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数珠と定式文での連祷 4


 「数珠と定式文での連祷」について三回ほど書きましたが、その中でルーテル派教会におけるルーサラン・ロザリーの使用について、「ルターがロザリオの祈りみたいなやり方を批判してる」、「神学的に整合性がつかない」のではないか、などの疑問を持つ方もおられるでしょう。それについてどうなのか、個人的な見解にはなりますが、ルターの著作やルーテル派の基本信条である「アウグスブルク信仰告白」と「アウグスブルク信仰告白弁証」などを見つつ私見などを書いて行こうかと思います。

 まずは、ルターの著作のロザリオに関係する記述から見たいと思います。当該箇所だけを切り文として引用して、ここにこう書いてあるじゃないかでは、ルターが言わんとした意味が変わってしまうので、ちょっと長めではありますが引用します。


※※※

“  第一に知らねばならぬことは、ただ神が禁じたもうた罪のほかには、いかなる罪も存在しないと同様に、ただ神が命じたもうたわざ以外には、、いかなる善きわざも存在しないということである。それゆえに、善きわざを知り、これを行おうと思う者は、神の戒め以外には何も知る必要がない。
・・・・
  第二、あらゆる尊い善きわざの中で第一の最高のわざは、キリストを信じる信仰である。・・・・
 ・・・・
  第三、さらにすすんで、彼らが手のわざをいとなんだり、歩いたり、立ったり、あるいは飲食睡眠など、からだの栄養もしくは一般的益のために、あらゆる種類のわざをなすとき、人々はそれらを善きわざとみなすかどうか、そして神がそれらのわざにおいて、人々を喜びたもうと信じるかどうか、と尋ねるならば、人々はいなと答えるであろう。そして彼らが善きわざを極めて狭く限って、ただ教会における祈祷、断食、施与などにとどめ、それ以外のわざは、すべて神にとっては無価値のものだとみなしていることがわかるであろう。こうして彼らは、のろわれた不信仰によって、いやしくも信仰において生じ、語られ、考えられる事柄はいっさい神への奉仕となるべきであるにもかかわらず、その奉仕の道をせばめ、制限しているのである。
 ・・・・
 第四、さて、ここにだれでも自分の行うわざがどういうときに善であり、また善でないかを自分で認め感じることができる。すなわち、自分の行うところは神のみこころにかなうという確信が心にあれば、たといそれが、わらくず一本を拾いあげるような些細な事柄であっても、そのわざは善である。けれども、その確信がなかったり、あるいは疑ったりするようなことがあれば、そのわざは、たとえあらゆる死者をよみがえらせ、おのが身を焼かせるほどのものであっても、善ではない。そのことを聖パウロはローマ14章で、「すべて信仰から、もしくは信仰において行われないことは罪である」〔23節〕と教えている。
・・・・
 第十一、聖パウロは多くの場所で信仰を重んじて、 “Justus ex fide sua vivit” すなわち「その信仰による義人は生きる」〔ローマ1・17〕と言い、また「信仰とは、それによって、人が神の前に義とみなされるものである」〔ローマ3・28〕と言っているが、これがパウロの考えなのである。このように義が信仰に基づくものであるならば、信仰だけがすべての戒めを満たし、すべての戒めのわざを義とすることは明らかである。・・・・今日、私たちが、全然信仰なしで行われた外面だけきらびやかな大きなわざをしりぞけると、彼らは「ただ信ずべきだ。善いことは何もする必要はない」という。たとえば今日、第一の戒めとして人々が挙げているものは、歌唱、聖書の通誦、オルガン奏楽、ミサの執行、朝祷、夕祷およびその他の定時の祈祷、教会、聖壇、修道院の寄進ならびに装飾、鐘、装具品、ミサ式服、金細工および財宝の蒐集、ローマ人や聖人たちへの巡礼などである。それゆえに、服装をととのえ、身をかがめ、ひざを曲げ、ロザリオのたまを数えて祈祷し、詩篇を唱えて祈り、しかもこれらすべてのことを偶像の前でするのではなく、神の聖なる十字架、もしくは聖徒たちの像の前で行うならば、それが神をあがめ、拝し、そして第一の戒めどおり、他の神々を持たないことだと称されるのである。けれども、これらのことは、高利貸や姦夫、そのほかあらゆる種類の罪人でさえも行うことができ、毎日行っている事柄である。だがいずれにしても、これらの事柄は、すべて神のみこころにかなうのだ、という信仰をもって行われるときには、ほむべきものとなるのである。しかもそれは、それらの事柄がすぐれているためではなくて、すでに述べたように、すべてのわざの価値を平等にさせる信仰そのもののためである。・・・ ”
ルター著「善きわざについて」(ルター著作集分冊 3 聖文舎 pp.8-10、p.11、p.12、p.25)

※※※

“ 神は、その憐みを忘れずに、しもべイスラエルを受けいれてくださった。

 マリヤは、彼女とすべての人の上になされた、神のみわざについて数えあげたのち、初めの、第一のことに帰る。そしてすべての神のみわざの中の、最も重要であり最大のもの、すなわち神の子の受肉をもってこの讃歌を結ぶ。そして彼女はここに率直に、彼女の上になされたこのみわざは彼女のためにのみなされたのではなくて、全イスラエルのために生じたのであると告白することによって、彼女が全世界の下婢、召使いであることをあきらかにしている。しかも彼女はイスラエルを二つの部分に分け、そして、ただ神に奉仕する部分のみを引き合いに出すのである。しかし上述のように、神を神とし、神のみわざを自分のうちになさせる者が神に仕えるものである。しかし、残念なことであるが、今日、神奉仕(礼拝)という言葉は、かなり異なった理解と使用がなされている。すなわち、それを聞くところの人々は、まったくこのような神のわざについて考えず、考えるのは、ただ鐘の音や、教会の木や石の作品、香炉、燭台のほのお、教会でのつぶやき(41)、聖歌隊の帽子や、ミサ服の金や絹や宝石、聖餐の杯、聖餅台、オルガン、聖像、行列、おまいり、なかでも多弁(42)、ロザリオ祷(43)である。ああ、これが神奉仕(礼拝)のなれのはてである。しかも神はこのようなことについてまったくかかわりがない。そして、我々は、毎日この讃歌を高い調子をもって荘厳に歌っているけれども、長ければ長いほど、多ければ多いほど、真の長子と意味とが沈黙するということ以外なにも知らない。しかし聖書の本文はかたく立っている。我々がこの神のみわざを学ぶことなく、また受けることがないならば、たとえ我々が教会で死ぬほど歌ったり鐘をならしたりしても、または世界の財産をすべて投げ出したとしても、そこには神奉仕(礼拝)もイスラエルも、恵みも憐みも、神もない。神はそれについて命じてはおられないし、それゆえに疑いもなく神はまったくこれらのことをお喜びにならない。
(『ルター著作集第一集第4巻 マグニフィカート(マリヤの讃歌) 訳と講解 1521』 pp.238-239)

(41) 意味の分からないままに歌うラテン語の歌声。
(42) 「主の祈り」や「アベ・マリヤ」などを、口さきだけでくりかえすこと。
(43) ロザリオで数えながら「主の祈り」をとなえること。  ”
(『ルター著作集第一集第4巻 マグニフィカート(マリヤの讃歌) 訳と講解 1521』 p.256)

※※※

 第三の戒めについて

 第一、さて、私たちは第二の戒めのなかに、どんなに多くの善きわざがあるかをみてきた。しかしそれらのわざは、信仰と神の恵みに対する確かな期待とのうちに行われるのでなければ、それ自体が善なのではないということ、さらに、この戒めだけでも意にとどめるならば、私たちのなすべきことがどんなに多くあるかということもみてきた。けれども残念ながら、多くの人々は、この戒めにとって何の意味もない別なわざにかかわっている。さて次は「安息日を聖とせよ」という第三の戒めである。・・・・《第三の》戒めの第一のわざは、簡単明瞭である。すなわち、私たちが一般に礼拝と称しているもので、例えば聖日にミサにつらなったり、祈祷をしたり、説教を聴いたりすることがそれである。こうした考え方に従うと、この戒めの中に存するわざは、きわめて少ない。しかもこれらのわざは、神の恵みに対する確かな期待と信仰のうちに行われない場合には、まったく無価値であることは、上に述べたとおりである。・・・・ミサや説教を聞いても《うわのそらで》全然心の改善とはならず、祈祷も信仰を伴わない口先だけのわさせにすぎない。そしてついには、ミサは目で眺め、説教は耳で聞き、祈祷は口先でとなえさえすれば、それで十分だと考えられるような事態にまでたち至っている。・・・・

 第四、祈りは、祈祷書のページを数えたり、ロザリオの玉を数えたりするような習慣に従ってなすべきものではない。心にかかる緊要事をとりあげて祈り、それを真剣に求めるべきである。そして、この祈りにおいて、神への信仰と信頼とを練り鍛え、その祈りが聞きとどけられることを疑わないようにならなければならない。・・・

ルター著「善きわざについて」(ルター著作集分冊 3 聖文舎 pp.69-70,75-76)

***

第十三、・・・・口がただつぶやくだけでは、祈ったことにも、呼び求めたことにもならないからである。もしあなたがそのように《祈祷の》言葉を全部誦(しょう)しおえることや、《ロザリオの玉の》数を満たすことだけしか考えていないとしたら、神はいったいどうなされるであろうか。「あなたがそのように祈願しているのは、何を求めての祈願であるのか、何を念頭においているのか」と誰かに尋ねられても、それはあなた自身にもわからないであろう。・・・・

ルター著「善きわざについて」(ルター著作集分冊 3 聖文舎 pp.93-94 第三の戒めについて)

***

第十四、・・・・ところがひとたび教会の中でミサにつらなる段になると、まるで魂の抜けた坊主の態よろしく、何一つとして神の前に持ちだし、嘆き訴えるすべを知らず、ただロザリオの玉ががちゃがちゃと鳴り、祈祷書のページをくる音がざわめき、口がぺちゃくちゃとしゃべるばかり。それで万事が済んでしまう。・・・

ルター著「善きわざについて」(ルター著作集分冊 3 聖文舎 p.95 第三の戒めについて)

※※※


 これらの記述から見えてくるのは、ルターの修道士としての体験と視点であるように思えます。

「歌唱、聖書の通誦、オルガン奏楽、ミサの執行、朝祷、夕祷およびその他の定時の祈祷、教会、聖壇、修道院の寄進ならびに装飾、鐘、装具品、ミサ式服、金細工および財宝の蒐集、ローマ人や聖人たちへの巡礼などである。それゆえに、服装をととのえ、身をかがめ、ひざを曲げ、ロザリオのたまを数えて祈祷し、詩篇を唱えて祈り」 「鐘の音や、教会の木や石の作品、香炉、燭台のほのお、教会でのつぶやき、聖歌隊の帽子や、ミサ服の金や絹や宝石、聖餐の杯、聖餅台、オルガン、聖像、行列、おまいり、なかでも多弁、ロザリオ祷」

 これらは一般信徒ではなく、修道士の生活(修道司祭も含め)について語っていることと思われます。一般信徒のほとんどは文盲で、譜面を読むことも楽器の演奏なんかもできるはずもなく、歌唱や詩篇唱は司式司祭もしくは先唱者(カントル)の独唱か聖歌隊との交唱などがされますし、ロザリオについても一般修道者は文盲であることも多く、読めないラテン語の詩篇や祈祷書に変えて、ロザリオの祈りが代替えとして祈られていたりしました(司祭については四世紀のパウミコスによって定められた修道規則に「Omnis qui nomen vult monachi vindicare, litteras ei ignorare non liceat」(司祭と見なされたい人は誰でも文盲であってはなりません)とあり、修道制が始まって間もない時期に、司祭を目指す者は文字が読めなければならないと定められていました。しかし、修道士は文盲の人が多くいましたし、文盲の割合が減った時代でも自国語は読み書きできてもラテン語はできない人は多かったようです)。このことについてはLexikon für Theologie und Kirche(神学と教会の百科事典)の第八巻のロザリオの説明で、"den Konversen u. des Lesens unkundigen Laien wird als Psalmersatz zunächst das an der Paternosterschnur gezählte Vaterunser empfohlen, " (パテル・ノステルの数珠による主の祈りは、会話や読書に慣れていない人のために、詩篇の代用品として勧められています)と説明されています(p.1304)。

Lexikon für Theologie und Kirche LThK 3 Band 8, sp.1304
(画像6行目から)

 会衆は、そこで語られるラテン語の意味もわからず、司式を眺めるだけで、ほとんど単なる見学者でしかありませんでした。それゆえに、この個所で述べられているのは、まさしく修道院でのこと、または修道士についてです。ではルターの修道士としての体験はどんなものだったのでしょうか。


  “  彼の見習い修道士としての期間は、魂に平和をみなぎらせるために工夫された宗教上の修練でいっぱいになっていたのだった。祈祷の時間は一日に七回やってきた。八時間の睡眠後、修道士たちは朝一時と二時の間に、修道院の鐘の音で起こされた。最初の鐘で、かれらははね起きて、十字のしるしを切り、白衣と肩衣を着た。これをつけなければ、修道士は決して部屋を出てはならなかったのだ。第二の鐘で、各自はうやうやしく礼拝堂に来て、聖水をからだに振りかけ、高い聖壇の前にひざまずいて、世界の救い主に対する信頼の祈りを捧げた。それから一同は合唱隊席に着席した。朝祷は四十五分間つづいた。一日七回の祈祷時間はそれぞれ、合唱長の歌うサルヴェ・レギナで、すなわち「女王、あわれみ深きおん母、われらのいのち、なぐさめ、およびのぞみなるマリヤ。追放の身なるエバの子われら、おん身にむかいて呼ばわり、この涙の谷に泣き叫びてひたすら仰ぎのぞみたてまつる。おん身よ、われらの大願者となりたまえ。いともうるわしき童貞マリヤ、聖なる神のおん母、われらのために祈りたまえ」、で終わった。アヴェ・マリヤとパテル・ノステル(主の祈り)ののち、兄弟たちは、ふたりづつ一組になり、行列を作って、静かに礼拝堂から出て行った。 ”
(「我ここに立つ マルティン・ルターの生涯」 ローランド・ペイントン著 青山一浪・岸千年 共訳 聖文舎 pp.23-24)

“  ・・・まず手短に修道院の「細かい規定」に触れておくことにしよう。それは形式抜きの現代人にとっては、ある意味では滑稽でもあり、嫌われるものでもあり、いずれにせよ耐えがたいと思われるものである。「細かい規定」というのはふつう、礼拝式文に赤い字で書きこまれたり、印刷されていたりしている指示のことである。それは、その時々にどの祈りを選べとか、特定の儀式の時には、ろうそくをつけよとか、消せとかいった指示である。礼拝の場合と同様に、修道士の生活全体もまた、起床から就寝に至るまで、また定時の祈りへの参加から、数多くの例、また食卓でのしぐさから、研究あるいは旅行、あるいは沈黙時の合図から、鐘の合図、衣服の規則、いろいろな罰の規定などといった細かいことが定められていたのである。こうした規定をすべて学ぶことが、見習い修道士の教育の、かなりの部分を占めていた。

・・・定時の祈りというのは、修道院における祈祷の原型に他ならない。 ”
(「宗教改革とルターの生涯」ペーター・マンス著 聖文舎 p.30)


 時課の共同の礼拝では、どの祈祷文を祈るか、詠唱する、連祷をする、〇〇を黙想する、その時の所作(祈祷文のどこそこでは十字を切るとか、叩拝する、弓拝する、伏拝するなど)、詩篇のどこを歌うか、様々な細かい規定が定められています。そして、これらの祈りはノルマであり、別に何らかの理由や務めで果たすことができない場合でも借金のように残って積みあがって行くものでした。ルターもこの祈りの債務が随分とあったとされています。


“  ・・・次に、定時の祈りを「お勤め」という点で考えるということがある。つまり、どの修道士でも、それを行わないと罪になるという意味でお勤めの観点で見るわけである。定められた秩序に応じないことを祈ったり唱えたりする者、定められた時を守らなかったり、定められた祈祷文のある部分を飛ばしたりする者には、軽い罪が科せられた。1日じゅう全然祈らなかった者は、しなければならないお勤めを神に対して拒んだものとして、分派の者とされた。・・・1520年にはルターは祈りの義務を果たすという面では、週単位ではなく3ヵ月単位で遅れていたと思われるからである。・・・  ”
(「宗教改革とルターの生涯」ペーター・マンス著 聖文舎 p.50)


 他の修道者たちなどは、このような祈りがたまってしまった場合、お金などを払って他人に代禱してもらって消化するということがおこなわれていましたが、ルターはそういうことはしなかったためにこのように溜まってしまったともいえます。

 また、これらの定時の共同の祈りと共同の祈りの間には、準備のための祈りの時がありました。そこでも信仰とはかけ離れた祈りの誤用がまん延していました。


" ・・・共同の定時の祈りをこのように見ても、危険や問題がなかったわけではない。それは、定時禱の準備のために定められた静かな祈りの時間にもあてはまる。なぜならばここでは、主の祈りとか使徒信条とかが、単に沈黙の時間をはかるために用いられたりして、本来の定時祷のあり方、つまり黙想しながら準備をするということが歪められたからである。 "
(「宗教改革とルターの生涯」ペーター・マンス著 聖文舎 p.50)


 祈りで時を計る用い方というのは修道院の外、世俗世界でもよく見られたようです。Consider the Fork A History of How We Cook and Eat by Bee Wilson(「フォークについて考える 私たちがどのように調理し、どのように食べるかの歴史」 ビー・ウイルソン著)という本によれば

Consider the Fork A History of How We Cook and Eat by Bee Wilson


“ Cooks have always needed to measure time, one way or another. The kitcen clock, quietly ticking on the wall, is one of the least recognized but most vital pieces of technology. No one seems to know when it first got there, though it had certainly arrived by the eighteenth century. We can tell that kitchen timepieces were not the norm in medieval and early modern times from the number of recipes giving timings not in minutes but in prayers. A French medieval recipe for preserved walnuts requires them to be boiled for the time it takes to say a 'Miserere'('O wash me more and more from my guilt …'), about two minutes. The shortest measurement of time was the 'Ave Maria' , twenty seconds, give or take. You might say that such recipes reflect the fact that medieval France was a society in which religion permeated everything. Yet this timing-by-prayer had a very practical underpinning in an age when clocks were rare and expensive. Like the walnut-sized butter, these timings depended on communal knowledge. Since prayers were said out loud in church, everyone knew the common pace at which they were chanted. If you asked someone to 'boil and stir the sauce for the time it takes to say three Paternosters' or 'simmer the broth for three Lord's Prayers' they knew what this meant. And so, far from being otherworldly, it was more sensible advice than some of the more secular examples in written recipes such as 'let the solid particles precipitate from the mixture for the time aperson would take to walk two leagues'. The use of prayers as timing devices belonged to the long centuries when cooks had to use deep ingenuity and vigilance to ensure that a meal came out right: cooked, but not burned. ”
(料理人は常に、何らかの形で時間を計測する必要がありました。 壁で静かに時を刻むキッチンクロックは、あまり知られていないものの、最も重要なテクノロジーの 1 つです。 それがいつ最初にそこに到達したかは誰も知らないようですが、18世紀までには確実に到達していました。 中世や近世では、分単位ではなく祈りでタイミングを知らせるレシピの数から、台所用時計が一般的ではなかったことがわかります。 フランス中世のくるみの保存レシピでは、「ミゼレレ」(「罪悪感からもっともっと私を洗い流してください…」)と言うのにかかる時間、約2分間茹でる必要がある。 最も短い時間の測定は「アヴェ・マリア」で、多少なりとも 20 秒でした。 このようなレシピは、中世フランスが宗教がすべてに浸透した社会であったという事実を反映していると言えるかもしれません。 しかし、この祈りによるタイミングは、時計が希少で高価だった時代には非常に実用的な基礎を持っていました。 クルミ大のバターと同様、これらのタイミングは共通の知識に依存していました。 教会では祈りが大声で唱えられていたため、誰もがそれが唱えられる共通のペースを知っていました。 もし誰かに、「三回、パテル ノステル(「主の祈り」)を唱えるのにかかる時間だけ、ソースを煮てかき混ぜてください」とか、「主の祈りを三回分、ブイヨンをとろ火で煮てください」ように頼んだとしたら、彼らはこれが何を意味するのか知っていました。 したがって、それは別世界の話とは程遠く、「人が2マイル歩くのにかかる時間の間、混合物から固体粒子を沈殿させる」など、書かれたレシピに書かれたより世俗的な例よりも賢明なアドバイスでした。 タイミング装置として祈りが使われるようになったのは、何世紀にもわたって料理人が料理を正確に、つまり焦げずに調理するために深い創意工夫と用心深さを使用しなければならなかった時代に遡ります。)
(Consider the Fork A History of How We Cook and Eat by Bee Wilson BASIC BOOKS pp.133-134)

と、料理のレシピなどに、調理の時を計るのに祈りにかかる時間が用いられたりもしていました。このような祈りの本質から外れた祈りの在り方や用法にルターは批判をしています。ルターは、このような祈りの本質から外れた祈りの在り方や形式の定められたノルマとしての祈りではなく、信仰による心からの自由な祈りを好んでいました。


“  定時の祈りに関しては、つぎのように要約できるであろう。ルターは、共同で行う、はっきりした形式をもった、同じように規則づけられた定時の祈りを、困難に感じていた。むしろ彼は、個人の「心の祈り」ともいうべき自由な祈りを好んだと思われる。みんなで祈る場合よりも、もっとルターを妨げたのは、祈りの定式には従ってひとりで祈ることであった。それは彼の人一倍つよい自発性を妨げたり、押し殺したりする強制のように感じられたのである。この点で彼は困難に陥り、また危機に至ったのであろう。そしてその困難や危機は、彼がそれを自らの意志の力で、また良心の導きによって解決しようと試みればみるほど、大きくなっていった。・・・後に彼は、祈りを「信仰の行為」として重視し、教会の礼拝式文を整えたり、あるいはまた、教会や家庭で祈るときの、ひざまずき方や、十字の切り方や、祈るべき順序を決めたり、それに聖書的要素を加えたり――等々のこともしているのである。 ”
(「宗教改革とルターの生涯」ペーター・マンス著 聖文舎 p.51)

 
  そして、これらのわざが、善きわざ、聖なるわざ、神の前に償いとなり免償が与えられるほどの善い聖なるわざであると見做され、それ以外の行為と区別されていました。それらが外的にはとても信心深く聖なる行為に見えていても、実際にはただ祈祷書のページをめくるだけ、心に信仰がなくても習慣としてブツブツと定型文を唱えながらロザリオの珠を指で繰るだけであったり、ただ時間を消費するのに使われている現実に対して、ルターは言います。


“   第二、あらゆる尊い善きわざの中で第一の最高のわざは、キリストを信じる信仰である。・・・・
 ・・・・
  第三、さらにすすんで、彼らが手のわざをいとなんだり、歩いたり、立ったり、あるいは飲食睡眠など、からだの栄養もしくは一般的益のために、あらゆる種類のわざをなすとき、人々はそれらを善きわざとみなすかどうか、そして神がそれらのわざにおいて、人々を喜びたもうと信じるかどうか、と尋ねるならば、人々はいなと答えるであろう。そして彼らが善きわざを極めて狭く限って、ただ教会における祈祷、断食、施与などにとどめ、それ以外のわざは、すべて神にとっては無価値のものだとみなしていることがわかるであろう。こうして彼らは、のろわれた不信仰によって、いやしくも信仰において生じ、語られ、考えられる事柄はいっさい神への奉仕となるべきであるにもかかわらず、その奉仕の道をせばめ、制限しているのである。 ”

 と。

 しかし、これらの行いも

“ 信仰をもって行われるときには、ほむべきものとなるのである。しかもそれは、それらの事柄がすぐれているためではなくて、すでに述べたように、すべてのわざの価値を平等にさせる信仰そのもののためである。 ”

信仰をもって行われるならばよいものであることを認めています。
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