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最後の言葉

Yahoo!ブログから転載(12月ブログサービス終了に付き引っ越し、一部加筆)

最後の言葉
2015/1/28(水) 午前 11:16
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/13731259.html

 イエスセミナーなどの「史的イエス」という聖書の見方というものがよく聞かれるようになりました。わたしはあまりこの手のものには興味が湧かず、過去に図書館で「史的イエス」に関する本などを二・三冊借りて流し読みした程度で、興味がなかった為内容は全く其の断片も記憶に残っていません。そんな中、このような話題を目にしました。

 マタイやマルコが伝えるイエスの十字架の言葉に、

マタイ27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

マルコ15:34
そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

というものがあるのは、キリスト者ならよく知っていることでしょう。

 この最後の言葉を十字架の下で聞いていた人が、

マルコ15:35
すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「そら、エリヤを呼んでいる」。

マタイ 27:49
ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。

と預言者エリヤを呼んでいると聞き間違えたということが聖書にはあるわけですが、それに対してアラム語でElia' ta'(エリヤよ、来たれ)と勘違いしたのだから、イエスの言ったのはヘブライ語のEli' atta'(私の神は、あなたです)ではないか、その為に聞き間違えたのではないかということを言っている学者があるようです(それが書いてある本を読んだことが無いので正確なものなのかそれとも違うのかも分かりませんが、ネット検索しますとなんとなくそんなことを言っているのだろうと感じます。)。(この記事を書いたすぐ後、翌月に「死の神秘 -死を前にしたイエスとパウロ-」 X・レオン・デュフール著 あかし書房 を購入して読みました。)

 このことについて田川建三氏は自身の翻訳である「新約聖書 訳と注 1 マルコ福音書/マタイ福音書」(作品社)のマルコの注において軽く触れていました(p474)。

「エリヤよ、来たれ(Elijah, come ( אליהו, לבוא ))と聞き間違えたのだから、「あなたは私の神です」( al·i (El-of·me) athe (you)
( אֵלִי אָתָּה ))とイエスは言ったと説明するよりも、福音書の言葉自体からの方が分かりやすいと思います。

 エリ・エリ・レマ・サバクタニ(ηλι ηλι λεμα σαβαχθανι, マタイのギリシャ語からēlî ēlî lamâ šabaqtanî( אלי אלי למא שבקתני ), ヘブライ語詩編22:2はēlî ēlî lamâ azavtanî( אלי אלי למה עזבתני ))やエロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(ελωι ελωι λεμα σαβαχθανι, ēlâhî ēlâhî lamâ šabaqtanî ( אלהי אלהי למא שבקתני ))との福音書の記述が、続くエリヤと聞き間違った記述を説明できない類のものではないのですから。

 一般には、イエスはアラム語を日常語としていて、この言葉もマルコのようにアラム語で(マタイはヘブライ語とアラム語混在)言ったとするふうに考えている人もいるのでしょう。それはユダヤ人たちが十字架のすぐ下にいる印象を持っているのと、聞き間違いをしたのがユダヤ人たちと思ってしまっているからでしょう。イエスはその出身はナザレの村です。この村は第十八番目の祭司の組み「ハピツェツ」家が居留する村です(七世紀の陶器辺に記載が見られるもので、一世紀がそうであったかは分かりませんが)。そして、ルカ4章でのイエスが会堂でイザヤ書の朗読をする場面がありますが、ユダヤ人の会堂ではヘブライ語のタナハ(旧約聖書)だけが朗読され、ヘブライ語を解さないもののために通訳がアラム語に翻訳します。そのため一回に朗読する節数なども決まっています。メギラーの安息日の朝の礼拝の朗読の規定では、預言者(ネビイーム)は一度に3節読んでよいことになっており、まさしくイエスは律法の規定通りの朗読をしています。そして、朗読がなされると通訳がアラム語にしたりしますが、その記述が無いことからもしかしたら祭司の一族の居留する村ですのでその必要がなかったとも考えられます(しかし、反対に規定通りであるので通訳がいたという方が普通でしょう。)。そうだとすればナザレの村は比較的ヘブライ語がよく使われていたとも考えられ、イエスも慣れ親しんでいた故に、最後の苦しみの中でこの言葉が口をついて出たとも考えられるでしょう。

十字架刑

日本の磔刑

 江戸時代に見られる日本の磔刑にも見られますが、罪人と見物人の間には距離が取られ、仕切りがされるとともに見張りの下役たちが近づけないようにしていました。それと同じように十字架の下にはローマ兵がいて見物のユダヤ人はある程度距離を離れた所から見ていたのでしょう。死刑囚を逃がしたり、刑の執行の失敗は執行者自身が死刑にされてしまいますから、当然、執行場所と見物人の間には十分な距離があり近づくことを許さなかったことでしょう。

 そしてイエスの言葉を勘違いしたのはこのローマ兵たちでしょう。属州ユダエアに派遣されているのはアウクシリアで構成されたローマ軍あたりになるのでしょう。若干はユダヤの伝説ぐらいは知っていたのでしょうし、ユダヤ人の言葉もいくらか分かったでしょう。おそらくイエスはヘブライ語でエリー、エリー(ēlî ēlî )と言ったのでしょう。それをエリヤ('eliyyahu、'eliyyah、ἠλίας 、Eliam)と他国の兵たちが聞き間違っても不思議でありません。アラム語のエラーヒ('elahi、ギリシャ語音訳:ελωι エローイ)だとラーヒが強く発音されるようですのでちょっとエリヤと聞き違えはしないでしょう。これはアラム語の方は映画「パッション」で確認をし、ヘブライ語の方はタナハの朗読を聴き比べてみてそう感じます。

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