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「繋がること」、「狭さを誇れる」

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繋がること
2013/4/2(火) 午後 2:25
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11372814.html

 幼児洗礼については、洗礼による救いを教えるカトリック教会(第二バチカン公会議以降、救いの面では「無名のキリスト者」の考えが加わり、強調されることはなくなった)、英国国教会、ルーテル教会などの西方三教会にて、その根拠の一つとしている教理ですが(各教会において考えに差がある)、幼児洗礼を行なうリフォームドチャーチなどでも、洗礼による救いという教理については否定をしています。また、聖礼典を象徴とみなし、確実に信仰告白した者だけに洗礼を授ける教派などでは、洗礼による救いや幼児洗礼は否定され行なわれていません。今回は幼児洗礼についてではなく、幼児に及ぼす原罪による状態とキリストに繋がることの大切さについて簡単に見てみたいと思います。

 スウェーデンのルーテル国教会のC.O.ロセニウス牧師による著書「60日間日々の黙想」(石橋幸男訳・自費出版 原題“A FAITHFUR GUIDE TO PEACE WITH GOD”)から少し見てみたいと思います。

「60日間日々の黙想‐信仰の確かさへの道‐」 (カール・オルーフ・ロセニウス著 石橋幸雄訳) 記名


" 何故、幼な子らが神の国を受け入れる必要があるのか。何故ならば、彼らは罪深い両親から生まれ、従って罪のうちにはらまれたからである。<見よ、私は不義の中に生れました。私の母は罪のうちに私をみごもりました>(詩編五一・五)。だから、すべての幼な子は神の国の外で生まれたものであって、怒りの子である。彼らは神の子ではない。しかし、神の子でないものは誰一人神の国のものではない。神によって生まれたものでなければ誰一人神の国ではない。なぜなら、神の子は<血すじによらず、肉に欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたもの>(ヨハネ一・一三)だからである。
 幼な子がこの世に生まれたのは、堕罪後のアダムのようなものとしてである。というのは、アダムの子がその成長、発達の時期にアダムのようになったとは何処にも書いていない、<アダムは自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み>(創世記五・三)と書いてあるからである。アダムが罪に堕落した後で、彼の状態はどうだったのだろうか。彼は恐れて、<主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した>。アダムは神のみ前に自分を低くして、正直に自分の罪を告白しようとはしなかった。彼は自分の妻エバに自分の罪の責任を転嫁し、そして、彼女は蛇のせいにした(創世記三章)。
 アダムが堕落した罪人としての自分にかたどって息子を生んだという事実は神のみことばから明らかである。聖書は、わたしたちはみな罪のうちに、すなわち罪深い肉から生まれたことを示している。あらゆる経験も、神のかたちを回復されている信者の両親であっても罪のない子ではなく、罪の子しか生むことができないを豊富に証明している。罪はわたしたちが生まれたとき、わたしたちの本質の中に受肉していたのである。悪い木は悪い実を結んだ後に悪い木になるのではない。それはもともと悪い木だったのである。それは悪い根から生じたものだから悪いのだ。わたしたちは生まれながらにして罪深い。罪は、わたしたちが成人してからわたしたちに入りこんだものではない。わたしたちが罪の種から生まれたから、罪は魂もからだをも汚してしまっているのである。わたしたちがものを考え、話し、そして、悪いことをしはじめたときにわたしたちが罪人になったのではない。わたしたちは生まれながらの罪人である。わたしたちは罪を犯さざるを得ないのである。堕落したアダムが彼の魂に神のかたちの回復を必要としたと全く同様に、アダムのかたちにかたどって生まれたすべての幼な子は、その心に神のかたちを回復させる必要がある。汚れたものは決して神の国に入ることが許されないからである(ヨハネ黙示録二一・二七)。幼な子らだけが神の国を受け入れる準備ができている。
 二、幼な子らだけが神の国を受け入れる準備ができているのであって、幼な子以外のものは誰一人そうではない、ということも主の次のみことばから明らかである。<だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない>。
 ………
 …神の国は幼な子のものであるが、幼な子は幼な子そのものとして神の国のものではない。彼らはアダムにかたどって生まれたのだから神の国の外にある。すなわち、生まれながらに罪深いものである。
 ………
 …キリストご自身にあずかる者でなければ、誰もキリストのあがないにあずかる者とはなれない。…誰一人として、ここでは幼な子であっても、キリストの罪のゆるしと義とによらなければ救われるものがないのである。キリストご自身にあずからない者は誰も救われない。従って幼な子らも、キリストに祝福されるためには、キリストにご自身の義の白い衣を着せてもらうためにはキリストのみもとに来なければならない。…"


 まずは、ロセニウス牧師は当然のことながらキリスト教圏の国の牧師であります。そこでは子供は皆、幼児洗礼を受け、教会の一員として記録されます。周りにいる大人も、信仰の深さには違いがありますが(信仰自体を失って外形的にはクリスチャンという者も当然のこととしていたことでしょう)、皆が洗礼を受けた人たちであります。その人たちに向けて語られたメッセージであると言う前提を覚えておかなければなりません。

 ここではキリストの下に幼な子らを連れてくる必要性について述べられています。そして、キリストに繋がることの大切さが訴えられています。

 そして、主日の礼拝で繰り返される罪の告白文“私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと、ことばと、行いとによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りないあわれみによりたのみます。”との共同懺悔における“生まれながら罪深い”とは何か、では幼子らはどうなのかについて明確に語っています。


******


狭さを誇れる
2013/4/18(木) 午後 5:26
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11444765.html

 まずはJ・G・メイチェンの「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」(いのちのことば社)から見てみましょう。

J・G・メイチェン著 「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」 記名

" キリストの救いの絶対性
 第二に、キリストの死による救いというキリスト教教理は、狭隘であるこということで批判される。それは救いをイエスの名に結びつけるが、世界には、イエスの名を何ら有効な方法で聞いたことのない人々が多数いる。イエスについて聞いたことがある人もない人も、どんな生活環境の中で育てられた人も、すべての人がどこにいようと、本当に必要なことは、みんな救われるような救いではないかと言われる。世界の普遍的要求に応じるものは一つの新しい信条ではない。人人が信じている信条が何であろうと、彼らに正しい生活を営ましめるために効果があるような方法こそ、それに応じるものであると言われるのである。
 この第二の反対論も、第一の場合と同様にしばしば言い換えられている。すなわち、福音を受け入れるということは救いの第一の方法であるが、他の方法もあると言われるのである。しかし、この態度は、キリスト教メッセージの最も明白な特色の一つをすなわち排他性を、放棄することである。キリスト教の最初の観察者が最も驚いたことは、救いがキリスト教の福音によって与えられるということだけでなく、他のすべての救いの方法が断固として拒否されたということである。初代のキリスト教の宣教師たちは、キリストに対する絶対的な排他的な帰依を要求した。このような排他性は、ヘレニズム時代に流布していた宗教混合主義【ルビ:シンクレテイズム】に真向から反対するものであった。その当時、多くの宗教によって多くの救い主たちが人々の注意を引くように提供された。しかも、種々の異教宗教は全く平和的に共存していた。ある人が一つの神の帰依者になっても、彼は他の神々を捨てる必要はなかった。しかし、キリスト教はこれらの「お上品な精神的一夫多妻主義」とは全く無縁であった。キリスト教は、絶対的、排他的帰依を要求した。救いはキリストによって来るというばかりでなく、キリストのみによって来るのである。この小さな言葉「のみ」の中に、すべてのつまずきがある。この語がなかったなら迫害も起こらなかったであろう。当時の教養人たちは、おそらく喜んで、イエスに人類の救い主たちの中の一つの地位、しかも栄誉ある地位を与えたであろう。この排他性ということがなければ、キリスト教のメッセージは、その当時の人々にとって全くつまずきのないものであったろう。このように、現代リベラリズムも、イエスを人類の他の恩人たちの中の一人に加えることによって、現代世界で全くつまずきを与えないものなのである。すべての人がそれを称揚している。それは全くつまずきがないものである。しかし、それは全く無益である。十字架のつまずきは取り除かれたが、同時に、その栄光と力も取り去られてしまった。"
(pp.171-172)

狭き門

マタイによる福音書7章13節
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。

ルカによる福音書13章23,24節
13:23すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。
13:24そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。

使徒行伝4章6~12節
4:6大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。
4:7そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。
4:8その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、
4:9わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、
4:10あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
4:11このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
4:12この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

 キリスト教の門はいつもこの世に対して開かれています。しかし、その門は狭いのです。

 多くの殉教者の血が、この門を1mm足りとも広げる為には流されませんでした。彼らはこの門を守るためにその血を流したのでした。エウセビオスの「教会史」の中から、その殉教がどのようなものであったのかを伝えています。その一つを見てみたいと思います。

エウセビオス「教会史」 記名

" …〔神に〕祝福されたポティヌスは、リヨンの監督の奉仕職を託されていましたが、九〇歳を越えた肉体がとても衰弱しておりました。…知事が彼に「キリスト教徒の神はだれか」と質問すると、彼は答えました。「もしあなたに資格があれば、お分かりになるでしょう」と。そのために彼は容赦なく引きずり廻され、さんざん殴られました。〔その間〕近くにいた者たちは彼の高齢などは顧みず、手や足で乱暴狼藉のかぎりを尽くしました。また、遠くにいた者は、手にしていたものを彼に投げつけました。そしてすべての者が、彼に〔投げつける〕猥雑な言葉を一つでも言い残せば大きな過ちを犯して不敬を働いたことになる、と思い込んでいたからです。彼は辛うじて息をしながらの状態で獄に投げ込まれ、二日後に死にました。……マトゥルスや、サンクトスは、それまで何の苦難も受けなかったかのように、いやむしろ、その格闘相手を多くの対戦ですでに打ち負かしたかのように、闘技場でのあらゆる拷問を再び切り抜け、今や冠そのものをもとめて、その場で受ける鞭打ちの刑を次に耐えました。そして、獣の襲撃の恐怖や、怒り狂った民衆があちこちから投げつける罵声と要求のすべてや、鉄の椅子――その上で身体が焼かれるために煙が彼らを包みました――などに耐え忍びました。しかし、サンクトスからは、〔拷問の〕はじめから言い続けている〔信仰の〕告白以外は何も聞き出せませんでした。… "
(『「教会史」第Ⅴ巻1』のガリアの殉教者達の記述から)

 この門は閉じられることはありません。あらゆる人のために絶えず開かれています。そしてあらゆる人種・文化・思想・過去に関係なく招いています。しかし、この門は狭い道にあり見出し辛く、そして狭いのです。門を通るには唯一つイエス・キリストを信じさえすればよいのです。しかし、門は狭いために余分なものは捨てなければなりません。それは良いものに思えていますが、実はそれは重荷となっていたものなのです。それをキリストを信じてその前に捨てるならなんと楽に通れることでしょう。

狭き門より入る

マタイによる福音書11章28節文語訳
11:28凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。

 キリスト者はこの狭さを、聖徒たちが血を流して教え伝えてくれたこの道を、自分の心の内に感謝と共に誇ることができるでしょう。

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当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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