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式文改訂に思う。


 さて、この前「現行の「第8次式文」と「主日礼拝式文 改訂試案第一版(最終版)2014.3.4」」という二つの式文をアップしましたが、この改訂式文というものをよく見てみるととんでもないな~と思えてきます。

第7次式文と第8次式文 記名

 茶式文と呼ばれる茶表紙の「第7次式文」から現行の「第8次式文」に変わった時、それまでの文語体から口語体に代わり違和感を覚えましたが、それでも文言の文体が変わったのと若干の変更がみられただけで、それなりに受け入れられましたが、今度の改訂式文は礼拝からルーテルらしさを無くしてしまい(教義的にも)、カトリック化と信仰義認から行為義認へ、また行為の強調、といった印象を強く受けるものでした。

 改訂の経緯について、日本福音ルーテル教会の機関紙「るうてる」の2014年8月号によれば、

"礼拝式文の改訂
・ルーテル教会式文(礼拝と諸式)1996年版「青式文」について
樫木芳昭(日本ルーテル教団式文委員)

1 青式文完成に至る流れ
 青式文刊行の準備は日本福音ルーテル教会と日本ルーテル教団両者の機関決定を経て1981年に始まったが、その前史に1970年代の神学セミナーでのアメリカにおけるルーテル教会合同の式文委員会が提案した3年周期の聖書朗読日課と主日の祈りの紹介がある。その後、アメリカの合同式文委員会が提案した礼拝を含む諸式文を研究し、日本版の式文を模索することが同セミナーで提案され、ルーテル4教会の有志による研究が開始された。その中で以下の暗黙の合意事項が生まれた。
・各々の教会が宣教母体から受け継いだ慣行を尊重し、その当否を論じない。
・アメリカの合同式文委員会が提案した礼拝を含む諸式文の精神を尊重しつつ、できるだけ日本の精神風土に馴染むものを模索する。
 こうして、セミナーの後続研究から、青式文の素案に近いものがまとまった。当初は、これからの式文に寄与することを願う自主的作業であり、教会・教団の正規の手続きを経たものではなかったが、やがて前述の機関決定を経た共同の式文編纂作業となった。
 1960年代初頭に使用が開始された口語の「茶式文」の採択から20年あまりを経て、各個教会で使用する聖書も口語訳から共同訳、そして新共同訳へと移行しはじめた状況を踏まえ、10年程の作業を経て完成したものである。

2 編纂作業で取り上げられた諸事項
・ローマを中心に発展したラテン教会のミサを基にした。
・和訳に際し、式文の文言は聖書に基づいており、限りなく聖書本文に近いが、教会の歴史の中で典礼文として磨き上げられた文言であることに留意した。
・茶式文になかった〈部〉を設けて式文全体を大きく区分し、各項目に番号を振って、礼拝の流れを把握しやすいよう計った。
・茶式文までの日本語式文では、開会の讃美歌、ざんげと赦免、讃美頌、挨拶、特祷となっていたが、開会の讃美歌と讃美頌は元々同じもので、始まりは司式者群の入堂、すなわち礼拝の開始時に歌われた讃歌に由来するので「初めの歌」とし、「讃美歌、詩篇唱を用いてもよい」と註書きをつけた。
 続くざんげと赦免は、その起源が司式者群の相互のものに由来し、礼拝の外の事柄だったのを、罪の告白は神に、赦しは「福音の説き明かし」と「聖礼典」を通して与えられるという立場に拠り、礼拝式本体に位置づけた。
・茶式文では福音書朗読の前に指定されていたグラジュアルを「詩篇唱」として「讃美唱」を用い、「栄唱」で結ぶよう提案した。
・聖餐の「設定辞」、茶式文では「わたされる夜」となっていたのを「苦しみを受ける前日」とキリストの十字架の贖いを強調する文言にした。
・「文語式文」には採用され、「茶式文」で削除されていた「ヌンク・ディミトゥス」を罪赦されて世に出て行く喜びの歌として回復した。
・3種類の「派遣の祝福」を用意し、その礼拝の性質に合わせて選択可能とした。
・冒頭の『一般的取り扱いの原則』と『礼拝のための取り扱い』によって、個々の教会の礼拝における実践について示唆する。

3 結び
編纂作業を開始する際、ルーテル教会の式文は会衆に理解されることを大前提にしており、どんなに優れていると自負する式文であっても、2、30年の時間が経過すると、常用の言葉遣いや神学の潮流が変化し始めることもあり、その完成は次の式文編纂の準備の始まりだと聞いた。それを踏まえると青式文の評価がどうあれ、着手以来30年余の時が過ぎた今、新しい式文の編纂が行われることは極めて当然のことと思う。"

るうてる誌 2014年9月号
"・・・・さて、現行式文の発表からおよそ30年経った現在、ルーテル教会は、式文の改訂作業に取り組んでいます。今なぜ式文を改訂する必要があるのでしょうか。
 まず、前回の改訂から礼拝式文の改訂30年以上の歳月が経過しているということ自体が大きな理由です。
 先ほど、私たちの教団では現行の式文がようやく定着したと述べました。発表から定着まで実に30年を必要としたのです。今、改訂しておかなければ、この先、現行の式文をさらに30年も40年も、見直しせず用い続けることになります。
 もちろん良いものが長く用いられることは素晴らしいことです。同時に、この30年の間に、様々な変化がありました。まずは日本語です。かつて使われていた言葉が、現代の人たちには通じなかったり、違った意味を持つようになったりしています。
 私たちが用いている日本語聖書も、『明治元訳』(1887年)、『大正改訳』(1917年)、『口語訳』(1955年)、『新共同訳』(1987年)と改訂が重ねられ、さらに、2016年に『標準訳』が発行される予定です。30年が改訂の一つのサイクルとなっています。
 礼拝の神学の研究も進んでいます。私たちが生きる社会の状況も変化しています。大震災と原発事故を体験し、平和憲法が危機に晒されている今日です。 音楽もまた、古きよき伝統的なものとともに、新しいよいものがたくさん生み出されています。
・・・・・"


 8月号の結びで、 "2、30年の時間が経過すると、常用の言葉遣いや神学の潮流が変化し始めることもあり" と言っています。また翌月号ではそれを少し詳しく説明していますが、では、現行の「第8次式文」の文言の中で、今の人に意味の通じないことばがあるのか?と思います。普通に義務教育修了していればわかる程度の文言だと思います。これが解らなければ改訂式文の文言もわかるとは思われません。

 また、 "大震災と原発事故を体験し、平和憲法が危機に晒されている今日です。" これの何が礼拝式文と関係するのか全く分かりません。 前段は自然災害と事故です。そして、後段はこの記事を書いた人の左寄りな政治思想です(牧師にはこの手の左寄りが多くて困ったもの)。 そうしたら大災害が起こる度に、大事故が起こる度に、左寄りの赤い牧師らの個人的な政治思想から、彼らの主張が危ぶまれる度に式文を改定するのか!!!と怒りを込めて言いたくなります。政治的なことは個人として、教会の外で勝手にやれ!!!! お前らの勝手な政治思想で、救いのために開かれた教会の門を閉ざすな!!!

 今回の改訂は冒頭から酷いものです。まず、罪の告白でそれまであった "私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、" という原罪条項がバッサリと削除されています。それについて「るうてる」紙には何も説明がありません。

るうてる誌 2014年10月号
"礼拝式文の改訂・「招き」について    式文委員 中島康文
 現行の式文は始まりを「開会の部」、終わりを「派遣の部」と説明します。あまりにも漠然とした区切りの言葉ですから、私は大雑把ですが「礼拝は『懺悔(罪の告白)』に始まり『祝福』で終わる」と説明してきました。礼拝の中心を説明した言葉ではありませんが、きっかけになるものと考えたからです。 しかしこの説明では誤解を招く心配もあります。つまり「礼拝は懺悔から始まる」と。確かに、懺悔は始まりの要素として重要ですが、始まりではありませんし、礼拝の準備行為として礼拝式の外に置かれてきた歴史もあります。また、現行式文においても「開会の部」には「初めの歌(入祭頌)からキリエ、グロリアまで」豊かな要素が沢山あるのです。
 式文委員会では、「始まり」に含まれる項目を、時間をかけて検討してきました。特に「罪の告白」の言葉については、信仰と職制委員会より答申された検討の課題(2006年6月10日付)を中心に議論しました。議論を重ねる中で、「東日本大震災」に遭遇し、私たちの有り様を具体的に表現することを痛感し「無関心」という言葉も選択しました。その上で、礼拝の始まりを表現する言葉として何が相応しいかを考えました。
 「罪の告白=懺悔」は礼拝の始まりではないと前述しましたが、そのことはまた礼拝出席の可否の条件でもありません。しかしながら「キリスト者の一生は心を入れ替え、自己の罪を憎むものである」とルターが言うように、悔い改めが大切なことは言うまでもありません。その悔い改めに私たちが導かれるのは、聖霊の働きによってです。アウグスブルク信仰告白第17条に「人間は、聖霊の恵みや助力、その働きによらないで、神に受け入れられ、心から神を畏れ、信じ、また心の中から生来の悪い欲望を取り除くことはできない。むしろそのようなことは、神のみことばを通して与えられる聖霊によって起こるのである」とあることからも理解できます。礼拝の始まりを、アメリカでは「Gather」と表現されていますが、「集い、共に集う」では状態が強調されているだけのように感じられます。むしろ「神の招き」によって礼拝に集っていることを覚え、礼拝の始まりには、「神の招きが聖霊によって私たちにもたらされることが不可欠である」ことと受け止め、「招き」としました。
 最後になりますが、この「招き」は全ての人に、すなわち洗礼の有無、信仰生活の長短に関わらず与えられています。「招き」への応答が、「礼拝への出席、罪の告白、赦しの求め、福音に与る」等の行いとなります。また、礼拝の終わりに祝福を受け派遣された私たちは、一週間の歩みの後に再び「招き」をいただくという、恵みの循環の中で日々を過ごしていくのです。
 招かれて、神様のサービスをいただきに、主の日に教会へお出かけください。"

 そして、原罪条項を削除しただけではなく、新たに 

"・・・行いと怠り、また無関心とによって、あなたから遠く離れ、背いてきました。"  

"私たちの怠りにおいて、み前に罪ある者です。私たちは、心をつくしてあなたを愛することをせず、 また隣人たちを自分のように愛することもしませんでした。" 

と、「怠り」・「無関心」・「背き」という文言や「愛することを」しないということを差し込んできました。

 とても外的なことこだわっているように見えますし、カトリックが1970年の現行の「ミサ式次第」に導入した

"司祭 全能の神と、
 会衆 兄弟の皆さんに告白します。
わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。
聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。
 司祭 全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように。
 会衆 アーメン。"

という文言にだいぶすり寄ったイメージがあります。カトリックの式次第にも、原罪条項はありませんし、1970年のカトリックのミサ式次第で導入された「怠り」の罪を導入しています。それ以前のトリエント・ミサ式文には当然ながら「怠り」の文言はありません。

トリエント・ミサ式文の告白の祈りの個所(http://hvri.gouketu.com/index.html)
"Confíteor Deo omnipoténti, beátæ Maríæ semper Vírgini, beáto Michaéli Archángelo, beáto Ioánni Baptístæ, sanctis Apóstolis Petro et Páulo, ómnibus Sanctis, et vobis, fratres: quia peccávi nimis cogitatióne, verbo, et ópere: percutit sibi pectus ter, dicens: mea culpa, mea culpa, mea máxima culpa. Ideo precor beátam Maríam semper Virginem, beátum Michaélem Archángelum, beátum Ioánnem Baptístam, sanctos Apóstolos Petrum et Páulum, omnes Sanctos, et vos, fratres, oráre pro me ad Dóminum Deum nostrum.
R. Misereátur tui omnípotens Deus, et dimissis peccátis tuis, perdúcat te ad vitam ætérnam. V. Amen.

全能の神、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカ エル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、諸聖人 及び汝ら兄弟達に向かいて告白し奉る。我は思いと 言葉と行いとをもって多くの罪を犯せり。 (三度胸を打 ちながら) これ我が過ちなり、我が過ちなり、我がいと 大いなる過ちなり。これによりて終生童貞なる聖マリ ア、大天使聖ミカエル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、 聖パウロ、諸聖人及び汝ら兄弟達に、我の為、主なる 我らの天主に祈られんことを願い奉る。

R. 願わくは、全能の天主汝を憐れみ、汝の罪を赦し て、終わりなき生命へ導き給え。 V. ア-メン。 "

 
  「怠り」ということは、為さなければならぬこと(律法、義務、戒律ということになりますよね)をなさなかった、という「行い」が問われています。とてもルーテルらしくない文言だと思います。

 無くす必要のないものを無くし、導入すべきではないものを導入したと見えます。

つづく
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