10/13(木) 午前 8:12 返信する

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私の記憶では、1978年ぐらいに十分の一献金のことが広がり始めたという感触が有ります。その時、日本の牧師達が聖書的考察をしっかりしなかったことが残念です。
[ Alexamenos ] 2011/10/13(木) 午後 10:33 返信する

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そうですね。その時に聖書を底本に遡って検証し、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』やエウセビオスの『教会史』、使徒教父たちの文書類なども検討して、歴史的検証も合わせて行っていれば、今のようにはなっていなかったかもしれませんね。
2011/10/14(金) 午前 5:13 返信する

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第2コリントの箇所と言うより、新約聖書で勧められているのは、すべて募金ですね。
2年ほど前、私が教会で、『献金は旧約の発想だから、これから礼拝では献金という言い方を廃止して募金としましょう。』
という爆弾発言をした時は、孤立無援、誰からもまったく理解してもらえませんでした。
そのくらい、日本のクリスチャンは一種のマインドコントロールに陥っていると言えます。
私たちは、献金に対するマインドコントロールを解いていくことが、主から与えられた使命だと考えています。
[ しおんりべらるっぽい掲示板管理人 ] 2011/10/15(土) 午前 11:18 返信する

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まだすべての個所を網羅していないので、一つ一つ確認し検証していきたいと思っています。

なかなか、従来から使用されている用語を変えようとしてもうまくいかなかったり、反発を受けたりするのはいたし方の無いことと存じます。

そのよい例が「共同訳聖書」が、教会やクリスチャン、公会で使用されることを拒否された例からも窺えます。

ルーテル教会では、教会員の月定献金において「維持献金」との用語を使っております。目的が教会の維持の為に使われる献納金とはっきりしており、これはこれでよいと感じております。

聖書においては、やはり正しい訳語がふさわしいと思います。まず、聖書からその訳語が変更されないと、「聖書に書いてある」と申し立てる人が必ず現れてきます。そのためにも今新しく訳している聖書協会の標準訳や新改訳の後継訳に対して、それぞれのHPから、質問なり要望なりを送って見るとよいかもしれません。わたしも別なことについて、意見を送ってみたことがあります。
2011/10/15(土) 午後 0:49 返信する

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献金とするか募金とするかは、用途によって変わると思います。もっぱら教会や教界のために用いるならば、献金でもよろしいかと思います。なぜならば、最終的には神様の働きのために用いられるという観点がそこに有るからです。
[ Alexamenos ] 2011/10/15(土) 午後 7:44 返信する

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ただ、この献金という用語によって、それを悪用して、集金まがいの行為を行なう似非教会も多くありますので、なかなか難しい問題でもあります。
2011/10/15(土) 午後 8:52

カルト化した教会は、まず、ここで判断がつきます。

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カルト化した教会は、まず、ここで判断がつきます。
2011/5/1(日) 午後 5:49
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/3694923.html

 カルト化した教会の問題を見てゆきますと、大抵この献金問題に突き当たります。多くのカルト化した教会では、10分の1献金が義務化されているところが多く、10分の1献金以外にもいろいろな名目で献金を求められます。彼らの感覚で言うと、多く捧げた者は信仰があり、それだけの祝福を受ける。しかし、10分の1を捧げないのは信仰が弱く、神のものを盗んでいて、祝福を受けられない。という意見が多く見られます。

 韓国に本部があり、日本にも進出してきている「万民中央教会」という、異端の破壊的カルト団体があります。この団体の教祖的指導者である堂会長のイ・ジェロク牧師のメッセージを聞いてみたところ、「10分の1献金をすることは、救われるための最小限の信仰があるという証拠です。地獄に行かないで救われて天国に入るためには、必ず信仰がなければなりません。…聖徒の皆さんの中には、まだ信仰が弱くて十分の一献金がささげられない場合もあります。…十分の一献金とは、自分の収入の十分の一を神様のものとして聖別してささげることです。…ところで、十分の一献金を必ずしなければならない理由は、単に財政を満たすためではありません。それよりもっと重要な理由があります。その一番目は、十分の一献金をささげることは、神様を信じるという証拠だからです。言いかえれば、十分の一献金は救いの基準になるからです。…私たちが目に見えない神様に心を表現する手段の一つが、物質なのです。大切な物質をささげることで、神様に信仰と愛を表現することができます。…二番目に十分の一献金をささげなければならない理由は、祝福されるためです。…祝福を受けるためには祝福の種を蒔かなければなりません。…それが十分の一献金なのです。…律法は、むしろ新約時代にさらに完全に守らなければならない。…ささげないのは、信仰のない証拠です。…呪いを受ける。」(ホームページにアップされていたものを、メモしておいたものです。)というようなものでした。

 ここまで露骨に言うところも多くはありませんが、このようなことを匂わせているところは多くあるのではないでしょうか。そのためカルト被害を訴えたりしている人たちの、掲示板での書き込みや、個人のブログなどの記述の多さからも、このことがカルト化の特長ともいえます。

 現在まともな正統教会であれば、自由献金方式が主流となっているといえます。宗教改革の時代に、スイスの宗教改革者フルドリッヒ・ツヴィグリによって、それまでの10分の1税が批判され自由献金が主張されたことにより、この制度がプロテスタントで広く受け入れられるようになりました。今ではカトリック教会も10分の1税を止めて、自由献金方式にしているようです。

 さて、10分の1献金を主張する人たちは、必ずといっていいほど、旧約聖書の創世記14:18~20のアブラハムが戦利品の中から10分の1を、サレムの王にしてエル・エルヨンの祭司であったメルキゼデクに与えたことや、創世記28:20~22においてヤコブがベテルで為した誓約のことや、マラキ書3:8~10の個所をもってきて、その正当性を主張しますが、まず、アブラハムの出来事は一回限りのことですし、その子孫らにつつけて為せとの指示もありません。ヤコブの場合も一回性が強いといえますし、子孫に対して継続して行なうようにとの記述も見当たりません。アモス書4:4に見られる行為が、はたしてこの個所と結び付けられるか疑問といえるでしょう。次にマラキ書ですが、これはマラキ書の時代背景を見落とすと、間違った解釈に至ります。この当時、まだマラキによる宗教改革以前のことですが、預言者ハガイと預言者ゼカリヤの激励を受けたイスラエルの民は、神殿再建の事業に応じましたが、彼らが期待するような祝福はやってきませんでした。幻滅を味わっていた多くの民らは、貧困の中にあり、礼拝は形骸化し、神への献げ物や律法の尊主は軽視されていました。民は異教徒達の娘を娶るなどして、神への背信行為を繰り返していたことがネヘミヤ記やマラキ書には記録されています。そのために祭司たちは世俗の仕事に忙しく、聖務がおろそかにされていました。そのために律法で定められた10分の1の必要性が説かれ、祭司たちが聖務に集中して、神殿での儀式などが執り行えるようにしたものです。当然律法の下にはないキリスト者には、直接関係する命令ではありません。

 また、律法における10分の1と10分の1献金とでは、まったくと言っていいほど別なものです。まず、一世紀における律法の10分の1について、ミシュナーから見てみると、当時は一次産業が主体であったことでもあり、律法の記述は農作物と家畜による記述が主体です。

 まず、農作物の約40分の1から60分の1くらいを取り分けます。これは献納物(テルマー)として祭司に配分されます(レビ22:10~14、民18:11.12.26.30)。

 この献納物(テルマー)の分離後の残りの全農産物の10分の1がレビ人に配分されます(民18:21~24)。

 そして、レビ人は、自分達に配分された献納物の中から、10分の1を祭司に献納します(民18:25~28)。

 また、献納物(テルマー)と最初の10分の1(マアセル・リショーン)が分離された後の農産物は、安息年周期の第1、2、4、5年目には、第二の10分の1(マアセル・ショニー)が分離され、エルサレムに携えられ、そこで祝いながら食べられます。それは金銭に換えて、その代金をエルサレムで食料購入に当てるか、未来のいつかエルサレムで費やすために保留することができました(申14:25)。

 また、安息年周期の第3年と第6年にあたる第二の10分の1に相当する産物は、貧者に与えられる「貧者への10分の1」(マアサル・アニー)と呼ばれるものです。これは町の門に置かれ、分け前も嗣業もないレビ人や寄留者、孤児、やもめなどに分配されます(申26:12~15)。

 これら献納される収入は、基本的に物納で、農産物に対しては評価額に5分の1を加えることによって、お金で収めることができます(レビ27:31~)が、牛や羊の群れの増加分の10分の1は、物納のみです。

 これが律法による規定であり、宗教による部族連合国家を支えるものでもあり、また、膨大な神殿奉仕者とその家族を支えるために必要なものでした。一世紀当時の神殿奉仕者は、大祭司が1名、祭司長が1名、神殿指揮官が1名、神殿護衛官が7名、財務官が3名、24の週団に分かれた7200人の祭司、24の週団に分かれた9600人のレビ人が現役の奉仕者としていました。この他に引退した者や見習もいますし、それぞれ家族や一族がいます。それらをこの献納物で支えなければなりませんでした。

 このことからしても、現在の教会とは違いますし、10分の1献金として集められた献金の第3年目と第6年目のものの全額が、貧者に配られたということも聞いたことがありません。

 また、これは当然のことですが、献金は救いの基準ではありませんし、外的な行いによって救いは与えられるものではありません(ローマ3:20.22.24.28)。そして、エフェソ2:15、コロサイ2:13.14、ローマ6:14を読んでも解かるとおり、律法はクリスチャンに適用されません。また、キリストによって律法は成就したために祭司職にも変化がありました(ヘブライ7:12、ペトロ一2:9)、全信徒が祭司であるのなら、古い律法の規定からしても10分の1を献げるのはおかしな話です。また、クリスチャンが捧げる献げ物については、使徒パウロはコリント二8:10~15や9:7で指針を示しています。そしてこの献金は教会の福音宣教者を支えるものでもあります(コリント一9:14、テモテ一5:17.18)。しかし、福音宣教者たちは使徒パウロの模範を心にとめるべきです(使徒18:3、コリント一9:15~18、テサロニケ一2:9)。


***

カルト化した教会は、まず、ここで判断がつきますの二回目
2011/5/2(月) 午前 8:32
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/3708053.html

 これは昨日述べました10分の1献金とリンクしているものですが、このような団体の主張の中に「繁栄の神学」と呼ばれている教えがあります。このことが一般にも認識されて来始めたのは、1997年の10月2日の読売新聞の朝刊の国際面において、『カトリック 離反 ブラジル 新教台頭 熱心な信者減る』という見出しの記事に、「繁栄の説法受ける」との小見出しにて『九一年の国勢調査では、カトリック教徒は人口の八三%、プロテスタント教徒九%だったが、最近の世論調査では、カトリック七二%に対してプロテスタント一一%。しかもカトリック教徒のうち熱心な信者はわずか一五%程度なのに対し、プロテスタントは大半が熱心な信者だ。レジナ・ノバエス・リオ連邦大学教授(人類学)は、「プロテスタントの大半を占めるペンテコステ派は、失業、病気、教育など日常的な問題への速やかな回答を用意することで民衆の心をつかんだ」と説明する。ペンテコステ派は祈りを救済と結び付けるだけでなく、「祈り」が「繁栄」に直接つながると説くこともある。繁栄の説法が受けるのは、ブラジルが市場原理万能主義の時代を迎えたことも背景にある。…』と書かれていました。このように一般紙にも取り上げられているくらいですから、かなりこの教説が南米を中心に広がって行ったことが解かります。

 南米ブラジルなど、聖霊の第三の波運動やペンテコステ・カリスマ運動の盛んな地域において、これらの教説が説かれ、貧困層に受け入れられ勢力が拡大されて行きました。また、この教説は韓国にも飛び火し、韓国のアッセンブリー・オブ・ゴッド、純福音教会などの聖霊派を中心に広まり、拝金的な教会が次々と生み出され、海を渡って我国にも韓国人牧師や宣教者(渡来人だけでなく、在日も含まれます)、韓国系教会、南米系教会、聖霊の波運動やカリスマ運動を中心とする比較的新しい聖霊派、福音派の一部、福音派は特に単立系においてこの教説は広まって行き、宗教被害の献金トラブルの原因ともなっています。

 以前、北海道のラジオ番組の、(たしか)土曜日の朝の宗教枠の中に、名古屋クリスチャンセンター教会という団体のラジオ番組が、一年ほど放送されていたことがあります。この団体は聖霊のバプテスマとしての異言、病気からの解放、癒し、繁栄の神学を強調していました。北海道ではあまり受け入れられなかったのでしょう、最後の放送で恨み節みたいなことを言っていたのを記憶(録音)しています。

 彼らがプレゼントしていた「繁栄の信仰」のカセットテープから、彼らの主張を見て行きたいと思います。彼らもカルト化教会に見られる神学への軽視があり、

『神学校は神のことばについて教えるところで、聖書を教えるところではない。神学校を出た牧師は、霊的無知で信仰がない。』

と論説を始めています。そして、

『神はお金を持ってはならないと言っているのではありません。…聖書のことばは、私たちが神のことばを守り行うならば、繁栄すると旧約聖書の中で度々教えています。…多くのクリスチャンは、マタイの19章の中のことばを見て、曲解し、お金を持ってはいけないと思っています。…貧しいことは清いと多くの牧師は言っている。多くのクリスチャンは貧しいことは良い事だと言っている。貧しさを誇りとしている教会がある。…神が言っているのはお金を愛することが悪いことだと言っているので、お金を持つことが悪いことと入っていない。お金に支配されることが悪いことなので、お金を支配することは良い事だと言っている。この地上に神の代弁者として、また、この地上において神の栄光を現す者として、お金を握らなければなりません。そしてわたしたちは、このお金を握って神の栄光を現し、この日本に、全世界に福音を宣べ伝えて行かなければなりません。…私たちが祝福を受けていなければ、だれが私達を見て、イエス・キリストが生きていると知ることができるでしょう。癒しがなければイエス・キリストが生きているという証明がありません。もし、私達に繁栄がないならば、癒されても繁栄がないならば、イエス・キリストが生きているという証明がないのです。ある兄弟は伝道において、一生懸命福音を語りました。とても一生懸命イエス・キリストを伝えました。彼は色んなことを語り始めました。罪の許しだけでなく、癒しを語り、繁栄を語りました。繁栄を語ったときに、その人は言いました。私はあなたを見て繁栄を感じないと、繁栄がどこにあるのかと、その兄弟は繁栄していなかったのでしょう。あまり繁栄した格好をしていなかったので、その人は救いを受けませんでした。私たちは、クリスチャンとして、繁栄を私たちの内側から現さなければなりません。繁栄を語って、自分がぼろぼろであるならば、人々は私たちを見て、キリストをすばらしいと言うでしょうか。…神の栄光を求め、神が崇められることを求め、そういう心で繁栄を追い求めるなら、それは神の御前に、もう、合格で、とても主に喜ばれることです。私たちが貧乏であるなら、だれもイエス・キリストを知りたいと思わないのです。繁栄の香に誘われてきます。あなたはなぜ、そんなに繁栄しているのですかと聞かれたら、私がイエス・キリストを信じ従ったからです。と、そのように証しできるようになれるよう変化すべきです。…神の栄光のために自分の持っているものを、すべて捧げなければならない。…貧乏とは神の民が、神に従わないゆえにやって来る呪いである。貧乏は呪いです。祝福ではありません。呪いは三重であり、貧乏、病気、死です。』

と彼等は主張しているわけです。

 確かに聖書は、お金を愛し、信頼することを非としていますが、お金を持つこと自体を悪とはしていないのは確かですが、テモテ一6:8~10.17~18、箴言23:4.28:20、ヘブライ13:5、フィリピ4:11などの諭しは明確です。私たちキリスト者はキリストに倣う者です。キリストのご生涯は、彼らの主張を是としているでしょうか。イエスは繁栄をもって神の栄光を現したことなど、ただの一度もありませんでした。

 そもそも伝道においては、福音が語られるのであって、繁栄が語られるなどということは普通はありえないことです。彼らの伝道がこの世のことに目を向けたものであることが解かります。

 もし自分の目の前に、派手な外車に乗り、外国の有名ブランドのスーツを着て、腕時計や装飾品も高価な者を身につけた人が現れ、イエス・キリストの福音と称するものを語り、あなたも信じればこのように繁栄ができます。だからあなたの持っているすべてを教会に捧げなさい。神はあなたを繁栄させてくださいます。と言ってきたら、わたしはなんかのマルチ商法だと思うことでしょう。繁栄の香に誘われてゆくのは、お金を愛する人たちでしょう。

 彼等はテモテ一6:8~10の『食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。』とのみことばは、このように明確であるにも関わらず、彼等はこれほど明確なこのみことばを、そのまま理解することは曲解だと論じます。

 主キリストは、旧約聖書に見られた因果応報的考えを、ヨハネ9:1以下で完全に否定なさっています。それなのにそのような考えを引っ張り出してくるあたりが、すでにカルトと言わざるを得ません。

 このような教えが、急速にプロテスタントの福音派の一部や聖霊派に広まったためでしょう。エホバの証人の機関紙「目ざめよ!」の2009年5月号でも取り上げられていることからも、当然、アメリカでも広まっていると思われます。


***

韓国の偽りの教師
2013/7/5(金) 午後 4:26
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11777593.html

韓国の異端「万民中央教会」の2011年6月19日メッセージ 「信仰を測ると」より( http://www.manmin.or.kr/japanese/Sermon/sermon_content.asp?id=1189&cat=1&page=13 現在このURLの記事は削除され、このURLで飛ぶと「HTTP 오류 404.0 - Not Found」となります。)


[序論]
“ 愛する聖徒の皆さん、「信仰を測ると」六回目です。
皆さんもご存じのとおり、「肉的なこと」とは、憎しみ、さばき、そねみ、ねたみなど思いで犯す罪のことです。「肉の行ない」とは、行ないで犯す罪のことです。「肉的なこと」を捨てるには、時間と努力が割合たくさん必要ですが、肉の行ないは決断して少しだけ努力すればすぐ捨てられます。
それにもかかわらず、肉の行ないを捨てないでし続けるなら、結局、救いから遠さかることもあります。その上、救いと直接にかかわりのある肉の行ないをするなら、救われません。これを「救われない罪」と言います。
また、肉の行ないの中には、赦されない罪、すなわち「死に至る罪」もあります。この罪は悔い改めの霊が与えられないので、悔い改めさえできない罪です。ですから、肉の行ないはすみやかに捨てなければなりません。
この前から、肉の行ないの中で、まず「救われない罪」を一つ一つ調べています。前回は第一、偶像礼拝について調べてみました。きょうは、救われない罪の中で「安息日を守らない罪」と「完全な十分の一献金をささげない罪」について調べましょう。自分に当たる分野はないのか、細やかに顧みて、立ち返ることは立ち返って、救いの枠の中に安全にとどまりますよう、主の御名によって祈ります。 ”

[本論]
“(…安息日を守らない罪の部分省略…)
 [マラキ3:8-9]を見ると、十分の一献金をささげないと、その罪をどれほど厳しく問われるのかわかります。「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」とあります。
神の子どもとして、十分の一献金をささげないことは神のものを盗む罪であり、これによってのろいを受けていると書いてあるのです。したがって、これは救われない罪に属することがわかります。十分の一献金をささげない罪が、なぜ救われない罪になるのか二つの面で調べましょう。
まず、十分の一献金をささげないことは、安息日を守らない罪と同じように、神を信じないという証拠なので救われないからです。
十分の一献金をささげる行ないには「神の物的主権を認める」という意味が込められています。つまり、この世の万物がすべて神のものであることを認めるという意味なのです。[ハガイ2:8]に「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ。――」とあるとおり、私たちがこの世で受けて持っているすべては、実はすべて神のものです。言いかえれば、10という収入を得たとすれば、その10は全部神のものです。これを認めるなら、その10の中から1をささげることがなぜ難しいでしょうか。神のものを神にささげることは極めて当たり前のことです。
さらに、神は何かが乏しいから、神の子どもたちに十分の一献金をささげなさいと言われたのではありません。神の子どもたちが祝福されて、天国で豊かな報いを得るように、十分の一献金と奉納物をささげなさいと命じられたのです。
[マラキ3:10]には「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」とあります。
神が「ためしてみよ」とまで言われたほど、これは確かなことです。それでも十分の一献金や奉納物をささげない理由は、神と神のことばを信じないからです。神を信じない人は神の国、すなわち、天国に入ることができません。十分の一献金をしない人が救われない理由がまさにこれです。
十分の一献金をささげないと救われないもう一つ理由は「むさぼり」です。
十分の一献金をささげない罪は結局、物質へのむさぼりを捨てないことから始まります。ある人はささげるものがなくて、または暮らし向きが豊かでないから、十分の一献金をささげられないと思います。しかし、収入がない人はいません。しかも神を信じている人に収入がないはずはありません。食べ物、着るものなど、生活に必要なものが一つ、二つと満たされるということは、どんな形でも収入を下さったという意味です。
十分の一献金をささげない本当の理由は、むさぼりとけちな心があるからです。ささげる心さえあれば、何としてでもささげようと神に祈るでしょう。神もささげられるように答えてくださるはずです。
ある人は、今、手元にある物質が惜しいので、暮らし向きがもう少し良くなればささげると言います。ところが、元を正せば、どれほど愚かな考えでしょうか。[ルカ12:19-20]に「そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」とあります。
神のことばに逆らうまで物質を大切に思うなら、これは結局、神より、また自分のたましいより物質を大切に思うという意味です。このような人は神が今、そのたましいを取り去られるなら、言い訳できないでしょう。
したがって、すみやかに物質へのむさぼりを捨てて、神に楽しんでささげる子どもになりますように。今はもちろん、将来、主が来られるとき、主の御前に恥ずかしいことなく、堂々と立てる皆さんになりますよう、主の御名によって祈ります。
聖徒の皆さん、十分の一献金をささげますが、神のみこころに従って完全な十分の一献金をささげなければなりません。時々、十分の一献金を「救い」の必須条件ではなく、「祝福」の条件だと教える教会があります。祝福されるには十分の一献金をささげるが、ささげなくても救いとはかかわりがないと教えているのです。真理を間違って理解してそう教える場合もありますが、真理を知っていても、ありのまま教えればつまずいて教会を離れる人がいるから、正しく教えない場合もあります。
しかし、どんな理由でも妥協してはいけません。みことばを正しく知って行なってこそ、神が下さる祝福が体験できます。そうする時、生きた信仰、すなわち、救われる信仰が持てるのです。
また、ある人は、行為を強調する信仰は律法的な信仰で、望ましくないと言います。神を信じる心が大切なので、心だけあればよいと言ったりします。はたしてそうでしょうか? [マタイ6:21]で、イエス様は「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」と言われました。神の御前にささげることは、神に心があることを表しています。
また、[マタイ23:23前半節]で、イエス様が「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。」と、心はないのに行ないだけで律法を守る人たちを叱責されます。
ところが、続く[23節の後半節]には「これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」と、律法を守り行なう時は、必ず正義とあわれみと誠実、すなわち、心も重要だが、行ないも捨ててはいけないことを言われました。
聖徒の皆さんはほとんど、心から湧きあがる喜びで十分の一献金をささげています。収入があれば、真っ先に十分の一献金を聖別して神にささげます。また、完全な十分の一献金をささげるために、1か月の給与から正確に10分の1だけを計算して、けちけちとささげるのではありません。プレゼントやごちそうされたものまで考慮して、充分にささげます。それでこそ、もれなく完全な十分の一献金をささげることができるからです。
ひょっとして、まだこのように完全な十分の一献金をささげていない方がいるでしょうか? もしそれでも祈って努力しているなら、「ひょっとして救われないならどうしよう」と恐れる必要はありません。しかし、長い間みことばを聞いて知っていて、今は完全な十分の一献金をささげるべき信仰なのに、相変わらず決断できずにいる方は、きょうのメッセージを戒めとされますように。 ”

[結論]
“ 愛する聖徒の皆さん、皆さんの心は今、どこにあるでしょうか? 今はこの地上でなく天国に置きますように。これを表す最も代表的なしるしが、まさに主日を守ることと十分の一献金をささげることです。きょう伝えた二つの戒めは、救われる信仰を測ることにおいて、一番基本的な尺度になる戒めです。したがって、安息日が待ち遠しい信仰、神にすべての必要なものが与えられたことを感謝して、喜んで十分の一献金をささげる信仰を持ちますように。それで、救いの枠の中に安全にとどまりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。 ”

 酷い教えとしか言いようがないですね。十分の一をささげないのは罪であり、それも救われない罪、悔い改めの霊さえ与えられない罪、悔い改めさえできない罪であると、この異端の教祖イ・ジェロクは言います。お金を吸い取る為に、ユダヤ人に与えられた律法を曲解し、そして、それを信徒に課すだけでなく、さらにしなければ「救われない」と恐怖心を持って、人心を拘束します。神の祝福と呪いという呪文により、偽りの教えである「繁栄の神学」をよく表しています。現世利益、御利益信仰の典型でしょう。しかし、御利益をもたらすのは神、お金を吸い上げるのは教会、よくできた悪の集金システムです。


***「韓国の偽りの教師」へのコメントとレス***

コメント(7)

金出せ!って感じですね

こういうのはキリスト教会にも、他の宗教にもあるでしょうね。

私の知人もこう言いました。
「お金の取られない教会へ行きたいです」
2013/7/5(金) 午後 8:21 返信する

*

>まーくん(一匹狼)さん

繁栄の神学系は皆同じですね。お金を出せば祝福が与えられ、出さないのは不信仰で救われない。

他の宗教ではカルトや新興宗教、新宗教、韓国の宗教を除けば、日本の仏教が一番拝金的に感じられますね。
2013/7/5(金) 午後 8:35 返信する

*

偽りの教師ではありません。聖書にある真理を伝えてるだけです。
もし偽りの教師ならなぜこの方は世界一多くの不思議やしるし、神の力などをあらわせているんですか?
[ zohna ] 2013/10/17(木) 午前 4:01 返信する

*

>zohnaさん

zohnaさんは万民中央教会の信者さんなのでしょうか。まず、不思議や奇跡などを数多く行って、多くの病人を治し、不思議な業を行なっている宗教者など、世界には腐るほどいて、その信者たちはこれこそ神(神々、神仏、スピリット)がその指導者に働いているしるしだなどと言います。そんなものは何の証拠にもなりません。また、信徒の増加なども何の証拠にもなりません。聖書にも偽りの預言者などがそういう不思議な業を行ない、キリスト者をも惑わそうとすることをキリストご自身が予告しています。

聖書に無い教えを、聖書の一部を文脈も歴史も無視し、反証となる聖句も無視して、都合の良いように組み立てられた教えを見れば、そういう人間が神からのものかそうでないのかは、自ずと答えが出てくるものです。
2013/10/17(木) 午前 6:15 返信する

*

失礼しました。はい、万民教会の聖徒です。父なる神様が私をこの素晴らしい教会に召されました。あなたのおっしゃるとおりで、確かに世には例えば悪い霊どもの力を借りたりして、神の力ではない不思議やしるしを行なっている人たちもいるでしょう。でもイ・ジェロク牧師は、聖霊の賜物の神の力を行なっています。真の預言者、真の神のしもべです。7年間祈りと断食で生きて、神の力を引き下ろしたのはもちろん、聖書の難しい箇所も私的解釈ではなく聖霊に感じて解き明かされました。
[ヨハネ14:12]
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」
[ zohna ] 2013/10/20(日) 午前 1:23 返信する

*

十分の一献金の件ですが、これは新約時代でも神の子どもたちが守らなければならない戒めの一つです。十分の一をささげないのは罪というのは確かにその通りです。でも、救われない罪、悔い改めさえできない罪というのはこれは今まで戒めを守ってきて神様に守られて祝福もされたりなどして信仰が大きくなった人がある瞬間からこの罪を犯した人等に当たることです。他のメッセージも読んでいただかないと誤解してしまうようですね。是非、信仰の量りという説教のメッセージを読んで頂けたらと思います。

長々とすみませんでした。でも、異端ではないので誤解しないでほしいです。神様が終わりのときの摂理を成し遂げるために立てられた教会です。

返信してくださったこと感謝します。神様の恵みがありますように。
[ zohna ] 2013/10/20(日) 午前 1:33 返信する

*

>zohnaさん

マンミンの異端性については過去記事「韓国の異端、破壊的カルトの教会 ①」( http://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11861470.html)、②( http://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11863881.html)
、③( http://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11872668.html)などにも取り上げています。また、什分の一献金の誤りについては、カテゴリー「什分の一献金問題・繁栄の神学など」をお読みください。

お役に立てば幸いです。
2013/10/20(日) 午前 3:47


******

万民中央教会(만민중앙교회、マンミン)の教祖、イ・ジェロク逮捕
2018/11/23(金) 午前 7:08
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/16418802.html

韓国カルト教団の教祖に禁錮15年、女性信者8人がレイプ被害で告訴

AFP 2018年11月22日 19:18 発信地:ソウル/韓国 [ 韓国 韓国・北朝鮮 ]

http://www.afpbb.com/articles/-/3198789?cx_part=latest

"【11月22日 AFP】韓国のソウル中央地裁は22日、信者の女性8人をレイプした罪に問われたカルト教団「万民中央教会(Manmin Central Church)」の教祖、イ・ジェロク(Lee Jaerock)被告(75)に対し、禁錮15年の有罪判決を言い渡した。女性信者たちはイ被告を神聖な存在と信じていたという。
・・・"

https://www.youtube.com/watch?v=jidopEPcuSw


マルコ福音書の結び 大文字写本から

Yahoo!ブログから引っ越し(12月Yahoo!ブログサービス終了に付き、一部加筆修正)

マルコ福音書の結び 大文字写本から
2015/3/20(金) 午前 3:42
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/13876059.html

 聖書というものは読めば読むほど、学べば学ぶほど発見があったり、知っていたことでも改めてそのことに注目して学んでみると、今まで気がつかなかったり見過ごしてきたことに出会ったりなどしたりします。

 マルコ福音書が16章8節での唐突な終わり方までがオリジナルなテキストで、その後に9節から20節までの長い結びを新共同訳では「結び 一」と小見出しをつけ、もう一つの短い方の結びを「結び 二」という小見出しをつけて載せられていますが、双方もしくは片方を日本語訳では本文に載せていることがほとんどでしょう。

 以下に口語訳聖書より「結び 一」(新改訳は単に亀甲括弧で囲んでいる)を引用しましょう。そして口語訳には載せられていない「結び 二」(新改訳は「別な追加文」と小見出しをつけている)を新共同訳から引用します。

〔 16:9週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。 16:10マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。 16:11彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。
16:12この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。 16:13このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。
16:14その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 16:15そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。 16:16信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。 16:17信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 16:18へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
16:19主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。 16:20弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕

 〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間に手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕

 マルコ福音書の日本語訳聖書の終わり方は、これらの後代の加筆部分を本文に載せない田川建三訳タイプ。「結び 一」(岩波書店聖書翻訳委員会訳「補遺2」)「結び 二」(岩波書店聖書翻訳委員会訳「補遺1」)とか、長い方の追加文を亀甲括弧などで囲うなりして何の説明もなく本文に載せたり、亀甲括弧で囲いもしないで本文として載せてしまうもの。短い方の結びを載せないものなどがあります。

 マルコの終わり方には、①8節でおわるもの、②8節以下に短い方の「結び 二」を付したもの。③8節以下に9~20節の「結び 一」を付したもの。④ワシントン写本のみ16章14節を拡張し15節冒頭のκαὶ εἶπεν αὐτοῖς,をαλλαに置き換えている。という四つのタイプがあります。

 ネストレ27版の欄外の本文批評を見ますと、
省略。 א、B、304、k、シリア語シナイ写本、コプト語訳サヒド方言(単一の証拠)、アルメニア語訳(与えられた読み方を支持するひとつ以上の証拠);エウセビオス、エウセビオス(与えられた読み方を支持するひとつ以上の証拠)、ヒエロニムス(与えられた読み方を支持するひとつ以上の証拠)
となっています。

挿入。 A、C、D、W、Θ、f₁、f₁₃、33、2427、多数派本文、古ラテン語訳(古ラテン語訳とごく一部がウルガタと一致する)、キュアトン・シリア語訳、ペシッタ本文、シリア語ヘーラクレーア訳、コプト語訳ボハイル方言

 田川訳の注では、わかりやすく

“何も加えず、このまま終わっているのは、シナイ写本(א)とヴァチカン写本(B)、つまり新約の諸写本のうち最も重大な二大写本。ほかに小文字写本304、シリア語シナイ写本(これはギリシャ語大文字シナイ写本とは直接には無関係)、サヒド(上エジプト)方言のコプト語訳諸写本、など。しかしほかの一定数の大文字写本も、一応つけ足し部分をのせてはいるが、「一部の写本に見られるつけ足しだが」という趣旨の断り書きを記した上で書き写している(左記参照)。
 そして極めて重要なのはエウセビオスの証言。・・・
・・・
 「長いつけ足し」だけを「短いつけ足し」なしで八節の直後に記しているのは、A C D W Θ f₁ f₁₃ 33 2427 ほか、及びいわゆるビザンチン系の役には立たないが大量にある写本。・・・“「田川建三 訳著 新約聖書 訳と注 1 マルコ福音書/マタイ福音書」(作品社 p.496 p.498)
 と説明しています。

 次に写本を見てみましょう。

 まずはシナイ写本です。こちらは8節で終わっています。そしてマルコの冒頭が次の欄にあるので分かりやすいです。8節の終わり二行を下の方にネストレ校訂本より赤文字で示しました。

シナイ写本 マルコ福音書の結び
(シナイ写本)


 そして次はヴァチカン写本です。こちらもシナイ写本と同じく8節で終わっています。一応分かりやすいように7節と8節の冒頭に節番号を赤文字で付しておきました。

ヴァチカン写本 マルコ福音書の結び
    (ヴァチカン写本)


 次に長い結びである「結び 一」を付したアレクサンドリア写本を見てみましょう。こちらは横にネストレ校訂本より青文字で19節を、黒文字で20節を併記しました。赤線が引いている所は写本では省略文字が使われているところです。

アレクサンドリア写本 マルコ福音書の結び
(アレクサンドリア写本)

 続いて上記に示した長い結びの終わりにアーメンを加えているものがあります。写本ではエフライム写本、べザ写本、レギウス写本、ワシントン写本、コリデティ写本、アトウス・ラウレンシス写本、f₁₃、2427など。その中からべザ写本とワシントン写本を見てみましょう。べザ写本の方は長い結び全体に節番号を付してあります。ワシントン写本は19節、20節の節番号を赤文字で付しています。両写本とも最後にΑΜΗΝ(アーメン)が付してあります。これはワシントン写本の方が見やすいでしょう。

ベザ写本 マルコ福音書の結び 1
(べザ写本)

ベザ写本 マルコ福音書の結び 2
(べザ写本)

ワシントン写本 マルコ福音書の結び
(ワシントン写本)


 最後にワシントン写本の14節の拡張と15節冒頭の置き換え箇所を見てみましょう。

ワシントン写本の拡張部分
(ワシントン写本の拡張部分)

 メッガー博士の著書『新約聖書の本文 研究』で、4世紀後半~5世紀前期に由来するW写本のマルコ福音書の16章9節以下の長い結び(新共同訳の「結び一」)と呼ばれる異読の中、14節に続いて次の次のような異読が挿入されていることが出ています。

 14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰さとかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
 そして彼らは弁解して言った、「不法と不信の今の時代は、サタンの支配下にあります。サタンは神の真理と力が汚れた霊に打ち勝つことを許しません。ですから、あなたの義を、今、お示しください」。こう彼らはキリストに言った。そこでキリストは彼らに答えられた、「サタンが力をふるう時代は終わった。しかし、別のおそろしいことが近づいている。わたしを死に渡して罪を犯した者たちは真理に立ち帰り、再び罪をおかさないであろう。彼らは不滅の霊の栄光―天にある義の栄光を―受けるであろう」。
 15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 この異読を付け加えた人たちは、どのような状況にあったのでしょうか。彼らが使徒たちの弁解のことばとして付け加えた言葉は、彼ら自身の状態を表しているのかもしれません。そして、キリストの言葉として付け加えられた言葉は、彼らの共同体を力づけるために加えられたのかもしれません。そうするとこの共同体は、ユダヤ教徒の中にあって彼らに伝道していたのでしょうか。なかなか、想像を掻き立てられるものです。

 今回、多くのファクシミリ版の新約聖書の大文字写本のPDFを見つけることができ、いろいろと見て行くと、ネストレ校訂本の欄外の本文批評は本当あてになるなーと感心しましたね。そして大文字写本の読みにくさには参りますね。しかし、実際に写本から見てみますと解説書や印刷本ではことばの上で判っていても、実際はこうなんだと改めて知ることができましたね。やっぱり聖書は面白い。

***追記2023/03/11***

 ネストレ=アーラント27版の本文批評欄に出てくる小文字写本2427(Minuscule 2427)は19世紀に作られたものと判明し、ネストレ=アーラント28版では使われていません。

 ネストレ=アーラント27版の序文にはこうあります。

"Auch Minuskeln werden erstmals, wenn sie erhebliche Bedeutung für die Textkonstitution bzw.die Textgeschichte haben. unter die ständigen Zeugen aufgenommen. Als ständige Zeugen erster Ordnung werden zitiert:
さらに、本文の歴史や確立のために重要な小文字写本が、初めて常用証拠に含まれることになった。第一の常用証拠は次のものである。
die Minuskeln 33, 1739, 1881(in den Paulinen) und 2427;
小文字写本33, 1739, 1881(パウロ書簡において). 2427"
(p.4)

"Die ständigen Zeugen für die Evangelien
福音書における「常用証拠」

a) Die ständige Zeugen erster Ordnung
a) 第一位の「常用証拠」
・・・
Die Minuskelfamilien f¹ und f¹³ (für alle Evangelien) sowie die Minuskeln 33 (für alle Evangelien) und 2427 (für Mk)
小文字写本家族 f¹,f¹³(すべての福音書について).小文字写本33(すべての福音書について).2427(マルコについて)"
(pp.16-17)

 この写本についてWikipediaの英語版・ドイツ語版、そこで参照されている論文やホームページなどを見ますとおおよそ次のようです。

Minuscule 2427
Minuscule 2427(Wikipedia)

 1917年、アテネの骨董商で収集家のヨハネス・アスキトプロス氏の死後その邸宅でこの写本は発見され、1936年、ヨハネス・アスキトプロス氏の甥によってエドガー・J・グッドスピードに売却されました。1937 年、原稿はシカゴ大学図書館の Goodspeed Manuscript Collection に送られ、それ以来、請求番号 Ms. 972 が付けられました。

 1947年にJournal of Religion 27 (April 1947): 148-149にて、ロバート・P・ケーシー氏は"in every way extraordinary and the curious anomalies of its script and text form a pattern strikingly similar to that of its miniatures(その文字とテキストの奇妙な変則性は、その細密画と驚くほど類似したパターンを形成しています。)" (p. 148). と書き、彼は原稿が19世紀の重要な版からコピーされた可能性があるという疑いを表明しました。

 1988年にメアリー・ヴァージニア・オルナ教授とそのチームによりこの写本の挿絵の顔料からプルシアンブルー(KFe[Fe(CN)9])が含まれていることを発見しました。この顔料は1704年に発明されたものです。その他にも合成ウルトラマリン・ブルー、亜鉛白(あえんはく)、硫化亜鉛など19世紀になってからの顔料が使われていることもわかりました。これらの顔料は後から上塗りされたものではなく、最初からこれらの顔料で書かれたものであることもわかりました。

 この写本は、古文書学的に年代を特定することが非常に困難とされていて13 世紀から18 世紀のものとされていましたが、写本への関心を新たにするために2006年初頭にオンラインで写本のデジタル画像が公開され、同年2月までにスティーブン・カールソンは、写本が偽物であるという彼の発見を発表し、聖書文学協会の 2006 年年次総会で疑いの余地なく彼の主張を証明しました。

Novum Testamentum Graece, Philppus Buttmann 1860
Novum Testamentum Graece, Philppus Buttmann 1860

 そのテキストは、フィリップ・ブットマン(Philppus Buttmann)の 1860年版の「Novum Testamentum Graece」(ギリシア語新約聖書)から複製されたものす。そして、ブットマンのギリシヤ語新約聖書はマイ枢機卿のファクシミリ版(エラーがとても多い複製版)の1860年改訂版に基づいています。ブットマンのギリシヤ語新約聖書はマイ枢機卿によるバチカン写本のファクシミリ版のテキストから離れた箇所が85カ所あり、この写本の製作者はそのうち81箇所でブットマンに従っていました。 さらに、2427 が三箇所で行を誤って省略し (6:2、8:12、14:14)、各節で省略された行が、ブットマンの版の省略された行に正確に対応していることが明らかになりました。

 ネストレ=アーラント27版とUBS4版などは、クルト・アーラントとバーバラ・アーラントの夫妻の著書が主な参考文献の最初の方に出てくるくらいですし、その著書の中でこの写本をカテゴリーⅠの写本に位置付けていますからアレクサンドリア型の小文字写本と言うことで、無批判的にそう区分してしまったのでしょう。

 UBS4版でSelected Bibliography(選択された参考文献)のリストにあるクルト・アーラントとバーバラ・アーラント共著「The Text of THE NEW TESTAMENT」(Kurt Aland and Barbara Aland, WM.B.EERDMANS PUBLISHING, 1989)を見た所、四か所で取り上げられていて、p.129から始まる「Descriptve List of Minuscules(小文字写本の説明付きリスト)」とp.159の「10. カテゴリ別のテキスト原稿のレビュー(10. A REVIEW OF TEXT MANUSCRIPTS BY CATEGORY)にある「表 8. 世紀別およびカテゴリー別のギリシャ語写本の分布 [太字は 10 葉を超える原稿を示します](Table 8. Distribution of Greek manuscripts by century and category [Bold indicates manuscripts of more than ten folios])」というカテゴリー別の表の中で、この小文字写本2427をカテゴリーⅠに区分されています。カテゴリーⅠについては以下のように説明されています。

p.159
"10. A REVIEW OF TEXT MANUSCRIPTS BY CATEGORY
・・・
Category Ⅰ: Manuscripts of a very special quality which should always be considered in establishing the original text (e.g., the Alexandrian text belongs here). The papyri and uncials up to the third/fourh century belong here almost automatically because they represent the text of the early period (those whose witness is slight are shown in parentheses).
・・・"

10. カテゴリ別のテキスト原稿のレビュー
・・・
カテゴリ Ⅰ: 原文を確立する際に常に考慮されるべき、非常に特殊な性質の写本 (例: アレクサンドリア語の本文がここに属します)。 3 世紀から 4 世紀までのパピルスとアンシャルは、初期の時代の文書を代表するものであるため、ほぼ自動的にここに属します (証言が少ないものは括弧内に示されています)。
・・・

The Text of THE NEW TESTAMENT Kurt Aland and Barbara Aland

The Text of THE NEW TESTAMENT by Kurt Aland and Barbara Aland p.162


 まあ、この本のドイツ語改訂版が1989年(英訳版も1989年発行)に出版されていますから、まだオルナ教授などの鑑定結果が周知されていない段階ですからこれはしょうがないと言えます(テクストゥス・レセプトゥスやKing James Versionに執着しているアメリカの原理主義者たちはこの本もやり玉に挙げていますが、出版年とか考えていないんでしょうか)。

 問題は、メアリー・V・オルナ教授などの鑑定結果が発表され周知された段階で、一旦立ち止まって、UBS第4版(1993年)とネストレ27版(1995年)出版前に検討するか、その後から出す修正版で常用証拠から外すとかすべきだったと思います。

 しかしこの小文字写本2427(Minuscule 2427)が無い時代のネストレ=アーラント26版も、排除したネストレ=アーラント28版も、他の写本証拠から変更はないわけです。そもそも、この写本自体が単独証拠として使われていないので無くなっても結果は変わらないということです。しかし、多くの学者による批判的批評版と言えども、特定の学者の見解に引っ張られてこのような誤りなどがありますからいろいろと調べて注意深くするのがいいでしょう。一信徒としてできることと言ったら使用している版の前の版や旧版などと比べて見るのが手っ取り早いところでしょうか。



 
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athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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