fc2ブログ

式文改訂に思う 4


第7次式文と第8次式文 記名


さて、再び奉献についてですが、まずは「るうてる2015年4月号」を見てみましょう。

"式文の改訂・「アンケートQ&A」(その1)
式文委員 松本義宣
 前号で紹介したアンケートで頂いたご質問やご意見に、限られた紙面ですがお答えいたします。ただその前に、これまでご紹介した試案の基本的なコンセプトを改めて整理します。幾つかの不明点やなんとなくの「もやもや感?」の払拭に繋がれば幸いです。
 全体の構成が「招き」「みことば」「聖餐」「派遣」となったこと、これは初代教会以来の基本構成で、エキュメニカルな視点でも、その長短や強調点の違いや内容の濃淡は別にして、共有されているものです。ことに私たちルター派として、宗教改革の基本理念たる「礼拝は神の業」、人が神に奉仕するのではなく、まず神が人に奉仕してくださる出来事(もちろん、だからこそ人は感謝をもって応じるのですが)、その神の主体性、先行性が根本です。この4部構成も、すべて神が主語です。つまり、神が「招き」、「みことば」を語り、いのちの糧「聖餐」で養い、この世に「派遣」する。派遣から再び神に招かれて礼拝に集う(帰る)、その派遣から招きへの間も、私たちは礼拝で受けた恵みと祝福を携えて生きるのですから、私たちの全生涯がある意味「礼拝」そのものとなる、そんな理解です。
 さて、現行式文の「奉献の部」がなくなったこと、とりわけ献金が「派遣」に置かれたことにご意見がありました。献金の持つ感謝、自己献身の思いが薄れる、あるいは、この世の奉仕ではなく、具体的には「教会のため」に捧げていて(実際全部そうなのに?)、その意欲が削がれるし、ある種の偽善ではないか等です。それはまず、この連載・「聖餐」(12月号)にあるように、奉献が、聖餐における「人が神に捧げる犠牲」と結びついてきたことを完全に払拭し、人が主語となる要素を主要構成とはしないためです。自分自身を神に感謝をもって捧げるのであれば、それは「派遣」にこそ相応しいのです。確かに私たちは持ち物の一部を献金しますが、本来それは100%神から頂いているものです。捧げるなら、お返しするなら「すべて」です。その場ではとても無理!でも、私たちは「この世」 に (それもまた神のもの!)分かち合い奉仕するために派遣されるのです。何よりイエスの「すべての民を…弟子にし…、…洗礼を授け、…教えなさい」(マタイ28・19~20)との委託を担う、この世に仕える最先端が教会なのですから、貴い献金先としてお許し頂きたいものです。また、具体的には、献金後の「奉献の祈り」と「教会の祈り(執り成しの祈り)」が混乱したり省かれたりする慣行をなくし、区別する意図もあります。
 「招き」における「洗礼」の想起や言及が、未受洗者の排除にならないかというご指摘もありました。教会が教会であるのは、福音の宣教と聖礼典の正しい執行です。そのしるしが礼拝です。これまで聖礼典=聖餐が礼拝の中心だったのに比べ、本来「救い」のしるしである「洗礼」の重要性を礼拝であまり強調されなかったきらいがあります。しかし私たちは、常にこの原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。それがこの提案です。神は、すべての人を、まず悔い改めと「洗礼」へと招かれます。すべての人を待っておられます。(続く)"


 当時、アンケートを取ったのでしょう(私は記憶にありませんが)。それに答えた方の意見として

・献金の持つ感謝、自己献身の思いが薄れる

・この世の奉仕ではなく、具体的には「教会のため」に捧げていて(実際全部そうなのに?)、その意欲が削がれるし、ある種の偽善ではないか等です。

 というものが寄せられたとあります。

 これは全くその通りでしょう。

 まず、礼拝の構成は、東方典礼の聖体礼儀を見るとよくわかるのですのですが、三つの構成からなり、まず「奉献礼儀」(これはビザンチン末期あたりから、それまで聖体礼儀の中で行われていたものが、独立して、聖体礼儀が始まる前に司祭がパンとぶどう酒を所定の祈りと行動をもって準備するようになったものです。)が司祭によって行われ、それが終わると「御言葉の礼儀」(「啓蒙者の礼儀」)が始まります。そして、説教が終わり連祷の後に、「啓蒙者出よ」となります。

"輔祭1 衆啓蒙者出でよ、
 輔祭2 啓蒙者出でよ、
 輔祭1 衆啓蒙者出でよ、
 輔祭 啓蒙者一人もなく、唯信者復又安和にして主に祷らん、
  詠 主憐めよ
 司祭 衆啓蒙者出でよ、啓蒙者出でよ、衆啓蒙者出でよ、啓蒙者一人もなく、唯信者復又安和にして主に祷らん、
 詠 主憐めよ
 司祭 アンティミンスを開いた後誦する第一の信者の祝文51
 --------------------------
主、万軍の神や、爾が我等に、今も爾の聖なる祭壇の前に立ち、爾の慈憐
に俯伏し、我等の罪と衆人の過ちとのために祈祷するを赦し給いしを爾に
感謝す、神や、我等の祷りを納いれ、我等を爾が衆人のために、爾に祈りと
願いと無血の祭とを献ずるに勝うる者となし給へ、我等爾が聖神の力にて
此の爾の奉事のために立てし者を、定罪なく、躓なく、その良心の潔き證を
以て、何の時何の処にも爾をよぶに適う者となして、爾我等に聴き、爾が
哀憐の多きに依りて、我等のために仁慈の者となるを致せ、
 ----------------------------

 輔祭 神や、爾の恩寵を以て、我等を佑たすけ救い憐み護まもれよ、
  詠 主憐めよ
 輔祭 睿智、
 司祭 蓋凡そ光栄尊貴伏拝は爾父と子と聖神に帰す、今も何時も世世に、
 詠 「アミン」"


 そして、ここで昔は求道者(啓蒙者)、一般の人々、クリスチャンでも戒規により罰を受け領聖しない者は出されました。今日、正教で礼拝に参加させていただいても追い出されることはありません。

 そして、つづいて「聖体機密」(「信者の礼儀」)が行われます。すなわち「御言葉の礼儀」と信者のみによってなされる「聖体機密」という構成になっています。これは西側のローマ典礼も変わりありません。

 しかし、日本のルーテル派では、構成が変わらないのにそれを細かく区分し、開会の部、みことばの部、奉献の部、聖餐の部、派遣の部などとするから分かりづらくなるのです。本来であれば奉献の部は聖餐の部の始めに来ていました。これは今日のカトリックの礼拝でもそうなっています。

 ただ、そうすると聖餐が神に献げる犠牲の生贄の反復になってしまいます。それは聖書のみ言と矛盾しキリストの贖罪を誤らせてしまいますから、ルターなどは徹底的にこれを排除し、意味を変えたのです。また続く宗教改革者たちもそうでした。

" 第八。つづいてあの全くいまわしいもの —これに対して、ミサに先行する各部が従うことを強いられているもの— が来る。すなわち奉献と呼ばれているものである。そこでほとんどすべてに、供え物のひびきと匂いがする。・・・そこで私たちは全部のカノンとともに供えもののひびきがするこれらすべてのものを除き、純粋で聖であるものを保有し、私たちのミサを整理しよう。"
(ミサと聖餐の原則 1523 「ルター著作集 第一集 第5巻」 聖文舎 p.287)

 そして、今回の改訂において、この聖餐の前の「奉献の部」が「派遣の部」の方に移動し、「派遣の部」にあった「教会の祈り」(とりなしの祈り)をユスティノスの伝統に倣ってここに置いたのならそれほど反対もなかったのではないかと思います。

 そして、前回も言いましたが、奉献の祈りと教会の祈りをはき違える人は、日本語が読めるならまずいないだろうと思います。また、大ぜいの中にはそういう人も出てくる可能性はありますが、そうならないように洗礼前教育をしっかり行い、洗礼後の教会での教育をしっかりとすべきです。ルーテル派と言いながら、教会の中でルーテル的信仰の学びというものが御座なりにされています。それゆえ他教派から移って来られた方が、前の信仰や解釈や理解をそのまま持ち込もうとして、よくわからないまま居心地の悪さを感じるのでしょう。

 そして、いまひとつるうてる紙の問題として、

>確かに私たちは持ち物の一部を献金しますが、本来それは100%神から頂いているものです。捧げるなら、お返しするなら「すべて」です。

 これってとてもおかしいよねと感じます。すべてのものは神様から賜ったものであることは同意します。しかしながら、"捧げるなら、お返しするなら「すべて」です。" という回答には、「えっ!!おかしいだろ!」と言いたくなります。

 われらが主なる神が、それを求められたことがただの一度でもあったであろうか。神さまが「与えてくださる」とか、「食べてもよい(創世記2:16)」、などと言われることはあっても、あなたたちのものはすべて私のものだから、すべてを返しなさいとか、返すのが本当だなどと言われたことがあったでしょうか。本当に呆れてしまいます。

 マタイ福音書が伝えるイエスの言葉が思い浮かびます。

"23:2「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。 23:3だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。 23:4また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。"


スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

 Yahoo!ブログからの引っ越し記事内のURLはリンク切れをしているものがあります(気が付いたらものからインターネットアーカイブに保存されているのならウェイバックマシンURLなどに修正などしております)。


 役立った、良かったなどありましたら拍手ボタンを押していただけると嬉しい限りです。


​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
リンク