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それは教会の中にある

Yahoo!ブログから転載(12月ブログサービス終了に付き引っ越し)

それは教会の中にある
2012/2/11(土) 午前 11:19
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/8477373.html

 いろいろと脱カルト化教会や脱異端を果たした人たちのブログなどを読んでいて思うことがあります。この人たちはカルト的思考を完全に瓦解させていない、またそれと共に、キリスト教の基礎を構築する前に神学の方向を学ぼうとしているか、また逆に神学や教理を否定し体験主義に陥っているという姿を見ます。

 これらの人たちは、特徴的に自分の考えていることと違うことがあったり、前に所属していたカルト団体と似たことがあったり、自分が否定されると、その対象に対してカルトだと決めつける傾向にあり、それと同時に、教会、牧師、キリスト者(クリスチャン)を非難し攻撃的になる傾向がみられます。

 この手の人たちは、既存の教会のクリスチャンをクズや愚図と見なしたりする場合があり、牧師に対しては独裁者のように見なします。

 何か教会の牧師や兄弟姉妹から勧めを受けると、信仰の押し付け、自由意思の行使を赦さない言動と理解して、激しい拒否反応を示します。そして、そのようなことを勧めてきたり求めてくる人を、教条主義者だとみなす場合があります。そして、その結果として、それらの人たちを拒絶し裁くことをします。

 この手の人たちは、カルトでの体験から、拘束されることや規則性というものに対してアレルギー反応が見られます。まだ、ネットなどが発達する前ですと、長い年月をかけて一般的な思考に至らせたり、また、新しい考えを教え込む方法で、脱カルト化がなされた後に、教会に導かれる場合がありましたが、最近は脱会後間もなく新しい教会を求めて渡り歩く、宗教依存症患者といえるような状態のままで洗礼を受けてしまう人が見られ、そういう人たちが教会の中から、その狂暴な牙をもって、キリスト教や教会批判をしている姿が見られます。

 この手の人たちに、イエスの御言葉(マタイ5:22,7:1-6)は届いていないのでしょう。

 また、教会というものに対して、聖書に示されている理想像を、現実のものとしてしてしまっているため、現実の教会と脳内で作り出した幻想がかけ離れている為、なおさら彼らの攻撃性を刺激する結果となっています。

 ルターは「ローマ書講義」で『この世の生活は罪からの治療の生活であって、治療が終わり、健康が回復した罪なき生活ではないのである。教会は、病人は回復期の人々の宿であり、看護婦である。これに対し天国は、健康な者、義人たちの宮殿である。』と語っています。

 イエスの『「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」』と語られたことと一致するものです。

 作家の故三浦綾子さんが、著書『道ありき第三部 信仰入門編 光るあるうちに』の中の「キリストの教会」というお話の中で次のように語っておられました。

 『だが、どんなに入りづらくても、信仰を導いてもらうためには、教会は必要なところなのだ。無論、教会は、単に信仰を学ぶための学校ではない。神を礼拝し、神と人とが交わり、人と人とが交わり、そして、ここで聖書の言葉を聞き、力を与えられ、その与えられた力で生きるべく、各々の生活の場に向かって行くところでもある。教会は、キリストの体と言われるわけがそこにあるのである。
 とにかく、わたしたちは勇をふるって教会に行ってみよう。実は教会というところは、それほど勇をふるって行かなくても、普通の人が集まっているところに過ぎないのだ。別段、特別立派で、善人で、清らかな心の人ばかりが集まっているわけではない。
 それぞれに、姑との仲が悪くて悩んだり、子供が不良で悩んだり、夫の不貞に泣いたり、自分の醜さに気づいて苦しんだり、体が弱くて失望したり、というように、何らかの悩みや痛みを人知れず抱いていて、思い切って教会の敷居をまたいだ人が大半なのである。
 たまには、讃美歌の美しさにひかれたり、友達に誘われてなにげなく通っていたり、あるいは英語を学ぶためにバイブルクラスに通ううちに教会に馴じんだという人はあったりしても、聖書を読んでいる間に、それぞれ人間の弱さを知った人たちなのだ。つまり、何らかの意味で、神なしには人間は真に生き得ぬことを知った人たちなのである。
 では、教会に通っている人は、人間の弱さを知り、痛みを知っているが故に、みな親切でやさしく導いてくれるに違いないと思うかもしれないが、決してそういう期待を抱かないことが肝要である。教会には、何十年も信仰生活をつづけている人もあれば、先週初めて来たばかりという人もいる。
 息子がノイローゼで、精神病院に入った人、娘の自殺にショックから起ち上がれない人など、自分の悩みだけで一杯の人もないわけではない。その一人の誰かに何かを尋ねても、浮かぬ顔で、返事もしてくれないことだってあるかもしれない。そんなことで、キリスト信者でも冷たいものだと絶望し、二度と教会に行くまいと思う気弱な人もいる。
 このように、教会に来ている人全部が信者とは限らないし、信者もまたいろいろなタイプがある。わたしなど、名前は人に知られているが、決して愛想のいい、やさしい人間ではない。生来ハッキリとものを言い過ぎ、語調も激しい。だから、わたしとしては、誰に対しても善意を持っているつもりでいても、その善意が善意として通らないことも言ったりする。
 要するに、神以外、キリスト以外には期待をしないで教会生活をするのが、教会生活のABCであり、XYZでもある。つまり、これが初めでもあり、終わりでもある。
 信者はともかく、牧師や牧師夫人はやさしいだろうと思うかもしれない。が、牧師は愛の故に言いにくいこともはっきりと言い、あえてきびしい態度を取ることもある。非常に多忙で、ゆっくり話ができない時もある。それを冷淡と取って淋しく思ったりするのはまちがいである。
 くり返すが、人に期待して、親切にしてほしい、あたたかい言葉をかけてほしい、自分を理解してほしいという、「ほしい、ほしい」の気持ちは、すっぱり捨てることである。もとより信者の中には、想像を超えた親切なあたたかい人もたくさんいる。だが、人間に期待している人は、必ず長い教会生活の中で、「あの人がこう言った」「この人がこんな態度だった」とつぶやく時が来て、次第に教会を離れてしまうことになりかねない。
 わたしは、自分が教会に通いはじめた時、人間には全く絶望していたので、その点、今に至るまで人につまづいて教会を休むということなどはなかった。どんな立派な人間でも、人間は人間を救えない。救い得るのは神のみである。』

 教会に反感を持ち、クリスチャンに絶望する人は、教会におわしますイエス・キリストに目が向かず、他人の言ったこと、やったことばかりを見聞きして、そして躓いてゆきます。そして呟いたり、裁いたりします。しかし、信仰による兄弟の関係は、私とあなたの関係ではありません。私とイエス、あなたとイエス、そして、私からイエスを通してのあなたという関係です。それ故このように言われます。『他人の召使を裁くとは、いったいあなたは何者ですか。』(ローマ14:4)と。裁かれるのは主人である神のみです。

 しかし、兄弟が間違ったことを教え行っていたのなら、そのことに対して何が間違っているのか、聖書から解き明かしをし、また、勧めを成せば良いのです。(2022/12/09追記-違法行為や犯罪などについては許したり見逃したりするのではなく、この世の法秩序によってキリスト者ではないこの世の隣人たちの平和と秩序のために必要なことで、隣人愛の上からも司法の裁きに渡すのはキリスト者として果たすべきことと思います。信仰上の過ちと違法行為・犯罪行為を一緒くたにして、聖職者・牧師やその家族、教会役員、主だった信徒の犯罪行為までも、その被害者や関係者、そのことに揺らいでいる信者たちに赦すよう教えたり迫ったりする福音派や聖霊派、また単立教会の牧師などがいますが、その方がとても問題のあるもので聖書の教に反するものであると考えます。)

 また、よくあるのですが律法主義を誤解して、規則や掟、勧めなどを嫌う人たちがいます。イエスはそのご生涯で律法を破られたことは一度もありませんでした。律法学者から安息日の癒しなどについて責められたことはありますが、それも当時の口伝律法によれば、違反行為とはなっていないことが分かっています。単なる言いがかりにすぎませんでした。また、イエスご自身、律法学者たちやファリサイ派の人々の言うことは『すべて行い、守りなさい。』と言われました。ただ、『彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである。』とその偽善性と、律法の外的な解釈による外的行為によって『背負いきれない重荷』(マタイ23:3.4)としてしまっていることを非難されました。また、律法の行為によって救われるという考えを否定しています(ヨハネ5:39)。掟や秩序を否定をするものではありません。

***「それは教会の中にある」の記事へのコメントとレス***

コメント(10)

いやはや(≧ε≦) 今の自分が もしかしたらこんな状態なのかもです 牧師やクリスチャンと聞いただけで (脱教会したばかりの時は超むかつきましたが)今でもちょっとムカつきが(笑) アカンなあ~ と 思いつつ 教会探して学びとかもしたいなあ と 思いつつ 日曜は剣道に通ってます (*_*) 脱会するまえに某信者からとことん責められたのが まだ引いてるのでしょうか…
[ 脱め●み教会 ] 2012/2/11(土) 午後 11:13 返信する

*

>脱め●み教会さん

脱さんもそんな感じになっておられましたか。

脱カルト化教会を果たした人は、時として前居た教会と似た系列を選んでしまう場合があり、よけい腹立たしく感じてしまう場合もあるようですね。

まあ、のんびり、ゆっくりと時間をかけて行く方が無難ですね。
2012/2/12(日) 午前 1:30 返信する

*

おっと、自分もそうですが、自己反省、しつつ、汗、気持ちの整理をして新たな信仰体系に向き合うのには長い時間が必要かと思いますね。

元JWの場合は、組織への従属のストレス故に、脱JW後は、神を信じていても、教会等の宗教団体などに一切関わりたくないという方向性の人達が多いですね。聖書に関してはとても詳しい知識を求める傾向にある方々もいて、今は翻訳も自分で色々買えますし、注解書なども自分で自宅で読めますしね・・・。

教会は問題の多い場所ですが、それでも必要だと私は思うのです。
[ Anastasia ] 2012/2/12(日) 午後 4:50 返信する

*

>Anastasiaさん

何せ心の問題ですから、一朝一夕というわけにはいきませんね。

元系の人間はどうしても問題などについて目がいってしまいますね。それをどう乗り越えて行くかが課題となるかもしれませんね。
2012/2/12(日) 午後 5:18 返信する

*

Ave Maria!!!

はじめまして。ひそかに?wいつも拝見していました。
管理人さんと同じ市内に住んでいますので、もしかしたら所属教会も同じかも?…なので、あまり深入りした事は書けませんが(汗

今から約20年以上前にJWで洗礼まで受けました。が・すぐにこの団体はカルトだと気付きました。何故なら、彼等は聖書を学んでいると確信しているのでしょうが教団の発行する「ものみの塔」の冊子を鵜呑みにしているだけです。祈りもなく、十字架もない会館も今思えば不自然ですね。

…私はマリア様との神秘体験でカトリックに導かれましたが、やはり信徒さん達の行いや言動に躓く求道者・転向者は多いです。
事実、地区ブロックでの作業となると・町内会のオクサマ達と何ら変わらない派閥争いがあったりで(@@;;;
やはり、主と向き合う事が何より全てスムーズに進むコツだと思います。自分も含めて、信徒と言えども所詮「人間」ですから。
これからも時々コメントさせて頂きます。
いつも良い内容をありがとうございます。感謝と祈りを込めて。
[ cri*kia*n ] 2012/2/13(月) 午後 0:24 返信する

*

>crikkiainさん

はじめまして。

crikkiainさんはカトリックの方なのですね。私はルーテルなので所属教会は違いますが、同じ市内の方とのこと、もしかしたらご近所さんの可能性もありますね。笑

ものみの塔は離れてはじめて、そのおかしさや不自然さがよく見えてきますね。

私の所属教会ではかなり前ですが、無牧の時代や他の教会の牧師の兼牧の時代などに、ご婦人たちの間でいろいろとごたごたと問題があり、教会の姉妹から相談を受けたことがよくあり、何時間も電話で悩みなどを聞いたことがありました。

男性の教会員はそういうことはないのですが、ご婦人の会員の場合、やはり目線が人に向かっている為に、牧師がこう言うことを言った、こういう態度だった、あの人がこう言った、この人がこうだとか、といったものがほとんどでした。人は人に躓くということをその時、身に染みたものでした。

はい。いつでもお気軽にコメントしてください。よろしくお願いします。
2012/2/13(月) 午後 1:00 返信する

*

>これらの人たちは、特徴的に自分の考えていることと違うことがあったり、前に所属していたカルト団体と似たことがあったり、自分が否定されると、その対象に対してカルトだと決めつける傾向にあり、それと同時に、教会、牧師、キリスト者(クリスチャン)を非難し攻撃的になる傾向がみられます。

そのとおりですね。注意してコメントしても必ず攻撃されます。私もたまりませんでした。
こういうことをいうと相手は頭に血が上るということを分かってレスポンスしているように感じるほどで。
インターネット上では議論は無理な感じでした。
会って話をしたら少しは違うのでしょうが・・・非常に傷つけられました。私って簡単に頭に血が上るんだということが分かったのが収穫です。贖罪抜きでは滅びるばかりとは私のことです。
(独り言なんで承認されなくても全然オーケーですよ。誰かに聞いてもらいたかっただけの自己憐憫ですから。聞いてくださってありがとうございます。)
[ あs ] 2012/3/14(水) 午後 11:18 返信する

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>あsさん

なかなか文字だけでは伝えられない部分や思いというものなどが、双方にありますね。また言葉使いや言い回しなども、他の地域の人同士ですから、そこには誤解なども生じやすかったりしますね。もしかして会って話したりすると違った結果になったりするかもしれなかったりする場合もあるのでしょうね。それでも中にはわざわざ揚げ足を取ったり、怒らせようとの意図を持っていたり、議論を有利に進めるためにそれらの行為を行ってくる人たちもあるのでしょうね。
2012/3/14(水) 午後 11:38 返信する

*

そういう人もおもねってやると簡単に理解者が現れたと喜んじゃうんですよ。精神的にそうとう痛めつけられたという勝手な思い込みが自己憐憫をひきおこして「こんなかわいそうな私をさらに痛めつけるなんて」とかすかな反対意見にも耐えられないんですよ。しかしその特徴的に自分の考えていることがキリスト教反対というものならまだ分かりやすくそういう人は教会に来ないのでまだ安全ですが、異端的思想にかぶれているタイプは隠微でまともな信仰者でも「いいかも」と思いかねず、まともな教会への影響が非常に危険なのでどうしてもやめてもらいたいんです。
が、おべっかやおもねり(サタンのワナですけどね)じゃないと受け付けなくなっちゃってるのでやはり敬して遠ざけるしかないのでしょうか。はがゆいです。
[ あs ] 2012/3/15(木) 午後 6:12 返信する

*

>あsさん

毒麦を抜くことは世の終わりまで主が止めておられますので、このような異端思想が教会の中にまぎれこんでしまうのは、ある程度覚悟しなければなりません。しかし、毒麦とはこのような特徴があり、このような植物で、これこれの毒性があると、情報を発信し、注意喚起をして被害を小さくすることは、とても大切なことだと思います。
2012/3/15(木) 午後 6:24

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当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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