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道に縛られず


 アニメ一休さんでよく知られた一休宗純の作とされる「骸骨」の中に、宗教多元主義的考えの人らの言説で「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」というものが使用され、どんな宗教も結局は行き着くところはみな同じというものを見かけたりもします。しかし、本当にそんな意味の道歌なのでしょうか。「骸骨」のその部分を見てみますと、❝分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月をこそ見れ 行く末に、宿をそことも定めねば、踏み迷うべき道もなきかな❞と詠われていて、後半は自分でここへ行こうと決めたりしていなければ、そもそも決まっていないのだから道に迷うはずもないと、己を制限したり縛ったりしない、あるがままを受け入れあるがままに進む、心の重荷がなくなるような感じがする歌に思えます。

一休 骸骨

 キリスト教の異端や破壊的カルトの問題を見て行きますと、なぜ彼らは気が付かないのだろうと思うことがよくあります。日蓮の「立正安国論」の中の言葉で、念仏宗を批判して"辛きことを蓼の葉に習い臭きことを溷厠に忘る"(「新編日蓮大聖人御書全集 創価学会版」)("辛きを蓼葉に習ひ臭きを溷厠に忘る。"「平成新編日蓮大聖人御書 大石寺」p.242)と言った一節が出てます。確かにヤナギタデの葉を食べている蓼虫が、その辛みを感じないことや、臭いトイレの中に長くいる虫は、その臭さを感じないとの例はある宗教に熱心になっている人間をよく表しています(日蓮自身にも当てはまるとも思いました)。

辛きことを蓼の葉に習い臭きことを溷厠に忘る

 キリスト教徒は改宗前に熱心な仏教徒でもない限り、一般によく知られたものを除いて、なかなかこういった仏教の話に耳を傾けることが少ないのはちょっと損している感じがします。今は以前みたいに漢文や訓読だけでなく、現代訳なども多く出ているよい時代になったのですから、もっと学びあうのもいいかもしれません。




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