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ヘブライ2章9節の異読について


 十何年か振りで「捏造された聖書」 (バート・D・アーマン著 松田和也訳 柏書房 2006年初版)を読み返してみて、ヘブライ2:9の異読について、そういう異読もあったな~と思いネストレ版27版開いて見たら、すでに本文とアパラトゥス(欄外注)に赤線引いてあって、昔読んだときに引いたのだな~と思いました。

 その気になった一部を引用しますと

"  ヘブライ人への手紙と見捨てられたイエス
 ・・・
 現存する写本のほぼすべてが、イエスは「神の恩寵によって」(CHARITI THEOU)万人のために死んだと書いている中で、たった二冊だが、彼は「神から離れて」(CHŌRIS THEOU)死んだと書いているものがある。だが、この後者こそが『ヘブライ人への手紙』のオリジナルの文だと見なすべき十分な理由があるのだ。
 ここで「神から離れて」と書いている写本について、詳しく立ち入るつもりはない。ただ簡単に概要だけを示しておくと、そう書いているのは10世紀に作られた二冊の資料だけで、そのうちのひとつ(Ms.1739)は少なくとも現存する最古の写本と同じくらい古い写本を底本にしたものであることが判明している。だがひじょうに興味深いことに、三世紀初頭の学者オリゲネスによれば、彼の時代の写本の大多数はこの異文の方を採用していたというのだ。これ以外にも、古い時代にはこちらの方が一般的だったことを示す資料がある。西方ラテン世界のアンブロシウスやヒエロニムスもこの異文を知っていたし、11世紀までの幅広い教会著述家たちがこれを引用している。そんなわけで、現存する写本では幅広い支持を集めているとは言えないが、過去においてはこの異文を支持する強力な外的証拠が存在したということだ。
 ・・・ "
(「捏造された聖書」 バート・D・アーマン著 松田和也訳 柏書房 2006年初版 pp.185-191、引用はpp.186-187)


 とのことで、そして、どうしてそのような変更がなされたかについては、同書のもうちょっと後の章でこのように説明しています。


"   「分割論」に反対する立場
 人間イエスと神キリスト
 ・・・・
 この真実というのは、秘密の教え、神秘的な「知識(ルビ:グノーシス)」であって、天界の神的存在のみがそれを伝えることができる。グノーシス派キリスト教徒にとって、キリストとは救済の真実を啓示する神的存在だ。多くのグノーシス派の教義では、キリストは人間イエスの洗礼の際に彼の許にやって来た。そして彼に使命を果たす力を与え、最終的には彼を見棄てて十字架で死なせた。だからこそイエスは、「わが神、わが神、何故あなたは、わたしをお見捨てになったのですか?」と叫んだのだ。グノーシス派にとっては、キリストは文字通りイエスを見棄てたのだ(「彼を残して立ち去った」とも言う)。だがイエスの死後、キリストはイエスの信仰への報いとして彼を死から甦らせ、彼を通じて救済へと導く秘密の真実を弟子たちに説き続けた。
 原始正統派は、この教えをあらゆる面で許しがたい敵であるとみなした。・・・・

 テキスト改竄の意味
 分割論者のキリスト論を巡る論争は、後に新約聖書となるテキストの伝承にかなりの役割を果たした。その実例のひとつは、第五章で見た『ヘブライ人への手紙』二章九節の異文だ。そのオリジナル版では、イエスは「神から離れて」死んだとされていた。すでに見たように、ほとんどの書記はキリストが「神の恩寵によって」死んだとする捏造の方を採用していた。だがあの場では、なぜ書記たちがオリジナル版を危険と判断し、原文の改竄も辞さなかったのかということまでは深く突っ込まなかった。だが、グノーシス的なキリスト理解についてごく簡単に説明した今なら、あの改竄の意味がよくお解りいただけるだろう。分割論者のキリスト論によれば、キリストは実際に「神から離れて」死んだのだ。というのも、あの十字架の上で、彼に取り憑いていた神的存在が彼から離れ、イエスは独りで死んだのだから。あのテキストがこのような見解の裏づけとなりうることに気づいたキリスト教の書記たちは、とても簡単な、だが深遠な改竄を加えた。これによって、彼の死が神から離れたものであったと書いてあったテキストが、今やキリストの死は「神の恩寵」によるものであったと断言するようになったわけだ。 "
(「捏造された聖書」 バート・D・アーマン著 松田和也訳 柏書房 2006年初版 pp.218-220)

 それから聖書を開いて、この個所(前後も含めて)の口語訳と新共同訳、新改訳の訳文を改めて読みますと、なにか喉の奥に引っかかるような感じのものに近い感じの違和感を覚えました。

 口語訳には「彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。」とあり、私たちにとって主の死は恵みだったかもしれませんが、イエスにとって恵みによって死を賜るというでは、どこかのお殿様が不正を働いた家臣に対して、殿様の恩情によって最後だけは武士として名誉ある切腹を賜ったというような感じと似た文言に感じられてしまいました。なんか文章としてがちぐはぐだよねと感じます。

 そこで正文批判をちゃんとして翻訳している田川訳なら違っているかもしれないと思い開いて見て見ますと、


田川建三訳
他方、しばしの間天使よりも小さい者となしたという点については、我々は、イエスが受難することによって栄光と栄誉の冠をさずけられた、ということを見ている。それは、神なしですべての(人の?)ために死を味わうということだったのだ。


 やっぱり「違っていたーっ!」と思いました。そこでこの節の註を見ますと、なんとpp.565-572まで8ページもありました。その中から一部を見てみましょう


" 神なしですべての(人の?)ために死を味わう  有名な正文批判上の問題。ほとんどすべての写本が「神なしで」の代わりに「神の恵みによって」としている(𝔓⁴⁶ ℵ A B C D K P Ψと重要大文字写本が勢揃い。小文字写本もほぼすべて)。それに対し「神なしで」とするのは、ギリシャ語写本では、大文字写本の 0121b と小文字写本の 1739 、及び同 424 に後に書き込まれた修正のみ。しかし古代訳ではこの読みのものがけっこう多い。ヴルガータ、シリア語訳、コプト語訳のそれぞれ一部の写本。しかしもちろんこれだけでは問題外である。それなのに何故「神なしで」の読みが重要であるとみなされてきたのか。こちらの読みは古代キリスト教著者の引用に多く見られるからである。有名な地者だけでもオリゲネス(Origenes, アレクサンドリアとパレスティナ海岸のカイサリアで活躍、三世紀前半)、アンブロシウス(Ambrosius,ミラノの司教、四世紀後半)、テオドロス(Theodoros, キリキア地方の町 Mopsuestia の司教、四世紀後半~五世紀のはじめ)、ヒエロニムス(Hieronymus, ダルマティア生まれだがローマで活躍。御存じヴルガータ訳の中心人物、四世紀後半~五世紀はじめ)、テオドレトス(Theodoretos, シリアのキュロスの司教、五世紀前半)、ネストリオス(Nestorios, アンティオキアでキリスト教の勉強をし、コンスタンティノポリスで大司教。後に「異端」とされたことで有名、五世紀前半)、フルゲンティウス(Fulgentius, アフリカつまり今日のテュニジアで生まれ、修道士になり、一時ローマでも活躍。最後はアフリカの都市 Ruspe の司教。六世紀のはじめ)。御覧のように、東方(シリア、アンティオキア、キリキア、またアレクサンドリア、コンスタンティノポリス)から西方(ミラノ、ローマ、アフリカ)まで広くひろがっている。つまりこの読みは特定の地方に限られていたわけではない。鳥瞰図的には、現存の諸写本は「神の恵みによって」と読んでいるけれども、古代のキリスト教著者たちは「神なしで」と読んでいたのである。
 ・・・
 しかし、この件について極めて重要な情報を提供してくれているのがオリゲネスとテオドロスである。オリゲネスは自分の知っている多くの写本の読みに従って「神なしで」の読みを採用した後、註的に、「神の恵みによって」という読みも「いくつかの写本」に見られるけれども、と指摘している(『ヨハネ註解』1・35)。こういう場合の「いくつか」(tines)は、ほんの二、三という程度。つまりその時代ではまだ「神なしで」の読みを示す写本の方がずっと多かった。ということ。ちなみに、今日知られているヘブライ書の写本で最も古いものは 𝔓⁴⁶ であるが、オリゲネスとほぼ同時期ないしやや後である。他の写本はすべてオリゲネスよりもはるかに後。
 テオドロスはもっときつく、「神の恵みによって」という読みは間違った、笑止すべき読みである、と断定しているそうな。けれどもほぼその時期(五世紀はじめ)頃から、そちらの読みの写本の方が数的には多数となった。ヒエロニムスはオリゲネスとは逆に、「いくつかの写本においては」(in quisbusdam exemplaribus)「神の恵みによって」という読みではなく、「神なしで」という読みが記されている、と指摘している(すみません、今回はオリゲネス、テオドロス、ヒエロニムスについては自分で原典にあたっていません。ミヘルとH・ブラウンの引用による)。これらの証言を通して見れば、流れが明白に見えてくる。三世紀ではまだ(従って二世紀ではもちろん)、「神なしで」の読みが優勢だった。しかし徐々に「神の恵みによって」という読みが神学者、教父たちの気に入られるようになり、五世紀になって逆転した、ということ。
 ・・・ "
(「新約聖書 訳と註 6 公同書簡/ヘブライ書」(田川建三訳) 2015年 作品社 pp.565-567)


 これも分かりやすい説明です。さて手元にある批判的校訂本のネストレ版とUBS版から当該箇所のアパラトゥスを抜き出してみます。28版のアパラトゥスは下にもう一度分かりやすい形にしてみました。


ネストレ18版のアパラトゥス
9 χωρις θ. M 424ᵐᵍ 1739ᵐᵍ syᵖ ᶜᵒᵈᵈ Orᵖᵗ Theoᵐᵒᵖˢᵛ Ambr ; Whʳ : (- Henke c j)

ネストレ22版、24版、25版のアパラトゥス
9 χωρις θ. M 424² 1739ᵐᵍ ᵛⁱᵈ syᵖ ᶜᵒᵈᵈ Orᵖᵗ Theoᵐᵒᵖˢᵛ Ambr ; Whʳ

ネストレ26版のアパラトゥス
9 χωρις θεου 0121b. 1739* vgᵐˢ ; Orᵐˢˢ Ambr Hierᵐˢˢ Fulg

ネストレ27版のアパラトゥス
9 χωρις θεου 0243. 1739* vgᵐˢ ; Orᵐˢˢ Ambr Hierᵐˢˢ Fulg

ネストレ28版のアパラトゥス
9 χωρις θεου 0243. 1739ᵗˣᵗ vgᵐˢ・; Orᵐˢˢ Ambr Hierᵐˢˢ Fulg

ネストレ28版のアパラトゥスを分かりやすく記号説明なども入れますと
9 χωρις θεου(コーリス・セウー) アンシャル体写本0243. 小文字写本1739ᵗˣᵗ、ラテン語訳ウルガタᵐˢ・; オリゲネスᵐˢˢ (254年没) 、アンブロシステル (366-384年)、 ヒエロニムスᵐˢˢ (420年没) 、フルゲンティウス (527年没?)
小文字写本1739に付いている上付き文字txtは「異読が関係する写本本文の読み」であることを指す
ラテン語訳ウルガタに付いている上付き文字msは「独自の読みをもつ個々のウルガタ写本」であることを指す
オリゲネスとヒエロニムスに付いている上付き文字mssは「教父は与えられた異文を支持する1つかそれ以上の新約聖書の写本を知っている」であることを指す


UBS 3版のアパラトゥス
9 [B] χάριτι θεοῦ 𝔓⁴⁶ ℵ A B C D K P Ψ 33 81 104 326 330 424* 436 451 614 629 630 1241 1319 1573 1877 1881 1962 1984 1985 2127 2492 2495 Byz Lect itᵃʳ. ᵉ. ᵈ. ᵈᵉᵐ. ᵈⁱᵛ. ᵉ. ᶠ. ᵗ. ᵛ. ˣ. ᶻ vg syr⁽ᵖ⁾. ʰ. ᵖᵃˡ copˢᵃ. ᵇᵒ. ᶠᵃʸ arm eth mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴼʳⁱᵍᵉⁿ Origenᵍʳ²/⁶ Eusebius Athanasius Didymus Chrysostm Jerome Cyril Euthalius // χωρὶς θεοῦ 0121b 424ᶜ 1739* mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴼʳⁱᵍᵉⁿ Origenᵍʳ⁴/⁶.ˡᵃᵗ Eusebius Ambrosiaster Ambrose mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴬᵐᵇʳᵒˢᵉ. ᴶᵉʳᵒᵐᵉ Theodore Theodoret Vigilius Fulgentius Anastasius-Abbot Ps-Oecumenius Theophylaet


UBS 4版のアパラトゥス
9 [A] χάριτι θεοῦ 𝔓⁴⁶ ℵ A B C D Ψ 075 0150 6 33 81 104 256 263 265 424* 436 459 1175 1241 1319 1573 1739ᵛ. ʳ ᵛⁱᵈ 1852 1881 1912 1962 2127 2200 2464 Byz [K L P] Lect itᵃʳ. ᵇ. ᶜᵒᵐᵖ. ᵈ. ᵛ vg syrᵖ. ʰ. ᵖᵃˡ copˢᵃ. ᵇᵒ. ᶠᵃʸ arm eth geo slav mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴼʳⁱᵍᵉⁿ Origenᵍʳ Athanasius Didymus Chrysostm mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᵀʰᵉᵒᵈᵒʳᵉ Cyril Theodoret¹/² Ps-Oecumenius; Faustinus Jerome // χωρὶς θεοῦ 0243 424ᶜᵛⁱᵈ 1739ᵗˣᵗ vgᵐˢ Origenᵍʳᵛ. ʳ. ˡᵃᵗ mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴼʳⁱᵍᵉⁿ Theodore Nestoriansᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴾˢ⁻ᴼᵉᶜᵘᵐᵉⁿⁱᵘˢ Theodoret¹/² ˡᵉᵐ ; Ambrose mssᵃᶜᶜ. ᵗᵒ ᴶᵉʳᵒᵐᵉ Vigilius Fulgentius


 それぞれのアパラトゥスも版が新しくなるにつれて少しづつ証拠写本や教父証言も入れ替えがあります(スペースには限りがあるのでこれでもすべてが載せられているわけではありません。)

 参考までに小文字写本1739の画像をあげておきます。今日のギリシヤ語の小文字の原型ですので分かりづらいので、節番号と当該異読の下には赤線を引いておきました。このギリシャ文字に付いてはWikipediaのGreek minusculeやバチカン図書館のThe Greek Minuscule Alphabet2. INTRODUCTION TO MINUSCULE BOOKHANDSなんかを参照してください。

小文字写本1739 ヘブライ2:9
(小文字写本1739、米国議会図書館で公開されてDL出来る写本のマイクロフィルムより)

 この写本について、田川訳の註にて

" 面白いのは、これまでもしばしば名をあげた 1739。こちらも十世紀だが、すでに小文字写本である。これが面白いのは、欄外にエイレナイオス、オリゲネス等々の古代の著者の著作から取られた註が書き込まれている点である。写本自体は十世紀のものであっても、本文はもちろん欄外の註も、その写本家自身の作文ではなく、それよりも古い写本を写記しており、その大元はかなり古い時代までさかのぼる可能性があるから、こういう註は重要である。この写本の場合は、註に指摘されている著者のうち時期的に最後の人物はバシレイオス(Basileios, 現代西洋語ではBasil, Basile 等と記されることが多い。カッパドキアのカイサリアの司教で、カッパドキア三大神学者の一人とされる。329頃~379年)であるから、この註が書かれたのはせいぜい四世紀末ないし五世紀はじめということがわかる。それなら、この写本の大元の写本はその時期のものであるはずである(B.M.Mtzger, The Text of the New Testament, 2nd ed. 1968 Oxford, 65)。欄外の細かい註までそのまま五百年以上にわたって写本され続けたというのも、たいしたことだが、そうすると、古さからすれば、これは重要大文字写本のCやDに匹敵する。 "
(「新約聖書 訳と註 6 公同書簡/ヘブライ書」(田川建三訳) 2015年 作品社 p.568)

とありましたので画像をあげました。


 田川訳の「神なしですべての(人の?)ために死を味わうということだったのだ。」との訳文ですと、イエスが私たちの罪を負って十字架にかけられて呪われたものとなって、私たちに代わって神の独り子が「神なしに」死ななければならなかったことをよく表しているように思いますし、この節を含めた前後の文章全体とも調和しているように思えます。

申命記21章22-23節
22 もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、23 翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。


 さて、日本語訳の聖書に目を向けて、田川訳以外ではどうなのかな? と思い調べてみました。この異読を本文ににしているのは田川訳だけでした。欄外注に言及していたものは岩隈直訳と聖書協会共同訳とそのパイロット版だけでした。本文と欄外注は以下のようになります。

岩隈直訳
しかししばらくのあいだ天使より低くされた方,すなわちイエースースが死の苦しみのゆえに栄光と栄誉とを冠としてかぶせられているのを見る。これは彼が神の恵みによってあらゆる人のために死を味わうためであった。
 注
χάριτι(< χάρις) Θεοῦ. これを χωρὶς Θεοῦ 「神なしに」(マコ15・31参照)とする異本があり、これを原型とする人もある。

新翻訳事業パイロット版(2016年)
しかし、わたしたちは、天使より僅かの間低い者とされたイエスが、死の苦しみによって栄光と栄誉を冠として授けられたのを見ています。それは、p神の恵みによってすべての人のために死を味わうためでした。
 注
p2・9 「異」「神なしに」

聖書協会共同訳
ただ、「僅かの間、天使より劣る者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と誉れの冠を授けられた」のを見ています。e神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれたのです。
 注
e 異 「神なしに」


 本文の訳にしたのは田川訳のみ、欄外注で言及したのが岩隈直訳と聖書協会共同訳とそのパイロット版。これ以外は批判的校訂本の本文をそのまま訳したものになります(ラゲ訳はラテン語訳ウルガタ聖書からの翻訳、底本は不明ですがおそらくテクストゥス・レセプトゥスからの訳と思われる正教会訳、そして、明治元訳と永井直治訳はテクストゥス・レセプトゥスからの翻訳なので除外した方がいいかもしれませんが、参考までに載せておきます)。


明治元訳
惟われら天の使等より少く遜されし者即ち死の苦を受しに因て榮と尊貴を冠せられたるイエスを見たり其死たるは神の恩に因て衆の人に代り死を嘗へんが爲なり

大正改訳
ただ御使よりも少しく卑くせられしイエスの、死の苦難を受くるによりて榮光と尊貴とを冠らせられ給へるを見る。これ神の恩惠によりて萬民のために死を味ひ給はんとてなり。

口語訳
ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。

共同訳(1978年)
しかし、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエススが、死の苦しみを経て、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。それは、神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためだったのです。

新共同訳
ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

新改訳(第一版、第二版、第三版)
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。 その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

新改訳2017
ただ、御使いよりもわずかの間 低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。 その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

詳訳
しかし私たちはイエスを見ることができます。彼はしばらくの間、み使いより下の位を受けられましたが、死の苦しみを経験されたために、栄光と誉れの冠を受けられました。それは、〔私たち罪びとに対する〕神の恵み〈受ける資格がないのに与えられる愛顧〉により、彼がひとりびとりすべての人間のために、死を経験されるためでした。

ラゲ訳(1910年)
然れど天使等に少しく劣らせられしもの、即ちイエズスを見奉るに、神の恩寵により一切の人間の為に死を嘗め給はんとて、死の苦の故に、冠らしむるに光榮と名誉とを以てせられ給ひしなり。

ラゲ訳(1959年)
されど天使たちに少しく劣らせられしもの、すなわちイエズスを見奉るに、神の恩寵により、いっさいの人間のために死をなめ給わんとて、死の苦のゆえに、かむらしむるに光栄と名誉とをもってせられ給いしなり。

バルバロ訳新約改訂版1957年
ただ、しばしの間、天使の下に下げられたこのイエズスが、死をたえ忍ばれたが故に、光栄と名誉とを冠(かぶ)せられたのをわれわれは見ている。こうしてかれは、神の恩寵によって、すべての人のために死を味わったのであった。

バルバロ訳新約聖書1981年新装改訂版講談社
ただしばしの間、天使の下に下げられたこのイエズスが、死を耐え忍ばれたがゆえに光栄と名誉を冠(かぶ)せられたのを私たちは見ている。こうしてイエズスは神の恩寵によって、すべての人のために死を味わわれた。

フランシスコ会訳(1979年、1984年改訂版)
しかし、わたしたちが見ているのは、「しばらくの間、天使たちよりも低いも の」とされたこのイエズスが、その死の苦しみのゆえに、「栄えと誉れの冠」をお受けになったことです。こうして、イエズスは、神の恵みに よって、すべての人のために、この死を味わったのです。

フランシスコ会訳(2011年合本版、2013Web)
しかし、わたしたちが見ているのは、「しばらくの間、み使いたちよりも低いも の」とされたこのイエスが、その死の苦しみの故に、「栄えと誉れの冠」をお受けになったことです。こうして、イエスは、神の恵みに よって、すべての人のために、この死を味わったのです。

正教会訳
唯我等は天使等より少しく遜(くだ)らしめたるイイススが死を受くる為に、光栄と尊貴(そんき)とを冠(かうむ)らせられたるを見る、彼が神の国の恩寵に由(よ)りて、衆人の為に死を嘗(な)めん為なり。

岩波翻訳委員会訳(1995Web、2004年)
私たちが目にするのは、神の恵みによりすべての人のために死を味わうよう、「ほんの少しの 間、御使いたちに劣るようなものとされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光と栄誉の冠を被せられていることである。

キリスト新聞社訳
私たちは、暫くの間、み使いたちより卑(ひく)くされ、死の苦しみのために栄光と名誉とを冠らされたイエスを見る。これは、神の恵みによつて、すべての人々のために、神が死を味(あじわ)われるためであつた。

永井直治訳(1928年Web、1960年修正版)
されど我等は天使より少しく卑くせられ給ひし者=死の苦を受け給ひしによりて、榮光と敬とを冠らせられ給ひしイエス=を視る。是れ彼は神の惠にて、すべての人に代りて死を味ひ給はんためなりしなり。

前田護郎訳
われらが見るのは、しばし天使たちより低くされ、死の苦しみを経て栄光と誉れで冠りされたイエスです。それは神の恵みによってすべての人のために死を味わ われるためでした。

塚本虎二訳
ただわたし達は、このイエスが『少しのあいだ(だけ)天使たちよりも小さくされ(て地上に遣わされ)た』が、死の苦しみのゆえに『栄光と栄誉との冠をさず けられた』のを見るのである。(そしてここに預言の実現がある。)彼が死ぬことは、神の恩恵によって、万人の(救の)ためであった。

柳生直行訳
ただ、われわれはイエスを見る、すなわち、しばしのあいだ御使いたちよりも低き者とせられた彼が、今や栄光とほまれの冠を与えられているのを見る。それは、彼が死の苦しみを通ってきたからであり、また彼がすべての人のために死ぬことが、神の恵み深い御計画にほかならなかったからである。

国際ギデオン協会New Bible(泉田昭訳)
ただ、死の苦しみのゆえにしばらくの間、御使いたちより低くされたイエスが、栄光と栄誉の冠をかぶられたのを私たちは見ています。神の恵みにより、すべての人のために死なれたのです。

リビングバイブル(1982年版、1993年改訂版)
しかし、しばらくの間、御使いよりも低くされ、私たちのために死の苦しみを味わうことにより、今は栄光と誉れの冠を授けられた、イエス様を見ています。まことに、イエス様は、神様の大いなる恵みのゆえに、全人類のために死なれたのです。

リビングバイブル(2016年改訂版新版新装版)
しかし、しばらくの間、天使よりも低くされ、私たちのために死の苦しみを味わうことによって、栄光と誉れの冠を受けられたイエスを見ています。イエスは、神の大いなる恵みのゆえに全人類のために死なれたのです。

電網聖書(2002年3月3日版Web)
ただ,しばらくの間み使いたちよりも低くされた方であるイエスが,死の苦しみのゆえに,栄光と誉れを冠として与えられたのを見ています。それは,神の恵みによって,彼がすべての人のために死を味わわれるためでした。

(特定の団体の訳や異端の訳は調べませんでした:現代訳、創造主訳、回復訳、エマオ出版訳、新和訳、TR新約聖書、金の器社ギリシヤ語直訳新約、新世界訳など)


 毎度のことですがみんな右へ倣えです。しかし、英訳もまた同じでした。

Bible Hub で Hebrews 2:9の各英訳は以下のもので、「神の恵みによって」を省略しているラムサ聖書以外はみなこの通りでした。

Geneva Bible of 1587
Bishops' Bible of 1568
Coverdale Bible of 1535
Tyndale Bible of 1526
King James Version
New King James Version
King James 2000 Bible
New Heart English Bible
World English Bible
American King James Version
American Standard Version
A Faithful Version
Darby Bible Translation
English Revised Version
Webster's Bible Translation
Literal Standard Version
Berean Literal Bible
Young's Literal Translation
Smith's Literal Translation
Literal Emphasis Translation
New International Version
New Living Translation
English Standard Version
Berean Study Bible
New American Standard Bible
NASB 1995
NASB 1977
Amplified Bible
Christian Standard Bible
Holman Christian Standard Bible
Contemporary English Version
Good News Translation
GOD'S WORD® Translation
International Standard Version
NET Bible
Douay-Rheims Bible
Catholic Public Domain Version
Aramaic Bible in Plain English
Anderson New Testament
Godbey New Testament
Haweis New Testament
Mace New Testament
Weymouth New Testament
Worrell New Testament
Worsley New Testament

Bible Hubのこの中にはなかったので、手元にあるRevised Version、Revised Standard Version、Amplified Bible, Classic Edition 、The Message も確認しましたがgraceとなっていました。欄外注にも異読はありませんでした。



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ルカ16:19 金持ちの名前


 新約聖書のギリシヤ語パピルス写本を調べようと思っても、ネストレ版の批判的校訂本を見ることのほかには、ネットなんかで外国の専門家による論文か、Wikipediaの限られたあまり当てにはできない情報か、インターネットアーカイブに公開されている昔のファクシミリ版(バチカン写本やシナイ写本、アレクサンドリア写本などの大文字写本)とか、バチカン図書館・他などでデジタル公開されている写本画像にあたるくらいが一般の一信徒としてはそれくらいでしょうか。

 「The Text of the Earliest New Testament Greek Manuscripts」という二巻本が何年か前にでました。VOLUME1 にはPapyri 1-72までが収録され、VOLUME2 にはPapyri 75-139 and Uncialsが収録されて、ファクシミリ版ではなくテキスト化(小文字を使って単語ごとに間隔も開けて分かりやすくしている。気息記号やアクセント記号などはない。改行は写本のまま)されているのでとても便利です。

「The Text of the Earliest New Testament Greek Manuscripts VOLUME 1 , VOLUME 2」 Philip Wesley Comfort, David P. Barrett 編著 Kregel Academic Professional


 そのなかで、さて、何か分かりやすい違いのところはないものかと、メッガー著「新約聖書の本文研究」を開き、その『第2章 新約聖書の主要な証言』のⅠの『1 新約聖書の主要なギリシア語パピルス』から、最古の福音書のパピルス写本である𝔓75のところで出てくるルカ福音書のラザロと金持ちの話しの異読(ルカ16:19)は面白そうだなと思って、VOLUME2の𝔓75をちょっと見てみました。

 どのような異読かと言えば、ラザロと金持ちの話しの中に出てくる名無しの金持ちに、彼には名前があったということです。別に名前があろうがなかろうが話しには何の影響もないのですが、片方の人物には名前があって、もう一人の人物には名前が無いことが昔の人たちももやもやしたのかもしれません。

 まず𝔓75の写本画像(バチカン図書館で公開している画像)を見てみましょう。赤線の引いてある言葉が追加された言葉です。

P75 ルカ16:19


 これを大文字で書き起こすと(画像は18節の終わり部分も入っているので、一応19節の始まりに節番号を入れました)

ΜΟΙΧΕΥΕΙ:  19 ΑΝΘΡΩΠΟϹΔΕΤΙϹΗΝ
ΠΛΟΥϹΙΟϹΟΝΟΜΑΤΙΝΕΥΗϹΚΑΙΕΝΕΔΙ
ΔΥϹΚΕΤΟΠΟΡΦΥΡΑΝΚΑΙΒΥϹϹΟΝΕΥ
ΦΡΑΙΝΟΜΕΝΟϹΚΑΘΗΜΕΡΑΝΛΑΜΠΡΩϹ

 さらに小文字も使って分かりやすくすると

μοιχεύει.  19 Ἄνθρωπος δέ τις ἦν
πλούσιος ὀνόματι Νεύης , καὶ ἐνεδι-
δύσκετο πορφύραν καὶ βύσσον εὐ-
φραινόμενος καθ’ ἡμέραν λαμπρῶς.

となります。

ὀνόματι Νεύης (オノマティ ネウェス)という言葉が追加されています(画像の赤線の個所)。

 全体としては、「ある金持ちがいた。ネウェスという名で、彼は紫の柔らかい麻布を着ていて、毎日華やかに楽しんでいた。」とでもなるのかな。名前があるとより物語ぽくなりますね。

 ネストレの異読もネストレ新版、25版、24版以前と3つに分かれます。まず見てみましょう。

ネストレ26版、27版、28版
ονοματι Νευης 𝔓75 (sa) ¦ Finees Prissc

ネストレ25版
ονοματι Νευης 𝔓75. : cui nomen Nineus sa : Finees Prissc

ネストレ18版、22版、24版
cui nomen Nineus sa : Finees Prissc

 ネストレは25版から𝔓75の写本が参照されています。24版以前はコプト語サヒド方言訳をラテン語訳したものを掲載し、コプト語サヒド方言訳を表すsaをつけています。もう一つが南スペインのプリスキリアヌス(平信徒であったがマニ教を広め、キリスト教の歴史上初めて異端として処刑された人物)を表す略号Prisscで、プリスキリアヌスの残した文書では、この金持ちの名はフィネスとなっていることが出ています。ネストレの新版(26版以降)ではコプト語サヒド方言訳のラテン語訳はなくなりました。サヒド方言訳も見てみましょう。

コプト語サヒド方言訳 ルカ16:19

19 ⲛⲉⲩⲛⲟⲩⲣⲱⲙⲉ ⲇⲉ ⲣ̅ⲣⲙ̅ⲙⲁⲟ ⲉⲡⲉϥⲣⲁⲛ ⲡⲉ ⲛⲓⲛⲉⲩⲏ ⲉϣⲁϥϯ ϩⲓⲱⲱϥ ⲛ̅ⲟⲩϫⲏϭⲉ ⲛⲙ̅ⲟⲩϣⲛ̅ⲥ ⲉϥⲉⲩⲫⲣⲁⲛⲉ ⲙ̅ⲙⲏⲛⲉ ⲕⲁⲗⲱⲥ.

 コプト語サヒド方言訳では ⲉⲡⲉϥⲣⲁⲛ ⲡⲉ ⲛⲓⲛⲉⲩⲏ と名前が「ニネウェ」となっています。メッガーなどを読むと、こちらが元の形で𝔓75は重字脱落(重ねて書くべき文字や文字群を脱落させること)して、本来ニネウェスとなるところをネウェスとしてしまったとしています。

 同じコプト語訳でもボハイル方言訳では金持ちに名前はありませんでした。

 たった一つの異読でも気になって見てみると、ネストレ校訂本の異読の進化なども見ることが出来ますし、コプト語訳の違いなども知れて面白いと思います。



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