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モルモンに対して

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権威を求めることから
2014/11/4(火) 午前 11:14にYahoo!ブログにアップ記事


 モルモン教を見て行くとエホバの証人と同じ、既存の正統的キリスト教に対する見方があります。

 ものみの塔協会の「神を探求する人類の歩み」(pp.257-260)という書籍にはこうあります。

“ 10章 キリスト教―イエスは神に通ずる道でしたか
背教と迫害は予期されていた
36 イエスの死と復活の後,間もなく,それら初期クリスチャンの宣べ伝える業に力とはずみを加えるものとなった,もう一つの奇跡が起きました。西暦33年のペンテコステの日に,神はエルサレムで集まっていたおよそ120人のクリスチャンにご自分の聖霊,つまり活動する力を天から注がれました。その結果ですか。「そして,さながら火のような舌が彼らに見えるようになってあちらこちらに配られ,彼ら各々の上に一つずつとどまり,彼らはみな聖霊に満たされ,霊が語らせるままに異なった国語で話し始めた」のです。(使徒 2:3,4)その時,エルサレムにいた,外国語を話すユダヤ人は,それら無知な人々とされていたガリラヤのユダヤ人が外国の言葉で話すのを聞いて驚嘆しました。その結果,多くの人々が信じました。それらユダヤ人の新たな信者が故郷に戻るにつれて,キリスト教の音信は野火のように広まりました。―使徒 2:5‐21。
37 しかし,ほどなく不穏な形勢が現われました。ローマ人は一見無神論のように思える,偶像のない,この新たな宗教を恐れるようになりました。皇帝ネロを皮切りに,歴代の皇帝は西暦初頭の3世紀の間,クリスチャンに恐ろしい迫害を加えました。 囚人が野獣に投げ与えられるのを見ようと群がる,血に飢えた暴徒や皇帝の欲望を満足させるため,多くのクリスチャンは大円形演技場で死ぬ定めに追いやられました。
38 初期の当時のもう一つの憂慮すべき要素は,使徒たちが預言していた事柄でした。例えば,ペテロはこう述べました。「しかしながら,民の間には偽預言者も現われました。あなた方の間に偽教師が現われるのもそれと同じです。実にこれらの人々は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった所有者のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらすのです」。(ペテロ第二 2:1‐3)背教です! それは真の崇拝からの離脱,つまりギリシャの哲学や思想の浸透した当時のローマ世界の宗教的な傾向と妥協することでした。それはどのようにして生じましたか。この疑問やこれに関連した種々の疑問に対する答えは次の章で考慮されます。―使徒 20:30。テモテ第二 2:16‐18。テサロニケ第二 2:3。”

 そして、モルモン教と呼ばれる末日聖徒イエス・キリスト教会では、「イエス・キリストの福音の回復」 のpp.8-9において

“大背教

イエス・キリストの死後,多くの教会員が邪悪な人々に迫害され,殺されました。また,イエス・キリストや使徒が
教えた原則から徐々に離れていく教会員もいました。使徒は殺され,神権の権能と,教会を導いたり教会のために啓示を受けたりする鍵は,地上から取り去られました。教会が神権の権能によって導かれなくなってしまったため,教会の中に間違った教えが入り込んできました。もちろん良い人もいましたし,多くの真理も残っていました。しかし,イエス・キリストが教えられたままの福音はなくなってしまいました。この時代のことを「大背教の時代」と呼んでいます。

マルチン・ルターやジョン・カルビンといった人たちは,霊感を受け,習わしや教義が変えられたり,なくなったりし
ていることを認識していました。こうした人たちは自分の所属する教会を改革しようと努力しました。しかし,神権の権能がなかったので,キリストの福音を元の形に戻すことはできませんでした。回復が必要だったのです。” 

 と述べて、これも使徒がいなくなった後のキリスト教会が背教して行ったとすると共に、神の権能と預言者を失ったという考えを示しています。

 その背教により失われたものをジョセフ・スミスJrによって回復されたとするのが、モルモンの特徴でもあります。同書の続きにはこうあります(p12)。

“神権の回復

1829年にジョセフ・スミスは,イエス・キリストが使徒にお授けになったのと同じ神権の権能を授かりました。新約聖書に登場するバプテスマのヨハネがジョセフ・スミスを訪れ,アロン神権(小神権)を授けました。このバプテスマのヨハネは,イエス・キリストにバプテスマを施した人です。
それからペテロ,ヤコブ,ヨハネの3人がジョセフ・スミスを訪れ,メルキゼデク神権(大神権)を授けました。このペテロ,ヤコブ,ヨハネは,イエス・キリストが最初に使徒にお選びになった中の3人です。

ジョセフ・スミスは神権の権能を授けられて,地上に再びイエス・キリストの教会を設立するように指示を受けま
す。イエス・キリストはこのジョセフ・スミスを通じて,再び十二使徒を召されました。

復活した後,イエス・キリストは啓示によって使徒たちを導かれました。ちょうどそれと同じように,今でもイエス・キリストは,生ける預言者と使徒を通じて教会を導いておられます。末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長は,神が今日選ばれた預言者です。大管長,副管長,十二使徒は,あらゆる時代の預言者や使徒が持っていたのと同じ神権の権能を持っています。この人たちは預言者,聖見者,啓示者と呼ばれています。”

 モルモンの「主の導き 1」というビデオに「大いなる富」という話が収録されていますが、その中でパーリー・パーカー・プラットの入信に至る物語が出ていますが、彼はオハイオ州クリーブランドに土地を購入してそこに定住していました。やがてバプテスト派のキャンベル派(ディサンプル・オブ・クライスト派)に加入しました。プラットは加入後自分も説教者になりたいと思い立ち、苦労して開墾し豊かになった果樹園と農園、そして自宅を含む土地財産すべてを売り払うことを決心します。そして訪ねてきた兄とこのような会話をしていました。

兄:たいしたもんだ。前に来たときは荒地だった。見事だ!!
パ:手放すのは辛いよ。
兄:手放す?
パ:ここ数ヶ月―みたまが強くささやく、聖書の予言が成就するきざしかもしれない。
時間を捧げて皆に宣べ伝え、主の来臨に備えさせたい。
兄:牧師になって?
パ:ちがうよ。世の牧師にはそんな権能はない。神聖な力は地上に残ってないと思う。神から与えられずにその権能はもてない。
兄:もし僕に、50エーカーの土地といい家、果樹園、美しい庭があれば、残って楽しむがね。
パ:主の為に家や土地を捨てる者はその百倍を受け、永遠に至る主の言葉だよ。
兄:聖書は信じてるさ。文学と違う。
パ:全てを捨てて主の業に働くよう召されてる気がする。主の約束を信じたい。
兄:見込みちがいだったら?
パ:僕が無事だったら本当だってことさ。
兄:頑張れよ。

 このモルモンの宣伝で使われるビデオのやり取りの中で見えてくるのが、19世紀アメリカのキリスト教事情でしょう。非国教会であるピューリタンたち、その教会政治から会衆派とか組合派などとも呼ばれたりしていますが、長老派(英国のカルヴァン主義)、バプテスト派などがその代表的な教派です。また国教会から分離したウェスレアン・アルミニウス主義であるメソジスト派やその亜流などがピューリタンと共に大きな勢力としてあります。

 これらの教派は悪い言葉で言えば、リベラルかファンダメンタリストかの両極端。教会としての固定信条や神学がなく(あってもとても緩やかな拘束力)個人の解釈が尊重される。教会政治においても衆愚政治的で決められない体質。もちろん伝統や権威・権能というものは教会には存在しない(あったとしてもとても小さく弱い)会衆制から来る平等主義と個人主義。こういったものがモルモンの「神権の回復」というものを求める土壌と権威的な宗教創世の要因となったのでしょう。ものみの塔の「神権政治」といわれる中央集権的統治のあり方もそのラインから生れたのかもしれません。

 もしこれらの異端の教祖たちの暮らした地域などで、カトリックや聖公会(ハイ・チャーチ系)、ルーテル派や大陸のカルヴァン主義の改革派などが優勢な地域であったのなら、このような形では生れづらかったかもしれません。しかし、ものみの塔がカルヴァン主義(長老派)の二重予定説や審判の強調への反発から生れた面もありますし、権威主義があればそれへの反発という形のものが生み出されたかもしれません。あとプラットの改宗譚から主の来臨の近さという考えとカルヴァン主義により否定された奇蹟や預言への希求というものもあるのでしょう。

 異端やカルトを生み出すのは教会という大地であり、眼の届かないことや、また言葉にならない人々の声が、扇動者(悪意ある者もあれば善意によるものもある)によって煽られて火は大きく育って、やがて力となり権威となって行き、さらに周りを惹きつけて行くのでしょう。


******


偽りの書 ⑤
2012/7/6(金) 午前 0:27にYahoo!ブログにアップ記事

 モルモン教やモルモン教の聖典などを見て行くと、カリスマ宗教の危険性が見えてきます。これらの人々にとって、歴史的実証性も、学問的アプローチというものも何もないということです。真実であるかどうかはカリスマによって解るとする、究極的な無知性主義といえるのかもしれません。

 ジョセフ・スミス・ジュニアという詐欺師を預言者と信じた人たちにとって、事実や実証などというものは何の意味もないのでしょう。

 彼らの聖典に対する態度は、原文に何が書かれていても、そういったことには何も意味はなく、聖霊の導きによって訳されたということが重要であるということです。極端な話、梵語で書かれたお経を英語に霊感をもって預言者と称する者が訳した時、それが原文と全く違った内容であっても何も問題はなく、神が預言者を通して与えた訳文こそが真実であり、事実と言い張っているようなものです。

アブラハムの書 挿絵一の原図と学術的復元図

 エジプトの葬祭文書である「死者の書」は、まったく内容の違う「アブラハムの書」となり、モルモン書の最後に付された(英文初版)「三人の証人の証し」、「八人の証人の証し」のモルモン書の書かれていたとする金版を見たとする証人の多く、スミス一家と一部の人を除いてほとんどがモルモン教会を去っても、考古学上の発見など無くても、モルモン書の内容が歴史的にどれだけ矛盾していても、このカリスマ宗教にとっては意味のないことなのでしょう。

**「偽りの書 ⑤」へのコメントとレス**

コメント(13)

アタナシウスさんは、モルモンにいたことがあったんでしたっけ・・・・?
前に書いていたような記憶があるのですが、記憶違いでしたら、すいません。
[ Kazuya ] 2012/7/6(金) 午後 6:55 返信する

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>Kazuyaさん

はい、かなり昔ですけれど、いたことがありました。
2012/7/6(金) 午後 7:53 返信する

*

僕は84年の7月から86年の4月まで、英会話目的ではありましたが、藻岩ワードに通ってましたね。
日曜日は5回ぐらいしか行きませんでしたが・・・・。
あの頃は「モルモン書」ではなく、「モルモン経」で、文語なので全く分かりませんでしたね。(笑)
[ Kazuya ] 2012/7/7(土) 午前 9:07 返信する

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>Kazuyaさん

そうですね。昔の佐藤龍猪訳の「モルモン經」は文語調でとても読み辛いものでしたね。笑

モルモンになる前に、当時、大通りにあったモルモンのインスティチュートで行われていた英会話に通ったこともありましたが、ちゃんとした英会話教室とは違いあまり役立ちはしませんでしたね。笑
2012/7/7(土) 午前 9:13 返信する

*

モルモン経の話が創作だとすると、その話を創作した方がジョセフ・スミスとなりますよね。
その話を創作するためには、全ての神学を極める程学び、更にたぐい稀なる想像力を持ち合わせないと書けないのではありませんか???
果たして、彼はいつ学んだと言うのでしょうか。
モーセが記した律法の書も参考文献ではなく、記すための経緯、物語から書き進めています。モルモン経も同じですよね。このようなものはおかしいと言うのならば、《旧約聖書も偽書》となりますよ。・・・・旧約聖書が偽ならば、それを成就したイエス・キリストも偽となりますよね。すると、あなた方の存在そのものが偽となってきますよ。
どうして、モーセの書とモルモン経、なぜ片方が正しくてもう片方が間違いなのでしょうか。誰が、どういう経緯で、真偽を判定する権威を受けたのでしょうか。
所詮、天から受けなければ誰もこのようなものを書くことは出来ないのです。
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 0:34 返信する

*

確かに、彼が翻訳したと言う原書はないでしょう。しかし、彼自身がこの壮大な物語を作り出す様な力を持っていなかったことも事実なのです。十戒の原版がないから、モーセの話は嘘、律法は彼の創作に過ぎないと言っているのと同じです。
聖書を学んだ人は星の数ほどいます。でも、みな聖書の中を迷っている。聖書から抜け出して別の書を書ける文学者は誰もいません。このような力、そのものが人知の及ばないものといえるのではありませんか。
つまり、あなたがおっしゃる理由では、モルモン経を偽書とすることは出来ません。
では、書かれている内容が聖書の主題と違反するのか・・・と言う話となりますが、完全な違反と言えるような箇所は見当たりません。ところどころ、そのような箇所もあるようですが、聖書側が間違っているのか、モルモン側が間違っているのか・・・・・
さて、こうなると、実際にキリスト教徒とモルモン教徒の行動で比較していく以外にはありません。
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 0:35 返信する

*

キリスト教プロテスタントは、アメリカ大陸で原住民の九割近くを虐殺して、彼らの全てを略奪しましたよね。
この9割と言う数字はアウシュビッツに収容されたユダヤ人並みの虐殺率なのです。
では、モルモン教徒は、このような大虐殺事件を起こしているでしょうか。
起こしてはいませんよね。
どうして、このような事件を連続して起こしてきた宗教が、何も起こしていない別のものを危険思想と呼ぶことが出来るのでしょうか。
別のものを批判するならば、自分自身の内にあるその批判されるものと同質のものを自分自身で悔い改めるのが先であり、それを放置したならば、相手の状態が悪くなるのが見えたときに、その予測と道理を語り伝えるべきではないでしょうか。
例えばエホバの証人と言う宗教は、そこに属する人々が極度の精神疾患に陥るようになります。これがわかるから、間違いと語るのです。
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 0:36 返信する

*

たとえば、一般的なプロテスタントは、自分を善とするために悪なる存在を求めます。自らをその悪との対比で善とするのです。その悪としたものには、情け容赦なく虐殺略奪をも繰り返すのです。・・・・では、彼らだけとなったのならば・・・・彼ら自身がいくつもの派に分かれて、相手に対する攻撃を繰り返すようになるのです。
あなたが、他の教えを批判するのも、その批判する相手との比較により自分を善としたいと言う心理が働いているのです。
この心理には、相手に対する思いやりも愛もない。
《汝の敵を愛せよ》
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 0:36 返信する

*

>万軍の主ヤハウェ(ペテロ)さん

ジョセフはイーサン・スミス牧師の書いた「View of the Hebrews」(1825年)を元に書いたと言われていますね。それを種本にして想像力は使ったかもしれませんね。

モーセはモーセ五書を翻訳したとはしていませんね。旧約聖書のそれぞれの筆者達も、ジョセフ・スミスのようなことを言っている人はだれもいません。

まず本文の正しさや霊感の書の正典性は、人の行動によって判断する類のものではありませんね。

一般的なプロテスタント、プロテスタントはカトリックに対比して言われるもので、一つの組織でも、一つの教義でもありませんね。また、過去から現在、今もクリスチャンと呼ばれる人による犯罪行為は続いていますが、それが聖書やイエスの教えの正しさと関連付けようと言うのは全くの筋違いですね。

モルモンのジョセフスミスが殺される前に、銃で反撃して人を殺していることや、1857年のマウンテン・メドウの大虐殺事件や一夫多妻の禁止に反対して、合衆国政府と戦争まで起こしたことなど、人間のやることには負の歴史は付きまとうものです。
2013/4/7(日) 午後 1:06 返信する

*

人によって、判断すべきものではないものを、どうして偽りの書と決め付けていらっしゃるのか・・・・が一番の問題だと思います。
モルモン経の通りに、
インディアンの先祖の許にイエス・キリストが来て教えを広めたのならば、彼らは本来、キリスト教徒となります。
異教徒として大虐殺を行った相手が、実はクリスチャンだった・・・・では、自分たちの虐殺・略奪の行動の正当性がなくなってしまいます。だから、間違いとする以外にはない・・・のが、本音ですよね。
確かに、彼らにも多少の負の部分があるでしょう。でも、モーセも人殺しをしている。彼が人殺しをしたから信じるべきではないと言うのならば、聖書は信じるべきではないといっているのと同じとなります。どうして、あなた方は自分たちに敵対する者の負の行動をこと細かに責めるのですか。これは、あなたの心にどういう心理が働いているからなのでしょうか。
彼らに、あなた方が行ってきた様な大虐殺を行う恐れがあるのでしょうか。それとも、彼ら自身が精神を病み、殺し合いをし始めるでしょうか。
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 3:18 返信する

*

違いますよね。彼らの言い分が正しいならば、あなた方が反省をしなくてはならなくなるだけです。
誤った行動を犯した人々に反省するようにと、預言者は遣わされているのではありませんか。これは、過去の話と同じです。
善悪二元論で考えるのは、
プロテスタントもカトリックも同じです。自分を善側に置こうとして、悪なるものを他に求める。悪なるものが存在するから、かろうじて自分を善だとできる。そのために理屈をこね、相手の僅かな悪を、いかにも大悪のように宣伝する。
・・・・そして、気が付けば、悪としか言いようがない行動に落ち込んで行くのです。
カトリックもプロテスタントも、この循環の中にあって、そこから出たくても出ることができない。
なぜ・・・・自分たちが絶対に正しいと思うから・・・
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 3:19 返信する

*

真の正しさとは、
《自分が間違えたら反省する》《自分が犯した罪の罰を自分で受ける》のが正しいのであり、《反省せよ》と遣わされた者を、《悪として排除する》姿勢には、正しさはありません。
あなた自身、どうして、いろいろな宗教を批判しているのかがお分かりになっていない。
《批判することにより、相手を少しでも良くしよう》
と思っているのならば、これは愛。
でも、《自分を正しい》とするために、相手を悪とするならば、これは醜悪。
行動は同じであっても、あなたの心のあり方によって、正邪は分かれるのです。
見た目は、両者とも同じ。でも、そこには天地の隔たりがある。
[ 万軍の主ヤハウェ ] 2013/4/7(日) 午後 3:20 返信する

*

>万軍の主ヤハウェ(ペトロ)さん

モルモンの教えやモルモン教会の教えは、そのかなめ石とする「モルモン書」にかかっています。モルモン教会の独自の教えの部分は、モルモン教会が聖典と称する文書や過去の預言者と称する指導者の発言に拠っています。それと聖書の中に示された神、救い、そのほか諸々のものには、共通するものは見出せません。

では聖書に矛盾するものを、神の啓示と称して教える者は偽りの預言者にほかなりません。そしてその聖書とは離れた文書や発言は、偽りの啓示です。また、アブラハムの書のようにまるきっりのでっちあげなど、独自の教えを構成するモルモンの「聖典」は偽りの書でなくてなんでしょうか。偽りを教えたジョセフ・スミスの生涯も、偽預言者らしいものだったと言うだけです。
2013/4/7(日) 午後 3:34


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なぜ書くのか
2013/4/10(水) 午後 3:19にYahoo!ブログにアップ記事

 つい先だって、モルモンの聖典や預言者と自称したジョセフ・スミス・ジュニアとその後継自称預言者についての記事に、まとまりの無いコメントがありました。以下に引用し、行間にそれらに対しての所感などを書きたいと思います。

“ モルモン経の話が創作だとすると、その話を創作した方がジョセフ・スミスとなりますよね。
 その話を創作するためには、全ての神学を極める程学び、更にたぐい稀なる想像力を持ち合わせないと書けないのではありませんか???
 果たして、彼はいつ学んだと言うのでしょうか。
 モーセが記した律法の書も参考文献ではなく、記すための経緯、物語から書き進めています。モルモン経も同じですよね。このようなものはおかしいと言うのならば、《旧約聖書も偽書》となりますよ。・・・・旧約聖書が偽ならば、それを成就したイエス・キリストも偽となりますよね。すると、あなた方の存在そのものが偽となってきますよ。
 どうして、モーセの書とモルモン経、なぜ片方が正しくてもう片方が間違いなのでしょうか。誰が、どういう経緯で、真偽を判定する権威を受けたのでしょうか。
 所詮、天から受けなければ誰もこのようなものを書くことは出来ないのです。
 確かに、彼が翻訳したと言う原書はないでしょう。しかし、彼自身がこの壮大な物語を作り出す様な力を持っていなかったことも事実なのです。十戒の原版がないから、モーセの話は嘘、律法は彼の創作に過ぎないと言っているのと同じです。 ”

 まず、ジョセフ・スミスが「モルモン書」を創作する為には、“神学を究めるほど学び”そして“たぐい稀なる想像力を持ち合わせていないと書けない”としていますが、「モルモン書」がジョセフ・スミスの近くに住んでいた牧師イーサン・スミスの1825年の著書、「VIEW OF THE HEBREWS」を種本の一つとして書かれたと言われています。「モルモン書」の原本に当たる金版を見たと証言をし、翻訳作業にも関わったとされているオリバー・カウドリが、「モルモン書」の翻訳していたとされる時期にイーサン・スミス牧師の教会に出席していたといわれています。また、モルモン書の中にキリスト教の神学的なものは何も書かれていません。ジョセフ・スミスはオカルトを用いた詐欺行為を繰り返していたことから、口がうまく、想像力があり、機知に富んでいたのでしょう。この世には聖書以外にも、多くの神からの啓示と称するものがありますが、それらが人知を超えた創作であるとはいえません。幕末から明治の初めにかけて、日本でも僻地の無学な農民が、神の啓示や顕現を受けたとされ、それぞれに宗教を興していますが、それらが正しいとはキリスト教とは普通考えません。それと同じく「モルモン書」についても同じです。

VIEW OF THE HEBREWS 記名


“ 聖書を学んだ人は星の数ほどいます。でも、みな聖書の中を迷っている。聖書から抜け出して別の書を書ける文学者は誰もいません。このような力、そのものが人知の及ばないものといえるのではありませんか。
 つまり、あなたがおっしゃる理由では、モルモン経を偽書とすることは出来ません。
 では、書かれている内容が聖書の主題と違反するのか・・・と言う話となりますが、完全な違反と言えるような箇所は見当たりません。ところどころ、そのような箇所もあるようですが、聖書側が間違っているのか、モルモン側が間違っているのか・・・・・ ”

 これも理論としておかしなもので、まずキリスト教徒が「モルモン書」を受け入れないのは、私たちが使徒たちより伝えられてきた教えと神の言葉と信じ受け入れている聖書の教えと一致しないからです。
 また、“聖書から抜け出して別の書を書ける文学者はいません”と言っていますが、使徒伝来の教えと聖書から逸脱したものを、キリスト教の過去から現在に至る多くの異端は生み出し書いてきています。偽福音書、偽行伝、偽書簡、偽黙示録、偽メシア・偽預言者たちの啓示の言葉をまとめたものなど、実に多様です。
 “完全な違反と言えるような箇所は見当たりません”といっていますが、モルモンの独自の教えの部分は、モルモンの標準聖典やモルモンが預言者と信じているジョセフ・スミスとその後継者(モルモン教の大管長たち)の言動に基づいていて、それら無しには根拠を失ってしまうものに過ぎません。
 

“ さて、こうなると、実際にキリスト教徒とモルモン教徒の行動で比較していく以外にはありません。
 キリスト教プロテスタントは、アメリカ大陸で原住民の九割近くを虐殺して、彼らの全てを略奪しましたよね。
 この9割と言う数字はアウシュビッツに収容されたユダヤ人並みの虐殺率なのです。
 では、モルモン教徒は、このような大虐殺事件を起こしているでしょうか。
 起こしてはいませんよね。
 どうして、このような事件を連続して起こしてきた宗教が、何も起こしていない別のものを危険思想と呼ぶことが出来るのでしょうか。
 別のものを批判するならば、自分自身の内にあるその批判されるものと同質のものを自分自身で悔い改めるのが先であり、それを放置したならば、相手の状態が悪くなるのが見えたときに、その予測と道理を語り伝えるべきではないでしょうか。 ”

 なぜ、“さてこうなると”なのかわかりませんが、信者の行動で比較しなければならないのかもよくわかりません。モルモンによる虐殺事件や反対派への襲撃事件は、モルモン教の初期にはよく見られました。それはモルモン教が語らないだけで、調べればすぐに出てくる程度のものです。現代も米国では多くの問題や事件を起こしていますが、その一部は日本でも一般書などでも出ています。ネットなどではもっと出てくることでしょう。


“ 例えばエホバの証人と言う宗教は、そこに属する人々が極度の精神疾患に陥るようになります。これがわかるから、間違いと語るのです。 ”


 これも全く的外れな考えといえるでしょう。精神疾患に陥るから間違いだとキリスト教はしているわけではありません。


“ たとえば、一般的なプロテスタントは、自分を善とするために悪なる存在を求めます。自らをその悪との対比で善とするのです。その悪としたものには、情け容赦なく虐殺略奪をも繰り返すのです。・・・・では、彼らだけとなったのならば・・・・彼ら自身がいくつもの派に分かれて、相手に対する攻撃を繰り返すようになるのです。
あなたが、他の教えを批判するのも、その批判する相手との比較により自分を善としたいと言う心理が働いているのです。
 この心理には、相手に対する思いやりも愛もない。
 《汝の敵を愛せよ》 ”

“ 善悪二元論で考えるのは、
 プロテスタントもカトリックも同じです。自分を善側に置こうとして、悪なるものを他に求める。悪なるものが存在するから、かろうじて自分を善だとできる。そのために理屈をこね、相手の僅かな悪を、いかにも大悪のように宣伝する。”

“ あなた自身、どうして、いろいろな宗教を批判しているのかがお分かりになっていない。
 《批判することにより、相手を少しでも良くしよう》
 と思っているのならば、これは愛。
 でも、《自分を正しい》とするために、相手を悪とするならば、これは醜悪。
 行動は同じであっても、あなたの心のあり方によって、正邪は分かれるのです。
 見た目は、両者とも同じ。でも、そこには天地の隔たりがある。”

 パウロが偽りの福音を伝える者たちに取った態度について、ウェストミンスター神学校で新約学の教授であったJ・G・メイチェンの著書、『リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か』(聖書図書刊行会発行、いのちのことば社発売)の中から引用したいと思います。

メイチェン 「リベラリズムとの対決 キリスト教とは何か」 記名

“…パウロは教理に無関心ではなかった。かえって、教理は彼の生活の土台そのものであった。教理への彼の傾倒が偉大なる寛容を不可能にした、ということはなかった。そのような寛容さの一つの例は、ピリピ人への手紙に記されているように、彼のローマ監禁中に見出される。ローマのあるキリスト教の教師たちは、明らかに、パウロの偉大さを嫉妬していた。パウロが自由の身である限り、彼らは第二次的地位に甘んじならなかった。けれども、パウロが入獄している今は、彼らは最高の地位を獲得していた。彼らは捕われているパウロの苦悩を増すように努めた。そこで、嫉妬と争いのために彼らはキリストを宣べ伝えた。つまり、パウロのライバルの説教者は、福音の説教を低級な個人的野心を満足させる手段にしたのである。それはおよそ考えられる限りの卑しい商売のことのように思われる。しかし、パウロは煩わされなかった。彼は、「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます」(ピリピ一・一八)と言ったのである。説教の姿勢は間違っていたけれども、メッセージ自体は正しかった。そしてパウロは、メッセージを伝える態度よりは、メッセージの内容にはるかに大きな関心を示したのである。これよりも寛容な広い心を考えることは不可能である。
 しかし、パウロの寛容は無差別ではなかった。たとえば、彼は、ガラテヤでは何の寛容も示さなかった。そこにも、彼に敵対する説教者がいた。しかし、パウロは彼らに対して寛容ではなかった。彼は、「しかし、私たちであろうと、天の使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」(ガラテヤ一・八)と言った。この二つの場合における使徒の態度の相違の理由は何か。ローマにおける広い寛容と、ガラテヤにおける激しい呪いの理由は何か。答えは全く明白である。ローマにおいて、パウロが寛容であったのは、相手の教師によって宣べ伝えられているメッセージの内容が真理であったからである。ガラテヤにおいて彼が不寛容であったのは、相手のメッセージの内容が偽りであったからである。相手の人格性はパウロの態度と関係がない。”(p35-36)

 そもそも善と悪に分け、自分を善にして相手を非難することは全くの意味の無いことであります。問題はその教えがキリストの福音を覆そうとする「ほかの福音」だからにほかなりません。

 また、“あなた自身、どうして、いろいろな宗教を批判しているのかがお分かりになっていない。”と言われていますが、私のブログにてキリスト教を自称する異端や破壊的カルトに分類される団体、キリスト教会の中で問題となっているカルト化している団体の主張については、繰り返し批評なり、批判なりをしていますが、他の宗教についてはそのようなことはありません。

 “《批判することにより、相手を少しでも良くしよう》と思っているのならば、これは愛。でも、《自分を正しい》とするために、相手を悪とするならば、これは醜悪。”

 モルモンを良くしようなどと思っているわけではなく、また自分を正義の使者としたいわけでもない。しかし、その誤った「ほかの福音」(ガラテヤ1:7-9)、「滅びをもたらす異端」(ペトロ二2:1)に、よく知らない人たちが行ってしまわないように警鐘を鳴らし、また、その中にいる人たちには、何か心や記憶に残って、その道から一人でもキリストの下に来ることのきっかけにでもなってくれればと願い、キリストにある兄弟姉妹たちには情報の一部でも役に立てばと祈りつつ書いています。クリスチャンの中でもキリスト教の枠を出てしまったリベラリストには、このコメントを書いた人のような意見もありました。とくにそれらについては、どうということもありません。

関連

偽りのかなめ石 偽書であるモルモン書 1

偽りのかなめ石 偽書であるモルモン書 2

聖書を改変するモルモン教

有名なモルモン書のあり得ない箇所と言い訳

白い肌と黒い肌

金版、真鍮版

金の板に文字が書かれていれば利用しようとする

Joseph Smith, Jr., as a translator : reprint of an inquiry conducted  pp.23-31
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当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

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