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わらしべ長者的な調べもの、頌栄

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わらしべ長者的な調べもの
2014/8/22(金) 午前 9:41
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/13263647.html

 いろいろと調べてゆく中で「参照資料付き 聖書 新世界訳」の

*** 聖8‐参 1756ページ 1ニ クリスチャン・ギリシャ語聖書中の神のみ名 ***
クリスチャン・ギリシャ語聖書における四文字語<テトラグラマトン>の使用について,ジョージア大学のジョージ・ハワードは,「聖書文献ジャーナル」(Journal of Biblical Literature,第96巻,1977年,63ページ)にこう書きました。

 と出てくるGeorge Howard氏の「The Tetragram and the New Testament, (Journal of Biblical Literature)のp62-p83のPDFが見つかり、その中のp72の(4)の記述で

「The Tetragram and the New Testament, (Journal of Biblical Literature) pp.62-83

(4)There is some evidence from the Hebrew documents from the Judean Desert that the word אדני was pronounced where the Tetragram appeared in the biblical text. This is possibly demonstrated by the corrections in 1QIsaa.In a Comparison of the Ben Sira scroll from Masada with MS B from the Cairo Geniza it appears that אדני  was even used as a written surrogate for the Tetragram in copying non-biblical literature that originally employed it.

(4)Tetragramが聖書本文で見かけた所で、単語אדניが発音されたというなにかの証拠がユダヤの砂漠でのヘブライ語の文書からあります。
これは、おそらく1QIsaaでの修正箇所によって示されます。
カイロ・ゲニザからのMS Bをもつマサダからのベン・シラ巻物の比較では、当初それを使用した非聖書の文学を書写することでTetragramの書面での代わりとして、אדניも使われたように見えます。(機械翻訳)

 という箇所の記述の1QIsaa(死海写本クムラン第一洞窟で発見されたイザヤ書の巻物)での修正箇所というものが気になり、いろいろと検索をして見ましたら、1QIsaaの中で3章18節、6章11節、7章14節、8章7節、21章16節、28章2節、37章24節において、マソラ本文では אדני (アドナイ、「主」)となっている箇所に、テトラグラマトン(神の名を表す聖四文字 יהוה )が書かれているということでしたので早速見てみました。

3章18節
1QIsaa イザヤ3章18節


6章11節
1QIsaa イザヤ6章11節


7章14節
1QIsaa イザヤ7章14節


8章7節
1QIsaa イザヤ8章7節


21章16節
1QIsaa イザヤ21章16節


28章2節
1QIsaa イザヤ28章2節


37章24節
1QIsaa イザヤ37章24節

 これらの箇所をヘブライ語聖書の校訂本文である「ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア(BHS)」片手に見て行きました。そうすると8章7節は אדני がある場所が大きく欠損していて、素人目にはよくわかりません。37章24節は手書き草書体は文字の判別はしづらいですが אדני と書いているように見えます。

LXX BHS 記名

 今回、そんなことよりももっと気になったのが、1QIsaaの巻物でこれらの違いがあるにも拘らず、手に持って開いているBHSの欄外の異読資料には何も書いていなかったということです。そこでまずはBHSの一つ前の校訂本文である蔵書のビブリア・ヘブライカ第三版(BHK3)を引っ張り出してきて、こちらの異読資料もBHSと同じなのかを見てみました。そうしましたらこちらの異読資料には次のように出ていました。

・3章18節

יהוה c punctis subscriptis (= dI) et אדוני supra add pr אדני .

17 . 18 mlt MSS יהוה .

・6章11節

II יהוה pr אדני

・7章14節

ca 4oMSS יהוה

יהוה pr אדני

・8章7節

[ יהוה ] c אדוני supra add pr אדני

・21章16節

יהוה pr אדני

・28章2節

ₐ mlt MSS Edd ליהוה

・37章24節

cf ad 2R 19,23  

 新しいBHSには何もなく、古いBHK3には אדני の箇所についての異読資料があるという不可思議さです。そして次にビブリア・ヘブライカの第一版と第二版は本文の底本が違うので(BHK1とBHK2はベン・ハイームの「第二ラビ聖書」(vol.1 https://archive.org/details/torahneviimukhet02kitt、Vol.2 https://archive.org/details/The_Second_Rabbinic_Bible_Vol_2、Vol.3 https://archive.org/details/The_Second_Rabbinic_Bible_Vol_3、Vol.4 https://archive.org/details/The_Second_Rabbinic_Bible_Vol_4)を底本とし、BHK3とBHSはベン・ハイームがそれを編纂するに当たって集めた写本よりも古い「レニングラード写本」(https://archive.org/details/Leningrad_Codex)を底本にしている)、BHK1は幸いPDFで手に入れられますので(イザヤ書は第二巻に収録されている https://archive.org/details/torahneviimukhet02kitt)そちらで見てみましたら、3章18節においては短い方の異読資料、7章14節、28章2節、37章24節はBHK3と同じでした。


BHK 3章18節
ビブリア・ヘブライカ第三版 イザヤ3章18節欄外

 そして、ついでにまずはBHK3とBHSの本文が同じなのかを指で行を追いながら見て行き、次にthe letters Edition(vienna 1852)の本文(https://archive.org/details/torahneviimukhet00lett)を使用しているJay P. GreenのThe Interlinear Bible: Hebrew-Greek-English の本文とも比べてみて同じであることを確認しました。

 最新の校訂本文であるBHQの異読資料ではどうなっているのか気になるので、はやく一冊本として出版してもらいたいと思いました。


******


頌栄
2015/3/16(月) 午後 0:34

 今日聖書に加筆や編集などがあったのは常識の範疇ですが、原理主義的傾向が強くなればなるほど、そういうことを受け入れられなくなったり、激しく否定したり拒絶したりします。SNS等のキリスト教系のコミュニティー等(リベラル系)にそういう人の不合理な反論などがたまに有ったりします。

 その中のひとつで普通「主の祈り」とか「主禱文」と呼ばれるマタイ6:9-13、ルカ11:2-4に記録されているイエスが弟子たちに教えられた祈りがあります。この祈りは今日においても個人の祈りでも教会での共同の祈りでもよく祈られる定式となっています。

 大抵、プロテスタントの祈祷書やリタジー(礼拝式文)などにおいては、マタイ型の「主の祈り」に頌栄の「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」を付した形で祈られます。カトリックなどはラテン語訳ウルガタ聖書の影響から頌栄がなく「アーメン」で結ばれる形がよく見られます。最近ではエキュメニカルの影響からなのか頌栄が付いた形も見られるようになりました。

頌栄 ラテン語ウルガタ聖書クレメンス版
(ラテン語ウルガタ聖書クレメンス版)

 しかし、この頌栄部分が聖書にないものであることは常識の範疇です。カトリックはラテン語訳ウルガタを公認聖書としていましたから、日本においてもフランシスコ会聖書研究所訳が出版されるまではウルガタからの重訳でしたから“(アーメン)”とラゲ訳などにはなっていました(ラゲ訳の凡例で “( )内の言葉は、ラテン語訳にはあるが、ギリシア文にはない言葉である。”と説明しています。)。フランシスコ会聖書研究所訳の欄外注には、頌栄について“若干の写本は、本節のあとに「国と力と栄光は、とこしえに あなたの ものだからです。アーメン」をつけ加えている。”と説明しています。

 プロテスタントで頌栄が聖書本文に入り込んでしまったものも幾つかあります。まずは公式にはテクストゥス・レセプトゥス(TR)から翻訳されたとされていますが、実際にはKing James Versionから翻訳され(KJV自体TRを底本としているので同じことだが)1880(明治13)年に出版された「明治元訳」です。これは元のKJVもTRもこの頌栄が本文に入っているのでしょうがありません。あと同じTRステファヌスの第三版を底本にした「永井直治訳」もこれを含みます。また、明治元訳などは外人の翻訳委員と日本人の補佐人でしたが、日本人補佐人たちは漢訳聖書を用いていたようですが、モリソン訳やシェルシェウスキー訳においても頌栄は含まれていました。

頌栄 Authorized Version
(KJV)

King James Version
And lead us not into temptation, but deliver us from evil: For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen.

頌栄 モリソン訳 シェルシェウスキー訳
(漢訳聖書)

明治元訳
我儕を試深(こゝろみ)に遇(あは)せず惡より拯(すくひ)出(いだ)し給へ國と權(ちから)と榮(さかえ)ハ爾(なんじ)の窮(かぎり)なく有(たもち)たまふ所なりアーメン

永井直治訳(1928年版)
また我等を試のうちに導き給はず、されど惡より我等を援ひ出だし給へ。そは國と力と榮光とは、永(とこしへ)に汝のものなればなり。アメン。 

 他には正教会の上田将訳(1892)とニコライ訳(1901)もこれを含めていますが、ギリシャ正教はビザンチン型の写本を伝えているから当然といえば当然でしょう。

上田将訳
我等を誘(いざなひ)に導かず、乃(すなはち)我等を兇惡より救ひ給へ、蓋國と權能(ちから)と光榮ハ爾に世々に歸すアミン

ニコライ訳
我等を誘(いざなひ)に導かず、猶我等を凶悪より救い給へ、蓋國と權能(けんのう)と光榮は爾に世世に歸す、「アミン」。

頌栄 上田将訳 ニコライ訳
(上田将訳 ニコライ訳)

 ここまでは日本において聖書翻訳の初期の時代ですし、プロテスタントで広く普及した1917年発行の大正改訳(「文語訳聖書」の新約部分)では、底本をネストレの校訂本(実際は英訳聖書のRevised Version)としたので、ネストレ校訂本の本文はこの頌栄を含んでいませんのでRVも大正改訳も当然ありませんので、プロテスタントでも頌栄が聖書の文言であるとは思う人は少なかったことでしょう。

頌栄 Nestle初版
(Nestle初版)

 しかし、その勘違いを起こさせる最悪の聖書が出ました(この箇所においての話に今回は限定です。)。それが新改訳聖書です。その翻訳を見てみましょう。

新改訳
 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

 頌栄部分が亀甲括弧に囲まれて本文に載せられました。手元にある「聖書 新改訳 注解・索引・チェーン式引照付」(第二版)と小型「聖書 新改訳」(第三版)、小型和英対照、新約聖書中型伝道版の凡例と後書きを見てもこの亀甲括弧については説明がありません。欄外注に “最古の写本ではこの句は欠けている”と記載されていますが、スタンダードタイプとチェーン式以外では引照・注はないので、この情報は知ることができず聖書本文と勘違いする危険があります。また引照・注付きでもちゃんとそれらを利用しなければ誤解してしまいます。なぜ欄外注の方に記載せずに本文に載せたのか、これもファンダメンタル系のKJV信仰が関係しているのでしょう。KJVやNKJV、NASBなどファンダ系が好むものに引きずられているのかもしれません。

New King James Version
And do not lead us into temptation,
But deliver us from the evil one.
For Yours is the kingdom and the power and the glory forever. Amen.

 その他のものとしては、詳訳聖書、尾山令仁氏の現代訳と創造主訳がこれを本文に含めています。詳訳聖書は活字の大きさを変えて凡例にて “六ポイント活字で印刷してある部分は、英語欽定訳には訳出してあるが、その部分が最良の写本にはないことが一般に認められている部分である。”としていますし、原書Amplified Bibleの方では斜体にして “Italics point out:
1. certain familiar passages now recognized as not adequately supported by the original manuscripts.
This is the primary use of italics in the New Testament, so that, upon encountering italics, the reader is
alerted to a matter of textual readings. Often these will be accompanied by a footnote. See as an example
Matthew 16:2-3.
2. conjunctions such as “and,” “or,” and the like, not in the original text, but used to connect additional
English words indicated in the same original word. In this use, the reader, upon encountering a
conjunction in italics, is alerted to the addition of an amplified word or phrase. See as an example Acts
24:3.
3. words which are not found in the original Hebrew or Greek but implied by it.”と凡例に説明しています。

 現代訳の「新約聖書小見出し・脚注付き」の欄外注には、新改訳の注と同じく “古い写本には、これのないものがほとんどである。”と説明していますが、創造主訳には何も説明もありませんし、括弧もありませんし、斜体にもしていません。また活字の大きさも変えていません。

詳訳聖書 マタイ6:13
また、私たちを誘惑に陥れないで<連れ込まないで>、悪い者から私たちを救い出してください。 み国とみ力とご栄光はいつまでもあなたのものであるからです。アーメン。 

Amplified Bible
And lead (bring) us not into temptation, but deliver us from the evil one. For Yours is the kingdom and the power and the glory forever. Amen.

頌栄 NASV  Amplified Bible
(NASB Amplified Bible)

現代訳 マタイ6:13
私たちを誘惑に陥れないでください。かえって、私たちを悪魔から救い出してください。御国と力と栄光は、いつまでもあなたのものです。アーメン。』

創造主訳 マタイ6:13
私たちを誘惑に遭わせず 悪魔から救い出してください。 御国と力と栄光は、 いつまでもあなたのものです。 アーメン。』

 この頌栄はNestle-Alandの本文批評欄を見て分かるとおり、古い写本はこれを欠いていることが分かります。これを含めている大文字写本はレギウス写本、W写本、コリデティ写本、0233。小文字写本は家族13、33、多数派本文。その他としてラテン語訳やシリア語訳、コプト語訳の一部、ディダケーに見られます。この中で最古のものはディダケーの8:2でしょう。

頌栄 Nestle-Aland 27版
(Nestle-Aland27版 本文批評欄)

 ディダケーには、マタイ型の主の祈りに続けて “・・・ ὅτι σοῦ ἐστιν ἡ δύναμις καὶ ἡ δόξα εἰς τοὺς αἰῶνας.” “・・・ 力と栄光とは永遠にあなたのものだからです」。”(「使徒教父文書」 荒井献[編] 講談社文芸文庫 p.34)とあります。これに “η βασιλεία και ”「国と」が加えられた形でやがて一部の写本に入り込み、それらから書写された多くの後代のビザンチン型写本に載せられる結果を招いたのでしょう。

頌栄 ディダケー
(ディダケー)

 そして、やがてエラスムスが最初の「校訂版 新約聖書」(Novum Instrumentum omne)を作成するに当たって、Codex Basilensis A. N. IV. 2(12世紀)、Minuscule 2814(12世紀)、Codex Basiliensis A. N. IV. 1(12世紀)、Codex Basilensis A. N. IV. 4(12世紀)、Minuscule 2816(15世紀)、Minuscule 2817(12世紀)、Minuscule 817 (Gregory-Aland)(15世紀)これらのバーゼルの図書館にあった写本を用いて(欠落していた部分はウルガタをエラスムスがギリシャ語に翻訳して補った)出版しました。

頌栄 エラスムス
(エラスムスのNovum Instrumentum omne,2nd Edition, 1519)

 ルターはドイツ語訳をするにあたってエラスムス版の第二版を用いました。そのため1545年のルター訳においても頌栄はあります。

頌栄 1545年のルター訳
(ルター訳 1545年)

Luther 1545
13 Vnd füre vns nicht in versuchung. Sondern erlöse vns von dem vbel. Denn dein ist das Reich / vnd die Krafft / vnd die Herrligkeit in ewigkeit Amen.

 TRを底本としルター訳などから影響を受けたティンダルの英語訳聖書にも頌栄は載ることとなるのもしょうがありません。

頌栄 ティンダル訳 1525年 1534年
(ティンダル訳)

Tyndale New Testament 1525
And leade vs not into teptacion: but delyver vs fro evell. For thyne is ye kyngedome and ye power and ye glorye for ever. Amen.

 この流れがKJVに流れ、一端RVとASV、RSV、NRSVなどの方は写本上からその流れを断ち切ったものの、NKJVやNASBなどのファンダ系では継承されるに至っています。日本でもファンダ系の翻訳ではその流れが継承されています。そして、この形が正しいと思い込んだ人がでてくるのでしょう。


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墓、十字架、サンヘドリン


 イースターも過ぎましたので関連で、新聖書辞典を見ていますと、あれっと思うような記述も見られたりしました。それは「墓」について見ていましたら、

"新約時代の墓と埋葬の習慣は旧約時代と大差なく"

とありました。第二神殿時代は旧約時代には見られない遺骨の改葬なんかの特徴が見られ、旧約時代とは違うだろうと思いました。

一世紀頃 ユダヤ 墓 


そのことについて「聖書考古学大事典」から見たいと思います。

" 第2神殿時代  第2神殿時代のエルサレムの墓地は、町の周辺のどの方向にもかなり広い地域に散在している。町の西側では今まで発見されている墓はわずかである。埋葬は主に北、東、南の3中心地に集中している。北方では、埋葬地域はスコボスの谷(ワディ・ウム・エル・アメド)のサンへドリア地区の北にはじまり、南に向ってエルサレムの第3城壁近くのヘレナ妃の墓にまで広がっている。東ではオリーヴ山、スコボス山の斜面全域に散在し、南方面ではキドロンの谷やそれから分岐する小さな谷沿いの斜面岩肌を掘削して墓が設けられている。

 埋葬様式 庶民は地表を掘った簡単な墓に埋葬されたと推測することができる。これらは消滅してしまい、何の痕跡も残さない。現在まで残り、しかも日の目を見ることになった墓はいずれも岩を掘削して設けた地下墓室をもつ家族墓である。家族墓のありふれた形式は、きまって壁に棚(ときにはアルコソリゥム)を掘り込んだ方形の部屋(1辺3-4m)である。この部屋には小さな通路(約0.5m 幅)を通って入る。部屋は人間の背丈よりも低いので、埋葬者や墓参者が真直ぐに立てるように入ロのところで深さ約0.9 m の細長い溝を床に掘り込んでいる。おなじ要領で部屋の3面に棚を設けている。人が直立できる高さの墓ではこのような溝は不要で、ただ低い棚-あるいはまったく無い場合もある-が掘られている。
 死者の遺体は遺体安置棚に安置され、後に肉質が剥離したところで骨を収集して蔵骨器(オシュアリ)におさめる。このようにして家族の他の成員のために墓室を確保する。蔵骨器は通常墓室内の棚、あるいは特別な小室に置かれるが、ときには壁に掘られた棚に発見されることもよくある例である。
 骨を集めて改葬するという慣習は第2神殿末期、さらにその後数世紀のユダヤ人の中に広くゆきわたっていた。ミシュナやタルムードに含まれる多数の規定は、埋葬の様式、墓の形体と規模などを取りあつかっている。骨を集める慣習について「まず最初に彼らはアルコソリゥムに葬るのが通例であった。肉体が亡びた後、骨を集め、これらを糸杉の中に改葬する」(パレスティナ・タルムード、モエード・カタン81:3-4節)。「死に臨んで父は語った。畑に私をまず葬りなさい。後に私の骨を集め、糸杉の骨箱の中に納めなさい」(同セマホート12:9)。改葬をしない埋葬の慣習もある。一部の人びとは遺体がそのまま納められる石棺(サルコファグス)を用いる。地位の高い大家族は、コヒムをもつ数墓室からなる洞穴墓を所有していた。この一連の墓室は縦にも横にも数レベルに枝わかれしたつくりとなっている。
 外からはこれらの洞穴墓の正面だけを目にすることができる。一般に正面は飾りがすくなく、小さな入口がついている。洞穴の入口にポーチがある場合には入口は大きく、かつ幅も広い。ある洞穴墓では入口に破風があり、ぶどうの葉と房、アカンサスの葉などが彫られていた。これは典型的なユダヤ人の装飾芸術である。なかには壁柱の間の広い入口に2本の円柱をもつ建築様式(アンタに挟まれた二柱式)のファサードがあり、ドーリア式装飾フリーズを支えている。
 全構造が岩からくりぬかれ、地上に独立して建っているという独特の一群がある。岩を掘って墓を構築する技術は、この一群において、完成度と壮麗の点で頂点に達している。第2神殿時代のものでは、ただ2基の重要遺物、いわゆる「アブサロムの墓」と「ゼカリヤの墓」が現在残っている。第2神殿時代の洞窟墓は何百とエルサレムで発見されている。キドロンの谷で見かけるような孤立した墓は長い間人の目に触れてきたし、もっとも印象深いものも含めて、ある墓は何世代も前に発見された。これらすべては現代において徹底的に再調査されている。状況は不明ながら墓の多くは古い時代にすでに荒らされていた。20世紀に入ってから発見された多数の墓は組織的に発掘調査された。紙数が限られているので、ここではいくつかの例のみを取り上げることにしよう。建築上見るべきものとして壮麗な墓か興味ある墓碑銘なり蔵骨器の発見された墓などである。"
(「聖書考古学大事典」 講談社 pp.274-276)

 イエスも壁の棚に亜麻布で包まれて安置され、この時イエスの遺体が石棺や木棺に収められていないのでコヒム型ではなく、アルコソリゥム型であったのでしょう。壁の棚に安置され、肉が腐り落ちて骨になるのを待ち、そこで改めて骨が集められて蔵骨器という骨箱に収納されて、墓のなかの蔵骨場所に安置されるはずだったのでしょう。しかし、イエスは復活してその必要もなくなってしまいました。

 十字架については以前にアップした記事「主の十字架」の通りでしょう。

 さて、もう一つ、これはたまに見かける意見で、祭りの時にサンヘドリンが開かれているのはあり得ないというものです。このことについてはエレミアスの「聖餐のことば」の説明が分かりやすいと思います。

"・・・(3)議会の開廷とイエスに対する宣告が祭りの夜に行われることが可能だったかとい問題である。「人は・・・祭りの日に裁判をしてはならない」というのはイエスの時代すでに通用していた掟であった(この反証については、これが共観福音書の叙述に対してと全く同様に、ヨハネの叙述に対しても妥当することを明らかにしなければならない。ミシュナーによれば刑事訴訟は祭りの準備の日にも、どっちみち行われてはならなかった。つまりこの反証が正しいとされるならば、これはふつう誤って考えられているように、聖金曜日をニサン十四日とするヨハネの日付に対して共観福音書の日付よりも優先権を与えるということにはならない。そうではなくてこれは共観福音書のイエスの死の日の日付けに対しても、ヨハネのそれに対しても同じように反対しているわけである。)われわれは祭りの夜にそのうえ正式の死刑の宣告が下されたかどうか(このことを福音書記者たちは全然主張していない)という問いに時を費やす必要はなく、ただちに決定的な問題解決に向かうことができる。申命記17・12は祭司や裁判官からなるエルサレムの上級裁判所の決定にそむく者を死刑にすることを命じている。懲戒のためにこのような場合は公に告知されねばならなかった。かなわち「すべての民は、恐れをいだき、重ねて僭越不遜なことをしないように、これを耳に入れなければならない」(申命記17・13)。「すべての民」は年に三回の巡礼の行なわれる祭りの時にだけエルサレムに集められたわけであるから、申命記17・13及び並行箇所申命記21・21、13・12からは、このような律法に特記された最悪の罪過の場合の死刑は­­­­­̶祝祭日に死刑をしてはならないという禁止令にもかかわらず­­­­­̶ 〘バーレゲル〙「祭りの時に」行われねばならなかったという結論が導かれる。「(その両親に対して)反抗的なわがままな子」(申命記21・18-21)、(最上級の)裁判所に反逆する学者(申命記17・8-13)、(偶像礼拝へと)誘惑する者(申命記13・7-12)、(一つの町を偶像礼拝へと誘惑し)背教させた者(申命記13・13-19)、偽りの預言者(申命記18・20)、および偽りの証人(申命記19・18-21)はその場でさばかれてはならず、彼等はエルサレムの議会まで連れていかれ、祭りの時まで監禁され、そして、祭りの時に判決が執行された。なぜならば『すべての民は、恐れをいだき、重ねて僭越不遜なことをしないように、これを耳に入れなければならない』(申命記17・13)からこのような場合もあったわけである。イエスは彼の敵にとっては偽りの預言者に妥当した。われわれはこのことをマルコ14・65および並行記事から最も明瞭に知る。この個所でイエスは議会の判決のあった後、一種の目隠し遊びをされてもてあそばれる。それによって彼は自分が預言者であることを証明できるはずであるというのだ(マルコ14・65、マタイ26・68、ルカ22・64 προφήτευσον〘言いあてて見よ〙)。違反者を嘲弄するのは、その告発された罪をもじってなされるのであるから(ルカ23・11も同様である。白い長衣はユダヤ固有の王の正服である。さらにマルコ15・16-20および並行記事の紫の衣はヘレニズムの王の正服である)、議会の前でイエスが嘲弄されるというこの記事のうちには­­­­­̶この記事は特別な意図を全然含まない­­­­­̶イエスはユダヤ人によって偽りの預言者として宣告されたという事実に対する論駁の余地のない史実的証言が見出されるのである。ところで偽りの預言者として彼には即座に判決が下されねばならなかった。それは(ハラカーからもち出されるすべての対立する諸規定を突破する)律法の命令である申命記17・13に従って、「すべての民」の眼前で、すなわちニサン十五日に彼の死刑を執行するためであった。というのはニサン十六日になればもう過越の巡礼者は故郷に帰っていなかったであろうから。
 われわれは、受難物語の記事はニサン十五日に起こりえない出来事をなに一つ報告していないことを知るのである。"

(「イエスの聖餐のことば」 J・エレミアス著 田辺明子訳 日本基督教団出版局 pp.116-117)

 聖週間と受苦日、イースターにこういうことを改めて読み直してみたりしました。

新約聖書の中のちょっと気になるマイナーな事

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イエスの謎
2011/7/26(火) 午後 5:38
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/5556554.html

 福音書におけるイエスの記述において、わたしには解からない大いなる謎があります。

聖家族

 イエスは幼少期より、公生涯と呼ばれるメシアとしての活動をはじめるまで、ガリラヤ地方の歴史に名すら出てこない農村であるナザレの村で、その家族と共に暮らされました。父親のヨセフは大工であったので、当然イエスも父の元で大工の仕事を手伝い、ヨセフの死後は後を継いで大工として働かれていたことでしょう。これらのことは今日のクリスチャンならだれでもが知っていることです。

Ancient_Galilee.jpg

 では、何が解からないと言うのでしょうか。それはナザレの村から、歩いて一時間ほど北に向かった所にセップォリスと呼ばれる人口一万人ほどの大都市があります。この都市についての記述が新約聖書には、まったく現れないということです。

 一世紀のユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスは『ユダヤ古代誌』の中で、『そこでヘロデ(ヘロデ・アンティパスのこと)は、セップォリスの町を、全ガリラヤを飾るにたる代表都市として要塞化し、その名をアゥトクラトリスと命名した。』(XVⅢ巻27)と取り上げています。おそらくナザレ村の大工ヨセフとその息子イエスは、この都市に来て仕事を受注したり、建物を建てたりしていたことでしょう。また、市場も大きなものがあったことから、買い物などもしたかもしれません。また、イエスの譬えは生活に根ざしたものでした。農村的なものは故郷のナザレでの生活から、都市的なものはセップォリスでの経験であったと思われます。

 また、当時ガリラヤ地方はユダヤ地方のユダヤ人からは「異邦人のガリラヤ」(マタイ5:15)とみなされていましたが、実際にはガリラヤ地方の方がエルサレムなどのユダヤ地方より開け、都会的また国際的で、賢者の数でもユダヤ地方より多かったとヘブライ大学の研究などで解かっています。このことから毎年エルサレムへ過ぎ越しを祝うためにやって来たヨセフの一家から、12歳になったイエスがはぐれ、神殿でラビ達と語り合っていて、ラビ達がその知恵と答えに驚いていたことにもうなずけます(ルカ2:41~51)。なぜなら、ガリラヤの大都市セップォリスには、エルサレムに劣らない賢者達がいたでしょうし、イエスが彼らから多くを学んだとしても不思議は無いからです。

 しかし、この大都市について、公生涯に入ってからもイエスは、立ち寄られたり、宣教した記載が聖書にはありません。イエスがガリラヤ地方で主に活動をされていたのは、ガリラヤ湖周辺の地方都市カファルナウムを中心としていました。その他にガリラヤ地方のカナ、マグダラ、ナザレ、ナインなどの町や村のエピソードはあるものの大都市セップォリスでの活動は記録されていません。とても不思議といえます。

**追記20190416**

口語訳聖書の聖書地図にも見られる通り、聖書協会の聖書に付属する聖書地図には、ガリラヤの大都市セフォリスが出て来ません。これは2018年12月に出版された聖書協会共同訳の地図でも変わりありませんでした。

Sepphoris.jpg


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使徒言行録に見るギリシャ・ローマの神々
2011/6/5(日) 午前 5:15
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/4488467.html

 使徒言行録を読むと、実に多くのギリシャの神々が登場します。

アポロン、ピュトーンを退治

14章では小アジアのリュカオニア地方の都市イコニオンで、この地で伝道を行なっていたバルナバとパウロは、その力あるしるしにより、この街の住民から、それぞれゼウスとヘルメスと呼ばれ、あわや礼拝されかかった事が記録されています。ゼウスはギリシャ神話のクロノスとレイアの子で、ウラノスから王権を奪って王となったウラノスの子クロノスと同じ道を歩み、父クロノスに飲み込まれていた兄と姉を救い出し、兄弟であるポセイドンやハデスと共に、父クロノスとクロノスを王として世界を支配していたティターン(クロノスを含めて12の神々、共にウラノスの子ら)と戦い、これを打ち破り、父クロノス王に代わって神々の王となったことは有名な神話です。また、ヘルメスはゼウスとマイアの子で、泥棒とウソの天才で神々の伝令として有名です。それらの地上に下ってきた姿とバルナバとパウロは思われたわけです。

16:16で「占いの霊につかれた若い女奴隷」が出てきますが、原語では「占いの霊」は「ピュトーンの霊」となっています。ピュトーンはガイアの子で、強大な龍の姿をしているとされています。また、ガイアの神託所デルポイの守護者でもあり、自身も人間達に神託をもたらしていました。しかし、ピュトーンは自分がレトの子によって死ぬと予言を受け、すでにゼウスによってアポロンとアルテミスを身ごもっていたレトを殺そうと追いまわしました(別な物語ではピュートーンではなく、ゼウスの正妻ヘラがレトを狙っていたことになっています)。しかし、ゼウスやポセイドンらの助けを受けたレトは無事にその子らを産み落とします。そしてアポロンはアルテミスと共に、母の恨みを晴らしピュトーンを退治します。そして、デルポイを自分のものとし、その結果人間はガイアの意志ではなく、ゼウスの意志を告げるアポロンの神託によって、未来を知らされることになりました。こう言った神話がこの「占いの霊(ピュートーンの霊)に憑かれた」という言葉の背後にあります。

17:22に出てくる「アレオパゴス」は、アテネのアクロポリスの西側にある丘の名前で、オリュンポス12神の一人で、ゼウスとヘラの子軍神アレースにちなんで名付けられました。

19:23~40で記録されているエフェソスで起こった騒動では、エフェソにてパウロが「手で作ったものなどは神ではない」との発言に対して、偶像職人が憤慨して街の人たちを煽り立て、彼らの自慢であるエフェソのアルテミスとその神殿の威光を汚したとして、騒動が起こりました。この街の誇りであったエフェソのアルテミスは、小アジアの大地母神キュベレーなどの信仰と混交して、ギリシャ神話の女神アルテミスとは違う、独特なアルテミス崇拝となっていました。

28:3~4では『パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この人はきっと人殺しに違いない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」』と語ったことが出てきます。ここで「正義の女神」と訳された語は、「ディケー」で、ゼウスと掟の女神テミスの娘で刑罰と復讐を司る女神ディケー(正義)のことを差すのか、ローマ神話の正義の女神ユースティティア(ジャスティスの語源となった女神で、正義の女神と言われる。ギリシャ神話のテミスに相当するが、ギリシャ神話のテミスが正義と言うより掟を司り、娘のディケーが正義を司っていたのと異なり、ローマ神話ではディケーの性質を併せ持つ女神とされる。)を差すのかは判りません。

28:11には、パウロたちの乗った船の船首に、ディオスクーロイの像が付けられていました。ディオスクーロイはゼウスの息子の意味で、カストールとポリュデウケース(ローマ神話ではポルックス)の兄弟で、兄のカストールは人間であり、弟のポリュデウケースは神々であるとされています。弟は兄と永遠の命を分け合ったとされています。ディオスクーロイはローマ神話ではジェミニ(双子)で、ふたご座の神話の二人が彼らです。

使徒言行録は、新約聖書の中でも特に、ギリシャ・ローマ神話やギリシャの格言や常套句が出てきます。しかし、あまりそのことに目を向けられていません。こういうヘレニズムのバックボーンを知っておくと、なかなか面白いと思います。


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マイナーなこと
2013/2/8(金) 午前 11:40
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11123635.html

 聖書を読んでいますと、あまり目の留まらない記述というものがあります。何かの拍子に気になってしまったりするものです。そんな一つにルカ福音書の13章1節から9節にいたるお話がありますが、その中でも冒頭の5節まではあまり気に留められることがないように思えます。

イエス

1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3 決してそうではない。言っておくがあなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

シロアムの塔の倒壊 1

シロアムの塔の倒壊 2

 この二つの事件について脚注付き聖書を見てますと、フランシスコ会訳の脚注でははじめの事件にのみ言及があり、『この1節の事件の原因は、ローマの支配に対するユダヤ人の反逆行為であった。この事件がエルサレムで起こったことは、いけにえを捧げる場所はエルサレム神殿だけであり、過越の祭りのときには一般人もそこに入ることができたので、神殿でこの事件が起こったことがわかる。』と説明しています。また、岩波訳では最初の事件については『総督ピラトゥスの、この箇所にしか証言されていない殺戮行為か。エルサレム神殿に祭儀のために来たガリラヤ人が、惨殺されたらしい。』と説明し、第二の事件については『史実にさかのぼろうが、仔細は不明。』としています。新改訳第二版のチェーン式では『このガリラヤ人たちは、エルサレム巡礼の祭りに乗じて不穏な挙に出て、総督ピラトに虐殺されたのであろう。』と説明、またシロアムの塔の方は『恐らくエルサレムの南城壁に近いシロアムの池の辺りにあったのだろう。この塔が倒れたのは、何かの工事中の偶発的事故と思われる。』としています。

 ちょっと面白いのは、新共同訳の引照です。1節の『ガリラヤ人』のところの引照が『使五・三七』となっていて、『ガリラヤのユダ』と関連付けている点です。ガリラヤのユダについては、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』と『ユダヤ戦記』を見ますと、カイサル・アウグストの命により『民族の統治者・財産査定官として派遣されたローマの元老院議員キュリニオスがシリアに着任』し、『ユダヤ人の財産を査定してアルケラオスの資産を処分するために、シリアに合併されたユダヤの土地にやってきた。』、それに対してユダヤ人たちは『財産の登録ということを聞かされると、何しろそういうことははじめてなので、人びとの受けた衝撃は大きく、中にはいきり立って立ち騒ぐ者も現れ』ました。その中に『ガマラという名の町から来たガウラニティス人ユダスなる男が、パリサイ人のサドコスをひきずり込んで反抗運動に乗り出した。』とその活動の原因を語っています。

 また、このガリラヤのユダはユダヤ人の社会においてサドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派に続く第四の派閥を形成していたようです。ヨセフスはこうも伝えています。『ユダヤ人社会には、古代から、先祖たちの教えにもとづく三つの哲学があった。すなわち、エッセネ人の哲学、サドカイ人の哲学、そして第三に、パリサイ人と呼ばれた連中が信奉していた哲学である。…哲学の第四の派は、ガリラヤ人ユダスが指導者となってつくりあげた。この連中の主張は、ほとんどの点でパリサイ人の見解と一致するが、異なる一点は、神こそが彼らの唯一の支配者、主であると確信するため、自由ということに対して不屈の情熱を持っていることである。彼らは、異常な形で死ぬことを少しも意には介さなかったし、また何ぴとといえども、その人物を主と呼ぶべきではないという大義名分によって、ローマ皇帝を主と呼ぶ近親者や友人たちを襲って復讐することを平然と認めたのである。』

 かなり強硬で狂信的な一団であることがわかります。為政者としてピラトゥスが、何かをなそうとして祭りに乗じて集まって来た彼らに対して、何らかの弾圧行為に出たとしても不思議ではないでしょう。

 そんなことがこの新共同訳の引照から想像され、当時のパレスチナの不穏な状況の一端も見えてきて楽しいといえます。

モルモンに対して

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権威を求めることから
2014/11/4(火) 午前 11:14にYahoo!ブログにアップ記事


 モルモン教を見て行くとエホバの証人と同じ、既存の正統的キリスト教に対する見方があります。

 ものみの塔協会の「神を探求する人類の歩み」(pp.257-260)という書籍にはこうあります。

“ 10章 キリスト教―イエスは神に通ずる道でしたか
背教と迫害は予期されていた
36 イエスの死と復活の後,間もなく,それら初期クリスチャンの宣べ伝える業に力とはずみを加えるものとなった,もう一つの奇跡が起きました。西暦33年のペンテコステの日に,神はエルサレムで集まっていたおよそ120人のクリスチャンにご自分の聖霊,つまり活動する力を天から注がれました。その結果ですか。「そして,さながら火のような舌が彼らに見えるようになってあちらこちらに配られ,彼ら各々の上に一つずつとどまり,彼らはみな聖霊に満たされ,霊が語らせるままに異なった国語で話し始めた」のです。(使徒 2:3,4)その時,エルサレムにいた,外国語を話すユダヤ人は,それら無知な人々とされていたガリラヤのユダヤ人が外国の言葉で話すのを聞いて驚嘆しました。その結果,多くの人々が信じました。それらユダヤ人の新たな信者が故郷に戻るにつれて,キリスト教の音信は野火のように広まりました。―使徒 2:5‐21。
37 しかし,ほどなく不穏な形勢が現われました。ローマ人は一見無神論のように思える,偶像のない,この新たな宗教を恐れるようになりました。皇帝ネロを皮切りに,歴代の皇帝は西暦初頭の3世紀の間,クリスチャンに恐ろしい迫害を加えました。 囚人が野獣に投げ与えられるのを見ようと群がる,血に飢えた暴徒や皇帝の欲望を満足させるため,多くのクリスチャンは大円形演技場で死ぬ定めに追いやられました。
38 初期の当時のもう一つの憂慮すべき要素は,使徒たちが預言していた事柄でした。例えば,ペテロはこう述べました。「しかしながら,民の間には偽預言者も現われました。あなた方の間に偽教師が現われるのもそれと同じです。実にこれらの人々は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった所有者のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらすのです」。(ペテロ第二 2:1‐3)背教です! それは真の崇拝からの離脱,つまりギリシャの哲学や思想の浸透した当時のローマ世界の宗教的な傾向と妥協することでした。それはどのようにして生じましたか。この疑問やこれに関連した種々の疑問に対する答えは次の章で考慮されます。―使徒 20:30。テモテ第二 2:16‐18。テサロニケ第二 2:3。”

 そして、モルモン教と呼ばれる末日聖徒イエス・キリスト教会では、「イエス・キリストの福音の回復」 のpp.8-9において

“大背教

イエス・キリストの死後,多くの教会員が邪悪な人々に迫害され,殺されました。また,イエス・キリストや使徒が
教えた原則から徐々に離れていく教会員もいました。使徒は殺され,神権の権能と,教会を導いたり教会のために啓示を受けたりする鍵は,地上から取り去られました。教会が神権の権能によって導かれなくなってしまったため,教会の中に間違った教えが入り込んできました。もちろん良い人もいましたし,多くの真理も残っていました。しかし,イエス・キリストが教えられたままの福音はなくなってしまいました。この時代のことを「大背教の時代」と呼んでいます。

マルチン・ルターやジョン・カルビンといった人たちは,霊感を受け,習わしや教義が変えられたり,なくなったりし
ていることを認識していました。こうした人たちは自分の所属する教会を改革しようと努力しました。しかし,神権の権能がなかったので,キリストの福音を元の形に戻すことはできませんでした。回復が必要だったのです。” 

 と述べて、これも使徒がいなくなった後のキリスト教会が背教して行ったとすると共に、神の権能と預言者を失ったという考えを示しています。

 その背教により失われたものをジョセフ・スミスJrによって回復されたとするのが、モルモンの特徴でもあります。同書の続きにはこうあります(p12)。

“神権の回復

1829年にジョセフ・スミスは,イエス・キリストが使徒にお授けになったのと同じ神権の権能を授かりました。新約聖書に登場するバプテスマのヨハネがジョセフ・スミスを訪れ,アロン神権(小神権)を授けました。このバプテスマのヨハネは,イエス・キリストにバプテスマを施した人です。
それからペテロ,ヤコブ,ヨハネの3人がジョセフ・スミスを訪れ,メルキゼデク神権(大神権)を授けました。このペテロ,ヤコブ,ヨハネは,イエス・キリストが最初に使徒にお選びになった中の3人です。

ジョセフ・スミスは神権の権能を授けられて,地上に再びイエス・キリストの教会を設立するように指示を受けま
す。イエス・キリストはこのジョセフ・スミスを通じて,再び十二使徒を召されました。

復活した後,イエス・キリストは啓示によって使徒たちを導かれました。ちょうどそれと同じように,今でもイエス・キリストは,生ける預言者と使徒を通じて教会を導いておられます。末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長は,神が今日選ばれた預言者です。大管長,副管長,十二使徒は,あらゆる時代の預言者や使徒が持っていたのと同じ神権の権能を持っています。この人たちは預言者,聖見者,啓示者と呼ばれています。”

 モルモンの「主の導き 1」というビデオに「大いなる富」という話が収録されていますが、その中でパーリー・パーカー・プラットの入信に至る物語が出ていますが、彼はオハイオ州クリーブランドに土地を購入してそこに定住していました。やがてバプテスト派のキャンベル派(ディサンプル・オブ・クライスト派)に加入しました。プラットは加入後自分も説教者になりたいと思い立ち、苦労して開墾し豊かになった果樹園と農園、そして自宅を含む土地財産すべてを売り払うことを決心します。そして訪ねてきた兄とこのような会話をしていました。

兄:たいしたもんだ。前に来たときは荒地だった。見事だ!!
パ:手放すのは辛いよ。
兄:手放す?
パ:ここ数ヶ月―みたまが強くささやく、聖書の予言が成就するきざしかもしれない。
時間を捧げて皆に宣べ伝え、主の来臨に備えさせたい。
兄:牧師になって?
パ:ちがうよ。世の牧師にはそんな権能はない。神聖な力は地上に残ってないと思う。神から与えられずにその権能はもてない。
兄:もし僕に、50エーカーの土地といい家、果樹園、美しい庭があれば、残って楽しむがね。
パ:主の為に家や土地を捨てる者はその百倍を受け、永遠に至る主の言葉だよ。
兄:聖書は信じてるさ。文学と違う。
パ:全てを捨てて主の業に働くよう召されてる気がする。主の約束を信じたい。
兄:見込みちがいだったら?
パ:僕が無事だったら本当だってことさ。
兄:頑張れよ。

 このモルモンの宣伝で使われるビデオのやり取りの中で見えてくるのが、19世紀アメリカのキリスト教事情でしょう。非国教会であるピューリタンたち、その教会政治から会衆派とか組合派などとも呼ばれたりしていますが、長老派(英国のカルヴァン主義)、バプテスト派などがその代表的な教派です。また国教会から分離したウェスレアン・アルミニウス主義であるメソジスト派やその亜流などがピューリタンと共に大きな勢力としてあります。

 これらの教派は悪い言葉で言えば、リベラルかファンダメンタリストかの両極端。教会としての固定信条や神学がなく(あってもとても緩やかな拘束力)個人の解釈が尊重される。教会政治においても衆愚政治的で決められない体質。もちろん伝統や権威・権能というものは教会には存在しない(あったとしてもとても小さく弱い)会衆制から来る平等主義と個人主義。こういったものがモルモンの「神権の回復」というものを求める土壌と権威的な宗教創世の要因となったのでしょう。ものみの塔の「神権政治」といわれる中央集権的統治のあり方もそのラインから生れたのかもしれません。

 もしこれらの異端の教祖たちの暮らした地域などで、カトリックや聖公会(ハイ・チャーチ系)、ルーテル派や大陸のカルヴァン主義の改革派などが優勢な地域であったのなら、このような形では生れづらかったかもしれません。しかし、ものみの塔がカルヴァン主義(長老派)の二重予定説や審判の強調への反発から生れた面もありますし、権威主義があればそれへの反発という形のものが生み出されたかもしれません。あとプラットの改宗譚から主の来臨の近さという考えとカルヴァン主義により否定された奇蹟や預言への希求というものもあるのでしょう。

 異端やカルトを生み出すのは教会という大地であり、眼の届かないことや、また言葉にならない人々の声が、扇動者(悪意ある者もあれば善意によるものもある)によって煽られて火は大きく育って、やがて力となり権威となって行き、さらに周りを惹きつけて行くのでしょう。


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偽りの書 ⑤
2012/7/6(金) 午前 0:27にYahoo!ブログにアップ記事

 モルモン教やモルモン教の聖典などを見て行くと、カリスマ宗教の危険性が見えてきます。これらの人々にとって、歴史的実証性も、学問的アプローチというものも何もないということです。真実であるかどうかはカリスマによって解るとする、究極的な無知性主義といえるのかもしれません。

 ジョセフ・スミス・ジュニアという詐欺師を預言者と信じた人たちにとって、事実や実証などというものは何の意味もないのでしょう。

 彼らの聖典に対する態度は、原文に何が書かれていても、そういったことには何も意味はなく、聖霊の導きによって訳されたということが重要であるということです。極端な話、梵語で書かれたお経を英語に霊感をもって預言者と称する者が訳した時、それが原文と全く違った内容であっても何も問題はなく、神が預言者を通して与えた訳文こそが真実であり、事実と言い張っているようなものです。

アブラハムの書 挿絵一の原図と学術的復元図

 エジプトの葬祭文書である「死者の書」は、まったく内容の違う「アブラハムの書」となり、モルモン書の最後に付された(英文初版)「三人の証人の証し」、「八人の証人の証し」のモルモン書の書かれていたとする金版を見たとする証人の多く、スミス一家と一部の人を除いてほとんどがモルモン教会を去っても、考古学上の発見など無くても、モルモン書の内容が歴史的にどれだけ矛盾していても、このカリスマ宗教にとっては意味のないことなのでしょう。

**「偽りの書 ⑤」へのコメントとレス**

コメント(13)

アタナシウスさんは、モルモンにいたことがあったんでしたっけ・・・・?
前に書いていたような記憶があるのですが、記憶違いでしたら、すいません。
[ Kazuya ] 2012/7/6(金) 午後 6:55 返信する

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>Kazuyaさん

はい、かなり昔ですけれど、いたことがありました。
2012/7/6(金) 午後 7:53 返信する

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僕は84年の7月から86年の4月まで、英会話目的ではありましたが、藻岩ワードに通ってましたね。
日曜日は5回ぐらいしか行きませんでしたが・・・・。
あの頃は「モルモン書」ではなく、「モルモン経」で、文語なので全く分かりませんでしたね。(笑)
[ Kazuya ] 2012/7/7(土) 午前 9:07 返信する

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>Kazuyaさん

そうですね。昔の佐藤龍猪訳の「モルモン經」は文語調でとても読み辛いものでしたね。笑

モルモンになる前に、当時、大通りにあったモルモンのインスティチュートで行われていた英会話に通ったこともありましたが、ちゃんとした英会話教室とは違いあまり役立ちはしませんでしたね。笑
2012/7/7(土) 午前 9:13 返信する

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モルモン経の話が創作だとすると、その話を創作した方がジョセフ・スミスとなりますよね。
その話を創作するためには、全ての神学を極める程学び、更にたぐい稀なる想像力を持ち合わせないと書けないのではありませんか???
果たして、彼はいつ学んだと言うのでしょうか。
モーセが記した律法の書も参考文献ではなく、記すための経緯、物語から書き進めています。モルモン経も同じですよね。このようなものはおかしいと言うのならば、《旧約聖書も偽書》となりますよ。・・・・旧約聖書が偽ならば、それを成就したイエス・キリストも偽となりますよね。すると、あなた方の存在そのものが偽となってきますよ。
どうして、モーセの書とモルモン経、なぜ片方が正しくてもう片方が間違いなのでしょうか。誰が、どういう経緯で、真偽を判定する権威を受けたのでしょうか。
所詮、天から受けなければ誰もこのようなものを書くことは出来ないのです。
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 0:34 返信する

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確かに、彼が翻訳したと言う原書はないでしょう。しかし、彼自身がこの壮大な物語を作り出す様な力を持っていなかったことも事実なのです。十戒の原版がないから、モーセの話は嘘、律法は彼の創作に過ぎないと言っているのと同じです。
聖書を学んだ人は星の数ほどいます。でも、みな聖書の中を迷っている。聖書から抜け出して別の書を書ける文学者は誰もいません。このような力、そのものが人知の及ばないものといえるのではありませんか。
つまり、あなたがおっしゃる理由では、モルモン経を偽書とすることは出来ません。
では、書かれている内容が聖書の主題と違反するのか・・・と言う話となりますが、完全な違反と言えるような箇所は見当たりません。ところどころ、そのような箇所もあるようですが、聖書側が間違っているのか、モルモン側が間違っているのか・・・・・
さて、こうなると、実際にキリスト教徒とモルモン教徒の行動で比較していく以外にはありません。
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 0:35 返信する

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キリスト教プロテスタントは、アメリカ大陸で原住民の九割近くを虐殺して、彼らの全てを略奪しましたよね。
この9割と言う数字はアウシュビッツに収容されたユダヤ人並みの虐殺率なのです。
では、モルモン教徒は、このような大虐殺事件を起こしているでしょうか。
起こしてはいませんよね。
どうして、このような事件を連続して起こしてきた宗教が、何も起こしていない別のものを危険思想と呼ぶことが出来るのでしょうか。
別のものを批判するならば、自分自身の内にあるその批判されるものと同質のものを自分自身で悔い改めるのが先であり、それを放置したならば、相手の状態が悪くなるのが見えたときに、その予測と道理を語り伝えるべきではないでしょうか。
例えばエホバの証人と言う宗教は、そこに属する人々が極度の精神疾患に陥るようになります。これがわかるから、間違いと語るのです。
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 0:36 返信する

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たとえば、一般的なプロテスタントは、自分を善とするために悪なる存在を求めます。自らをその悪との対比で善とするのです。その悪としたものには、情け容赦なく虐殺略奪をも繰り返すのです。・・・・では、彼らだけとなったのならば・・・・彼ら自身がいくつもの派に分かれて、相手に対する攻撃を繰り返すようになるのです。
あなたが、他の教えを批判するのも、その批判する相手との比較により自分を善としたいと言う心理が働いているのです。
この心理には、相手に対する思いやりも愛もない。
《汝の敵を愛せよ》
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 0:36 返信する

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>万軍の主ヤハウェ(ペテロ)さん

ジョセフはイーサン・スミス牧師の書いた「View of the Hebrews」(1825年)を元に書いたと言われていますね。それを種本にして想像力は使ったかもしれませんね。

モーセはモーセ五書を翻訳したとはしていませんね。旧約聖書のそれぞれの筆者達も、ジョセフ・スミスのようなことを言っている人はだれもいません。

まず本文の正しさや霊感の書の正典性は、人の行動によって判断する類のものではありませんね。

一般的なプロテスタント、プロテスタントはカトリックに対比して言われるもので、一つの組織でも、一つの教義でもありませんね。また、過去から現在、今もクリスチャンと呼ばれる人による犯罪行為は続いていますが、それが聖書やイエスの教えの正しさと関連付けようと言うのは全くの筋違いですね。

モルモンのジョセフスミスが殺される前に、銃で反撃して人を殺していることや、1857年のマウンテン・メドウの大虐殺事件や一夫多妻の禁止に反対して、合衆国政府と戦争まで起こしたことなど、人間のやることには負の歴史は付きまとうものです。
2013/4/7(日) 午後 1:06 返信する

*

人によって、判断すべきものではないものを、どうして偽りの書と決め付けていらっしゃるのか・・・・が一番の問題だと思います。
モルモン経の通りに、
インディアンの先祖の許にイエス・キリストが来て教えを広めたのならば、彼らは本来、キリスト教徒となります。
異教徒として大虐殺を行った相手が、実はクリスチャンだった・・・・では、自分たちの虐殺・略奪の行動の正当性がなくなってしまいます。だから、間違いとする以外にはない・・・のが、本音ですよね。
確かに、彼らにも多少の負の部分があるでしょう。でも、モーセも人殺しをしている。彼が人殺しをしたから信じるべきではないと言うのならば、聖書は信じるべきではないといっているのと同じとなります。どうして、あなた方は自分たちに敵対する者の負の行動をこと細かに責めるのですか。これは、あなたの心にどういう心理が働いているからなのでしょうか。
彼らに、あなた方が行ってきた様な大虐殺を行う恐れがあるのでしょうか。それとも、彼ら自身が精神を病み、殺し合いをし始めるでしょうか。
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 3:18 返信する

*

違いますよね。彼らの言い分が正しいならば、あなた方が反省をしなくてはならなくなるだけです。
誤った行動を犯した人々に反省するようにと、預言者は遣わされているのではありませんか。これは、過去の話と同じです。
善悪二元論で考えるのは、
プロテスタントもカトリックも同じです。自分を善側に置こうとして、悪なるものを他に求める。悪なるものが存在するから、かろうじて自分を善だとできる。そのために理屈をこね、相手の僅かな悪を、いかにも大悪のように宣伝する。
・・・・そして、気が付けば、悪としか言いようがない行動に落ち込んで行くのです。
カトリックもプロテスタントも、この循環の中にあって、そこから出たくても出ることができない。
なぜ・・・・自分たちが絶対に正しいと思うから・・・
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 3:19 返信する

*

真の正しさとは、
《自分が間違えたら反省する》《自分が犯した罪の罰を自分で受ける》のが正しいのであり、《反省せよ》と遣わされた者を、《悪として排除する》姿勢には、正しさはありません。
あなた自身、どうして、いろいろな宗教を批判しているのかがお分かりになっていない。
《批判することにより、相手を少しでも良くしよう》
と思っているのならば、これは愛。
でも、《自分を正しい》とするために、相手を悪とするならば、これは醜悪。
行動は同じであっても、あなたの心のあり方によって、正邪は分かれるのです。
見た目は、両者とも同じ。でも、そこには天地の隔たりがある。
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 3:20 返信する

*

>万軍の主ヤハウェ(ペトロ)さん

モルモンの教えやモルモン教会の教えは、そのかなめ石とする「モルモン書」にかかっています。モルモン教会の独自の教えの部分は、モルモン教会が聖典と称する文書や過去の預言者と称する指導者の発言に拠っています。それと聖書の中に示された神、救い、そのほか諸々のものには、共通するものは見出せません。

では聖書に矛盾するものを、神の啓示と称して教える者は偽りの預言者にほかなりません。そしてその聖書とは離れた文書や発言は、偽りの啓示です。また、アブラハムの書のようにまるきっりのでっちあげなど、独自の教えを構成するモルモンの「聖典」は偽りの書でなくてなんでしょうか。偽りを教えたジョセフ・スミスの生涯も、偽預言者らしいものだったと言うだけです。
2013/4/7(日) 午後 3:34


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なぜ書くのか
2013/4/10(水) 午後 3:19にYahoo!ブログにアップ記事

 つい先だって、モルモンの聖典や預言者と自称したジョセフ・スミス・ジュニアとその後継自称預言者についての記事に、まとまりの無いコメントがありました。以下に引用し、行間にそれらに対しての所感などを書きたいと思います。

“ モルモン経の話が創作だとすると、その話を創作した方がジョセフ・スミスとなりますよね。
 その話を創作するためには、全ての神学を極める程学び、更にたぐい稀なる想像力を持ち合わせないと書けないのではありませんか???
 果たして、彼はいつ学んだと言うのでしょうか。
 モーセが記した律法の書も参考文献ではなく、記すための経緯、物語から書き進めています。モルモン経も同じですよね。このようなものはおかしいと言うのならば、《旧約聖書も偽書》となりますよ。・・・・旧約聖書が偽ならば、それを成就したイエス・キリストも偽となりますよね。すると、あなた方の存在そのものが偽となってきますよ。
 どうして、モーセの書とモルモン経、なぜ片方が正しくてもう片方が間違いなのでしょうか。誰が、どういう経緯で、真偽を判定する権威を受けたのでしょうか。
 所詮、天から受けなければ誰もこのようなものを書くことは出来ないのです。
 確かに、彼が翻訳したと言う原書はないでしょう。しかし、彼自身がこの壮大な物語を作り出す様な力を持っていなかったことも事実なのです。十戒の原版がないから、モーセの話は嘘、律法は彼の創作に過ぎないと言っているのと同じです。 ”

 まず、ジョセフ・スミスが「モルモン書」を創作する為には、“神学を究めるほど学び”そして“たぐい稀なる想像力を持ち合わせていないと書けない”としていますが、「モルモン書」がジョセフ・スミスの近くに住んでいた牧師イーサン・スミスの1825年の著書、「VIEW OF THE HEBREWS」を種本の一つとして書かれたと言われています。「モルモン書」の原本に当たる金版を見たと証言をし、翻訳作業にも関わったとされているオリバー・カウドリが、「モルモン書」の翻訳していたとされる時期にイーサン・スミス牧師の教会に出席していたといわれています。また、モルモン書の中にキリスト教の神学的なものは何も書かれていません。ジョセフ・スミスはオカルトを用いた詐欺行為を繰り返していたことから、口がうまく、想像力があり、機知に富んでいたのでしょう。この世には聖書以外にも、多くの神からの啓示と称するものがありますが、それらが人知を超えた創作であるとはいえません。幕末から明治の初めにかけて、日本でも僻地の無学な農民が、神の啓示や顕現を受けたとされ、それぞれに宗教を興していますが、それらが正しいとはキリスト教とは普通考えません。それと同じく「モルモン書」についても同じです。

VIEW OF THE HEBREWS 記名


“ 聖書を学んだ人は星の数ほどいます。でも、みな聖書の中を迷っている。聖書から抜け出して別の書を書ける文学者は誰もいません。このような力、そのものが人知の及ばないものといえるのではありませんか。
 つまり、あなたがおっしゃる理由では、モルモン経を偽書とすることは出来ません。
 では、書かれている内容が聖書の主題と違反するのか・・・と言う話となりますが、完全な違反と言えるような箇所は見当たりません。ところどころ、そのような箇所もあるようですが、聖書側が間違っているのか、モルモン側が間違っているのか・・・・・ ”

 これも理論としておかしなもので、まずキリスト教徒が「モルモン書」を受け入れないのは、私たちが使徒たちより伝えられてきた教えと神の言葉と信じ受け入れている聖書の教えと一致しないからです。
 また、“聖書から抜け出して別の書を書ける文学者はいません”と言っていますが、使徒伝来の教えと聖書から逸脱したものを、キリスト教の過去から現在に至る多くの異端は生み出し書いてきています。偽福音書、偽行伝、偽書簡、偽黙示録、偽メシア・偽預言者たちの啓示の言葉をまとめたものなど、実に多様です。
 “完全な違反と言えるような箇所は見当たりません”といっていますが、モルモンの独自の教えの部分は、モルモンの標準聖典やモルモンが預言者と信じているジョセフ・スミスとその後継者(モルモン教の大管長たち)の言動に基づいていて、それら無しには根拠を失ってしまうものに過ぎません。
 

“ さて、こうなると、実際にキリスト教徒とモルモン教徒の行動で比較していく以外にはありません。
 キリスト教プロテスタントは、アメリカ大陸で原住民の九割近くを虐殺して、彼らの全てを略奪しましたよね。
 この9割と言う数字はアウシュビッツに収容されたユダヤ人並みの虐殺率なのです。
 では、モルモン教徒は、このような大虐殺事件を起こしているでしょうか。
 起こしてはいませんよね。
 どうして、このような事件を連続して起こしてきた宗教が、何も起こしていない別のものを危険思想と呼ぶことが出来るのでしょうか。
 別のものを批判するならば、自分自身の内にあるその批判されるものと同質のものを自分自身で悔い改めるのが先であり、それを放置したならば、相手の状態が悪くなるのが見えたときに、その予測と道理を語り伝えるべきではないでしょうか。 ”

 なぜ、“さてこうなると”なのかわかりませんが、信者の行動で比較しなければならないのかもよくわかりません。モルモンによる虐殺事件や反対派への襲撃事件は、モルモン教の初期にはよく見られました。それはモルモン教が語らないだけで、調べればすぐに出てくる程度のものです。現代も米国では多くの問題や事件を起こしていますが、その一部は日本でも一般書などでも出ています。ネットなどではもっと出てくることでしょう。


“ 例えばエホバの証人と言う宗教は、そこに属する人々が極度の精神疾患に陥るようになります。これがわかるから、間違いと語るのです。 ”


 これも全く的外れな考えといえるでしょう。精神疾患に陥るから間違いだとキリスト教はしているわけではありません。


“ たとえば、一般的なプロテスタントは、自分を善とするために悪なる存在を求めます。自らをその悪との対比で善とするのです。その悪としたものには、情け容赦なく虐殺略奪をも繰り返すのです。・・・・では、彼らだけとなったのならば・・・・彼ら自身がいくつもの派に分かれて、相手に対する攻撃を繰り返すようになるのです。
あなたが、他の教えを批判するのも、その批判する相手との比較により自分を善としたいと言う心理が働いているのです。
 この心理には、相手に対する思いやりも愛もない。
 《汝の敵を愛せよ》 ”

“ 善悪二元論で考えるのは、
 プロテスタントもカトリックも同じです。自分を善側に置こうとして、悪なるものを他に求める。悪なるものが存在するから、かろうじて自分を善だとできる。そのために理屈をこね、相手の僅かな悪を、いかにも大悪のように宣伝する。”

“ あなた自身、どうして、いろいろな宗教を批判しているのかがお分かりになっていない。
 《批判することにより、相手を少しでも良くしよう》
 と思っているのならば、これは愛。
 でも、《自分を正しい》とするために、相手を悪とするならば、これは醜悪。
 行動は同じであっても、あなたの心のあり方によって、正邪は分かれるのです。
 見た目は、両者とも同じ。でも、そこには天地の隔たりがある。”

 パウロが偽りの福音を伝える者たちに取った態度について、ウェストミンスター神学校で新約学の教授であったJ・G・メイチェンの著書、『リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か』(聖書図書刊行会発行、いのちのことば社発売)の中から引用したいと思います。

メイチェン 「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」 記名

“…パウロは教理に無関心ではなかった。かえって、教理は彼の生活の土台そのものであった。教理への彼の傾倒が偉大なる寛容を不可能にした、ということはなかった。そのような寛容さの一つの例は、ピリピ人への手紙に記されているように、彼のローマ監禁中に見出される。ローマのあるキリスト教の教師たちは、明らかに、パウロの偉大さを嫉妬していた。パウロが自由の身である限り、彼らは第二次的地位に甘んじならなかった。けれども、パウロが入獄している今は、彼らは最高の地位を獲得していた。彼らは捕われているパウロの苦悩を増すように努めた。そこで、嫉妬と争いのために彼らはキリストを宣べ伝えた。つまり、パウロのライバルの説教者は、福音の説教を低級な個人的野心を満足させる手段にしたのである。それはおよそ考えられる限りの卑しい商売のことのように思われる。しかし、パウロは煩わされなかった。彼は、「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます」(ピリピ一・一八)と言ったのである。説教の姿勢は間違っていたけれども、メッセージ自体は正しかった。そしてパウロは、メッセージを伝える態度よりは、メッセージの内容にはるかに大きな関心を示したのである。これよりも寛容な広い心を考えることは不可能である。
 しかし、パウロの寛容は無差別ではなかった。たとえば、彼は、ガラテヤでは何の寛容も示さなかった。そこにも、彼に敵対する説教者がいた。しかし、パウロは彼らに対して寛容ではなかった。彼は、「しかし、私たちであろうと、天の使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」(ガラテヤ一・八)と言った。この二つの場合における使徒の態度の相違の理由は何か。ローマにおける広い寛容と、ガラテヤにおける激しい呪いの理由は何か。答えは全く明白である。ローマにおいて、パウロが寛容であったのは、相手の教師によって宣べ伝えられているメッセージの内容が真理であったからである。ガラテヤにおいて彼が不寛容であったのは、相手のメッセージの内容が偽りであったからである。相手の人格性はパウロの態度と関係がない。”(p35-36)

 そもそも善と悪に分け、自分を善にして相手を非難することは全くの意味の無いことであります。問題はその教えがキリストの福音を覆そうとする「ほかの福音」だからにほかなりません。

 また、“あなた自身、どうして、いろいろな宗教を批判しているのかがお分かりになっていない。”と言われていますが、私のブログにてキリスト教を自称する異端や破壊的カルトに分類される団体、キリスト教会の中で問題となっているカルト化している団体の主張については、繰り返し批評なり、批判なりをしていますが、他の宗教についてはそのようなことはありません。

 “《批判することにより、相手を少しでも良くしよう》と思っているのならば、これは愛。でも、《自分を正しい》とするために、相手を悪とするならば、これは醜悪。”

 モルモンを良くしようなどと思っているわけではなく、また自分を正義の使者としたいわけでもない。しかし、その誤った「ほかの福音」(ガラテヤ1:7-9)、「滅びをもたらす異端」(ペトロ二2:1)に、よく知らない人たちが行ってしまわないように警鐘を鳴らし、また、その中にいる人たちには、何か心や記憶に残って、その道から一人でもキリストの下に来ることのきっかけにでもなってくれればと願い、キリストにある兄弟姉妹たちには情報の一部でも役に立てばと祈りつつ書いています。クリスチャンの中でもキリスト教の枠を出てしまったリベラリストには、このコメントを書いた人のような意見もありました。とくにそれらについては、どうということもありません。

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Joseph Smith, Jr., as a translator : reprint of an inquiry conducted  pp.23-31

神の名による献金の徴収をやめればよい

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神の名による献金の徴収をやめればよい
2013/2/5(火) 午後 10:45
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11111298.html

 つらつらとキリスト教におけるカルト問題を見て行きますと、お金のトラブル、献金トラブルが大きいといえるでしょう。キリスト教の三大異端と呼ばれ、また、破壊的カルト宗教団体でもある「ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)」とその分派、「末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)」とその分派、世界基督教統一心霊協会(原理運動、統一教会など)と関連団体や関連企業などの有名所だけではなく、一般には普通のキリスト教と思われていた教会でも、基本的教義は大きく逸脱してはいないものの、活動や組織運営などは、まったく破壊的カルト宗教と内実が同じで多くの問題を引き起こしている団体などには、このお金の問題というものはよくついて周り、情報の氾濫する今日において、残念なことに一般にも見聞きする機会が増えてきました。

建物 1

 聖書などを見て行きますと、現代の教会と原始キリスト教の教会共同体は、組織体としてのあり方、奉仕職のあり方など、まったく別物であります。また、現代の教会で行われている献金を支持する箇所は、ほとんどないといえます。福音宣教者の権利を述べた第一コリント9章も、当時の時代背景や教会の状況から現代の一定の地域や場所に定着した教会の奉仕職を支えるものや活動費ではなく、使徒と同じような働きをする開拓伝道者や巡回伝道者、巡回監督者のような人たちが念頭に置かれています。

建物 2

 当初はエルサレムにある誰かの家に集まっていたのでしょう。それはマタイ26:18に指摘されている人物の家、すなわちイエスが弟子たちを過ぎ越しの食事を取るために準備のために、その人物のところに使わしたあの家なのかもしれません。イエスは『「都のあの人(δεινα〔名前はわかっているがあげないときに使う語〕)のところに行って」…』と言った様に、イエスがよく知っているある人物の家を、過ぎ越しの後、イエスの十字架以後も使っていたのであるかもしれません(共同訳や新共同訳はフランシスコ会訳と同じ訳文になっていて、カトリック側の委員の訳文なのかもしれない。口語訳の訳文も悪くはないが、少し判り辛いかもしれない。新改訳はよくない。)。建物はこの当時の民家によく見られた一階が家畜などもいる形になっていて、広間が二階にある家でありました(この人の家についてはマルコ14:15で、イエスとその弟子は二階の広間で過ぎ越しの食事を取ったとされています。)、それとも別な人物の家であったのかは判りませんが、使徒の欠員の補充を決めた時も同じような二階の広間のある前から泊まっていた家(使徒1:13a)でありました。そこは15節で120人もの人たちがいることのできる家だったことが判り、おそらくペンテコステもここで向かえたのかもしれません。

建物 3

 当時は、このような家の教会でありましたし、地方などにあった群れなどは、村のような共同体もあったかもしれません。また、ユダヤ人の迫害によって散らされるまでは、財産も共有し、信徒たちもその中から食事の分配を受けていましたから、現在とは違います。また、迫害によって主の兄弟ヤコブと使徒たちのほかは散らされ、各地に教会は作られることとなりました。そんな中で、今日のような職業化された奉仕職ではなかったことでしょう。各教会の長老は村長(むらおさ)の形に近かったかもしれません。福音の宣教者は、それら共同体離れていかなければなりませんから、誰も信者のいない場所に行かなければならない場合もあり、旅費や宿泊費などの必要なものは教会共同体からの援助によらなければ厳しかったことでしょう。パウロがコリントで活動した時は、同じ職業のアキラとプリスキラの夫婦の家に長期間滞在することができ、仕事も共にできた(使徒18:2-3,コリント第二12:13-)ので、教会の負担とならなかったのですが、すべての場合ではありません。

パウロ、アキラとプリスキラの夫婦の家に長期間滞在(使徒18:2-3、二コリ12:13)

 あと、パウロがパレスチナを襲った飢饉のために、困窮するエルサレム教会の共同体を助けるための救援金や救援の品を、他の教会共同体から集める記述やそれを訴える記述が多くありますが、それを献金と混同させて、今日の教会制度の献金に当てはめようとするために、聖書根拠がまったくないものをあるかのようにしています。もちろん根拠がないために律法の十分の一の奉げ物や献納物規定まで持ち出しています。

 十二使徒の教訓(ディダケー)11:6,11:12,12:4-5,13:1-では、使徒や巡回預言者が受ける援助について、旅に必要な分以上に受けようとしたりする者をキリストで商売をする者、偽預言者であると警告しています。また、十二使徒の教訓4:8、バルナバの手紙3章、エウセビオスの「教会史」第Ⅳ巻23:10などでは、新約聖書に見られるパウロの集めた義捐金と同じように、貧しい兄弟姉妹たちの難儀などへの援助についての記述はありますが、今日のような教会の活動や人件費のための献金の記述は見当たりませんでした。

 今日の教会は、いっそのこと献金について聖書根拠がないのに聖書を用いて神の名による集金をやめ、はっきりと教会のいろいろな働きの為の活動費、また活動の拠点となる不動産の維持費、事務通信費、職業化した奉仕職の人件費、その他の費用の為のお金として明朗会計で示して行けば良いと思います。

諸問題

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諸問題がなぜ起きるの
2012/5/19(土) 午前 4:13
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/9427072.html

 多くのカルト化教会の被害の声を、現代はネットなどで聞くことのできる時代となりました。それが本当の被害者のものなのか、自称被害者のものなのか、その人が出て行かざるを得ないようにされたのは本人に問題があり、それで交わりを絶たれてしまったのにそれを恨んでの誹謗・中傷なのか、また、それら発信された情報が、果たして正しい情報なのか、誤情報なのかは精査しなければならないでしょうが、いままでただ黙って去って行かざるを得なかった人たちが、その時の体験などを情報として挙げれるようになったことは、新たな被害拡大を防ぐ上では一定の役割は果たしているのでしょう。

 このような諸問題は、近年のファンダメンタルな米国福音派型の教会の一部やペンテコスタルな教会、単立のこれらの類型の教会、現世利益型のカーゴ・カルト的な教会、悪霊の働きを過度に強調し悪霊払いを行っている教会などを中心に見られます。

 それらの教会では、牧師や宣教師、または牧師家族などが教会の中において、絶対的な権限と支配権を持ち、言葉だけだったり、表面的には敬虔なしもべを装いながらも、実質はまるで王侯のようであったりするようです。

ヘロデ大王

 そして、信徒には多くの戒律と義務と奉仕が課せられていますが、表面的には自発的との形を取っているものの、実質的には聖書を利用しての「しなさい」や「しなければならない」となっています。彼らのイエスは律法の終わりになられた方ではなく、律法を与え課す方なのです。

あなたの信じるイエスはどちらですか?

 これらの教会では、什分の一献金やそれ以上の献金義務が課されている場合があります。これらの義務を果たせないならそれは信仰がないと判断されたり、救いが与えられない、神の物を盗んでいるなどと脅迫的教えがなされ、恐怖感や不安感が与えられたりします。

 また、多く献げる者は神より祝福され、多くの恵みを受け、繁栄すると教え、わずかしか献金しない者は、神から呪われ、貧乏や病気などになると教えられます。

 これらの教会では、会計を牧師がなしたり、信徒への会計報告などがなかったりする場合があり、教会の財務は信徒の目から隠され不透明なものになっている場合があります。

 また、牧師は使徒パウロのように教会の負担とならないように配慮した姿とはことなり、牧師給与を一般の健全な教会よりもはるかに高額ともいえる金額を得ていたり、名目上は伝道や会合などにしているものの、明らかに教会の宣教範囲や活動範囲を超えて、遠隔地に出かけることが多くなったりしていて、単に牧師が行きたい所に名目をつけて行っているだけのような活動があったりします。

 弱い者と共にあり、無私の慈しみを示されました。

足洗


 問題のある、カルト化してしまった教会はどうなのだろうか。イエスとはどのような方なのだろうか。牧師はキリストにならい仕える者となっているのだろうか。信徒をまるで愚か者を扱うように扱ったり、子供のように扱ったりしていないだろうか。

 イエス・キリストではなく、お金や繁栄が神となってはいないだろうか。今一度、自分の教会を見直してみることは、決して悪いことではない。

 どうしてプロテスタントのごく一部であるが、このようにカルト化してしまうのだろうか。一つにはカトリック的なものをあまりにも無批判に捨て去ってしまった面もあるだろう。カトリック教会や聖公会、ルーテル派教会では、祭壇や聖卓が礼拝堂の正面にあり、説教壇や朗読台はその祭壇や聖卓のわき、または礼拝堂のはじにあったりします。

 しかし、多くのプロテスタント教会では、説教壇が中央に据えられています。

 これにはとても違和感を覚えます。会衆が礼拝する方向に祭壇や聖卓ではなく、人間の座が据えられ、聖書のことばではなく、解釈である説教が中心に据えられていて、人間中心のように見えてしまいます。これがまともでない牧師が勘違いしてしまう要因のごく小さいものではあると思いますが、一つではないかと思えます。


*******

お金のトラブル 什一献金
2012/5/20(日) 午前 1:03
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/9434808.html

 このカテゴリーの過去の記事にも、何回か什分の一献金の問題点や献金トラブル、繁栄の信仰の問題点などについて書きました。今回も若干この問題について考えてみたいと思います。

10分の1の奉納

 律法における十分の一の献げ物と教会の献金は全く違う性質のものであることは、什一献金を推奨する牧師は、全く無視して半ば義務化して信徒に神の名の下に課しています。しかし、主からのものではなく、主の名を借りた牧師の律法にしかすぎません。

 教会は祈りの家から、信者を金蔓にしている商売人の巣にしてしまっていたり、劇場にしてしまっている牧師があります。

 神殿から商人を追い出されたキリストは、このような教会をどう見られているでしょうか。

歎く

 律法の規定を教会に持ち込み、再び負いきれない重荷を負わせる人たちは、アブラハムがメルキゼデクに与えた戦利品からの十分の一の贈り物や、ベテルでヤコブがささげることを誓約した十分の一や、律法の十分の一を持ち出し、さらにマラキ書を引き合いに出して正当化しようとしていますが、しかし、決して律法の通り守ろうとはしません。

 第三年目と第六年目に献げられる十分の一を、彼らは決して貧しい者や寡婦、孤児、寄留者などに使ったりはしません。せいぜい毎月いくらかを義捐金やそれらの救助・支援団体に寄付したりするくらいで、年間の献金丸ごとをそれらに供出したりはしません。

飢餓

 そして、律法における献げ物である献納物を、信徒が農家や畜産業の方であっても、決して物としては受け取りません。すなわち物納ではなくお金での献金という形でしか受け取りません。それは律法とは違うことですし、律法では物納ではなくお金での献納も認められていますが、それには更に五分の一を加えねばなりませんが、そういう規定は無視されています。また、農家などの場合、七年ごとに安息年などが定められていますが、律法に反してそれを課すこともありませんし、また、安息年で収穫がない時には献納はないのですが、当然無視されます。

 よく良い信者の子弟として、子供がおこずかいの十分の一を献金する姿が取り上げられ、褒められたりしますが、そもそも子供のおこずかいまでも巻き上げるようなことは、律法にはありません。子供のおこずかいは収入ではないからです( お駄賃ならまだ収入としてみなしてもよいかもしれないが、家父長制度の世帯から考えると、扶養家族の家父長から与えられる小遣いなどを、収入とすることは無理があると思います。 )。

 彼らは律法を使って什一献金をさせようとしますが、決して律法のとおりではありません。ただ神の名を利用し、聖書を利用して集金しているにすぎません。

 また、貧しいやもめの献げ物の話しまでも利用しますが、貧しいやもめの献金はそもそも十分の一の献げ物ではありません。

poor widow

 彼らの求める什分の一献金は聖書に根拠がないことです。

末日聖徒イエス・キリスト教会の什分の一・献金納入明細書 記名

 教会財務を支える献金はとても大切なものです。しかし、それを律法を悪用して過度に集金しようとすることは、やめるべきです。信仰による自発的で自由な献げ物であるべきでしょう。

***「お金のトラブル 什一献金」へのコメントとレス***

コメント(4)

10年くらい前から、モルモンは郵便振替です。郵便局で振り替えます。ある牧師は「当教会はモルモンみたいな献金要求も義務もありません」と言ってましたが、半年、1年と経つと「十一献金は基本であり、十分の二や三だって当たり前です」と豹変しました。
マラキ書や使徒行伝から引用しても通用しない求道者には、「プロテスタントはどの教会も十一献金は義務化されている」と言い出す始末です。どの教会を選んでも十一献金があって逃れられないから、ここに落ち着けと云うのがその牧師の本心でしょう。聖書を用いても無理なら、他の信者も献金してる、他の教会も同じだと言えば横並びや皆と同じならと諦めて献金してくれると云う下心が丸見えでした。
財務に行き詰まり、牧師の個人商店と化した教会や教団なら、会社や商店でも設立して自ら稼いだ方が益になります。
「神は、お金を所望されます、神は食い逸れると困るのです、貧窮させたら裁くぞ!」金が欲しいのは主幹牧師や教団理事と云った幹部連中とその取り巻きです。信頼していただけに、とても残念でガッカリしました。
[ nec2sc2334 ] 2012/5/20(日) 午前 3:35 返信する

*

モルモンの献金表、興味深いです。
なかなか見ることはありませんからね。
JWの奉仕報告表みたい。

でも10分の一をしっかり守っている人はけっこう多いみたいです。
もちろんそれを感謝を持ってできるひとはいいのですが
「しなければならない」という状況の人もいるでしょうね。
[ まーくん(一匹狼) ] 2012/5/20(日) 午前 4:56 返信する

*

>nec2sc2334さん

そうですか。郵便振替に変更になったのですね。情報ありがとうございます。

この什分の一献金は、プロテスタントでも福音派などで多く見られ、聖霊派でも多く見られるために、日本ではプロテスタントの多数派であるため、プロテスタント全体がこの献金様式かのように思われてしまっていますね。

御指摘されたような問題が、近年特に目立つようになり、多くの被害者を出しています。義務や強制、圧迫、思い込ませなどの手法をもって集金する行為こそ、神の名を偽って「神の物を盗んでいる」行為だと思います。
2012/5/20(日) 午前 8:07 返信する

*

>まーくん(一匹狼)さん

この献金表は他の一部のものと共に残しておきました。今思うと捨ててしまって惜しかった本などもあります。ジョセフ・フィールデング・スミスの「救いの教義」(全三巻)などは、現在日本語版は絶版になってしまいました。

誰からも強制されたのでもなく、教え込まされたのでもなく、誘導されたのでもなく、精神的圧迫を受けたのでもなく、恐怖心からでもなく、ただ心に定め自発的に行われたものならそれは良いことですが、そうではなく外的要因がわずかでもあるのなら、それは立ち止まって見るべきでしょうし、その教会の牧師や役員、または教団・各個教会の制度や運営に問題はないか見直すべきでしょうね。
2012/5/20(日) 午前 8:14


********

神を金集めの出しにする
2014/7/23(水) 午後 7:43
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/13175610.html

 破壊的カルトや異端の問題を見て行くとき、必ず行き当たるものに献金被害というものが挙げられるでしょう。ウィリアム・ウッド師の「改訂新版 教会がカルト化するとき」(いのちのことば社)に短い一文に、❝…カルトもまさに人を食い物にします。非常に残念なことですが、カルト化してしまった団体で、信者が食い物にされてしまったということも起こっています。青春や財産を奪われ手しまったということもあります。もちろん、神のみこころにかなったビジョンと確信し、自ら喜んで献身すること、あるいは献金をささげることは、尊いことです。しかし、もしも過度のプレッシャーをかけられたり、「ささげない人は神に呪われる」と脅されたりして献金をささげるのであれば、それは問題です。あるいは、神の栄光のために掲げられたはずのビジョンが、実は指導者の名誉や利益につながるようなものであれば、決して望ましいものではありません。…❞(p57-p58)とあることは至言でしょう。

 「キリスト教ガイドブック」(日本教会新報社)の献金の説明では、❝これは、会費やお賽銭とちがい、根本的に地上の生を与えて下さった神への感謝の応答として行われます。自発的で、強制的なものではありません。❞(p377)とあります。

 聖書を読んで、献金の根拠となる聖書の言葉というものに出会うことは難しいことです。大体が上のガイドブックのように、神への感謝というものと、教会の維持・運営上の必要という実質面で教会員に毎月毎に月定若しくは維持献金という名目で義務化しています。その献金額については一定額を各々が自由で自発的に定め献金する方式が採られています。多くても褒められるわけでもなく、なんら特典や優遇を受けるわけでもありません。少ないからと言って非難されるわけでも冷遇されるわけでもありません。それぞれの資力と事情によって各々が自発的決めて、感謝して献げるものです。

 キリスト教等でも英米のピューリタンとウェスレアン・アルミニウス主義の末裔である福音派や聖霊派とそれらから各国に広まった団体や教会(系統の単立含む)が、聖書に根拠のない10分の1献金などというものを主張しているくらいで、それ以外の大多数では先ほども述べた自由献金方式です。

 10分の1献金を主張している団体や教会は、キリスト者に全く関係のない律法やアブラハムやヤコブの個人的事例を根拠にしています。そして、律法の10分の1の献げ物を改変して全く違う10分の1献金というものを作り出し信者に負わせています。しかしそれは10分の1という言葉だけを利用した別物です。なぜ律法の中でこのことばだけが課せられるのでしょうか。それは手軽に神の権威の下に金集めするのに都合がよいからです。

 律法の十分の一は、祭司の一族や嗣業地を持たないレビ部族を支えるのに必要なものです。また、❝三年の終りごとに、その年の産物の十分の一を、ことごとく持ち出して、町の内にたくわえ、あなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないレビびと、および町の内におる寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、それを食べさせ、満足させなければならない。そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。 ❞(申命記14:28,29)という貧者の救済面もあります(その他にベアーという律法規定で貧者の救済があります。)。ではどうでしょうか。10分の1献金を主張している教会が、律法の規定に照らして三年ごとにこれらを実行しているでしょうか。また、金銭での献納は10分の1に更に二割を加えて献げなければなりませんが、そんなことは守りも行いもせずにただ集めて、それを自分達で使うのです。なんとも都合のよいことです。

 そんなに律法通り行いたいのなら、集めたお金で地の産物を買って、祭壇で燃やして煙にして神への献げ物とするか、集めたお金(紙幣)を燃やして、感謝の献げ物として煙にして神に献げればよいのです。

祭壇で燃やして煙にして神への献げ物とする

 ものみの塔協会のような破壊的カルトなどを見ますと、よくこのような文言が聞かれます。

*** 塔11  11/15 22–23ページ 「親切に与える特権」に喜びを感じていますか ***
このような方法で与える人もいる
世界的な業への寄付
  多くの人は,「世界的な業」と表示された寄付箱に入れるために,ある額を取り分けたり,予算に組み入れたりしています。
  そうした寄付は,会衆が毎月まとめてそれぞれの国のエホバの証人の事務所に送ります。金銭の自発的な寄付を〒243‐0496 神奈川県海老名市中新田四丁目7番1号 ものみの塔聖書冊子協会,もしくはお住まいの国を担当するエホバの証人の支部事務所へ直接送ることもできます。(以下に挙げる項目の自発的な寄付も,お住まいの国を担当するエホバの証人の支部事務所へ送ることができます。)宝石や貴金属などの動産も寄付できます。そのような寄付には,無条件の贈与であることを記した簡単な手紙を添えてください。
  株券や債権などの有価証券も寄付できますが,その場合には事前に,ものみの塔聖書冊子協会の会計事務所に手紙か電話でご連絡ください。
「条件付き寄付」の取り決め
  将来何らかの事情で資金が必要になった場合に,寄付者が,寄付額未満の金銭的な援助を協会に要望できる,という条件が付いた寄付です。詳しい情報をご希望の方は,ものみの塔聖書冊子協会の会計事務所に手紙か電話でお問い合わせください。
その他の寄付
  上記の方法による寄付に加えて,ほかにも世界的な王国奉仕のために与える方法があります。
不動産: 売却可能な不動産を,無条件の贈与として,ものみの塔聖書冊子協会に寄付することができます。そのような寄付を望まれる場合は,必ず前もって,ものみの塔聖書冊子協会の法律部門と連絡をお取りください。
保険: 保険の種類や取り扱う保険会社により異なりますが,保険金が支払われる際,ものみの塔聖書冊子協会へ寄付されるようにしておくことができる場合があります。
遺贈: 法律に従って作成された遺言書によって,金銭,預貯金,有価証券,不動産,動産をものみの塔聖書冊子協会に遺贈することができます。作成する遺言書については,公正証書の形式を取ることが勧められています。日本では,遺贈された財産が宗教団体の宗教的活動に用いられることが確実な場合,相続税の課税価格に算入されない「非課税財産」とみなされます。なお,不動産の遺贈を望まれる場合には,必ず前もって,ものみの塔聖書冊子協会の法律部門と連絡をお取りください。
  こうした寄付の場合は一般に,寄付者の側で一定の手続きを踏むことが求められます。このような方法によってわたしたちの世界的な業に貢献したいと願っておられる方たちのために,支部は参考となる資料を準備しています。資料や支部からの援助をご希望の方は,ものみの塔聖書冊子協会の法律部門に手紙か電話でお問い合わせください。あるいは,お住まいの国を担当する支部事務所にご連絡ください。
ものみの塔聖書冊子協会
 

*** 宣 10/4 6ページ 地域大会―喜びあふれる崇拝の時 ***
寄付: 王国会館や大会会場で世界的な業のために自発的な寄付をすることによって,地域大会の取り決めに対する感謝を示すことができます。

*** 宣 10/9 4ページ 電話証言ガイド ***
■ 寄付の取り決めには触れない。電話による寄付の懇願と誤解されるかもしれない。わたしたちの活動がすべて自発的な寄付によって支えられていることは,家の人と直接会った後のふさわしい時に話せる。

*** 宣 09/5 3ページ 5節 出版物を有効に活用する ***
出版物の配布: わたしたちは,本当に関心を示す人だけに出版物を配布するようにします。宣教奉仕で用いるそうした価値ある道具の費用を賄うことについて,わたしたちがおもに責任を担っているということを忘れないようにしましょう。関心のある人に出版物を渡すときは,寄付によって世界的な業を支援できることをためらわずに伝えてください。

*** 宣 93/12 7ページ 3–5節 惜しみなくまく ***
3 このようにわたしたちが積極的に出版物を配布しようとする際に,出版物の値段を尋ねる家の人がいるかもしれません。
このように答えることができます:
■ 「わたしたちの活動は自発的な寄付によって支えられていますので,出版物は無償です。今回,少額の寄付をしたいと思われるなら,そのご寄付は世界的な伝道活動のために用いられますので,わたしたちはうれしく思います」。
このようにも言えるかもしれません:
■ 「どうして出版物を無償で提供できるのだろうと考えておられるかもしれません。これは,自発的な寄付によって支えられている世界的な教育活動の一環です。この活動に対して少額の寄付をしたいと思われるなら,喜んでお預かりいたします」。
4 しかし,これまで再三強調されてきたように,家から家の伝道の際,あるいは出版物を配布する際にエホバの証人の世界的な業に対する寄付について必ず述べなければならないというわけではありません。寄付について触れるなら出版物の提供が難しくなったり,出版物を積極的に配布する面での奉仕者の熱意に影響が及ぶようであるなら,その場で触れる必要はないでしょう。後日,再訪問を繰り返して家の人と親しくなってから寄付について話し,その面での認識を高めることができるかもしれません。場合によっては家庭聖書研究になってから話すこともできます。
5 このようにして,積極的に出版物を配布し,惜しみなくまくなら,真理に対する人々の関心は高められるに違いありません。そのような人々をわたしたちが繰り返し再訪問し,徐々にその関心を高めてゆくなら,わたしたちが努力を払った証しとなる,推薦の手紙を刈り取ることができるかもしれません。(コリント第二 3:1‐3)それでは,豊かに刈り取るべく,一層惜しみなくまくよう引き続き努めてゆきましょう。
   
*** 宣 11/12 2ページ 質問箱 ***
■ 文書を渡すかどうか,どのように判断できますか
主な要素は,相手の関心です。純粋な関心を示しているのであれば,雑誌を2冊,あるいはブロシュアーや本などの文書を1冊渡せるでしょう。世界的な業に寄付するお金がないと思える場合でも,そうです。(ヨブ 34:19。啓 22:17)一方,価値を認めない人に貴重な文書を渡すことはしません。―マタ 7:6。
家の人が関心を抱いているかどうか,どのように見極められますか。喜んで会話する人であるなら,関心があるとみなせるでしょう。こちらが話す事柄に注意を払い,質問に答え,意見を述べるなら,会話に加わっていることになります。わたしたちが聖句を読む時に耳を傾けるなら,神の言葉への敬意があるとみなせます。この文書をお読みになりますか,と尋ねることもできます。奉仕者は判断力を働かせて,関心があるかどうかを見極める必要があります。街路証言の時などに雑誌やブロシュアーや書籍をだれかれ構わずに渡すことはふさわしくありません。関心を見極められない場合は,ビラやパンフレットを渡すほうがよいでしょう。
奉仕者各人は,寄付できる金額ではなく宣教奉仕で必要な量に応じて,文書カウンターから文書を受け取るようにすべきです。寄付をするのは,文書の代価を支払うためではなく,世界的な伝道活動のあらゆる面を支えるためです。わたしたちは感謝の気持ちに動かされて,自分の経済的な状況にかかわらず,王国の関心事を支えるため,余っている中からではなく乏しい中から寛大に与えます。(マル 12:41‐44。コリ二 9:7)また,感謝の気持ちに促されて,神権的な資産を浪費しないため,必要以上の文書を受け取らないようにします。

 最近では取り決めと称するものがいろいろ出され、何かにつけ自発的寄付という形で寄付が求められているようです。寄付に対して神を名目にプレッシャーを与える典型です。

 聖霊派のような繁栄の神学(繁栄の信仰)のように、直接的に献げないのは神のものを盗んでいる、献げないのは信仰がない証拠だ、多く献げればそれだけ多くの祝福を受け、献げなければ神の呪いを受ける。などの脅しをしないというだけで、やっていることの本質は同じです。

 「自発的」ということばがあれば本当に自発的ということではありません。神の祝福と呪い、見返り、信仰(や忠実さ)の試金石、罪悪感という心理的な圧迫や強迫、実質的な待遇や地位などの優劣という餌がその「自発的」の陰にあればもはやそれは強制でしょう。

改訂式文の感想


 さて、日本福音ルーテル教会と日本ルーテル教団の共通式文の改訂版が出版されました。このことは「機関紙るうてる」の2019年3月号に

"改訂礼拝式文が発行 されました
2016年総会においてテキストが、そして2018年総会において典礼音楽が承認され、これまでの礼拝式文に加えて、各教会の主日礼拝などで使用できる改訂礼拝式文が発行されました。2月には各教会へ配布しました。ぜひ、新たな選択肢として提供された式文を使用してみていただきたいと思います。
 今後、必要な修正を加え、主日礼拝以外の諸式の式文と合わせ、2026年には現行の最新の式文集である「青式文」(1996年)以来の新たな式文として出版の運びとなります。折しも、日本聖書協会共同訳『聖書』の出版と重なりました。新たな翻訳の聖書からも刺激を受けて、礼拝のために吟味されることを期待しています。
 日本聖書協会共同訳『聖書』は朗読されるみ言葉ということにも一層の配慮がなされたものです。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10・17)とのパウロの言葉にもあるように、文字を読むことによって言葉が味わわれる以前より、み言葉は空気の振動とそれによって響く声として届けられるものでもあります。そこから、朗読により適した言葉や文節が選択されることには大きな意味があるでしょう。
 同時に現代社会においてその重要性が叫ばれる多様なあり方を尊重する姿勢(ダイバーシティ)を教会内においても推進するために、長く当たり前のように用いられてきた言葉を、例えばそこに差別や排他的な感覚が含まれていないかを点検し、そうではない言葉に置き換えるなどの作業が必要であると思います。そのような立場から、目で読むことに偏重せず、聞くことや聞かれることへの意識を高めていくことも大切なことであると思いますから、新たな翻訳の活用は伝道的な側面も持つと言えます。
 これらは礼拝式文にもそのまま当てはまります。言葉の変化や神学的な研究の成果を反映させるべく、継続的に礼拝式文を見直していく必要がありますが、2007年にアンケートを実施し、具体的に改訂式文作成へと歩みだすきっかけとなったのは、式文の中で用いられている「生まれながら罪深くけがれに満ち」という言葉への問いでした。それは原罪を表現すると共に日本の歴史的かつ具体的な状況下における差別的な表現ともなるのではないかとの問いかけが、式文を生きたものとして用いていくために大切なものでした。
 また改訂式文の作成中には、国民という言葉について、国境線で区切られた従来の国家を想定しているのであれば、難民を始めとする世界の課題と現実から目を背けることになるのではないかとの指摘を受けました。委員会にとってそれは大切な気づきを得ることとなり、「諸国民」としている言葉について、検討を続けています。
 つまり、30年ほどの時間は一つの目安にしつつも、より重要なことは、30年を経過するならば、自分たちの用いている言葉そのものを点検、評価し、修正すべきは修正するということです。変化は私たちの姿勢を問い、動かすものであり、容易なことではありません。しかし、教会は世に存在し、世に福音を伝えていく使命を与えられているのですから、自身の正しさを疑わないということではなく、世に語る神に聞く群れとして、ふさわしく整えられていきたいと思います。
 さて、改訂式文として用意されたものは4種類です。テキストは共通であり、洗礼という恵みを思い起こすこと、ヌンク・ディミティス(シメオンの賛歌)を聖餐への応答と位置づけたこと、献げものを聖餐と切り離し派遣の意味を強めたことなど、いくつかの特徴があります。
 典礼音楽は、3つの新曲と「青式文」の礼拝式Aの音楽を編曲したものを含め、ルーテル教会に連なる4人の作曲家が作成ました。それぞれに個性を持った音楽を楽しみながら、礼拝を形作っていただければと思います。なお、各教会の礼拝のテンポなどに合わせて、音源データを作成することも可能です。楽器がなくともスマートフォンやパソコンなどで演奏が可能です。それぞれの状況に合わせて用いていただければと思います。"

とある通りです。その本文は昨日アップした記事「日本福音ルーテル教会・日本ルーテル教団 「式文」(2019年2月1日発行)」に本文の全文をアップしました。

 一言で言ったら、「酷い」に尽きるでしょう。改訂した人たちは、神をないがしろにし、権威主義で、カトリックにすり寄り、日本語がそもそもできないで、人間中心主義、さらに左翼で多文化共生の活動家といった人たちとの印象を受ける改訂文でした。

 改訂試案第一版(最終版)2014.3.4と同じく、[告白]の部分から原罪条項「私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、」は削除になったままです。そして、「思いと言葉、行いと怠り、また無関心によって、」と「思いと、言葉と、行いと、怠り、また無関心によって」と読点を打つのではなく、「思いと言葉」、「行いと怠り」、「無関心」とブロック分けすることにより、政治的意味合いにも利用できる形になっています。(二)を見ますと、これらは「心を尽くして・・・隣人を自分のように愛しませんでした」ということが、これ等に該当するということですから穿った見方をすれば、隣人のために社会、貧困、環境問題、差別、原発、戦争や軍事、基地問題などに「無関心」であることは罪であり、又何もしないことは「怠り」だと言いたいのだと、改訂者の本心がそこにあるのだと見える感じがします。まあ、残念なことにルーテルの牧師には、左翼活動家色の強い人はよく見かけます。個人としてそういう思想信条を持つことは自由ですし、プライベートでそういう活動をすることも自由ですが、こと教会に対してはそういうものは持ち込んでもらいたくはありません。

 [赦し]の

司) 神は、御子イエス・キリストの十字架によって、私たちを赦し、洗礼の約束により、新たに生まれさせ、永遠の命へと導いてくださいます。

は祈りの言葉ではありません。これは「くださいます」ですから宣言の言葉です。


[グロリア]はまた一段と酷い文章です。

司) いと高きところには栄光、かみに。
全) 地には平和、み心にかなうひとびとに。
   主をあがめ、主をあおぎ、主をおがみ、主をたたえます。
   主なる神、天の王、全能のちち。あなたの栄光にかんしゃします。
   主なる神、神の小羊、父のひとり子、主イエス・キリスト。
   世の罪を取り除く主。わたしたちをあわれみ、いのりを聞いてくだ
   さい。
   父の右におられる主。わたしたちをあわれんでください。
   あなただけが聖なる主、いとたかきイエス・キリスト
   あなたは聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。
   アーメン。

間投助詞 「○○よ」 が使われていないためギリシャ語で言うなら呼格の文になっていません。それに加えて句点が打たれているので、前段と後段が分断されています。

「主なる神、天の王、全能のちち」 ここで句点「。」が打たれているので文章が終わり、「あなたの栄光にかんしゃします。」と二つの短い文章が並記されているだけです。しかし、これが「全能のちちよ、あなたの栄光に・・」と間投助詞を入れて、句点ではなく読点に変えるなら明確に父なる神に呼びかけていますし、祈りや讃美の文言になります。

奉献の部は完全に削除となり、残念ながら奉献唱も当然のことながら無くなっています。

[教会の祈り]の

# 司式者または他の祈祷者はその日に必要な祈りを祈る。
  教会、福音宣教、平和と正義、貧困、抑圧、孤独、
  癒し、和解、その日の特別な事柄等

司) ・・・各項目の祈りの最後を「キリストのみ名により」で結ぶ
衆) 「主よ聞いてください」または「主よあわれんでください」で応答
   する
司) キリストのみ名により
衆) 主よ、聞いてください。
司) キリストのみ名により
衆) 主よ、あわれんでください。

これは書き方がオカシイんだろうなぁ。以下のように

# 司式者または他の祈祷者はその日に必要な祈りを祈る。
  教会、福音宣教、平和と正義、貧困、抑圧、孤独、
  癒し、和解、その日の特別な事柄等

司) ・・・各項目の祈りの最後を「キリストのみ名により」で結ぶ
衆) 「主よ聞いてください」または「主よあわれんでください」で応答
   する
司) ・・・キリストのみ名により
衆) 主よ、聞いてください。
司) ・・・キリストのみ名により
衆) 主よ、あわれんでください。

と「・・・」を「キリストのみ名により」をした二つの司式者の言葉に配置していないから、一見すると意味不明のやり取りに見える。

そして、サルタティオ(挨拶)が司式者と会衆で交わされるわけですが、この改訂では

[平和の挨拶]
司) 主の平和がみなさんと共にありますように。
衆) またあなたと共に。
司) 互いに平和の挨拶を交わしましょう。
        (*「主の平和」 と言いながら挨拶を交わす。)

と、司式者と会衆だけではなく、なんとも偽善的でうざったい会衆間の挨拶「行為」を強要するわけです。偽善的に笑顔を貼り付けて挨拶し合う姿には背筋が寒くなります。

「その日の序詞」の文言も違和感があります。

司) 聖なる主、全能の父、永遠の神様。
    いつどこででも・・・
    あなたに感謝するのは、正しい務めであり、また私たちの喜び
    です。

改訂前の「その日の序詞」は「礼拝式通常文およびその取扱い」という冊子本に出ていますが、今までですと「いつどこででも、あなたに(私たちの主イエス・キリストにより)感謝するのは当然であり、また、ふさわしいことです。」というものがよく使われていますが、これですと問題もないのですが、改訂文ですと、神への感謝が「正しい務めであり」と、職責になってしまっています。

 主の祈りは、なぜか(一)も(二)もよその団体の訳文です。聖壇の交換や合同礼拝でもやらない限り、よその団体がルーテルの式文で礼拝などしないのだから自分たちの訳を使うか、公式採用している日本語訳聖書(新共同訳や聖書協会共同訳)の主の祈りを使えよと思います。

 [アグヌス デイ]も[グロリア]同様、間投助詞が使われていないので呼びかけになっていません。

世の罪を取り除く神の子羊 あわれんでください。
世の罪を取り除く神の子羊 あわれんでください。
世の罪を取り除く神の子羊 平和をお与えください。アーメン。

 聖餐の「設定」は第八次式文の(一)だけが採用になっていて、「ベルバ」(みことば)のみとなっています。このベルバのみの形がよく使われているためなのでしょう。しかし、使われなくとも式文の中に(二)や(三)としてアナムネーシス(記念)やエピクレーシス(聖霊祈願)の文言のある設定辞が残されていれば、聖餐や礼拝史理解の助けにもなります。使わないから「はい」削除では味気も素っ気もありません。

 聖餐の感謝の歌
 司) 主に感謝しよう。主は恵み深く。 衆) そのいつくしみは とこしえに絶えることがない。

が無くなったのは、なんかしまりが悪いと言うか、会衆の主の恵みへの感謝応答の表現の場が奪われた感じがします。


 ヌンクディミティスも文言変わってるし、献金は味気もそっけもない単なる集金に成り下がっている。

最後の派遣は、こりゃあまたまたひどいね。

[派遣の祈り]
司) 世界の創り主、全能の神様。
   イエス・キリストにより、私たちを一つの体として結び合わせてく
   ださり、感謝いたします。
   私たちを希望と忍耐と勇気で満たし、隣人を愛することができる
   ようにしてください。今捧げられたものがあなたを証し、世界の
   人々に届けられますように。痛み悲しむ人々の隣人として、私た
   ちを聖霊によって送り出してください。主イエス・キリストのみ名に
   よって祈ります。
衆) アーメン。

 これは前にも書きましたが、「今捧げられたものがあなたを証し」、なんだそりゃ!! 献金が多ければ神への証も大きくなるということか。そして、「世界の人々に届けられますように。」って、席上で献げられた献金を「世界の人々に届け」るとしか読めないよね。おそらくは「今捧げられたものによって、あなたが証され、世界の人々へ届けられ」と言いたいのではないかと推測はするが、文言を読む限り、献金が神を証し、その献金を世界に届けるとしか読めない悪文。

[派遣の言葉]は今までのものと違い、リ・クリエイションして強められ、この世の平常の日々に背中を押して送りだしてもらえていたものが、何かをしろ、しろと急かされるように無理矢理押し出される感じがします。

(一)
司) 行きましょう。主の平和のうちに。
   仕えましょう。主と隣人に。
衆) (アーメン)私たちは行きます。
   神の助けによって。

(二)
司) 行きましょう。主の平和のうちに。
   仕えましょう。主と隣人に。
衆) 私たちは分かち合います。恵みを。
   伝えます。福音を。

 そして、なんか左翼のスローガンみたいでもあります。

 握りこぶしと赤い本を持った手を掲げて行進する労働者を扇動する政治指導官が、労働者たちに奉仕を迫っていることばにも聞こえます。

赤い改訂式文

日本福音ルーテル教会・日本ルーテル教団 「式文」(2019年2月1日発行)

2019年2月1日に発行された改訂「式文」 

2019年改訂式文会衆用 記名

●招き

[招き]  (*礼拝堂の入口または洗礼盤の横に立ち、これを行う。)

(一)
司) 神は、すべての人が救いの恵みに与るように、礼拝に招いて
    くださいました。
衆) 私たちは招かれて、ここにいます。
司) 父と子と聖霊のみ名によって。
衆) アーメン。

(二)
司) 父と子と聖霊のみ名によって
衆) アーメン。
司) 憐れみ深い神さま。
   私たちはあなたを賛美し、聖なる御名
   を崇めます。私たちの心を開き、
   聖霊によって、清めてください。
   主イエス・キリストによって。
衆) アーメン。


[告白]
(一)
司) 神の御前で私たちの罪を告白し、
   心を合わせて赦しを求めましょう。

全) 神さま。
   私たちは思いと言葉、行いと怠り、また無関心とによって、
   あなたから遠く離れ、御旨に背いてきました。今、ここに
   罪を告白します。

(二)
司) 神と会衆の前で、私たちの罪を告白しましょう。
全) 神さま、罪に囚われている私たちは、みずから自由に
   なることができません。思いと言葉、行いと怠り、また
   無関心によって、御前に罪ある者です。私たちは、心を
   尽くしてあなたを愛さず、隣人を自分のように愛しませんで
   した。御子イエス・キリストのゆえに、私たちを憐れんでくだ
   さい。私たちを赦し、新たにし、導いてください。御旨を喜び、
   あなたの道を歩み、御名の栄光をあらわす者としてください。
   アーメン。

(黙祷)

[赦し]
(一)
司) 恵みの神さま。
衆) 私たちを赦してください。
司) 神は、御子イエス・キリストの十字架によって、私たちを赦し、
   洗礼の約束により、新たに生まれさせ、永遠の命へと導いて
   くださいます。
衆) アーメン。

(二)
司) 全能の神は、御子イエス・キリストを死に渡し、その死によって、
   私たちのすべての罪を赦してくださいます。
   (キリストに委ねられた務めにより、私は、罪の赦しをあなたたち
   に宣言します。)
   父と子と聖霊のみ名によって。
衆) アーメン。


[招きの歌]
(*歌いつつ入堂、という形をとることもできる)

[キリエ]
キリエ①
司) 平安のうちにいのりましょう。
衆) 主よ、あわれんでください。
司) 神からの平安と私たちの救いのためにいのりましょう。
衆) 主よ、あわれんでください。
司) 世界の平和と神の教会の成長と主の民の一致のためにいのりま
   しょう。
衆) 主よ、あわれんでください。
司) この聖なる教会とここに集い礼拝に与る者のためにいのりましょう。
衆) 主よ、あわれんでください。
司) 恵みの主よ、私たちを救い、守り、助け、あわれんでください。
衆) アーメン。

キリエ②
司) 主よ、あわれんでください。
衆) 主よ、あわれんでください。
司) キリストよ、あわれんでください。
衆) キリストよ、あわれんでください。
司)  主よ、あわれんでください。
衆) 主よ、あわれんでください。

キリエ②-2
 主よ、あわれんでください。
 キリストよ、あわれんでください。
 主よ、あわれんでください。

[グロリア]
司) いと高きところには栄光、かみに。
全) 地には平和、み心にかなうひとびとに。
   主をあがめ、主をあおぎ、主をおがみ、主をたたえます。
   主なる神、天の王、全能のちち。あなたの栄光にかんしゃします。
   主なる神、神の小羊、父のひとり子、主イエス・キリスト。
   世の罪を取り除く主。わたしたちをあわれみ、いのりを聞いてくだ
   さい。
   父の右におられる主。わたしたちをあわれんでください。
   あなただけが聖なる主、いとたかきイエス・キリスト
   あなたは聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。
   アーメン。

[つどいの祈り]
司) 祈りましょう。
   ・・・・・・・・・・私たちの主イエス・キリストのみ名によって
   祈ります。
衆) アーメン。

●みことば

司) みことばを聞きましょう。

[第一の朗読]
朗読者) 本日の第一の朗読は、「書名○○」○○章○○節から始まります。
      (朗読)  第一の日課を終わります。

応答唱
(その日のために選ばれている詩編、栄唱等を、朗読、交読、交唱、
またふさわしい讃美歌などで唱える。
また、ここで詩編、栄唱等を用いない場合は、福音書朗読前の讃歌、
または説教後のみことばの歌に替えて用いてもよい。)

栄唱
    父と子と聖霊の神に栄光、始めも今も、永遠に限り無く。アーメン。

[第二の朗読]
朗読者) 本日の第二の朗読は「書名○○」○○章○○節から始まります。
      (朗読)  第二の朗読を終わります。

讃歌 (「ハレルヤ/キリスト詠唱」 または讃美歌)

   ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。

*四旬節、受難週には特に次の詠唱を用いる。

キリストは、へりくだり、死に至るまで、十字架の死に至るまで
従順でした。

[福音書の朗読]
朗読者) 本日の福音は「書名」○○章○○節から始まります。

   栄光は主に

朗読者) (朗読)福音書の朗読を終わります。

  賛美はキリストに

[説教]

[みことばの歌]

[信仰告白]
       (ニケヤ信条または使徒信条を用いる。)
衆) 天と地と、すべての見えるものと見えないものの造り主、
   全能の父である唯一の神を私は信じます。唯一の主 
   イエスキリストを私は信じます。主は神のひとり子であっ
   て、すべての世にさき立って父から生まれ、神の神、光の
   光、まことの神のまことの神、造られたのではなく、生ま
   れ、父と同質であって、すべてのものは主によって造られ
   ました。主は私たち人間のため、また私たちの救いのため
   に天から下り、聖霊により、おとめマリヤから肉体を受けて
   人となり、ポンテオ・ピラトのもとで私たちのために十字架に
   つけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書のとおり三日目に
   復活し、天に上られました。そして父の右に座し、栄光のう
   ちに再び来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
   その支配は終わることがありません。主であって、いのちを
   与える聖霊を私は信じます。聖霊は父と子から出て、父と子と
   ともに礼拝され、あがめられます。また、預言者をとおして語ら
   れました。唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を私は信じ
   ます。罪のゆるしの唯一の洗礼を私は受けいれます。死人の
   復活と来たるべき世のいのちを待ち望みます。
   (アーメン)

司) 使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
衆) 天と地と、すべての見えるものと見えないものの造り主、全能の
   父である唯一の神を私は信じます。唯一の主 イエスキリストを
   私は信じます。主は神のひとり子であって、すべての世にさき立っ
   て父から生まれ、神の神、光の光、まことの神のまことの神、造ら
   れたのではなく、生まれ、父と同質であって、すべてのものは主に
   よって造られました。主は私たち人間のため、また私たちの救い
   のために天から下り、聖霊により、おとめマリヤから肉体を受けて
   人となり、ポンテオ・ピラトのもとで私たちのために十字架につけら
   れ、苦しみを受け、葬られ、聖書のとおり三日目に復活し、天に上
   られました。そして父の右に座し、栄光のうちに再び来て、生きてい
   る人と死んだ人とをさばかれます。その支配は終わることがありま
   せん。主であって、いのちを与える聖霊を私は信じます。聖霊は父
   と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられます。また、預
   言者をとおして語られました。唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教
   会を私は信じます。罪のゆるしの唯一の洗礼を私は受けいれます。
   死人の復活と来たるべき世のいのちを待ち望みます。
   (アーメン)

[教会の祈り]
司) 祈りましょう。
   神さま。私たちは主イエス・キリストによって成し遂げられたあな
   たの御わざを称えます。あなたは御言葉によって全てのものを
   創り、イエス・キリストを命の言葉として、この世にお贈りください
   ました。この世の智恵では見出すことが出来ない深い憐れみと
   愛に感謝します。

司) 恵みの神さま。あなたの御言葉から受けた恵みに応え、私たちは
   心を合わせ、父なる神であるあなたに祈ります。私たちの祈りを、
   聞き届けてください。

­­­­­̶
(諸祈祷)
­­­­­̶
# 司式者または他の祈祷者はその日に必要な祈りを祈る。
  教会、福音宣教、平和と正義、貧困、抑圧、孤独、
  癒し、和解、その日の特別な事柄等

司) ・・・各項目の祈りの最後を「キリストのみ名により」で結ぶ
衆) 「主よ聞いてください」または「主よあわれんでください」で応答
   する
司) キリストのみ名により
衆) 主よ、聞いてください。
司) キリストのみ名により
衆) 主よ、あわれんでください。

結びの祈り
司) 恵みの神さま。
   あなたの憐みに信頼し、私たちのすべての祈りを委ねます。
   私たちの救い主、イエス・キリストによって祈ります。
衆) アーメン。

[平和の挨拶]
司) 主の平和がみなさんと共にありますように。
衆) またあなたと共に。
司) 互いに平和の挨拶を交わしましょう。
        (*「主の平和」 と言いながら挨拶を交わす。)

●聖餐

[聖餐の歌]

[序詞]
司) 主が共におられるように。 衆) また、あなたとともに。
司) 心をたかくあげて 主をあおぎましょう。 衆) 主をあおぎます。
司) 主に 感謝しましょう。 衆) 感謝と賛美をささげます。

その日の序詞
司) 聖なる主、全能の父、永遠の神様。
    いつどこででも・・・
    あなたに感謝するのは、正しい務めであり、また私たちの喜び
    です。
    ・・・(特別序詞)・・・
    今、地上のすべての教会は、あなたの御名をあがめ、
    永遠の賛美を天のみ使いと聖徒たちと共に声を合わせて歌います。

[サンクトゥス]
 聖なる 聖なる 聖なる力の主。
 天と地に、主の栄光は満ちています。
 いと高きところにホサナ。
 主のみ名によって来られる方に、祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。

[設定]
司) 私たちの主イエス・キリストは渡される夜、パンを取り、感謝し、
   これを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取って食べなさい。
   これはあなたがたのために与えるわたしのからだである。
   わたしの記念のため、これを行いなさい」。食事ののち、
   杯をも同じようにして言われました。「取って、飲みなさい。
   これは 罪の赦しのため、あなたがたと多くの人のために流す
   わたしの血による新しい契約である。わたしの記念のため、
   これを行いなさい」。
衆) アーメン。


[主の祈り]

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとのかてを今日も
お与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
アーメン。
(ローマ・カトリック教会/日本聖公会 共通口語訳、2000年)

天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行われるように、
地上でも行われますように。
私たちに今日もこの日の糧を
お与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、
悪からお救いください。
み国も力も栄光も とこしえにあなたの
ものだからです。
アーメン
(NCC統一訳、1971年)

[アグヌス デイ]
世の罪を取り除く神の子羊 あわれんでください。
世の罪を取り除く神の子羊 あわれんでください。
世の罪を取り除く神の子羊 平和をお与えください。アーメン。

[聖餐への招きと聖餐]
司) 洗礼の礼典にあずかったかたは、聖卓へお進みください。
   (上記以外に聖餐への招きのふさわしい言葉や洗礼を受けて
   いない人に配慮したことばを用いてもよい。)

司) キリストの体です。
衆) アーメン。
司) キリストの血です。
衆) アーメン。

[配餐後の祝福]
司) 私たちの主イエス・キリストの体と血とは、信仰によって、あなたが
   たを強め、守り、永遠のいのちに至らせてくださいます。
衆)アーメン。

[聖餐の感謝]
司) 憐れみ深い神さま。
   この救いの賜物により、新たに力をお与えくださったことを感謝とし
   ます。私たちがますます主を信じ、互いに愛し、仕え合うことができ
   るようにしてください。あなたと聖霊と共にただ独りの神であり、永
   遠に生きて治められる御子イエス・キリストによって祈ります。
衆) アーメン。

[ヌンクディミティス]
今 わたしは 主の救いを 見ました。
主よ あなたは みことばのとおり しもべを安らかに 去らせてください
ます。これは すべての民に 備えらた救い諸国民のこころを ひらく
光、 み民イスラエルの 栄光です。

●派遣

[感謝のささげもの]

[派遣の祈り]
司) 世界の創り主、全能の神様。
   イエス・キリストにより、私たちを一つの体として結び合わせてく
   ださり、感謝いたします。
   私たちを希望と忍耐と勇気で満たし、隣人を愛することができる
   ようにしてください。今捧げられたものがあなたを証し、世界の
   人々に届けられますように。痛み悲しむ人々の隣人として、私た
   ちを聖霊によって送り出してください。主イエス・キリストのみ名に
   よって祈ります。
衆) アーメン。

[派遣の歌]

[祝福]

(一)
司) 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
                  (-守られます)
   主が御顔を向けてあなたを照らし、
     あなたに恵みを与えられるように。
             (-与えられます)
   主が御顔をあなたに向け、
     あなたに平安を賜るように。
             (-賜ります)
   父と子と聖霊のみ名によって。
衆)アーメン。

(二)
司) 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりが、
   あなたがた一同と共にあるように。
衆) アーメン。

[派遣の言葉]

(一)
司) 行きましょう。主の平和のうちに。
   仕えましょう。主と隣人に。
衆) (アーメン)私たちは行きます。
   神の助けによって。

(二)
司) 行きましょう。主の平和のうちに。
   仕えましょう。主と隣人に。
衆) 私たちは分かち合います。恵みを。
   伝えます。福音を。


***

譜面には四つのバージョン(スペード、クラブ、ハート、ダイヤ)があるが、式文本文は共通。

キリスト教番組

Yahoo!ブログから引っ越し(12月にYahoo!ブログのサービス終了に付き)

キリスト教番組
2011/9/16(金) 午後 1:26
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/6503109.html

口語訳新約聖書JC240 記名

 1980年ごろは、北海道でも数多くのキリスト教番組を地上波のラジオやテレビで見聞きできました。

 AMラジオでは、月曜から土曜の早朝は、バプテスト連盟の「ジ・アンサー」(5分)、心のともしび運動の「太陽のほほえみ」(5分)、北海道マスコミ伝道センターの5分番組、セブンスデー・アドベンチスト教団の番組(平日のみ)、が聞けました。土曜日には北海道ルーテル・アワー・センターの「ルーテル・アワー」と深夜番組の「モンキートーク」がありました。日曜には北海道福音放送協会の「世の光」(15分)、北海道マスコミ放送センターの「心の扉」(15分)がありました。テレビでは土曜日に心のともし火運動の「こころのともしび」があり、日曜(?)深夜に「PTL主をほめよ」がありました。

 今では無くなってしまった番組もありますが、インターネットなどでいつでも聞ける環境になりました。しかし、ネットは地上波と違い偶然に聞くということがなくなってしまうので、どちらが良いのか難しいところですね。

 また、ラジオ放送やテレビ放送では、無料の聖書通信講座が利用できたり、放送プレゼントなどがあり楽しみがありました。

 当時貰った「新約聖書」は何度も読みかえして、手垢で黒くなり、表紙も破けてセロハンテープで止めたりしました。

 また、テレホンメッセージなども電話帳で探したり、ラジオ放送などの機関誌などの広告で知ったところなどにかけて聞いたりしました。今ではありえないアナログな方法で、いろいろと芋づる式に見つけたりしました。そういう古臭い方法も聖書のことをもっと知りたいとの思いもあり、全く苦になりませんでした。

 いまあるキリスト教の地上波が続いてもらいたいですね。全部がネットだと味気ない感じがします。

****「キリスト教番組」へのコメントとレス****

コメント(8)

幕屋も番組持ってたような気がします。
幕屋ってどうなんでしょうか。
小さい頃なぜか親戚に集会(近所の人が集まる小さいやつ)に連れて行かれて、最後はみんなトランス状態で泣きながら「天の↑お父様↑(←後半イントネーション上がる)」って叫んでいるのを見て非常なトラウマになり、それ以来(新興またはカルト的)宗教懐疑派の子どもに育ちました(;^^)
[ - ] 2011/9/16(金) 午後 7:09 返信する

*

神の幕屋(原始福音)は、キリスト教の多くの教会から異端とされています。

異端では珍しく、日本生まれの異端です。
キリスト教の重要教義(これは譲れないというもの)において、彼らは大きく見解が違います。エホバの証人やモルモン教会、統一協会のように大きくも無く、一般的には有名ではありませんが、間違いなく異端です。
2011/9/16(金) 午後 8:43 返信する

*

けっこう番組がありますね。
ジ・アンサーなんてなつかしい。
エホバの証人だったけど、ラジオ好きなので
母にも見逃してもらっていたかもしれません。
いま思えば、そこからもうキリストに導かれるなにかが
あったかもしれないですね。
[ 一匹狼のまーくん ] 2011/9/17(土) 午前 8:37 返信する

*

「すべてに時がある」ということですね。
主の御計画は計り知れませんね。
2011/9/17(土) 午前 8:54 返信する

*

中学生の時、何かの行事でクラスのスローガンを決めるとなった時、なぜか、「暗いと不平を言うよりも、進んで明かりをつけましょう」になりそうになったことがあります(笑)。 公立中学校ですが。
[ 南三条 ] 2011/9/17(土) 午後 10:22 返信する

*

笑いが取れたと言うことは、みんなが知っていたということですね。

放送伝道の目的の一部は果たされていますね。笑
2011/9/18(日) 午前 3:27 返信する

*

記事の内容とは離れますが、この表紙の新約聖書、私も持っています。
私の聖書もやはり表紙が千切れてしまいましたが、大切にしています。

ミッションスクールに合格した時、その高校の先輩でもある母の知人が「讃美歌」と一緒にくれたものです。
私にとって初めての聖書でした。
それを持って、まだ中学3年生だった私は、学校内にある教会に通い始めました。
公立の中学だったので、キリスト教に初めて触れた私は、ちょっと誇らしい気持ちになったものです。
でも、まさかその後クリスチャンになるなんて思ってもいませんでしたが・・・。
[ シャロン ] 2011/11/19(土) 午前 11:52 返信する

*

わたしは一番はじめに手にした聖書は、テレビ番組「PTL主をほめよ」でもらった新改訳第二版の新約聖書でしたね。

しかし、通読したのはその後にルーテル・アワーで貰った画像の新約聖書でした。

わたしもシャロンさんと同じで、その後キリスト者になるなんて思ってもいませんでしたね。笑
2011/11/19(土) 午後 1:17

***

2022年12月26日追記

 たまたまラジオの朝の宗教の時間はどうなっているのか気になり、番組のタイムスケジュールが放送局のHPで見れるので見てみた所、HBCラジオは土曜日朝の6:35~45まで北海道マスコミ伝道センター(ホレンコ)の「心の扉」と日曜日朝6:20~35の北海道福音放送協会(Ho-LY)の「世の光いきいきタイム」、STVラジオの月曜から土曜日の朝05:00から5分間カトリックの心のともしび運動YBU本部「心のともしび」の三つのキリスト教番組は現在も続いていました。番組表からはセブンスデー・アドベンチスト教団の番組は終わっているようです。

 しかし、朝の他の宗教の番組は、新興宗教団体二団体の番組、天理教の「天理教の時間」と浄土真宗親鸞会の「1万年堂出版の時間」が放送されています。

 伝統仏教の曹洞宗による「曹洞宗の時間」、浄土真宗西本願寺による「西本願寺の時間」、浄土真宗東本願寺による「東本願寺の時間」、浄土宗による「法然さまの時間」。新興宗教団体の念法眞教の「心のいこい」、金光教の「金光教の時間」、生長の家の「幸福への出発」、孝道教団による「仏法と孝道」、円応教の「円応教の時間」などは番組は終了していました。

 

ラーの生ける姿と神々の名を捨てた男、モーセの名前

Yahoo!ブログから引っ越し(12月Yahoo!ブログのサービス終了に付き)

ラーの生ける姿と神々の名を捨てた男
2011/4/2(土) 午後 0:32
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/3062368.html

 本館の方でも若干書いたのですが、モーセと言う人物はとてもなぞに包まれた人物で、その名前すら謎に包まれています。聖書を読むとヴァティクラー(そして彼女は呼んだ) シェモー(彼の名を) モシェ(モーセと) ヴァトメル(そして言った) キー(なぜなら) ミン(の中から) ハマイム(水) メシティーフ(私が彼を引き出した)とヘブライ語の観点からモーセの名前の由来を説明しようとしています。しかし、エジプトの王女が奴隷であるヘブライ人のことばで名付けると言うのもありえない話しで、エジプト語のメセス(彼は子を生んだ)からきている、ファラオの名前によく見られる〇〇メス(〇〇の生まれた者)であると考えることは、決して無理があることとは思えません。彼の名前には何かしらの神々の名がついていたのではないでしょうか。カーメス(十七王朝の最後のファラオで、十八王朝を起こしたイアフメスの兄)、イアフメス、トトメス、ラムセス、アメンメセスなど第十八王朝には、メセスの付く名前のファラオが多くいます。

 またモーセは、ミディアンに逃れたときミディアンの祭司エトロの娘達から『一人のエジプト人が』と言われていたことからも、モーセは服装もことばもエジプト人と変わらなかったことでしょう。この時に追われる身であったので名前を変えたのか、それともそのまま使い続けたのかは分かりません。もしかしたら神ヤハウェからの召命のできごとがあってから、神々の名を捨てたのかもしれません。

 モーセは『わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。まったくわたしは口が重く、舌の重い者なのです。』と神に答えている場面も、彼がエジプトの王女に育てられたことから、奴隷のことばであるヘブライ人のことばを苦手としていたのかもしれません。それが長い間をかけて遜色がなくなったため、アロンの語る者としての働きが徐々に薄らいでいったとも考えられます。

 まあ、このようなことを想像してみると、何かスペクタクルな小説でも書けそうな気がしますね。

***「ラーの生ける姿と神々の名を捨てた男」へのコメントとレス***

コメント(2)

出エジプト記の秘密
 消えたファラオとモーセの謎
原書房

この本がオススメです
[ 免独聖也 ] 2011/6/7(火) 午前 1:25 返信する

*

情報ありがとうございます。
2011/6/7(火) 午前 3:52

******


モーセの名前
2014/1/15(水) 午前 10:22
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12512201.html

 以前にもさらっと書いたのですが、また同じテーマを取り上げてみたいと思います。それはモーセについてです(http://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/3062368.html)。

ドレ画モーセ

 今日、モーセ(モシェ;משה)という名前の由来を出エジプト記2章の冒頭の物語(10節)に求める人はファンダメンタリストを除いていないと思います。

モーセ、ファラオの娘に拾われた

“2:1さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。 2:2女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。 2:3しかし、もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。 2:4その姉は、彼がどうされるかを知ろうと、遠く離れて立っていた。 2:5ときにパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた。侍女たちは川べを歩いていたが、彼女は、葦の中にかごのあるのを見て、つかえめをやり、それを取ってこさせ、 2:6あけて見ると子供がいた。見よ、幼な子は泣いていた。彼女はかわいそうに思って言った、「これはヘブルびとの子供です」。 2:7そのとき幼な子の姉はパロの娘に言った、「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」。 2:8パロの娘が「行ってきてください」と言うと、少女は行ってその子の母を呼んできた。 2:9パロの娘は彼女に言った、「この子を連れて行って、わたしに代り、乳を飲ませてください。わたしはその報酬をさしあげます」。女はその子を引き取って、これに乳を与えた。 2:10その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」。”

モーセの名前由来

 ファラオの娘である王女が、数多くある奴隷民族の中のひとつであるヘブライ人の言葉の語呂合わせで名前を付けるということはあり得ない事です。教文館の『キリスト教大辞典』の「モーセ」の項目には“…ここでモーセの名の由来について、水の中から〈引き出した〉というヘブル語マーシャーに語源的説明を求めているが、これは学問的には支持されない。…”(p.1063)とそのままを鵜呑みにすることは学問的ではないことを指摘しています。またフランシスコ会訳の2:10の脚注においても“「モーセ」は、男の子という意味のエジプト語の名(1・11に出る名「ラメセス」の一部「メセス」と同じ)。本節では「引き上げる」というヘブライ語動詞「マシャー」と発音が類似するという、通俗的な説明がされている。”と説明されています。ミルトスで出している『ヘブライ語聖書対訳シリーズ 3 出エジプト記 Ⅰ』においても“משה=「ⓐmes エジプト語で子、ⓑ引き出す者」”と脚注で、“ⓐⓑ 訳語や語根のとらえ方に二つ以上の意見がある場合”として二つの説を示しています。出エジプトの出来事があったエジプトの新王国時代(第18王朝、第19王朝、第20王朝)のファラオの名前の中から有名なものを見てみましょう。

イアフメス

トトメス

ラムセス

 ヒクソスを破りさらにヌビアに遠征しおとなしくさせエジプトを再統一を果たしたイアフメス、エジプトの領土を最大にしたトトメス、最も有名なファラオであるラムセスの名前を上の画像で取り上げました。彼らは神々+mesという名前の構成に成っています。ではモーセの名前がエジプト語のmesに由来する場合(彼がヤハウィスト伝承にあるようにエジプトの王女の養子であったのなら)、当然mesの前に何らかの神の名前があったと推察できます。

モーセの名前

 モーセはミディアンに逃れ、そこでミディアンの祭司エトロの娘を助けたことから彼の娘と結婚しそこに住みました。助けられた娘たちはモーセに対して父に報告した時、“2:19彼女たちは言った、「ひとりのエジプトびとが、わたしたちを羊飼たちの手から助け出し、そのうえ、水をたくさんくんで、羊の群れに飲ませてくれたのです」。” と言った事からも、服装も立ち居振る舞い、また名前も「エジプト人」と変わらなかったのでしょう。そうであるのならやはりモーセの名前には神の名が付されていたことでしょう。そして、それをいつ捨てたのか聖書は何も語っていません。もしかしたらモーセのその数奇な出生の物語、エジプトの神への勝利(十の災い)、コリント一10章で述べられているようなモーセの紅海での救いの原体験から、神々を捨てシナイ山で顕現され導かれた主なる神にメシティーフ(私が彼を引き出した)と名前の意義を求めたのかもしれない。

***2022年6月7日追記***

2011/6/7(火)の免独聖也 さんからのコメントで紹介いただいた「出エジプト記の秘密 消えたファラオとモーセの謎」(原書房)の本を10年以上経ってやっと買いました。

出エジプト記の秘密 モーセと消えたファラオの謎

***2022年10月30日追記***

ちょっと書き忘れていましたが、モーセの名前については「聖書の考古学 5 エジプトと聖書」(ピエール・モンテ著 みすず書房)に3ページほどの記述があります。

プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

 Yahoo!ブログからの引っ越し記事内のURLはリンク切れをしているものがあります(気が付いたらものからインターネットアーカイブに保存されているのならウェイバックマシンURLなどに修正などしております)。


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​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

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