fc2ブログ

「神は愛なり」されど愛は神に非ず

Yahoo!ブログから転載(12月ブログサービス終了に付き引っ越し)

「神は愛なり」されど愛は神に非ず ①
2013/10/19(土) 午前 9:40
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12173621.html

 近年、ネットにおいて、ユニバーサリズムに毒された発言をするクリスチャンと称する人や意識せずにそのような考えを語っているクリスチャンと称する人を見かけることが多くなってきました。ユニバーサリズムについては、いろいろと諸説あり、これがそうだとは断言できませんが、組織神学の本なんかの中で見るところの神の普遍救済意思と普遍的和解説・普遍的免罪説・普遍的回復説などの三説が混同した形での発言などが見られたりします。

 組織神学を教えているミラード・J・エリクソンの「キリスト教神学」(第四巻 いのちのことば社)の中から、これらの三つの説についての説明を見てみましょう。

“ 5. 普遍的和解説 (the theory of universal reconciliation) は、キリストの死はすべての人類を神と和解させるという目的を達成したと主張する。キリストの死は神が人類を受け入れることを可能にし、神はそのようにした。したがって、人間と神の恵みとの間にどんな隔たりが存在していても、本来は主観的なものである。それは人間の心にのみ存在する。それゆえ人々が聞かされる必要があるのは、救いの機会があるというメッセージではない。むしろ、救われているのだから、すでに自分たちのものである祝福を楽しむことができる、と聞かされる必要がある。この見解を擁護する人たちはⅡコリント5:18の「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました」という言葉を非常に強調する。和解はこれからそうなるのではなく、達成された事実であるということになる。
 6. 普遍的免罪説 (the theory of universal pardon) は、神は愛の神であるから、ご自身の定めた条件に固執しようとはしないと考える。神を受け入れないすべての人に永遠の刑罰を下すと脅しているが、最後にはすべての人をかわいそうに思って赦してくれると。したがって信仰を働かせる必要はない。神はすべての人を、信じていたかのように扱ってくれる。人間に義だけでなく信仰も転嫁してくれる。このことは、提供されている救いを受け入れるために信じて行動した人には不公平と見えるかもしれないが、イエスが語ったぶどう園の労務者のたとえを思い出すべきである。一日の終わりに来た者たちは朝早くから働き始めた者たちと同じ支払いを受けた。
 7. 普遍的回復説 (the theory of unversal restoration) は、オリゲネスが提唱した見解である。将来のある時点で、すべてのものは原初の意図された状態に回復される。そこには完全な救いがある。存在する現実は変更もしくは改革される。神が人類を一瞬にして完全な状態にするのではないかということは想像できる。しかし、この説の通常の形では、オリゲネスの考え方に従って、来世のいのちの始まりは煉獄の機能を持つと考える。十分な刑罰の期間があったとき、人間は、神がその後彼らと永遠にわたって交わりを持てるところまできよめられることになると。”

 ある人たちは言います。
 ‶神が愛であるのなら、すべての人が救われるはずであり、すべての人が救われないのなら、神は愛ではないということになる。また、すべての人が救われないのなら、自分も救われない。″
 ‶神の恵みが先ずあり、私たちの意思に関係なく、救われる者をあらかじめ救いに定められた。私が信じて救われたのではなく、先に神の恩寵、すなわち予定、救うご意思があった。それゆえ罪人の頭なる私をも、私の意思に関係なく、何の誘いもなく救いに定め救われたのである。″
 ‶神は純然たる愛であり、愛はまた神である。愛は全能であり、愛は交わりの中にある。そして、神はすべての者の父であり、信じて受け入れた少数者だけの父ではないはずである。″
 ‶神はすべての者を愛され、それは上から下へと愛する愛ではなく、交わり、すなわち横への広がりである。しからば、愛する子である者らを、父は滅ぼすことはない。神は愛する子らの救いを望まれているのである。″

 そして、またかように言う人たちは、‶既存のキリスト教、特にローマ・カトリック教会とそこから出てきたプロテスタント諸教会に対して、アウグスティヌスという教父の誤った考えに依存しすぎている。また、この説は昨日今日できたものなのではなく、教父であるアレクサンドリアのクレメンス、オリゲネス(アレクサンドリアのクレメンスに学んだ)、ニュッサのグレゴリオスなどは万人救済説を信じており、古代教会の主要な考えであった。″と。

アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネス、ニュッサのグレゴリウス

アレイオス、ペラギウス、オリゲネス

 しかし、使徒言行録に出てくるパウロを悩ませた割礼や食物規定などトーラーを守り、ユダヤ人の宗教の枠内に留まろうととしたエルサレム教会のある人たち、また、コロサイの信徒への手紙2:18以下に見られる天使崇拝をし、なにがしかの幻(ビジョン)を得、禁欲的な生活をしていた者たち、また、初期教会を長い間悩ませたグノーシス主義、70年のエルサレム滅亡後から栄え始めたエビオン派、マルキオン主義、養子的キリスト論を唱えた二世紀末のテオドトス、三世紀のサベリウス主義(様態論)、四世紀のアレイオス主義と続く半アレイオス主義、アポリナリオス主義、プネウマトマキ派、ドケティズム(仮現論)、などなどオリゲネス同様すでに斥けられた古い異説などと言うものはいくらでもあるわけで、古いから正しいとかいうことではありません。このような異端として斥けられた異説を、現在によみがえらせようとした人たちは悲しいことにいます。あるものは教会の中で斥けられない程度に唱えたり、また、公に唱えて斥けられたり。別に団体や自分の教会を作ったりした者たちもいます。

アレクサンドリアのアタナシオス、アウグスティヌス

 この手の人たちは、例えばオリゲネスは斥けられたとしても、ニュッサのグレゴリウスは聖人になったとか、二十世紀最大の神学者と呼ばれるカール・バルトも万人救済主義だったとか、日本の内村鑑三だとか、カトリックのイングランドとウェールズの大司教であるコーマック・マーフィー=オコナー枢機卿や英国にいるカリストス・ウェア府主教なども万人救済主義だなどと、有名な人物(?)の名前を出して自説を正しいと権威付けたいのでしょう。別にこれらの人が何をどう主調し、希望をどう持とうと、それが何の正しいことの立証にはなりません。ようは神の言葉である聖書にその教えがあるかが問題なのです。そして、使徒たちより伝わりし教会は、その教えを斥けています。また、これらの人たちの主張も見ていけば、オリゲネスの万人救済主義とは違っていますし、万人が救われるという個人的希望を単に表明しているだけに過ぎないものもあります。

カール・バルト戦後神学論集 1946-1957

 カール・バルトについて、東京キリスト教鉄道の代表者である甲斐一夫氏のホームページの「信徒のための神学講座」の5にて「バルト神学の正体」( http://www.christ-tetsudo.com/mission/mission4_15.html )というものが書かれています。それを読むと単なる万民救済論ということになるように読めました。また、アリスター・E・マクグラスの「総説 キリスト教 はじめての人のためのキリスト教ガイド」(キリスト新聞社) を読むと、“バルトは、救済はキリストを通してしかありえないと断言している。しかし、それにもかかわらず、彼は、終末、つまり、歴史の終りには、究極的に恵みが不信に勝利することを主張する。究極的には、神の恵みが完全に勝ち、すべての人々がキリストを信じるようになるだろう。これが救いへのただひとつの道である―けれども、これは、神の恵みにより、すべての人に対して有効なのだ。バルトにとって、キリストを通して与えられた神の啓示の特殊性は、救済の万人性と矛盾しない。”(p.332。〔【特殊主義】は80年代に出版された多くの書では、【排他主義】と言っていたと続いて説明しているので、ここの“特殊性”はその意味〕)と書いています。また、日本改革派南浦和教会にて2009年まで牧師を勤めておられた佐々木稔元牧師のホームページの中の「ベルワーク神学の紹介と解説」の‶ベルワークの著作紹介「キリストの再臨」 第13章 万物回復″( http://homepage3.nifty.com/msasaki/berkouwerreturn13.html ) なんかを読ませていただきますと、バルトは単純に万人救済主義者とは言い切れないと感じられます。佐々木稔 元牧師はバルトの「神の自由な恵みの宣教(英文)」と「教会教義学Ⅳ/」などから、バルトは自動的な万民救済論を語っておらず、オリゲネスのような万民救済論は否定し、あくまでも教会の宣教を聞いて、一人々が信じるという決断をし、信仰と応答の力学を主張しているとしています。バルトの著作は二・三読んだ程度ですので、よくわからないので確認のために、「カール・バルト戦後神学論集 1946-1957」(新教出版社)を買い求め、とりあえず、引用されていた1947年7月30日バルメンで語られた「神の自由な恵みの使信―バルメン宣言第六テーゼ」を読んでみました。確かに佐々木 元牧師の説明のように感じました。その内、エミール・ブルンナーの「教義学 Ⅰ」も読んで確認をしてみたいです。

つづく

 2013/5/21(火)午前 8:23にアップの記事をこちらに移動(以下同タイトル④まで同じ) 

***

「神は愛なり」されど愛は神に非ず ②
2013/10/19(土) 午前 9:45
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12173638.html

 次に内村鑑三について見てみたいと思います。これもわたしは内村鑑三の著書といえば、「余は如何にして基督信徒となりし乎」「キリスト教問答」と聖書注解一冊を昔に読んだ程度ですので、特に詳しいわけでもないので、いろいろと検索して京都大学学術情報リポジトの「内村鑑三における予定説理解と万人救済説について」(渡辺和隆 著、文学研究科文学部アジア・キリスト教・多元性第10号 p.91-110。 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/154768 、 repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/.../1/asia10watabe.pdf ) とか、関西学院大学リポジトの「内村鑑三における万人救済論」(岩野祐介 著、神学研究51 p.105-119。 http://kgur.kwansei.ac.jp/dspace/handle/10236/3298 )、‶内村鑑三の流れを汲む無教会の集会″と謳っている「徳島聖書キリスト集会」のホームページにある、この集会の代表者である吉村孝雄 氏の書いている徳島聖書キリスト集会の月刊誌‶いのちの水″誌の2007年6月号の「万人救済説について」という記事( http://pistis.jp/textbox/hodos/txts/toki/090-2-banninkyusai-07-6.html )なんかを読まさせていただいて、オリゲネスの万民救済主義とは違うものであり、内村鑑三は“悔い改めさえあれば、誰もが救われるという万民救済説”であり、悔い改めなければ救われないものであり、教義や体系ではなく希望であるということがわかり、‶オリゲネス、ニュッサのグレゴリウス…内村鑑三は万人救済主義だった″という 自分の思想への誘導的言い方におけるものから受けてしまう印象とは、まったく違うものであるということが分かります。

 さて、次にこういう意見も聞かれます。この説に固執している方はオリゲネスを擁護しようとして、オリゲネスに帰せられている新プラトン主義的な魂の先在などであって、万人救済主義が断罪されているわけではないので、そういう問題となった部分を除けば、オリゲネスの信仰こそ初代教会からのものです。果たしてそうでしょうか。「改訂版 カトリック教会文書資料集」(H・デンツィンガー 編、エンデルレ書店)に収録されている‶コンスタンチノープル教会会議において公布された、コンスタンチノープルの総大司教メナスにあてた皇帝ユスティニアヌスの勅令(543年)″において、これは“オリゲネスの説を支持し,広めている単性説を支持する修道士たちに対して,神学者であった皇帝ユスティニアヌスは,オリゲネスの著作『諸原理について』から次の9箇条の排斥状を作成”しました。その第9条には“411 (211) 第9条。悪魔や不敬虔な者の刑罰は一時的なものであり,いつかはその終りが来る,または悪魔や不敬虔な者は回復して,完全になる時が来ると言ったり,考えたりする者は排斥される。”との記述があります。また、ローマ教皇ビギリウスはこの排斥状を承認したと考えられています。またこの教会会議において、公会議で採択されたオリゲネスへの15箇条の排斥状が作成されました。また、カトリック教会のカテキズム、ルーテル派の一致信条書、改革派・長老派のウェストミンスター信仰基準とハイデルベルグ信仰告白などの主要な教派の信仰において、万人救済主義は斥けられています。そして、では排斥の対象となった箇所を除けばよいのでしょうか。そんなことはできるはずがありません。その人が分裂症や多重人格ならまだしも、そうでなければ、それぞれの主張はその人の内で絡み合い、相互に影響を及ぼしつつ、関係しあっています。その部分だけを取り除くなんてことはできるはずもありません。

 また、カッパドキアの三教父の一人ニュッサのグレゴリウスは、オリゲネスの影響を受け、一般的に万人救済説を信じているとみなされています。また、シリアのイサアクなどもそのように見られる場合もあります。そして、このことから万人救済説が異端なら、それを信じていた人たちも当然異端と言うことになりませんか。ニュッサのグレゴリウスやシリアのイサアクは、教会から聖人に列せられています。などということも言ったりします。一般にそうみなされているといわれることが多いことからも、はっきりとした言及はしなかったとも考えられます。それらの信仰は一つとして、はっきりと語られているのではなく、分散し、ある程度曖昧であったりした形で表明されていたのかもしれません。今日のわたしたちのように文書が手軽に手に入り、比べられるような時代ではありませんでした。そういう意味では慎重であったのでしょう。また、スウェーデンのルーテル派教会において、神秘思想家エマヌエル・スウェーデンボリを異端として排斥使用としましたが、結局は国王の介入などによりそうできませんでした。しかし、だからといって彼の考えが聖書と一致しているわけでもありませんし、教会の教えと一致しているわけでもありません。その人物を取り巻く諸事情やパワーバランス、時の潮流、それまでの功績など、さまざまなものによって、そうすることができなかったということもあります。

つづく 

 2013/6/4(火) 午前 7:48

***

「神は愛なり」されど愛は神に非ず ③
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12173665.html
2013/10/19(土) 午前 9:52

 つづいてカトリックの司祭であられ、とても人気のあるらしい多摩教会の司祭 晴佐久昌英 氏のミサ説教が、本人の承諾の元、「福音の村」というホームページにアップされています。この中で氏のミサ説教で、2012年9月16日説教「あなたはすでに救われている」( http://www.fukuinnomura.com/?p=2408 ) や、2012年6月17日説教「天の救い、地の救い、人の救い」( http://www.fukuinnomura.com/?p=1689 ) や、2012年3月18日説教「どうしても救われちゃう」( http://www.fukuinnomura.com/?p=1262 ) などの諸説教を見ますと、この人は万人救済主義なのだな~と感じられます。

 この方の2012年3月18日説教「どうしても救われちゃう」において、この日の福音書の日課はヨハネ3章16節になりますが、それをうけて、ご自身がまだ神学校へ入る前に、この箇所の聖句、 “神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。” (新共同訳) の中の “一人も滅びないで、永遠の命を得るため” に注目をし、‶一人残らず救う″ということに惹かれたようです。そして “もし一人残らず救われるのでなければ、この自分は救われないと思った” ということです。これを読んで彼が注目をし、そして見落とした前後の御言葉を見てみます。そこには “独り子を信じる者が…御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。” (新共同訳 ヨハネ3:16b,18) とあり、彼はこういう記述を無視していることがわかります。この‶一人残らず救う″ということに囚われて、すべてを受け止め考えた為、それに反する御言葉はもはや耳に入らないのでしょう。もうそう思い込んでしまったように感じられます。そして、その万人救済主義という道に落ち込んだのでしょう。

フール

 次にハリストス正教会の名古屋教会HPにアップされていますギリシャ正教のカリストス・ウェア府主教の‶「すべての者の救い」に望みをかけるべきか―オリゲネス、ニュッサの聖グレゴリオス、シリアの聖イサアクはどう考えたか″( http://www.orthodox-jp.com/nagoya/universalsalv.html ) を読んでみました。

 それを読んでみて、この府主教が万人救済主義の根拠として挙げておられる御言葉が、それを裏付けるものではないことが分かります。コリント一15:22の “アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。” の “すべての人が” との語句を文脈から切り離している為に、 “すべての者の救いに指向されている” などという理解に至るのです。この箇所では、「キリストのものとなっている人々」である「あなたたち」や「わたしたち」だけが意識されていて、「全人類」でないことは普通に読めば分かる事です。

 また、コリント一15:28についても、“神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。” と言われることに至るのは、万物が救われたことを意味しないのは、すべてが御子に服従されられた事は敵と最後の敵である死が滅ぼされることで、その後に起こる御子が御父に服従することとは、同じ服従すると言う語を使っていても全く違う状態にあることは、文章を全体として読めば明らかです。 

 ローマ5:19も5:1にある「信仰によって義とされた」との流れから理解すべきで、その御言葉だけを取り出して、万物は救われるとするのは暴論と言えるでしょう。

 テモテ一2:4「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」は決してヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と矛盾はしていません。

 『どんな場合でも、限りある大きさの悪行に永遠の罰を科すことで報復するなどということはね正義にかなっていません。』。これは原罪の教えのない正教会ならではの解釈といえます。ざっと見ても、このようにとうてい納得ができるものでは在りません。また、この人も公式の教会の教えというようなことを言わず、 “地獄は自由意志が存在する限り可能性として存在します。それでも、言い尽くしがたい神の愛の力を信頼して、あえて希望を――それは希望以外の何ものでもありません――表明します。それは最後には、ウォルター・デ・ラ・マールの旅人が見つけたのと同じように、そこには誰もいないという希望です。” という個人としての信仰の希望という帰結に至っています。 

 ローマ・カトリック教会のコーマック・マーフィー=オコナー枢機卿(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%82%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC )も万人救済主義の希望を表明したといわれています。2005年1月7日の枢機卿の普遍救済の希望の表明とカトリック・ヘラルドとのインタビュー( http://www.romancatholicism.org/cormac-apokatastasis.htm )を読んでみても、これも個人的な信仰の希望という以上のものには見えません。

 また、これらの人が異端者として、教会などから聴聞されたり、排斥されたりしていないではないかという人も居られますが、教会の組織が大きくなればなるほど、よほど離反的なことをしたり、混乱が起こるほどの分裂を引き起こしたり、などある程度大事にならないと早々そのようなことは起こりづらいものです。カルトや異端のような組織作りとはなっていないためです。そして、これらのものが彼らの個人的信仰の希望にとどまっているのが大きな理由ではないでしょうか。それ故、このような主張にも余り意味が無いといえるでしょう。

つづく
 
 2013/6/5(水) 午前 3:35 

***

「神は愛なり」されど愛は神に非ず ④
2013/10/19(土) 午前 9:56
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12173680.html

 これまでいろいろと見て来ましたが、このようなことを主張する人たちが、絶対的に見落としていることが、まず使徒書簡は教会に宛てて書かれた手紙であり、教会間で回覧されることも視野に置かれていたものです。今日のわたしたちのように誰でもが聖書を手にして読める時代では在りませんでした。当然、その中で「あなたたち」といえば、あて先の教会の構成員や回覧されるであろう教会の構成員が意識されていますし、「わたしたち」といえば、書いている人とその周りの人などや教会の構成員を指しています。基本的に信仰の外にある人に向けられては書かれているものでは在りません。そして、万人救済主義者たちは前後の文脈から一部を取り出し、「すべての人」などと書かれていれば、前後に「わたしたち」や「あなたたち」、「信じる者」などの語句を飛ばして解釈しています。彼らが自説を擁護して引用する御言葉は、前後を切り落として解釈していることがよくあります。この手の解釈や聖書引用の仕方は、ものみの塔聖書冊子協会など異端や破壊的カルト宗教によく見られる聖書解釈法です。それにより異端として教会より斥けられたオリゲネスの子らであることをよく表しています。

 近年のリベラルと呼ばれるキリスト教徒において、この説に傾いている人などもよく見られます。こういう人たちを見て行きますと、キリスト教の特殊性について排他主義であるとか善悪二元論的だと批判する立場が見られたり、宗教多元主義的発言なども見られたりします。また、人間中心主義や感情的であるとも見えたりします。すなわち神が愛なら、すべてを救われるなどと、人間の側から神をこうだからこうあらねばならない、でないなら納得ができない、真実じゃないと規定してしまう姿に見えます。

つづく

 2013/6/5(水) 午前 8:13

***「「神は愛なり」されど愛は神に非ず ④」へのコメントとレス***

コメント(2)

いつも、有益な情報有難うございます。私は日本ルーテル教会員です。私の牧師も万人救済の立場でリベラリストです。ちょっとお聞きしたいのですがルーテル教会は牧師によってそれぞれの神学的見解や立場はちがうのでしょうか?すみませんが教えていただきたいです。宜しくお願いもうしあげます。
[ かめちゃん ] 2014/2/23(日) 午前 11:41 返信する

*

>かめちゃんさん

本来そうあってはならないのですが、例えば神学の世界であのバルト神学が流感のように流行った時代(そもそもルーテル神学とは関係ない流れなのに)、その時代に神学教育を受けられた牧師がその考えで牧会をされるということはあるでしょうね。そして、その牧師や神学教育者から教えられた神学生も、その系統になるということはある話しと考えられますね。

万人救済主義や普遍救済主義(アルミニウス主義)、またバルトなどの新普遍救済主義というものは、なかなか一般信徒には区別がつき辛いものですが、もしかしたらその牧師がバルトの影響を受けていたら新普遍救済主義という過ちに陥っているかもしれませんね。

ルーテル派の信仰告白であり、教会憲法第5条で「和協信条」(「一致信条書」収録)は聖書の教理と一致すると認めています。万人救済主義・アルミニウス主義・新普遍救済主義も教会の信仰告白と相容れませんね。ルター派は予定説(カルヴァンの二重予定説とは違う)に立っていますし、死後の裁き、地獄を教えています。これを牧師が勝手に個人的な考えや信仰で否定することはあってはならないことですね。
2014/2/23(日) 午後 1:16

スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

 Yahoo!ブログからの引っ越し記事内のURLはリンク切れをしているものがあります(気が付いたらものからインターネットアーカイブに保存されているのならウェイバックマシンURLなどに修正などしております)。


 役立った、良かったなどありましたら拍手ボタンを押していただけると嬉しい限りです。


​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
リンク