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数珠と定式文での連祷 3

 1599年出版の英語訳のジュネーブ聖書からマタイ福音書6:7のμὴ βατταλογήσητεが、 repetition(繰り返し、反復、重複、折り返し、反覆、繰り言、繰言、二言)という風に訳されるようになり、英国の非国教徒(カルヴァン主義)に歓迎され、田川建三氏の「書物としての新約聖書」によけば、ジェームズ王欽定英語訳が出版されたのちも60版以上も版を重ねたそうです。1611年に欽定英語訳が出るまでに120版以上、欽定英語訳が出版されてから60版以上ですから人気があったのがわかります。そして欽定英語訳の多くの部分がジュネーブ聖書から来ているということで、欽定英語訳が広く普及し19世紀に聖書の本文批評版が出版され、それから改訂訳(Revised Version)が翻訳出版されるまで260年以上英語訳聖書では欽定英語訳が支配していました。

 このマタイ福音書6:7もジュネーブ聖書からジェームズ王欽定英語訳と、訳語とそれに付いた語意は継承され、19世紀以降いろいろな訳が出版されるようになっても、長年親しまれ人気の衰えない欽定英語訳は英国やアメリカで愛用され続け、その亜流の英訳聖書においては欽定英語訳の呪縛によって無批判的に継承されているように感じられます。

 19世紀に聖書の本文批評が発展し、批評版本文の普及とそれに伴う学問的翻訳とは逆行したジェームズ王欽定英語訳とビザンチン本文、テクストゥス・レセプトゥスの優位性を信じ、批評版テキストへの不信を持つ人たちの King James Only movement などアメリカなどの福音派や聖霊派などの原理主義系でこの回帰運動やその傾向は強いようです(日本でも聖霊派などでその手のホームページが見かけられます)。

 日本語訳聖書でリベラル系で使われる聖書協会発行の口語訳・新共同訳・聖書協会共同訳などと福音派や聖霊派系の新改訳で訳語が違う場合、訳語のルーツを見て行くと面白いかもしれません。どちらを好むかは自分の所属教会に合わせるなり、人それぞれ好き好きで。

 さて話を、祈りの為の数珠を用いて短い定式文の祈りを繰り返すということに戻しますと、repetition(繰り返し、反復、重複、折り返し、反覆、繰り言、繰言、二言)という風な訳はもともとの語意では無いように思います。また、リベラル系の訳のように「異邦人のようにくどくどと述べ」るや「ベラベラしゃべる」の方が、メソポタミアやエジプト、パレスチナやシリア、ギリシャ・ローマの宗教や碑文、公文書などに見られる王や神々を仰々しくいろいろな敬称や尊称を並び立て、くどいほど褒め称えることに合致するように感じられます。それらはマントラのように同じ言葉の繰り返しではなく、同じ言葉を使わないで数多くの言葉を持って(言葉数が多い)褒め称えることをイエスはこの個所でのことばは指しているのではないかと思います。

 聖母マリア崇敬云々もロザリオでの祈りの対象がマリアに向けられているローマ・カトリック教会には当てはまるかもしれませんが、もう一方のキリスト教、東方正教会や東方正統教会(非カルケドン)とでは、祈りの時に使う数珠(コンポスキニオン)のメインとなる小珠では「イイススの祈り」を祈り、大珠の時に「至聖生神女讃歌(カトリックの「天使祝詞」)」もしくは「常に福(さいわい)にして」が来るという違いも見られます。画一的にマリア崇敬というのも違うと思います。

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数珠と定式文での連祷 2


 祈りの為の数珠を用いて、短い定式文の祈りを繰り返すことに対して、福音派や聖霊派(ウェスレアン神学の教会とその系譜、非国教系やピューリタンの流れの諸教会)などは、カトリックやその伝統、マリア崇敬・天使や諸聖人崇敬を悪魔の如く嫌っているので、プロテスタントの中でも強い拒否と否定を示します。

 プロテスタントでも聖公会は彼等のロザリオを持っています。ルーテル派では全体ではないものの一部にロザリオを用いている教会や信徒たちもいます。日本のルーテル派においてはその文化はありません。

 定式文の祈りの繰り返し否定についていくつか見てみたいと思います。

 まずは福音派系のGot Questionsという疑問に思うことについてそれに答えを示す形のサイトの日本語版のページに

質問 無益な繰り返しで祈るとはどういう意味ですか?“ という質問に対する回答を述べています。 また、”質問 祈りのビーズとは何?祈る時、祈りのビーズを使うのはいいのでしょうか?“という質問にも福音派の模範的回答を示しています。

 ネットで検索していましたら日本の福音派の集まりである日本福音同盟に加盟している日本バプテスト教会連合の東京中央バプテスト教会の ”「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」 マタイ6:7“ という記事を発見しまして、これも福音派だな~と思わせるような内容でした。

 またもう一つ。日本福音同盟に加盟の神の教会運動という団体に属する空知太栄光キリスト教会の牧師さんの書いておられる牧師の書斎という一連の記事の中の ”マタイの福音書を味わう No.1“ の中の ”17 6章5~8節 善行に対する警告と奨励(2)「祈り」“ というところをクリックするとPDF形式で記事が読めます。こちらを見てみますとGot Questionsのサイトやバプテストの記事とそう変わらない内容でした。共通しているのは、根拠はマタイ福音書6章7節ということであるということです。列王記上18:25-39なんかも出て来るのですが、こちらはまるっきり根拠にならない勘違い引用です。これは預言者エリアとのどちらの神が真であるかの勝負のような中での限定された出来事ですから、これらのバアルやアシラの預言者たちが、”朝から昼までバアルの名を呼んで「バアルよ、答えてください」と言った。“ としても普段の礼拝や祈祷で同じであるとは限りません。そのような勝負下で当然とるであろう行動に過ぎません。これをマタイ6:7と関連付ける方が無理筋です。

 さて、次に福音派や聖霊派で定式文の祈りの繰り返し否定の根拠に使われるマタイ福音書6章7節の日本語訳聖書の訳文を比べてみましょう。

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明治元訳 爾曹(なんぢら)祈る時は異邦人の如く重複語(くりかへしごと)を言(いふ)なかれ彼等は言(ことば)おほきを以て聽(きか)れんと意(おも)へり

大正改訳 また祈るとき、異邦人の如くいたづらに言を反復(くりかへ)すな。彼らは言多きによりて聽かれんと思ふなり。

口語訳 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。

共同訳(1978年) また、あなたたちは祈るときには、異邦人のようにくどくどと述べる必要はない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

新共同訳 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

新翻訳事業パイロット版(2016年) 祈るときには、異邦人のようにくどくどと言ってはならない。彼らは言葉を多く並べれば、聞き入れられると思っている。

聖書協会共同訳 祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。

新改訳(第一版) また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

新改訳(第二版) また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

新改訳(第三版) また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

新改訳2017 また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

詳訳 あなたたちが祈るときには、異邦人がするように<同じ言葉を幾度も繰り返して、言葉の数を多くし>〔祈り〕文句の積み重ねをしてはいけない。彼らは多く言えば聞き入れられると思うのである。

リビングバイブル(1982年版) ほんとうの神様を知らない連中のように、同じ文句をくどくど唱えてはいけません。 彼らは、同じ文句をくり返しさえすれば、祈りが聞かれると思っているのです。

リビングバイブル(1993年改訂版) ほんとうの神を知らない人たちのように、同じ文句をくどくど唱えてはいけません。彼らは、同じ文句をくり返しさえすれば、祈りが聞かれると思っているのです。

リビングバイブル(2016年改訂版web) ほんとうの神を知らない人たちのように、同じ文句を何度も唱えてはいけません。彼らは、同じ文句をくり返しさえすれば、祈りが聞かれると思っているのです。

ラゲ訳(1910年) 又祈るに異邦人の如く繰言を為すこと勿れ、彼等は言の多きに由りて聴容れられんと思ふなり。

ラゲ訳(1959年) 又祈るに異邦人のごとく繰り言(ごと)をなすことなかれ、彼らは言葉の多きによりて聞き入れられんと思うなり。

バルバロ訳新約改訂版1957年 また、祈りのときに、異邦人のように無駄言(むだごと)をいってはならない。異邦人は、言葉さえ多ければ聞き入れてもらえると考えている。

バルバロ訳新約聖書1981年新装改訂版講談社 また、祈りのときに、異邦人のようにむだごとを言うな。異邦人はことばさえ多ければ聞き入れてもらえると考えている。

バルバロ訳聖書1980年講談社版 また、祈りのときに、異邦人のようにむだごとを言うな。異邦人はことばさえ多ければ聞き入れてもらえると考えている。

フランシスコ会訳(1984年改訂版) あなたがたは祈るとき、異邦人のよ うにくどくどと言ってはならない。彼らは言葉数さえ多ければ、聞き入れられると思っている。

フランシスコ会訳(2011年改訂版) あなた方は祈るとき、異邦人のよ うにくどくどと言ってはならない。彼らは言葉数さえ多ければ聞き入れられると思っている。

フランシスコ会訳(2013年版web) あなた方は祈る時、異邦人のよ うにくどくどと言ってはならない。彼らは言葉数さえ多ければ聞き入れられると思っている。

本田哲郎訳 あなたたちが祈るときは、世の民がするように、同じことばをくりかえすな。かれらは、ことば数が多ければ、聞き入れられると思っている。

山浦治嗣訳 又(まだ)、其方等(そなだァど)祈っ時(とぎ)ァ、他(ほが)の国がら来た異邦人等(ほがすァど)のように、くどくど喋(すゃ)べくんな。異邦人等(ほがすァど)ァ、口数(くちかず)ァ余計(よげェ)な程聞いて貰うにいい事(ごっ)たど思い込(ご)んでる。

ニコライ訳 又祷(いの)る時、異邦人の如く贅語(むだごと)を曰ふ勿れ、蓋(けだし)彼等は言の多きを以て聴かれんと意ふ。

永井直治訳 新契約聖書1928年Web また汝等祈るときは、異邦人の如く空しき繰り返し言(ことば)をなす勿れ。そは彼等は言(ことば)多ければ聞き入れらるるならんと思へばなり。

永井直治訳 新契約聖書修正改版1960年 また汝等祈るときは、異邦人の如く空しき繰り返し言をなす勿れ。そは彼等は言多ければ聞き入れらるるならんと思へばなり。

塚本虎二訳 また祈るとき、異教人のようにベラベラしゃべるな。彼らは口数が多ければ、聞いてもらえるものと思っている。

前田護郎訳 祈るとき異邦人のようにしゃべるな。彼らは多言によって聞かれると思っている。

岩隈直訳 また祈る時、異邦人のようにべらべらしゃべるな。というのは彼らは [彼らの] 多弁の故に聞き入れられる [だろう] と思っている。

田川健三訳 祈る時は、異邦人のようにぺちゃくちゃとものを言うな。彼らは言葉を多く並べれば聞き入れられると思っているのだ。

口語訳キリスト新聞社 祈りをする時には異邦人のようにくりかえして唱えさるな。異邦人はくどく祈ったならば、聞かれると思つている。

岩波書店新約聖書翻訳委員会訳1995年web また、あなたたちが祈る時は、異邦人たちのように駄弁を弄(ろう)するな。彼らは自分たちの 言葉が多ければ聞き入れてもらえると思っているのだ。

岩波書店新約聖書翻訳委員会訳2004年 また、あなたたちが祈る時は、異邦人たちのように駄弁(だべん)を弄(ろう)するな。なぜならば、彼らは自分たちの言葉が多ければ聞き入れてもらえると思っているのからである。

現代訳(尾山令仁訳)1983年初版 また祈る時には、生けるまことの神様を知らない異教徒たちがしているように、同じことばを、ただ繰り返してはいけません。彼らはそうすれば聞かれると思っています。

創造主訳(尾山令仁訳) また祈る時には、生きておられる本当の創造主を知らない異教徒たちがしているように、同じ言葉を、ただ繰り返してはいけません。彼らはそうすれば聞かれると思っています。

国際ギデオン協会New Bible(泉田昭訳) また祈るとき、あなたがたは異邦人のようにくどくど言うな。彼らは、言葉数が多ければ聞き入れられると思っている。

新和訳(池田博訳) また、祈る時は異邦人のようにくどくどと祈るな。彼らは自分たちの言葉数の多さによって聞き入れられると思っている。

新約聖書TR日本語訳 あなた方は祈っている時、異教徒たちのように、空しくしゃべってはいけません。 なぜなら彼らはたくさんしゃべれば聞き入れてもらえると思っているからです。

新世界訳(1985年日本語版) しかし,祈る際には,諸国の人々がするように同じことを何度も繰り返し言ってはなりません。彼らは言葉を多くすれば聞かれると思っているのです。


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 見て行くと一つの傾向として福音派の教派訳(自分たちの教義に合わせた訳)である新改訳聖書と福音派系の翻訳では、ギリシャ語 βαττολογέω(battalogeó) を ”同じことばを、ただくり返“す という意味の訳文にしています。また、明治・大正期の外国人宣教師による翻訳やジェームズ王欽定英語訳(King James Version) 系の翻訳の影響下にある日本語訳聖書もその傾向があります。

 教義に引きずられないで原文や原語の学問的翻訳では、新改訳やその他の福音派系の翻訳とは違った訳になっています。

 田川訳の註が詳しいので、まずこちらを引用したいと思います。

”7 ぺちゃくちゃとものを言う(battalogeō) 本当は語源も語義も定かでない単語。新約ではこの個所と、ルカ11・2のD写本にしか出て来ない。ルカのD写本は、マタイのこの個所を知ってこの語をそちらに写したものであろう(ただしそちらはやや綴りが違ってbattologeōとなっている)。新約以外でも極めて僅かの用例しか見つかっていない。語源についてはいろいろ想像による仮説はあるが、確かなことはわからない。主な辞書がそれぞれ異なる語源を主張しているから、逆に言えば、どれもあてにならない。この種のことは辞書に書いてあっても信用するなという良い教材であろう。すなわちまず古くはリデル・スコット(Intermediate 版、1888年。本体の大型版では1968年の supplement に載っている)。ヘロドトス4・158に出て来るバットス(Battos)というリビアの王様の名前から来ている、とする。この王様、子どもの頃には発音障害があったからこういう名前がつけられたのだ、と。ただしヘロドトス自身は、この名前を発音障害に結びつけるのは間違いで、リビア語で「王」のことを battos と言うから、それをそのままギリシャ語化はただけだ、と説明しているけれども。ともかくリデル・スコットは、この王の名前から「バットスのように話す」という動詞が作られたのだ、としている(「多分」というただし書きがついているが)。しかしこれはまあ無理である。この話がよく知られた話でそこから発して battos という語が普通名詞として用いられるようになり、従ってこの動詞もよく用いられるというのであれば、こういう説も成り立つが、この動詞の用例は極めて僅かしかない。マタイ教会の人たちがヘロドトスをよく読んで知っていたというのなら話は別だが、むろんそういう可能性はない。
 むしろVGTが一つの可能性として示唆しているデモステネスのあだ名の方が多少はましだろうか。すなわちデモステネスには batalos は普通名詞としても「どもり」という意味で用いられる。しかしこれまたそんなによく知られたあだ名ではないし、マタイたちがそんなことを知っていたとは考えられない。
 もう一つはバウアーで(クロスターマンも)、こちらの神学者の常として、何が何でもヘブライ語・アラム語起源に従る(もっともバウアーも学者だから、「多分」としているが)。言い出したのはブラス・デブルンナーのブラスで(ただしブラスを後になって大幅に増補したデブルンナーは、ブラスはそういう説を唱えているけれども、と単に紹介しているだけ。§40,Anm.3)、アラム語の「空しい、空虚な」という語(bātēl)から来ているという。それにギリシャ語の「言う、話す」という動詞をくっつけたのだ、と。しかしそういう語がギリシャ語のユダヤ人の間で普及していたというのならともかく、まったくその形跡はないから、もしもそうだとすればマタイたちの造語であろうが、しかし、そういう造語が読者に通じる可能性はほとんどないから、まあ考えられない。おまけに、もしもマタイたちの造語であるなら、「空しいことを言う」の意味があるはずだが、マタイ自身はこの語を自分で「言葉を多く並べる」と言い換えている。
 一番説得力のあるのは ThWzNT の G.Delling (Bd.I,598)。ギリシャ語では battarizō (どもる)という動詞がある。この動詞(ないしその派生語)はある程度用いられている。マタイは多分その語を生半可に知っていて、それを適当に利用したのだろう、と。それなら、マタイが語の意味を正確に知って用いたかどうかという問題にはならないし、何となく「バッタ」という音の感じからして、「ぺちゃくちゃ言う」程度の意味だろうと勝手に思い込んで用いた、ということは大いにありうる。それに、battalogeō という音の感じからして、何となく雰囲気は伝わるものだ。私にしたところで、大きな本の一冊も書けば、ほかの人が用いない奇妙な単語の用い方をする例が一つ二つは出て来るだろう。誰でも、たとえ自分の第一言語で書いていても、そういった現象は時たまあるものである。マタイだってたまにはいいではないか。新約聖書の著者に限り、そういった人間誰にでもある言語現象がありえない、などと想像する方が間違っている。“
(「新約聖書 訳と註 1 マルコ福音書/マタイ福音書」 田川建三訳 作品社 pp.585-586)

 続いて希英辞典などやグノーモンから。日本語訳はGoogle翻訳やWeblio翻訳などを使用しています。

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◎Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon
リデル=スコット 希英辞典
βαττο-λογέω ,
A.= βατταρίζω, speak stammeringly, say the same thing over and over again, Ev.Matt.6.7, Simp. in Epict.p.91D.
A. =βατταρίζω、どんよりと話し、同じことを何度も何度も言います、Ev.Matt.6.7、Simp。 Epict.p.91Dで。

◎Thayer's Greek Lexicon
STRONGS NT 945: βαττολογέω
βαττολογέω (T WH βατταλογέω (with א B, see WH's Appendix, p. 152)), βαττολόγω: 1 aorist subjunctive βαττολογήσω;
a. to stammer, and, since stammerers are accustomed to repeat the same sounds,
b. to repeat the same things over and over, to use many and idle words, to babble, prate; so Matthew 6:7, where it is explained by ἐν τῇ πολυλογία, (Vulg.multumloqui; (A. V. to use vain repetitions)); cf. Tholuck at the passage Some suppose the word to be derived from Battus, a king of Cyrene, who is said to have stuttered (Herodotus 4, 155); others from Battus, an author of tedious and wordy poems; but comparing βατταρίζειν, which has the same meaning, and βάρβαρος (which see), it seems fax more probable that the word is onomatopoetic. (Simplicius, in Epictetus (ench. 30 at the end), p. 340, Schweigh edition.)

セイヤーのギリシャ語レキシコン
ストロング新約945:βαττολογέω
βαττολογέω(TWHβατταλογέω(אB付き、WHの付録p。152を参照))、βαττολόγω:1アオリスト接続法βαττολογήσω;
a。 吃音に、そして、吃音者は同じ音を繰り返すことに慣れているので、
b。 同じことを何度も繰り返すこと、多くの怠惰な言葉を使うこと、せせらぎをすること、祈ること。 だからマタイ6:7、それはἐντῇπολυλογίαによって説明されています、(Vulg.multumloqui;(A。V.無駄な繰り返しを使用する)); cf. 通路でのソラックこの言葉は、つまずいたと言われているキュレネの王バトゥスに由来すると思われる人もいます(ヘロドトス4、155)。 退屈で言葉の多い詩の作者であるBattusの他の人。 しかし、同じ意味を持つβατταρίζεινとβάρβαρος(を参照)を比較すると、その単語は擬音語である可能性が高いようです。 (Simplicius、エピクテトス(最後のench。30)、p。340、Schweigh版)

◎A Pocket Lexicon to the Greek New Testament by Alexander Souter
βαττολογέω I chatter, am long-winded, utter empty words.
βαττολογέω 私はおしゃべり、息の長い、全くの空の言葉です

A Pocket Lexicon to the Greek New Testament by Alexander Souter. p.48, βαττολογέω


グノーモン新約聖書註解 (坪井 正之訳)
”マタイ 6:7

異邦人のように)すべての事で偽善者のやり方を避けるべきである。祈りにおいては異邦人のやり方も避けるべきである。

くどくどと祈るな)mê battologêsête. ガタカーは古文献から、Battus と呼ばれた多くの人々の例を集めている。バトスとはどもりで、従って同じ言葉を繰り返すことで有名なキレネの王の名前であったが、同じ習癖のある者がこう呼ばれた。ヘシキアスは battologia を argologia 「むだなおしゃべり」、akailogia「場所柄を弁えないおしゃべり」と説明している。彼は battarizein 「どもる」は擬声語からできたと思われると言っている。battalogein「くどくど言う」はすぐあとに出る polylogia 「言葉かずが多いこと」と同意語になる。polylogia も初めの発声を次の発声で訂正しようするどもりと同じように、同じことを何度も何度も繰り返すことである。

言葉かずが多ければ)すなわち、多くの言葉を言っているあいだに。彼らは願いごとを詳しく神々に知らせ、たとえ今でなくても、いつかかなえてもらうためには、多くの言葉が必要であると考えている。「あなたがたの父はご存じなのである」(8節)と比較せよ。同じ語 polylogia は箴言10:19に出ている。「言葉かずが多ければ、とがを免れない」アンモニウスは makrologos は少ないことについて多くの言葉を言うもの、polylogos は多くのことについて多くの言葉を言うものと言っている。キリストは多くのことを祈るときでも、少ない言葉で祈るように命じている。9-13節を見よ。[言葉は多くないが多くの祈り、余分の言葉はないが、絶えざる敬虔な心。アウグスチヌス。]

聞きいれられる)神は確かに答えてくださる。7:7。 ヘブル語の הנע「答える」が七十人訳では eisakouein「聞きいれられる」と訳されている。“

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 田川訳の註を読んでから希英辞典、今回引用はしませんが新約聖書の希和辞典なんかを見ますと、註を読まないで辞典や注解を読んでしまった場合では、辞典を鵜吞みにしないで見てみるということができるかと思います。

 希和辞典ですと山本書店の岩隈直氏の方ですと、福音派系の翻訳に見られる「繰り返す」という文言はありません。しかし、語源としてアラム語としているので、田川建三氏の ”こちらの神学者の常として、何が何でもヘブライ語・アラム語起源に従る“ という言葉を思い出してニヤリと。織田昭氏の辞典では ”無駄にくりかえす“ という説明が入れられていますが、他に示された訳語の中で、この語だけが意味合い的に異質なので、英語圏の解釈を取り入れたのだろうか?と思いました。そこでこの辞典の中心資料となった3つの辞典のリデル・スコットとシューターは確認できました(引用してあります)。バウワーは検索しましたが利用できそうなのが無く諦めました。シューターには無く、リデル・スコットの方に「同じことを何度も言う 」とあったので、こちらからなのかなと思いました。

 田川訳の註を見て、全くこのバットロゲオーに「繰り返す」という語義が無いことからよく見られる。初めに教義があり、それがギリシャ語辞典にも入り込むパターンの一つなのかなと思い。英訳聖書を見てみました。ちょっと年代順に引用したいと思います。初めは1545年のルターによるドイツ語訳、それ以降は英訳聖書の引用です。


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Luther Bibel 1545
7 Und wenn ihr betet, sollt ihr nicht viel plappern wie die Heiden; denn sie meinen, sie werden erhört, wenn sie viel Worte machen.
7祈るときは、異教徒のようにたくさんしゃべってはいけません。 彼らはたくさん言うと聞かれると思っているからです。

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Tyndale New Testament 1525
And whe ye praye bable not moche as the hethe do: for they thincke that they shalbe herde for their moche bablynges sake.
そして、あなたがたは、ヘザのようにモチェではなく、聖書を祈るのです。

Tyndale New Testament 1525(古英語の単語を現代英語の単語に直してあるもの)
But when ye pray, babble not much, as the gentiles do: for they think that they shall be heard, for their much babbling's sake.
しかし、あなたがたが祈るとき、異邦人のように、あまりしゃべりません。彼らは、ぺちゃくちゃのために、彼らは聞かれると思っているからです。

Coverdale Bible 1535
7 And when ye praye, bable not moch, as ye Hethen do: for they thinke that they shalbe herde, for their moch bablynges sake.
7あなたがたが祈るとき、異邦人のように、あまりしゃべらないでください。彼らは、多くの異邦人のために、群れをなすと思っているからです。

Matthew's Bible 1537
7 But when ye praye, bable not much as the Heathen do: for they thinke that they shalbe herde, for their muche bablynge sake.
7しかし、あなたがたが祈るとき、異教徒のようにせせらぎをすることはあまりない。

Great Bible of 1539
7 But when ye praye bable not moch, as the heathen do: for they thyncke it will come to passe, that they shalbe herd for their moch bablynges sake.
7しかし、異教徒のように、あなたがたがせせらぎをあまり祈らないとき、彼らは、彼らの多くの祝福のために群れをなだめるために、それが通り過ぎるであろう。

Geneva Bible 1560
7 Also when ye pray, use no vain repetitions as the Heathen: for they think to be heard for their much babbling.
7あなたがたが祈るときも、異教徒のように無駄な繰り返しを使わないでください。

KJV 1611,1769
7 But when ye pray, use not vain repetitions, as the heathen do: for they think that they shall be heard for their much speaking.
7しかし、あなたがたが祈るときは、異教徒のように無駄な繰り返しを使わないでください。

RV 1881
7 And in praying use not vain repetitions, as the Gentiles do: for they think that they shall be heard for their much speaking.
7異邦人のように、祈るときは無駄な繰り返しをしないでください。彼らは、多くのことを話すことで聞かれると思っているからです。

ASV 1901
7 And in praying use not vain repetitions, as the Gentiles do: for they think that they shall be heard for their much speaking.
7異邦人のように、祈るときは無駄な繰り返しをしないでください。彼らは、多くのことを話すことで聞かれると思っているからです。

RSV 1952
“And in praying do not heap up empty phrases as the Gentiles do; for they think that they will be heard for their many words.
7「そして、祈るとき、異邦人のように空のフレーズを積み上げないでください。 彼らは彼らの多くの言葉のために彼らが聞かれると思うからです。

Amplified Bible, Classic Edition 1958
7 And when you pray, do not heap up phrases (multiply words, repeating the same ones over and over) as the Gentiles do, for they think they will be heard for their much speaking.
7そして、あなたが祈るとき、異邦人がするようにフレーズを積み上げないでください(単語を増やし、同じものを何度も繰り返す)。彼らは彼らが多くのことを話すことで聞かれると思うからです。

THE NEW ENGLISH BIBLE 1961
7'In your prayers do not go babbling on like the heathen, who imagine that the more they say the more likely they are to be heard.
7 'あなたの祈りの中で、異教徒のようにペチャクチャしゃべりに行かないでください。

New American Standard Version 1963
7 “And when you are praying, do not use thoughtless repetition as the Gentiles do, for they think that they will be heard because of their many words.
7「そして、あなたが祈っているとき、異邦人のように思慮のない繰り返しを使わないでください。彼らは彼らの多くの言葉のために彼らが聞かれると思っているからです。

New International Version 1973,1983,2011
And when you pray, do not keep on babbling like pagans, for they think they will be heard because of their many words.
そして、あなたが祈るとき、異教徒のようにぺちゃくちゃしゃべり続けないでください。彼らは彼らの多くの言葉のために彼らが聞かれると思っているからです。

NKJV 1982
7 And when you pray, do not use vain repetitions as the heathen do. For they think that they will be heard for their many words.
7そしてあなたが祈るとき、異教徒のように無駄な繰り返しを使わないでください。 彼らは彼らの多くの言葉のために彼らが聞かれると思うからです。

New Revised Standard Version 1989
7 “When you are praying, do not heap up empty phrases as the Gentiles do; for they think that they will be heard because of their many words.
7「祈っているときは、異邦人のように空のフレーズを積み上げないでください。 彼らは彼らの多くの言葉のために彼らが聞かれると思うからです。

New American Standard Bible 1995
7 “And when you are praying, do not use meaningless repetition as the Gentiles do, for they suppose that they will be heard for their many words.
7「そして、あなたが祈っているとき、異邦人のように無意味な繰り返しを使わないでください。彼らは彼らの多くの言葉で聞かれると思っているからです。

The Message 2002
7-9 “The world is full of so-called prayer warriors who are prayer-ignorant.They’re full of formulas and programs and advice, peddling techniques for getting what you want from God. Don’t fall for that nonsense. This is your Father you are dealing with, and he knows better than you what you need.
「世界には、祈りを知らない、いわゆる祈りの戦士がたくさんいます。彼らは手法とプログラムとアドバイスでいっぱいです。そして、あなたが神から望むものを手に入れることの技術を小売りします。 そのナンセンスに騙されないでください。 これはあなたが扱っているあなたの父であり、彼はあなたよりもあなたが必要としていることをよく知っています。

Amplified Bible 2015
7 “And when you pray, do not use meaningless repetition as the Gentiles do, for they think they will be heard because of their many words.
7「そして、あなたが祈るとき、異邦人のように無意味な繰り返しを使わないでください。彼らは彼らの多くの言葉のために彼らが聞かれると思っているからです。


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 1560年のジュネーブ聖書(Geneva Bible)から ”vain repetitions“ (無益(無駄)な繰り返し)という訳語が入ってきます。ジュネーブ聖書の強い影響を受けているジェームズ王欽定英語訳もそれを受け継ぎ、それ以降の英訳はジェームズ王欽定英語訳の呪縛に囚われてしまいました。それでも学問的な訳はそれを脱却することができていますが、福音派や聖霊派などで使われることを意識した訳では、相変わらずの「繰り返し」が訳語に入ってきています。


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155 その後テラの名士であったボリュムネストスが娘を引き取り、妾に囲った。やがて舌の廻らぬ吃(ども)りの男児が生れ、その子に附けられた名がバットスであったとテラ人もキュレネ人も伝えているのであるが、私の考えではそれは別の名であった。彼はリビアへ行ってからバットスと改名したもので、デルポィで彼に授けられた神託と、彼の得た栄位に基いてこの名を名乗ったのであった。リビア人は王のことをバットスというからで、また私の考えではそれなればこそデルポイの巫女も託宣を下す折に、彼の名をリビア語で呼んだのであろう。・・・
(四巻155 「ヘロドトス 歴史 中」 岩波文庫 p.90 )


数珠と定式文での連祷 1


 数珠と定式文での連祷ということで少し。一般的にキリスト教の中で一番大きな団体であるローマ・カトリック教会ですと、思いつくのはロザリオやチャプレットを使って、定められた祈祷文を繰り返し祈り黙想をするというのが一般的でしょう。

 個人的にはカトリックの木製の珠のロザリオを使って(カトリックの司祭から祝福してもらっているもので)、アメリカのルーテルは教会で使われている祈祷文とその定式に沿った祈りをしています。カトリックの普通のビーズの奴や正教のコンボスキニオンを使ってみましたが、指慣れがしないのか珠を繰る方に意識が行ってしまい、やはり使い慣れたものが一番祈りに集中できます。

ロザリオ二種、大天使ミカエルのチャプレット、コンポスキニオン URL
(左二つはロザリオ、青い珠のがチャプレット、右側のがコンボスキニオン。いつも使っているのは一番左側のもの)

 あと聖母マリアの姿が刻まれた「メダイ」や聖人や天使の像が刻まれたメダイ、信者が身に着けているスカプラリオ、「十字架の道行き」の御絵やレリーフとその場面に即した祈祷文の付いたブックレットなど、一般的にはこれらはなじみがないというか知らない人がほとんどでしょう。

主の十四留、スカプラリオ、メダイ、ロザリオ URL
(手元にあるカトリックの聖品類のごく一部)

 ギリシャ正教ですとカトリックのロザリオに似たコンボスキニオンという結び目の付いた祈りのロープや木製の玉やビーズで作られたロザリオとよく似たものを使ったりしています。

 どのようなことをそれを使って祈っているのでしょうか。カトリックのロザリオとチャプレット、ギリシャ正教のコンボスキニオンを使った「イイススの祈り」の祈りなどについてちょっと見てみたいと思います。

カトリック要理の友 p.152 URL
(カトリック要理の友 p.152)

 まずはローマ・カトリック教会のロザリオの祈りから

ロザリオの祈り一環を唱える前に、十字を切ってから、ロザリオについている十字架の箇所で「使徒信経(使徒信条)」を祈り、最初のビーズで「主祷文(主の祈り)」。次の3個のビーズで「天使祝詞(アヴェ・マリアの祈り)」を各1回づつ、そして3個目の祈り最後に「栄唱」(センターメダイから一環を始める場合は3個目の次のビーズで「栄唱」)。3個目の次のビーズ(もしくはセンターメダイ)で「主祷文(主の祈り)」。10個のビーズで各ビーズ毎に「天使祝詞(アヴェ・マリアの祈り)」1回を唱え、10個目の祈りの最後に「栄唱」。これで一連。一連ごとに喜び・苦しみ・栄えの神秘のいずれかを黙想。五連で一環。(センターメダイを使わない方は心のともしび運動の「カトリック要理の友」より)という流れになります。

 祈りの定式文は以下のようになります。昔から使われていた文語文の祈祷文、平成に口語化された祈祷文と2011年の改定された「天使祝詞」を並べてみました。

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「使徒信経」
われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、
またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト、すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、古聖所(こせいしょ)に降りて三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う主を信じ奉る。
われは聖霊、 聖なる公教会、諸聖人の通功、罪の赦し、肉身のよみがえり、終りなき命を信じ奉る。
アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 1979年8刷)

「使徒信条」( 2004年2月18日 日本カトリック司教協議会認可)
天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。
(心のともしび「カトリック要理の友」 2007年11刷)

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「主祷文」
天にましますわれらの父よ、願わくは御名の尊(とうと)まれんことを、
御国の来たらんことを、御旨(みむね)の天に行わるる如く地にも行われんことを。
われらの日用の糧(かて)を今日(こんにち)われらに与え給え。
われらが人に許す如く、われらの罪を許し給え。
われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。
アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 1979年8刷)

「主の祈り」
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 2007年11刷)

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「天使祝詞」
めでたし 聖寵充ち満てるマリア、主御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。
天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終のときも祈り給え。
アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 1979年8刷)

「聖母マリアへの祈り」(1993年口語訳)
恵みあふれる聖マリア、 主はあなたとともにおられます。
主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました。
神の母聖マリア、罪深いわたしたちのために、今も、死を迎える時も祈って下さい。
アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 2007年11刷)

「アヴェ・マリアの祈り」(2011年6月14日 定例司教総会にて承認 ©日本カトリック司教協議会)
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン。

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「栄唱」
願わくは、父と子と聖霊とに栄えあらんことを。初めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで。アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 1979年8刷)

「栄唱」
栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン。
(心のともしび「カトリック要理の友」 2007年11刷)

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 以上がカトリックのロザリオで使われる祈祷文になります。

 続いて大天使ミカエルと守護天使や聖人などに祈るときに、それぞれのメダイの付いたチャプレットと呼ばれるロザリオよりも珠の数の少ない数珠が使われ(それぞれのチャプレットごとに珠の数も違う)、それぞれに祈りの定式文が定められています。Wikipediaのチャプレットを見ますといろいろなものがあるなと感じます。

 ネットなんかで検索しますと神のいつくしみのチャプレットが出てきます。聖ファウスティナに出現したイエスが広めるように教えられたとされるものです。

 とりあえず手元にある大天使ミカエルのチャプレットについて見てみます。


 大天使ミカエルのチャプレット 祈り方

※メダイにうやうやしく口づけした後、

〈先唱〉 天主よ、我が助けに来たり給え。
〈応唱〉 主よ、我を急ぎ助け給え。

※メダイの上の4つの珠で、次の各天使に【主祷文】1回を表敬として捧げる。

1,聖ミカエルへの表敬として・・・
2,聖ガブリエルへの表敬として・・・
3,聖ラファエルへの表敬として・・・
4,我々の守護天使への表敬として・・・

※以上の祈りの後に【栄唱】1回

《天使の第一隊に向かう祈り》

聖ミカエルと熾天使(セラフィム)の天軍の御取次によりて、主が、我らをして完全なる愛徳の火に燃ゆる者とならしめ給わんことを。アーメン。

※大珠で【主祷文】1回、3つの小珠で【天使祝詞】3回。以下各階級も同様に行う。

《天使の第二隊に向かう祈り》

聖ミカエルと智天使(ケルビム)の天軍の御取次によりて、主が、我らに罪の道を離れ、完徳の道に進む聖寵を与え給わんことを。アーメン。

《天使の第三隊に向かう祈り》

聖ミカエルと座天使(トロノス)の天軍の御取次によりて、主が、我らの心に真実にて深き謙遜の精神を注ぎ給わんことを。アーメン。

《天使の第四隊に向かう祈り》

聖ミカエルと主天使(ドミナツィオーヌス)の天軍の御取次によりて、主が、我らの五官を制御し、悪しき情欲を正す恵みを与え給わんことを。アーメン。

《天使の第五隊に向かう祈り》

聖ミカエルと力天使(ヴィルトゥテス)の天軍の御取次によりて、主が、我らの霊魂を、悪魔の罠と、誘惑より守り給わんことを。アーメン。

《天使の第六隊に向かう祈り》

聖ミカエルと能天使(ポテンターテス)の天軍の御取次によりて、主が、我らを試みに引き給わず、悪より救い給わんことを。アーメン。

《天使の第七隊に向かう祈り》

聖ミカエルと権天使(プリンチパリトゥス)の天軍の御取次によりて、主が、我らの霊魂に、真実にして心からなる従順の精神を満たし給わんことを。アーメン。

《天使の第八隊に向かう祈り》

聖ミカエルと大天使(アルクアンジェル)の天軍の御取次によりて、主が、我らに堅忍を持って信仰と善行に励み、天国の光栄に達する恵みを与え給わんことを。アーメン。

《天使の第九隊に向かう祈り》

聖ミカエルと諸天使(アンジェル)の天軍の御取次によりて、主が、彼らをして、この世においては我らを守らしめ、やがて永遠の光栄にまで、我らを導かしめ給わんことを。アーメン。

《終わりにする祈り》
〈交唱〉 いとも栄えある聖ミカエル、天軍の第一の頭にして総帥、霊魂の忠実なる守護者、悪しき霊の征服者、天軍の家の寵児、イエズス・キリストに次ぐ我らの感ずべき導き手、位において御身により頼む我らをして日々天主にまします忠実に仕え奉るを得せしめ給え。

〈先唱〉 イエズス・キリストの聖会の統率者、幸いなる聖ミカエルよ、我らの為に祈り給え。

〈応唱〉 我らが主の御約束にかなう者とならんために。

《祈願》 全能永遠の天主、主は限り無き御慈しみと御あわれみによりて、全人類の救済のため、いとも栄えある大天使聖ミカエルを、御身の聖会統率者と選び給えり。願わくはそのねんごろなる御保護によりて、我らがあらゆる悪しき敵より逃れ、死に際してはいかなる悪の手にもおびやかされることなく、至聖なる御身の御前に彼によりて導かるる幸いを得しめ給え。我らの主イエズス・キリストの御功徳によりて。アーメン。


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続いてギリシャ正教のコンボスキニオンとイイススの祈りについてですが、こちらは解散してしまったエンデルレ書店で出版していた「無名の順礼者 あるロシア人順礼者の手記」 (A・ローテル訳・斎田靖子訳)」を読むとよいでしょう。

 あと同じくエンデルレ書店で出されていた英訳「フィロカリア」からの抜粋訳になる「修徳の実践 心の祈り(イエスへの祈り)に関する著述」(斎田靖子訳)か新世社から出ている「東方キリスト教霊性の精華 フィロカリア」(全9巻)も併せて読むといいかもしれません(エンデルレ書店の本は出版社が解散しているので古本でも価格は定価の何倍にもなっている場合があります。)。

 こちらのギリシャ正教の祈りに関する記事は参考になるかと思います。 「私祈祷」、「イイススの祈りについて カリストス主教 講演 第5回 前」、「イイススの祈りの実践 カリストス主教 講演 第5回 後

 コンポスキニオンを用いた祈り方の一つはネットなどで調べると以下のようです。

小玉で「イイススの祈り」
大玉で「至聖生神女讃歌(カトリックの「天使祝詞」)」もしくは「常に福(さいわい)にして」
コンポスキニオンの最後には「天主經(主の祈り)」

 この定式のギリシャ正教(日本ハリストス正教会の聖書や祈祷書など、明治時代に訳されたまま現代も使い続けているのでちょっと読み辛いかもしれません)の祈禱文は以下になります。

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「イイススの祈り」
主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみ給え。

「至聖生神女讃詞」
生神童貞女(しょうしんどうていじょ)よ,慶(よろこ)べよ,恩寵に満たさるるマリヤよ,主は爾(なんじ)と偕(とも)にす,爾は女の中(うち)にて讃美たり,爾の胎(たい)の果(み)も讃美たり,爾は我等の霊(たましひ)を救ふ主を生みたればなり。

「常に福にして」
常に福にして全く玷(きず)なき生神女(しょうしんじょ)我が神の母なる爾を讃美するは真に當(あた)れり。ヘルワィムより尊(たうと)く,セラフィムに並なく栄え,貞操(みさほ)を壊(やぶ)らずして神(かみ)言(ことば)を生みし實(じつ)の生神女たる爾を崇め讃む。

「天主經」
天に在ます我等の父よ,願わくは爾の名は聖とせられ,爾の国は来り,爾の旨は天に行わるるが如く地にも行われん,我が日用の糧を今日我等に与え給え,我等に債ある者を我等免すが如く,我等の債を免し給え。我等を誘に導くかず,猶我等を凶悪より救い給え。 蓋国と権能と光栄は爾に世世に帰す。「アミン」

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 プロテスタント(特に英国の非国教系やピューリタン系、国教会から別れたメソジストとその流れ)ではカトリックのロザリオやチャプレットはマリア崇拝、聖人崇拝と見做し忌避し否定する傾向が強く、また同じ定式の祈りを繰り返すことにも忌避感があり、これらの流れの諸教会では使われることはありません。

 プロテスタントでロザリオがあるのは、英国国教会と世界各地にある聖公会の諸教会の世界的連合アングリカン・コミュニオンの教会とルーテル派の一部で見られるくらいでしょう。

 聖公会のロザリオは「アングリカン・ロザリー」とか「祈りのピース」とか呼ばれるようです。

祈り方については 聖公会のロザリオと祈り方についてのサイトやAnglican Prayer Beadsなどがわかりやすいかと思います。


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ルーテル派ではアメリカ福音ルーテル教会のカトリックのロザリオによく似たLutheran Rosary や北欧で見られるWreath of Christという玉の数の少ない日本でよくみられる数珠ブレスレットみたいなものがあります。

Wreath of Christ 小
(Wreath of Christ)

 アメリカ福音ルーテル教会のLutheran Rosary の祈り方についてみてみたいと思います。検索すると色々出てきましたが、とりあえずこの定式のがよかったのでそれを取り上げます。

Lutheran Rosary  説明付き URL
(Lutheran Rosary )

「十字架のしるし」と共に十字を切って始まります。そして十字架を持ち「使徒信条」を唱えます。続いて小玉で「イエスの祈り」、大玉で「グロリア・パトリ」、それから大玉で「主の祈り」、小玉で「イエスの祈り」、大玉で「グロリア・パトリ」の繰り返し。センターメダイがある場合はセンターメダイで「天使祝詞」か「マグニフィカート」、「神の母への福音主義の賛美」などをいのります。

 以下に日本のルーテル派で使われている祈りの定式文を上げます。文語体の祈りなどは1964年の「教会式文」、口語体の祈りなどは1983年の「礼拝と洗礼」からとなります。

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「十字架のしるし」
父と、子と、聖霊のみ名により、アーメン。

「み名による祝福」
父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。

「使徒信条」
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に坐したまえり。かしこより来たりたまいて生ける人と死にたる人とを、さばきたまわん。
われは聖霊を信ず。聖なるキリスト教会(「公教会」としてもよい)、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなきいのちを信ず。
アーメン。

「使徒信条」
天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。
(アーメン。)

「主の祈り」
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「主の祈り」
天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行われるように、地上でも行われますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を許しましたから、私たちの犯した罪をおゆるしください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)

「イエスの祈り」
主イエス・キリスト 神の子よ。罪人である私を憐れんでください。

「グロリア・パトリ」
父、み子、御霊の神に、み栄えあれ、初めも、今も、後も、世々に絶えず、アーメン。

「栄頌」
父、み子、御霊に、み栄え、初めも、今も、後も、世々に絶えず、アーメン。

「マグニフィカツト」
わが心、主をあがめ
 わが靈は、わが救主なる神を喜べり
そのはしための卑しき身をも
 かえりみ給いたればなり
視よ、今よりのちよろず世の人は
 我をさいわいなるものとなさん
全能者、われに
 大なる事をなし給いたればなり
その御名はきよく
 そのあはれみは、代々、畏(かし)こみ恐るる者にのぞむなり
神はみ腕にて力をしめし
 心のおもいに高ぶる者をば散しもう
いきおいある者を位よりおろし
 卑しき者を高くあげ
飢えたる者を善(よ)き物に飽かせ
 富める者を空しく去らせ給う
また我らの先祖に告げ給ひし如く
 アブラハムと、その裔(すえ)とに對するあわれみを
とこしえに忘るることなからんために
 しもべイスラエルを助けたまへり
父、御子、御霊の神に
 み栄えあれ
はじめにありしごと、今も後も
 ときわにアーメン
(「日本福音ルーテル教會式文」 昭和24年 pp.48-49)


「マグニフィカート」
1、私の魂は主である神をあがめ、
2、私の霊は私の救い主である神を喜びます。
3、神はとるにたりない女である私に目を留められました。これからのち世々の子らは私をさいわいな女とほめたたえることでしょう。
4、すべてのことをなさる神が私に大きなことをしてくださったからです。そのみ名は聖いのです。
5、その憐みは世々にわたって、神を畏れるすべての者に及びます。
6、神はそのみ腕をもって力強く働き、心の思いの高ぶるすべての者を打ちこわされます。
7、神は偉大な君侯をその支配(の座)から引きおろし、低くて、無である者を高めてくださいます。
8、神は飢えている者をあらゆるたぐいのよいもので飽かせ、富んでいる者を空手(からて)のままにしておかれます。
9、神は、その憐みを忘れずに、仕えるイスラエルの民を受けいれてくださいます。
10、我々の父祖アブラハムとその子らに永遠に約束なさったとおりに。
(「ルター著作集第一集第4巻」pp.160-161)


Martin Luther’s Evangelical Praise of the Mother of God
O Blessed Virgin, Mother of God, what great comfort God has shown us in you, by so graciously regarding your unworthiness and low estate. This encourages us to believe that henceforth He will not despise us poor and lowly ones, but graciously regard us also, according to your example. Amen

「マルティン・ルターの神の母への福音主義の賛美」

おお、祝福された処女また神の母よ、神があなたの無価値と卑しさを、これほど恵み深く顧みてくださることによって、神は我々に、これほど大きな慰めを、あなたのことで示してくださった。それによって我々はこののち神が、貧しい、無である者を、あなたの例証によって、見捨てず、恵み深く顧みてくださることを確信する。アーメン。
(「ルター著作集第一集第4巻」p.197、「ルター著作集分冊7 マグニフィカート」pp.59-60)

「おお、祝福された処女また神の母よ、神があなたの無価値と卑しさとを、これほど恵み深くかえりみてくださることによって、神は私たちに、これほど大きな慰めを、あなたのことで示してくださった。それによって私たちはこののち神が、貧しい、無である者を、あなたの例証によって、見捨てず、恵み深くかえりみてくださることと確信する」
「ルター著作選集」 (ルター研究所 編 教文館 pp.333-334)

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「イエスの祈り」、「天使祝詞」、「マグニフィカート」、「マルティン・ルターの神の母への福音主義の賛美」の三つは、日本のルーテル派では祈られないので、「天使祝詞」はカトリックのものをご覧ください。「マグニフィカート」と「マルティン・ルターの神の母への福音主義の賛美」は「ルター著作集」と」ルター著作選集」から引用しました。「イエスの祈り」は英語版から機械翻訳を「イイススの祈り」にて修正。


ネストレとUBS版の発行年などと日本語訳聖書の底本

◎ Nestle 「Novum Testamentum Graece」の発行年など

エーベルハルト・ネストレ
3つの学術版、ティッシェンドルフ(シナイ写本を重視)、ウェストコット=ホート(ヴァチカン写本を重視)、ウェイマス(ヴァチカン写本を重視、1901年からヴァイスの校訂本に置き換わる)の2つの版が支持する読みを本文、残りを脚注に記した。3つの読みが違う場合は折衷的な読みの方を採用。
1版 1898年、2版 1899年、3版 1901年、4版 1903年
5版 1904年、6版 1906年、7版 1908年、8版 1910年
9版 1912年、10版 1914年、11版 1920年、12版 1923年

new bearbeitete Auflage (新しい編集版)
エルヴィン・ネストレ、21版以降クルト・アーラントが共同編集者として参加。
この新しい編集版よりティッシェンドルフ・ウェストコット=ホート・ウェイマス(ヴァイス)の校訂本に依存せず、写本、古代語訳、教父の引用からの証拠を示す一貫した異文資料欄を備えた現代「ネストレ」となった。また、20版以降異読記号! は原型と見なされる異文の前に附された。
13版 1927年 、14版 1930年、15版 1932年、16版 1936年
17版 1941年、18版 1948年、19版 1949年、20版 1950年
21版 1952年、22版 1956年、23版 1957年、24版 1960年
25版 1963年

new bearbeitete Auflage (新しい編集版)
今までに収集され、評価された資料に基づいて(これらは旧版において!などで示されていた。20世紀に発見された初期パピルスなどにより本文の再定義や異読批評欄の見直し)本文を確立した(新しく本文も異読資料欄も組み換え)。
28版から大型批評版 Editio Critica Maior(ECM)からの洞察と評価が取り入れられた(28版ではECMで出版されている「公同書簡」)。
26版 1979年、27版 1995年、28版 2012年(訂正第2版 2013年、訂正第3版 2014年、訂正第4版 2015年、訂正第5版 2016年)

ネストレ28版の訂正などは新約聖書本文研究所(INTF)のNestle‐Aland, 28. Auflage で確認することができます。
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◎ ネストレ初版の序文(Google翻訳使用)

ADVERTISEMENT.

The text of this Greek Testament was in the main first published by the Bible Society of Wiirttemberg at Stuttgart in 1898. It was prepared for that Society by Professor Eberhard Nestle, D.D., of Maulbronn, and he has revised the three editions which have followed the first. By the kind permission of the Wiirttemberg Society the Britisli and Foreign Bible Society is permitted to adopt its latest text (the 4th) and to publish it in England under Dr Nestle s care.

周知

このギリシャ語の聖書のテキストは、1898年にシュトゥットガルトでWiirttembergの聖書協会によって最初に出版された主なものでした。それはMaulbronnのEberhard Nestle、DD教授によってその協会のために準備され、彼はそれに続く3つの版を改訂しました。 最初。 Wiirttemberg Societyの親切な許可により、Britisli and Foreign Bible Societyは、最新のテキスト(4番目)を採用し、ネスレ博士の管理下で英国で出版することが許可されています。

The text is the resultant of a collation of three of the principal recensions of the Greek Testament which appeared in the latter half of the 19th century, viz. those of Tischendorf, editio octavo, 1869-72 (as reproduced in the 4th edition by Oskar von Gebhardt, 1898); of Westcott and Hort, 1881 (impression of 1895); and of D. Bernhard Weiss, 1894-1900 (second edition 1902). The readings adopted in the text are those in which at least two of these editions agree. An exception to this rule has been made in the case of St John v. 3, 4, and vii. 53 viii. 11. These passages have been retained in the text, but they are placed within special marks.

このテキストは、19世紀後半に登場したギリシャ語のテスタメントの3つの主要なリテンションの照合の結果です。 Tischendorfのもの、editio Octavo、1869-72(Oskar von Gebhardt、1898によって第4版で複製されたように); ウェストコットとホートの、1881年(1895年の印象); およびD.Bernhard Weiss、1894-1900(第2版1902)。 本文で採用されている読み方は、これらの版のうち少なくとも2つが一致している読み方です。 セントジョンv。3、4、およびviiの場合、この規則の例外が作成されました。 53viii。 11.これらの箇所は本文中に保持されていますが、特別なマークが付けられています。

Besides this edition with critical apparatus, another is published containing the text by itself.

The apparatus at the foot of each page indicates every variation of any importance in the resultant text above it, in words, spelling or punctuation, from (1) the Textus Receptus, and (2) the Greek Text which avowedly or inferentially underlies the English Revised Version of 1881. For the purpose of comparison a Greek Testament printed for the Society at the University Press, Cambridge, in 1876 has been used in the main to represent the Textus Receptus as hitherto published by the Society. It gives (but not with perfect accuracy) the text of the Elzevir edition of 1624, which was based on that of Robert Estienne [Stephanus], Paris 1550, and which took the name of Received Text from the preface to the edition of 1633.

重要な装置を備えたこの版に加えて、それ自体でテキストを含む別の版が出版されています。

各ページの下部にある装置は、(1)Textus Receptus、および(2)英語の根底にあるギリシャ語のテキストから、その上にある結果のテキストの重要性のすべてのバリエーションを、単語、スペル、または句読点で示します。 1881年の改訂版。比較のために、1876年にケンブリッジのユニバーシティプレスで協会のために印刷されたギリシャ語の聖書は、これまで協会によって発行されたテクストスレセプタスを表すために主に使用されました。 これは、1624年のElzevir版のテキストを提供します。これは、1550年のパリのRobert Estienne [Stephanus]のテキストに基づいており、序文から1633年の版までReceivedTextの名前が付けられています。

The readings of the English Revisers are gathered (1) from the list furnished by them and reproduced by
Scrivener (Cambridge 1881, 1894) and Palmer (Oxford 1881, 1901); and (2) inferentially from a comparison
of their English with the Greek text of the present edition. In some cases these readings can only be
inferred with probability, and not with certainty.

Variations are indicated in the footnotes asfollows : ―

No mark A reading found in the Textus Receptus (or the Society s 187G edition of it) which takes the place of that in the resultant text above.

+ − Plus indicates something added to the text, and minus something omitted from it.

( ) When a Greek reading is enclosed in curved brackets, the variation is in punctuation
alone.

! An upright bar separates the variations in a single verse.

1º, 2º, &c When the same word recurs in a verse, the numeral indicates the particular one in the series to which the variation applies.

英語改訂者の読みは、(1)提供されたリストから収集され、
Scrivener(Cambridge 1881、1894)およびPalmer(Oxford 1881、1901); (2)比較から推論的に
現在の版のギリシャ語のテキストと彼らの英語の。 場合によっては、これらの測定値は
確実性ではなく、確率で推測されます。

バリエーションは、以下の脚注に示されています:―

マークなし上記の結果のテキストの代わりに、Textus Receptus(またはSocietyの187G版)にある読み。

+ −プラスはテキストに追加されたものを示し、マイナスはテキストから省略されたものを示します。

()ギリシャ語の読みが曲線の角かっこで囲まれている場合、バリエーションは句読点になります
一人で。

!直立したバーは、1つの詩のバリエーションを分離します。

1º、2º、&c同じ単語が詩で繰り返される場合、数字はバリエーションが適用されるシリーズの特定の単語を示します。

κ.τ.λ.  Is used in the cases where a particular reading or spelling will recur in the N.T., and the correction is made at its first occurrence, onco for all.

S ( = Stephanas-Elzevir s or the Society s edition.) S stands for the T.R. when the same variation occurs in that text, and in the Eng.R.V.

R  ( = Revisers.) R, by itself, indicates a variation which occurs only in the Revisers text, and
is one of those to be found in Scrivener s list of the Revisers avowed readings.

R Indicates a reading of the Revisers, which has been inferred from their English, but is not
specified by Scrivener.

(R) The R is enclosed in curved brackets when the inference as to what was the Revisers reading is probable, but not absolutely certain.

SR SR S(R) } Are used when the variation is common to T. R. and R. V., with more or less certainty in the latter case, as already explained.

Rt, Rt Are used when the variation occurs in the Revisers' text, as distinguished from their
margin.

Rm, Rm  Are used when the variation occurs in the Revisers margin, as distinguished from their text.

m1,m2  Are used when there are more marginal readings than one.

ȷ Indicates the limit in the text to which a variation applies.

[ ] Double brackets (e.g. Markxvi. 9) mark passages which the critical editors, or a majority of them, consider very early interpolations.

< > Indicate a passage for which ancient authority is in part wanting.

κ.τ.λ。 N.T.で特定の読みやつづりが繰り返され、最初に修正が行われる場合に使用されます。

S(= Stephanas-ElzevirまたはSocietyのエディション。)SはT.R.を表します。そのテキストとEng.R.Vで同じバリエーションが発生したとき。

R(=改訂者。)Rは、それ自体、改訂者のテキストでのみ発生するバリエーションを示し、
は、Scrivenerの改訂者が公言した読みのリストにあるものの1つです。

R英語から推測されたがそうではない改訂者の読みを示します
Scrivenerによって指定されます。

(R)Rは、改訂者が何を読んだかについての推論が可能であるが、絶対的に確実ではない場合、湾曲した括弧で囲まれます。

SR SR S(R)}バリエーションがT.R.とR.V.に共通している場合に使用されます。後者の場合は、すでに説明したように、多かれ少なかれ確実です。

Rt、Rtは、改訂者のテキストでバリエーションが発生した場合に使用されます。
マージン。

Rm、Rmテキストと区別して、改訂者のマージンで変動が発生した場合に使用されます。

m1、m2周辺の読み取り値が1つより多い場合に使用されます。

ȷバリエーションが適用されるテキストの制限を示します。

[]二重角かっこ(Markxvi。9など)は、重要な編集者またはその大多数が非常に初期の補間を検討する箇所を示します。

<>古代の権威が部分的に望んでいる箇所を示してください。

Accents and breathings are only inserted in the apparatus when the variation turns upon them. In the use of initial capitals for Θεός, Κύριος, Χριστός, Πνῦεμα, Διάβολος, etc. the general usage of the English and American Revisers is followed. Σατανᾱς is always regarded as a proper name.

The black type for quotations, the strophic arrangement for poetry, and the division into paragraphs, chiefly follow Westcott-Hort. The verse division is that of Stephamis, 1551.

The side margins contain parallel-references compiled from (1) the R. V. of Luther s translation, (2) quotations from the O. T. found in Westcottllort-Hort and Tischendorf-Gebhardt, and (3) other sources.

THE BIBLE HOUSE, LONDON.
March, 1904.

アクセントと呼吸は、バリエーションがそれらをオンにしたときにのみ装置に挿入されます。 Θεός、Κύριος、Χριστός、Πνῦεμα、Διάβολοςなどの初期大文字の使用では、英語とアメリカの改訂者の一般的な使用法に従います。 Σατανᾱςは常に固有名詞と見なされます。

引用のための黒いタイプ、詩のための有節歌曲の配置、および段落への分割は、主にWestcott-Hortに従います。 詩の分割は、1551年のステファミスの分割です。

サイドマージンには、(1)R。V. of Lutherの翻訳、(2)Westcottllort-HortおよびTischendorf-Gebhardtで見つかったO. T.からの引用、および(3)その他のソースから編集された並列参照が含まれています。

THE BIBLE HOUSE, LONDON.
March, 1904.


****

◎ 22版の!記号の説明箇所より(冒頭)
Aus der Vorbemerkung zur 21. Auflage.
Schon in der 20. Auflage waren Lesarten, die ernstlichen Anspruch auf Ursprünglichkeit haben, durch ein vorgesetztes ! gekennzeichnet worden; ihre Zahl wurd jetzt vermehrt.
Neu berücksichtigt wurden die Papyri P27 und P49; die Lesarten des Pergamentfragment 0220, auf das mich Prof.D.KümmelMaburg aufmerksam machte.

予備的発言から第21版まで。
すでに第20版では、本物であると真剣に主張する読みが上司によって与えられました! マークされています。 彼らの数は今増加しています。
パピルスP27とP49が考慮されました。 D.KümmelMaburg教授が私の注意を引いた羊皮紙の断片0220の読み。
 ・・・

****

◎ アメリカ聖書協会(AmericaBible Society)・聖書協会世界連盟(United Bible Societies)発行の 「THE GREEK NEW TESTAMENT」の発行年
アメリカ聖書協会のイニシアチブの下委員会が作られました(スコットランドとヴュルテンベルク聖書協会の参加により、後にオランダとイギリスの聖書協会も参加)。

第1版 1966年、第2版 1968年、第3版 1975年、第3版修正版 1983年
第4版 1993年、第5版 2014年

第3版修正版(1983年)は、ドイツ聖書協会のGNTの説明によると、第3版(1975年)から本文はほとんど変更されず、句読点とアパラトゥスが修正されたとあった。

****

◎ 日本語訳聖書の底本

明治元訳舊訳1887年、文語訳聖書の底本ははっきりしない(日本聖書協会に問い合わせした返答)

明治元訳新約1880年、エラスムス版、King James Version、ブリッジマン=カルバートソン漢訳聖書

大正改訳新約1917年、文語訳聖書の底本ははっきりしない(日本聖書協会からの返答)、ネストレ、マルコのみウェストコット=ホートの「ギリシャ語原語による新約聖書」、Revised Version

口語訳旧約1955年、ビブリア・ヘブライカ第三版(日本聖書協会からの返答)、Revised Standard Version

口語訳新約1954年、ネストレ19版・20版・21版(日本聖書協会からの返答)、Revised Standard Version

共同訳新約1979年、UBSギリシア語新約聖書第3版

新共同訳旧約1987年、ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア

新共同訳続編1987年、ゲッティンゲン版七十人訳ギリシア語聖書、ウルガタ・ラテン語訳聖書

新共同訳新約1987年、UBSギリシア語新約聖書第3版

聖書協会共同訳旧約2018年、ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア、ビブリア・ヘブライカ・クインタ(出版分のみ)

聖書協会共同訳続編2018年、ゲッティンゲン版七十人訳ギリシア語聖書、ウルガタ・ラテン語訳聖書

聖書協会共同訳新約2018年、UBSギリシア語新約聖書第5版

新改訳旧約1970年、ビブリア・ヘブライカ第三版以降のもの(Wikipediaによれば第三版の第七修正版)、NASV

新改訳新約1965年、ネストレ24版、NASV

新改訳2017旧約2017年、ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア、ビブリアヘブライカクインタ(出版分のみ)、NASB

新改訳2017新約2017年、ネストレ28版、NASB

ラゲ訳新約聖書1910年、1959年版、ウルガタ・ラテン語訳聖書
(ラゲ訳新約聖書1959年版は1910年版を戦後の国語に対応させて漢字、送り仮名などを改めたもの。)

バルバロ訳四福音書1950年ドン・ボスコ社、(ウルガタ・ラテン語訳、不完全なところだけ参考として批評版)

バルバロ訳新約1953年ドン・ボスコ社、「ブルガータに基き、些か不完全だと思はれる點だけ批判テキストを用ひた。」(緒言)

バルバロ訳新約改訂版1957年ドン・ボスコ社、批判テキストにもとづき、ウルガタ訳を無視することなく、各国の現代訳も使用。

バルバロ=デル・コル訳旧約1964年ドン・ボスコ社、「現代におけるもっとも権威ある批判テキストにもとづく翻訳」(序論)

バルバロ=デル・コル訳新約1964年ドン・ボスコ社、「現代におけるもっとも権威ある批判テキストにもとづく翻訳」(序論)

バルバロ訳新約1981年講談社、記載なし(おそらくウルガタ・ラテン語訳聖書、批評版、現代イタリア語訳)

バルバロ訳旧約1980年講談社、記載なし(おそらくウルガタ・ラテン語訳聖書、批評版、現代イタリア語訳)

バルバロ訳新約1980年講談社、記載なし(おそらくウルガタ・ラテン語訳聖書、批評版、現代イタリア語訳)

フランシスコ会訳旧約1958~分冊発行、ビブリア・ヘブライカ第三版以降のもの
フランシスコ会訳続編1958年~分冊発行、
フランシスコ会訳新約1962年~分冊発行、

フランシスコ会訳新約1984年改訂版、UBSギリシア語新約聖書第3版

フランシスコ会訳(2011年改訂版)旧約、ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア
フランシスコ会訳(2011年改訂版)続編、ゲッティンゲン版七十人訳ギリシア語聖書
フランシスコ会訳(2011年改訂版)新約、UBSギリシア語新約聖書第3版

ニコライ訳(1896年12月8日のニコライの日記によると、「三種のギリシャ語版、二種のラテン語版、教会スラヴ語版、ロシア語版、英語版、フランス語版、ドイツ語版、三種の漢訳版、日本語版、ロシア語と英語の注釈書」がニコライの手元にあった。)
正教会訳(ニコライ訳)聖詠経1885年(1988年再版)
正教会訳(ニコライ訳)新約1901年(1985年再版)

本田哲郎訳、UBSギリシア語新約聖書第3版

山浦玄嗣訳(ケセン語訳)福音書2002年~、UBSギリシア語新約聖書第4版

永井直治訳新約1928年、修正版1960年、ステファヌス版

キリスト新聞社口語訳新約1952年、記載なし

関根正雄訳岩波文庫版1956年~、ビブリア・ヘブライカ

塚本虎二訳新約、ネストレ

岩隈直訳新約、R. V. G. タスカー

前田護郎訳新約1983年、ネストレ26版(UBSギリシア語新約聖書第3版を参考)

田川健三訳、ネストレ27版

泉田昭訳(国際ギデオン協会New Bible)2006年、ネストレ27版

柳生直行訳新約1985年、UBSギリシア語新約聖書第3版とネストレ26版

現代訳(尾山令仁訳)旧約1983年、記載なし
現代訳(尾山令仁訳)新約1983年、記載なし
現代訳改訂版 旧約2020年、
現代訳改訂版 新約2020年、
創造主訳(尾山令仁訳)、現代訳聖書の改変

詳訳新約1962年、英訳Amplified Bible(Classic Edition)からの翻訳。英訳の底本はウェストコット=ホート。

岩波書店旧約聖書翻訳委員会訳、ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア
岩波書店新約聖書翻訳委員会訳、ネストレ27版
岩波書店新約聖書翻訳委員会訳2023年改訂新版、ネストレ28版


回復訳1995年、ネストレ26版(回復訳英語版と中国語版参考)

エマオ出版訳、ネストレ27版

新和訳(池田博訳)新約2007年、UBSギリシア語新約聖書第4版

エターナル・ライフ・ミニストリーズ発行の「新約聖書 TR日本語訳」2014年、テクストゥス・レセプトゥス(TBS発行のF・H・A・スクリブナー版)

アライブ訳新約聖書、不明
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athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

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