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法華経や日蓮について感じたこと


 わらしべ長者的にいろいろ聖書の気になる箇所を調べて行って、繁栄の信仰などに見られる信仰の行為(献金・従順・行為など)に対しての見返りとしての御利益とそういう行為をしないのは不信仰の証拠であり、病や貧しさ、不幸などの呪いを受けるという聖書を用いながら非聖書的・非キリスト教的なものを作り上げ、信者を呪縛して行くカルト化教会や破壊的カルト団体などに行き着き、さらにそこからYouTubeなんかでよく見かける、やたらと功徳と罰を強調している日○正宗というカルト団体の信者の動画などを見て、似ているなあなどと思ったりしました。

わらしべ長者


 以前に「法華経」は岩波文庫(全三巻)で読みましたが、なんだか自画自賛ばかりの経典だな、そして、その中で語られる釈迦の譬えもへたくそで、荒唐無稽な物語と言った印象しか持ちませんでした(これは今も変わらない)。後代(釈迦の死後五、六百年後)の釈迦の名前を借りた創作文献にしてもひどい部類だと感じます。そんな経典をNHKの100分de名著 「法華経」 なんかを見るとやたらと持ち上げていて、とても違和感を覚えました。かえって富永仲基の「出正後語」や平田篤胤の「出正後語」などにある評価の方に同意できるものであります。ちょっと長いですが引用します。


出正後語 巻下 富永仲基
" 『法華経』の「序品」に「仏はさまざまな菩薩のために大乗の経を説かれ、これを無量義教菩薩法仏所護念と名づけられた。仏はこの経を説きおわると、結跏趺坐し、無量義処三昧にはいって、身・心は動ずるところがなかった」といい、この経文には、すでに経を説きおわったとしている。そうして、「今日、如来は大乗の経をお説きになるにちがいない」という。この経文は、まだ経を説きおわっていない、とするのである。同じ一篇の経の中で前後にくいちがっていて、まったく文の形をなしていない。そのうえにまた、『法華経』一部は終始まったく仏を讃嘆する言葉につきていて、経説の中身がまったくなく、本来、経と名づけるにふさわしいものがない。『法華経伝記』に「『法華経』には四本が伝わっているが、それぞれに増減がある。この経の原典が現存のものだけだとはかならずしもいえない」という。わたしとしては、インドに別の全文があり、今日伝わっているものこそ、かえって残闕(ざんけつ)にすぎないのだと思う。だから天台大師もこれを説明して「教えの綱目にしても、大乗・小乗の観法(かんぽう)にしても、種々の規律にしても、まったくここでは論じられていない。『法華経』以前の経典がすでにくわしく説いているからである。だから『法華経』になってからはただ真実を悟る仏の智慧を開き示し、さとらせ、導きいれて(開示悟入)、仏となることを予言されたのである」という。『法華経』をよく読んだものといってよいが、その実、経の本旨を見失っている。"
(「日本の名著 18 富永仲基 石田梅岩」 中央公論社)


出正笑語 第三巻 平田篤胤
" さて其大乗の部と云經の中に、何がいつち大事とよむものじやと云に法華経でござる。是はからやまとの名僧智識とよばれたる僧ども、何宗によらずこの經を尊び、其註解も屋の棟を穿つばかりにたんと有て、今の俗でもをろかなぢゝばゝに至るまでも、第一の經じやと覚えこんでおる程の事なれども、実は同じ大乗と云うちにも外の經々よりは一向に味ひも何もなく、たゞめつぼふかいなる大ばなしばかりで其わけおば説ず。この經一部八巻二十八品たゞかさばかりがこんなに有れども、其要とする所はたゞ方便品ばかりと見へるでござる。然らば其方便品がいかなる甚深微妙の説があるかと思へば、唯有一乗法、無二亦無三と云語であるばかりで、外はなんにも珍しい事はない。只有一乗法、無二亦無三とは、たゞ一乗の法有りて二もなく又三もなしと云事じやが、その二もなく又三もなしと云はこのわけじやと云、その尊きいはれも何もないからさっぱりつまらん。譬ば今一寸手紙を書ふが、其文言に比類なき旨い物で結構じやと書たならば、其比類なき味ひもは是とさす物が一つなければならならんわざなれど、この方便ほんの語に其如く、唯有一乗法、無二亦無三と云からは、其指す物がなければならんが、何もないはどうだ、なんとつまらぬじやないか、またいひ出しても胸のわるい程たわけなことは世中の語に、これを持(たも)つ人と旁る人との罪むくひを記して、持此經人、功徳百千万世、不瘖瘂、口氣不臭、舌常無病、口亦無病、齒不垢黒、亦不黄不踈、不缺落、脣不下垂、鼻不匾㔸、亦不曲戻、面色不黒、亦不狹長、亦不窊窊曲とある。この意は此經を信心する人の功徳は千年万年すぎてもおしとならず、口もくさくもなく、常に舌や口に病なく、歯に垢もつかず、黒くもならず、黄色にもならず、すきもせず、かけもせず、唇さがらず、鼻もまかりかゞまらず、顔の色も黒からず、せまく長いといふこともなく、すぼくまがりもせぬということでござる。またこれを旁る人の罪むくひを記して、其人命終入阿鼻獄、從地獄出、當墮畜生。有作野干、身體疥癩、亦無一目 爲諸童子 之所打擲、受諸苦痛、或時致死、更受蟒身、其形長大五百由旬、宛轉腹行、爲諸小蟲之所唼食、晝夜受苦、無有休息。若得爲人、諸根闇鈍、盲聾背傴、口氣常臭、鬼魅所著、貧窮下賤、爲人所使、多病無所依怙、身常臭處、婬欲熾盛、不擇禽獸、謗此經故、獲罪如是とあるでござる。この意は此經をそしる人は死ときに阿鼻地獄に入、その地獄より出てまた畜生におちて、あるひは野干となりき、からだはなまずやかたいを煩ひ、目といへばたつた一つ、またもろもろの子どもの爲にうちたゝかれて色々の苦しみをうけ、又あるときは死だ上にまた死、さらに蛇の身となりて其形の長きこと四百里、其からだでそこらをはひあるきて小蟲どもの爲に吸くらはれ、夜ひる苦しみを受る事隙なく、また萬一人に生るれば諸々の事にくらくにぶく、眼がつぶれ耳が聞へず、背もかゞまり口がくさく、またいろいろの物に取つかれ、貧乏にして賤しく人につかはる。又病たゆる事なくよるべき親類もなく、身は常に臭くして又淫欲がさかりて鳥獣に限らずつるむ。それて云ふに常に此經を旁しれるが故に、罪を得ることかくの如くじゃといふでござる。こりや人情の好み悪くむ所でいつたことで、愚ともおろかな爺婆を導くには是でも用をなすかもしれんけれども、右にも申す通りに或は持ち、或は旁つても、かやうの報をあたへるそのものは何者じゃ。これが罰利生を見すると云ふ其ものがなけりやならんが、肝心の其ものがないから藥を取落したる能書見たやうなもので、一向に何にもならぬものでござる。なんとこんな物をいつかどの人間が、鬚くひそらしてたゞぶだぶだと誦でいるが、さう只たらだらとばかり云ているからあぢもしれぬが、誠によんでみるとあいそもこそも盡はてゝ、こんな物じゃがこりやどうだ、片腹痛いばかりでなく下腹さへ引ぱることでござる。こんな物をよんで驗や報ひが有ならば、しんくいしんくいやさせもせゝといふ歌でも驗が有。藥のかはりに能書をのんでも病が治る。こりや悪口じなひ、実に法華経一部八巻廿八品、みな能書ばかりでかんじんの丸藥がありやせんもの、もし腹の立人があらば、其丸藥を出して見せろと云つもりでござる。後世の日蓮などゝ云愚僧はこりや云にもたらぬが、漢土でも天台の智者大師などゝいはれる僧が、きつくこの法華経を尊信して、大造委(くはしき)註解などを書て世に弘め、法華経の親玉のやうに人にいはれ、この智者がいつたことには頭も上らぬやうに人は思つているが、此方の目で見ると智者でなくて愚者大師とも云べきものでござる。・・・"
(国立国会図書館デジタルコレクションに公開されている「出正笑語」より)


 「出正笑語」など読んで、まったく、まったくと思わずうなづきました。「法華経」のいやらしさもよく出ていて、さらに感心しました。

 わたしは仏教徒ではないので、仏教徒の様に経典にも、仏教の僧侶の言にも詳しくはありません。精々、岩波文庫で、「ブッダのことば - スッタニパータ - 」、「ブッダの真理のことば・感興のことば」、「ブッダ最後の旅 - 大パリニッバーナ経 - 」、「仏弟子の告白 - テーラガーター - 」、「尼僧の告白 - テーリーガーター - 」、「ブッダ神々との対話 - サンユッタニカーヤⅠ - 」、「ブッダ悪魔との対話 - サンユッタニカーヤⅡ -」、「般若心経・金剛般若経」、「浄土三部経」(全二巻)、「法華経」(全三巻)、「歎異抄」、「臨済録」、「伝光録」、「一遍上人語録」、「一遍聖絵」を読んだのと、岩波文庫ではないものとして「阿含経典による仏教の根本聖典」(大蔵出版)や仏教伝道協会の「仏教聖典」、講談社学術文庫の「仏教聖典」なんかと、日蓮の遺文・御書といくつかの仏教の解説書と(手元には残しているの「阿含経典による仏教の根本聖典」と画像に挙げたのものと10冊くらいのくらい解説やその他のものくらいです)、あと「南伝大蔵経 律蔵 3」と「昭和新纂国訳大蔵経 経典部」の第三巻と第四巻、「選択本願念仏集」は現在読んでいる最中なくらいです。。

岩波文庫 仏教関係 マイブログ


昭和新纂国訳大蔵経 経典部第三巻・第四巻、南伝大蔵経律蔵3 記名入り

 岩波文庫なんかで、南伝仏教の経典が多く訳されていますが、そういうものを読むと釈迦の言っていることに納得もし、関心もします。また北伝仏教でも「般若心経」や「浄土三部経」なんかもなかなか得るものもあると感じましたが、こと「法華経」に関しては、そういうものが無く、かえっていやらしさを感じたりします。

 「法華経」の法華経という経典やそれを護持する人を謗ずる人に対する罰というものに、とてもいやらしさを感じます。


巻第二 譬喩品 第三
"若し人信ぜずして、この経を毀謗(きぼう)するときは
即ち一切 世間の仏種(ぶっしゅ)を断ぜん。
或はまた、顰蹙(ひんじゅく)して しかも疑惑を懐かば
汝は、当(まさ)に この人の罪報を説くを聴くべし。
若しくは仏の在世に 若しくは滅度の後に
それ、かくの如き経典を 誹謗するもの有りて
経を読誦し書し 持つ者有るを見て
軽賤(きょうせん)し憎嫉(ぞうしつ)して 結根(うらみ)を懐かば
この人の罪報を 汝、今、また聴け。
その人、命(みょう)、終れば 阿鼻獄(あびごく)に入らん。"
(「法華経 上」 岩波文庫 p.208)


巻第四 法師品 第十
"薬王よ、若し悪人ありて、不善の心をもって、一劫の中において、現に仏の前(みまえ)において、常に仏を毀罵(そしりののし)るとも、その罪は尚、軽し。若し人、一の悪言(あくごん)をもって、在家にもあれ、出家にもあれ、法華経を読誦する者を毀訾(そし)らば、その罪は甚だ重し。"
(「法華経 中」 岩波文庫 p.164)


巻第八 普賢菩薩勧発品第二十八
"若し復(また)、この経を受持する者を見て、その過悪(あやまち)を出さば、若しくは実にもあれ、若しくは不実にもあれ、この人は現世に白癩(びゃくらい)の病を得ん。若しこれを軽笑(きょうしょう)せば、当に世世に牙・歯は疎(す)き欠け・醜(みにく)き唇、平める鼻ありて、手脚は繚(もつ)れ戻(まが)り、眼目(まなこ)は角眸(すが)み、身体は臭く穢(きたな)く、悪しき瘡(できもの)の膿血(うみち)あり、水腹(すいふく)・短気(たんけ)、諸の悪しき重病あるべし。"
(「法華経 下」 岩波文庫 p.334)


 一部を引用しましたが、「法華経」のいやらしさがよく出ていると言えるでしょう。

 このいやらしさをギュッと圧縮して濃くしたのが日蓮という人であると、日蓮の書き残した「遺文」または「御書」と呼ばれるものを見て、また日蓮系のカルト団体の文書などを読んで思いました。

霊艮閣版縮刷日蓮聖人御遺文、新編日蓮大聖人御書全集創価学会版、平成新編日蓮大聖人御書大石寺版 URL


続く

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