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「重荷」、「プロテスタントなのに「無名のクリスチャン」受け入れるの?」

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重荷
2012/7/27(金) 午前 4:28
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/9965531.html

 ビクトル・ユゴーの作品の中に「死刑囚最後の日」という作品があります。その中で主人公である死刑囚の発するひと言、『人はみな不定期の猶予つきで死刑に処せられている。』は、よく生者の現実を表しているといえるでしょう。

ビクトル・ユゴー 「死刑囚最後の日」

 五寸釘寅吉こと西川寅吉は、脱獄を繰り返した脱獄王ともいえる人物で、最初に犯した叔父のかたき討ちをしようとして起こした殺人未遂にはじまり、脱獄や脱獄した先で起こしたいろいろな犯罪行為などにより、とても長い刑期を持つことになりました。空知監獄に移送後は、良き看守に巡り合い、模範囚となり刑務所内を自由に移動できるほどとなったそうです。そして、71歳となった寅吉は、高齢を理由として仮出所が認められました。昭和の初めに彼は息子に引き取られ、87歳で静かに息を引き取ったそうです。その彼が残した言葉があります。

西に入る夕日の 影のある内に 罪の重荷を 降ろせ旅人
                 西川寅吉(五寸釘寅吉)雲外居士

西川寅吉(五寸釘寅吉)雲外居士

 私たちはだれしもがやってくる死を目前にしております。その時、自分の内にある人の世の法では裁かれ得ぬ罪の重荷をどのようにして降ろすことができるのでしょうか。

招き

 『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』と言われる方が、まさしく招いておられます。

そのことについてこう語られています。

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。

小さきもの


***


プロテスタントなのに「無名のクリスチャン」受け入れるの?
2012/4/9(月) 午後 7:27
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/9082951.html

カール・ラーナー著「キリスト教とは何か」 記名

 カトリックの現在のカテキズムの中には、イエズス会の司祭カール・ラーナーの唱えたこの包括主義が影響を及ぼしています。それ自体はカトリックの神学上の問題ですから、どうということもないのですが、たまにプロテスタントの信徒の中でこの説を受け入れている人などをネットなどで見かけるようになりました。そういう人を見かけると、エ~っと思ってしまいます。

講演集 第二バチカン公会議と私たちの歩む道 記名

 『講演集 第二バチカン公会議と私たちの歩む道』(サンパウロ刊 1998年発行)の中で、カール・ラーナー氏から教えを受けたカトリックの司祭粕谷甲一神父の「第二バチカン公会議と今」の中で、この無名のクリスチャンという説について短く簡潔に書いておられました。以下に引用したいと思います。

『 匿名のクリスチャン また「匿名のキリスト者」という言葉があります。キリスト教のキの字も知らなくてもその人の生活態度、生活の原理がイエス・キリストの原理にかなっているならば、水の洗礼を受けなくても「望みの洗礼」によって、み言葉を受けている。「匿名のキリスト者」が存在するのです。
 ある中学三年生の少女の作文を読んだことがあります。

 「私が三歳の時、おばあちゃんの家の前で、お母さんがタクシーから私を降ろし、『しばらく待っていて』と言って、そのまま行ってしまいました。小学一年の時に、初めてお母さんから手紙をもらいました……もし、お母さんに新しい子供が出来たら私たちの分も含めて、その子を大切に育ててほしい。二度と同じ過ちを犯すようなことはしないよね」。

 この少女は、クリスチャンではありません。聖書を読んだことがないし教会に行ったこともない。でも、人間的には恨み骨髄に達しているはずのお母さんのことを心配しているのです。お母さんが再婚したら、もう二度と私たちのような苦しみを、生まれてくる子供に味あわせないでね、と訴えている。自分が受けた傷をバネにして、相手を思いやっている。それはキリストの愛ですね。人間の罪を自らに引き受け、すべてを捧げて下さったイエス・キリストの生き方を、この少女はしているわけです。だから、まさにこの少女は「匿名のクリスチャン」と言える、と思います。』

 カトリックには昔から「諸聖人の通功」という考え方があります。キリストを頭として一致しているすべての信徒(以前は当然カトリック教徒)の善業・苦行などのいさおしは、相互に援助し、罪を償い、祈り、恩恵を交換し合うことができるというもので、現在の使徒信経では「聖徒の交わり」と訳文自体は変更されたもののその教義は、今のカテキズムの中にも読めます( わたしはカトリックではないので断言はできませんが )。

福者ラウラ・ビクーニャ

 その通功は福者ラウラ・ビクーニャの母親の償いの代償に、母親が贖われたとする考えの中にも見られるように感じます。ラウラ・ビクーニャの生涯については福者 ラウラ・ビクーニャ(http://maytetherese.easter.ne.jp/chapel/Bl.Laura_Vicuna/lauracontents.htm)などが参考になるでしょう。

アンデスの天使 - 十二歳の福者 - 記名

 カトリックにはこのような考えもありますし、その中からこの「匿名のクリスチャン」という説が生まれたとしても、それはカトリックの神学上の問題と言えるでしょう。当然のことながらカトリックの中の保守層の中には、この説に反対の立場も人もいるようです。カトリック教会の司祭である故ポール・A・ウィッケンス神父は有名なところでしょう。神父の著書「否定されたキリスト」はフマネ・ヴィテ研究会を主催するカトリック司祭成相明人神父のホームページで自身の訳を載せておられます(http://hvri.gouketu.com/wickens.htm)。

Christ Denied

 粕谷甲一神父の講演文を読むと、プロテスタントの信仰義認の考えとは相容れなく、大きく隔だっていて、行為によって義とされ得る、人はその行為によってキリストなしに救いに至れるまた信仰なしにキリストのいさおしを獲得できるというもので、プロテスタントの信仰とは大きく隔だっているといえ、この考えを受け入れるプロテスタントの信徒は、愛や寛容などの表面的なものだけに目が行っているように感じられます。



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