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創造主訳聖書について

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改ざん聖書
2013/5/19(日) 午後 8:02
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11578848.html

創造主訳聖書とその広告

 創造主訳聖書というものが、今年のイースターに、ロゴス出版というところから出版されたようです。これはクリスチャン新聞にも報じられていたものです( http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=2446 )ので読んだ方は知っていると思います。

 広告の値段を見るとかなり安いと言えるでしょう。ロゴス出版のホームページを見てみますと、この聖書の売りとして、次のように書いてありました。

“ 創造主訳聖書~ビックリするほどよくわかるそのワケは?
■ ポイント1 偶像以外の「神」表記をすべて「創造主」に変えました!
■ ポイント2 本文中の多彩な図版により理解度が大幅にUP!
■ ポイント3 創造の視点から世界を説明!
■ ポイント4 巻末のカラ―図版が充実!
■ ポイント5 本文の文字、図版を拡大できるルーペしおり付き!”

 読むと聖書の「神」表記を「創造主」に変えたといっています。また、“底本に「現代訳聖書」を使用し、「神」を「創造主」と訳した日本で初めての聖書”と言っています。

はてな

 えっ? ということは一からヘブライ語やギリシャ語の底本となる校訂本文から訳したものではない! リビングバブルと同じ二次的なものだよね。ってことになります。そして、底本としたのが尾山令仁氏の個人訳である、あの「現代訳聖書」というのも……という感じです。

 出版の理由にはこのようにありました。

“ 創造主訳聖書の出版理由~聖書の創造主は一般的日本人の「神」概念ではない~
 今日に至るも、夫々の聖書の改訳が随時試みられています。その理由は、異なる言語において、二個の言葉が同一の形態において、同一量の意義を含有し、同一様の連想を明示する事が至難の業であるからです。とりわけ訳語中の「神」について、古くから適訳か否か論じられてきました。日本において「神」というとき、それは一般に八百万の神や汎神論の神であって、聖書の創造主ではありません。日本において、人口の99パーセントはキリスト者ではなく、「神は愛である」と語りかけても、相手の思考する神は聖書の創造主・唯一の全能者ではなく、同語意議のかみ合わない会話となる場合が多いのです。
 2000(平成12)年7月3日の朝日新聞に、「『ゴッド』の誤訳が原因?」の見出しによる菅原伸郎氏の一文が掲載されましたが、その中に次のような記載がありました。「静岡県のある宮司が日本人の神観念を説明し、このように指摘した。『明治以前の日本では、神道の神、仏教の仏、キリスト教のデウスは区別されていたが、プロテスタントが「ゴッド」を「神」と訳して怪しくなった。カトリックは「天主」を使っていたがプロテスタントに譲歩した。その結果、話がかみ合わないばかりか、誤解に拍車がかかった』。かといって、神社本庁公認の『神』の定義があるわけではない。・・・日本キリスト教団が97年に改訂した『讃美歌21』は、『あめつちのかみより たすけぞわれにきたる』の歌詞を『天と地を造られた神のもとから来る』にすることなどしているが、『神』自体は変えていない・・・」。
 そこで委員会は、和訳後の中でも信仰生活の基軸ともなる「神」という言葉を「創造主」と翻訳することにより、聖書理解を容易にするだけでなく、更に直截に聖書の真理を伝えることに寄与できるのではないかとの確信に至りました。” 

 大和言葉の「かみ」や漢字の「神」の成り立ちは、その通りなのだが、そもそも翻訳しその国の言語に置き換えるとは、そういうことであるのは当たり前であろう。旧約聖書続編のシラ書の冒頭にある「序言」には、“というのは、元来ヘブライ語で書かれているものを他の言語に翻訳すると、それは同じ意味合いを持たなくなってしまうからである。”(序言21~22節)とあるように当たり前の事です。そして、“カトリックは「天主」を使っていたがプロテスタントに譲歩した。”って、私が持っている明治に翻訳されたE.ラゲ訳の新約聖書の昭和27年13版でも、同じラゲ訳の昭和34年当用漢字版第一刷でも、昭和56年のバルバロ訳、フランシスコ会聖書研究所訳の聖書でも手にして見直してみても、普通にギリシャ語「 θεός 」の部分は「神」と訳されています。また、第二バチカン公会議以前に、カテキズムや典礼に使われていたとしても、普通、それを譲歩とは言わないだろうと思います。なぜなら、すでに聖書の翻訳ではそうなっていなかったのですから。また、讃美歌と聖書の翻訳を同列に扱うこの考え方にも賛同はできません。

 この出版を提案したのは、堀越暢治氏です。この方は昔、現在ハーベストタイムの中川健一氏が、二代目ホストを勤めた福音伝道番組「PTL 主をほめよ」というテレビ番組に、よく出ていました。そこから貰った新約聖書には、当時、四日市教会の牧師であった堀越氏の「聖書の読み方」という短いお話が載せられていました。また、この人は反進化論の本なんかを書いていたと記憶しています。まあ、お決まりの疑似科学というものだったと薄っすら覚えています。

 堀越氏は次のように出版の経緯を語っています。

“異なる神概念
 みなさんは、「神様」というとどんな神様を思い浮かべますか?クリスチャンホームで育った人、長年信仰をもっている人は、当然、天地万物の造り主を思い浮かべるでしょう。しかし、神主の次男として生まれ、神社のなかで育った私にとっては、「神様」といえば神社の神様でした。聖書で神様が天地の創造主だというので少なからず抵抗を覚え、賀川豊彦先生にも「神が創造主だなんてとんでもない」と直談判したほどです。
 そんな私が聖書を信じるようになり、人々に「神様を信じてほしい」と言うと、今度は相手が「俺は神様を信じているよ。木にも石にも神様は宿っているんだ。それがわかんないあんたはかわいそうだ」と返事してきます。「そうじゃなくて・・・」と相手の神を否定しなければ真の神を伝えられず、ほとんどの場合、相手は心を閉ざしてしまうのです。「神」を伝えたいのに、「神」ということばが噛み合わない、こんな問題を感じたことはありませんか?私はこの問題に苦慮してきました。
 ある時、沖縄の土着の宗教から聖書の福音に集団改宗が起こったと聞いたので、その集団のリーダーの人を訪ねたことがありました。その方は、「自分たちはかつて『神』を念じて祈ってきたけれど、イエス様を信じて救われたのです。それなのに聖書を読むとまた『神』とあり、混乱してしまいます。『神』と訳されたことばを変えてほしいのです」と言われました。そこで、同じような問題に直面しているのは私だけではないことを知ったのです。
 
なぜ「創造主」なのか
 韓国や中国にも「神」ということばが昔からあります。しかし、聖書が翻訳されるとき、あえて「神」と訳す代わりに韓国では「唯一の方(=ハナニム)」、中国では「上帝(※)」と訳されて、偶像神との混乱を避ける翻訳がなされています。英語の聖書でも、「God(創造主)」と「god(偶像神)」で使い分けがなされています。日本でもキリシタンの時代に、「デウス」「天主」と訳されていました。明治時代に聖書が翻訳されたとき、翻訳者は「神」と書いて「シン」と読んでもらうつもりだったそうです。しかし、ふりがながなかったため、人々は「カミ」と読み、その読み方が定着しました。
 ところで国語辞典で「神」と引くと、いくつもの項目の最後の方に「キリスト教の神、創造主」と出てきます。逆に「創造主」と引くと「キリスト教の神」と出てきます。一般の人々は「創造主」ということばのほうが、聖書の「神」を指すことばだと思っているようです。そこで、聖書の内容が伝わるという見地から、「神」訳とは別に「創造主」訳が必要だと長年祈り求め、また多くの方々に訴えてきたのです。 そして私自身、「創造主」を用いるようになってから、福音が伝わりやすくなったと実感しています。”

 どうも日本語の訳語としてという面からは、とても納得のゆくものではありません。また、沖縄の人の“イエス様を信じて救われたのです。それなのに聖書を読むとまた『神』とあり、混乱してしまいます”との感覚がそもそも理解できません。本当に聖書を読んだのだろうか。ちゃんとした伝道を受け、そして学びなどして洗礼まで導かれたとは思えません。体験主義による改宗の弊害なのだと思います。

 これではエホバの証人として知られる「ものみの塔聖書冊子協会」が、自分たちの教義や理念にあわせて、翻訳し、出版した、「新世界訳聖書」と変わらないではないかと思います。彼らも新約聖書で「κυριος」となっている語の内、旧約からの引用などの箇所や他で、「κυριος」の訳語である「主」を用いないで、「エホバ」と改ざんしているのと、何ら代わりが無いではないかと思ってしまいます。

 翻訳者の能力不足による誤訳ならまだしも、恣意的に本文を改訂するということに強い嫌悪感を覚えます。同じ二次的なものとして、ナニワ太郎氏の「コテコテ大阪弁訳「聖書」」がありますが、こちらのように“イエス・キリストはんの生涯を、大阪弁で楽しむのも一興でっしゃろ”と後書きで言っているように、読み物として楽しむものならわかりますが、創造主訳聖書刊行会の実行委員として

“峯野龍弘(代表)
ウェスレアン・ホーリネス教団・淀橋教会主管牧師。日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長。

堀越暢治
創愛キリスト教会主任牧師。学校法人キリスト教学園名誉理事、学校法人グレイス学園めぐみの園理事長、いのちありがとうの会理事長。

長谷川 義信
日本聖契キリスト教団・寒川キリスト教会牧師。日韓親善宣教協力委員会書記、日本国際飢餓対策機構(NGO)地区推進委員長、世界食糧デー湘南大会実行委員長。

佐々木 満男
国際弁護士。アブラハムささき法律事務所代表、インターナショナルVIPクラブ(東京大学)顧問、ラブ・クリエーション(創造科学普及運動)会長。

本間義信
ウェスレアン・ホーリネス神学院教授

工藤公敏
キリスト兄弟団・目黒教会牧師

石川弘司
日本同盟基督教団・聖十字架教会牧師

小坂圭吾
ロゴス出版社/パーパス・ドリブン・ジャパン代表。聖書キリスト教会牧師。

宇佐神実
水戸第一聖書バプテスト教会牧師。ジェネシスジャパン会長。”

などのキリスト教関係者( 中にはネットなどで問題があると指摘されている人も混ざって入るようですが )として、その名を連ねている分、性質が悪いと感じられます。


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違和感
2013/9/4(水) 午後 1:18
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12004299.html

 以前、創造主訳聖書発売前にこの聖書について書きましたが、実際手にとって見るとやっぱり違和感があることが否めないのと、ある方向性をもった聖書であることが分かります。

 ビニールカバーが付いていることや、ルーペしおりが付いていること、小口インデックスがあること、小見出しがあること、厚さが新旧約聖書であるにもかかわらず新共同訳のハーフボリュームバイブル程度であることや同じく横書きであること、三千円程度と安価なことなどは評価できる点です。悪い点としては、ルビが振られていない、ベースが現代訳であること、「神」の語に代わり「創造主」になっていること、巻末にあのAnswers In Genesis ( アンサーズ・イン・ジェネシス、AIG )の創造論の9ページほどのカラーページがあることなどが挙げられるでしょう。

創造主訳聖書 巻末付録 記名

 “初めに、創造主が天と地とを創造された。”の表現で始まるこの聖書は、やはり喉の奥に何か引っかかる感じがします。もともと「造り主」「創造者」という語は別にあり、神(エル、エロヒーム)とは別な語です。エレミヤ10:16はこの点が顕著な違和感を持っています。“ヤコブの創造主は、そんなものとは違う。主は万物の造り主であり、イスラエルは主ご自身の民で、主は全能の主であられる。”この箇所を読むと元の形は「ヤコブの神」となるのでしょうが、ここで「創造主」としてしまうと、意味が極端に限定されてしまい、神の矮小化に繋がっています。さすがに「造り主」はそのままにしているようです。また「創造主」「造り主」と二重に出てくるのにも違和感を覚えます。もっと探せばいろいろ出てきそうではあります。機械的に「神」を廃して「創造主」に置き換えているので、日本語としても違和感があります。こんなことをこの聖書を開いてみて思ったことです。

 最近は「聖霊の第三の波」・「後の雨」・「繁栄の神学」系のマルコーシュバブリケーションでは、新約はテクスト・レセプタスによる現改訳聖書出版を目指しており、福音派ファンダメンタル・「繁栄の神学」系のエターナル・ライフ・ミニストリーズからもテクスト・レセプタスから訳されてすでに版権の切れた明治元訳「新約全書」と永井直治訳「新契約聖書」(修正版)が出版され、おそらく自分たちのオリジナルの訳なのでしょう、これもテクスト・レセプタスから訳された「新約聖書」も第一巻(マタイ~ルカ)が出版され、残りも暫時発行されるようです。このように近年は自分たちの主義主張にあわせた翻訳の聖書が出版されるようになりました。


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創造主訳について
2013/9/16(月) 午前 8:39
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12048856.html

 ロゴス出版の「創造主訳聖書」について、過去に二回ほど書きました。これらの記事を読んでもらえると分かるとおり、かなり否定的にこの聖書については見ています。

 元日本長老教会四日市教会の牧師を勤められ、現在単立創愛キリスト教会の主任牧師であられる堀越暢治 師の原体験が元になってこの聖書の出版が発起されたように見えます。それはロゴス出版の“「創造主訳聖書」出版の経緯”( http://www.logos-pb.com/ )や“2013年6月24日に行われた「創造主訳聖書出版記念講演会」の堀越暢治師による講演の模様をCGNTVにて配信”( http://japan.cgntv.net/newsub.asp?pid=2770 )されている動画、また単立創愛キリスト教会で4月7日に行なわれた堀越師による「創造を信じること」という礼拝メッセージの動画( http://www.youtube.com/watch?v=YsMrSfQnTbM )などを見るとそうなのだと思われるものです。そして、この堀越師の原体験と熱意からこの聖書の改ざんがなされたようです。

創造主訳聖書 記名

 確かに日本語として、大和言葉の「かみ」や漢字の「神」の成り立ちやその意味において、聖書の神とは相容れない概念があるのは、それはいたし方が無いことです。それがまた翻訳の限界ということです。使徒パウロを初めとした初代教会が、ヘレニズムの多神教世界、それも人間が自然発生的にあったとする創造主の概念の無いギリシャ・ローマ神話の世界に出て行った時、彼らは神概念の違う彼らに伝道する際、ギリシャ語に訳された旧約聖書の神(θεός)と訳された語を使わずに、創造者・創造主・造り主(κτίστης)に置き換えたなどということはありませんでした。使徒たちや初代教会のとった行動は、堀越師やその同調者達とはまったく違ったしかたといえます。もし、神と訳すのが問題なら、かつての信長の時代の宣教師達のように「神」を訳さずラテン語の「デウス」と音訳したように、現在の日本語訳聖書でも「シェオール・ハデス」「ゲヘナ」「アーメン」など多くの語が音訳されているように、「神」の語もそのまま音訳として「אל」は「エル」とし、「 אלהים 」は「エローヒーム」と音訳すればいいだけです。そしてその説明などを前書きや後書き、凡例などに明記すればよいだけではないかと思います。

 マタイの福音書から幾つかの箇所を見てみましょう。動的等価法(Dynamic and formal equivalence)で日本語に翻訳された創造主訳、現代訳、共同訳で読み比べてみましょう。

マタイ7:13,14
創造主訳・現代訳;罪や欲望を持ったままでは決して入ることのできない天国への狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、罪や欲望を持ったままでも十分に入れます。また、そこを通って行く人は沢山います。しかし、救いに至る門は極めて小さく、その道は狭く、罪や欲望を持ったままで、入ることはできません。また、そこを通って行く人は決して多くはありません。

 これはひどいと感じる訳文です。裏を返せば「罪や欲望」を自分で捨てれて、それを捨てさえすれば救いに至る狭い門と狭い道は通れるということになり、それでは仏教の教えになってしまいます。

共同訳;「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としていて、そこから入る者が多いのだ。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない。」

マタイ18:17,18
創造主訳;ところが、それでもなお聞き入れないなら、教会に言いなさい。教会の言うことも聞こうとしないなら、その人を除名してもよろしい。よく言っておきますが、確かに、教会がこの地上で行使する権能は、天のお父様からのものです。

現代訳;ところが、それでもなお聞き入れないなら、教会に言いなさい。教会の言うことも聞こうとしないなら、その人を除名してもよろしい。よく言っておきますが、確かに、教会がこの地上で行使する権能は、天のお父様の裁可を得たものと考えて差し支えありません。

 ここでも原文には無いことばによって、「除名」ということを肯定するものとなっています。それが神の裁可のあるものとの尾山師の理解が入り込んでいます。きっと尾山師の単立教会ではそうなのだろうなと推論してしまう訳文です。

共同訳;それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か税金取り同様にみなしなさい。はっきり言っておくが、お前たちが地上で禁止することは、天上でもそのまま認められる。お前たちが地上で許可することは、天上でもそう認められる。

マタイ26:26~28
創造主訳・現代訳:…「取って食べなさい。これは、わたしが十字架で裂かれる体を表しています。」…「皆、この杯から飲みなさい。これは、わたしが十字架に掛って、あなたがたの罪を赦すために流す血を表しています。これこそ、救いの契約にほかなりません。

 この訳文では、原語のエスティン(である)が「表している」と置き換えられることによって、ホスチアとカリスが単なる象徴に過ぎないとの解釈に立った訳文になっています。

共同訳;…「取って食べなさい。これはわたしの体である」。…「皆、この杯から飲みなさい。これは罪がゆるされるように、多くの人のために流すわたしの血、契約の血だからである。

マタイ28:19
創造主訳;ですから、あなたがたはあらゆる国の人々を弟子としなさい。それは、出て行って、父と子と聖霊の三位一体の創造主のお名前によってバプテスマを授け、

現代訳;ですから、あなたがたは出て行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。それは、父と子と聖霊の三位一体の神のお名前によってバプテスマを授け、

 これもひどいとしか言いようの無いものです。かつてエラスムスに対してなされたコンマヨハンネウムの写本改ざんと同種の改ざんといえます。

共同訳;だから、お前たちは出かけて行き、すべての民族をわたしの弟子にしなさい。そして、彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

 これらを見て分かるとおり、ナイダ理論(動的等価法)を表看板にしていますが、同じ翻訳理論に立っている聖書協会の「共同訳新約聖書」とは違い、あきらかに底本から逸脱しすぎ、これは単立聖書キリスト教会の会長牧師(Wikipedia)尾山令仁 師による尾山師の聖書解釈に合わせた解釈訳といえるものです。「創造主訳聖書」はそれを底本とし、「神」を「創造主」と置き換えると共に幾つかの箇所で底本部分の改定もしてあります。

 このような聖書の改ざんが認められるのなら、ものみの塔聖書冊子協会の「新世界訳聖書」の明らかな改ざんも認められることになりますし、それから生み出された誤れる教義や規則も是認することとなります。そして反対にキリスト教はこれら異端の破壊的カルトから、聖書を改ざんしているとの誹りを受ける結果を招きます。

 はっきりいって、目的を達成する為にはなんでも有りじゃないぞということを見失っているように思えます。


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もうちょっと見てみよう!創造主訳(現代訳)の驚愕の改ざん!!
2013/9/17(火) 午後 4:56
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/12054541.html

 尾山令仁氏の個人訳である「創造主訳聖書」と「現代訳聖書」は、驚くべき改ざんがなされている翻訳です。それはナイダ理論(動的等価法。Wikipediaの「聖書翻訳」より“読者にとって正しく理解できるように意訳するべきだという立場が存在する。代表的なのはナイダ(en:Eugene Nida)の動的等価翻訳理論(en:Dynamic and formal equivalence)であろう。つまり、文脈に応じて言葉は変えるが意味するところは同じになるように訳するということである。(これに対して逐語訳的方法は形式的等価翻訳と呼ばれる。)ナイダの理論は一時期 アメリカ聖書協会の翻訳事業を主導し、今日流通しているToday's English Bible:TEV(Good News Bible:GNBとも称する)やContemporaly English Bible:CEBなどを生み出した。日本語では共同訳聖書の作業にあたってこの理論が指針として採用され、ナイダが来日して講演するなどしている。”)を遥かにはみ出ているように思えます。

 さて、昨日はマタイから何箇所か見てみましたが、今回は他の部分も一つ二つ取り上げてみてみましょう。

ヨハネ1:1~3
創造主訳;まだ、この世界も何も無かった時、すでにキリストは存在しておられた。キリストは創造主と共におられ、また創造主ご自身であられた。このように、キリストは創造主ご自身であられながら、唯一の創造主のうちにおられるもう一人の人格であられた。唯一の創造主には三人格あって、父と子と聖霊である。キリストは子であられる。すべてのものは、創造主によって造られた。だから、創造主であられるキリストによって造られないものは一つもなかった。

現代訳;まだ、この世界も何も無かった時、すでにキリストは存在しておられた。キリストは神と一緒におられ、また神ご自身であられた。このように、キリストは神ご自身であられながら、唯一の神のうちにおられるもう一人の人格であられた。唯一の神には三人格あって、父と子と聖霊である。キリストは子であられる。すべてのものは、神によって造られた。だから、神であられるキリストによって造られないものは一つもなかった。

 キリスト者であり、御言葉(聖書)の改ざんを快く思わない人は、この上の引用を読みひどい訳、いや、訳ではすでに無く改ざんであると感じられることでしょう。まだ、以下に引用しますが、American Stndard Versionからキリスト教の専門用語をできるだけ使わないで、だれにでも読むだけで分かるように作られたリビングバイブルの方が原典に忠実であるといえます。

リビングバイブル;まだ何もない時、キリストは神と共におられました。キリストは、いつの時代にも生きておられます。キリストは神なのです。このキリストが、すべてのものをお造りになりました。そうでないものは一つもありません。

 次に日本聖書協会より、このナイダ理論によって訳された共同訳新約聖書の訳文を見てみましょう。

共同訳;初めに<御言葉>があった。<御言葉>は神とともにいた。<御言葉>は神であった。このかたは、初めに神とともにいた。神はこのかたによって万物を造った。造られたもので、このかたによらないで造られたものは何一つなかった。

 これも原典に忠実に訳されています。この聖書の序言には、共同訳聖書実行委員会の言葉としてこうあります。“このように、わたくしたちは学問的な厳密さを保つと同時に、あくまでも一般の読者にわかりやすい訳とすることを目指して、キリスト教独特の専門用語をできるだけ避ける配慮をいたしました。”とあるようにキリスト教独特の用語などはよく避けられわかりやすい訳文となっています。

 現代訳も“日本人が読むだけでわかる翻訳”を謳い、4大特色の一つに“1 聖書の原意を正確に伝えている”としていますが、共同訳とは違い“学問的な厳密さを保つ”努力がなされていないのと、はじめから教義ありき、それも自身の解釈ありきでは“原意を正確に伝えている”とはいえないと思います。

 後もう一つ見てみましょう。

使徒14:11,12
創造主訳;それを見ていた人たちは、声を張り上げ、その地方の言葉であるルカオニア語で言った。「創造主が人間の姿を取って、降って来られたのだ。」彼らは二人をギリシャの神々に祭り上げ、バルナバはゼウス、パウロは主に話をしたので、ヘルメスだと言い出した。

はてな 2

 この訳文を読んでみて、とてもおかしな訳文なことにお気づきだと思います。ギリシャ神話の世界で人間は神々によって創造されてはいません。神々も人間もともに自然発生的にガイア(大地)より生れ出たものです。ゼウスは神々の父と呼ばれますが、当然創造主ではありませんし、ゼウスとマイアの子であるヘルメスもそうです。「創造主」という語にこだわる余りのミスといえるでしょう。


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