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改訂式文の感想


 さて、日本福音ルーテル教会と日本ルーテル教団の共通式文の改訂版が出版されました。このことは「機関紙るうてる」の2019年3月号に

"改訂礼拝式文が発行 されました
2016年総会においてテキストが、そして2018年総会において典礼音楽が承認され、これまでの礼拝式文に加えて、各教会の主日礼拝などで使用できる改訂礼拝式文が発行されました。2月には各教会へ配布しました。ぜひ、新たな選択肢として提供された式文を使用してみていただきたいと思います。
 今後、必要な修正を加え、主日礼拝以外の諸式の式文と合わせ、2026年には現行の最新の式文集である「青式文」(1996年)以来の新たな式文として出版の運びとなります。折しも、日本聖書協会共同訳『聖書』の出版と重なりました。新たな翻訳の聖書からも刺激を受けて、礼拝のために吟味されることを期待しています。
 日本聖書協会共同訳『聖書』は朗読されるみ言葉ということにも一層の配慮がなされたものです。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10・17)とのパウロの言葉にもあるように、文字を読むことによって言葉が味わわれる以前より、み言葉は空気の振動とそれによって響く声として届けられるものでもあります。そこから、朗読により適した言葉や文節が選択されることには大きな意味があるでしょう。
 同時に現代社会においてその重要性が叫ばれる多様なあり方を尊重する姿勢(ダイバーシティ)を教会内においても推進するために、長く当たり前のように用いられてきた言葉を、例えばそこに差別や排他的な感覚が含まれていないかを点検し、そうではない言葉に置き換えるなどの作業が必要であると思います。そのような立場から、目で読むことに偏重せず、聞くことや聞かれることへの意識を高めていくことも大切なことであると思いますから、新たな翻訳の活用は伝道的な側面も持つと言えます。
 これらは礼拝式文にもそのまま当てはまります。言葉の変化や神学的な研究の成果を反映させるべく、継続的に礼拝式文を見直していく必要がありますが、2007年にアンケートを実施し、具体的に改訂式文作成へと歩みだすきっかけとなったのは、式文の中で用いられている「生まれながら罪深くけがれに満ち」という言葉への問いでした。それは原罪を表現すると共に日本の歴史的かつ具体的な状況下における差別的な表現ともなるのではないかとの問いかけが、式文を生きたものとして用いていくために大切なものでした。
 また改訂式文の作成中には、国民という言葉について、国境線で区切られた従来の国家を想定しているのであれば、難民を始めとする世界の課題と現実から目を背けることになるのではないかとの指摘を受けました。委員会にとってそれは大切な気づきを得ることとなり、「諸国民」としている言葉について、検討を続けています。
 つまり、30年ほどの時間は一つの目安にしつつも、より重要なことは、30年を経過するならば、自分たちの用いている言葉そのものを点検、評価し、修正すべきは修正するということです。変化は私たちの姿勢を問い、動かすものであり、容易なことではありません。しかし、教会は世に存在し、世に福音を伝えていく使命を与えられているのですから、自身の正しさを疑わないということではなく、世に語る神に聞く群れとして、ふさわしく整えられていきたいと思います。
 さて、改訂式文として用意されたものは4種類です。テキストは共通であり、洗礼という恵みを思い起こすこと、ヌンク・ディミティス(シメオンの賛歌)を聖餐への応答と位置づけたこと、献げものを聖餐と切り離し派遣の意味を強めたことなど、いくつかの特徴があります。
 典礼音楽は、3つの新曲と「青式文」の礼拝式Aの音楽を編曲したものを含め、ルーテル教会に連なる4人の作曲家が作成ました。それぞれに個性を持った音楽を楽しみながら、礼拝を形作っていただければと思います。なお、各教会の礼拝のテンポなどに合わせて、音源データを作成することも可能です。楽器がなくともスマートフォンやパソコンなどで演奏が可能です。それぞれの状況に合わせて用いていただければと思います。"

とある通りです。その本文は昨日アップした記事「日本福音ルーテル教会・日本ルーテル教団 「式文」(2019年2月1日発行)」に本文の全文をアップしました。

 一言で言ったら、「酷い」に尽きるでしょう。改訂した人たちは、神をないがしろにし、権威主義で、カトリックにすり寄り、日本語がそもそもできないで、人間中心主義、さらに左翼で多文化共生の活動家といった人たちとの印象を受ける改訂文でした。

 改訂試案第一版(最終版)2014.3.4と同じく、[告白]の部分から原罪条項「私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、」は削除になったままです。そして、「思いと言葉、行いと怠り、また無関心によって、」と「思いと、言葉と、行いと、怠り、また無関心によって」と読点を打つのではなく、「思いと言葉」、「行いと怠り」、「無関心」とブロック分けすることにより、政治的意味合いにも利用できる形になっています。(二)を見ますと、これらは「心を尽くして・・・隣人を自分のように愛しませんでした」ということが、これ等に該当するということですから穿った見方をすれば、隣人のために社会、貧困、環境問題、差別、原発、戦争や軍事、基地問題などに「無関心」であることは罪であり、又何もしないことは「怠り」だと言いたいのだと、改訂者の本心がそこにあるのだと見える感じがします。まあ、残念なことにルーテルの牧師には、左翼活動家色の強い人はよく見かけます。個人としてそういう思想信条を持つことは自由ですし、プライベートでそういう活動をすることも自由ですが、こと教会に対してはそういうものは持ち込んでもらいたくはありません。

 [赦し]の

司) 神は、御子イエス・キリストの十字架によって、私たちを赦し、洗礼の約束により、新たに生まれさせ、永遠の命へと導いてくださいます。

は祈りの言葉ではありません。これは「くださいます」ですから宣言の言葉です。


[グロリア]はまた一段と酷い文章です。

司) いと高きところには栄光、かみに。
全) 地には平和、み心にかなうひとびとに。
   主をあがめ、主をあおぎ、主をおがみ、主をたたえます。
   主なる神、天の王、全能のちち。あなたの栄光にかんしゃします。
   主なる神、神の小羊、父のひとり子、主イエス・キリスト。
   世の罪を取り除く主。わたしたちをあわれみ、いのりを聞いてくだ
   さい。
   父の右におられる主。わたしたちをあわれんでください。
   あなただけが聖なる主、いとたかきイエス・キリスト
   あなたは聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。
   アーメン。

間投助詞 「○○よ」 が使われていないためギリシャ語で言うなら呼格の文になっていません。それに加えて句点が打たれているので、前段と後段が分断されています。

「主なる神、天の王、全能のちち」 ここで句点「。」が打たれているので文章が終わり、「あなたの栄光にかんしゃします。」と二つの短い文章が並記されているだけです。しかし、これが「全能のちちよ、あなたの栄光に・・」と間投助詞を入れて、句点ではなく読点に変えるなら明確に父なる神に呼びかけていますし、祈りや讃美の文言になります。

奉献の部は完全に削除となり、残念ながら奉献唱も当然のことながら無くなっています。

[教会の祈り]の

# 司式者または他の祈祷者はその日に必要な祈りを祈る。
  教会、福音宣教、平和と正義、貧困、抑圧、孤独、
  癒し、和解、その日の特別な事柄等

司) ・・・各項目の祈りの最後を「キリストのみ名により」で結ぶ
衆) 「主よ聞いてください」または「主よあわれんでください」で応答
   する
司) キリストのみ名により
衆) 主よ、聞いてください。
司) キリストのみ名により
衆) 主よ、あわれんでください。

これは書き方がオカシイんだろうなぁ。以下のように

# 司式者または他の祈祷者はその日に必要な祈りを祈る。
  教会、福音宣教、平和と正義、貧困、抑圧、孤独、
  癒し、和解、その日の特別な事柄等

司) ・・・各項目の祈りの最後を「キリストのみ名により」で結ぶ
衆) 「主よ聞いてください」または「主よあわれんでください」で応答
   する
司) ・・・キリストのみ名により
衆) 主よ、聞いてください。
司) ・・・キリストのみ名により
衆) 主よ、あわれんでください。

と「・・・」を「キリストのみ名により」をした二つの司式者の言葉に配置していないから、一見すると意味不明のやり取りに見える。

そして、サルタティオ(挨拶)が司式者と会衆で交わされるわけですが、この改訂では

[平和の挨拶]
司) 主の平和がみなさんと共にありますように。
衆) またあなたと共に。
司) 互いに平和の挨拶を交わしましょう。
        (*「主の平和」 と言いながら挨拶を交わす。)

と、司式者と会衆だけではなく、なんとも偽善的でうざったい会衆間の挨拶「行為」を強要するわけです。偽善的に笑顔を貼り付けて挨拶し合う姿には背筋が寒くなります。

「その日の序詞」の文言も違和感があります。

司) 聖なる主、全能の父、永遠の神様。
    いつどこででも・・・
    あなたに感謝するのは、正しい務めであり、また私たちの喜び
    です。

改訂前の「その日の序詞」は「礼拝式通常文およびその取扱い」という冊子本に出ていますが、今までですと「いつどこででも、あなたに(私たちの主イエス・キリストにより)感謝するのは当然であり、また、ふさわしいことです。」というものがよく使われていますが、これですと問題もないのですが、改訂文ですと、神への感謝が「正しい務めであり」と、職責になってしまっています。

 主の祈りは、なぜか(一)も(二)もよその団体の訳文です。聖壇の交換や合同礼拝でもやらない限り、よその団体がルーテルの式文で礼拝などしないのだから自分たちの訳を使うか、公式採用している日本語訳聖書(新共同訳や聖書協会共同訳)の主の祈りを使えよと思います。

 [アグヌス デイ]も[グロリア]同様、間投助詞が使われていないので呼びかけになっていません。

世の罪を取り除く神の子羊 あわれんでください。
世の罪を取り除く神の子羊 あわれんでください。
世の罪を取り除く神の子羊 平和をお与えください。アーメン。

 聖餐の「設定」は第八次式文の(一)だけが採用になっていて、「ベルバ」(みことば)のみとなっています。このベルバのみの形がよく使われているためなのでしょう。しかし、使われなくとも式文の中に(二)や(三)としてアナムネーシス(記念)やエピクレーシス(聖霊祈願)の文言のある設定辞が残されていれば、聖餐や礼拝史理解の助けにもなります。使わないから「はい」削除では味気も素っ気もありません。

 聖餐の感謝の歌
 司) 主に感謝しよう。主は恵み深く。 衆) そのいつくしみは とこしえに絶えることがない。

が無くなったのは、なんかしまりが悪いと言うか、会衆の主の恵みへの感謝応答の表現の場が奪われた感じがします。


 ヌンクディミティスも文言変わってるし、献金は味気もそっけもない単なる集金に成り下がっている。

最後の派遣は、こりゃあまたまたひどいね。

[派遣の祈り]
司) 世界の創り主、全能の神様。
   イエス・キリストにより、私たちを一つの体として結び合わせてく
   ださり、感謝いたします。
   私たちを希望と忍耐と勇気で満たし、隣人を愛することができる
   ようにしてください。今捧げられたものがあなたを証し、世界の
   人々に届けられますように。痛み悲しむ人々の隣人として、私た
   ちを聖霊によって送り出してください。主イエス・キリストのみ名に
   よって祈ります。
衆) アーメン。

 これは前にも書きましたが、「今捧げられたものがあなたを証し」、なんだそりゃ!! 献金が多ければ神への証も大きくなるということか。そして、「世界の人々に届けられますように。」って、席上で献げられた献金を「世界の人々に届け」るとしか読めないよね。おそらくは「今捧げられたものによって、あなたが証され、世界の人々へ届けられ」と言いたいのではないかと推測はするが、文言を読む限り、献金が神を証し、その献金を世界に届けるとしか読めない悪文。

[派遣の言葉]は今までのものと違い、リ・クリエイションして強められ、この世の平常の日々に背中を押して送りだしてもらえていたものが、何かをしろ、しろと急かされるように無理矢理押し出される感じがします。

(一)
司) 行きましょう。主の平和のうちに。
   仕えましょう。主と隣人に。
衆) (アーメン)私たちは行きます。
   神の助けによって。

(二)
司) 行きましょう。主の平和のうちに。
   仕えましょう。主と隣人に。
衆) 私たちは分かち合います。恵みを。
   伝えます。福音を。

 そして、なんか左翼のスローガンみたいでもあります。

 握りこぶしと赤い本を持った手を掲げて行進する労働者を扇動する政治指導官が、労働者たちに奉仕を迫っていることばにも聞こえます。

赤い改訂式文

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No title

メロディーも変わってしまうのでしょうか。
グロリアやヌンク・ディミティスの唱和は好きで
FEBCで聴いたあれが、キリスト教の礼拝スタイルとして
わたしは惹きつけられた感じがあります。

「主の平和」というのはカトリック教会のミサに
あるので、わたしはたまに行くので時々会う人には
そんな挨拶も違和感なくできますけれど。
福音派の教会行くと、隣のかたと握手しましょうというのも
ありますしね。

Re: 一匹狼のまーくん さんへ

> メロディーも変わってしまうのでしょうか。
> グロリアやヌンク・ディミティスの唱和は好きで
> FEBCで聴いたあれが、キリスト教の礼拝スタイルとして
> わたしは惹きつけられた感じがあります。

現行式文はA・B・Cと三つの旋律がありますが、おそらく一匹狼のまーくんさんが聞かれたことのあるのは、伝統的旋律であるAの旋律だと思います。

新しい式文は、四つの旋律があり、伝統的なAの旋律は残っています(編曲はされています)。


> 「主の平和」というのはカトリック教会のミサに
> あるので、わたしはたまに行くので時々会う人には
> そんな挨拶も違和感なくできますけれど。
> 福音派の教会行くと、隣のかたと握手しましょうというのも
> ありますしね。


カトリックも今の第二バチカン公会議によって典礼改革をして、それが違和感なくなるにはそれなりに時間も必要だったでしょうね。もちろんピオ十世会などのように、それを断固拒否してラテン語のトリエント・ミサを守る人たちも一定数いるわけで、みんなが一様に受け入れているわけでもないでしょうね。

エバンジェリストはアメリカから入ってきたものですから、そういう風習がそのままで創立されたりしていますから、長い伝統を変えて入れるのとは別な話ですね。

プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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