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信仰の勇者たち


 さて、たまに「お気に入り」に入れてあるサイトなんかを整理していたら、何年も前に万人救済についていろいろ検索していたときに見つけ、読んでみたらものすごく違和感と言うか、「こいつ自分で文献確認してないだろ」という記事があり、一応「お気に入り」にとっておいた記事「ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人」がありました。それをもう一度見直してみますと、やっぱり酷いなーと(笑)

 キリスト教を布教していたザビエルに、現地の人たちがキリストの教えを知らない祖先が永遠に救われず地獄で苦しめられることについてザビエルに対して質問をするわけですが、そのやり取りに対して

> ザビエルは困ってしまいまして、本国への手紙に次のように書きました。

>キリスト教の急所(?)を突くような人間はいなかったわけです。

>などと質問され答えに窮していたようです。

>「信じるものは救われる」=「信じない者は地獄行き」
といった、答えを個人の観念のみに帰結させてしまうキリスト教の欺瞞に、当時の日本人は本能的に気づき、ザビエルが答えに窮するような質問をぶつけたのではないでしょうか。

というキリスト教に対して否定的な方向への誘導することを書いていましたが、ザビエルの手紙読んでいないのがよくわかります。リンク貼ってある先のライブドアブログの記事を元に書いたのでしょう。リンク先はもう削除されて見れないので、元記事はこの記事の引用でしかわかりませんが、その元記事もちゃんとした引用でないことから、それもネットサーフィンしてどこからか拾ってきたのかもしれません。

 そういう記事を読んで利用しようと思うときは、自分でもそういう文献を確認してもらいたいと思いました。さてさて、それでは実際はどうであったのか、岩波文庫の「聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡抄」からちょっと長めではありますが見てみましょう。

聖フランシスコ・ザビエル書簡抄 記名


"書簡 第30 (EP.96)
        欧州の会友宛
        コチンにて、1552年1月29日
・・・

18 けれども、信者の数がこんなに増加することは、坊さんにとっては、全く面白くないことであって、特に自分の檀徒の中から信者になった者には、悪口雑言を浴せかけ、その時まで信頼した教を棄てて、何故神の掟に従ふのかと言つて戒めた。それに答へて、信者や要理の研究者達は、神の教が坊さんの宗旨よりも、遥かに理性の法則に適応してゐるが故に、この教に服するのだといふ。それもその筈で、私達は坊さんの質問に対して、皆の満足する解答を與へ得たに引き換え、坊さんは、その宗旨を、理性的に説明することができなかつたのだから。
 日本人はその宗旨の物語の中に、世界の創造を始め、太陽、月、星、天、海、地、その他凡ゆる事物の創造に関する知識が一つもない。日本人には、これ等の凡てには、元始がなかつたのだと思つてゐる。彼らが一番驚いたのは、霊魂にも創造主があるといふ教を聞くことであった。

19 彼らが一般に非常に驚いたのも無理はなかつた。それは彼等の聖人の本の中に、創造主の話などは、全然見当らぬので、万物の創造主などは、ある筈がないと思つてゐたからである。その上、万物に元始があつたとすれば、彼等に宗教を伝へたシナ人が、それに就いて、何も知らない筈が無かつたからである。日本人は、シナ人を師匠として仰いでゐる。これはあながち来世のことに関して許りではなく、政治上のことに関しても、シナ人を先輩だと思つてゐる。兎に角、万物を創造したこの原因について、即ち、その原因は善であるか、悪であるか、又、万物には、それが善い物にしろ悪い物にしろ、皆それらを造つたその原因は、一つであるか、等の沢山の質問があつた。私は、存在してゐる総てのものに、唯一つの原因があることと、また、それは善であつて、悪の陰すらないこととを答へる。

20 彼等は、悪であり人類の敵である悪魔の存在を信じるが故に、創造主のことを認められないと言つた。又、若し神が善なら、そんな悪い者を造る筈がないといふのである。それに対して私達は、神はそれ等を皆善いものとして造つたが、彼等が自分勝手に悪くなつたので、神は彼らを罰した。その罰は永劫に続くと答へた。すると彼等は、神はそれ程に残酷に罰する者であるなら、憐みのない者だ、しかも若し神が、私達の教の如く、人間を造つたことが本当なら、何故こんなに悪い悪魔がゐて、それが人間を誘惑することを許しておくのか。何となれば、私達の教によると、人間が創られたのは、神に奉仕し奉るためであるから。又、神が慈愛の者ならば、人間をこんなに弱く、且つ、罪の傾きを持つた者としては造らないで、悪い傾きのない者として造つた筈だ。又、この原因は、善い原因となることはできない。何故なら、地獄のやうなひどい所を造つたからであり、地獄へ堕ちた人間は、私達の教によると、永遠に其所に居らなければならないのだから、神には憐みが無いといふ。又神が善ならば、こんなに守りにくい十誡にどは、與へなかつた筈だといふ。

21 彼等の本には、地獄に堕ちた人でも、その宗旨の祖師を呼ぶと救はれると書いてあるから、神が地獄に居る人々の救霊をしないのは、頗る不愉快であり、自分らの宗旨は、神の掟よりも遥かに慈悲の教だと主張する。以上の大切な質問に対して、私達は、我等の主なる神の恩寵だけを以て、彼等の満足するほどに答へた。神の憐みの大いなることを示すためには、日本人は、私の見た他の如何なる異教国の国民よりも、理性の聲に従順の民族だ。非常に克己心が強く、議論に長じ、質問は際限がない位に知識欲に富んでゐて、私達の答えに満足すると、それを又他の人々に熱心に伝へて已まない。地球の丸いことは、彼等に識られてゐなかつた。その外、太陽の軌道に就いても知らなかつた。流星のこと、稲妻、雨、雪などに就いても質問が出た。
 かくて私達は、彼等の凡ての質問に十分の答を與へることができたので、彼等は大いに満足して、私達を学者だといふ。そのお陰で、私達の言葉が彼らに深い感銘を與へてゐる。
 日本人は彼らの宗旨の中で、どれが一番優れてゐるかといふことに就いて、絶え間なく議論することが好きである。しかし私達が来てからは、彼等は自分の教に就いての話を已め、神の教のみに就いて論じてゐる。こんな大きな町で、戸毎に神の信仰の話が交はされてゐることなどは、自分で直接見た者でない限り、とうてい信じることができない。又日本人が、どれ程多くの質問を以て、私達に迫って来るかといふことも、全く書き切れない。

22 九つの宗旨の中の一つは、人間の霊魂は動物のやうに滅亡すると説き、この宗旨を信じない人は、愚の骨頂だと考へてゐる。しかし、この宗旨の信者は、一般に悪い人々である。地獄があるといふ話などは、まるで受けつけない。二ヶ月の後に、山口の約五百人の人々が、洗礼を受けた。この時以来、神の恩寵のもとに改宗する者の数が、絶えず増加してきた。彼らは、坊さんとその宗旨の誤謬の話をよくする。若しこの話がなかつたら、私は日本の偶像教に就いて、何も識らなかつたであらう。新しい信者は、全く筆舌の及ばない深い愛を以て、私達に親しんでゐる。彼等は本当の信者であると私は信じて居る。

23 山口の信者は、その洗礼の前に、神の全善に就いての重大な疑問に襲はれた。それは、神は私達が来るまで、決して日本人に啓示をお與へにならなかつたから、全善ではないといふことであつた。又私達の教へてゐるやうに、神を礼拝しない者は、地獄へ堕ちるとすれば、神は祖先に対して無慈悲である。何となれば、神は教について何も識らない祖先が、地獄へ堕ちることを許したからである。

24 これは彼等が神に到る途上に於ける最も困難な障碍であつた。けれども、彼等を真理の認識に導き、このやうな胸臆の疑ひから彼等を解放することが、我等の主なる神の思召に叶つてゐた。私達は、いろいろの証明法を以て、神の掟が第一のものであり、あらゆる秩序の元始であることを、彼等に了解させることができた。日本人と雖も、シナからその宗旨が渡来してこない疾つくの以前から、人を殺したり、盗んだり、詐欺を働いたり、或はその他の神の十誡に背くやうなことは、凡て罪悪であることを識つてゐた筈だ。悪の印として、彼等の胸臆に於て、良心の責を感じてゐた筈だ。何故かと言へば、善を行ひ、悪を避けることは、人間の心に書き記された掟だからである。故に人間は、ただ全世界の創造主のことの外は、誰に教へられなくとも、おのづから神の掟を知つてゐるのである、と私達は彼らに説明した。

・・・

48 日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私達が教へること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救はれないことを、非常に悲しむのである。亡くなつた両親をはじめ、妻子や両親への愛の故に、彼等の悲しんでゐる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或は施與、或は祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだらうかとたづねる。私は助ける方法はないと答へるばかりである。

49 この悲嘆は、頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないやうに、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみの所へ堕ちないやうにと望んでゐるから、彼等の悲嘆については、別に悲しくは思わない。しかし、何故神は地獄の人を救ふことができないか、とか、何故いつまでも地獄にゐなければならないのか、といふやうな質問が出るので、私はそれに彼等の満足の行くまで答へる。彼等は、自分の祖先が救はれないことを知ると、泣くことを已めない。私がこんなに愛してゐる友人達が、手の施しやうのないことに就いて泣いてゐるのを見て、私も悲しくなつて来る。"

(「聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡抄」 岩波文庫 pp.106-111、119-120、岩波文庫は縦書きなので漢数字なのを一部アラビア数字に変えました。漢字は旧漢字を今のものに変えました。)



 地獄や悪の問題、祖先の救いに就いての個所を抜き出してみましたが、「ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人」という記事とは全く異なることがわかります。

 フランシスコ・ザビエルは "私達の答えに満足すると・・・かくて私達は、彼等の凡ての質問に十分の答を與へることができたので、彼等は大いに満足して、私達を学者だといふ。"、 "といふやうな質問が出るので、私はそれに彼等の満足の行くまで答へる。" というように、質問に対して真剣に向き合って、相手が納得するまで丁寧に答えて言ったことが窺えます。

 また、ザビエルがこれらのことに関して、決して信者獲得のためにと、妥協したり、曖昧にしたりせず、教会の教えを広げも狭くもしないで、受けたままをしっかりと伝えようとしていたことがわかります。

 ジョン・グレッサム・メイチェンという長老派の神学者は、著書「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」(聖書図書刊行会)において、サクラメントについてこのように語っています。

メイチェン 「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」 記名

"クリスチャンの交わりの範囲の中で存在し得るもう一つの見解の相違は、礼典の有効性の様式についての見解の相違である。その相違はまことに重大であって、その重要性を否定することは、この論争自体の中で誤った側に立つよりはるかに大きな誤りである。キリスト教界の分裂した状態は悪であるとよく言われる。実際にそうである。しかし、悪は分裂を来たらせる誤謬の存在にあるのであって、誤謬が存在するときに、その誤謬を認識することに存するのではない。ルターとスイス宗教改革者の間てもたれた「マーブルク会議」において、ルターが、主の晩餐に関して、テーブルの上に「これは私のからだである」と書き、そしてツヴィングリとエコランパディウスに向かって、「あなたがたは違った霊を持っている」と言ったのは非常に不幸なことであった。この見解の相違は、教会に、ルター派と改革派の分裂を生ぜしめた。そしてプロテスタントは、このために、これがなければ獲得したであろう多くの地歩を失うに至ったのである。それは非常に大きな不幸であった。しかしその不幸は、主の晩餐に関してルターが誤っていた(と私たちは信じる)という事実によるのである。しかし、彼が聖餐について誤っていながら、この問題をすべてつまらぬ問題だとして片付けてしまったならば、不幸はもっと大きかったであろう。ルターは聖餐に関して誤っていた。けれどもそれは、彼が誤っていながら、その論敵に向かって、「兄弟たちよ、この問題はつまらないことである。人が、主の食卓についてどう考えようと、実際には大した差はない」と言うよりも、はるかにましであった。このような無関心な態度は、あらゆる教派的分裂よりも、はるかに致命的であったろう。聖餐論で妥協するようなルターは、ウォルムスの国会で、「私はここに立つ。私は他に何もすることができない。神よ、私を助けたまえ。アーメン」とは決して言い得なかったであろう。教理についての無関心主義は、信仰の英雄をつくらないのである。"
(pp.72-73)

 これは聖餐についてですが、他の教理についても同様のことが言えるでしょう。

"この問題をすべてつまらぬ問題だとして片付けてしまったならば、不幸はもっと大きかったであろう。"

"無関心な態度は、あらゆる教派的分裂よりも、はるかに致命的であったろう。"

 まさしくザビエルも、このような問題はつまらぬことだといって妥協したりはしませんでした。彼もまた信仰の英雄らしく、真摯に向き合い、人情などから妥協したりはしませんでした。相手が理解し納得するまで、弛まず答えて言ったのでしょう。その結実が、この山口に於いて5600人もの受洗者を出したことからも窺えます。



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