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イザヤ書40章22節 地の円


イザヤ書40章22節を新世界訳 新世界訳 1982年日本語版と1985年日本語版で見ますと


22 地の円の上に住む方がおられ,[地]に住む者たちは,ばったのようである。その方は天を目の細かい薄織りのように張り伸ばしておられ,それをその中に住むための天幕のように広げ,


となっていましたが、新世界訳 2019年日本語版では


22 丸い地の上に住む方がいる。地に住む者たちはバッタのようだ。その方は天を薄織りの布のように広げ,天幕のように張って住まいとする。


と、「地の円の上に」が「丸い地の上に」と変更され、まるで第二イザヤ(1~39章までは預言者イザヤによって書かれたもので、40~55章は預言者イザヤとは別の名は分かっていない人物によって書かれたもので、第二イザヤと便宜上呼ばれています。56~66章は前二者とは別の名前の分かっていない人物によって書かれたもので、第三イザヤと呼ばれる。キリスト教原理主義者やキリスト教の異端、キリスト教系の破壊的カルト宗教はイザヤ書全体が預言者イザヤによって書かれたと信じ込んでいる。)によるこの個所が、科学に先駆けて地球が丸いと書いていたとしたいのでしょう。そういう風に読める訳に改変したのでしょう。

 アメリカのキリスト教原理主義では、20世紀のはじめごろにサライス・I・スコフィールドというファンダメンタルなディスペンセーション主義者によって、聖書の英訳King James Versionに注釈をつけた「The Scofield Reference Bible」というものが出版されました。その中でこの個所に次のような注釈がつけられました。

The Scofield Reference Bible イザヤ40:22

The Scofield Reference Bible イザヤ40:22注

g A remarkable reference to the sphericity of the earth.
See, also, Isa.42.5 ; 44.24 ; 51.13 ; Job9.8 ; Psa.104.2 ; Jer.10.12.

g 地球の球形についての注目に値する言及。
イザ.42.5 も参照。 44.24; 51.13; ヨブ9.8 ; 詩.104.2 ; エレ.10.12。


 エホバの証人では、彼らの機関誌の一つ「目ざめよ」誌の1978年3月22日号に「地球 ― 平らか,それとも丸いか 」という以下に引用する記事が掲載されました。

" 地球 ― 平らか,それとも丸いか
● 地球は平らではなく丸いということを,人間が初めて感づいたのはいつごろだったのでしょうか。クリストファー・コロンブスの時代ですか。いいえ,それよりも前のことです。アービング・ロビンは次のように書いています。「西へ向かって航海して,東方へ行き着けると信じるには,地球が球体であることをも信じていなければならない。ジェノバに住む船長,クリストファー・コロンブスはそのことを信じていたが,それを信じていたのは彼一人だけではなかった。それを信じていた人は幾世紀も昔から存在していた。というのは,西暦前500年の昔に,ギリシャの学者ピタゴラスが地球は丸いと主張していたからである。1250年に書かれたノルウェーの一教科書には同じことが述べられているだけでなく,地球の四季,一年間の太陽の角度の変化,そして卓越風などがある理由も説明されている。古代の知識すべてが失われてしまったわけではない。それはただ一時期人気がなかったにすぎないのである」― 探検と発見の過程と原因百科
● ピタゴラスは西暦前540年から500年ごろの人です。しかし,それよりもさらにずっと前,西暦前8世紀の人であるヘブライ人の預言者イザヤは,地球が球体であることを示し,こう書き記しました。「地の円の上に住んでおられる方[エホバ神]がおられ,その中に住んでいる者たちはばったのようである」。(イザヤ 40:22,新)ここで「円」と訳出されているヘブライ語は,「球」とも訳せます。(B・デビッドソン著,「ヘブライおよびカルデヤ語聖書聖句索引」)興味深いことに,この節の「円」という言葉に関して,スコフィールド参照聖書は,欄外の注で,「地が球体であることに対する,驚くべき言及」と述べています。モファット訳は,「彼は丸い地の上に座っておられる」と訳出し,カトリック・ドウェー訳はここを,「地の円球の上に座られる方こそその方なり」と訳しています。古代の人々は全般的に地は平らであると考えていたとはいえ,地球の創造者の霊感によって記された言葉が地球は丸いということを正しく示しているのは当然のことです。 "
(p.17)

 この記事が出て以降の80年代に入ってから、エホバの証人の雑誌や書籍なんかで、聖書が神の霊感を受けて書かれた書物の証拠の一つとしてよく使われるようになりました。2019年版日本語版新世界訳では、その解釈に合わせて本文も変えたのでしょう。英文は「the circle* of the earth」と変わらないのですが、2013年版では「circle」のところに*が付いていて、欄外注(Footnote)を見るように促されます。そこには「*Or “sphere.”」と、サークル(円)はスフィア(球体、玉)とも訳せるとしています。

 この「円」と訳されているヘブライ語はフーグ(chug)で、ヘブライ語辞典などを見ますと円や地平線、回る、円を描くなどの意味の語です。球体や丸・ボールを示す語はカドゥㇽ(kadúr)で、ヘブライ語の地球(כדור הארץ)という言葉もこの語から来ています。


2329. chug フーグ
chug


kadúr
kadúr


 この個所の他の日本語訳聖書を見てみましょう。欄外注などのあるものは併せて引用します。口語訳聖書には日本基督教団出版局から出ている略解を脚注代わりに載せておきます。


口語訳
主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、

【地球のはるか上に座】する者、【天を幕のようにひろげ】る者、これは皆ヤㇵウェではないか。「地球」と訳されているが、古代へブル人は地上を平盤なものとし、その上に天が幕のように張られていると考えた。
(「旧約聖書略解」 日本キリスト教団出版局 1957年 p.696)


新共同訳
主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り その上に御座を置かれる。


聖書協会共同訳
主は地を覆う天蓋に住まわれる方。/地に住む者はばったのようなもの。主は天を幕のように伸ばされる方。これを天幕のように広げて住まわれる。


岩波書店旧約聖書翻訳委員会訳
地を覆う天蓋²の上に住む方よ、地に住む者どもはいなごのようだ。天を薄布のように張り巡らす方は、これを天幕のように張って住む。
² 原語フーグは元来「円盤」を表す。「薄布を張り巡らす」イメージと共に、創一6の蒼穹(ラーキーアウ)同様、平たい地を覆う半球形の幕としてのヘブライ的天体観による。


フランシスコ会聖書研究所訳
主は地を覆う空の上に着座される。地に住む者は、蝗のようなもの。主は天をとばりのように張り広げ、天幕のように張って住まいとされる。(8)
(8) 本節は、前節の最後の行と同様、下方にある水の深淵、地、天蓋のように地の上に広がり神が着座される大空、という三段階構造をもつと考える、古代の宇宙観を反映している。


バルバロ訳聖書1980年講談社版
主は世のはるか高いところに座り、その住人をいなごのように見られる。主はベールのように天をひろげ、住みかとする幕屋のように張られる。


関根正雄訳岩波文庫版
彼は蒼穹の上にすわり
地に住む者は蝗にひとしい。
天を絹布(けんぷ)のようにひきのばし
これを天幕のようにひろげ住む。
ニニ節 「蒼穹」地の円盤が原語、他の個所からここも蒼穹と解す。


新改訳(第二版)註解・索引・チェーン式引照付
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。
注解 詩的な表現。 天蓋―大空。


新改訳2017
主は、地をおおう天蓋の上に住む方。地の住民はバッタのようだ。主は、天を薄絹のように延べ広げ、これを天幕のように張って住まわれる。


 やはりこれらのちゃんとした聖書学者たちの訳では、聖書のこの個所以外の文言や古代イスラエルやカナーン、シリア、メソポタミヤ、エジプトの等の宇宙観などを考慮して訳語を選んでいます(図1の世界最古のバビロニアの世界地図(紀元前7世紀)などを見ますと、大地は円盤状の平面なものとして描かれています。Babylonian Map of the World 。 図2.ユダヤの宇宙観は、 放送大学教材8224 「宇宙像の変遷と化学」 二間瀬敏史・中村士 著 放送大学教育振興会 pp.16-19の「4. バビロニアとユダヤの宇宙観」より)。

図1.世界最古のバビロニアの世界地図
Babylonien und Assyrien by Meissner, Bruno, 1868-1947. p.378
(Babylonien und Assyrien by Meissner, Bruno, 1868-1947. p.378)


図2.ユダヤの宇宙観
放送大学教材8224 「宇宙像の変遷と化学」 二間瀬敏史・中村士 著 放送大学教育振興会 p.17
(放送大学教材8224 「宇宙像の変遷と化学」 二間瀬敏史・中村士 著 放送大学教育振興会 p.17)


図3.ユダヤの宇宙観
聖書の宇宙観
(フランシスコ会訳(2011年改訂版)の旧約聖書p.7の挿絵)


 そもそも聖書には、天と地には果てがある描かれています。

申命記
4:32試みにあなたの前に過ぎ去った日について問え。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの端から、かの端までに、かつてこのように大いなる事があったであろうか。このようなことを聞いたことがあったであろうか。

申命記
30:4たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。

イザヤ
40:28あなたは知らなかったか、
あなたは聞かなかったか。
主はとこしえの神、地の果の創造者であって、
弱ることなく、また疲れることなく、
その知恵ははかりがたい。

エレミヤ
12:12滅ぼす者どもが荒野のすべての、はげ山の上にきた。
主のつるぎが、地の、この果から、かの果までを滅ぼすのだ。
命あるものは安らかであることができない。

詩篇(新共同訳などは19:5)
19:4その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。

詩篇
103:12東が西から遠いように、
主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。

ネヘミヤ
1:9しかし、あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの戒めを守って、これを行うならば、たといあなたがたのうちの散らされた者が、天の果にいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ所に連れて来る』と。


天には丸天井があり

新共同訳ヨブ記22章14節
雲に遮られて見ることもできず、天の丸天井を行き来されるだけだ」と。

バルバロ訳聖書1980年講談社版 創世記1:6
また神が、水の間に*屋根ができて、水と水とを分けよ」と仰せられた。そして、そのようになった。
注 6 「屋根」はヘブライ語の「ラキハ」で、ギリシア語で「ステレオマ」、ラテン語で「フィルマメントゥム」と訳されている。旧約聖書では、詩的表現として「屋根」と言ったのであろうが、当時の宇宙観を表す「かたくて、まるいもの」の意味が含まれている(イザヤ40・22、詩篇103・2、ヨブ26・11)。この「屋根」の上には「上の水」があり、下には雨や雲になる「下の水」があり、上の水と下の水は異質のものだと考えていた。

フランシスコ会聖書研究所訳 創世記1:6
次に、神は仰せになった、「水の中に大空⑷あれ。そして水と水を分けよ」。すると、そのとおりになった⑸。
⑷ 直訳では「打ち延ばされた(金属)板」。古代セム人は大空を「上に水を蓄えた堅い天井」と考え、その穴から大雨が降ると思っていた。

岩波書店旧約聖書翻訳委員会訳 創世記1:6
神は言った、「水の中に蒼穹㈦があって、水と水の間を分けるものとなるように」。
㈦ 地を覆う天蓋。


 そして、地の下にはシェオル(陰府)がある。

民数記16章30節
しかし、主が新しい事をされ、地が口を開いて、これらの人々と、それに属する者とを、ことごとくのみつくして、生きながら陰府に下らせられるならば、あなたがたはこれらの人々が、主を侮ったのであることを知らなければならない」。


 そう言った世界観を無視して、「地が円(フーグ)と呼ばれているんだ、地球が丸いことを言っているんだ、すごい、すごい」なんて切文で解釈して利用するのはどうなのかな~と思います。

また、エホバの証人ではないがネットなんかを見ると、イザヤ書のこの個所で、タルムードのアヴォダー・ザラー 41a:4:1で地が球状であると書いてあるなんてことを言いだす人も見られました。

アヴォダー・ザラー 41a:4:1


Tosafot on Avodah Zarah 41a:4:1
Like a ball - That the world is round, as stated in the JerusalemTalmud, that Alexander of Macedon ascended above until he sawall of the world like a ball, and the sea like a basin, meaning thegreat ocean that entirely encompasses the Earth.

アヴォダー・ザラー 41a:4:1
球のように - エルサレムタルムードに述べられているように、世界は丸い、マケドニアのアレキサンダーは世界を球のように、海を盆地のように見渡すまで上空に昇り、地球を完全に取り囲む大海を意味します。

これは4世紀か5世紀のラビの言葉で、ユダヤのアレクサンダー大王伝説のアレクサンダー大王の昇天について語ったもので、イザヤ書関係ないよねと思います。この記述について、「公開講演会 二本角が表すもの ― 西アジアにおけるアレクサンドロス大王の神聖化 2005年12月17日(土) 14:00-16:00 講師:山中由里子(国立民族学博物館民族文化研究部助手)」の中で次のように述べられていました。

" ・・・・ユダヤ教徒の間でもアレクサンドロスの昇天は伝説として古くから伝わっていたようで、エルサレム・タルムードの中にはラビ・ヨナという4世紀の人の言葉として、こんなことが書かれています。「マケドニアのアレクサンドロスは天に昇ろうと望んだ際にどんどん高く上がり、遂にこの世が球のように見え、海が大皿のように見えるところまで達した。これゆえに彼の肖像は球を手にしているのである。なぜ皿を持っていないかというと、彼でさえ海までは征服できなかったからである。聖なるもの(神)、彼に幸あれ、聖なるものは海をも陸をも支配しておられる」。これはユダヤ教徒のアレクサンドロス昇天伝承です。タルムードに含まれているこの

 一節はタバリーを引用しているウクバの伝承と直接かかわりはないかもしれません。アレクサンドロスが天高く昇って、眼下に見下ろすと、世界とそれを取り巻く海が見えるという点ではタバリーの記述と共通しています。しかしこのユダヤ教徒の伝承において、アレクサンドロスは天使の助けを借りたのではなく、自ら望んで天に昇っていきました。アレクサンドロスは天に昇ろうと望んだ。そのためにどのような方法を用いたかは記されておりません。キリスト教伝承にあったようなグリフィンを使ってということはここには書いてありません。

 一部のキリスト教の解釈ほどアレクサンドロスの傲慢を否定的にとらえているわけではありませんが、しかしこの逸話の趣意は明らかに「アレクサンドロスほどの征服王にも力の限界があって、神の全能には及ばない。聖なるものは海をも陸をも支配しておられる。しかしアレクサンドロスは海までは征服できなかった」という、アレクサンドロスですら神の全能には及ばないということを示すエピソードであります。

 このようにキリスト教徒、ユダヤ教徒のアレクサンドロス昇天伝説と比べてみると、イスラーム教、ムスリムの伝承のアレクサンドロス伝承のみが、自らの野望、傲慢、好奇心によるのではなく、神様に選ばれた人間として天使に導かれて天に昇っています。眼下に見える全世界の布教の任務を啓示されています。アレクサンドロスを神に対抗しようとする無謀な王様ではなく、真の教えをあまねく広める使命を担った神の従僕とするムスリムの伝説の展開は、アレクサンドロスが『コーラン』の二本角と同一視され、神聖化されていた独自のものであったと言えましょう。 "

 やっぱりイザヤ書40章22節とは関係が無いですし、使われているのもフーグではなく「kadúr」(球体)という語です。そして、このタルムードの前には

Avodah Zarah 41a:4
§ The mishna teaches: And the Rabbis say: The only statues that are forbidden are: Any statue that has in its hand a staff, or a bird, or an orb, as these are indications that this statue is designated for idolatry. The Gemara explains that each of these items symbolizes the statue’s supposed divinity, indicating its dominion over the world: A staff symbolizes dominion as the idol rules itself under the entire world, i.e., it rules the entire world, like one rules over an animal with a staff. A bird symbolizes dominion as the idol grasps itself under the entire world, i.e., it grasps the entire world, as one grasps a bird in his hand. An orb symbolizes dominion as the idol grasps itself under the entire world, i.e., it grasps the entire world, as one grasps a ball in his hand.

アヴォダー・ザラー 41a:4
§ ミシュナは教えます: そしてラビたちはこう言います: 禁止されている唯一の彫像は、手に杖、鳥、または球体を持っている彫像です。これらは、この彫像が偶像崇拝のために指定されていることを示しています。 ゲマラは、これらのアイテムのそれぞれが像の神聖性を象徴し、世界に対するその支配を示していると説明しています。偶像が全世界の下で自らを支配するように、杖は支配を象徴しています。つまり、動物を支配するのと同じように、偶像は全世界を支配します。 スタッフ。 鳥は、偶像が全世界の下で自らを把握するので、つまり、人が鳥を手に握るように、偶像が全世界を把握するので、支配を象徴します。 オーブは、偶像が全世界の下で自らを把握するとき、つまり、人がボールを手に握るように、全世界を把握するとき、支配を象徴します。

とあってから先ほどの41a:4:1のアレクサンダー大王の昇天が来るわけです。ゲマラの方も偶像崇拝について語っています。


 こういう胡散臭いやり方で聖書の正当性を宣伝するって、なんかおかしいと感じます。ましてやそれを聖書に落とし込むというのはね・・・






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B.H.カウパー編アレクサンドリア写本の脚注から


 18世紀にカール・ゴットフリート・ヴォイデによって、アレクサンドリア写本の精巧なファクシミリ版が作られましたが、何ヵ所かに組版のエラーが含まれていました。それを B.H.カウパーと E.H.ハンセルによって修正したものが、1860年に出版された「CODEX ALEXANDRINUS. Η ΚΑΙΝΗ ΔΙΑΘΗΚΗ NOVUM TESTAMENTUM GRAECE EX ANTIQUISSIMO CODICE ALEXANDRINO」になります。

 このカウパー編のアレクサンドリア写本のいいところは、写本の情報が欄外注にある所です。大英博物館発行のアレクサンドリア写本写真ファクシミリ版や大英図書館で公開されているアレクサンドリア写本のデジタル画像では、写本それ自体を見ることはできますが、写本の中に在る情報が記載されているわけではないので、カウパー編のファクシミリ版は役立ちます。ただし序文も欄外注もラテン語なのがネックです。ちょっと気になったものを二つ三つ挙げたいと思います。

ルカ16:26では本文に
・・・ ἔνθεν πρὸς ὑμᾶςμας 1) μὴ δύνωνται,

と問題箇所に注が付き、欄外にて

1) προς υμας μας. Sic μας repelitum
1) προς υμας μας.それでμαςが繰り返されました。

と説明されています。本来であれば、ἔνθεν(ここから) προς(ところに) υμας(あなたがたの)、「ここからあなた方のところに」という文章になるのですが、υμαςで終わらずに改行した時にまたμαςから始めてしまってυμας μαςとなってしまっています。本来一度だけの語や語句を誤って繰り返してしまう重複誤記(ディトグラフ)が起こってしまっています。ネストレや聖書協会のギリシヤ語新約聖書など批判的校訂本には出てきません。

写本の画像も上げておきます。

アレクサンドリア写本 ルカ16・26


 次に17:1の脚注

Εἶπεν δὲ πρὸς τοὺς μαθητὰς αὐτοῦ, ἀνένδεκτόν ἐστιν τοῦ 2) μὴ

2) εστιν εσ rescriptum a manu antiqua εσ vix legitur, et quaedam literae inter εσet τιν deletae.
2) εστιν εσ は古代の手によって書き直されていますが、εσ はほとんど判読できず、εσ と τιν の間のいくつかの文字は消去されています。

写本のデジタル画像を見て見ますと

ΑΥΤΟΥΑΝЄΝΔЄΚΤΟΝЄϹ
ΤΙΝΤΟΥΗ・・・・

アレクサンドリア写本 ルカ17・1

アレクサンドリア写本 ルカ17・1 拡大
(ЄϹとそれに続く空白の個所の拡大)

となっており、鮮明ではないЄϹの後に二文字ぐらいの空白があります。そして改行してΤΙΝと、不自然に区切られています。

 最後にもう一カ所。マルコ15:21

Καὶ ἀγγαρεύουσιν παράγοντά τινα Σίμωνα Κυρηναῖον 1) ἐρχόμενον ἀπ᾽ ἀγροῦ,

1) Κυρηναιον ν et η atrament recenti reseripta, olim forte Κηρυναιον
1) Κυρηναιον ν と η は新しいインクで書き直され、おそらく元は Κηρυναιον

Κυρηναιον(クレネ人)を書くところを誤ってΚηρυναιονと書いてしまって、あとで(インクの色が違うから書写した人とは別な人?)修正したのかな?

デジタル画像で見るとインクの色が違っていて、修正したように見えます。

アレクサンドリア写本 マルコ15・21

19世紀のファクシミリ版と現代のデジタル公開画像を比べて見ると面白い発見があると感じました。

プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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