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新世界訳聖書2019年改訂版 ヨハネ1章1節


新世界訳改訂版 英2013、日2019 URL


 エホバの証人の新世界訳聖書の1985年改訂版(参照資料付きの欄外の注)ヨハネ福音書1章1節を見たいと思います。

1985年改訂版
1 初めに言葉*がおり,言葉は神と共におり+,言葉は神'であった。

欄外注(本文に付した*+'などの記号は新世界訳聖書の方では皆*なので、この記事に引用する際に別な記号にしました)
*または,「ロゴス」。ギ語,ホ ロゴス; ラ語,ウェルブム; エ17,18,22(ヘ語),ハッダーヴァール。
+字義,「神のほうに向いており」。ギ語,エーン プロス トン テオン; エ17,18(ヘ語),ハーヤー エート ハーエローヒーム。
'「神」(a god)。ギ語,テオス。同じ文中のトン テオン,「神」(the God)との対照に注意; エ17,22(ヘ語),ウェーローヒーム,「そして神」。「神」(a god)については付録6イ参照。


続いて新世界訳聖書の2019年改訂版のヨハネ福音書1章1節を見たいと思います。

1 初めに,言葉と呼ばれる方がいた。言葉は神と共にいて,言葉は神のよう*だった。

脚注
*直訳,「神」。ギリシャ語で冠詞は付いていない。


 キリスト教は、ギリシャ正教やローマ・カトリック教会であろうと、ルーテル派教会であろうと、カルヴァン主義の教会、アングリカン・コミュニオン(聖公会)、ウェスレアン・アルミニウス主義(メソジスト教会)とその系統(ホーリネス運動、救世軍、ペンテコステ運動、カリスマ運動、後の雨運動、聖霊の第三の波運動、他の諸教派)の諸教会、ピューリタン系(長老派、バプテスト、会衆派など)の教会、アナバプテスト系(メノナイト派)の教会にしても三位一体の神を信じていますが、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)やモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、世界平和統一家庭連合(旧称、世界基督教統一神霊協会)や他の異端と呼ばれる団体は、そのようには信じてはいません。すなわち同じ聖書を用いていても信じている神が違うという事です。

 今回の新世界訳聖書2019年改訂版のこの個所では、自分たちの教義に合わせた改ざんがなされています。85年版以前では、さすがに聖書自体の訳文をいじることはせずに(英訳版では大文字のGodではなく、小文字のgodとしているものの)、新世界訳聖書の巻末の付録や彼らの出版物などにおいて、自分たちの教義的主張をしていましたが、今回の日本語版においては、本文自体を改ざんしていました。底本の英訳「New World Translation of the Holy Scriptures」2013年改訂版においては、英訳1984年改訂版と同じく、小文字の「god」表記で日本語訳に見られる「神のようだった」とはなっていません。英訳版を見てみましょう。

英訳1984年改訂版
1 In the beginning the Word was, and the Word was with God, and the Word was a god.

英訳2013年改訂版
1 In the beginning was the Word,a and the Word was with God,b and the Word was a god.

 今回は本文自体を改ざんしたせいか、巻末付録にてヨハネ1:1の説明がちょっと見当たりませんので、1985年改訂版の巻末付録から見てみたいと思います。

"・・・
ギリシャ語θεός(テオス)は単数形の叙述名詞で,動詞の前に置かれており,しかも定冠詞を伴っていないため,上記の翻訳では,「神」(a god),『神性を備えている』,「神のような者」といった表現が用いられています。これは無冠詞のテオスです。「言葉」であるロゴスが共にいる神(the God)は,原文において ὁ θεόςというギリシャ語の表現を取っており,テオスの前に定冠詞「ホ」の付いた形で示されています。これは冠詞の付いたテオスです。冠詞を伴う名詞の構造は実体や人物を指し示すのに対し,動詞に先行する単数形の無冠詞の叙述名詞はあるものの特質を示します。ですから,「言葉」もしくはロゴスが「神」(a god)であった,または「神性を備えていた」,または「神のような者」であったというヨハネの表現は,「言葉」もしくは「ロゴス」が,これと共にいた神(the God)と同じであったことを意味するものではありません。それは単に,「言葉」つまりロゴスのある特質を表わしているに過ぎず,その方が神と全く同一であることを示すものではありません。

ギリシャ語本文中には,マルコ 6:49; 11:32; ヨハネ 4:19; 6:70; 8:44; 9:17; 10:1,13,33; 12:6など,動詞に先行する単数形の無冠詞叙述名詞の例が数多く見られます。対象となっているものの特質や特性を明らかにするため,英訳聖書の場合,翻訳者たちはこれらの箇所で,叙述名詞の前に不定冠詞“a”を挿入しています。これらの句において叙述名詞の前に不定冠詞が挿入されているのですから,ヨハネ 1:1の無冠詞の叙述名詞θεόςの前に不定冠詞“a”を挿入し,これを“a god”(神)と読むようにするのはそれと同様に正当なことです。聖書はこうした訳し方が正確であることを確証しています。

フィリップ・B・ハーナーは,「聖書文献ジャーナル」(Journal of Biblical Literature,第92巻,フィラデルフィア,1973年,85ページ)に掲載された,「限定詞としての無冠詞叙述名詞: マルコ 15章39節およびヨハネ 1章1節」と題する自分の論文の中で次のように述べています。ヨハネ 1:1にあるような,「無冠詞の述語が動詞に先行している[文節]は主として限定詞的意味を持つ。これは,ロゴスがテオスの特質を有していることを示しているのである。述語であるテオスについて,これを特定されたものと取る根拠はどこにもない」。ハーナーは結論として,その論文の87ページでこう述べています。「ヨハネ 1:1の場合,述語の持つ限定詞的働きは極めて顕著であるゆえに,その名詞を特定されたものとみなすことはできない」。

・・・・"

 冠詞の有無で「the God」と「a god」と区別をしたいようですが、この個所のもう少し後の6節、12節、13節、18節では冠詞がなくても「God」としています。

6 ἐγένετο ἄνθρωπος ἀπεσταλμένος παρὰ θεοῦ, ὄνομα αὐτῶ ἰωάννης·
6 神の代理として遣わされた男性がいた。ヨハネという名前だった。
6 There came a man who was sent as a representative of God; his name was John.

12 ὅσοι δὲ ἔλαβον αὐτόν, ἔδωκεν αὐτοῖς ἐξουσίαν τέκνα θεοῦ γενέσθαι, τοῖς πιστεύουσιν εἰς τὸ ὄνομα αὐτοῦ,
12 しかし,彼は自分を受け入れた人全てに,神の子供となる権利を与えた。その人たちが彼の名に信仰を抱いていたからである。
12 However, to all who did receive him, he gave authority to become God’s children, because they were exercising faith in his name.

13 οἳ οὐκ ἐξ αἱμάτων οὐδὲ ἐκ θελήματος σαρκὸς οὐδὲ ἐκ θελήματος ἀνδρὸς ἀλλ᾽ ἐκ θεοῦ ἐγεννήθησαν.
13 その人たちが誕生したのは,血筋によるのでも親の意志によるのでもなく,神による。
13 And they were born, not from blood or from a fleshly will or from man’s will, but from God.

18 θεὸν οὐδεὶς ἑώρακεν πώποτε· μονογενὴς θεὸς ὁ ὢν εἰς τὸν κόλπον τοῦ πατρὸς ἐκεῖνος ἐξηγήσατο.
18 これまで神を見た人はいない。しかし,天の父のそばにいる,神のような独り子が,神について説明した。
18 No man has seen God at any time; the only-begotten god who is at the Father’s side is the one who has explained Him.

 6節、12節、13節は文脈からΘεόςは父なる神を指しているので大文字の「God」にし、18節なんかは滑稽で、Θεόςが二か所に出て来ますが、どちらも冠詞はありません。しかし、文章から、イエス・キリストについてΘεόςの語がふられている個所は「神のような(英訳:god)」としていることです。彼らの巻末付録の主張が正しいのなら18節の最初のΘεόςも「god」にすればいいのに、そうしない所が、自分たちの教義に合わせたご都合主義です。

 次に冠詞についてですが、Southern Baptist Theological Seminary (SBTS)の新約聖書解釈学の教授であったA.T.ロバートソンの 「Word Pictures of the New Testament」のヨハネ1:1の注解を見てみたいと思います(https://www.biblestudytools.com/commentaries/robertsons-word-pictures/john/john-1-1.html)。

"And the Word was God (καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος). By exact and careful language John denied Sabellianism by not saying ὁ θεὸς ἦν ὁ λόγος. That would mean that all of God was expressed in ὁ λόγος and the terms would be interchangeable, each having the article. The subject is made plain by the article (ὁ λόγος ) and the predicate without it (θεὸς ) just as in John 4:24 πνεῦμα ὁ θεός can only mean "God is spirit," not "spirit is God." So in 1 John 4:16 ὁ θεὸς ἀγάπη ἐστίν can only mean "God is love," not "love is God" as a so-called Christian scientist would confusedly say. For the article with the predicate see Robertson, Grammar_, pp. 767f. So in John 1:14 ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο, "the Word became flesh," not "the flesh became Word." Luther argues that here John disposes of Arianism also because the Logos was eternally God, fellowship of Father and Son, what Origen called the Eternal Generation of the Son (each necessary to the other). Thus in the Trinity we see personal fellowship on an equality."

"そして言葉は神であった。(καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος)。ヨハネは正確かつ注意深い言葉使いで、すなわち ὁ θεὸς ἦν ὁ λόγος. と言わないことによって、サベリウス主義を否定した。神のすべてが ὁ λόγος と表現されるなら、冠詞を持つ各々の用語は交換可能となるのである。主語は冠詞によって (ὁ λόγος ) そして述語は冠詞がない (θεὸς ) ことによって決められる。ちょうどヨハネ 4:24 において、 πνεῦμα ὁ θεός がただ "神は霊です" を意味し、 "霊は神です" と意味しないように。第一ヨハネ 4:16 においても ὁ θεὸς ἀγάπη ἐστίν は ただ "神は愛です" であり、 "愛は神です" という意味ではない。クリスチャン・サイエンスの人々は、この点において混同している。冠詞と述語に関してはロバートソンの文法書pp.767f. を見なさい。ですからヨハネ 1:14 において ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο "言葉は肉となった" であり "肉は言葉になった" ではない。ルターは、ヨハネがアリウス主義をも非難していると論じている。というのは、言葉は永遠の神であり、父と子の交わりがあった。オリゲネスは「永遠の産出」と言った。(各々は他者を必要とする)。このように、三位一体において、私たちは同等で人格的な交わりを見つける。"

 エホバの証人の主張だと、そもそも三位一体ではなく、異端として斥けられたサベリウスの様態論をキリスト教が信じていることになってしまいおかしな話になってしまいます。

 前回も書きましたが、この日本語訳2019年改訂版を読んで、エホバの証人の出版物を学んだ人は、より過ちに気付き辛い状態になってしまっています。

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新世界訳聖書2019年改訂版


 エホバの証人のNew World Translation of the Holy Scripturesの2013年改訂版の日本語訳が今年の4月13日に発表され、寄付金と引き換えに頒布されました(「「あらゆる良い活動を行う用意が完全に整い」ました! 日本語の「新世界訳聖書」改訂版が発表される」)。また、公式サイトなどで読むことやPDFファイルなどでダウンロードできます(「「新世界訳聖書」(2019年改訂版) 聖書をオンラインで読む」)。

 その割に新世界訳聖書改訂版とか、新世界訳聖書2019年改訂版などで検索してみても、あまり反応がない感じです。エホバの証人自体が、95年の教義改訂以前のような元気で活発的なものではなくなり、落葉の団体みたいになっているように見えます。そのため以前ほど人目も引かず、脱会者などの反発もあまり目につかなくなっている気がします(たとえTwitterやFacebookで批判書き込みなどがあったとしても、所詮一過性の書込みで、遡って読み返されることはありませんから書き捨てみたいに思えます)。

 今回の新世界訳聖書2019年改訂版のマタイだけを読んだ感想として、相変わらずのエホバの証人の解釈や教義に沿った翻訳なのですが、1985年改訂版(底本は英訳1984年改訂版)までは字義直訳を売りにしていましたが、今回はエホバの証人の解釈や教義に沿った意訳、というか小説モドキ。キリスト教サイドで言うのなら尾山令仁氏の「現代訳聖書」や「創造主訳聖書」レベル。リビングバイブルも入れてしまうとリビングバイブルに失礼になるかな。

新世界訳 1984en,1985jp,2013en,2019jp URL

 雑誌を以て訪問伝道されるエホバの証人の方たちは、この新しい改訂版に対してやたらと絶賛しているのですが、それを引きつった笑みで聞きながら心の中では、「イヤイヤイヤ、それが本心ならヤバいぞ」と思いつつ「そうですか」と力なく相槌打ってました。

 まず、装丁は表装も小口もグレイです。手触りはいいです。本文の紙質は1985年版に比べて落ちている感じがします。安っぽい紙質です。底本の2013年英語改定版の方が紙質はいいですが日本語版はかなり落ちる感じです(そして、まとまりが悪い開いてから閉じた時、だらしなく少し広がったまま)。内容は、確かに字義直訳の出来損ないの前の1985年改訂版に比べたら、読みやすさという面では良くはなっているのでしょう。ただ原文から大きく逸脱しすぎてはいます。

 原語の訳し分けが無くなっている場合があり、彼らの教義的用語への置き換えもなされていて、この聖書(?)を読んで、ものみの塔聖書冊子協会の出版物を通して学ぶと、今までのように自分で過ちに気づくとかキリスト教サイドの論駁書読んで気づくというのは難しくなるように感じました。

 山上の垂訓の冒頭などは原語の影も形も無くなっています。

"3 「神の導きが必要であることを自覚している人たちは幸福です。天の王国はその人たちのものだからです。"

 マカリオイ、ホイ、プトーコイ、プネウマティ。の各語を語意の中で拡大解釈して、そして類似する別な語に置き換えたり、語意にはないがこうではないかと解釈して訳語を作ったりした結果が、この創作文になった感じです。

 また、「聖霊」という訳語をすべて、彼らの独自解釈に従った訳語「聖なる力」に置き換え、聖霊を無人格な単なるエネルギーやパワーといったものにしてしまいました。そのために

マタイ28章
"19 それで,行って,全ての国の人々を弟子としなさい。父と子と聖なる力の名によってバプテスマを施し"

ヨハネ14章
"16 私は天の父にお願いします。父は別の援助者を与えて,あなたたちと共に永久にいるようにしてくださいます。 17 それは真理を伝える聖なる力です。"

のようなおかしな訳文になっている個所も出てきています。

 まあ、この聖書は、エホバの証人やその学びをしている人、また彼らを批判・論駁する人でもない限り必要のないものかな。

プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

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