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目覚めて今日を生きる

Yahoo!ブログから転載(12月ブログサービス終了に付き)

目覚めて今日を生きる
2015/10/20(火) 午後 5:09
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/14470924.html

マタイ24:29しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。

マルコ13:24その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、

 このマタイとルカの個所について(口語訳からの引用)、「新約聖書 訳と註 1 マタイ福音書/マルコ福音書」(田川建三訳著 作品社)の註でこのように説明していました。マタイ、マルコの順です。

"29 直ちに この一語を付け加えただけでむ、マタイはマルコの文の趣旨をまったく変えてしまった。マルコでは、これ以前に叙述してきたことはすべて、世間では終末の直前の徴などと言われているが、そういうことに惑わされてはいけない、と言っているだけである。そして、本当に終末が来る時にはそれらとは無関係にいきなり宇宙全体が変わって、人の子が来臨するのだ、と。ところがマタイでは、この一語の故に、これ以前の叙述と直接のつながりが生じてしまった。つまり、以上の災害が生じたら、それは終末の直前の徴なのだから、その後「直ちに」終末がやって来る、というのである。"

"24 かの日々には つまり終末の日のこと。この段落でマルコは初めて終末について記す。これ以前は、さまざまな患難が起こるにせよ、終末や終末の前兆などというものではない。そして、本当の終末の時には、そういった此の世の歴史社会におけるさまざまな悲劇とは違って、宇宙天体そのものが消滅する。というのである。"

 この田川氏の注釈によるマルコは、テサロニケ第一の

5:2あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。
5:3人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。
5:4しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。
5:5あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。
5:6だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。

というパウロの言葉とよく整合すると感じられます。

 マタイの終末観では、予告があり、突如やってくる終末とは言えません。マルコの方で田川氏はさらにこう言っています。

13:37 あなた方に言うことは、すべての人々に言うのである。目覚めていよ」。(田川訳)

"37 これがマルコ福音書の本論部分(一-一三章)の結びの言葉である。終末が来るぞ、などと騒ぎ立てる風潮に対して彼は、くり返し「目覚めていよ」と呼びかけることによって、この本論を結ぶ。じっと落ち着いて、この社会において自分のなすべき責任をしっかり果たして生きるがよい、という呼びかけである。いかにもマルコらしい。…"

たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日リンゴの木を植える

 このマルコの終末観は、ルターの言葉とされる

"Und wenn Morgen Weltuntergang wäre, ich werde am heutige Tage doch Apfelbaumen pflantzen.(たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日リンゴの木を植える)"

という、今日を目覚めて精いっぱい生きるという考えと同じであるといえるでしょう。

 ディスペンセーション(天啓史観)や終末の年代を特定しようとする英米の新興キリスト教やそれを土壌とした終末カルトとは、明らかな違いが見られます。ものみの塔などは下にあるように、マタイを基礎として終末の徴がすでにあったとして世の終わりが近いと不安を煽っています。

 しかし、もっとも成立の早いマルコ福音書の伝えるイエスはそのようなことを言っておらず、日々を目覚めて精一杯生きる。世の終わりが来るとしても不安の中に生きたり騒ぎ立てたり、触れ回ったりする生き方をするなと教えているのではないかと感じられます。


***「目覚めて今日を生きる」へのコメントとレス***

コメント(4)

私も全くそう思います。難しい宗教学問の事はわかりませんが、個人的な経験から、天国も地獄もこの世にあり、今まさに生きているこの世界こそが、私という人間が知覚できる全てだと感じています。宇宙全体の終わりも必ずいずれ来るでしょう。しかしその前に、私個人の終末、死が必ずやってきます。それはどちらも、私という存在にとっては同質のものです。人間は、今をないがしろにし過ぎです。それは、刹那的に生きることとは全く異なる事だと思います。目覚めていよ。この言葉が、何千年も前に語られ、記録されている事に、しみじみとした感動を覚えます。
[ バナナ ] 2015/10/20(火) 午後 11:35 返信する

*

> バナナさん

そのとおりですね。今という時を目覚めて生きることと、今の人生を投げ捨てて、「世の終わりが来るぞー!」と触れ回るだけの人生では、それは目覚めていることにならないですね。
2015/10/21(水) 午前 4:27 返信する

*

それにしても、ものみの塔の会報誌タイトルが「目ざめよ!」というのがまた、何とも言えない気分にさせてくれます(^_^;)
[ バナナ ] 2015/10/21(水) 午後 0:21 返信する

*

> バナナさん

大きなブーメランになってますね(笑)
2015/10/21(水) 午後 0:29

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