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寄る辺なき身となれども

 人は一人であっても孤独であっても、現代の社会の中、生活し生きて行くことはできます。しかし、社会にあって無縁であり、寄る辺なき境遇に絶えることはできないのではないでしょうか。

ルーテル・アワー通信講座 初級 1課 Athanasius記名


 ルーテル・アワー通信講座テキストの「第一課 あなたを求めるキリストの愛」には、次の話が語られていました。

"   ひとりぼっちのおばあさん
 
 さて、いまあいさつのなかで、この講座をあなたの心の友にしてください、と申しました。いま、あなたは、いろいろな友人をもっておられることと思います。たとえば、学友、職場の同僚、スポーツを通しての友人など、たくさんおられることと思います。しかし、あなたも、この世の中には、友人どころか、肉親も親族もいない人がたくさんいるということを、ごぞんじでしょう。この講座を、まずそのようなあるひとりの老婦人の話から始めていきたいと思います。このひとは、友人も肉親も親族もなかったのです。これはイギリスのロンドンであった話しですが、ある日、この老婦人は、自殺をしてしまったのです。死後、彼女が書いた日記が発見されました。そして、その日記の内容がイギリスの新聞に発表され、多くの人の深い同情をよんだのです。なぜなら、この日記には、ほとんど毎日こういうことが書いてあったからです。

  「○月○日 きょうも、だれひとり、たずねてきてくれなかった。
          きょうも、だれひとり、話しかけてくれなかった」

 このおばあさんは、ひとりぼっちの生活に耐えられなくなって死を選んでしまったのです。ちょっと、このおばあさんの生活を想像してみてください。このおばあさんは、べつに、金銭的に困っていたのではありません。生活を十分ささえていけるだけの保障は、国からもされていたのです。しかし、どうでしょうか。もしあなたが、朝、目がさめたとき、自分のまわりにだれひとりいないような生活が毎日続いたとしたら、あなたは耐えられるでしょうか。食卓に向かったときも、自分のそばにだれもいないような生活を想像してみてください。はたして、食事がおいしくとれるでしょうか。一日じゅう自分に話しかけてくれる人がひとりもいないようなわびしい生活に、どうしてがまんできるでしょうか。だれひとり訪問してくれる人もいないような、うつろな生活を、どうして続けていくことができるでしょうか。これは、まったくの孤独地獄です。…"

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 今日、このテキストにあるような事案がめずらしくはない社会となりました。マスコミなどでは"孤独死"が報じられ、"無縁社会"などという言葉もよく聞かれるようになりました。

 昔は独居老人の孤独死だったものは、年齢が下がり、壮年層や若年層にも見られるようになりました。また、さまざまの理由では在りますが2012年の警察庁の発表の自殺者の確定数としては、前年比9.1%減の2万7858人でありました。その内自殺の原因が「孤独感」とされている人の数は594人もありました。この数字を少ないと捉えるか、多いと捉えるかは人によって違うのかもしれません。

 大乗仏教の中のお念仏で知られている浄土門の経典「無量寿経」の三毒段に、有名な『人、世間の愛欲の中に在りて、独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る。まさに行きて苦楽の地に至趣すべし。身みずからこれを当(う)け、代わる者あることなし。』との一節があります。この言葉を受け時宗の開祖一遍上人は、「百利口語」で『六道輪廻の間には ともなう人もなかりけり 独むまれて独死す 生死の道こそかなしけれ … 』と言っておられます。

 無縁な者は社会に属していながら何も起こらない、変化しない日常の繰り返し、いるのにいないのと変わらないということでしょう。出家者のようにそれらの執着を払い、仏陀が教えるように『犀の角のようにただ独り歩め』(スッタニパータ)のような生き方を選んだのなら、苦しみから逃れることができるかも知れませんが、そうではなく愛着を持ち執着しているのに無縁にならざるを得ない凡夫には、それは耐えがたい苦しみであり、不安の中に日々生きなければならないことでしょう。

 聖書の中に、そのような人のことが出てきます。新約聖書ヨハネによる福音書5章1節から9節までを見てみましょう。

"5:1こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。
5:2エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。
5:3その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。
5:4それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕
5:5さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
5:6イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
5:7この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
5:8イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
5:9すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。"

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 ここエルサレムの廓(くるわ)の外(ヘロデ・アグリッパがクラウディウス帝の治世中に城壁を増設する前であったので、この時はまだ廓の外にありました)、羊の門から出た傍らににありました。そこには「五つの柱廊があった。」(岩隈直訳)と聖書は伝えており、考古学上の発見などから二重のプールであったとされています。ここに"三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった"のです。彼はある意味、知られていたのかもしれません。それだけ長い間ここに居たのですから。

 彼はいつ、何歳の時にここにやって来たのでしょうか。それはわかりません。長い間病気で苦しみ、風の便りにこの場所のうわさを聞きやってきたのかもしれません。

無題


 また、この池の南東側には、医神アスクレピオスの癒しの小神殿 ( アスクレピオン ) があり、ベトザタの池はそれに付随する沐浴場または癒しの浴場のようなものであったとも言われています。この池のすぐそばには当時ユダヤ人を統制するために使われていたアントニア要塞があります(使徒21:30以下)。ローマ兵が自分たちの傷を癒す神を必要としていたことでしょう。そして、当時はエルサレムの市外にあることなどから、ユダヤ人との摩擦も少なかったのかもしれません。

  このようなことから、当時、ユダヤ人から罪人としてユダヤの祭儀から締め出されていた病や障害を持っていた下層民である多くの病人が、このベトサダの池に集まり癒されることを待っていたとしても不思議ではありません。

 では、なぜイエスはそこに行かれたのか。どこかの行き帰りによるような場所でもなく、異教の神の癒しの場としても使われていたその場所へなぜ行かれたのか。もし、そこにいる病人をあわれに思われて行かれたというのなら、なぜ多くいる病人を癒したのではなく、その中のただ一人にのみ声をかけられて癒されたのか。そして、癒された男を見ているはずの大勢の病人はなぜ沈黙しているのか。このことについてヨハネ福音書の筆者は何も答えてはくれません。

 そして、物語はイエスが癒しを行ったのは安息日であったと伝えています。そして、ここでは他のイエスをめぐる安息日の論争とは違い、癒しの業を行ったことがユダヤ人たちにとがめられているのではなく、安息日に『床を担いで歩きなさい』と命じたことがとがめられています。
 
 この物語はそのような謎を提供してくれます。また、二つの事についてイエスの挑発的行為、または勝利とも見えます。一つは地中海世界で広く信じられていた異教の医神アスクレピオスに対する勝利とユダヤ人たちのかたくなさに対する非難といった面も見えてくるのかもしれません。

 また、この病人が孤独であったこと、ユダヤの宗教祭祀からも締め出された無縁な人、助けてくれる人もない寄る辺なき人であることが浮き彫りとなっています。異教の医療の神の小神殿に付随する沐浴場に起こる奇跡、そこの水面を天使が揺らすとき真っ先に入ることができれば癒されるという噂を頼りに、じっと不住な体を横たえ、ただひたすら水面を見ている姿。最早体の自由も聞かず、水に真っ先に入るのは無理だとわかっていても、そこを離れられない、希望も枯れていながらなお縋るしかない生。その横目で真っ先に入る人を見、もしかしたら病気が偶然にも治った人があったかもしれず、それを見ているしかない自分。そこで癒しを求めるのをやめていなくなった人たち。また、世間の人から邪険にされたりローマ兵から追い立てられたりもしたかもしれません。

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 その時、彼のもとに思いもかけない言葉が、思いもかけない方からかけられます。彼が癒されることを信じていた方向ではない、人の出入りする方向から、救いの言葉はかけられたのです。「健康になりたいか」という率直な言葉でした。イエスは彼に対して彼が、今、本当に望んでいることを問われました。決してそこで教えをたれたり、場当たり的なことを言われたのではありませんでした。イエスは彼のこころの声を、ただ黙って聞かれました。そこには余分な言葉はありませんでした。彼に寄り添い、彼のこころの叫びに、耳を傾けられるイエスがおられました。

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 イエスは静かに一言、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」とだけおっしゃいました。そして、この男はなにも言わずに信じてゆだねたのです。ここに信仰の応答がありました。彼のこころは肉体が立ち上がる前に、すでに起こされていたのです。ここにわたしたちは多くのことが学べます。

"神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には開放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべて悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を表す主の植木と呼ばれよう。"
  イザヤ書61章1~3節 新改訳聖書第3版

  ダビデの次の叫びの言葉を思い出します。ダビデは神に向かい「御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です」(詩編25:16、新共同訳)。この叫びは、神を信じる信仰者にも、困難や苦難、困窮の中、または、さまざまの理由から家族を喪失したり、社会から無縁者となってしまった時、また、人の中にありながらも孤独に陥った時など、魂の奥底からの叫び声なのでしょう。

二羽の雀

  "主なるイエスは「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。しかしその中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。」"(マタイ10:29、岩波訳)と言われ、人はどんなに孤独に見えて、造り主なる父なる神は、いつも共にいると語られました。また、イエスを信じる者には、イエスご自身が "「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」"(マタイ28:20)と約束しておられます。人はどんなに孤独に見えても、いつも神が共にいてくれるということが知らされています。


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Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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