fc2ブログ

Gottesdienst

Yahoo!ブログに2013/5/6(月) 午前 11:08にアップした記事

 ルーテル・アワー通信講座の「佐藤邦宏著 キリスト教入門講座」(全5課)の5課目のテキストは、「第9章・礼典、第10章・永遠の生命」について取り扱われていますが、その中から「礼拝」の部分についてみてみましょう。
 
“ キリスト教会では、ふつう、毎週日曜日の午前中に「礼拝」が行なわれます。そして、その中で、「礼典」と言われる「洗礼式」や「聖餐式」が行なわれることがあります。まず、この「礼拝」について述べましょう。
 「礼拝」は、教会によってプログラムが少しずつ違っています。ある教会では、伝統的な形式のきまったプログラムを重んじ、ある教会では、わりあいに自由なプログラムや形式で行なわれています。しかし、礼拝の中心が、聖書の朗読と説教であることは共通しています。説教というのは、聖書の解き明かしですから、いわば、聖書そのものの朗読と説教の両方の形で、神の「創造の意思」が語られるわけです。
 第七章で、「教会」は、神の「創造の意志」を、てっとりばやく、確実に聞ける場所だと述べました。そのために「教会」に人が集まり、いろいろな集会が行なわれています。そしてその頂点が礼拝であるということになります。
 はじめて礼拝に参加すると、何のことかよくわからないことが多いと思います。何だか、場違いなところへはいりこんだようで、とても居心地が悪いと思うこともあるでしょう。しかし、それを乗り越えて、継続して出席することがたいせつです。そうすれば、必ず、神の「創造の意思」があなたに働いて、あなたを「義」へ導いてくれるのです。
 それは、次の理由によってです。「礼拝」のことを、英語では「サービス」といいます。これは通常「奉仕」と訳されている言葉です。日本にキリスト教が伝来した時、できるだけ日本にある言葉を使おうというので、仏教の「礼拝」(らいはい)という言葉を、この「サービス」にあてたので、「礼拝」(れいはい)というキリスト用語が生まれたのです。
 ところで、ドイツ語の「礼拝」に相当する言葉を直訳すると、「神の奉仕」ということになります。このことは、非常にたいせつなことを示しています。通常「礼拝」ということを考えると、人間が神を礼拝する、つまり「神は礼拝の対象である」と考えがちですが、「神の奉仕」と考えると、実はその逆ということになります。
 ほんとうの意味は、「神が人間に奉仕してくださる」ということです。「神が、何とかして人間を、最初『このようにあらせられたい』とはっきりした『創造の意思』をもって創った姿、つまり『義』にもどらせようといる神の「行為」、これを私たちは「礼拝」と呼んでいます。ですから、「礼拝」として日曜日の一定の時間に行なわれるのは、「神の礼拝」のほんの一部分の、見えるかたちにすぎません。「神の礼拝」は日曜日だけでなく、毎日、いつでも、私たちのためになされているのです。 ”
 
 実にルター的、ルーテル派的説明といえます。ドイツ語のGottesdienst(礼拝)は確かに冒頭にGott(神)で始まっています。Gott(神)とDienst(サービス)から成る語ですね。ルーテル派などは今も礼拝を英語のサービス(Church Service)といいますが、近年のアルミニアン・ウェスレアンの流れにある福音派系・聖霊派系のプロテスタントでは、ワーシップ(Worship)という言葉の方が聞かれ、「神が人間奉仕してくださる」という意味を喪失してしまったのだなと感じてしまいます。
 
 ルターは神や信仰について動詞的に捉える人だったといわれています。元ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校教授で同ルター研究所所長であった徳善義和先生の著書「自由と愛に生きる 『キリスト者の自由』全訳と吟味 」(教文館)の中で “ ルターは名詞型の思考ではなく、動詞型の思考をすると私には思えるし、そこに中世の信仰、教会、神学からの宗教改革的転回のひとつの手がかりがあると思われる。「神の義」は名詞としてとらえられるのではなく、「神はわれわれを義とする」という形で動詞的に把握されるという具合である。ラテン語が教会用語、神学用語として名詞的、静的であるために、より動詞的、動的でありうるドイツ語による著作を心がけていたとも言える… ”(p83) と説明されていますし、キリスト教ラジオ番組FEBC( http://www.febcjp.com/ )で、以前に放送された徳善先生によるマルチン・ルターの「キリスト者の自由」( FEBCにて現在MP3版とDLにおいて販売中 http://www.febcjp.com/lib_catalogue2/ )の中で、『…ルターの傾向として物事を動詞的にとらえていこうというのがあるんです。それにぴったり合うマルチン・ルターの言葉が一つあるんです。神が我々の味方ならば、誰が我々に敵対するだろうか。というロマ8章31節の言葉を、短くルターが説明している箇所があるんですね。 我々が代名詞、我々が、我々をとか、我々にとか、格変化させてし得るのだとすれば、神という名詞を動詞変化させ。 神というのは名詞じゃないんだというわけですね。動詞変化させた方がいいんだ。動詞変化させるならば、名詞を動詞にして、神語る、神語った、語られたる、神をそう変化させたらいい、名詞変化でね神は・神の・神に・神を・神からとラテン語はそう変化するんですが、そうさせないでね、動詞変化させて、神は語る・神は語った・神は語られたる・神によって語られたる、そういう神という名詞の現在・過去・過去分詞で変化させた方がいいんだという言い方をしたので、ちょっとわかりにくいんですけどね。まさにね、マルチン・ルターが、この物事を、特に神様に関わる事柄を動詞的にとらえた。信仰にかかわることも動詞的にとらえた。という一つの顕著な一点だと読んでいるんですよね。それだからこそ、神の言葉がキリスト者をつくる、自由にするという動きになって、神の言葉自体が動き、作用する意味合いを強く持ってくるようになると思うんですね。動いている感じ、ダイナミックと言ってもいいでしょうかね。』(テープ興し)と語っていました。
 
 動的に神をとらえる。動的にキリストをとらえる。動的に聖霊をとらえる。動的に信仰や愛をとらえる。これは発想を大きく転換させてくれますし、私たちが神を礼拝するのではなく、神が私たちのために奉仕してくださっているのだということは、まさしく神の愛が能動的にわたしたちに溢れるばかりに注がれているということです。
 
 “信仰それ自体では生の中に具体的な形をとることはありえないから、愛がそれに加わって、決定的な役割を果たし、愛こそが信仰を形あるものにもたらすことになる。「愛によって形成される信仰 fides caritate formata 」である。信仰のみでは無力で、愛が加わることが決定的に必要である。しかし、ルターにとっては信仰は、神の働きであり、神の真実から起こるできごとであるから、それ自身の中にではなく、神からの力(デュナミス)によっている。だから、神の真実がそうであるように、信仰は信仰者の一部分の規定ではなく、包括的、全体的な規定であって、信仰は即、愛でもあり、喜びでもある。だから、信仰プラス愛から行いとなるのではなく、信仰即愛ゆえに行いとなるのである。パウロが言う「愛によって働く信仰」(ガラテヤ五・六)をルターはこのように新しく理解することになったのである。こうしたダイナミズムの中で、ルターは隣人愛、隣人奉仕が自己愛を排除しとおすことを明らかにしている。”(前掲書p251-252)
 
 「信仰とは神様の愛をいっぱいにいただいて受け止めて行く事だから、いっぱいにいただいた愛を、自分の中に溜め込んじゃうのじゃなくて、ごく自然に信仰的な生き方をしようと思うと、このつまらない私を通してでも、神様の愛が他の人のところに伝わって行く。…神様から受けた奉仕は、隣人への奉仕となって出て行く」(前掲テープより)
 
 礼拝をこのように受け止めてみる時、全く違ったものに代わってくるのではないでしょうか。
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

 Yahoo!ブログからの引っ越し記事内のURLはリンク切れをしているものがあります(気が付いたらものからインターネットアーカイブに保存されているのならウェイバックマシンURLなどに修正などしております)。


 役立った、良かったなどありましたら拍手ボタンを押していただけると嬉しい限りです。


​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
リンク