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10分の1献金問題

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プロテスタント的
2011/10/15(土) 午後 8:47

 カルト化している教会や異端各種を見て行くと、面白い共通項が見えてきます。それは表面的には信仰義認を標榜してはいても、その実(じつ)において行為義認であることが多いということです。カトリックの場合ですと、リトル・ペブル運動やその他のものを見て行くと、カトリック的禁忌への反動とも取れる行動が目に付きます。しかし、それとともにカトリック的様式や儀式に固執したりしている面もあります。しかし、プロテスタント系は行為義認に走り、信徒へ暴力的ともいえる過度の義務的行為を求めます。それが牧師など指導者に対する従順であったり、繁栄の信仰とのセット(飴と鞭)での什一献金(実際には二割三割当たり前みたいなところもあるようです。)であったり、表面的には自発的としていながら、半ば強制的な伝道やその他の奉仕活動などが挙げられるでしょう。なぜプロテスタント系のカルトや異端ではこのような事象が見られるのでしょうか。

 カトリックが信心行ともいえる行為があったり、告解などでも罪の償いなどを課すことなどがありますが、プロテスタントではそのような行いを削ぎ落としてきたゆえに、正しく信仰義認と言うものを認識しないと、このような二重基準的隠れ行為義認と言う罠に陥ったりすると考えられます。

 ルターの著作『善きわざについて』から、信仰義認による善き行いとは何かということのエッセンスを見てみたいと思います。

 『第一に知らねばならぬことは、ただ神が禁じたもうた罪のほかには、いかなる罪も存在しないと同様に、ただ神が命じたもうたわざ以外には、いかなる善きわざも存在しないということである。それゆえに、善きわざを知り、これを行なおうと思う者は神の戒め以外には何も知る必要はない。そうした意味でキリストは、マタイ一九章で、「もし救われたいと思うならいましめを守りなさい」と言われ、そして若者が、「救われるためには、どんなことをしたらいいでしょうか」と尋ねたとき、キリストは十戒のほかには何も示したまわなかった。したがって、私たちは善きわざの識別を、神の戒めから学ぶべきであって、わざそのものの見ばえや大きさ、あるいは数量などから学ぶべきではない。…第二、あらゆる尊い善きわざの中で第一の最高のわざは、キリストを信じる信仰である。…ところで、私たちがこのことを聞いたり、説いたりする場合、私たちは上(うわ)調子でこれを軽くあしらい、楽々と実行できるもののように考えるのであるが、むしろ私たちはここにゆっくり立ちどまって、じっくりと思いをこらさねばならない。というのは、いっさいのわざは、このわざのうちにおいて行なわれねばならないからであり、またそれらのわざの善性も《領主から受ける》封土のように、このわざから受けとらねばならないからである。…第三、さらにすすんで、彼らが手のわざをいとなんだり、歩いたり、立ったり、あるいは飲食睡眠など、体の栄養もしくは一般的益のために、あらゆる種類のわざをなすとき、人々はそれらを善きわざとみなすかどうか、そして神がそれらのわざにおいて、人々を喜びたもうと信じるかどうか、と尋ねるならば、人々はいなと答えるであろう。そして彼らが善きわざをきわめて狭く限って、ただ教会における祈祷、断食、施与などにとどめ、それ以外のわざは、すべて神にとっては無価値なものだとみなしていることがわかるであろう。こうして彼らは、のろわれた不信仰によって、いやしくも信仰において生じ、語られ、考えられる事柄はいっさい神への奉仕となるべきであるにもかかわらず、その奉仕の道をせばめ、制限しているのである。…キリストはヨハネ八章で言われた、「私は、いつも神のみこころにかなうことをしている」と。キリストはご在世中、食べもし、眠りもされながら、どうしていつも神のみこころにかなうことができたのであろう。聖ヨハネは第一ヨハネ三章に言っている、「それによって、私たちが神のみまえに心安んじ、信頼しまつることができれば、私たちは真理のうちに立っていることがわかる。たとい私たちの心が私たちを責めさいなもうとも、神は私たちの心よりも大いなるかたであって、私たちは願い求めるものを何でも与えられるのだという確信を持っている。それは、私たちが神の戒めを守り、神のみこころにんなうことを行なっているからである」と。…第四、さて、ここにだれでも自分の行うわざがどういうときに善であり、また善でないかを自分で認め感じることができる。すなわち、自分の行うところは神のみこころにかなうという確信が心にあれば、たといそれが、わらくず一本を拾いあげるような些細な事柄であっても、そのわざは善である。けれども、その確信がなかったり、あるいは疑ったりするようなことがあれば、そのわざは、たといあらゆる死者をよみがえらせ、おのが身を焼かせるほどのものであっても、善ではない。そのことを聖パウロはローマ一四章で、「すべて信仰から、もしくは信仰において行なわれないことは罪である」と教えている。…第五、この信仰の中では、いっさいのわざが等しくなり、互いに同等のものとなる。わざが大きかろうと小さかろうと、長かろうと短かろうと、あるいは多かろうと少なかろうと、そうしたわざの間の区別はいっさいなくなってしまう。…』

 このように、信仰こそが第一の善きわざであることを認識し、『なにものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼す』ることからはじまるということを、心に刻み、信仰による行いを狭めて捉えないようにすべきです。

 そして、異端やカルト化した教会の組織や指導者が求めているものは、実は信仰とも、救いとも、まったく関係のない、外的要求に過ぎず、自己の支配的欲求から来ているものであることを理解すべきです。

***プロテスタント的「」へのコメントとレス***

コメント(10)

「恐れ、愛し、信頼す」

ものすごい奴隷根性のような感じもします。
SM的というかDV的というか。

この思想を「いつも神様の顔色を伺いながら生きて死ね」という風に「自称神様」または「神様代理」利用された時、宗教は恐ろしいものになりますね。
[ - ] 2011/10/15(土) 午後 10:19 返信する

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これは「信仰義認」または「信仰によってのみ義とされる」という事柄のが目や耳から入ってくるとき、表面的な解釈や受けとり方をしてしまい、そのドグマの持つ最も根本となることを見落としてしまうために、返って無知となってしまって、そこを行為義認という人が最もわかりやすく安心しやすい形へ人を導き、指導者や組織への奴隷としてしまうと言うことですね。
2011/10/16(日) 午前 5:31 返信する

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エホバの証人を内部から観察して思うのですが、恐らく行為義認的な宗教の方が、「これだけ頑張った」というような形が残りますし、人々は安心するんでしょうね。
[ 南三条 ] 2011/10/16(日) 午前 8:25 返信する

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人は弱いもので、成果と見返りというものが、理解しやすく安心するのでしょうね。

それゆえ、ものみの塔という組織はそれを利用し、信者は追われるように働くということになるのでしょうね。
2011/10/16(日) 午前 8:53 返信する

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アタナシウス様、こんにちは。シャロンです。
ニックネームがうまく選択できなくて、このままで投稿します。

「信仰のみ」はカルトの独裁者に、本当に都合良く利用されていると思います。信仰者は、たとえ犯罪すれすれ(あるいは犯罪そのもの)であっても、許されるという論調です。
勿論、罪を犯しても、罪に苦しみ被害者の方に心からの謝罪をする者を、神様は慈しんで下さるでしょう。
しかし、被害者の方から許されるという事とは、また別です。
以前友人に聞いた話ですが、韓国の(新興宗派だと思いますが)映画か小説で、人を殺してしまったが、クリスチャンになった人が「全ての罪は許された、」と顔を輝かせて喜びに満ちている、というのがあるそうです。
そこに心からの懺悔があれば、また別ですが、こういうのは、違うんじゃないかと思います。
でも、最近この手の話をよく耳にします。
明らかに「信仰のみ」を間違えていると思います。
非常に危機感を覚えています。
[ - ] 2011/10/17(月) 午前 9:54 返信する

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シャロンさん、こんにちは。

コメントありがとうございます。

近年のアメリカ型福音派や原理主義者、カリスマ運動・聖霊の第3の波運動の間にて、超教派の名の元に教義の混同が、信徒のみならず牧師と呼ばれる人たちの間でも見られ、それと同時に宗教改革以来、共通して持っていたドグマが失われたり、薄められたり、果ては無くなって別なものに置き換えられたりしています。

その一つが、キリスト者が「義人にして罪人」ということです。これはルターの『95箇条の提題』や『キリスト者の自由』で信仰義認を説明する際、よく出てくるものなのですが、ボーンアゲインクリスチャンの思想には、これが無いように感じられます。

『一、われわれの主であり師でありたもうイエス・キリストが「悔い改めよ、云々」と言われたときに、彼は信仰者の全生涯が悔い改めの行為でなければならない。ということを意味されたのである。…四、それゆえ、悔悛は、自己嫌悪(すなわち、真の内的悔い改め)が存在する限りとどまっているのであり、つまり、天国に入るその時まで続くのである。』(95箇条の提題より)というものが、彼らには無いように思えます。
2011/10/17(月) 午前 11:34 返信する

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以前のJWの賛美の歌に「進歩せよ」というタイトルの歌とか「熱心な~れ、よき業に~て・・」とかいう歌詞の歌がありましたが、伝統的キリスト教会の教派からJWに転向した人の中にはJWの熱心さに惹かれた人がいるようです。某単立カルト教会なども、一度礼拝に行った程度では、<熱心な教会だ>と外部の人は思うようですね。

ワーカーホリックの人は常に忙しくしているのが安心なのでそういう心の傾向のある人で聖書に関心がある人はカルト化した教会かJWなどのカルト教団になお更魅力を感じやすいかと思いますね。
[ Anastasia ] 2011/10/18(火) 午前 0:49 返信する

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現在の福音派・聖霊派系統のプロテスタントを見て行くと、あれもしなければ、これもしなければと忙しく熱心すぎるほど熱心に働いています。

伝統的キリスト教のように、今一度立ちどまり、静聴し、黙想し、沈黙と静けさの中、ただ神にのみ意識を向け、デボーションガイドなんかを使わずに、神の御前に静かに聴くことをしてもらいたいですね。
2011/10/18(火) 午前 5:06 返信する

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なぜ、普通のキリスト教ではなく、JWやカルトに行ってしまう人がいるのか不思議だったのですが、Anastasia様の投稿を読み始めてわかりました。

デボーションガイドなんていうのも、私もいらないと感じていました。所詮、その著者の主観ですから。
私はもともと、バプ同でキリスト教に出会ったので、福音派でよく言う霊的指導者、という言葉にも違和感があります。
霊なんて人に指導されるものではなく、まさに神様の前に一人静まる事だと思っているのですが・・・。
[ - ] 2011/10/22(土) 午前 10:53 返信する

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福音派や聖霊派では、デボーション、セル、様々な奉仕の場があり、忙しくしています。

主をもてなすことに忙しくしていたマルタに対してイエスは、「マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により、思ひ煩ひて心勞す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此れは彼より奪ふべからざるものなり」と静かに主に聞くことこそが大切であると教えていますね。
2011/10/22(土) 午後 1:03


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悪魔のもたらした繁栄の信仰という考えからカルトははじまる
2011/10/25(火) 午後 9:38
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/7140242.html

 キリスト教の福音派の一部や聖霊派を侵食している「繁栄の神学」と呼ばれるマモニズム神学があります。この教えはアメリカで始まり、特に南米やアフリカなどの第三世界や拝金主義の韓国キリスト教に広まりました。近年は聖霊派や韓国系を通じて、この日本のキリスト教会をも侵食し蝕み始めています。

 ペンテコステ系の純福音教会の「物質の祝福は神様の御心である」というメッセージの前半を見てみましょう。

 『しばらく前に、イギリスのBBC放送で、物質的な精神と精神的な精神、精神的な価値、どちらが大事かを比べていました。精神的なものも、物質的なものも大事なものです。しかし、皆さんはどちらを優先しますか。資本主義の国家アメリカでは、物質的な価値が最も尊ばれるのではないかと思われるでしょう。しかし、世界各国を調べて見ますと、物質的な価値を最も重んじる国は、アメリカではなくて、一番目は中国、二番目は韓国でした。
 私たちは精神的価値が物質的価値よりも勝っていると考えます。もちろん、精神的なものの方が、物質的なものよりも価値があるでしょう。しかし、だからと言って物質的なものは価値が無い訳では無いんです。
 人の体は物質で出来ています。私たちの体は物質なしでは生きてゆけないのです。ですから物質なしのは大事だし、神様の祝福の中には物質的なものが多く含まれているのです。
 今日は神様の祝福を受けたヨセフの話しです。ヨセフは霊的にも祝福されました。しかし、今日の本文では物質的な豊な祝福も受けているのです。彼は生い茂っている樹のように豊な祝福を受けたのです。反対する敵もいましたが、それに打ち勝つ力も持っていました。神様はヨセフに天と地と子供を養う祝福を与えてくださったのです。ですから、私たちもヨセフのように物質的な祝福を治めなければなりません。それではヨセフのような祝福を享受する為には、どうすればいいでしょう。
 一番目に物質世界に対する聖書的な観点を持たなければなりません。人々は物質と言うと少し嫌がる傾向があります。なぜならば、その物質によって、神様から遠のいてしまうんではないかと思うからです。しかし、物質は気にしたり、遠避けたりする必要はありません。なぜならば、神様が物質をお創りになりましたから、神が天と地とすべての万物を創造されたのです。また、神はエデンの園も創られた。そこは何の不足も欠けたことの無いところで、そこでアダムとエバは生活したのです。アダムとエバには物質的な不足は何もありませんでした。ですから、私たちも、豊に不足なしに暮らすことが神様の御心なのです。
 ユダヤ人の物質的な観点を見れば、もっと判りやすくなります。ユダヤ人の知恵の書と言われるタルムードではこう書いてあります。「世の中の貧しさは悪いものだ。世の中の悪いことはこの貧しさのせいなんだ。」また、彼はこういうことも言っています。「お金は神様から、おくりものを買うチャンスを与える肉体を司るのは心であり、心が頼るのはお金である。人の心を痛ませる三つのものは、悩みと不和と財布である。その中で一番心を痛ませるのは、やはり財布である。」
 あまりにも具体的に話をしていますが、今日、経済を牛耳っているのはユダヤ人であります。ユダヤ人を批判的にみる視覚もありますが、ユダヤ人は、中世の時に高利貸しによって銀行を立てました。ですから、最近の銀行を支配しているのです。アメリカの方に渡って金融界を支配し、今日のアメリカのヘッジファンドなど、すべての金融はユダヤ人が支配していると言われます。
 物質に対してどういう風に思うかによって、その個人、その民族、国家が変わって来るのです。物質が豊になるは、神様の祝福だとユダヤ人は考えました。特に聖書の時代には、律法を守れば守るほど多くの豊かさが与えられる。こう言ったユダヤ人の考えは、必ずしも正しいわけではありません。彼らは聖書を通して自分なりに解釈しているからです。私たちは聖書の通りに解釈する。では、聖書は何と言っているのでしょうか。神は聖書を通して物質の祝福をお与えになる。しかし、神が禁止しているものがある。それは貪欲です。貪欲、貪りは偶像崇拝だと言っている。イスラエルの民たちが、神の導きによって、乳と蜜の流れるカナンの地に入りました。その最初に支配しなければならない待ちはエリコでした。エリコを支配するんだけども、その中にあるものは全部神様にささげなさい。…物質は神の祝福であっても、貪欲は神様のさばきを受けるのです。
 神はエデンの園にすべてのものを備えてくださり、すべてのものを食べてよいとおっしゃった。しかし、園の中央にある善悪の実は食べてはならないとおっしゃったのです。なぜなら、物質の主人は神であることを教えるためなのです。貪欲というものは死をもたらしてしまうのです。アダムとエバは、その貪欲を勝つことが出来ず、食べてしまうのです。その結果、刑罰を受けてエデンから追い出されてしまいます。今日、アダムとエバの子孫達は追い出された身分です。だから、物質の豊かさを治めることができません。裸で空腹で呪いの中で暮らしている。しかし、それは神の御心ではない。神は善き神様。恵み豊な方です。だから主は、この地に来られ、貧しさは贖ってくださったのです。第二コリント8:9です。『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』
 主はただ空腹で、苦しんで、天国に行きなさいとおっしゃっていません。主はこの世でも豊になり、幸せになってから、天国に来なさいとおっしゃっているのです。
 主は呪いを喜ばれません。貧しさも喜ばれません。ユダヤ人が言っていたように、この世の多くの悪いことが貧しさから来ているのです。イエス様が貧しさ、呪いを贖って下さいました。イエス様は十字架にかけられ、律法の呪いから贖って下さいました。アブラハムの祝福を与えてくださったと聖書は記録しています。ガラテヤ3:13~14です。『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』ですからイエス様によって、私たちは呪いから放たれたのです。そして、物質に対する恐れを捨ててください。豊かさの中でもって、主に使えることが出来ます。それが神様の御心なのです。第二コリント9:8です。『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。』荒野で人情が生まれるという言葉があります。豊になってこそ人に分け与えることができると言うことです。豊になって、自分だけのために使うのではなく、個人のため、また、教会のために、神様のために用いましょう。…』

 このメッセージを聴くと、名古〇クリス〇ャンセンター〇会の『繁栄の信仰』というメッセージテープで聞いたのと同じフレーズが出てきます。それは貧しさは呪いであるということと、キリストは貧しさから贖ってくださった。神は豊になることを望んでいる。物質的な豊かさは祝福である。そして、引用されたみことばも、えっ!!そう解釈しちゃう?って思ってしまうようなものです。あなたたちの祝福や贖いって『お金!!』、そして本根もポロリと「教会のために、神様のために」豊かさを使う、結局、自分たちがお金が欲しく、それを正当化させるためと信徒から金払いを良くさせる為に「貪欲」は罪だと言うことを強調し、アダムとエバの堕落も、イエスの贖いを貧乏からの贖いと矮小化しているのと同じく、貪欲のためだと言ってしまう。マモニズムもここまで真理を蝕み、醜悪なものに変えてしまうのかとあきれてしまいました。

***「悪魔のもたらした繁栄の信仰という考えからカルトははじまる」へのコメントとレス***

コメント(16)

妖しい雰囲気がプンプン漂っているメッセージですねえ。w
これ聞いてマジで信じちゃう人って、よっぽど困窮している人か、物質欲に強力に支配されている人か、もしくはじっくり聖書研究したことないんでしょうかねえ。汗

ちょっと話題はそれますが、市内のとある長老派だけど福音派みたいな教会で、韓国から来た長老派牧師が、「病気は信仰があれば必ず治ります!皆さん、もっと神に熱烈に癒しを祈り求めましょう!」って感じのメッセージを説教で言ってました。繁栄の神学と似たような妖しい雰囲気を感じました。汗
[ Anstasia ] 2011/10/25(火) 午後 10:29 返信する

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韓国も長老派が多いですね。長老派は教会政治上の分類ですから、カルヴァン主義で無くても、信仰は福音派でも長老制を取れば長老派と言っているのかもしれないですね。

神癒の強調はペンテコステのみならず、きよめ系でも強調されますね。まして韓国は神癒・異言・預言・悪霊の追い出し・繁栄の信仰などのメッカですからね。
2011/10/26(水) 午前 4:05 返信する

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エホバの証人はアダムとエバをとことん悪者にしているけれど、証人の組織がすべての決定権があると主張しているんですね。では、戦争したり、不正したり、分裂させたり、偽りお教えをしたり、しているのは、組織が不完全だということではないでしょうか?極端に厳しく強制して信徒をつなぎとめているのです。聖書は家で静かに朗読すればいいのです。パリサイ人がいる集会には行きたくもありません。権力が物をいう会衆を見てきたので二度と行きたくないです。人間の教えを伝統にしている長老だっているんです。口伝でモーセ5書は記録されたのでしょう。120年の生涯のモーセ。アダムは930歳。どうやって年数が記録されたのですか。なんか妖しい感じがするのですが。?
[ 元Jw ] 2011/10/26(水) 午前 6:25 返信する

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まず、この地上に完全なんてものは存在しません。これは地上にある教会も例外ではありません。当然、使徒たちがいた時代も含まれます。だからこそ、使徒パウロは各教会に当ててあれほどの書簡をしたためたのです。聖霊に導かれ、使徒たちもいてなお各教会には問題があったのなら、使徒たちもいない、イエスの時期弟子たちもいない現在ならなお、問題があるのは当然だと考えます。だからこそ、偽教師や偽預言者、偽メシアなどに気をつけ、べレアの人々のように、果たしてそのとおりか聖書を調べ、霊だからと言って何でも信じてしまわないようにと、聖書の中でくり返し注意するように語られているのです。

聖書の成立過程や、なぜ長い年齢が好まれたかについては、聖書の本文批評などで学問的に詳しく説明がなされていますので、そのようなんを捜してみてはいかがですか。教文館、日本基督教団出版局、新教出版、リトンなどで出ている本は、福音派系出版社のものよりもしっかりした学問的研究書などが出ていますよ。
2011/10/26(水) 午前 8:11 返信する

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有り難うございます。そうします。
[ 元Jw ] 2011/10/26(水) 午前 8:34 返信する

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ヤベツの祈りとかいうブームみたいなもの思い出しますた
恐るべし繁栄のネズミ講神学の魔力
教祖は木です。あなたがたは葉っぱです。光とお金集めて繁栄でスミダ
[ はんす ] 2011/10/26(水) 午後 1:02 返信する

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ヤベツもありましたね。

セル、弟子訓練、アルファなんてものもありますね。
2011/10/26(水) 午後 1:33 返信する

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繁栄系のお父さんが仕事中毒の為に構ってもらえない子供達がキャベツの祈りだって笑ってましたが、彼ら子供達の方が正しかったようです。
お金や仕事より大切ものがありそう
[ はんす ] 2011/10/26(水) 午後 3:06 返信する

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まだ仕事中毒なら救われるのですが、繁栄の信仰は、多くお金を献げれば献げるほど、祝福という名の繁栄が与えられるというものです。単なるカルト教会の集金活動をやりやすくするための理論です。
2011/10/26(水) 午後 3:19 返信する

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アルファは危険な教えなのですか?
[ Alexamenos ] 2011/10/26(水) 午後 8:39 返信する

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セルにしても、弟子訓練にしても、アルファにしても無批判的に受け入れ信頼するのはどうかと思います。セルや弟子訓練は最近になって、その問題点が体験者達の口から知られるようになりました。そのような意味で名前を挙げています。コースのタイトルからみると英米型そのままで、まあ、英国の教会発祥ですからしょうがないのかもしれないですが、カルト化や異端の事例から言っても、あまりいい印象は受けないですね。
2011/10/27(木) 午前 3:03 返信する

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僕も名古〇クリス〇ャンセンター〇会を思い出しました。
ちなみに、あの番組で話していた牧師、宣教師に反発して、教会を去ったとのことです。
宣教師に言わせれば、「彼は地獄に行く」ということです。(笑)
牧師が教会を離れたりすることなど、そのようなことはよくあることなので、それほどなんとも思いませんでしたが、地獄行き発言には、さすがの僕も驚きました。
自分に反対するものは、誰でも「自国行き」ですからね。
アメリカに連れていってやったり、その牧師の面倒をみてやったのに・・・・・などなど、愚痴まで出る始末でしたよ。
本来なら、その去った牧師のためにも祈るとか、それがクリスチャンとしてのあり方だと、僕は思いました。
他でも書きましたが、僕は彼らと接触があっただけに、あまり悪くは言いたくないのですけどね。
それなりに学ばされたことがあったのも、事実です。
実際、そこの町に行った時日曜日だったので、そこの礼拝にも出たほどです。
[ Kazuya ] 2011/10/27(木) 午前 11:02 返信する

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それでHP見ても、アーニー・〇・シ〇ムラ牧師以外の牧師の名前が出てこなかったのですね。

私もメッセージカセットなんかを10本ちかく貰いましたね。おかげで聖霊派系単立の良い資料となっています。

この手の団体の人たちって、自分達の信徒には、牧師や奉仕者の人間的過ちを赦すように求めながら、自分達はそうではないことが多いですね。
2011/10/27(木) 午前 11:24 返信する

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ただ、一応そこの牧師はテントメーキングとして、番組で話していた牧師は高級家具の修理、アメリカ人宣教師はレストランを経営しているとは言ってました。
その話を聞く限りにおいては、信者からの献金で、私腹を肥やしている訳ではないように思われます。
まぁ、教会を離れた日本人牧師はともかく、そのアメリカ人宣教師がはたして本当にレストランを経営しているのか、正直よく分からないんですよね。
もちろん僕が部外者だけに、詳しいことを知る機会がなかったということではあるのですが・・・・・。
[ Kazuya ] 2011/10/27(木) 午後 7:15 返信する

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その職業のみによって収入を得ていて、教会から高額な給料の類いを得ていないのならいいのですが、副業を持っている、もしくは商売の方が本業というのなら、かなり深刻な問題となりますね。

私はその放送を見ていないので、お話しから想像するしかありませんが、問題となっている教会、また牧師などは話しだけ聞くといいことを言っていたり、熱心であったり、としている場合が多々ありますね。
2011/10/28(金) 午前 5:25 返信する

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書き終わって、名古屋の方だと気付きました。

ラジオでその話をしていたかは覚えていませんね。それでもやはり同じで、牧師の多角経営と見ると問題がありますね。
2011/10/28(金) 午前 5:28



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献金問題
2012/1/25(水) 午後 2:41
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/8301282.html

 ネットなどでカルト化教会などを検索してゆくと、必ずと言ってよいほど、什分の一献金や什分の一献金以上の献金の強要や暗黙の強要、その他の献金トラブルが取り上げられていて、什分の一献金=カルト化教会という括りになっています。

 以前にも取り上げたので簡単に述べるのなら、什分の一献金は何ら聖書に根拠のないもので、聖書に述べられているイスラエルに課せられた律法契約の十分の一の奉げ物と、福音派や聖霊派系統がいう什分の一献金はまったく関係のない、まったく制度も内実も別なもので、これらを混同させることによって手っ取り早い集金の根拠としているにすぎません。

 また、繁栄の神学といったまやかしのように、信仰を表すもの、信仰のバロメーターとしたり、多く奉げない者は信仰がなく、救われないと説いたり、多く奉げると多くの祝福があると言うだましごとによって集金している団体も近年は増えてきています。これもこの説を唱える者たちは聖書を引用して、一見あたかも根拠のあることであるかのように偽装していますが、これも集金のための方便にすぎません。

 もちろん個人的に多く奉げたい気持ちから、誰からもそのように教えられず、暗黙の圧迫もなく、それによって生活が立ち行かなくなるといったことがなく、救いとは関係がなく、ただ自身が奉げたいとの気持ちから、心に定めてするのなら別に何の問題もありません。

 しかし、実情は事前に什分の一献金について、直接の要求や直接語らなかった場合でも、テキストや薦められた本の中にそのことが書いてあったり、そのことを何となく匂わせるような何らかの示唆があったり、学びの中で言及があったり、教会の信徒の話の中でそのことの薦めや示唆、暗黙の圧迫があった結果、そこにたどりつく場合がほとんどといえます。

 この献金においてなぜトラブルが多いのだろうと考えてみますと、聖書における古代イスラエルの民が神に奉げた奉げ物と教会の献金には大きな差があるからだと思います。古代イスラエルにおいては、まず奉げられた動物や農作物は、祭壇で燃やして煙にして焼き尽くして、主への宥めの香りとしました。その他のものは、聖なる奉仕の務めに携わる祭司とレビの部族を支えるためのものであったり、幕屋や神殿の設備の維持に使われるものであったり、寡婦や孤児、貧しい者や旅人のために使われたりしました。

 しかし、教会の献金はどうでしょうか。直接主への奉げ物となる部分はありません。教会の規模によっても違いますが、教会経費の多くを牧師や奉仕者などの給与や福利厚生費、暖房費、交通費、旅費などの費用が占め、また、教会堂の維持費や修繕費、水道光熱費、事務通信費なども次いで大きな出費となっています。そして、教会の活動諸費となります。

 聖書に出てくる奉げ物と教会の献金は、主への感謝という面では同じでも、実質の使途は全く別物であります。ここいら辺のギャップが、カルト化教会ではない普通の教会においても、一つの課題となってくるのではないかと思います。

 教会の維持献金のお願いが、毎年献金袋に入って教会員に渡されますが、その中でこのような文言があります。【献金は『自分の体を神によろこばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です』(ローマの信徒への手紙12章1節)とありますように、神さまの恵みに対する私たちの応答です。収入の中から、まず最初に献げましょう。】これは毎年同じ文言が書かれていますが、いつもこの聖句とその前後を読んでも、献金と関連する記述がないのに、ただ「献げなさい」の文言のみを取って献金と結びつけるのは、什分の一献金を教える教会やカルト化教会の繁栄の神学と同じく、まったく的外れな引用であると言わざるを得ません。

 まず、献金のトラブルをなくするためにも、まず第一歩として、聖書の引用の誤用を止めることから始めてほしいといえます。根拠のないものを根拠とするからトラブルが起きますし、偽りを教えることになります。

***「献金問題」へのコメントとレス***

コメント(24)

もしよろしければ、アタナシウスさんが仰ることのもととなる資料を教えていただければありがたいです。

教会でも、什分の一が税込収入から起算したものだとか、かなり無茶な要求をしてくる人もおりますので。
[ みやこやみ ]2012/1/25(水) 午後 5:20返信する

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教会の運営にはこのくらい費用がかかる、牧師とその家族の生活だって考えないわけにはいかないのだからそこを賄う費用が必要。
宗教的な理念とは異なるのかもしれませんが、これからの時代は宗教の世界もお金のことに関してはきちんとした説明責任が必要でしょうね。
変に聖書を引用するよりその方が潔いですよね。
[ 南三条 ]2012/1/25(水) 午後 6:21返信する

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カテゴリーの「韓国系異端・カルト」と「異端・破壊的カルト団体・カルト化」にて、八つ程什分の一献金・繁栄の神学についての記事をあげています。

一世紀におけるユダヤ人の十分の一の奉げ物については、『ミシュナー Ⅰ ゼライーム』とトーラーをご覧ください。
2012/1/25(水) 午後 6:43返信する

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記事を読んでもらえれば教会の維持献金を否定するものでないことはお分かりだと思います。

問題なのは、什分の一献金や繁栄の神学のように、聖書に根拠がないのにも関わらず、あたかも聖書に根拠があるかのように教えたり、偽りの教えに導くことが問題だと思います。

福音を宣べ伝える奉仕職が生活を支えられることは聖書にもありますが、しかし、教会によっては過度な人件費等が問題となっています。

また、献金の強要、暗黙の圧迫、教え込みなどの手法によって集金がなされていたりすることは問題と言えるでしょう。
2012/1/25(水) 午後 6:55返信する

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ありがとうございます。
ミシュナーのゼライームに捧げ物についての記述があると言うことでよろしいですか?
[ みやこやみ ]2012/1/25(水) 午後 8:20返信する

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ファリサイ派における十分の一の奉げ物については、ミシュナーのゼイラームを読めば分かりますね。教文館から日本語訳が出ています。
2012/1/25(水) 午後 8:43返信する

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某教会の金持ち信者の中には、自分の献金を入れた献金袋に、わざわざ自分で選んだ聖句を書いている信者もいるそうです。wどんな聖句を書いているやら。w

献金問題に関しては、献金に目がくらんだ教会のスタッフも、献金を誇りたくなる金持ち信徒達も共に正しい献金の有り方について、心を入れ替える必要がありますね。
[ Anastasia ]2012/1/26(木) 午前 2:20返信する

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どんな聖句を恥ずかしげもなく書いているか気になりますね~。

現実の教会運営にはお金が必要ですが、いつの間にか教会がスタッフや建物を指しているようになっては、本末転倒といえますね。近年、そのような教会が増えたのでしょうね。
2012/1/26(木) 午前 3:41返信する

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献金のことでマタイ6:20を使う説教もあるかもしれませんね。

「金だせ!」
って感じ。
[ 一匹狼のまーくん ]2012/1/26(木) 午後 6:10返信する

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利用できるものは何でも利用しますから、そのような手段を取っているところもあるかもしれませんね。
2012/1/26(木) 午後 10:22返信する

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「献金のお願い」に変に聖句をひっぱりだして、信仰の深い浅いを計るかのように説くからいけないんですね。
カトリックのように、「教会維持費」がいいと思います。
やはりししきを維持するためには、お金もかかりますから。

申命記26:12には「十分の一の納期である3年ごとに・・・レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し・・」とあります。
文字とおり捉えるなら、什一献金は3年ごとで良いわけです。(カルト牧師にそこのところ聞いてみたいですね)
しかも、使用目的は社会福祉のためと言えそうです。
[ シャロン ]2012/1/30(月) 午後 3:01返信する

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>シャロンさん

献金は教会を維持し、教会活動を行う上にもとても大切なものです。それを説いて求めればよいので、根拠にならない聖句を持ち出して、あたかも義務のように信徒に課すのが問題といえます。

申命記と私の過去の十分の一の奉げ物に関する記事を読まれるとわかりますが、安息周期の第1年・第2年・第4年・第5年の十分の一の奉げ物は、祭司とレビ人を支えるために用いられ、第3年・第6年の十分の一は貧者の十分の一となり、十分の一が求められないのは、安息周期の第7年です。
2012/1/30(月) 午後 3:36返信する

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久しぶりに来ました(^O^) おお♪ジュウイチ献金 その他献金♪私の行ってた 大阪府さ●い市の津●野キリストめぐ●凶会の支店凶会もありました 遠回しな言い方で献金せなアカンようなやり方です 『神の物を盗む事になる』や アナニヤとサッビラの例や 『神がおよろこびになる、天に宝を積みましょう』(喜ぶのは津●野のヤ●●●教祖やろ!)みたいな方法です。 うちは貧乏やったから できるときしか入れなかったですが…返して欲しいです(≧ε≦)
[ 元め●み信者 ]2012/1/30(月) 午後 10:29返信する

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>元め●み信者さん

お久しぶりですね。

ファンダメンタリズムな教会やペンテコスタルな教会、カルト化教会で什一献金を採用しているところなどでは、同じような聖書箇所やマラキ書なんかで、街金みたいに集金しているようですね。あちらは十一(といち)の利息で、こちらは10分の1以上の献金の強要、似ていますね。
2012/1/31(火) 午前 7:14返信する
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ご存じかも知れませんが、酷いところになると、源泉徴収票を提出させて、面談して無理やり什一献金させるようです。
[ みやこやみ ]2012/2/1(水) 午後 8:20返信する

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モルモン教にはちゃんと什分の一献金がささげられているかの面接があるそうです。私は受ける前に離れたのでそこは詳しくありませんが、モルモン時代の什分の一献金の領収証は取っておいてありますね。
2012/2/1(水) 午後 8:43返信する

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献金の領収書ってあるんですか、すごいなー( ̄¥ ̄)
源泉徴収票もすごいけど(今日税務署に出してきました(^◇^;))

ほんとに10分の1を強調するとヤミ金みたいですね( ̄$ ̄)
[ 一匹狼のまーくん ]2012/2/1(水) 午後 9:28返信する

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強制性があるというところでは似ていますね。
2012/2/1(水) 午後 9:31返信する

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初めまして
今日献金に関する記事書いて ポチッとしたら 他にも同じような記事がでてきて「献金問題」とあったので訪問してみました。
そうしたら知り合いのお名前がいろいろ。そういえばアタナシウスさんのお名前も見たことあります。
改めまして こんばんは
シンカーポールの教会と仲良くなって 今の教会では 捧げなさいが頻繁に言われるようになりました。それまでも什一は当たり前。それ以外にもいろいろ献金があって 袋配られていました。
1月一発目の説教は最初は他の所の引用だったのですが、結局はマラキ書からの什一献金の話でした。しっかり納めないと「神様の物を盗んでいることになりますよ」と
昔はまじめに言われるままに たぶん他の人に言うと「バカじゃない」と言われるくらい献金していました。それが神様のご用に用いられると 教えられるままに 純粋な気持ちでした。
最近 ブログでいろいろな方と交流するようになって おかしいぞと思い始めました。というより おかしいと思い始めたからブログ始めたと言った方が 正解です。
[ マキシミリアナ ]2012/2/7(火) 午前 0:00返信する

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>マキシミリアナさん

はじめまして。

什分の一献金や多く献げなさいと唱える教会が、近年目立って増えてきて、多くの献金トラブルを引き起こしています。多くの場合、「神さまのために」、「神さまへ感謝の気持ちとして」という錦の御旗を掲げ、マラキ書を筆頭としてお決まりの聖書箇所が示されます。しかし、それら示された聖書箇所は、何ら根拠のないものであることがほとんどといえます。

一種の神の名を利用した宗教ビジネスの集金活動である場合がありますね。
2012/2/7(火) 午前 1:43返信する

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http://www.help-you.co.jp/hp/vol_4/4_01.html
↑資料”1/10献金は誰のため?”

アタナシウスさん
ここは意見が合いますね。応援しますよ。
[ pim**20040*10 ]2012/2/18(土) 午後 9:34返信する

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>pim**20040*10さん

意見が合うところがありよかったです。
2012/2/19(日) 午前 3:29返信する

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どうも はじめまして わたしもとある 同盟系の教会員ですが 什一献金の教えや 繁栄の神学っぽいものに 警戒していました、洗礼をうける直前の話し合いで はじめて 什一献金のことに ふれられ 当惑しましたが 神に救われたい一心で 了解しましたが いましたくての出来ない状況になってしまって いきずまってしまいました アタシウスさんがゆわれるような あるいみ 信仰と献金の平衡のとれた 教会とは どこにあるのか 教えていただければ 幸いです 一応ルター派の教会がいいとは 小耳にしましたが よろしければ 教えてください
[ ケンちゃん ]2012/6/2(土) 午後 11:56返信する

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>ケンちゃんさん

はじめまして。信仰と献金の平均の取れた教会を見つけるのは、これはなかなか難しいといえます。まず自分の信仰にあった教会の中から(それぞれの教派で教会政治やサクラメント、その他についてかなり違いがあります)自由献金方式を採用している教会を探してみるのが近道だと思います。献金について納得できても、教義や教会の外的なことにおいて違っていると、今度はそちらの面で躓いてしまうこともあります。

ルーテル派でも西日本の福音派系統の教会などでは、什分の一を採用していることは聞きますから、一概にルーテル派がいいともいえないと思います。

キリスト教年鑑などで、ご近所などの通える範囲の教会をピックアップされ、その教会の信仰と自身の信仰がおおよそ一致し、それから自由献金方式か什一献金方式かを確認されるとよいでしょう。教団などのHPや個々の教会のHPなどから質問のメールをしてみたり、電話などで確認されてもいいかもしれませんね。
2012/6/3(日) 午前 1:04

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