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カルト化した教会は、まず、ここで判断がつきます。

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カルト化した教会は、まず、ここで判断がつきます。
2011/5/1(日) 午後 5:49
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/3694923.html

 カルト化した教会の問題を見てゆきますと、大抵この献金問題に突き当たります。多くのカルト化した教会では、10分の1献金が義務化されているところが多く、10分の1献金以外にもいろいろな名目で献金を求められます。彼らの感覚で言うと、多く捧げた者は信仰があり、それだけの祝福を受ける。しかし、10分の1を捧げないのは信仰が弱く、神のものを盗んでいて、祝福を受けられない。という意見が多く見られます。

 韓国に本部があり、日本にも進出してきている「万民中央教会」という、異端の破壊的カルト団体があります。この団体の教祖的指導者である堂会長のイ・ジェロク牧師のメッセージを聞いてみたところ、「10分の1献金をすることは、救われるための最小限の信仰があるという証拠です。地獄に行かないで救われて天国に入るためには、必ず信仰がなければなりません。…聖徒の皆さんの中には、まだ信仰が弱くて十分の一献金がささげられない場合もあります。…十分の一献金とは、自分の収入の十分の一を神様のものとして聖別してささげることです。…ところで、十分の一献金を必ずしなければならない理由は、単に財政を満たすためではありません。それよりもっと重要な理由があります。その一番目は、十分の一献金をささげることは、神様を信じるという証拠だからです。言いかえれば、十分の一献金は救いの基準になるからです。…私たちが目に見えない神様に心を表現する手段の一つが、物質なのです。大切な物質をささげることで、神様に信仰と愛を表現することができます。…二番目に十分の一献金をささげなければならない理由は、祝福されるためです。…祝福を受けるためには祝福の種を蒔かなければなりません。…それが十分の一献金なのです。…律法は、むしろ新約時代にさらに完全に守らなければならない。…ささげないのは、信仰のない証拠です。…呪いを受ける。」(ホームページにアップされていたものを、メモしておいたものです。)というようなものでした。

 ここまで露骨に言うところも多くはありませんが、このようなことを匂わせているところは多くあるのではないでしょうか。そのためカルト被害を訴えたりしている人たちの、掲示板での書き込みや、個人のブログなどの記述の多さからも、このことがカルト化の特長ともいえます。

 現在まともな正統教会であれば、自由献金方式が主流となっているといえます。宗教改革の時代に、スイスの宗教改革者フルドリッヒ・ツヴィグリによって、それまでの10分の1税が批判され自由献金が主張されたことにより、この制度がプロテスタントで広く受け入れられるようになりました。今ではカトリック教会も10分の1税を止めて、自由献金方式にしているようです。

 さて、10分の1献金を主張する人たちは、必ずといっていいほど、旧約聖書の創世記14:18~20のアブラハムが戦利品の中から10分の1を、サレムの王にしてエル・エルヨンの祭司であったメルキゼデクに与えたことや、創世記28:20~22においてヤコブがベテルで為した誓約のことや、マラキ書3:8~10の個所をもってきて、その正当性を主張しますが、まず、アブラハムの出来事は一回限りのことですし、その子孫らにつつけて為せとの指示もありません。ヤコブの場合も一回性が強いといえますし、子孫に対して継続して行なうようにとの記述も見当たりません。アモス書4:4に見られる行為が、はたしてこの個所と結び付けられるか疑問といえるでしょう。次にマラキ書ですが、これはマラキ書の時代背景を見落とすと、間違った解釈に至ります。この当時、まだマラキによる宗教改革以前のことですが、預言者ハガイと預言者ゼカリヤの激励を受けたイスラエルの民は、神殿再建の事業に応じましたが、彼らが期待するような祝福はやってきませんでした。幻滅を味わっていた多くの民らは、貧困の中にあり、礼拝は形骸化し、神への献げ物や律法の尊主は軽視されていました。民は異教徒達の娘を娶るなどして、神への背信行為を繰り返していたことがネヘミヤ記やマラキ書には記録されています。そのために祭司たちは世俗の仕事に忙しく、聖務がおろそかにされていました。そのために律法で定められた10分の1の必要性が説かれ、祭司たちが聖務に集中して、神殿での儀式などが執り行えるようにしたものです。当然律法の下にはないキリスト者には、直接関係する命令ではありません。

 また、律法における10分の1と10分の1献金とでは、まったくと言っていいほど別なものです。まず、一世紀における律法の10分の1について、ミシュナーから見てみると、当時は一次産業が主体であったことでもあり、律法の記述は農作物と家畜による記述が主体です。

 まず、農作物の約40分の1から60分の1くらいを取り分けます。これは献納物(テルマー)として祭司に配分されます(レビ22:10~14、民18:11.12.26.30)。

 この献納物(テルマー)の分離後の残りの全農産物の10分の1がレビ人に配分されます(民18:21~24)。

 そして、レビ人は、自分達に配分された献納物の中から、10分の1を祭司に献納します(民18:25~28)。

 また、献納物(テルマー)と最初の10分の1(マアセル・リショーン)が分離された後の農産物は、安息年周期の第1、2、4、5年目には、第二の10分の1(マアセル・ショニー)が分離され、エルサレムに携えられ、そこで祝いながら食べられます。それは金銭に換えて、その代金をエルサレムで食料購入に当てるか、未来のいつかエルサレムで費やすために保留することができました(申14:25)。

 また、安息年周期の第3年と第6年にあたる第二の10分の1に相当する産物は、貧者に与えられる「貧者への10分の1」(マアサル・アニー)と呼ばれるものです。これは町の門に置かれ、分け前も嗣業もないレビ人や寄留者、孤児、やもめなどに分配されます(申26:12~15)。

 これら献納される収入は、基本的に物納で、農産物に対しては評価額に5分の1を加えることによって、お金で収めることができます(レビ27:31~)が、牛や羊の群れの増加分の10分の1は、物納のみです。

 これが律法による規定であり、宗教による部族連合国家を支えるものでもあり、また、膨大な神殿奉仕者とその家族を支えるために必要なものでした。一世紀当時の神殿奉仕者は、大祭司が1名、祭司長が1名、神殿指揮官が1名、神殿護衛官が7名、財務官が3名、24の週団に分かれた7200人の祭司、24の週団に分かれた9600人のレビ人が現役の奉仕者としていました。この他に引退した者や見習もいますし、それぞれ家族や一族がいます。それらをこの献納物で支えなければなりませんでした。

 このことからしても、現在の教会とは違いますし、10分の1献金として集められた献金の第3年目と第6年目のものの全額が、貧者に配られたということも聞いたことがありません。

 また、これは当然のことですが、献金は救いの基準ではありませんし、外的な行いによって救いは与えられるものではありません(ローマ3:20.22.24.28)。そして、エフェソ2:15、コロサイ2:13.14、ローマ6:14を読んでも解かるとおり、律法はクリスチャンに適用されません。また、キリストによって律法は成就したために祭司職にも変化がありました(ヘブライ7:12、ペトロ一2:9)、全信徒が祭司であるのなら、古い律法の規定からしても10分の1を献げるのはおかしな話です。また、クリスチャンが捧げる献げ物については、使徒パウロはコリント二8:10~15や9:7で指針を示しています。そしてこの献金は教会の福音宣教者を支えるものでもあります(コリント一9:14、テモテ一5:17.18)。しかし、福音宣教者たちは使徒パウロの模範を心にとめるべきです(使徒18:3、コリント一9:15~18、テサロニケ一2:9)。


***

カルト化した教会は、まず、ここで判断がつきますの二回目
2011/5/2(月) 午前 8:32
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/3708053.html

 これは昨日述べました10分の1献金とリンクしているものですが、このような団体の主張の中に「繁栄の神学」と呼ばれている教えがあります。このことが一般にも認識されて来始めたのは、1997年の10月2日の読売新聞の朝刊の国際面において、『カトリック 離反 ブラジル 新教台頭 熱心な信者減る』という見出しの記事に、「繁栄の説法受ける」との小見出しにて『九一年の国勢調査では、カトリック教徒は人口の八三%、プロテスタント教徒九%だったが、最近の世論調査では、カトリック七二%に対してプロテスタント一一%。しかもカトリック教徒のうち熱心な信者はわずか一五%程度なのに対し、プロテスタントは大半が熱心な信者だ。レジナ・ノバエス・リオ連邦大学教授(人類学)は、「プロテスタントの大半を占めるペンテコステ派は、失業、病気、教育など日常的な問題への速やかな回答を用意することで民衆の心をつかんだ」と説明する。ペンテコステ派は祈りを救済と結び付けるだけでなく、「祈り」が「繁栄」に直接つながると説くこともある。繁栄の説法が受けるのは、ブラジルが市場原理万能主義の時代を迎えたことも背景にある。…』と書かれていました。このように一般紙にも取り上げられているくらいですから、かなりこの教説が南米を中心に広がって行ったことが解かります。

 南米ブラジルなど、聖霊の第三の波運動やペンテコステ・カリスマ運動の盛んな地域において、これらの教説が説かれ、貧困層に受け入れられ勢力が拡大されて行きました。また、この教説は韓国にも飛び火し、韓国のアッセンブリー・オブ・ゴッド、純福音教会などの聖霊派を中心に広まり、拝金的な教会が次々と生み出され、海を渡って我国にも韓国人牧師や宣教者(渡来人だけでなく、在日も含まれます)、韓国系教会、南米系教会、聖霊の波運動やカリスマ運動を中心とする比較的新しい聖霊派、福音派の一部、福音派は特に単立系においてこの教説は広まって行き、宗教被害の献金トラブルの原因ともなっています。

 以前、北海道のラジオ番組の、(たしか)土曜日の朝の宗教枠の中に、名古屋クリスチャンセンター教会という団体のラジオ番組が、一年ほど放送されていたことがあります。この団体は聖霊のバプテスマとしての異言、病気からの解放、癒し、繁栄の神学を強調していました。北海道ではあまり受け入れられなかったのでしょう、最後の放送で恨み節みたいなことを言っていたのを記憶(録音)しています。

 彼らがプレゼントしていた「繁栄の信仰」のカセットテープから、彼らの主張を見て行きたいと思います。彼らもカルト化教会に見られる神学への軽視があり、

『神学校は神のことばについて教えるところで、聖書を教えるところではない。神学校を出た牧師は、霊的無知で信仰がない。』

と論説を始めています。そして、

『神はお金を持ってはならないと言っているのではありません。…聖書のことばは、私たちが神のことばを守り行うならば、繁栄すると旧約聖書の中で度々教えています。…多くのクリスチャンは、マタイの19章の中のことばを見て、曲解し、お金を持ってはいけないと思っています。…貧しいことは清いと多くの牧師は言っている。多くのクリスチャンは貧しいことは良い事だと言っている。貧しさを誇りとしている教会がある。…神が言っているのはお金を愛することが悪いことだと言っているので、お金を持つことが悪いことと入っていない。お金に支配されることが悪いことなので、お金を支配することは良い事だと言っている。この地上に神の代弁者として、また、この地上において神の栄光を現す者として、お金を握らなければなりません。そしてわたしたちは、このお金を握って神の栄光を現し、この日本に、全世界に福音を宣べ伝えて行かなければなりません。…私たちが祝福を受けていなければ、だれが私達を見て、イエス・キリストが生きていると知ることができるでしょう。癒しがなければイエス・キリストが生きているという証明がありません。もし、私達に繁栄がないならば、癒されても繁栄がないならば、イエス・キリストが生きているという証明がないのです。ある兄弟は伝道において、一生懸命福音を語りました。とても一生懸命イエス・キリストを伝えました。彼は色んなことを語り始めました。罪の許しだけでなく、癒しを語り、繁栄を語りました。繁栄を語ったときに、その人は言いました。私はあなたを見て繁栄を感じないと、繁栄がどこにあるのかと、その兄弟は繁栄していなかったのでしょう。あまり繁栄した格好をしていなかったので、その人は救いを受けませんでした。私たちは、クリスチャンとして、繁栄を私たちの内側から現さなければなりません。繁栄を語って、自分がぼろぼろであるならば、人々は私たちを見て、キリストをすばらしいと言うでしょうか。…神の栄光を求め、神が崇められることを求め、そういう心で繁栄を追い求めるなら、それは神の御前に、もう、合格で、とても主に喜ばれることです。私たちが貧乏であるなら、だれもイエス・キリストを知りたいと思わないのです。繁栄の香に誘われてきます。あなたはなぜ、そんなに繁栄しているのですかと聞かれたら、私がイエス・キリストを信じ従ったからです。と、そのように証しできるようになれるよう変化すべきです。…神の栄光のために自分の持っているものを、すべて捧げなければならない。…貧乏とは神の民が、神に従わないゆえにやって来る呪いである。貧乏は呪いです。祝福ではありません。呪いは三重であり、貧乏、病気、死です。』

と彼等は主張しているわけです。

 確かに聖書は、お金を愛し、信頼することを非としていますが、お金を持つこと自体を悪とはしていないのは確かですが、テモテ一6:8~10.17~18、箴言23:4.28:20、ヘブライ13:5、フィリピ4:11などの諭しは明確です。私たちキリスト者はキリストに倣う者です。キリストのご生涯は、彼らの主張を是としているでしょうか。イエスは繁栄をもって神の栄光を現したことなど、ただの一度もありませんでした。

 そもそも伝道においては、福音が語られるのであって、繁栄が語られるなどということは普通はありえないことです。彼らの伝道がこの世のことに目を向けたものであることが解かります。

 もし自分の目の前に、派手な外車に乗り、外国の有名ブランドのスーツを着て、腕時計や装飾品も高価な者を身につけた人が現れ、イエス・キリストの福音と称するものを語り、あなたも信じればこのように繁栄ができます。だからあなたの持っているすべてを教会に捧げなさい。神はあなたを繁栄させてくださいます。と言ってきたら、わたしはなんかのマルチ商法だと思うことでしょう。繁栄の香に誘われてゆくのは、お金を愛する人たちでしょう。

 彼等はテモテ一6:8~10の『食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。』とのみことばは、このように明確であるにも関わらず、彼等はこれほど明確なこのみことばを、そのまま理解することは曲解だと論じます。

 主キリストは、旧約聖書に見られた因果応報的考えを、ヨハネ9:1以下で完全に否定なさっています。それなのにそのような考えを引っ張り出してくるあたりが、すでにカルトと言わざるを得ません。

 このような教えが、急速にプロテスタントの福音派の一部や聖霊派に広まったためでしょう。エホバの証人の機関紙「目ざめよ!」の2009年5月号でも取り上げられていることからも、当然、アメリカでも広まっていると思われます。


***

韓国の偽りの教師
2013/7/5(金) 午後 4:26
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11777593.html

韓国の異端「万民中央教会」の2011年6月19日メッセージ 「信仰を測ると」より( http://www.manmin.or.kr/japanese/Sermon/sermon_content.asp?id=1189&cat=1&page=13 現在このURLの記事は削除され、このURLで飛ぶと「HTTP 오류 404.0 - Not Found」となります。)


[序論]
“ 愛する聖徒の皆さん、「信仰を測ると」六回目です。
皆さんもご存じのとおり、「肉的なこと」とは、憎しみ、さばき、そねみ、ねたみなど思いで犯す罪のことです。「肉の行ない」とは、行ないで犯す罪のことです。「肉的なこと」を捨てるには、時間と努力が割合たくさん必要ですが、肉の行ないは決断して少しだけ努力すればすぐ捨てられます。
それにもかかわらず、肉の行ないを捨てないでし続けるなら、結局、救いから遠さかることもあります。その上、救いと直接にかかわりのある肉の行ないをするなら、救われません。これを「救われない罪」と言います。
また、肉の行ないの中には、赦されない罪、すなわち「死に至る罪」もあります。この罪は悔い改めの霊が与えられないので、悔い改めさえできない罪です。ですから、肉の行ないはすみやかに捨てなければなりません。
この前から、肉の行ないの中で、まず「救われない罪」を一つ一つ調べています。前回は第一、偶像礼拝について調べてみました。きょうは、救われない罪の中で「安息日を守らない罪」と「完全な十分の一献金をささげない罪」について調べましょう。自分に当たる分野はないのか、細やかに顧みて、立ち返ることは立ち返って、救いの枠の中に安全にとどまりますよう、主の御名によって祈ります。 ”

[本論]
“(…安息日を守らない罪の部分省略…)
 [マラキ3:8-9]を見ると、十分の一献金をささげないと、その罪をどれほど厳しく問われるのかわかります。「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」とあります。
神の子どもとして、十分の一献金をささげないことは神のものを盗む罪であり、これによってのろいを受けていると書いてあるのです。したがって、これは救われない罪に属することがわかります。十分の一献金をささげない罪が、なぜ救われない罪になるのか二つの面で調べましょう。
まず、十分の一献金をささげないことは、安息日を守らない罪と同じように、神を信じないという証拠なので救われないからです。
十分の一献金をささげる行ないには「神の物的主権を認める」という意味が込められています。つまり、この世の万物がすべて神のものであることを認めるという意味なのです。[ハガイ2:8]に「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ。――」とあるとおり、私たちがこの世で受けて持っているすべては、実はすべて神のものです。言いかえれば、10という収入を得たとすれば、その10は全部神のものです。これを認めるなら、その10の中から1をささげることがなぜ難しいでしょうか。神のものを神にささげることは極めて当たり前のことです。
さらに、神は何かが乏しいから、神の子どもたちに十分の一献金をささげなさいと言われたのではありません。神の子どもたちが祝福されて、天国で豊かな報いを得るように、十分の一献金と奉納物をささげなさいと命じられたのです。
[マラキ3:10]には「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」とあります。
神が「ためしてみよ」とまで言われたほど、これは確かなことです。それでも十分の一献金や奉納物をささげない理由は、神と神のことばを信じないからです。神を信じない人は神の国、すなわち、天国に入ることができません。十分の一献金をしない人が救われない理由がまさにこれです。
十分の一献金をささげないと救われないもう一つ理由は「むさぼり」です。
十分の一献金をささげない罪は結局、物質へのむさぼりを捨てないことから始まります。ある人はささげるものがなくて、または暮らし向きが豊かでないから、十分の一献金をささげられないと思います。しかし、収入がない人はいません。しかも神を信じている人に収入がないはずはありません。食べ物、着るものなど、生活に必要なものが一つ、二つと満たされるということは、どんな形でも収入を下さったという意味です。
十分の一献金をささげない本当の理由は、むさぼりとけちな心があるからです。ささげる心さえあれば、何としてでもささげようと神に祈るでしょう。神もささげられるように答えてくださるはずです。
ある人は、今、手元にある物質が惜しいので、暮らし向きがもう少し良くなればささげると言います。ところが、元を正せば、どれほど愚かな考えでしょうか。[ルカ12:19-20]に「そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」とあります。
神のことばに逆らうまで物質を大切に思うなら、これは結局、神より、また自分のたましいより物質を大切に思うという意味です。このような人は神が今、そのたましいを取り去られるなら、言い訳できないでしょう。
したがって、すみやかに物質へのむさぼりを捨てて、神に楽しんでささげる子どもになりますように。今はもちろん、将来、主が来られるとき、主の御前に恥ずかしいことなく、堂々と立てる皆さんになりますよう、主の御名によって祈ります。
聖徒の皆さん、十分の一献金をささげますが、神のみこころに従って完全な十分の一献金をささげなければなりません。時々、十分の一献金を「救い」の必須条件ではなく、「祝福」の条件だと教える教会があります。祝福されるには十分の一献金をささげるが、ささげなくても救いとはかかわりがないと教えているのです。真理を間違って理解してそう教える場合もありますが、真理を知っていても、ありのまま教えればつまずいて教会を離れる人がいるから、正しく教えない場合もあります。
しかし、どんな理由でも妥協してはいけません。みことばを正しく知って行なってこそ、神が下さる祝福が体験できます。そうする時、生きた信仰、すなわち、救われる信仰が持てるのです。
また、ある人は、行為を強調する信仰は律法的な信仰で、望ましくないと言います。神を信じる心が大切なので、心だけあればよいと言ったりします。はたしてそうでしょうか? [マタイ6:21]で、イエス様は「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」と言われました。神の御前にささげることは、神に心があることを表しています。
また、[マタイ23:23前半節]で、イエス様が「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。」と、心はないのに行ないだけで律法を守る人たちを叱責されます。
ところが、続く[23節の後半節]には「これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」と、律法を守り行なう時は、必ず正義とあわれみと誠実、すなわち、心も重要だが、行ないも捨ててはいけないことを言われました。
聖徒の皆さんはほとんど、心から湧きあがる喜びで十分の一献金をささげています。収入があれば、真っ先に十分の一献金を聖別して神にささげます。また、完全な十分の一献金をささげるために、1か月の給与から正確に10分の1だけを計算して、けちけちとささげるのではありません。プレゼントやごちそうされたものまで考慮して、充分にささげます。それでこそ、もれなく完全な十分の一献金をささげることができるからです。
ひょっとして、まだこのように完全な十分の一献金をささげていない方がいるでしょうか? もしそれでも祈って努力しているなら、「ひょっとして救われないならどうしよう」と恐れる必要はありません。しかし、長い間みことばを聞いて知っていて、今は完全な十分の一献金をささげるべき信仰なのに、相変わらず決断できずにいる方は、きょうのメッセージを戒めとされますように。 ”

[結論]
“ 愛する聖徒の皆さん、皆さんの心は今、どこにあるでしょうか? 今はこの地上でなく天国に置きますように。これを表す最も代表的なしるしが、まさに主日を守ることと十分の一献金をささげることです。きょう伝えた二つの戒めは、救われる信仰を測ることにおいて、一番基本的な尺度になる戒めです。したがって、安息日が待ち遠しい信仰、神にすべての必要なものが与えられたことを感謝して、喜んで十分の一献金をささげる信仰を持ちますように。それで、救いの枠の中に安全にとどまりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。 ”

 酷い教えとしか言いようがないですね。十分の一をささげないのは罪であり、それも救われない罪、悔い改めの霊さえ与えられない罪、悔い改めさえできない罪であると、この異端の教祖イ・ジェロクは言います。お金を吸い取る為に、ユダヤ人に与えられた律法を曲解し、そして、それを信徒に課すだけでなく、さらにしなければ「救われない」と恐怖心を持って、人心を拘束します。神の祝福と呪いという呪文により、偽りの教えである「繁栄の神学」をよく表しています。現世利益、御利益信仰の典型でしょう。しかし、御利益をもたらすのは神、お金を吸い上げるのは教会、よくできた悪の集金システムです。


***「韓国の偽りの教師」へのコメントとレス***

コメント(7)

金出せ!って感じですね

こういうのはキリスト教会にも、他の宗教にもあるでしょうね。

私の知人もこう言いました。
「お金の取られない教会へ行きたいです」
2013/7/5(金) 午後 8:21 返信する

*

>まーくん(一匹狼)さん

繁栄の神学系は皆同じですね。お金を出せば祝福が与えられ、出さないのは不信仰で救われない。

他の宗教ではカルトや新興宗教、新宗教、韓国の宗教を除けば、日本の仏教が一番拝金的に感じられますね。
2013/7/5(金) 午後 8:35 返信する

*

偽りの教師ではありません。聖書にある真理を伝えてるだけです。
もし偽りの教師ならなぜこの方は世界一多くの不思議やしるし、神の力などをあらわせているんですか?
[ zohna ] 2013/10/17(木) 午前 4:01 返信する

*

>zohnaさん

zohnaさんは万民中央教会の信者さんなのでしょうか。まず、不思議や奇跡などを数多く行って、多くの病人を治し、不思議な業を行なっている宗教者など、世界には腐るほどいて、その信者たちはこれこそ神(神々、神仏、スピリット)がその指導者に働いているしるしだなどと言います。そんなものは何の証拠にもなりません。また、信徒の増加なども何の証拠にもなりません。聖書にも偽りの預言者などがそういう不思議な業を行ない、キリスト者をも惑わそうとすることをキリストご自身が予告しています。

聖書に無い教えを、聖書の一部を文脈も歴史も無視し、反証となる聖句も無視して、都合の良いように組み立てられた教えを見れば、そういう人間が神からのものかそうでないのかは、自ずと答えが出てくるものです。
2013/10/17(木) 午前 6:15 返信する

*

失礼しました。はい、万民教会の聖徒です。父なる神様が私をこの素晴らしい教会に召されました。あなたのおっしゃるとおりで、確かに世には例えば悪い霊どもの力を借りたりして、神の力ではない不思議やしるしを行なっている人たちもいるでしょう。でもイ・ジェロク牧師は、聖霊の賜物の神の力を行なっています。真の預言者、真の神のしもべです。7年間祈りと断食で生きて、神の力を引き下ろしたのはもちろん、聖書の難しい箇所も私的解釈ではなく聖霊に感じて解き明かされました。
[ヨハネ14:12]
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」
[ zohna ] 2013/10/20(日) 午前 1:23 返信する

*

十分の一献金の件ですが、これは新約時代でも神の子どもたちが守らなければならない戒めの一つです。十分の一をささげないのは罪というのは確かにその通りです。でも、救われない罪、悔い改めさえできない罪というのはこれは今まで戒めを守ってきて神様に守られて祝福もされたりなどして信仰が大きくなった人がある瞬間からこの罪を犯した人等に当たることです。他のメッセージも読んでいただかないと誤解してしまうようですね。是非、信仰の量りという説教のメッセージを読んで頂けたらと思います。

長々とすみませんでした。でも、異端ではないので誤解しないでほしいです。神様が終わりのときの摂理を成し遂げるために立てられた教会です。

返信してくださったこと感謝します。神様の恵みがありますように。
[ zohna ] 2013/10/20(日) 午前 1:33 返信する

*

>zohnaさん

マンミンの異端性については過去記事「韓国の異端、破壊的カルトの教会 ①」( http://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11861470.html)、②( http://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11863881.html)
、③( http://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11872668.html)などにも取り上げています。また、什分の一献金の誤りについては、カテゴリー「什分の一献金問題・繁栄の神学など」をお読みください。

お役に立てば幸いです。
2013/10/20(日) 午前 3:47


******

万民中央教会(만민중앙교회、マンミン)の教祖、イ・ジェロク逮捕
2018/11/23(金) 午前 7:08
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/16418802.html

韓国カルト教団の教祖に禁錮15年、女性信者8人がレイプ被害で告訴

AFP 2018年11月22日 19:18 発信地:ソウル/韓国 [ 韓国 韓国・北朝鮮 ]

http://www.afpbb.com/articles/-/3198789?cx_part=latest

"【11月22日 AFP】韓国のソウル中央地裁は22日、信者の女性8人をレイプした罪に問われたカルト教団「万民中央教会(Manmin Central Church)」の教祖、イ・ジェロク(Lee Jaerock)被告(75)に対し、禁錮15年の有罪判決を言い渡した。女性信者たちはイ被告を神聖な存在と信じていたという。
・・・"

https://www.youtube.com/watch?v=jidopEPcuSw


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当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

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