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10分の1献金問題 再掲載


 改訂式文の奉献について考えることによって、また、キリスト教界における献金問題にも、再び思いをはせることとなりました。

 2010年来、34回記事にしてきたので、その中から一部を抽出してみます。

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献金トラブル 

2011年09月10日に、2014年に終了したKDDIのブログサービス「LOVELOG」に書いた記事(Yahoo!ブログに転載)

https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11389724.html

近年のなんと献金トラブルや不満がなぜこれだけ多くなったのでしょうか。

 一つにはネットなどによって、情報が手に入れやすくなったためであることは大きな要因でしょう。

 一部の福音派教会や多数の聖霊派教会において、10分の1献金という新たな律法をつくりあげ、それをキリスト者に強要しています。この10分の1献金は、古代イスラエルの10分の1とは全く関係がなく、聖書的に何の根拠もないものです。律法規定自体、異邦人や異邦人キリスト者、律法から自由にされたユダヤ人キリスト者にとっても10分の1は関係のないものなのにもかかわらず、マラキ書や繁栄の神学と共に、信徒に重い軛として負わせようとしています。

 自由献金の教会でも、牧師職が奉仕者ではなく、安定した職業、それも一般の信徒よりよい給料で、有給休暇もあり、厚生福利もしっかりしていて、無料で住むところも提供され(牧師館)、果ては車の任意保健まで教会で出したりしているところまであります。

 教会の会計報告を見ると、その収支の半分以上が人件費に費やされ、ついで教団若しくは本教会への供出金も多いといえます。年間の伝道費や活動費が牧師給のひと月分位しかなかったりと本末転倒としか言い様がない状況が、伝統的教派などでみられます。

 そして、信徒数が少なく貧しい教会では、年功で給料が高い牧師は雇うことが出来ないので、給料の安い若い独身の牧師を頼まざるを得なかったり、引退した牧師に頼んだりと涙ぐましい努力がなされています。

 職業としてみた時、確かに牧師は大変な仕事です。しかし、教会の財務を見たとき、先ず削るべきは人件費です。それも一般企業に勤めている人より厚遇な部分はカットすべきでしょう。公務員並みの給料大系なら、民間の中小企業並にするなど(それでも家賃がかからないなどを考えれば、一般の人よりは恵まれています。)がなされてもよいと思います。

 Posted by アタナシウス at 09:30

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什分の一献金について

2010年09月26日に「LOVELOG」に書いた記事(Yahoo!ブログに転載)

https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11397022.html

ネットでいろいろ調べ物をしていると、キリスト教の福音派や聖霊派において、その教会員に対して、毎月月収の什分の一を献金させている記述を見かけます。

そして、それを根拠付けるために聖書が引用されているわけですけれども、そのあまりのご都合主義な引用に、驚くほどです。
まず、教会の創設期である一世紀のユダヤ人たちはどのような制度で、どれだけの額を奉げていたのでしょうか。

ミシュナーなんかを読むと、現代の福音派や聖霊派の主張が、ご都合主義で、出たら目である事がわかります。

まず、農産物の(当時は第一次産業が主体)の40分の1から60分の1くらいをまず取り分け、献納物(テルマー)として祭司に配分されます(レビ22:10-14,民18:11.12.26.30)。

この献納物の分離後の、残りの全農産物の10分の1がレビ人に配分されます(民18:21-24)。

レビ人は、自分たちに配分された献納物の中から、10分の1を祭司に献納します(民18:25-28)。

また、テルマーと最初の10分の1(マアセル・リショーン)が

分離された後の農産物は、安息年周期の第1、2、4、5年目には、第二の10分の1(マアセル・シェニー)が分離され、エルサレムに携えられ、そこで祝いながら食べられます。それは金銭に換えて、その代金をエルサレムで食料購入に当てるか、未来のいつかエルサレムで費やすために保留することもできました(申14:25)。

安息周期の第3、6年目の第二の10分の1に相当する農産物は、貧者に与えられます(申26:12-15)。

これら献納される収入は、基本的に物納で、農産物に関しては評価額に5分の1を加えることによって、お金で収めることができます(レビ27:31-)が、牛や羊の群れの増加分の10分の1は、物納のみです。

これら制度を見ると、教会の什分の一献金とは、全く本質的に違うものであることがわかります。

エルサレム神殿の奉仕者は、大祭司が1名、祭司長が1名、神殿指揮官が1名、神殿護衛官が7名、財務官が3名、24の週団に分かれた7200人の祭司、24の週団に分かれた9600人のレビ人がいました。もちろん彼らには家族がいますし、奉仕職を引退した者たちや、見習者もいれると膨大な数に上ります。

もちろん、国中にはあちらこちらに祭司やレビ人がいて、聖なる奉仕職についていました。それらを支えるのに、律法の十分の一は必要なものでした。

しかし、これも教会とはまるっきり違いますし、全信徒祭司性(職ではない)の教会では、根本から違います。

什分の一を称える教会は、これら制度のありようの根本を無視して、マラキ書やネヘミヤ記を引き合いに出しますが、それは当時の祭司やレビ人が、生活のために世俗の仕事に時間を費やしたために、聖なる奉仕職に支障をきたしたためでした(ネヘミヤ13:10)。そもそも律法は、キリストによって成就し、新しい祭司制度が確立され、キリスト者は十分の一を支払う義務はなくなり(エフェソ2:15、コロサイ2:13.14)、それは十分の一で支えられるものではありません(ローマ6:14、ヘブライ7:12、Ⅰペトロ2:9)。

キリスト者のささげる奉げものは、Ⅱコリント8:1215.9:7、Ⅱテモテ5:17.18を読めば明らかです。

聖使徒パウロも、教会に不当な経済的負担をかけないようにと、奉仕者としての模範を残しました(使徒18:3、Ⅰテサロニケ2:9)。

Posted by アタナシウス at 11:59

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什分の一献金を実施している教会はカルトですか?

2010年12月02日に「LOVELOG」に書いた記事(Yahoo!ブログに転載)

https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/11397022.html

什分の一献金を実施している教会はカルトですか?

 10分の1献金を実施している教会は、カルトなのかという問題を考えてみたいと思います。先の9月26日のブログにおいて、律法下における十分の1と教会の10分の1献金では、その本質も意味合いも全く違い、律法の言葉は適応されないことを見てきました。

 しかし、ある人々は10分の1を神様に奉げるのだからいいことだ、信仰よりお金を選ぶのか、貧しいやもめは全財産を奉げたぞと言います。問題は其処なのかということです。問題は其処ではなく、10分の1を奉げないことは、信仰がない証拠だといったり、物質的なものをもって信仰を表せとしたり、10分の1献金は救いの基準となると教えたり、10分の1献金が聖書的根拠もないのに、聖書的根拠があるかのように教えたり、いまだにこの10分の1に関してだけ、律法が有効であるかのように教えたり、惜しまず多く奉げるなら祝福が与えられる(繁栄する)と教えたりすることが問題なのです。

 コリントの信徒への手紙二8章10節から15節で、使徒聖パウロは『この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行なう気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。』と言っています。

 これは4節でマケドニア州にある兄弟達が、『聖なる者たちを助けるための慈善のわざと奉仕に参加させて欲しいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。』とある自発的行為でした。先に述べたことを教え込まれて、そう選択させられたり、そう選択することしか許されなかったり、そう選択するようにさせられたりした結果ではありません。そして『持っているものに応じて』、『あなたがたの現在のゆとりが』とあって、決して負担感のあるものではありませんし、生活を圧迫するものではなかったことが分かります。

 確かに献金は大切なもので維持されなければなりません。それは神への感謝であると同時に、教会の活動を助けるものだからです(コリント二9:12)。また『主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。』(コリント一9:14)とあるように、教会の専従の奉仕者の生活が、その奉仕の業によって支えられるべきです。しかし、それは福音書に出てくる貧しいやもめのように、『渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意』すべきです(コリント二9:5)。


 しかし、これは無制限なものではありません。これらは奉仕者の乏しさを補うものであって、彼らを富ませるものではありません。多くの信徒である人たちが、生活に困窮しているのに、牧師やその家族、また教会の他の専従奉仕者が、潤った生活をさせるためのものではありません。かえって彼らは使徒聖パウロの模範のように、教会の負担とならないようにすべきでしょう(テサロニケ一2:9、使徒
18:3)。

 しかし、カルト化した教会の牧師は、上等のスーツを着て、高そうな時計やアクセサリーを身につけ、研修だ、伝道だ、他の教会や聖会で講演だ、といって教会のお金で旅行に行きます。また、献金額の多い少ないによって、牧師やその家族の人当たりも変わったりします。これこそが神のものを盗む行為でしょう。
Posted by アタナシウス at 05:31

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カルト化した教会は、まず、ここで判断がつきます。

2011/5/1(日) 午後 5:49(Yahoo!ブログ記事)

https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/3694923.html

 カルト化した教会の問題を見てゆきますと、大抵この献金問題に突き当たります。多くのカルト化した教会では、10分の1献金が義務化されているところが多く、10分の1献金以外にもいろいろな名目で献金を求められます。彼らの感覚で言うと、多く捧げた者は信仰があり、それだけの祝福を受ける。しかし、10分の1を捧げないのは信仰が弱く、神のものを盗んでいて、祝福を受けられない。という意見が多く見られます。

 韓国に本部があり、日本にも進出してきている「万民中央教会」という、異端の破壊的カルト団体があります。この団体の教祖的指導者である堂会長のイ・ジェロク牧師のメッセージを聞いてみたところ、「10分の1献金をすることは、救われるための最小限の信仰があるという証拠です。地獄に行かないで救われて天国に入るためには、必ず信仰がなければなりません。…聖徒の皆さんの中には、まだ信仰が弱くて十分の一献金がささげられない場合もあります。…十分の一献金とは、自分の収入の十分の一を神様のものとして聖別してささげることです。…ところで、十分の一献金を必ずしなければならない理由は、単に財政を満たすためではありません。それよりもっと重要な理由があります。その一番目は、十分の一献金をささげることは、神様を信じるという証拠だからです。言いかえれば、十分の一献金は救いの基準になるからです。…私たちが目に見えない神様に心を表現する手段の一つが、物質なのです。大切な物質をささげることで、神様に信仰と愛を表現することができます。…二番目に十分の一献金をささげなければならない理由は、祝福されるためです。…祝福を受けるためには祝福の種を蒔かなければなりません。…それが十分の一献金なのです。…律法は、むしろ新約時代にさらに完全に守らなければならない。…ささげないのは、信仰のない証拠です。…呪いを受ける。」(ホームページにアップされていたものを、メモしておいたものです。)というようなものでした。

 ここまで露骨に言うところも多くはありませんが、このようなことを匂わせているところは多くあるのではないでしょうか。そのためカルト被害を訴えたりしている人たちの、掲示板での書き込みや、個人のブログなどの記述の多さからも、このことがカルト化の特長ともいえます。

 現在まともな正統教会であれば、自由献金方式が主流となっているといえます。宗教改革の時代に、スイスの宗教改革者フルドリッヒ・ツヴィグリによって、それまでの10分の1税が批判され自由献金が主張されたことにより、この制度がプロテスタントで広く受け入れられるようになりました。今ではカトリック教会も10分の1税を止めて、自由献金方式にしているようです。

 さて、10分の1献金を主張する人たちは、必ずといっていいほど、旧約聖書の創世記14:18~20のアブラハムが戦利品の中から10分の1を、サレムの王にしてエル・エルヨンの祭司であったメルキゼデクに与えたことや、創世記28:20~22においてヤコブがベテルで為した誓約のことや、マラキ書3:8~10の個所をもってきて、その正当性を主張しますが、まず、アブラハムの出来事は一回限りのことですし、その子孫らにつつけて為せとの指示もありません。ヤコブの場合も一回性が強いといえますし、子孫に対して継続して行なうようにとの記述も見当たりません。アモス書4:4に見られる行為が、はたしてこの個所と結び付けられるか疑問といえるでしょう。次にマラキ書ですが、これはマラキ書の時代背景を見落とすと、間違った解釈に至ります。この当時、まだマラキによる宗教改革以前のことですが、預言者ハガイと預言者ゼカリヤの激励を受けたイスラエルの民は、神殿再建の事業に応じましたが、彼らが期待するような祝福はやってきませんでした。幻滅を味わっていた多くの民らは、貧困の中にあり、礼拝は形骸化し、神への献げ物や律法の尊主は軽視されていました。民は異教徒達の娘を娶るなどして、神への背信行為を繰り返していたことがネヘミヤ記やマラキ書には記録されています。そのために祭司たちは世俗の仕事に忙しく、聖務がおろそかにされていました。そのために律法で定められた10分の1の必要性が説かれ、祭司たちが聖務に集中して、神殿での儀式などが執り行えるようにしたものです。当然律法の下にはないキリスト者には、直接関係する命令ではありません。

 また、律法における10分の1と10分の1献金とでは、まったくと言っていいほど別なものです。まず、一世紀における律法の10分の1について、ミシュナーから見てみると、当時は一次産業が主体であったことでもあり、律法の記述は農作物と家畜による記述が主体です。

 まず、農作物の約40分の1から60分の1くらいを取り分けます。これは献納物(テルマー)として祭司に配分されます(レビ22:10~14、民18:11.12.26.30)。

 この献納物(テルマー)の分離後の残りの全農産物の10分の1がレビ人に配分されます(民18:21~24)。

 そして、レビ人は、自分達に配分された献納物の中から、10分の1を祭司に献納します(民18:25~28)。

 また、献納物(テルマー)と最初の10分の1(マアセル・リショーン)が分離された後の農産物は、安息年周期の第1、2、4、5年目には、第二の10分の1(マアセル・ショニー)が分離され、エルサレムに携えられ、そこで祝いながら食べられます。それは金銭に換えて、その代金をエルサレムで食料購入に当てるか、未来のいつかエルサレムで費やすために保留することができました(申14:25)。

 また、安息年周期の第3年と第6年にあたる第二の10分の1に相当する産物は、貧者に与えられる「貧者への10分の1」(マアサル・アニー)と呼ばれるものです。これは町の門に置かれ、分け前も嗣業もないレビ人や寄留者、孤児、やもめなどに分配されます(申26:12~15)。

 これら献納される収入は、基本的に物納で、農産物に対しては評価額に5分の1を加えることによって、お金で収めることができます(レビ27:31~)が、牛や羊の群れの増加分の10分の1は、物納のみです。

 これが律法による規定であり、宗教による部族連合国家を支えるものでもあり、また、膨大な神殿奉仕者とその家族を支えるために必要なものでした。一世紀当時の神殿奉仕者は、大祭司が1名、祭司長が1名、神殿指揮官が1名、神殿護衛官が7名、財務官が3名、24の週団に分かれた7200人の祭司、24の週団に分かれた9600人のレビ人が現役の奉仕者としていました。この他に引退した者や見習もいますし、それぞれ家族や一族がいます。それらをこの献納物で支えなければなりませんでした。

 このことからしても、現在の教会とは違いますし、10分の1献金として集められた献金の第3年目と第6年目のものの全額が、貧者に配られたということも聞いたことがありません。

 また、これは当然のことですが、献金は救いの基準ではありませんし、外的な行いによって救いは与えられるものではありません(ローマ3:20.22.24.28)。そして、エフェソ2:15、コロサイ2:13.14、ローマ6:14を読んでも解かるとおり、律法はクリスチャンに適用されません。また、キリストによって律法は成就したために祭司職にも変化がありました(ヘブライ7:12、ペトロ一2:9)、全信徒が祭司であるのなら、古い律法の規定からしても10分の1を献げるのはおかしな話です。また、クリスチャンが捧げる献げ物については、使徒パウロはコリント二8:10~15や9:7で指針を示しています。そしてこの献金は教会の福音宣教者を支えるものでもあります(コリント一9:14、テモテ一5:17.18)。しかし、福音宣教者たちは使徒パウロの模範を心にとめるべきです(使徒18:3、コリント一9:15~18、テサロニケ一2:9)。

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1

いつも正確な知識を広めてくださり、ありがとうございます。

20年以上前になりますが、自分の所有するマンションの理事を務めたことがありますが、組合管理委託費、5基のエレベーター維持費、植栽維持費、などなど、これら全てに見直しをかけたところ、月額70万円以上の維持管理費を圧縮することができ、30年間の長期修繕計画に換算すると、2億5千万円以上の節約を可能とさせた経験があります。
この改革を進めるにあたり、この明らかな数字を提示したにも関わらず、理事会や総会での承認を得ることには大変な困難を要しました。
なぜなら、販売会社と管理会社の策略によって、購入家族は「自分は高級マンションに住んでいるのだから」と洗脳され、維持管理すらも他人に委託できるほどの豊かさの中の生活を獲得したのだと思い込まされていたので、経費削減などという考え自体が自分たちの恥であるかのような空気が蔓延していたからです。
販売会社と管理会社によって初めから充てがわれたマンション管理組合なる組織は、住民全員の洗脳に成功したカルト組織であったとしか言いようがなく、住民全員が無関心の罪に陥っていたという構図に他なりませんでした。

2

このことは、正確な復活の教理を学び合うことを怠り、なんとなく「寺」化しつつある私たちの教会にも言えることなのかもしれません。
神の国の臣民としての自分たちの居住区の管理に対して関心を深め、知り得たことに怠ることなく、時代に即した聖書的洞察と行いとをもって対処してゆくべき時であるかのように思えます。
きな臭い国際情勢を感じる今日この頃、そしてまた、その事態の進展が加速しているかのように身をもって感じるからこそ、自分たちの立ち位置の只中の再認識と、それを支える霊的な心構えを培うべき時であるかのように思えます

Re: 2

> このことは、正確な復活の教理を学び合うことを怠り、なんとなく「寺」化しつつある私たちの教会にも言えることなのかもしれません。
> 神の国の臣民としての自分たちの居住区の管理に対して関心を深め、知り得たことに怠ることなく、時代に即した聖書的洞察と行いとをもって対処してゆくべき時であるかのように思えます。
> きな臭い国際情勢を感じる今日この頃、そしてまた、その事態の進展が加速しているかのように身をもって感じるからこそ、自分たちの立ち位置の只中の再認識と、それを支える霊的な心構えを培うべき時であるかのように思えます



年末になりますと、教会の各会員BOXに翌年分の献金袋と「○○年献金のお願い」と題した紙が入っていますが、この内容を読む度に、聖書の悪用を憶えますね。

教会堂と土地などの不動産の維持・管理・利用に掛かる諸経費、伝道やその他の活動にかかる経費、牧師給などの人件費などのために献金が必要な事と、神への感謝という理由だけで十分だと思います。しかし、それを確実に得んがために聖書を引き合いに出して(まったく根拠にならないものを)集金する姿勢は改めるべきだと考えます。

また、感謝献金や何かの義捐目的なら、すべてがすべて教会に捧げる必要もなく、それぞれに選んだ任意の団体に(例えば赤十字とか、赤い羽根共同募金、あしなが育英会など)神への感謝をもって捧げてもよいと思います。


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athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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