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「寛容」?

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「寛容」?
2014/5/25(日) 午前 8:40
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12976101.html

かんよう 寛容

( 名 ・形動 ) スル [文] ナリ 
心が広く,他人をきびしくとがめだてしないこと。よく人を受け入れる・こと(さま)。 「 -の精神」 「 -な態度」 「夫もほかの人が遊ぶのを-するならいいが/坊っちゃん 漱石」
[派生] -さ ( 名 )
(大辞林 第三版 三省堂)


かんよう【寛容 toleration】
寛容とは,広義には,自己の信条とは異なる他人の思想・信条や行動を許容し,また自己の思想や信条を外的な力を用いて強制しないことを意味する。しかし,思想史に即して考えれば,それらが社会的にとくに問題になるのは宗教および政治の局面においてであり,しかもこれら二つの局面は深くかかわりあっていることによって,寛容は政治的・社会的自由の源流となった。

【宗教的寛容】
 異なった宗教・宗派を容認するという意味での寛容の概念が,ヨーロッパの思想史上にはじめて登場したのは,ストア哲学のヒューマニズムにおいてであろう。
(世界大百科事典 第2版 日立ソリューションズ・ビジネス)

Bible.jpg

 わたしたちは聖書を開いて読むときに、「寛容」という語を目にするとき、上記の引用のような意味での日本語として理解し読み込んでいるのでしょう。しかし、それは果たして正しいのでしょうか。そのように読みこむことによって、わたしたちはまちがった理解と、そのことから別な間違いをも生み出しているのではないかと思います。

 口語訳と新共同訳の新約聖書をみますと、「寛容」と訳されているのは
名詞μακροθυμία(makrothumia)と
動詞μακροθυμέω(makrothumeō)、
形容詞ἐπιεικής(epieikēs)の三つです。

μακροθυμία(語源 μακροθυμῶ)

" 容易に怒らぬ(怒りに遠い)こと、長く耐え忍ぶこと、長く忍苦すること、忍耐、寛容。"
〔「新約聖書ギリシャ語小辞典」〕

"2 patience,forbearance,long-suffering,slowness in avenging wrongs,…:Ro.ⅱ.4;…(2 忍耐、忍耐、辛抱強さ、悪への復讐における緩慢、…:ローマ2:4;…)"
 〔「Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament」〕

"patience,forbearance,internal and external control in a difficult circumstance,which control could exhibit itself by delaying an action:―longsuffering(12),patience(2) " (忍耐、忍耐、困難な状況(行為を延ばすことにより、コントロールはそれをそれ自体示すかもしれない)での内部および外的統制:―:辛抱強い(12)、忍耐(2))
〔「STRONGEST STRONG'S」〕

 マクロスミアの語意を織田昭氏の辞典、セアの希英辞典、ストロングのコンコルダンスに載っている簡易辞典で見てみました。マクロスミアの類語ἀνοχή(anochē)がありますが(ローマ2:4では両語が出てくる)、織田昭氏の辞典の説明では、“ἀ.(忍耐、辛抱)はμ.の結果または表現である。μ.は怒りを延ばすという意味からできた語で、堪忍、寛大、長く忍苦すること、辛抱づよいことを意味する。…μ.が人に対する忍耐をあらわすのに対し…”とあります。

 これらを見てきて、日本語の「寛容」とは違い、相手を受け入れることがないのが見えます。相手が変わらないので我慢し忍耐して待ちつつ共存するように感じられます。これは相手を受容([名](スル)受け入れて、とりこむこと。「外国文化を―する」)しないことです。これが新約聖書における「寛容」に見えます。英語の tolerationも英和中辞典などを見ますと、、「耐える」、「我慢する」という意味をもっていることがわかります。しかし、日本語にはその語意はありません。

 これは聖書で繰り返される主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く(怒ることに遅く)、慈しみに満ちておられる(出34:6、民14:18、ヨエル2:13、ヨナ4:2、ナホム1:3、ネヘミヤ9:17、詩編103:8,154:8など)方であることや、決して悪や罪を受容も容認もされない聖なる方であることと一致します。そのためにみ子による贖いが必要であったのでもあります。

 このことを履き違えると、異教徒や偶像崇拝者でも救われるという包括主義や多元主義、果ては万人救済主義という罠に陥ってしまいます。神が誰を救われるかは全く神の業です。これは誰も知ることはできません。その中に福音を知るとなく亡くなった人がいるのかいないのか、聖書は沈黙しています。しかし、聖書はそのような人たちが救われるとは書いてはいません。圧倒的に裁きがあることがでてきます。わたし達が受けたのは信ずる者は恵みによって救われることです。ではそれはそのまま渡せばよいのです。類推に類推を重ねて拡大解釈をすべきではありません。異教徒や福音を知ることなく亡くなった人については、神がお決めになられることでわたし達が談じることではありません。同じようなことは仏教の中阿含経巻第60に出てくる箭喩経(せんゆきょう)の説話に似ています(http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/SenyuKyou/SenyuKyou.htm)。

 この点イスラームの開祖ムハンマドは、父を生れる前に亡くし母も幼い時に亡くし、祖父アブドゥルムッタリブと叔父アブー・ターリブの庇護の下育ちました。庇護者の祖父ムッタリブは8歳の時、叔父ターリブも619年に妻ハディージャが死んでまもなく亡くなりました。“アブー=ターリブの死後、ムハンマドはメッカの有力者から「お前の育ての親は今どこにいる?」と問われた。イスラームの教義では多神教を奉じる人間は地獄行きになることになっている。幼少の頃よりムハンマドを支え続けたアブー=ターリブはムハンマドにとって最大の恩人であったが、ムハンマドは「地獄にいる」と答えざるを得なかった。このことによりムハンマドはハーシム家やイスラームに好意的であった人々の怒りを買い、より苦しい立場に置かれることとなった。”(Wikipedia)、このことはハディースを見ますと、

"アブー・フライラによると、アッラーのみ使いはこういわれた

「信仰心を持たぬ限り、誰も天国に入ることはできない。また、お互いが愛し合わない限り、信仰心を持つとはいえない。
そうすることで互いに親愛感を育てる方法を私はあなた方に教えなかったですか。
それは、お互いがアッサラーム・アライクム!(あなた方の上に平安を!)と言って挨拶を交わすことです」

ジャリールはアアマシュからきいてアッラーのみ使いの言葉をこう伝えている

「私の生命を手にしておられる方に誓って。信仰がなければ、あなた方は天国に入ることはできない」
なお、このハディースの他の部分は前記と同内容である。"
(信者以外は天国に入れないことに関して 1巻 P.60)


"アッバース・ビン・アブドル・ムッタリブによると彼はこういった

 「アッラーのみ使い様、あなたを保護し守ってくれたアブー・ターリブが有利になるよう、あなたは何かなさいましたか」
これに対しみ使いは「はい、それゆえ彼は地獄の最も浅い処にいます。
もし私がそう取計らわなければ、彼は地獄の最も深い底にいることになったでしょう」といわれた。

アブドッラー・ビン・ハーリスは、アッバースがこう語ったと伝えている

アッバースは「アッラーのみ使い様、まことにアブー・ターリブはあなたを保護し、また助けた方です。
そのことが彼の役に立っていますか」と質問した。
み使いは「その通りです。
私は彼を地獄の底で見付け、最も浅い処に連れ出したのです」といわれた。

前記ハディースは、アブー・アワナーによっても別の伝承者経路で伝えられている。

アブー・サイード・フドリーはこう伝えている

アッラーのみ使いは、伯父アブー・ターリブについてたずねられた時、次のようにいわれた。
「復活の日の私の執り成しは、彼のため役立つことだろう。
彼の頭は熱さに茹だるが、業火が彼の両足首まで達するだけの浅い処に移されることだろう」 "
(アブー・ターリブに関する預言者の執り成しについて  1巻 P.177)


"アブー・サイード・フドリーによると、アッラーのみ使いはこういわれた

「地獄の住民で最も罰の軽い者は、業火の燃えついた二つの靴をはかされるが、その靴の熟さのため彼の脳は茹でたぎることだろう」

イブン・アッバースによると、アッラーのみ使いはこういわれた

「地獄の住民の中でアブー・ターリブは最も罰の軽い者であるが、彼は火のついた二つの靴をはかされ、そのため脳を茹でたぎらせることだろう」

ヌアマーン・ビン・バシールは説教を行い、その中でこう語った

「私はアッラーのみ使いが次のようにいわれるのを聞いたことがある。
『復活の日、地獄の住民のうち最も罰の軽い者は足の裏に二つの燃えさしを置かれ、そのため脳を茹でたぎらせている男であろう』」

ヌアマーン・ビン・バシールによると、アッラーのみ使いはこういわれた

「地獄の住民のうち、最も罰の軽い者は火のついた二本のひもを着けた(二つの)靴をはかされる。
このため、彼の頭脳は料理なべがわき立つように沸騰することだろう。
その時彼は、自分以上にひどい罰を受ける者は誰もいないと思うだろうが、実際には、彼は最も軽い罰を課せられているのである」"
(地獄での最も軽い罰について  1巻 P.177-178)

などとでています。

 近い宗教のひとつであるイスラームを見ますと、このように現在のわれわれから見ると峻烈とも見えますが、これは旧約聖書を読んでもこのような峻烈さはいたるところにあります。欧米のキリスト教のドライなところもキリスト教にそのようなものが継承されているためなのでしょう。しかし、これが日本語に訳され、日本流に受け止められた時、とてもマイルドにされ原意から離れてしまっているようにも見えます。

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