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Lutheran  マグニフィカート

Yahoo!ブログから転載(12月ブログサービス終了に付き引っ越し)

Lutheran
2011/11/24(木) 午前 8:58
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/7562556.html

昨日の記事を書くに当たって、『日本福音ルーテル教会 教会員ハンドブック』を読み返してみました。そうしますと、普段カルト化教会や異端について見ていることと大きく違い、ホッと胸をなでおろす気がしました。

 牧師と信徒についてこのように書いてあります。

『教会の牧師は、その教会を代表する人ですが、しかしその人個人の教会がつくられるのではありません。教会が牧師を招聘し、直接に役員会がその働きを助けます。なんでも牧師任せにして、信徒が働かないということがあってはなりません。相互の信頼と協力が求められます。
 牧師は信徒のなかから献身して、専らみことばのご用につく者ですから、神学大学、神学校で学ぶなど一定の訓練を経て、教会の召しがあって、按手されます。それは全体の教会がみことばの職務を委任するというしるしです。もちろん必要な場合には、関係する学校や施設などに出向、あるいは派遣される場合もあります。牧師の仕事は礼拝や牧会の仕事ばかりでなく、教会の管理や維持、さらに伝道の進展のための努力をしなくてはなりませんから、あまり高齢になってからまで、重荷を負わせることのないように、七十歳を定年と定めています。その後は引退教師として、力に応じた奉仕を願うことになります。』

 とあり、牧師の職務が教会の委任によるものであること、その牧師個人の教会でないことが語られ、近年原理主義や聖霊派の単立教会に見られる牧師の独裁化というものが、かなり起こりづらいものとされていると感じました。

 また財務管理についてもこのように書いてありました。

 『…日本のルーテル教会は、自立した教会として歩んでいます。それだけに、財務の働きは教会にとって重要なのです。特に、自分の属する教会の財的状況がどうなっているか、よく理解するように努めましょう。牧師給はいくらか、光熱用水費や消耗品に無駄はないか、牧師が心おきなく伝道できるような配慮が会計面でもなされているか、礼拝献金や維持献金などが、教会の規模に合わせて適正にささげられているかなど、会計役員や、牧師にだけにまかせ放しというのでなく、ひとりひとりの信徒が気をつけていたいものです。
 教会が小規模であっても、収益を伴うような事業を営んでいる場合、たとえば幼稚園、保育園、塾、教室、あるいは駐車場に貸しているなどの場合には、国や地方公共団体の法律や条例に照らして適法であるかどうか、また、その事業が教会の宣教活動にふさわしいものであるかどうか、さらに財的管理がきちんとなされ、教会員によく分かるように報告されているかどうかに気を付けましょう。あなたが信仰を告白し、信仰を養われていく教会であればあるほど、教会の財的運営に責任をもってあたるべきです。』

 そして役員会の働きと責任についてもこのようにあります。
 『伝道や教育、奉仕、ことに財務のすべての働きに関しては、役員会が率先して計画を立て、責任をもって当たらねばならないことは当然です。…
 日本福音ルーテル教会は、また教会としての制度や規則によって運営されています。それは各個教会が心を合わせ、一致してこの地上にみ国の栄光を表すために必要なことです。教会としての信仰の基本となる教理や、地上の団体としての制度上の規則を集めたものを「教会憲法」「教会規則」と言いますが、それらについても十分知っておくことが寛容です。こうした原則に従って、年に一回定期総会を開き(多くの教会では一月末の日曜日)、旧年度の活動報告、新年度の宣教方針、各集会やグループの報告、会計決算や予算審議が行なわれ、役員の選挙が行なわれます。また代議員(堅信会員の数や教会の種別によって選出人数が異なる)、書記、会計などが選ばれます。このうち代議員は教区や全体教会の総会のとき、当該教会を牧師と共に代表して出席しますから、大切な役割です。
 …
 教会であっても、地上の団体という性質は免れません。人間関係その他のトラブルといったことも起こりえます。信仰的な視点で、十分に祈って処理する力を役員会は持たねばなりません。…』

 このような制度の上に教会があることや、そのことについて信徒にこのように知らされているのは、カルト化を予防する上には必要なことと思えます。そのような観点から読み直してみますと、カルト化教会が、どれほどの権利を信徒から取り上げているのかが見えてきます。

***

マグニフィカート
2011/6/1(水) 午後 5:37
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/4398578.html

『 序文ならびに序説
 
 この聖なる讃歌を、順序正しく理解するためには、祝福された処女マリヤが、彼女自身の経験から語っていることを心にとめることが必要である。この経験において彼女は、聖霊によって照らされ、教えられたのである。…』 

『 私の魂は主である神をあがめ

 この言葉は、強い熱情とあふれる喜びから発せられたものであり、そこへと彼女の全精神と生活とは、聖霊によって内的に高揚されているのである。それゆえに、彼女は、「私は神を高くする」と言わないで、「私の魂は」と言っている。それは、「私の生活と全感覚は、神への愛と讃美と喜びにわき立ち、もはや、私は私自身を制御することができず、私が、私自身を神讃美に高める以上に、高められている」と言うかのようである。それは、神の甘美さと、神の霊を注がれたすべての人に生じることであり、彼らはその感じていることを言い表す言葉を知らない。なぜなら、喜びをもって神を讃美するということは人間の行為ではないからである。それはむしろ喜ばしい受動であり、ただ神の働きである。言葉をもって教えられることではなく、ただ自身の経験によってのみ知りうる事がらである。…』

『神はとるにたりない女である私に目を留められました。これからのち世々の子らは、私をさいわいな女とほめたたえるでしょう。

 …それゆえに彼女は彼女の価値も無価値も讃美することなく、むしろ、このように卑しい娘に心にとめ、そして彼女に栄光ある、名誉ある配慮を与えてくださる。恵みといつくしみに富む神のかえりみをのみ讃美するのである。だから彼女が誇るのは彼女の処女性においてではなく、謙遜であるという人々は、彼女に不正をするものである。彼女が誇るのは、彼女の処女性でも謙遜でもなく、むしろただ神の恵みに富むかえりみであった。ゆえに言葉の重点は、humilitatemにではなく、Respexit〔目を留めた、かえりみた〕にある。それは、讃美されるべきは彼女の卑しさではなく、神のかえりみだからである。…』

『すべてのことをなさる神が私に大きなことをしてくださったからです。そのみ名は聖いのです。

…見よ、彼女がどのようにすべてのものをまったく神に帰し、一つのわざも、一つのほまれもまったく彼女に帰することがないことを。しかも彼女は何一つもたなかった以前と同じように働き、また前よりも多くの栄光を求めることもしないのである。彼女は誇らず、高ぶらず、神の母となったことを吹聴せず、何の栄光も求めず、以前のように家にいて働き、ミルクをしぼり、料理をし、食器を洗い、掃除をし女中や主婦がするような、低い、とるに足りないことを、あたかもおどろくべき賜物も恵みも、少しも意にしないかのように行なうのである。彼女は他の女たちや隣人の中で、以前よりも尊敬されることもなく、彼女はまたそれを求めず、卑しい民の中の、貧しいひとりのおんなとしてとどまった。おお、それはなんという素朴にして純な心であろうか。なんというおどろくべき魂であろうか。このような卑しさの中にかくされた、なんという偉大さであろうか。いかに多くの人々が彼女と接し、共に語り、食し、飲み、おそらく彼らは、彼女を見さげ、そして普通の貧しい、平凡な女と考えただろう。もし彼らが、彼女にかかわるこのようなものを知ったならば、おそらく彼ら自身、彼女の前にいたたまれなかったであろう。…』
 (『ルター著作集第一集第4巻 マグニフィカート(マリヤの讃歌) 訳と講解 1521』より)

 今回、引用個所は、FEBCで徳善義和先生の『マルチン・ルターの「キリスト者の自由」』のお話の第12回目で引用された個所を、若干拡大する形で著作集のマルティン・ルターの「マグニフィカート」の講解から引用しました。

 ここでルターが講解したマリヤ論は、それまでのローマ・カトリックのものとは大きく違い、あらゆる聖書以外の伝承や脚色を取り払い、マリヤではなくマリヤが栄光を帰した神に目を向けたことが、プロテスタント的マリヤ論といえるでしょう。ここに私たちは驚くべき、信仰の模範を彼女のうちに見ます。

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