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後代の挿入句であるヨハネ福音書7章53節~8章11節


 今回は前回の「ルカ福音書23章34節の後代の挿入句」の記事と同じく、ヨハネ福音書の中にある後代の挿入句について見てみたいと思います。

まずは口語訳聖書からその箇所を見てみましょう。

" 〔 53そして、人々はおのおの家に帰って行った。
第8章 1イエスはオリブ山に行かれた。 2朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 3すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 5モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 6彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 8そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 9これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 10そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 11女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕 "

 日本聖書協会の口語訳聖書には凡例が無いので、この個所に見られる亀甲括弧 〔 〕 についての説明がありません。しかし、同協会より発行されていた「口語 新約聖書について」(1954年)という48ページほどの冊子を見ますと、次のように書いてあります。

" 更に、写本上の典拠が十分でないところからネストレの本文から除外され、欄外に出されている節が、いくつかある。現行邦語訳新約聖書では、そういう場合に(何々節ナシ)としてある。たとえば、マルコ七・一六、九・四四、四六、一一・二六、一五・二八、ルカ二三・一七その他である。委員は、これらの場合、欄外の文を訳出して、こうした空白を全部埋めることにした。ただし、これらの節は、一々 〔 〕 形の括弧で包み、その性質を示すようにした。聖書の中に、何々節「ナシ」などとあるのは、よろしくないと思われるし、口語訳の如き大衆性を多分に持つ聖書では、不必要に不審の念を人々にいだかせることでもある。これは厳密な学問の立場からは異議があるであろうけれども、〔 〕 内に入れられる言句も、写本上の証拠が十分でないとはいえ、歴史的、宗教的な意味と価値とはそなえていると信じられるので、あえて右のような措置をとったわけである。また、ネストレは、ヨハネ七・五三-八・一一を欄外に出しているが、口語訳では、これも 〔 〕 内に入れて本文に取り入れた。この種の例は、ほかにも多少みられよう。 " 
(p.22)

 この冊子を口語訳聖書に組み入れるか、それとも簡単な凡例でも付ければいいのに、別に小冊子の形で頒布したら買わないでしょうし、こういうものは口語訳聖書が出版された当初くらいしか頒布されないのだから、頒布されなくなってから後は、凡例も無いのですからとても不親切と言えます。長老派やピューリタンに毒された英国外国語聖書協会の出版方針(1826年5月3日にロンドンで開催された英国外国聖書協会の会議での決議)が、こういう不親切で利用者のことを考えない聖書出版に繋がっていたのでしょう。まあ、そのことは置いておくとして、この亀甲括弧で囲われた箇所は、ネストレ旧版では写本証拠から欄外に置かれたものです。1979年に出版されたネストレ新版とも呼ばれる26版以降では、欄外ではなく本文に入れて二重の角括弧 〚 〛 で囲って、後代の加筆部分であることを示しています。旧版(18版)の画像をあげておきます。この形式は25版まで変わりません。

ネストレ18版

 画像に見られる通り、ネストレ旧版では52節の下に線が引かれていて、その下が欄外であることが分かります。そして51節と52節のアパラトゥスが書かれ、その下に52節までの本文の文字よりも小さいアパラトゥスに使われる文字の大きさのまま、二重の角括弧 〚 〛で囲って後代の挿入句が書かれ、さらにその下に欄外線が書かれて、後代の挿入句のアパラトゥスが付されるという形になっています。

 口語訳聖書のように亀甲括弧や角括弧で囲っている聖書は、大正改訳、口語訳、共同訳、新共同訳。これらは凡例なしで、欄外注もなしです。

 2018年に引照・注付きで出版された聖書協会共同訳は亀甲括弧で囲い、欄外注では言及・説明無し。凡例で亀甲括弧の説明があるだけです。

 新改訳は欄外注に説明はあるものの、本文に付されている亀甲括弧については、凡例にあたる「あとがき」にて説明はありませんでした。欄外注は以下のようなものです。

新改訳(第一版、第二版、第三版)欄外注
" 53* 古い写本のほとんど全部が七・五三-八・一一を欠いている。この部分を含む異本も相互間の相違が大きい "

新改訳2017欄外注 
" 53* 古い写本のほとんど全部が七53-八11を欠いて、この部分を含む異本間の違いも大きい。この部分がルカの福音書に含まれている異本もある "

 岩波書店新約聖書翻訳委員会訳(2004年)も本文を角括弧で囲い、以下のような欄外注があります。

" 七53-八11は、西方で作成された写本のみが伝えている。語彙の多くが非ヨハネ的であり、またルカ福音書二一章の後に入れたり、ルカやヨハネの付録として伝えている写本もあるため、後世、ここに入れられたものと思われる。ただし、伝承それ自体はかなり古いものらしい。三世紀の初頭にシリアで書かれた教会規則ディダスカリア(Ⅱ二四6)には、よく知られた話として言及されているし、二世紀のパピアスも知っていた可能性がある(エウセビオス『教会史』Ⅲ三九17、参照) "

 次に、本文に括弧等を付けておらず、本文と区別していないもので、さらに欄外注で後代の加筆であることに言及していないものは、バルバロ訳ドン・ボスコ社版新約改訂版1957年、バルバロ訳聖書講談社版 旧新約1980年、新約1981年、フランシスコ会訳「四福音書」(1977年)、フランシスコ会訳「新約聖書」(1979年中型、1980年小型)です。

 フランシスコ会訳も1984年の改訂版でやっと欄外注で言及されました。2011年に出版された旧新約のコンプリート版でも同様の注が付されています。

フランシスコ会訳「新約聖書」(1984年改訂版)欄外注
" (16) 7 53-8 11の部分は、仮庵の祭りのときの論争を中断しているので、ヨハネ福音書本来の記事ではなく、後の加筆とみなされる。 "

フランシスコ会訳「聖書」(2011年コンプリート版)欄外注
" (15) 7・53-8・11の部分は、仮庵の祭りのときの論争を中断しているので、ヨハネ福音書本来の記事ではなく、後の加筆とみなされる。 "

 いのちのことば社から昔出ていた「詳訳聖書 新約」の欄外注は、アメリカのキリスト教保守(キリスト教やプロテスタントの保守ではなく、あくまでも【アメリカの】プロテスタント保守層)の正文批判を無視した考え方による注が付されています。

詳訳欄外注
" (a)  ヨハネ7・53-8・11は古い写本には欠けている。しかし、いかにもキリストにふさわしい記事であるので、私たちはこれを純正なものとして受け入れ、削除するのは最も不幸な事と考える。 "

 続いて個人訳からですが、岩隈直訳「福音書」では、8章11節の本文の後に

" (この項は原著では下巻の最後にある 編者注) "

と書いてあります。 岩隈直訳の底本であるR.V.G.Taskerの「ギリシヤ語新約聖書」を見ましたらヨハネ福音書の最後に載せられていました。

 大トリは田川訳で、まずは「新約聖書 本文の訳 携帯版」(田川建三訳 2018年 作品社)から、こちらは本文のみで註がないので、後代の加筆部分が始まる前に説明が括弧書きで付されています。

"  (以下、七・五三-八・一一は重要な諸写本にはのっていない。だいぶ後になって、多分四、五世紀に、この話を付け足す写本が現れ、以後徐々に諸写本に広まったもの。従って本当は本文の訳としてはこの部分は削除して訳すべきだが、有名な話だから、訳出しておいた)
〔(七章) 53そしてそれぞれが家に帰って行った。
 第八章 1イエスは、オリーヴの山へと行った。 2だが・・・ "

となっています。

 「新約聖書 訳と註 5 ヨハネ福音書」(田川建三訳 2013年 作品社)では、本文に括弧などが付されていませんが、この個所に関する註が5ページもあります。そのうちの一部を見てみましょう。

" 第八章
53~11 《罪ある女の赦し》 七・五三-八・一一については、重要な諸写本がこれを記載していないから、そもそも原文にはのっていなかったものとみなすべきである。記載しているのはD写本とラテン語訳諸写本(つまり西方系)、またいわゆるビザンチン系の多数の写本。記載していないのは𝔓⁶⁶ 𝔓⁷⁵ の最重要パピルス二写本、ℵ B L N T W Δ Θ Ψ など重要な大文字写本が大部分(CやAも不鮮明だが多分)、また小文字写本でも重要なものがかなり。確かに西方写本とビザンチン系が一致すれば、もしもそれに加えて正文批判上何か他の重要な理由も存在するのであれば、そちらの読みを採用する方がいい場合もないわけではないが、特別な理由がない限りは、最重要パピルス写本、重要な大文字諸写本に反してその読みを採用することはありえない。
 ・・・・
 ではこの話自体はいつごろ創作され、いつ頃ヨハネ福音書のこの位置に置かれるようになったか。西方写本が之を記していることからして、おそらく後二世紀末には知られていたものであろうが(西方写本の大元の写本は後二世紀後半にまで遡ると言われている。しかし確かとは言えない)、他方では、同じ西方でも(ローマ帝国支配下でラテン語が支配していた地域。しかしギリシャ語もかなり普及していた)、主なキリスト教著者たちはこの話を知らない(エイレナイオス、ヒッポリュトス、テルトゥリアヌス、キュプリアヌス、ユヴェンクス、ヒラリウス。バウアー註解による)。とすると、西方でもあまり広まっていなかったのだろうと推測される。他方、東方(ローマ帝国支配下でギリシャ語が支配していた地域)では、そもそも主な大文字写本には記載されていないのだし、オリゲネス、エウセビオスをはじめとしてキリスト教ギリシャ語著者たちも知らないのだから、かなり遅くまでこの話は知られていなかった、ということになる。おそらく西方のどこかで創作され、それが徐々に西方系諸写本に入りはじめ、ずっと後になって東方の諸写本にも入りはじめた、ということなのだろう。
 なお一頃までは、エウセビオスが伝えるパピアスの証言がこの話に言及している、と主張する学者もいたが、それは正しくない。すなわちエウセビオスはパピアスの書物(後二世紀前半)の中からマルコ、マタイ福音書に関する有名な証言を引用した後、次のように記している、「同じ者(パピアス)は、ヨハネ第一書簡とペテロ書簡から得た証言を利用している。また多くの罪に関して主の前で告発された女についての他の物語も述べている。これはヘブライ人による福音書が提供している話である」(HE Ⅲ, 39, 17)。もしもこれが我々の話を指しているのであれば、この話はもともとは「ヘブライ人による福音書」にのっていた、ということになる。それがいつの間にかこれだけ抜き出されて、ヨハネ福音書やルカ福音書の適当な箇所に挿入されたのだ、と。しかしエウセビオスは「多くの罪に関して主の前で告発された女性」と言っているので、それに対し我々の話は一つの罪(姦淫)に関して告発されているだけだから、同じ話とは言えまい。ただしエウセビオス『教会史』のラテン語訳ではこの個所をはっきり「姦淫の女について」と訳しているので、この訳者がパピアスのこの話をヨハネ福音書の我々の個所の話しと同一視していることは確かである(G.Bardy, Eusèbe de Césarée, Histoire Ecclésiastique, Tome 1, 157, note 12)。つまりエウセビオスのラテン語訳をなした人物(Rufinus)はもちろん西方のキリスト教著者であるから(イタリア南部のAquileia ほかで活躍。四〇〇年前後にエウセビオスのラテン語訳をなした)、我々の話を知っていたのであろう。
 ・・・
 以上、この話が本来ヨハネ福音書に記されていたものでないこと、かなり後になって誰かこの種の説教的物語を作るのが上手な奴が創作したものであること、それが徐々にヨハネ福音書に入り込んだことは、確かである。そのことは、以上の正文批判的事実だけですでに十分明らかであるが、ギリシャ語の語彙、語法からしても、この個所にはヨハネ福音書では用いられていない単語、表現がこの短い箇所の中で非常に多く出て来る、という点からも明らかである(以下の註参照)。
 それにもかかわらず、そこまでの事実を認めながら、この話はもともと非常に古い伝承であり、それも共観福音書の伝承と酷似しており、イエス自身の事実である可能性が高い、などと言い張る神学者がけっこう大勢いらっしゃる。しかし、これだけ後の時代になって創作された説教が、共観福音書の伝承の仲間だとか、ましてやイエス自身の事実を物語っているのだと言い張るのは、全くの無知というものである。それはむしろ、この話が後世の(特に近現代の)教会説教者にとって非常に人気のある話だから、それで、せっかくの有難いお話、何とかイエス様の実際のお話ということにしておきたい、という願望の実現でしかない。
 ・・・・ "

 この田川訳の註を見た後で、ネストレ28版のアパラトゥスを見ると分かりやすいと思います。

ネストレ28版アパラトゥス
〚7,53-8,11〛 add. hic D K L*ᵛⁱᵈ Γ Δ*ᵛⁱᵈ 118. 174. 209. 579. 700. 892. 𝔐 lat boᵖᵗ ; Hierᵐˢˢ (c. obel. 230.1424ᵐᵍ) ╎ p. 7,36 255 ╎ p. 21,25 1. 1582 ╎ p. L21,38 f¹³ ╎ add. 8,3-11 p. L24,53 1333ˢ ╎ om 𝔓⁶⁶.⁶⁵ ℵ Aᵛⁱᵈ B Cᵛⁱᵈ Lᶜ N T W Δᶜ Θ Ψ 0141. 0211. 33. 131. 565. 1241. 1333. 1424ᵗˣᵗ. 2768 a f l q sy sa ly pbo boᵖᵗ ; Or Hierᵐˢˢ

 ネストレ28版の写本証拠の主なものを分かりやすくすると

7,53-8,11を

add(追加) が、D ベザ写本(5世紀)、K キプリウス写本(9世紀)、L レギウス写本(8世紀)、Γ ティシェンドルフィアヌス第四写本(10世紀)、Δ サンガレンシス写本(9世紀)、小文字写本、𝔐 多数派本文、lat ウルガタと一部の古ラテン語伝承など

om(省略) が、𝔓66(200年頃)、𝔓75(3世紀)、ℵ シナイ写本(4世紀)、A アレクサンドリア写本(5世紀)ᵛⁱᵈ(記号vidは写本の証言する読みが絶対的な確実性をもって決定できないことを示す)、B バチカン写本(4世紀)、C エフラエム重記写本(5世紀)ᵛⁱᵈ(記号vidは写本の証言する読みが絶対的な確実性をもって決定できないことを示す)、L レギウス写本(8世紀)の後代の修正、N ペトロポリタヌス写本(6世紀)、T ボルギアヌス写本(5世紀)、W ワシントン写本(5世紀)、Δ サンガレンシス写本(9世紀)の後代の修正、Θ コリデティ写本(9世紀)、Ψ アトウス・ラウレンシス写本(8/9世紀)、アンシャル体写本0141(10世紀)、アンシャル体写本0211(7世紀)、小文字写本、シリア語訳、コプト語サヒド方言訳、コプト語ボハイル方言訳など

となります。

 アメリカ聖書協会で1966年に出版された(当ブログでは「UBS第〇版」と表記しています)「THE GREEK NEW TESTAMENT (ギリシヤ語新約聖書)」の第一版を見ますと、この後代の挿入句は本文から取り除かれています。

 UBS版はアパラトゥスにある異読に、確かさの度合いが、{ }の中にA、B、C、Dで示されているのがネストレ校訂本との大きな違いです。「THE GREEK NEW TESTAMENT (ギリシヤ語新約聖書)」の第一版のイントロダクション41ページでアパラトゥスの記号と略号の説明で以下のように書いています。

"{ } enclose letter A, B, C, D, which indicates the relative degree of certainty for the reading adopted in the text. ({ } でA、B、C、D の文字を囲み、本文で採用されている読み方の相対的な確実性を示します。)"

 アパラトゥスでは 「{A}omit 7.53-8.11」と、この後代の追加文が無いことを「A」評価としていて、その評価通りに本文には載せていませんでした。しかし、第三版の改訂版である1983年に発行された第3版(修正版)では、この後代の追加文を本文に二重の角括弧付きで掲載しただけでなく、この後代の追加文を含む方を 「{A}include 7.53-8.11」 と評価をひっくり返しました。

まず、二重の角括弧については、第3版(修正版)のイントロダクション12ページで、以下のように説明しています。

"〚 〛 Double square brackets are used to enclose passages which are regarded as later additions to the text, but which are retained because of their evident abtiquity and their importance in the textual tradition. (〚 〛 二重角括弧は、本文への後の追加とみなされる文章を囲むために使用されますが、その明白な正確性と本文の伝統における重要性のために保持されます。)"

 そして、このUBS第3版(修正版)での修正について、B.M.メッガーは著書「新約聖書の本文研究」にて、" ヨハネ7・53-8・11「姦通の女」の A の表示が本文から外すよりも掲載する方に付せられているのは誤りである " と批判しています。(p.318)

 UBS第4版では、後代の追加文はUBS第3版(修正版)のまま二重の角括弧付きで本文に載せられていますが、アパラトゥスは変更になり 「{A}omit 7.53-8.11」 と、本来の含めないことを A とした評価に改めました。

 NEBの底本であるR.V.G.Taskerの「ギリシヤ語新約聖書」では、本文には載せられておらず脚注に

" 7・53-8・11 is printed as a separate section at the close of the Gospel (see note in Appendix) (7・53-8・11 は福音書の最後に別個のセクションとして掲載されています (付録の注を参照))"

とあり、ギリシャ語の追加文はヨハネ福音書の最後に置かれ(p.179)、そして巻末付録に説明があります。(p.426)


 続いてこの個所の重要写本の画像をいくつか載せます。


この後代の追加が無い写本の画像


Papyrus Bodmer II (𝔓66) ヨハネ7:52b-8:13a
Papyrus Bodmer II (𝔓66) ヨハネ7:52b-8:13a



𝔓75 7:49c-8:12a
𝔓75 ヨハネ7:49c-8:12a



シナイ写本 ヨハネ7:51b-8:13a
シナイ写本 ヨハネ7:51b-8:13a



バチカン写 本ヨハネ7:52-8:13a
バチカン写 本ヨハネ7:52-8:13a



ワシントン写本 ヨハネ7:52~8:13a
ワシントン写本 ヨハネ7:52~8:13a



この追加を含めている写本の画像

ベザ写本 7:51c-8:3b
ベザ写本 ヨハネ7:51c-8:3b


Codex Tischendorfianus IV(036 Γ)John 8:3-11
ティシェンドルフィアヌス第四写本 ヨハネ8:3-11



 こういう異読を調べるときに、反対意見のアメリカの福音派ファンダメンタル系のテクストゥス・レセプトゥスやジェームズ王欽定英語訳聖書に執着している団体などの記事を見てみたりしますが、そういう人たちの主張見るとスクリブナ―やバーゴンなど19世紀初頭の100年以上前の論文などを引っ張り出してきたり、現代の神学者のものを持ってきたかと思うと、その引っ張り出してきた人物は、正文批判や写本、古文書の専門外で、学問的ではなく単なるファンダメンタル的主張でしかなかったり、写本証拠は無視した論調ばかり、なんかね・・・


 次に、キリスト教ではありませんが、キリスト教の異端で、破壊的カルト宗教と見られているエホバの証人の使っている新世界訳聖書を見て見ました。1985年日本語版ではこの追加箇所は欄外に載せられています。その冒頭には

" シナ写,バチ写,シリ訳シは,53節から8章11節までを省いているが,その部分は(種々のギリシャ語本文や訳本によって多少の異同はあるが)以下のとおりである: " 

とあり、マルコ福音書16章の後代の追加箇所に比べると不親切な説明でした。

新世界訳(1985年日本語版) ヨハネ7:53-8:11


 新世界訳の2019年日本語版では、7章52節の最後に*記号が付いていて、脚注に " 幾つかの権威ある古代写本は,53節から8章11節までを省いている。 " と記載されています。そして53節から8章11節までが完全に取り除かれ、その説明が巻末付録に " マルコ 16章の長い結び(9-20節)と短い結び,ヨハネ7章53節から8章11節の言葉はどれも,明らかに原文の記述ではありません。改訂版では,そうした加筆された部分は含められていません。 " と短い説明がありました。その箇所の脚注では、" 加筆といえる理由について詳しくは,1985年発行の「新世界訳聖書 ― 参照資料付き」の脚注をご覧ください。 " とあるので、一応、1985年版の参照資料付聖書を見てみましたら、1985年版普通版と同じでした。しかし、公式サイトにあるスタディー版には

" 7:53
最初期の最も権威ある写本に,ヨハ 7:53から8:11は載っていない。これら12の節は,明らかにヨハネの福音書の原文に付け加えられたもの。(付録A3参照。)それらは,ヨハネの福音書を含む入手できる最初期の2つのパピルス写本,西暦2世紀のボドメル・パピルス2(P66)とボドメル・パピルス14,15(P75)には出ていない。4世紀のシナイ写本とバチカン写本にも出ていない。5世紀の1つのギリシャ語写本(ベザ写本)に初めて出ているが,それ以降9世紀までどのギリシャ語写本にも出ていない。他の言語への初期の翻訳のほとんどで省かれている。あるギリシャ語の写本群で,これらの節はヨハネの福音書の末尾に置かれていて,別の写本群ではルカ 21:38の後に入っている。この部分が写本によって異なる箇所に出ているということは,それが後から付け加えられたものであることを裏付けている。圧倒的多数の学者たちも,これらの節がヨハネの原文にはなかったことに同意している。 "

との説明があり、こちらは短くて分かりやすい説明が載せられています。


新世界訳(2019年日本語版) ヨハネ7:52-8:12
新世界訳(2019年日本語版) ヨハネ7:52-8:12



新世界訳(2019年日本語版) 巻末付録 A3
新世界訳(2019年日本語版) 巻末付録 A3


 しかし、日本聖書協会(主流派で使用されている新共同訳、聖書協会共同訳を出版)も、いのちのことば社(福音派や聖霊派などで使用されている新改訳を出版)も、もうちょっと利便性のある聖書を出版してもらいたいものです。異端や破壊的カルト宗教団体にこういう面で劣るものを、こういう団体より高い値段で販売していることを是正してもらいたいと思います。


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当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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