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エクソシズムについて ③


小説エクソシスト Athanasius記名入り


 小説「エクソシスト」(ウィリアム・ピーター・ブラッディ著 新潮社)の中に祓魔式の間に小休止を取っている時、助手を務めるデイミアン・カラス神父と主任を務めるランカスター・メリン神父のやり取りが出てきます。

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" またも沈黙。カラスが先に口を切った。「悪霊は­­­­­̶犠牲者の意志を傷つけることができないといいますが」

 「そうなんだ。そのとおりだ・・・・そのとおり・・・・それは、そこに罪がないからだ」

 「そうだとしますと、人間に取憑く目的は何にあるのでしょう?」カラスは不審そうに眉をひそめていった。「その狙いは?」

 「誰にも判らんことだ」メリン老神父が答えた。「知ることができると、自信をもっていいきれる者がいるとは考えられん」彼はそこで、少しのあいだ考えていたが、さぐりを入れるような口ぶりでつづけた。「しかしわしはこうみておる。つまり、悪霊の目標は、取憑く犠牲者にあるのではなく、われわれ・・・われわれ観察者が狙いなんだと。いいかえれば、この家にいる者の全部だ。そしてまた、こうも考えられる。やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティを打破することにある。いいかね、デイミアン。やつはわれわれをして、われわれ自身が窮極的に堕落した者、下劣で獣的、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在であると自覚させようとしておる。この現象の核心はそこにある。例えばわれわれの神への信仰には、理性が関与していない。それは愛の問題­­­­­̶神がわれわれを愛したもう可能性の受容の問題で・・・・」

 メリンはふたたび言葉を切ってから、いっそう落ち着いた口調で、内観の奥深い静けさを示して、語りつづけた。「・・・・悪霊は・・・・どこを攻撃したら効果的であるかを心得ておる・・・・」と独りうなずいて、「わしを例にとれば、ずっと以前のことだが、隣人を愛する望みを失った経験がある。ある連中が・・・・わしを拒否したからだ。どうしたら、この連中を愛することができるか? わしは考えた。それがわしを悩ませた。そしてついには、わし自身に絶望する結果を招いた・・・・それから先、神への絶望までは一直線だ。わしの信仰は、当然、動揺し始めた・・・・」

 カラスは関心をそそられて、老碩学の顔を見つめ、「で、どうなさいました?」と、質問した。

 「それからかね?・・・・わしは最後に知ったのだよ。神は心理的に不可能なことを求めておられるわけでない。神がわしに要求なさる愛は、意志のうちにあり、心情的な愛とは異なるものだということだ。神はわしが、愛をもって行動し、それを進んで他者におよぼすのを望んでおられる。だからこそ、排撃する相手を愛するのは、何にも増して偉大な愛の行為といえるのだ」老神父は首をふって、「いまのわしには、これ以上明白なことはないと思える。しかし、デイミアン。あの当時のわしには、この明白な真理を見てとることができなかった。おかしな無知さ」と、老神父は悲しげな表情で、「多くの夫と妻が、もはや連れ添う相手の顔を見ても、心の踊ることがなくなったがゆえに、愛情が褪めきったものと思いこんでおる」と、またしても首をふって、それからまた、独りうなずいてみせ、「そこだよ、デイミアン・・・・・憑依現象の本質はそこにある。ある人々が考えているように、争闘のなかに起こるのではない。まして、この一家の場合のように、哀れな犠牲者・・・・年端もいかぬ少女を介在にするのは、非常に珍しいことといってよい。わしの見たところ、それがもっともしばしば起こるのは、とるにも足らぬ些細なことからだ。たとえば、これといった意味もない小さな怨恨、仲たがい、友人間の雑談のうちに、うっかりととび出した皮肉な言葉、あるいは愛人間の痴話喧嘩­­­­­̶その例はいくらでもかぞえられる」そこでメリンは声を低めて、「そしてこのようなわれわれの争闘を処理するのに、悪魔(ルビ:サタン)を必要としない。われわれ自身で処理してのけられる・・・・われわれ自身で・・・・」

 リーガンの寝室から、いまだに歌声に似た声が聞こえてくる。メリン老神父はドアを見て、少しのあいだ耳をそばだてていたが、「しかも、このようなもの­­­­­̶このような悪からでさえ­­­­­̶善が生じてくる。何らかの方法でだ。われわれには理解できず、見ることもできない何らかの方法でだ」またもメリンは言葉を切って、考えこんでから、「おそらく、悪こそ、善を生み出するつぼであるからだろうな」と、いった。「そしておそらく、大悪魔(ルビ:サタン)でさえもが­­­­­̶その本質に反して­­­­­̶何らかの意味で、神の意志を顕示するために働いておるともいえるのだ」"(pp.295-297)

 この中でいくつかの重要なことが語られています。それは神学的にも間違ってはいないことです。

 まずは、“「悪霊は­­­­­̶犠牲者の意志を傷つけることができないといいますが」 「そうなんだ。そのとおりだ・・・・そのとおり・・・・それは、そこに罪がないからだ」”とのやり取りです。

 このことについてはゼーノ・フレック著「修徳神秘神学概説」(光明社)にこうあります。

“ 第二章 悪魔から来る異常神秘現象
 悪魔は天主の真似をする猿と呼ばれるほどであるから、霊魂を永遠の不幸に陥れんがために不思議な現象を起こして人間に対する支配力を表そうと恐るべき誘惑を以て人の心をなやますことがある。
 霊魂に対する悪魔のやり方は主として二種に分けられる。一つは責め苦他は悪魔が人の体にのりうつてこれをわがものとして用いる所謂悪魔つきの現象である。ここで注意せねばならぬことは凡ての禍、不幸、苦しみ等が悪魔から来ると思う人があるかと思えば、反対に悪魔によってよつて起される不思議な現象も自然的なものと思つて悪魔の存在を否定する人もあるが、これらの両極端をさけて中庸の態度を以て臨まねばならぬということである。故に、ある現象が自然的にどうしても説明出来ず、且つそれが善霊から来たものと考えられない場合には悪魔の影響と思わねばならない。・・・”(p.601)

“第一節 責め苦
一、本質
 悪魔から来る不思議な現象の第一たる責め苦とは、所謂誘惑よりも遥かに激しく且つ永続するものである。これには五官に働く外部的責め苦と、想像、記憶、情欲に働く内的責め苦とがある。
(A) 外部的責苦
 外的責め苦は五官のいずれにも現れるが、殊に多いのは視覚、聴覚、触覚に現れるものである。・・・”(p.602)

“第二節 悪魔憑
一、本質
 悪魔憑、即ち悪魔が人の体にのり移る状態には二種ある。即ち(一)悪魔が人体にのり移ることと、(二)悪魔が人体をわがものとして思いのままに用いる事である。悪魔は霊魂に対して直接働きかけることは出来ぬため、身体を通じて間接に霊魂に悪影響を及ぼそうとするのである。”(pp.604-605)

 悪魔はobsession(悪魔による外的責め苦)の後、侵入を果たしpossession(憑依)するわけですが、しかし、決してその本人の根幹部分に手を触れることができない。それを赦されてはいないということになるのでしょう。

 また、もう一点、“。「しかしわしはこうみておる。つまり、悪霊の目標は、取憑く犠牲者にあるのではなく、われわれ・・・われわれ観察者が狙いなんだと。いいかえれば、この家にいる者の全部だ。そしてまた、こうも考えられる。やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティを打破することにある。いいかね、デイミアン。やつはわれわれをして、われわれ自身が窮極的に堕落した者、下劣で獣的、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在であると自覚させようとしておる。この現象の核心はそこにある。例えばわれわれの神への信仰には、理性が関与していない。それは愛の問題­­­­­̶神がわれわれを愛したもう可能性の受容の問題で・・・・」”

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 これも、自分の愛する家族から、このような人間が出てしまう恐怖。それは悪魔からなのか、精神的な病から来るのか(ふつうは後者と考えるでしょう)、しかしそれは突然起こってしまう。何件もの病院を回って見ても、有名な病院や医師を頼って見ても好転はせず、だんだんとおかしくなって行く家族。藁にも縋る思いで民間療法や怪しげなものや人について行ったり、もちろんひどくこそなれ良くはならない。その時その人や家族が信仰深くあれば絶望へ導かれ、信仰がない者は怪しげな宗教やまじないにまで陥ったりします。旧約聖書のヨブ記の主人公ヨブのように、本人に終わることのない外的責め苦が肉体より、精神より、家族より、友人より、社会より絶えず訪れ死を願うほどに達したりすることもあるやもしれません。絶望が断続的に続く中で信仰は、波間に流された木の葉のように大きく揺れ、もろくも沈んだりします。新約聖書の福音書でイエスの悪霊を追い出す記述が数多くあります。たいていの場合、家族がイエスの高名を聴き、悪霊に憑かれた家族を伴ってイエスに癒しを願い出るというものや通りかかったイエスの目に留まり、癒してもらうなどといったものです。前者の場合、イエスのうわさを聞いた家族は、それまでもいろいろなところに行って助けを求めていたのかもしれません。運良くイエスに出逢えたというものなのでしょう。イエスに出逢えていなかったら、またもいろいろなうわさなどを聞いては助けてくれるよう救いを求め続ける生活だったかもしれません。終わらぬ苦しみの恐怖と絶望。自分が自分でなくなる、家族が家族でなくなる恐怖と苦しみ。消耗される心と体そして信仰。強まる恐怖と苦しみ、そして絶望と不信。悪魔とは狡猾なもの。

イエスのエクソシズム


 そして、“、「しかも、このようなもの­­­­­̶このような悪からでさえ­­­­­̶善が生じてくる。何らかの方法でだ。われわれには理解できず、見ることもできない何らかの方法でだ」またもメリンは言葉を切って、考えこんでから、「おそらく、悪こそ、善を生み出するつぼであるからだろうな」と、いった。「そしておそらく、大悪魔(ルビ:サタン)でさえもが­­­­­̶その本質に反して­­­­­̶何らかの意味で、神の意志を顕示するために働いておるともいえるのだ」”

 この事例はヨブ記がよく表しています。決して悪魔は神に対峙しえない存在です。神は全知・全能・永遠・不変・無限・始まりも無く終わりも無い・愛・義・聖であられる絶対的存在。悪魔でさえ恐れおののいている存在。彼らの存在すら神がそう思われるだけで無になる程度のもの。彼らはその本性から悪を行おうとも、神はなお善用なされる。それの実例こそイエス・キリストの十字架でしょう。悪魔は勝利に酔いしれた瞬間、それが決定的敗北と知らされる。

 この小説は実によくできていると感心します。

つづく



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