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式文改訂に思う 5


第7次式文と第8次式文 記名


さらに奉献について

2015年1月号
" 「奉献」は、その言葉が示すように、神への献げものです。同時に神の恵みによって生かされている私自身を献げることでもあります。それは私たちが神に犠牲を献げる行為ではありません。神は、み子イエスをただ一度だけ十字架において犠牲としてくださったことで、救いを完成しているのであり、私たちからの犠牲など必要とされないのです。ゆえに私たちは犠牲ではなく、みことばに与った恵みを分かち合うために献げます。これは「サクラメントを十分に理解するように民衆に教えたので、人々は外的な食物や資産をも持ち込み、必要とする者たちに分け与えた。ミサにはコレクタということばが残っており、共同に集めるという意味である。貧しい人々に与えるために、共同金を集めるのと同じ。」(『キリストの聖なる真のからだの尊いサクラメントについて、及び兄弟団についての説教』)というルターの言葉とも重なります。そのため、困難の中にある人々と分かち合うための奉献であることを「派遣の祈り」の中心に据えました。"

 これについて理解するために、「教会員ハンドブック」の説明を読んでみましょう。

"第二章 教会について 二、礼拝—主に使えられ、主に使える
・・・
 三、奉献の部
 神の恵みへの応答として、自らをささげることのしるしとして、献金がささげられます。教会は信徒の献金によってその働きのすべてをまかないます。月約献金を含め、それぞれの者が心に定めた額をささげます。それによって教会の働きに、みなで参加していくのです。
 奉献唱として詩篇五一篇が多く歌われます。それは、決して私たちが何かをささげうるというのではなくて、神の恵みの働きを願うこと、言い換えると、「神の受け入れられるいけにえは砕けた魂です」という信仰が言い表されるのです。
 聖餐が守られない時は、このあと派遣の部に続きます。"

 
 "私自身を献げることでもあります" との意味が、 "自らをささげることのしるしとして、献金がささげられます。" とのことです。しかし、この解釈には無理があると思います。

 また、教会から送られてくる献金袋には、このような文言が記された紙が毎年入って来ます。

"20○○年維持献金のお願い。
 ・・・
献金は『自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 』(ローマの信徒への手紙12章1節)とありますように、神さまの恵みに対する応答です。収入の中から、まず最初に献げましょう。・・・"

 この言葉の背景には、そのような理解が教会の理解として定着しているという事なのでしょう。

 しかし、ローマの信徒への手紙12章1節はそんなことを言っているのでしょうか。

"こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 "(新共同訳)

 "こういうわけで" とはじまりますから、前章を読んでみなければなりません。しかし、11章を読んでも献金が "私自身を献げることで" あるなどとは読み取れません。

普通に文法上も文脈上も、また聖書注解や略解などを見ても、ルターの「ローマ書講義」を見ても、そんな解釈にはなっていません。アクロバティックな、ほとんどいかさまともいえる読み方というかこじつけをしているとしか言いようがありません。

 また、式文改革において護教教父のユスティノス(100?-162?)を引き合いに出して、

るうてる2014年11月号
"キリスト者は、その初めから聖書を読むこと、神の言葉を聴くことと「パンを裂くこと」(聖餐)を礼拝の中心に据えました。主日礼拝を具体的に記録した最古のものと言われるユスティノス(2世紀前半)の『第一弁証論』にこうあります。「太陽の日と呼ぶ曜日には、…一つところに集まり、使徒達の回想録か預言者の書が時間のゆるす限り朗読されます。 朗読者がそれを終えると、指導者が、これらの善き教えにならうべく警告と勧めの言葉を語るのです。…一同起立し、祈りを献げます。そしてこの祈りがすむと…パンとブドウ酒と水とが運ばれ、指導者は同じく力の限り祈りと感謝を献げるのです。…会衆はアーメンと言って唱和し、一人一人が感謝された食物の分配を受け、これに与ります」。改訂式文の「みことば」と次の「聖餐」の繋がりが良く分かります。というより、これまでのどの時代のどんな礼拝でも、基本は、この2世紀の記録そのままであったことがお分かりでしょう。
・・・「とりなしの祈り」をここに置いたのは、先のユスティノス以来の説教に続けて行われた伝統の回復と、現在、しばしば起こる献金(奉献)の祈りとの混同を避ける意図があります。"

と述べていますが、意図的なのか献金についての記述を引用していません。

キリスト教教父著作集1ユスティノス Athanasius記名入り


以下に前後も含めて引用します。

"67・1. この儀式が済んだ後もさらに、私共はたえず前述の記念の式を執り行います。そして持てる者は窮するすべての者のために扶助し、何時も協力し合って生活しているのです。

2.また神の恵みあたえたもうすべてのもののゆえに万物の創造者を、その子イエス・キリストと聖霊を通じてたたえるのです。

3.太陽の日と呼ぶ曜日には、町ごと村ごとの住民すべてが一つ所に集い、使徒たちの回想録か予言者の書が時間のゆるす限り朗読されます。

4.朗読者がそれを終えると、指導者が、これらの善き教えにならうべく警告と勧めの言葉を語るのです。

5.それから私共は一同起立し、祈りを献げます。そしてこの祈りがすむと前述のように、パンとブドウ酒と水とが運ばれ、指導者は同じく力の限り祈りと感謝を献げるのです。これにたいし会衆はアーメンと言って唱和し、一人一人が感謝された食物の分配をうけ、これに与ります。また欠席者には、執事の手で届けられるのです。

6.次に、生活にゆとりがあってしかも志ある者は、それぞれが善しとする基準に従って定めたものを施します。こうして集まった金品は指導者のもとに保管され、

7.指導者は自分で孤児ややもめ、病気その他の理由で困っている人々、獄中につながれている人々、異郷の生活にある外国人のために扶助します。要するに彼はすべて窮乏している者の世話をするのです。"

(アントニヌスに宛てたキリスト教徒のための弁明 「キリスト教教父著作集Ⅰユスティノス」 教文館 p.85)

 共同に集めるということが、どのようなことに使われていたのかについてユスティノスは明確に書いています。果たしてこれが今日の教会における献金と同じでしょうか。都合の良いところを斬り文で利用するそのように見えます。

 律法の神殿祭儀に関わる什分の一のささげものはまったくキリスト教とは関係がありませんし、使徒書簡や使徒言行録に出てくるのは、飢饉にあえいでいるエルサレム教会を助けるための義援金で一過性のものですし、また、初期教会における共同に集めた行為は現在の教会の献金とはまったく質を異にしています。

 いい加減に、根拠にならないものを根拠にして、権威付けする行為や精神はやめてもらいたいものです。献金など聖書に根拠はないのですから聖書の悪用や初期教会を悪用すべきではありません。

神への感謝と教会維持と活動に必要なお金を献金するということで理由は十分だと思います。

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No title

什分の一のささげものを故意に怠る者の為に源泉徴収票の提示を求めたらどうか。
目に見える明らかな怠りは公然と叱責されるべきものではないか。
また、他人への親切や介護に関する怠りは、可能な事と不可能なことの基準がそれぞれの置かれた立場によって変わるだけで、神の愛を知ることによってその程度が変わるものではない。
何よりも、これらのことは、神が褒め讃えられる要素には値しない。

Re: No title

> 什分の一のささげものを故意に怠る者の為に源泉徴収票の提示を求めたらどうか。
> 目に見える明らかな怠りは公然と叱責されるべきものではないか。
> また、他人への親切や介護に関する怠りは、可能な事と不可能なことの基準がそれぞれの置かれた立場によって変わるだけで、神の愛を知ることによってその程度が変わるものではない。
> 何よりも、これらのことは、神が褒め讃えられる要素には値しない。


まず基本として、クリスチャンに10分の1のささげ物は求められてはいませんね。律法の什分の一はイスラエルにのみ求められたもので、十二の部族によって神殿祭儀(幕屋)を守ることと嗣業地を持たないレビ族を支えるためのもので、キリスト教とは関係のないものですね。それゆえに源泉徴収の提示を教会が求めるなら、それは誤った行為ですね。たしか、モルモン教あたりでは10分の1が戒律としてあり、源泉徴収などもチェックされるようですが、そういうことを求めるのはカルト宗教くらいでしょうね。

他人への親切が義務ならば「怠り」ということが発生するのでしょうね。他人への親切が自発的な思いから発するならば「怠り」という概念は当てはまらず、親切にしないという事は、他者への無関心なのか、気が付かないことなのか、自分が手を貸さなくても大丈夫という推察なのか、いろいろな状況が考えられますね。一概に「無関心」とは括れないものでもあります。

「介護」も他者が怠りだの無関心だのと測れるようなものでもありませんね。

そして言われるように

>何よりも、これらのことは、神が褒め讃えられる要素には値しない。

と言われることはその通りだと思います。

もし、これらは神が誉め称えられるというのならば、それは偽善を積み重ねて笑顔を作るカルトと同じになってしまいますね。


No title

介護に関して説明不足でしたが、地理的、物理的に遠く及ばないエリアや分野での人災天災に対して助けの手を差し伸べるという意味で書いたつもりでした。

Re: No title

> 介護に関して説明不足でしたが、地理的、物理的に遠く及ばないエリアや分野での人災天災に対して助けの手を差し伸べるという意味で書いたつもりでした。

そうでしたか。

被災地におけるボランティア活動のことを指していたんですね。

そういうことをすることが一種の美徳で、何もできない人は何か冷たい人とか、無関心なんだとラベリングされるのはおかしな風潮がありますね。
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