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洗礼文 第8次式文(1982年) 


    洗礼式

  #洗礼式は、通常の礼拝では、説教の後に行なう。
  #洗礼式の前に讃美歌を歌ってもよい。
  #会衆は着席し、受洗者(幼・小児の洗礼の場合はその親が伴う)と教保は洗礼場に進み出る。
  #通常の礼拝以外で洗礼が行われる場合には、司式者は「父と子と聖霊のみ名によって」を唱え、「勧め」のことばをいう。


1.勧め
 恵み深い天の父は、洗礼によって私たちを主イエス・キリストに結びつけ、その死と復活と共に、私たちを罪と死から解き放ってくださいます。罪の子として生れた私たちは、洗礼によって神の子として新しく生れ、永遠のいのちを継ぐ者とされます。水と霊によって、キリストのからだである教会の肢(えだ)とされ、主と共に、また主の民と共に生き、神のみ旨に従う者へと育てられます。
  #司式者は、教保、親、保護者に向かっていう。 

 あなた(がた)は、キリストにある信仰と愛をもって、この兄弟姉妹(○○)を、洗礼にあずからせるためにここに伴いました。
 あなた(がた)は、彼(ら)と神の家の礼拝を共にしつつ、教会の交わりを保ち、彼(ら)のために心をくばり、神のみ旨に従って彼(ら)を助け、イエス・キリストの日まで、共に洗礼の恵みの約束のうちに生活しなさい。

  #幼・小児の受洗者の(居る)場合は、続けていう。

 また、この子どもらが成長するに従って、その手に聖書を持たせ、主の祈り・使徒信条・十戒を教え、堅信に至るまでキリストへの信仰を堅く育てなさい。


2.祈り
 洗礼を受けるためにみ前に出たこの(幼な子・兄弟・姉妹)○○のために祈りましょう。
  #司式者は聖卓に向かい、次のいずれかによって祈る。

 (1)
 全能、永遠の神、主イエス・キリストの父よ。
 この幼な子・兄弟・姉妹のためにお願いします。どうか、この幼な子・兄弟・姉妹に、洗礼の賜物と生まれかわりの洗いによる永遠の恵みを与えてください。 愛するみ子によって「求めよ。そうすれば与えられるであろう。捜せ。そうすれば見いだすであろう。門をたたけ。そうすれば開けてもらえるであろう」と約束してくださったように、彼(ら)とその願いを受けいれてください。
 み子、私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

 (2)
 全能、永遠の神よ。
 あなたは、信仰深いノアとその家族に、洪水によって罪の終わりを示し、彼らを大きなあわれみのうちに救い、新しいいのちの始まりである洗礼をかたどってくださいました。主の民がエジプトを脱出したとき、水の中を通って約束の地へ至らせ、洗礼を受ける者のしるしとしてくださいました。あなたのみ子イエスは、ヨルダン川でヨハネから洗礼の水を注がれ、聖霊を受けられました。み子の十字架の死の洗礼と新しい復活によって、私たちを罪と死から解き放ち、永遠のいのちの喜びへと導いてくださいました。
 主はまた、洗礼の水をみ国のしるしとし、私たちの新たないのちの保証として、洗礼を弟子たちに委ねられました。私たちは主の命令によって、洗礼を受け、また洗礼を施します。
 どうか今、この幼な子・兄弟・姉妹をかえりみ、まことの信仰のために祝福してください。あなたの恵みの洪水によって、すべての罪を滅ぼし、聖なる箱船である教会のうちに彼らを守り、み霊に燃えて主に仕える者へと育ててください。 こうして、すべての信仰者と共に、約束された永遠のいのちへ導いてください。
 私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

衆) 「アーメン」


3.聖書

   #司式者は次のうちから聖書を読む。

 聖なることばを聞きましょう。

  (一) ローマ 6:3-4

  (二) マルコ 10:13-16

  (三) ヨハネ 3:3-6

  #洗礼式が、礼拝以外のときに行なわれる場合は、司式者は洗礼者の頭に手を置き、周りの者と共に主の祈りをする。

司) 祈りましょう。
全) ~主の祈り~

5.宣言

  #司式者は、受洗者(また幼・小児の洗礼の場合には親または保護者)の各々に、もしくは一同にその信仰を問い、受洗者(また親、保護者)は答える。
  #受洗者が少年少女の年齢に達した者である場合には、その受洗者及び親(または保護者)も共に、問答が交わされたがよい。またその年齢に応じて、ここで説教を行なってもよい。
  #信仰についての問答は次の(一)(二)のいずれかによる。

主と会衆の前で、あなた(がた)に尋ねます。

 (一)
 あなたは、悪魔と その力と その空しい約束をことごとくしりぞけますか。

(答)「はい、しりぞけます。」

 全能の父なる神を あなたは信じますか。

(答)「はい、信じます。」

 父のひとり子、私たちの主 イエス・キリストをあなたは信じますか。

(答)「はい、信じます。」

 聖霊を信じますか。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを、あなたは信じますか。

(答)「はい、信じます。」

 あなたは この信仰のもとに キリストのからだに連なる者となり、みことばの教えを守り、恵みの手段を尊び、生涯をおくりますか。

(答)「はい、神の助けによって約束します。」


 (二)
あなたは、悪魔と その力と その空しい約束をことごとくしりぞけますか。

(答)「はい、しりぞけます。」

 天地の造り主、全能の父なる神を あなたは信じますか。

(答)「はい、信じます。」

 父のひとり子、聖霊によってやどり、おとめマリヤから生れ、ポンテオ ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られたかた、そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれる私たちの主 イエス・キリストをあなたは信じますか。

(答)「はい、信じます。」

 聖霊を信じますか。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを、あなたは信じますか。

(答)「はい、信じます。」

 あなたは この信仰のもとに キリストのからだに連なる者となり、みことばの教えを守り、恵みの手段を尊び、生涯をおくりますか。

(答)「はい、神の助けによって約束します。」 


6.授洗

  #受洗者は洗礼場にひざまずく。幼児の場合は親または保護者が抱いて洗礼場に立つ。
  #教保は受洗者と並んで側に立つ。

 私たちの主イエス・キリストは言われました。
「私は天においても地においても、いっさいの権威を授けられました。それゆえ、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊のみ名によって洗礼(または、バプテスマ)を施せ。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」

  #司式者は受洗者の頭に水を三度注ぐ。

「○氏名○」。私は あなたに洗礼を施します。
父と、
子と、
聖霊のみ名によって。

(受洗者)「アーメン。」

  #司式者は受洗者の頭に手を置いて祝福する。

 あなたのすべての罪をゆるし、水とみ霊とによってあなたを新たに生まれさせてくださった全能の神、私たちの主イエス・キリストの父が、永遠のいのちに至らせる恵みによって、あなたを強めてくださいます。


7.受洗者のための祈り

 私たちの主イエス・キリストの父なる神よ。
 洗礼によって、罪の力から解かれて 新しいいのちを与えられ、この幼な子・兄弟・姉妹が、み国の世継ぎの一人として受け入れられました恵みとみ心に感謝します。
 みことばと霊の糧によって彼(ら)を育て、日ごとに、あなたと共にある喜びを豊かに与えてください。
 み子、私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

衆) アーメン


8.新しい「しるし」

  #司式者は親指で受洗者の額に十字をしるす。

「○氏名○」。聖霊によって刻印された神の子であるあなたに キリストの十字架をしるします。

  #受洗者に洗礼名を与えることができる。

「○洗礼名○」。これがあなたに与えられる洗礼名です。


9.教会員への勧め

  #洗礼者は立って、会衆の方を向く。会衆は起立する。
  #司式者は会衆に向かっていう。

 神は、洗礼によってこの「○○」(または、幼な子・兄弟・姉妹)をキリストの家族、み国の世継ぎとしてくださいました。
 この兄弟・姉妹を受け入れ、この兄弟・姉妹のうちに始められた神のみわざが達成されるように祈ってください。

  #受洗者(と教保、親)は席にもどり、一同着席をする。
  #洗礼式を終えて堅信が行なわれる場合は堅信式に続く。
   堅信式のない場合は、通常の礼拝では「祝福の交換」とともに「奉献」に続く。

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カトリックミサ式次第

 開祭
1 入祭の歌

2 あいさつ
司) 父と子と聖霊のみ名によって。
会) アーメン。
司) 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。
会) また司祭とともに。

3 回心
司) 皆さん、神聖な祭りを祝う前に、わたしたちの犯した罪を認めましょう。
司) 全能の神と、
会) 兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。
司) 全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように。
会) アーメン。

4 あわれみの賛歌
先) 主よ、あわれみたまえ。
会) 主よ、あわれみたまえ。
先) キリストよ、あわれみたまえ。
会) キリストよ、あわれみたまえ。
先) 主よ、あわれみたまえ。
会) 主よ、あわれみたまえ。

5 栄光の賛歌
司) 天のいと高きところには神に栄光。
会) 地には善意の人に平和あれ。
   われら主をほめ、主をたたえ、
   主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る。
   神なる主、天の王、全能の父なる神よ。
   主なる御ひとり子、イエス・キリストよ。
   神なる主、神の子羊、父のみ子よ。
   世の罪を除きたもう主よ、
   われらの願いを聞き入れたまえ。
   父の右に坐したもう主よ、
   われらをあわれみたまえ。
   主のみ聖なり、主のみ王なり、
   主のみいと高し、イエス・キリストよ。
   聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。アーメン。

6 集会祈願
司) ・・・・祈りましょう。
   聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、
   支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。
会) アーメン。

 ことばの典礼
7 第一の朗読
朗)・・・・(朗読の終わりに聖書に一礼する)
奉仕者) 神に感謝。

8 答唱詩編

9 第二朗読

10 アレルヤ唱または詠唱

11 福音書朗読
司) 主は皆さんとともに。
会) また司祭とともに。
司) ・・・・による福音。
会) 主に栄光。
司) ・・・・(福音の終わりに)キリストに賛美。
会) キリストに賛美。

12 説教

13 信仰告白
全) わたしは信じます。唯一の神、
   全能の父、
   天と地、
   見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
   わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。
   主は神のひとり子、
   すべてに先立って父より生まれ、
   神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
   造られることなく生まれ、父と一体。
   すべては主によって造られました。
   主は、わたしたち人類のため、
   わたしたちの救いのために天からくだり、
   聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
   人となられました。
   ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
   苦しみを受け、葬られ、
   聖書にあるとおり三日目に復活し、
   天に昇り、父の右の座に着いておられます。
   主は、生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
   その国は終わることがありません。
   わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
   聖霊は、父と子から出て、
   父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
   また預言者をとおして語られました。
   わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
   罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
   死者の復活と
   来世のいのちを待ち望みます。
   アーメン。

14 共同祈願
司) ・・・・祈りましょう。
先) ・・・・ますように。
会) 主よ、私たちの祈りを聞き入れてください。
司) ・・・・。わたしたちの主イエス・キリストによって。
会) アーメン。

 感謝の典礼
15 奉納の歌
 奉納行列

16 パンを供える祈り
司) 神よ、万物の造り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、
   大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。
会) 神よ、あなたは万物の造り主。

 ぶどう酒と水の準備  

17 カリスを供える祈り
司) 神よ、万物の造り主、ここに供えるぶどう酒はあなたからいただいたもの、
   大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。
会) 神よ、あなたは万物の造り主。

 清めの祈り
18 祈りへの招き
司) 皆さん、このさざけものを、全能の、
   神である父が受け入れてくださるように祈りましょう。

19 奉納祈願
司) ・・・・。私たちの主イエス・キリストによって。
会) アーメン。

 叙唱前句
司) 主は皆さんとともに。
会) また司祭とともに。
司) 心をこめて神を仰ぎ、
会) 賛美と感謝をささげましょう。

20 叙唱
司) 聖なる父、全能永遠の神、いつどこでも主・キリストによって
   賛美と感謝をささげることは、まことにとうといたいせつな
   務めです。・・・・神の威光をあがめ、
   権能を敬うすべての天使とともに、
   わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います。

21 感謝の賛歌
先) 聖なるかな、
会) 聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。主の栄光は天地に満つ。
   天のいと高きところにホザンナ。
   ほむべきかな、主の名によりて来る者。
   天のいと高きところにホザンナ。

22 奉献文
   ・・・・・(第一・二・三・四奉献文の内どれか)・・・・・・・・・・・・・・・・・
   皆、これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される、
   わたしのからだである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと
   多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血で
   ある。これをわたしの記念として行いなさい。

23 記念唱
司) 信仰の神秘。
会) 主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。
司) わたしたちは今、御子キリストの救いをもたらす受難・復活・昇天を記念し、その再臨を待ち望み、いのちに満ちたこのとうといいけにえを感謝してささげます。あなたの教会のささげものを顧み、み旨にかなうまことのいけにえとして認め、受け入れてください。御子キリストの御からだと御血によってわたしたちが養われ、その聖霊に満たされて、キリストのうちにあって一つのからだ、一つの心となりますように。聖霊によってわたしたちがあなたにささげられた永遠の供えものとなり、選ばれた人々、神の母おとめマリアをはじめ、使徒と殉教者、聖○○○○(その日の聖人、または保護聖人) すべての聖人とともに神の国を継ぎ、その取り次ぎによって絶えず助けられますように。わたしたちの罪のゆるしとなるこのいけにえが、全世界の平和と救いのためになりますように。地上を旅するあなたの教会、私たちの教父○○○○世、わたしたちの司教○○○○(姓名)、司教団とすべての教役者、あなたの民となったすべての人の信仰と愛を強めてください。あなたがここにお集めになったこの家族の願いを聞き入れてください。いつくしみ深い父よ、あなたの子がどこにいても、すべてあなたのもとに呼び寄せてください。亡くなったわたしたちの兄弟、また、み旨に従って生活し、今はこの世を去ったすべての人をあなたの国に受け入れてください。わたしたちもいつかその国で、いつまでもともにあなたの栄光にあずかり、喜びに満たされますように。主・キリストを通してあなたはすべてのよいものを世にお与えになります。

24 栄唱
司) キリストによってキリストとともにキリストのうちに、
   聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、
   すべての誉と栄光は、世々に至るまで。
会) アーメン。

 交わりの儀
25 主の祈り
司) 主の教えを守り、みことばに従い、つつしんで主の祈りを唱えましょう。
会) 天にまします我らの父よ、
   願わくはみ名の尊まれんことを。
   み国の来たらんことを。み旨の天に行わるごとく、
    地にも行われんことを。
   われらの日用の糧を
    今日われらに与えたまえ。
   われらが人にゆるすごとく
    われらの罪をゆるしたまえ。
   われらを試みに引きたまわざれ、
    われらを悪より救いたまえ。

 副文
司) いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、
   現代に平和をお与えください。
   あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、
   すべての困難に打ち勝つことができますように。
   わたしたちの希望、
   救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。
会) 国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。

26 教会に平和を願う祈り
司) 主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。
   「わたしは平和をあなたがたに残し、
     わたしの平和をあなたがたに与える。」
   わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、
   おことばのとおり教会に平和と一致をお与えください。
会) アーメン。

 平和のあいさつ
司) 主の平和がいつも皆さんとともに。
会) また司祭とともに。
司) 互いに平和のあいさつをかわしましょう。
会) 主の平和。
会) 主の平和。

27 平和の賛歌
   「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、
     われらをあわれみたまえ。」
   「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、
     われらをあわれみたまえ。」
   「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、
     われらに平安を与えたまえ。」

 拝領前の祈り
   司祭は黙って祈る

28 拝領前の信仰告白
司) 神の子羊の食卓に招かれたものは幸い。
会) 主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、
   あなたをおいてだれのところに行きましょう。

 司祭の拝領

 拝領の歌

29 信者の拝領
司) キリストのからだ。
拝領者) アーメン。

 拝領後の感謝
30 拝領祈願
司) 祈りましょう。・・・・・・・・・・わたしたちの主イエス・キリストによって。
会) アーメン。

 閉会
31 派遣の祝福
司) 主は皆さんとともに。
会) また司祭とともに。
司) 全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。
会) アーメン。

32 閉会のあいさつ
司) 感謝の祭儀を終わります。
   行きましょう、主の平和のうちに。
会) 神に感謝。

退堂
 閉会の歌を歌うこともできる。

偶像崇拝・他

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偶像崇拝
2012/5/31(木) 午前 0:06

 ファンダメンタリストを見てみると、まあ、キリスト教に限らずイスラム教などにおいても、両宗教においては偶像崇拝が厳しく禁じられていますが、けれども実際には双方ともある意味広義の偶像崇拝に陥っています。

 ムスリムやムスリマをテレビなどのメディア媒体を通じてですが見ると、とてもアル・クルアーンを大切に扱います。敬虔な人になれば手で触れる前には手を清めたりし、決してクルアーンの上に物を置いたりしません。わたしたちから見ると、それはBiblolatryに見えます。そのためカルト牧師のテリー・ジョーンズ氏などが、クルアーンを焼くというこに対してイスラム圏では大きな反響を呼び、その報復として殺人などが誘発されたりしています。

 また、キリスト教ファンダメンタリストたちにも、似たような傾向が見て取れます。聖書の十全霊感や逐語霊感、その無誤性を強調するこれらの人々にも、このムスリムなどに見られるBibliolatryはあります。ムスリムらとは違い、聖書それ自体を焚書に処せられても、彼らのような過激な行動に出ることはありませんが、その崇拝性においては負けないものがあります。これらファンダメンタリストなクリスチャンにとって、まるで聖書は天からそのまま与えられたものであるかのように、とても絶対的なものとなっており、学問的な批判や批評も、また考古学的な事実や発見も、その他あらゆる事象も、彼らの信仰の事実こそが真実とされるメンタリティにあります。

 これらキリスト教ファンダメンタリストたちは、カトリック教会の聖変化したとされる聖体が崇拝されることを偶像崇拝だと非難しながら、実際には自分たちもBibliolatryに陥っています。

 まるで古代イスラエルにおいて、自分たちを導き上った神だとして、金の子牛を作り出し、それを崇拝しているかのようです。神のことば聖書が、いつの間にか神やキリストになり替わり崇拝の対象となってしまっています。

聖なる高台 金の子牛

 また、もう一つの偶像崇拝は、牧師や宣教師などの専従の教会奉仕職である牧会者たち個人に向けられるもので、これらの人たちに対する依存心はそのまま人間崇拝に結びつきやすいものとなっています。牧師が変われば教会の出席者も変わる傾向が、ファンダメンタルに限らずリベラルでも見られます。カルト化教会ではそれを利用して、信徒に服従を求め奴隷化したり、それらの人々への崇拝や崇敬行為を求めたりすることに至っている偽メシア現象まであります。

 こういった偶像崇拝に陥らないように、十分注意しなければなりません。崇拝している意識は無くても、いつの間にか神になり替わってしまっている場合があります。


*****

なんでもかんでも悪霊のせいにする
2012/6/12(火) 午前 0:43

 ペンテコスタルな教会の牧師の著書などを読むと、まともな教会の牧師や神学者たちのものとは違い、『悪霊(あくれい)』という言葉が頻繁に見られます。

 これらのことを強調する人は、よく東南アジア、南米、アフリカなどの地での宣教の体験を根底に置いている場合が見られ、これらの地で悪霊憑き状態の人の問題に出会い、悪霊の追い出しをするようになり、やがてこれらの宣教者の周りでも外的攻撃(オブセッション)が見られるようになり、それに対して「賛美」や「勝利の宣言」、「み名による命令」などをすることによってそれらを制するなどということも見られ、さらにこれらの行為や考え、信仰に埋没して行き、それがこちらの世界に戻ってからも第三世界で培ったマインドのままで、その体験に基づく信仰を実践しようとします。

 この結果としてシャーマン牧師による悪霊論が、聖書による「悪魔論」を追い出し、教会を異教のシャーマニズム化させる結果となり、キリスト教の「霊性」ではなく、オカルト的スピリチュアルな教会となってしまっています。

毒蛇を手でつかむパフォーマンスを行う教会


 これらのシャーマン牧師は、マルコ福音書の長い結びと呼ばれる後代の加筆箇所の『信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」』(マルコ16:17,18)の箇所を過度に強調し、時として毒蛇を手でつかむパフォーマンスを行う教会などもアメリカなどには見られます。

 これらの教会の礼拝は、パフォーマンスだけではなく、癒しや異言、ゴスペル音楽などといった、集団的恍惚状態を引き起こしやすい方式を行うことにより、アフリカや南米のシャーマニズムに見られる集会を都市型な形にして提供しています。このような精神の高揚状態により、様々な慿霊状態なども信徒の間に誘発されたりしやすくなります。

 これらのシャーマン牧師の教えるイエスは、当然のことながら現世利益的で、生臭いシャーマンといえます。

 伝統的なローマ・カトリック教会やギリシャ正教などに見られる「悪魔払い」とは、明らかに違います。カトリック教会などの場合、悪魔憑きの認定にはとても慎重です。「ローマ典礼定式書(Rituale Romanum)」というラテン語の儀式書には、エクソシズムに関する項目があり、それらに対する諸条件が記されています。

 また、これらペンテコスタルのシャーマン牧師は、カトリックのように慎重な姿勢や儀式の際に医師などの医療従事者などの立ち会いを求めたり、悪霊憑きと認定する場合もカトリックのように医師との協力関係に行うのではなく、医師や医療自体を否定し、病気の原因を気質的要因に求めるのではなく、信仰がないためだとか、安易に悪霊によるものと判断し、医師による治療ではなく悪霊払いを受けることを強要します。

 このようなシャーマニズムは、聖書のいう「悪魔払い」や「いやし」などとは全く関係がなく、異教の第三世界から持ち込まれたものにすぎません。もし、行っている教会にこのような特徴が見られたのなら、一度立ち止まり冷静になってから、他の教派・教会を回ってみるのもいいと思います。


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なぜに独立させないのか
2012/6/15(金) 午前 0:11

 カルト化や問題のある団体などを見て行くと、メガ・チャーチとセル化という現象が視界の片隅にちらちらと見えてきます。霊的権威性や牧師などの独裁化と、何となくどこかが繋がっているようにも感じられます。

 米国や南米、アフリカ、韓国などに顕著に見られるメガ・チャーチですが、何百人、何千人もの人が一つの教会のワーシップに与り、人気牧師の宗教ショーに一喜一憂するのですが、まあ、一つの会場に入りきれませんと、別会場とネットや電話回線などを通じてメイン会場のステージで繰り広げられる宗教ショーが配信され、それらの会場でも一つのワーシップに与るという方式です。

 しかし、この方式だと牧師による牧会というものは不可能ですので、これをいくつかの小グループに分けて、ホームチャーチやホームティーチングなどを別なスタッフである牧師や伝道者、またはその他のスタッフや奉仕者に任せて、牧会をしているようです。体は一つですが、それを細胞単位に小分けにして管理しているのでしょう。

 信徒にとってメインパーソナリティーである牧師は、まるであこがれのTVスターのようです。しかし、一人の牧師が信徒一人一人を認識したり、こと細かく牧会したりすることは不可能です。

 このような団体を見ると、なぜ分会して独立した教会にしないのかと思います。しかし、そうはできないのでしょう。これは普通の教会と違い、人気スターに群がるファンのようなもので、メイン牧師のパフォーマンスやショーに群がっている集団なのでしょう。そのためメイン牧師のスキャンダルが発覚すると求心力が低下して、一気に教会の信徒離れに繋がったりします。

 この風潮が牧師などの勘違いを助長し、奉仕者から主人へ、キリストの座を独占してしまう原因ともなっているのかもしれません。

 そこには、かつての信徒の事なら何でも知っていて、信徒から親しまれる村の主任司祭や牧師のような姿はありません。再び考えて見てもいいのかもしれません。このような傾向は果たして良いのかと。


****

偽預言者
2013/10/25(金) 午後 2:20

“申命記18:20ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。 18:21あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。 18:22もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。”

リトル・ペブル

日本でリトル・ペブルことウィリアム・カムが日本に広く一般に紹介されるきっかけとなった鬼塚五十一著 ムーミステリーブックス「戦慄の聖母預言」(上・下) 学研を古本で買ってちょっと読み返してみました。

旋律の聖母預言上・下 URL


 その本ではリトル・ペブルについて“オーストラリアのウーロンゴング(シドニーから南に50㌔)に住み、1983年から聖母の出現を受けているリトル・ペブル(37歳)だ。彼もまたトランペッターと同じく「黙示録」に預言されている人物である。”(p.64)と紹介されています。そして、出現した聖母を幻視してメッセージを受け取ったとし、いろいろとその聖母とやらの預言というのかメッセージなるものを、鬼塚氏はこの手のオカルト雑誌月刊ムー的な手法で、この手の雑誌の読者に信じ込ませるようにいろいろと周りを信憑性を持たせるために、カトリックの聖母出現譚やその手の話題で固めて紹介しています。その中で、“1980年代後半にリトル・ペブルが来日し、当時戦後の日本のカトリック教会復興事業で既に著名であったメリノール宣教会のカトリック司祭、レオ・スタインバックを感化・活動に加入させ”(Wikipedia)ていたので、利用される形であったスタイバック神父などもリトル・ペブルの周りを固める材料とされています。現役のカトリックの司祭の登場は信憑性を持たせるには十分な素材であったといえます。

京都教区時報 1992年5月1日発行(4・5月号) レオ・スタインバック神父について
( http://www.kyoto.catholic.jp/new/backno/177.pdf )

 この本の中から、リトル・ペブルが受けたと称しているメッセージを少し見てみましょう。

“「ヨハネ・パウロ2世の治世は終わりに近づいています。子供たちよ、まもなく彼は声明を発表し、そして何回も預言されたとおり、(ヴァチカンの)大分裂がもたらされます。そのとき、善人と悪人が区別されます。」(1984年10月7日)”、“…愛するわが子よ、あなたこそは真にペテロであり、この岩であるあなたの上に私はわが教会を再建し、刷新し、救うからである。あなたはヨハネ・パウロ2世教皇の逝去、つまり殉教のあと、真の後継者となるからである。そしてこのことは、あなたと一致しているすべての幻視者を通じて、全世界に知れわたるだろう。それだから、わが子よ、確信していなさい。天は、ヨハネ・パウロ2世の真の唯一の後継者は、あなたであると公教会と世界が知るための計画を持っている。そしてあなたは『Peter the Roman, Peter the Second』(ローマ教皇、ペテロ2世)と呼ばれるのである。あなたは歴代の教皇が選挙で選ばれたように選出されるのではないが、これは最後の教皇が世の終わりまで統治するようにと定めた天の計画なのである。わが子よ、このことを今日私があなたを通して伝えたこのメッセージにより、全世界に知らせなさい。それからヨハネ・パウロ2世の逝去後、ペテロの聖座に自分でつく者は反教皇であることに注意せねばならぬ。その名は(枢機卿の)カザローリであり、彼は悪魔を拝んでいる者なのである。…”(1987年6月19日、キリストがリトル・ペブルに与えたと称するメッセージ)

ピウス12~フランシスコ

 第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は2005年4月2日逝去され、18日から開かれたコンクラーベにて、翌19日午後6時(日本時間20日午前1時)にドイツ出身の教理省長官であったヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー枢機卿が第265代ローマ教皇として選出され、ベネディクト16世となられました。リトル・ペブルに現れたとする聖母もキリストもものの見事に預言を外しました。そして、この年の7月、2002年8月に15歳の少女への性的虐待で逮捕されて裁判にかけられていたリトル・ペブルことウィリアム・カムに、懲役5年の有罪判決が下りオーストラリアのニューサウスウェールズ州のシルバーウォーター刑務所にて服役しました。なんとも皮肉なことです。

申命記18・20-22

 しかし、教祖がこのようになってもオーストラリアの聖シャーベル修道会も、また日本にある聖シャーベル修道会から破門のようになったリトル・ペブル同宿会も、いまだにリトル・ペブルを信じている姿に宗教の持つ麻薬性のようなものを感じます。これはオウム真理教の継承団体である「アレフ」が麻原回帰を果たし、いまだに熱心に帰依しているのと同じなのでしょう。

洗礼者ヨハネ、神の愛の「福音」に帰ろう

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洗礼者ヨハネ
2012/2/2(木) 午後 1:45
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/8382197.html

サバクトビバッタ
(Wikipediaより、パブリックドメイン画像)

 この前YouTubeで動画をいろいろと見ていましたら「イエス・キリストの謎に迫る」というナショナル・ジオグラフィックからの動画がありました。

http://www.youtube.com/watch?v=uw1G4rBq7g0&feature=related

この中で洗礼者ヨハネが出てきて、生きた蝗を捕まえて食べる場面がありました。福音書の中にヨハネがイナゴと野蜜を食べ物としていたことは、誰でもが知っていることですし、レビ記11:22に食物規定(カシュルート)として4種の昆虫を食べてもよいことが記されていることも知られたことです。

 しかし、どのように食べていたかはあまり触れられてこなかったように思われます。手元にある本にはそのことについて書かれているものはキリスト教サイドの本にはありませんでしたが、ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)の『聖書に対する洞察』の本には『…サバクトビバッタはその75%がたんぱく質でした。今日では食用にする際、頭、脚、羽、腹の部分が取り除かれます。残った部分つまり胸部は、調理するか生のままで食されます。』(242頁)との記述がありました。ものみの塔の本ですからどこまで信用できるかは難しいところですが、特に教義に関わるところでもないので、この記述に関しては信用してもよいかもしれません。

 調理して何かに混ざっていたり、せめて素揚げならあれですが、生でそのままいただくというのは抵抗がありますね。その点日本のイナゴの佃煮はまだましかもしれませんね。

 さて、レビ記11章22節を文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳第2版・第3版、フランシスコ会訳(11年合本版)、岩波訳、七十人訳の秦剛平訳、新世界訳の訳語を比べてみると、見事なくらいバラバラでした。以下にそれぞれを記します。

 アルバ(’arbeh) LXX(βρουχον)
文語訳:蝗蟲【いなむし】の類
口語訳:移住いなごの類
新共同:いなごの類
新改訳:いなごの類
フラン:蝗【いなご】の類
岩波訳:トノサマバッタの類
秦剛平:蝗【いなご】と同類のもの
新世界:移住いなご

 ザールアーム(sol’am) LXX(αττακην)
文語訳:大蝗【おほいなご】の類
口語訳:遍歴いなごの類
新共同:羽ながいなごの類
新改訳:毛のないいなごの類
フラン:ソルアムの類
岩波訳:ヒシバッタの類
秦剛平:羽長蝗と同類のもの
新世界:食用いなごの類

 ハルゴール(chargol) LXX(ακριδα)
文語訳:小蝗【こいなご】の類
口語訳:大いなごの類
新共同:大いなごの類
新改訳:こおろぎの類
フラン:ハルゴルの類
岩波訳:こおろぎの類
秦剛平:バッタと同類のもの
新世界:こおろぎの類

 ハーガーブ(chagab) LXX(οφιομαχην)
文語訳:螇蚸【はたはた】の類
口語訳:小いなごの類
新共同:小いなごの類
新改訳:ばったの類
フラン:ハガブの類
岩波訳:羽長蝗の類
秦剛平:姫蜂と同類のもの
新世界:ばったの類


 ウィキペディアなんかを見ると、イナゴ(Catantopidae科)は大群となって蝗害を起こすことはなく、アルバ(出エジプト記10章でアルバは蝗害を起こしている。)はバッタ科のバッタであり、サバクトビバッタであるとの見解が書かれていました。そうすると大群となって蝗害をおこすトノサマバッタと訳した岩波訳は妥当な訳と言えるのでしょうね。また、これらザールアーム、ハルゴール、ハーガーブは実際はよくわかっていないものですから、フランシスコ会訳のようにそのまま音訳とするのもいいのかもしれません。

 しかし、虫嫌いとしては、生でバッタを食べるというのはぞぞ毛がたちますね。


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神の愛の「福音」に帰ろう
2013/10/8(火) 午後 2:08
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12133686.html

 映画「塩狩峠」の一場面に、俳優の滝田裕介さん演じるキリスト教の伝道者伊木一馬が辻にて、朝から暗くなっても道行く人々に伝道する路傍伝道の姿とそれを聞いている主人公の場面が出てきます。

「塩狩峠」より

「塩狩峠」より 2

 この場面で、伝道者は次のように道行く人々に語りかけています。

皆さん、本当の愛とはどんなものか、皆さんには分かりますか。
皆さん、愛とは自分の最も大事なものを人にやってしまうことです。
最も大事なものとは何でありますか。
それはいのちであります。
愛とは、自分のもっとも大事なものを人にやってしまうことではないでしょうか。
最も大事なものは何でありますか。
いのちであります。

十字架に掛かりたる  救い主を見よや
是(こ)は  汝(なが)犯したる  罪の為
唯(ただ)信ぜよ 唯(ただ)信ぜよ
信ずる者は誰(たれ)も 皆救われん

皆さん、しかし、私はたった一人、世にも馬鹿な男を知っています。
その男とは、イエス・キリストであります。
イエス・キリストは何一つ悪いことをなさらなかった。
そのイエス・キリストが十字架に掛けられたのであります。
自分の命を犠牲として、我々に与えてくださったのであります。
彼は自分は悪くないと言って、逃げることができたはずであります。
しかし、彼はそれをしなく、悪くない者が悪い者の罪を背負い、
悪い者が悪くないと言って逃げ、
ここにはっきりと神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。
しかも皆さん、十字架につけられた時
イエス・キリストはその十字架の上で己を十字架につけた者のために、キリストはこう祈ったのであります。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」
聞きましたか皆さん、今、自分を刺し殺す者のために
何をしているのか自分でわからない彼らを
お赦しくださいと祈ることのできるこの方こそ
人の姿を取られた神の子そのものであることを、私は信じるのであります。
私はこの人となった神、イエス・キリストの愛を知っていただく為に、東京からここへやってまいりました。十日間というもの、町々で叫び続けてきましたが、誰も耳を傾けませんでした。
しかし、聖書はこのように約束しています。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」
今でも心を開いて、我々の罪の為に、十字架の上に死んで三日目によみがえられた活ける神の子イエス・キリストを受け入れるなら、
あなたは救われて、新しい命を歩むことができるのです。
天にまします…

 今日、このような辻説法というか路傍伝道はトンとお目にかかりません。私のすでに亡くなった両親から、両親が子供の頃、まだ戦争が始まるずっと前のことですが、「耶蘇が赤い縁取りの聖書をもって、道端で信ずる者は救われると歌いながら布教していた。話しを聞くと赤い縁取りの聖書をもらえた。」と聞いたことがあります。聖書も今では、小口が赤いものは日本語訳では見かけなくなりました。絶版となったラゲ訳の当用漢字版が、新刊で小口が赤いものの最後のような気がします。

 この映画の伝道者の言葉は、「福音」であります。では今街中にあるキリスト教看板やそれを貼り付けている団体による街宣伝道、また、一部の福音派や聖霊派の行なっている街頭での伝道や配布されているチラシなどのメッセージは、「福音」でしょうか。

 1903年に三谷種吉によって作詞され、日本福音連盟の「聖歌」に収められている聖歌424番「ただ信ぜよ」(「十字架にかかりたる」)の歌詞は、この素朴な「福音」のメッセージをよく表しています。また、路傍伝道にて広く歌われたため、キリスト教徒でない人でもキリスト教とは、キリストを「信ずる者は救われん」であることが知られています。

 キリスト教看板も断罪のメッセージではなく、本当の神の愛の「福音」、良い便りを知らせてもらいたいものです。この「福音」を伝えているのかで、偽物のキリスト教が第一の篩にかけられ見分けられます。エホバの証人(ものみの塔協会)の布教などは戸別訪問伝道を行っていることもあり、その伝道に遭ってしまう可能性の高いものですが、しかし、彼らのメッセージは先ほどの映画のものですが、そのような内容と比べてどうでしょうか。彼らの喜ばしいたよりとは、世の終わりの大患難やハルマゲドンを生き延び、最後の審判にて地上の楽園に生き残ることにしか過ぎません。また、ファンダメンタリストでディスペンセーションなんかを信じる人々も終末や携挙なんかの比率は高いですし、聖霊派などの神からの祝福と呪いなどの現世利益や奇跡追求型のメッセージも「福音」から大きく離れています。

 キリスト教はリベラル・エキュメニカル派、福音派・聖霊派問わず、神の愛の「福音」に帰ろう。ということにこころを砕いてもらいたいですね。これはわたし達の信仰の礎を、この国に築いた先達者たちの伝えた「福音」であります。もう一度この足元に目を向けて、神の愛の「福音」に帰るべきでしょう。

創造主訳聖書について

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改ざん聖書
2013/5/19(日) 午後 8:02
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11578848.html

創造主訳聖書とその広告

 創造主訳聖書というものが、今年のイースターに、ロゴス出版というところから出版されたようです。これはクリスチャン新聞にも報じられていたものです( http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=2446 )ので読んだ方は知っていると思います。

 広告の値段を見るとかなり安いと言えるでしょう。ロゴス出版のホームページを見てみますと、この聖書の売りとして、次のように書いてありました。

“ 創造主訳聖書~ビックリするほどよくわかるそのワケは?
■ ポイント1 偶像以外の「神」表記をすべて「創造主」に変えました!
■ ポイント2 本文中の多彩な図版により理解度が大幅にUP!
■ ポイント3 創造の視点から世界を説明!
■ ポイント4 巻末のカラ―図版が充実!
■ ポイント5 本文の文字、図版を拡大できるルーペしおり付き!”

 読むと聖書の「神」表記を「創造主」に変えたといっています。また、“底本に「現代訳聖書」を使用し、「神」を「創造主」と訳した日本で初めての聖書”と言っています。

はてな

 えっ? ということは一からヘブライ語やギリシャ語の底本となる校訂本文から訳したものではない! リビングバブルと同じ二次的なものだよね。ってことになります。そして、底本としたのが尾山令仁氏の個人訳である、あの「現代訳聖書」というのも……という感じです。

 出版の理由にはこのようにありました。

“ 創造主訳聖書の出版理由~聖書の創造主は一般的日本人の「神」概念ではない~
 今日に至るも、夫々の聖書の改訳が随時試みられています。その理由は、異なる言語において、二個の言葉が同一の形態において、同一量の意義を含有し、同一様の連想を明示する事が至難の業であるからです。とりわけ訳語中の「神」について、古くから適訳か否か論じられてきました。日本において「神」というとき、それは一般に八百万の神や汎神論の神であって、聖書の創造主ではありません。日本において、人口の99パーセントはキリスト者ではなく、「神は愛である」と語りかけても、相手の思考する神は聖書の創造主・唯一の全能者ではなく、同語意議のかみ合わない会話となる場合が多いのです。
 2000(平成12)年7月3日の朝日新聞に、「『ゴッド』の誤訳が原因?」の見出しによる菅原伸郎氏の一文が掲載されましたが、その中に次のような記載がありました。「静岡県のある宮司が日本人の神観念を説明し、このように指摘した。『明治以前の日本では、神道の神、仏教の仏、キリスト教のデウスは区別されていたが、プロテスタントが「ゴッド」を「神」と訳して怪しくなった。カトリックは「天主」を使っていたがプロテスタントに譲歩した。その結果、話がかみ合わないばかりか、誤解に拍車がかかった』。かといって、神社本庁公認の『神』の定義があるわけではない。・・・日本キリスト教団が97年に改訂した『讃美歌21』は、『あめつちのかみより たすけぞわれにきたる』の歌詞を『天と地を造られた神のもとから来る』にすることなどしているが、『神』自体は変えていない・・・」。
 そこで委員会は、和訳後の中でも信仰生活の基軸ともなる「神」という言葉を「創造主」と翻訳することにより、聖書理解を容易にするだけでなく、更に直截に聖書の真理を伝えることに寄与できるのではないかとの確信に至りました。” 

 大和言葉の「かみ」や漢字の「神」の成り立ちは、その通りなのだが、そもそも翻訳しその国の言語に置き換えるとは、そういうことであるのは当たり前であろう。旧約聖書続編のシラ書の冒頭にある「序言」には、“というのは、元来ヘブライ語で書かれているものを他の言語に翻訳すると、それは同じ意味合いを持たなくなってしまうからである。”(序言21~22節)とあるように当たり前の事です。そして、“カトリックは「天主」を使っていたがプロテスタントに譲歩した。”って、私が持っている明治に翻訳されたE.ラゲ訳の新約聖書の昭和27年13版でも、同じラゲ訳の昭和34年当用漢字版第一刷でも、昭和56年のバルバロ訳、フランシスコ会聖書研究所訳の聖書でも手にして見直してみても、普通にギリシャ語「 θεός 」の部分は「神」と訳されています。また、第二バチカン公会議以前に、カテキズムや典礼に使われていたとしても、普通、それを譲歩とは言わないだろうと思います。なぜなら、すでに聖書の翻訳ではそうなっていなかったのですから。また、讃美歌と聖書の翻訳を同列に扱うこの考え方にも賛同はできません。

 この出版を提案したのは、堀越暢治氏です。この方は昔、現在ハーベストタイムの中川健一氏が、二代目ホストを勤めた福音伝道番組「PTL 主をほめよ」というテレビ番組に、よく出ていました。そこから貰った新約聖書には、当時、四日市教会の牧師であった堀越氏の「聖書の読み方」という短いお話が載せられていました。また、この人は反進化論の本なんかを書いていたと記憶しています。まあ、お決まりの疑似科学というものだったと薄っすら覚えています。

 堀越氏は次のように出版の経緯を語っています。

“異なる神概念
 みなさんは、「神様」というとどんな神様を思い浮かべますか?クリスチャンホームで育った人、長年信仰をもっている人は、当然、天地万物の造り主を思い浮かべるでしょう。しかし、神主の次男として生まれ、神社のなかで育った私にとっては、「神様」といえば神社の神様でした。聖書で神様が天地の創造主だというので少なからず抵抗を覚え、賀川豊彦先生にも「神が創造主だなんてとんでもない」と直談判したほどです。
 そんな私が聖書を信じるようになり、人々に「神様を信じてほしい」と言うと、今度は相手が「俺は神様を信じているよ。木にも石にも神様は宿っているんだ。それがわかんないあんたはかわいそうだ」と返事してきます。「そうじゃなくて・・・」と相手の神を否定しなければ真の神を伝えられず、ほとんどの場合、相手は心を閉ざしてしまうのです。「神」を伝えたいのに、「神」ということばが噛み合わない、こんな問題を感じたことはありませんか?私はこの問題に苦慮してきました。
 ある時、沖縄の土着の宗教から聖書の福音に集団改宗が起こったと聞いたので、その集団のリーダーの人を訪ねたことがありました。その方は、「自分たちはかつて『神』を念じて祈ってきたけれど、イエス様を信じて救われたのです。それなのに聖書を読むとまた『神』とあり、混乱してしまいます。『神』と訳されたことばを変えてほしいのです」と言われました。そこで、同じような問題に直面しているのは私だけではないことを知ったのです。
 
なぜ「創造主」なのか
 韓国や中国にも「神」ということばが昔からあります。しかし、聖書が翻訳されるとき、あえて「神」と訳す代わりに韓国では「唯一の方(=ハナニム)」、中国では「上帝(※)」と訳されて、偶像神との混乱を避ける翻訳がなされています。英語の聖書でも、「God(創造主)」と「god(偶像神)」で使い分けがなされています。日本でもキリシタンの時代に、「デウス」「天主」と訳されていました。明治時代に聖書が翻訳されたとき、翻訳者は「神」と書いて「シン」と読んでもらうつもりだったそうです。しかし、ふりがながなかったため、人々は「カミ」と読み、その読み方が定着しました。
 ところで国語辞典で「神」と引くと、いくつもの項目の最後の方に「キリスト教の神、創造主」と出てきます。逆に「創造主」と引くと「キリスト教の神」と出てきます。一般の人々は「創造主」ということばのほうが、聖書の「神」を指すことばだと思っているようです。そこで、聖書の内容が伝わるという見地から、「神」訳とは別に「創造主」訳が必要だと長年祈り求め、また多くの方々に訴えてきたのです。 そして私自身、「創造主」を用いるようになってから、福音が伝わりやすくなったと実感しています。”

 どうも日本語の訳語としてという面からは、とても納得のゆくものではありません。また、沖縄の人の“イエス様を信じて救われたのです。それなのに聖書を読むとまた『神』とあり、混乱してしまいます”との感覚がそもそも理解できません。本当に聖書を読んだのだろうか。ちゃんとした伝道を受け、そして学びなどして洗礼まで導かれたとは思えません。体験主義による改宗の弊害なのだと思います。

 これではエホバの証人として知られる「ものみの塔聖書冊子協会」が、自分たちの教義や理念にあわせて、翻訳し、出版した、「新世界訳聖書」と変わらないではないかと思います。彼らも新約聖書で「κυριος」となっている語の内、旧約からの引用などの箇所や他で、「κυριος」の訳語である「主」を用いないで、「エホバ」と改ざんしているのと、何ら代わりが無いではないかと思ってしまいます。

 翻訳者の能力不足による誤訳ならまだしも、恣意的に本文を改訂するということに強い嫌悪感を覚えます。同じ二次的なものとして、ナニワ太郎氏の「コテコテ大阪弁訳「聖書」」がありますが、こちらのように“イエス・キリストはんの生涯を、大阪弁で楽しむのも一興でっしゃろ”と後書きで言っているように、読み物として楽しむものならわかりますが、創造主訳聖書刊行会の実行委員として

“峯野龍弘(代表)
ウェスレアン・ホーリネス教団・淀橋教会主管牧師。日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長。

堀越暢治
創愛キリスト教会主任牧師。学校法人キリスト教学園名誉理事、学校法人グレイス学園めぐみの園理事長、いのちありがとうの会理事長。

長谷川 義信
日本聖契キリスト教団・寒川キリスト教会牧師。日韓親善宣教協力委員会書記、日本国際飢餓対策機構(NGO)地区推進委員長、世界食糧デー湘南大会実行委員長。

佐々木 満男
国際弁護士。アブラハムささき法律事務所代表、インターナショナルVIPクラブ(東京大学)顧問、ラブ・クリエーション(創造科学普及運動)会長。

本間義信
ウェスレアン・ホーリネス神学院教授

工藤公敏
キリスト兄弟団・目黒教会牧師

石川弘司
日本同盟基督教団・聖十字架教会牧師

小坂圭吾
ロゴス出版社/パーパス・ドリブン・ジャパン代表。聖書キリスト教会牧師。

宇佐神実
水戸第一聖書バプテスト教会牧師。ジェネシスジャパン会長。”

などのキリスト教関係者( 中にはネットなどで問題があると指摘されている人も混ざって入るようですが )として、その名を連ねている分、性質が悪いと感じられます。


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違和感
2013/9/4(水) 午後 1:18
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12004299.html

 以前、創造主訳聖書発売前にこの聖書について書きましたが、実際手にとって見るとやっぱり違和感があることが否めないのと、ある方向性をもった聖書であることが分かります。

 ビニールカバーが付いていることや、ルーペしおりが付いていること、小口インデックスがあること、小見出しがあること、厚さが新旧約聖書であるにもかかわらず新共同訳のハーフボリュームバイブル程度であることや同じく横書きであること、三千円程度と安価なことなどは評価できる点です。悪い点としては、ルビが振られていない、ベースが現代訳であること、「神」の語に代わり「創造主」になっていること、巻末にあのAnswers In Genesis ( アンサーズ・イン・ジェネシス、AIG )の創造論の9ページほどのカラーページがあることなどが挙げられるでしょう。

創造主訳聖書 巻末付録 記名

 “初めに、創造主が天と地とを創造された。”の表現で始まるこの聖書は、やはり喉の奥に何か引っかかる感じがします。もともと「造り主」「創造者」という語は別にあり、神(エル、エロヒーム)とは別な語です。エレミヤ10:16はこの点が顕著な違和感を持っています。“ヤコブの創造主は、そんなものとは違う。主は万物の造り主であり、イスラエルは主ご自身の民で、主は全能の主であられる。”この箇所を読むと元の形は「ヤコブの神」となるのでしょうが、ここで「創造主」としてしまうと、意味が極端に限定されてしまい、神の矮小化に繋がっています。さすがに「造り主」はそのままにしているようです。また「創造主」「造り主」と二重に出てくるのにも違和感を覚えます。もっと探せばいろいろ出てきそうではあります。機械的に「神」を廃して「創造主」に置き換えているので、日本語としても違和感があります。こんなことをこの聖書を開いてみて思ったことです。

 最近は「聖霊の第三の波」・「後の雨」・「繁栄の神学」系のマルコーシュバブリケーションでは、新約はテクスト・レセプタスによる現改訳聖書出版を目指しており、福音派ファンダメンタル・「繁栄の神学」系のエターナル・ライフ・ミニストリーズからもテクスト・レセプタスから訳されてすでに版権の切れた明治元訳「新約全書」と永井直治訳「新契約聖書」(修正版)が出版され、おそらく自分たちのオリジナルの訳なのでしょう、これもテクスト・レセプタスから訳された「新約聖書」も第一巻(マタイ~ルカ)が出版され、残りも暫時発行されるようです。このように近年は自分たちの主義主張にあわせた翻訳の聖書が出版されるようになりました。


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創造主訳について
2013/9/16(月) 午前 8:39
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12048856.html

 ロゴス出版の「創造主訳聖書」について、過去に二回ほど書きました。これらの記事を読んでもらえると分かるとおり、かなり否定的にこの聖書については見ています。

 元日本長老教会四日市教会の牧師を勤められ、現在単立創愛キリスト教会の主任牧師であられる堀越暢治 師の原体験が元になってこの聖書の出版が発起されたように見えます。それはロゴス出版の“「創造主訳聖書」出版の経緯”( http://www.logos-pb.com/ )や“2013年6月24日に行われた「創造主訳聖書出版記念講演会」の堀越暢治師による講演の模様をCGNTVにて配信”( http://japan.cgntv.net/newsub.asp?pid=2770 )されている動画、また単立創愛キリスト教会で4月7日に行なわれた堀越師による「創造を信じること」という礼拝メッセージの動画( http://www.youtube.com/watch?v=YsMrSfQnTbM )などを見るとそうなのだと思われるものです。そして、この堀越師の原体験と熱意からこの聖書の改ざんがなされたようです。

創造主訳聖書 記名

 確かに日本語として、大和言葉の「かみ」や漢字の「神」の成り立ちやその意味において、聖書の神とは相容れない概念があるのは、それはいたし方が無いことです。それがまた翻訳の限界ということです。使徒パウロを初めとした初代教会が、ヘレニズムの多神教世界、それも人間が自然発生的にあったとする創造主の概念の無いギリシャ・ローマ神話の世界に出て行った時、彼らは神概念の違う彼らに伝道する際、ギリシャ語に訳された旧約聖書の神(θεός)と訳された語を使わずに、創造者・創造主・造り主(κτίστης)に置き換えたなどということはありませんでした。使徒たちや初代教会のとった行動は、堀越師やその同調者達とはまったく違ったしかたといえます。もし、神と訳すのが問題なら、かつての信長の時代の宣教師達のように「神」を訳さずラテン語の「デウス」と音訳したように、現在の日本語訳聖書でも「シェオール・ハデス」「ゲヘナ」「アーメン」など多くの語が音訳されているように、「神」の語もそのまま音訳として「אל」は「エル」とし、「 אלהים 」は「エローヒーム」と音訳すればいいだけです。そしてその説明などを前書きや後書き、凡例などに明記すればよいだけではないかと思います。

 マタイの福音書から幾つかの箇所を見てみましょう。動的等価法(Dynamic and formal equivalence)で日本語に翻訳された創造主訳、現代訳、共同訳で読み比べてみましょう。

マタイ7:13,14
創造主訳・現代訳;罪や欲望を持ったままでは決して入ることのできない天国への狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、罪や欲望を持ったままでも十分に入れます。また、そこを通って行く人は沢山います。しかし、救いに至る門は極めて小さく、その道は狭く、罪や欲望を持ったままで、入ることはできません。また、そこを通って行く人は決して多くはありません。

 これはひどいと感じる訳文です。裏を返せば「罪や欲望」を自分で捨てれて、それを捨てさえすれば救いに至る狭い門と狭い道は通れるということになり、それでは仏教の教えになってしまいます。

共同訳;「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としていて、そこから入る者が多いのだ。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない。」

マタイ18:17,18
創造主訳;ところが、それでもなお聞き入れないなら、教会に言いなさい。教会の言うことも聞こうとしないなら、その人を除名してもよろしい。よく言っておきますが、確かに、教会がこの地上で行使する権能は、天のお父様からのものです。

現代訳;ところが、それでもなお聞き入れないなら、教会に言いなさい。教会の言うことも聞こうとしないなら、その人を除名してもよろしい。よく言っておきますが、確かに、教会がこの地上で行使する権能は、天のお父様の裁可を得たものと考えて差し支えありません。

 ここでも原文には無いことばによって、「除名」ということを肯定するものとなっています。それが神の裁可のあるものとの尾山師の理解が入り込んでいます。きっと尾山師の単立教会ではそうなのだろうなと推論してしまう訳文です。

共同訳;それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か税金取り同様にみなしなさい。はっきり言っておくが、お前たちが地上で禁止することは、天上でもそのまま認められる。お前たちが地上で許可することは、天上でもそう認められる。

マタイ26:26~28
創造主訳・現代訳:…「取って食べなさい。これは、わたしが十字架で裂かれる体を表しています。」…「皆、この杯から飲みなさい。これは、わたしが十字架に掛って、あなたがたの罪を赦すために流す血を表しています。これこそ、救いの契約にほかなりません。

 この訳文では、原語のエスティン(である)が「表している」と置き換えられることによって、ホスチアとカリスが単なる象徴に過ぎないとの解釈に立った訳文になっています。

共同訳;…「取って食べなさい。これはわたしの体である」。…「皆、この杯から飲みなさい。これは罪がゆるされるように、多くの人のために流すわたしの血、契約の血だからである。

マタイ28:19
創造主訳;ですから、あなたがたはあらゆる国の人々を弟子としなさい。それは、出て行って、父と子と聖霊の三位一体の創造主のお名前によってバプテスマを授け、

現代訳;ですから、あなたがたは出て行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。それは、父と子と聖霊の三位一体の神のお名前によってバプテスマを授け、

 これもひどいとしか言いようの無いものです。かつてエラスムスに対してなされたコンマヨハンネウムの写本改ざんと同種の改ざんといえます。

共同訳;だから、お前たちは出かけて行き、すべての民族をわたしの弟子にしなさい。そして、彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

 これらを見て分かるとおり、ナイダ理論(動的等価法)を表看板にしていますが、同じ翻訳理論に立っている聖書協会の「共同訳新約聖書」とは違い、あきらかに底本から逸脱しすぎ、これは単立聖書キリスト教会の会長牧師(Wikipedia)尾山令仁 師による尾山師の聖書解釈に合わせた解釈訳といえるものです。「創造主訳聖書」はそれを底本とし、「神」を「創造主」と置き換えると共に幾つかの箇所で底本部分の改定もしてあります。

 このような聖書の改ざんが認められるのなら、ものみの塔聖書冊子協会の「新世界訳聖書」の明らかな改ざんも認められることになりますし、それから生み出された誤れる教義や規則も是認することとなります。そして反対にキリスト教はこれら異端の破壊的カルトから、聖書を改ざんしているとの誹りを受ける結果を招きます。

 はっきりいって、目的を達成する為にはなんでも有りじゃないぞということを見失っているように思えます。


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もうちょっと見てみよう!創造主訳(現代訳)の驚愕の改ざん!!
2013/9/17(火) 午後 4:56
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12054541.html

 尾山令仁氏の個人訳である「創造主訳聖書」と「現代訳聖書」は、驚くべき改ざんがなされている翻訳です。それはナイダ理論(動的等価法。Wikipediaの「聖書翻訳」より“読者にとって正しく理解できるように意訳するべきだという立場が存在する。代表的なのはナイダ(en:Eugene Nida)の動的等価翻訳理論(en:Dynamic and formal equivalence)であろう。つまり、文脈に応じて言葉は変えるが意味するところは同じになるように訳するということである。(これに対して逐語訳的方法は形式的等価翻訳と呼ばれる。)ナイダの理論は一時期 アメリカ聖書協会の翻訳事業を主導し、今日流通しているToday's English Bible:TEV(Good News Bible:GNBとも称する)やContemporaly English Bible:CEBなどを生み出した。日本語では共同訳聖書の作業にあたってこの理論が指針として採用され、ナイダが来日して講演するなどしている。”)を遥かにはみ出ているように思えます。

 さて、昨日はマタイから何箇所か見てみましたが、今回は他の部分も一つ二つ取り上げてみてみましょう。

ヨハネ1:1~3
創造主訳;まだ、この世界も何も無かった時、すでにキリストは存在しておられた。キリストは創造主と共におられ、また創造主ご自身であられた。このように、キリストは創造主ご自身であられながら、唯一の創造主のうちにおられるもう一人の人格であられた。唯一の創造主には三人格あって、父と子と聖霊である。キリストは子であられる。すべてのものは、創造主によって造られた。だから、創造主であられるキリストによって造られないものは一つもなかった。

現代訳;まだ、この世界も何も無かった時、すでにキリストは存在しておられた。キリストは神と一緒におられ、また神ご自身であられた。このように、キリストは神ご自身であられながら、唯一の神のうちにおられるもう一人の人格であられた。唯一の神には三人格あって、父と子と聖霊である。キリストは子であられる。すべてのものは、神によって造られた。だから、神であられるキリストによって造られないものは一つもなかった。

 キリスト者であり、御言葉(聖書)の改ざんを快く思わない人は、この上の引用を読みひどい訳、いや、訳ではすでに無く改ざんであると感じられることでしょう。まだ、以下に引用しますが、American Stndard Versionからキリスト教の専門用語をできるだけ使わないで、だれにでも読むだけで分かるように作られたリビングバイブルの方が原典に忠実であるといえます。

リビングバイブル;まだ何もない時、キリストは神と共におられました。キリストは、いつの時代にも生きておられます。キリストは神なのです。このキリストが、すべてのものをお造りになりました。そうでないものは一つもありません。

 次に日本聖書協会より、このナイダ理論によって訳された共同訳新約聖書の訳文を見てみましょう。

共同訳;初めに<御言葉>があった。<御言葉>は神とともにいた。<御言葉>は神であった。このかたは、初めに神とともにいた。神はこのかたによって万物を造った。造られたもので、このかたによらないで造られたものは何一つなかった。

 これも原典に忠実に訳されています。この聖書の序言には、共同訳聖書実行委員会の言葉としてこうあります。“このように、わたくしたちは学問的な厳密さを保つと同時に、あくまでも一般の読者にわかりやすい訳とすることを目指して、キリスト教独特の専門用語をできるだけ避ける配慮をいたしました。”とあるようにキリスト教独特の用語などはよく避けられわかりやすい訳文となっています。

 現代訳も“日本人が読むだけでわかる翻訳”を謳い、4大特色の一つに“1 聖書の原意を正確に伝えている”としていますが、共同訳とは違い“学問的な厳密さを保つ”努力がなされていないのと、はじめから教義ありき、それも自身の解釈ありきでは“原意を正確に伝えている”とはいえないと思います。

 後もう一つ見てみましょう。

使徒14:11,12
創造主訳;それを見ていた人たちは、声を張り上げ、その地方の言葉であるルカオニア語で言った。「創造主が人間の姿を取って、降って来られたのだ。」彼らは二人をギリシャの神々に祭り上げ、バルナバはゼウス、パウロは主に話をしたので、ヘルメスだと言い出した。

はてな 2

 この訳文を読んでみて、とてもおかしな訳文なことにお気づきだと思います。ギリシャ神話の世界で人間は神々によって創造されてはいません。神々も人間もともに自然発生的にガイア(大地)より生れ出たものです。ゼウスは神々の父と呼ばれますが、当然創造主ではありませんし、ゼウスとマイアの子であるヘルメスもそうです。「創造主」という語にこだわる余りのミスといえるでしょう。


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